――データー機、三機と対戦中。
九時の方向に一機。
英太が見据えているのは、ゴーグルの向こう、握りしめている操縦桿の四方に設置されている小さなモニター四つ。今、英太の機体の外がどのような状況になっているか映し出している。
機体に取り付けられたカメラ。握っている操縦桿の左側にくっきりと一機の敵機。左側、真横。九時の方向。目視しなくとも、操縦桿の側にある小さなディスプレイを見れば、九時の方向にいると判断できるというホワイトならではの機能。
だけれど、英太はつい目視で確認してしまう。
どのパイロットでもそうだと思う。自己防衛反応のひとつだ。
どんなに機械が判断してくれると言っても、やはり最後は自分の目で確認しておかないと、生きた心地がしないのだ。それが喩えシミュレーションでも……。
一機撃墜。二機を煙に巻き、標的にロックオン。
『お見事。よし、良いだろう』
研修教官をしてくれている御園大佐のいつもの落ち着いた声がヘッドホンに聞こえ、『チェンジ』のコックピットが暗くなる。
英太はシートのベルトを解いて、シミュレーション操縦席から外へと出た。
そこには訓練データーを書き留めているバインダーに向かっている眼鏡の大佐が立って待っていた。
「ホワイトのシステム、だいぶ慣れてきたな」
「そうでしょうか」
実はしっくりこない。
先程のカメラだってそうだ。結局目視で確かめてしまう。あのカメラ、必要なのか? そう思ってしまうのだが。逆に目視する間がないときには役に立つのかも知れないとも思っている。だが少なくとも英太は『しっくりこない』だった。
そんな英太を見て、また御園大佐は余裕の微笑みを。
「しっくりこないって顔だな。チェンジに慣れて、やっとホワイトの研修。それも慣れて。でもずっとその顔だったなあ」
正直だなと御園大佐が笑う。
英太はそれを彼には見抜かれてしまうことはもう慣れっこで、だから取り繕うとは思わない。
「ですが。全てが実験段階なのですよね。俺がとやかくいう段階でもなさそうで」
「あはは。どうしたんだ。言いたいこと言ってくれよ。パイロットの意見が欲しくてチェンジで演習、ホワイトでテスト飛行をしているんだから」
「でも。カメラについては、もう他のパイロットから意見が出ているのでは?」
すると御園大佐は『まあね』と渋い顔に。
英太が思っているとおりの意見が既に先輩パイロットから出ているようだった。
「あとは甲板で実践だな。いよいよ明日からだ。チェンジの研修、ご苦労だったな」
大佐ほどの男に『ご苦労』とねぎらわれ、英太は少しはにかんでしまう。
「いえ。その……俺も……」
途中で『ミセスと飛びたい』などと大騒ぎをしたことを振り返ったのだが。
しかし英太はまだその点については『詫びるつもり』などなく。でも、騒いだことは、そしてその願いを聞き入れてくれるよう手配してくれた大佐には感謝したかった。それをどう伝えればよいのかとウンウンと唸っている間に御園大佐も何か悟ったのか可笑しそうな顔。
「まだ。ミセスと飛びたいと思っているようだな」
ズバリと言われ、英太はそこまで見透かされてしまうと驚きで飛び上がってしまいたくなる。だが笑っていた大佐の顔が急に真剣になる。
「どんなに願っても駄目だ。何度も言うが、妻は飛ばない」
『妻』と言いやがった……。
言い返そうとした英太ではあったが、ふいに鼻白む。
あれからも何度か『俺はこう思うからこう言った』と御園大佐に直球で訴えたが、今度ばかりは御園大佐も味方にはなってくれなかった。
『飛ばないものは飛ばない。飛ぶ意志のない者は飛ぶことはない。妻は既に空とは決別している』と。そんな時に限って、いつも『ミセス、准将』と呼ぶ夫であるのに『妻』と言う。つまりそこは妻であるミセスと同じ思いを揃えているということらしい。夫として妻が空とけりをつけている気持ちを良く理解しているから、大佐である前に夫として同意しているとでも言いたげだ。そんな大佐の態度に、英太はかなり苛立たされた。
二人は基地では准将と大佐という位置をきっちりと分けている。時にはケースバイケースで、大佐が准将に堂々と意見している姿も見るが、そんなの何処の基地でも上官を思えば当たり前の進言をしているだけのこと。それでも二人が基地で夫妻面しているのをあまり見たことがない。
それなのにこの件に関してだけは流石の御園大佐でも、端のパイロット英太にすら『妻』と言う。
(いいさ。もう――)
英太の気持ちは既に『甲板』に向かっていた。
それからだ。それから始まる。俺の思いをぶつけることは。
そんな英太を御園大佐が黙って見ていたことには気がつかなかった。
「明日から甲板だ。まだ雷神とは訓練は出来ない。まだ研修の一環として明日からは本機に乗ってもらう。訓練官はもちろん、俺だ。いいな」
「イエッサー」
「あとでレポートを提出してもらう。俺は会議があるので代理の工科員が行くから彼の指示に従って。提出は本日の夕方、科長室まで。俺がいなくても彼に提出。彼からも指示があると思うが、明日は空母艦連絡船出航の桟橋に集合だ」
いよいよだ。
まだ雷神の本訓練には参加出来なくても、もう目の前だ。
英太は大きく息を吸って、腹から声を出す。
「イエッサー!」
だが、いつもはここでそんな英太を微笑ましそうに見てくれる大佐が、いつにない強面で英太を見ていた。
「いいか。白い飛行服を手にするまでは、まだ『雷神パイロット』ではないと心得ておけ」
「イエッサー!」
だが英太にはもう、御園大佐の向こうに『彼女』が見えていた。
見ていろ。あんたもパイロットだ。
俺には分かるよ。あれだけ操縦桿を操ったり、クレイジーな感覚を持っている『奴』ならば、コックピットがどれだけ最高の場所であるか。
この地上より、日常より。そう、きっとこの目の前の旦那よりも、彼女はそのコックピットを一番にやってきたはずだ。
英太は去っていく御園大佐に敬礼をしながらほくそ笑む。
旦那の大佐は『妻の気持ちなら俺がよく解る』と思っているだろうが、こっちは『パイロットの気持ちなら、旦那よりよく解る』と思っている。
見ていろ。今度は俺が彼女を空に引きずり出してやると。
・・・◇・◇・◇・・・
本当に物を書かせるのが好きな教官だなあと、英太は指示されたレポートをまとめ、夕方、早速工学科科長室へと向かう。
研修が始まってから何かとあの大佐は『宿題』と称してレポートを書かせる。と言っても、この前のような『愛とは如何に』なんていう抽象的な物は言い出さなくなったが、今度は飛行について、システムについて、こと細かくまとめさせレポートを要求してくる。
細かいことが苦手な英太には四苦八苦の作業。今度はノートパソコンに向かって、レポートを打ち込む日々。だがそうしておさらいを要求されたものは、すとんと定着する。こんな細かいことをさせる人は初めてだったが、英太にとっては面倒でもこれも初めての実感だった。
「失礼します」
工学科科長室のドアを開けると、見事に皆さん留守だった。
がらんとしている科長室。御園大佐の科長席も雑然としたままだし、他の男性隊員の席にも誰もいないし、英太を指示してくれた若い工科員もいなかった。だけれど一人だけ――。
「あら、お疲れ様。鈴木君」
留守番は必ずいるもので、あの吉田大尉が笑顔でデスクワークに励んでいた。
「お疲れ様です。レポート、持ってきたんですが……」
「ええ、藤川君からことづかっているわ。彼もミーティングの時間になってしまったから、貴方が来たら預かって欲しいと言われていたの。どうぞ、入って」
黒髪をひっつめて、いつもきりっとしている吉田大尉。
英太の叔母と同世代だが、英太にとって彼女はすごい大人の女性。キャリアウーマン。でも、だからって見るからにきつそうな女性ではなく、いつだっておおらかな笑顔で英太を迎えてくれる。
それに彼女を見つけて抱きかかえて運んできた――という縁から、吉田大尉は特に英太には明るく接してくれる……気がしているだけなのだが。
そんな吉田さんは、つい最近実家の倉敷で式を挙げたばかりだと英太も聞かされていた。
この工学科科長室の面々も全員お祝いに駆けつけ、そして御園大佐も、当然奥さんのミセス准将も。皆でお祝いに行ったのだそうだ。
「あの、ご結婚おめでとうございます」
「ああ。うん、有り難う」
職場のせいか、ちょっと照れた顔、硬い笑顔で彼女は返してくれた。
「お腹、大丈夫なんすか。倉敷まで大変だったでしょう」
「うん。気合いかな」
「吉田さんらしいっすね」
「あら。私のこと、知ったふうに」
まだ小笠原に来たばかりなのにと、ちょっと彼女が呆れた顔。
「いえ、大佐が『熱血』と言っていたから」
「また大佐ね。ほんっとうにもう……。昔から私のことをそう言うのよ」
ぷっと怒った顔は、まだまだ可愛らしい女性の顔。
そんな彼女の気取っていないところで、英太にとっては既に気兼ねない先輩になっていた。
それだけじゃなかった。
「当分、誰も帰ってこないの。珈琲でも飲んで行きなさいよ」
「いいんすか」
「ブラックでしょう。格好つけているわね」
そういうわけじゃないっすよーと、今度は英太がちょっとむくれてみる。
でも甘えてしまう。誰もいないと小夜は英太にちょっと甘くしてくれる。こうして彼女が入れてくれる珈琲を飲むのは初めてではなかったし、人に見つかったこともない。
やがて彼女がテキパキと給湯場に立って、やかんを火にかける。
ちょっとしたパーテーションで区切られているだけで、同じ室内にコンロがあるといった感じで、工学科科長室は狭い。
それでも小夜の、白い夏服のシャツ姿で珈琲をテキパキと入れる後ろ姿は、本当に凛としている大和撫子キャリアウーマンで見とれてしまう青年。
「やれやれ。科長室も少し広くなって給湯室があるといいのだけれどね。四中隊の時はもっと楽だったわ。慣れたけれど」
そんな小夜の独り言が聞こえてきた。
そんな彼女が入れてくれた珈琲を目の前にして、英太と小夜は向き合って座った。
「大尉も四中隊の出身なんすね」
高級な珈琲の匂いに、男一人の日々を送っている英太はちょっと癒されながら、ふと彼女に尋ねていた。
「そう。そこで旦那に虐められていたのよ」
早速カップに口を付けていた英太はぶっと吹き出しそうになった。
「だ、旦那って……。ラングラー中佐のことですよね??」
「そうよー! あの人あの時からあんな澄ました人でね。葉月さんのためなら何でもするって勢いで、他のこと眼中なしなのっ。私と同期なのに、フロリダから選ばれてきたエリートの卵だからって気取ってこっちを見下していてね。んっもう、泣きたい嫌味、いっぱい言われたの。あの頃から少佐をかさにしてえっらそうだったんだから」
ちょっと待て。と、英太は向かいにいる『凛としていたはずの大人の女性』の口を塞ぎたくなった。
そこまでいいよー、吉田さんの素敵な大人の顔がーと、英太はそう叫びたくなったが、その時にはもう、目の前の彼女もハッと我に返っていた。
「あら。失礼――。私としたことが」
英太はそれでもクスッとこぼしてしまっていた。
きりっとしている大人の女性かと思ったけれど、やっぱり可愛さもある人なんだなと……。
「吉田さんらしい……かも」
「そうかしら」
彼女も笑っている。
彼女に珈琲をご馳走してもらって何が嬉しいかって……。このような和める瞬間を必ず感じられることだった。だから、つい、英太も甘えてしまう。
「ちょっとねー。早速、喧嘩をしてしまったのよ」
「新婚で夫婦喧嘩っすか。でも吉田さんって、ラングラー中佐に負けないってかんじっすよ」
「また言ったわね。そのカップ没収するわよ!」
「ほら、そういうところっすよ!」
本当に没収されそうになって、英太もつい慌てて横に逸らして避けた。だけれど、やっぱりそこで吉田大尉はふっと疲れた顔に。
「分かっている。鈴木君の言うとおり、私もちょっと強く言いすぎるのかも……」
「まあ、俺は。あの中佐のことはまだよく分からないけれど。吉田さんに強くあって欲しいと思ったり」
きっとあの中佐。すんげー徹底していて『准将一筋』なんだろうなと――。そうでなくても、大抵将軍付きの主席側近は、就いている間は上官の女房みたいなもん、人生を捧げているのだ。
夫が女房として尽くしている相手がこれまた歳が近い女ならば、そこそこ心配もするだろう。そこで泣き寝入りをするような女であって欲しくないなと、英太は吉田大尉にはそう願っているのである。
でも英太が思うような事情で小夜はため息をついているわけではなさそうだった。
「あの男がね、」
あの中佐を捕まえて、あの男と言うか……と、英太はまた笑いたくなるが堪えた。
「四中隊の時から、葉月さんを支えることを目標にしてきたことはよーく知っているの。逆に私は『澤村中佐』の補佐になりたいと願ってここまできたから」
「そうだったんすか」
「そうよ。私、澤村中佐がすっごい好きだったの。逆に旦那は葉月さんにすっごい憧れていたの」
へえーと、英太は一世代上の先輩達の『若かりし頃』のエピソードに目を丸くしてしまう。……にしても。あの『大佐おじさん』、こんな素敵な小夜さんに思われていたのに振ったのかとちょっと英太は顔をしかめてみる。でも、あの准将にベタ惚れだったということなのだろうか? 分からないでもないなあと、ふと男として同感してみて『いやいや』と首を振ってみる。
まあそれだけ、若い時から後輩達の目を引く二人だったと言うことを英太は知ったような気もした。
「だから、旦那が今更『ミセス准将のため』と突っ走ることは、私が『科長のため』と突っ走ることと一緒だから凄く理解しているつもりなの。でもね……」
なるほどと、英太もそこは素敵な夫妻っすねと笑顔で言おうと思ったら、目の前の女性が拳を握ってゴウゴウと燃えさかっているような雰囲気……。英太もぐっと黙ってしまった。
「あの男……。『まだ独身として仕事をしたい』と言い出したのよ!」
「え、どういうことっすか?」
「こうね、私の目の前で指輪を外して――」
小夜の左薬指に光っている銀色の指輪。それを彼女がすっと外す真似をして――
「航行に行っている間、空母艦の中では『俺は独身でいる。その間、我慢してくれ』だなんて言うのよ!!」
英太も目が点になる。
目の前で繰り広げられる小夜の迫力もだが。そのラングラー中佐の意図も分からない?
「し、新婚さんっすよね」
「でしょうっ! いくらなんでもひどいと思わない? そりゃ、葉月さんならそこのところあっさりとしているのかもしれないわ。でも、私は葉月さんみたいには割り切れないもの」
え、え……。あの人なら『あっさり』?
英太のアンテナがそこにぴぴっと動いてしまった。
あの人なら、旦那が指輪を外しても、平気な顔をする人ってこと?
「葉月さんは昔から本当に仕事には割り切っている女性で、とてもじゃないけど真似など出来なかったわよ。でも、ほら……あの通り、そこにいるだけで雰囲気があって素敵でしょう。葉月さんも本当は奥底に誰にも負けない『女らしさ』を閉じこめているの。なのにね、女心という揺れなど皆無と言わんばかりに完璧に封鎖しているの。そうでなくちゃ、准将なんてなれないもの。私も見習ってここまで来たつもり……。でも、私は葉月さんじゃないもの。出来ないって喧嘩しちゃったの」
なるほど……と、英太は解ったような解らなかったような?
まだ。恋することが自分で解っていないせいかなと、置いてけぼりを食らった気持ちにもなった。
「あら。ごめんなさい。若い鈴木君にみっともない話を……」
「いいえ。いろいろと参考になります。女心ってそうなんすね」
「そうよ。貴方も結婚したら、指輪を外さないでよ。せめて新婚の間は」
かしこまりましたと、英太は敬礼をしてみた。
それだけで小夜はまた楽しそうな笑顔に戻ってくれる。
喧嘩したしたというけれど、やっと結婚した二人と聞く……。喧嘩をしてもきっとすぐに仲直りをしているに違いない。英太にはそう思えた。
珈琲を飲み終えて、英太は小夜に礼を述べて科長室を出ようとする。
「ごめんね。私、倉敷に歳の離れた弟がいるものだから、鈴木君を見ているとつい……。助けてくれたこともとっても嬉しかったわ」
「いいえ。俺もいつも甘えさせてもらって。安っぽい生活しているから、ここの珈琲が美味くって、つい」
「愚痴を聞いてくれて、有り難う」
「いえ……その……」
小夜の笑顔がまぶしくて、英太はちょっと照れてしまう。
女性に対して上手い言葉が見つからない。そんな無骨なだけの若い男。
「貴方も航行に行くのでしょう。でも、この前の滑走路みたいな無茶は駄目よ。気をつけてね」
「は、はい……」
仕事場で、こんな言葉をかけられたのも初めてだった。
小夜に一礼して、英太は講義室へと戻る。
その戻る道筋の階段で、御園大佐とばったりと出会った。
「レポートか」
「はい。今、吉田大尉に預けてきました」
「ご苦労。では、今日はもう宿舎に帰っても良いぞ。明日、桟橋に遅れないように」
「イエッサー」
御園大佐にも敬礼をして、英太は彼と別れる。
あの大佐と葉月さん、どっちが指輪を外してまでの『仕事優先』をするのだろう?
英太はちょっと振り返り、そんな御園夫妻の夫の背を見つめてしまう。
彼等は若い頃、どんな恋愛をしたのか。徐々に気になってくるこのごろ――。
・・・◇・◇・◇・・・
工学科科長室に戻ると、室内は薫り高い珈琲の匂い……。
小夜がカップを片づけているところだった。
「まだ間に合うか。俺にも一杯くれ」
「あ、お帰りなさいませ」
ちょっと彼女が驚いた顔。
だが、隼人は何食わぬ顔で科長席へ戻り、小脇に抱えていたバインダーを机に置いた。
椅子に座りながら、そんな小夜に少し言ってみる。
「鈴木と……か?」
「え、ええ……まあ」
これが初めてではないことも、二人が時々珈琲を挟んでコミュニケーションを取っていることも知っていた。だが知らぬ振りをしてきたし、小夜も隼人が気づいていることを知っていながら注意をされるまではやめるつもりもないようだった。
実は隼人。留守を任せている間にふっと忘れ物を取りに科長室へと戻ってきたことがあり、その時に、誰もいない科長室で小夜と鈴木青年が楽しそうにお茶を楽しんでいるのを目撃したことがある。だが、その時、割ってはいることはせずにそのままにした。そして知らぬ振りをすることにした。というのも、小夜が見事にあの鈴木青年の心を解きほぐしてくれていたからだ。
「たまには、そうしてやってくれ。他の隊員の目に触れない程度にな。あれは……寂しい青年なんだ」
ついにそう許可してみると、小夜が驚いた顔で立ちつくし隼人を見ていた。
「あの……それって」
「昔の葉月にそっくりなんだよ。テッドからなにか?」
「い、いいえ……。仕事でのシークレットはたとえ恋人夫妻でも、互いに厳守すること。その為なら相手が仕事のための秘密なら持っていても責めない。それが私達の鉄則ですから」
「見事な補佐夫妻だな。テッドにも吉田にも感謝するよ。だったら科長の俺が言う」
小夜の顔がちょっと強ばった。
何かがあるという、緊張感を持ったのだろう。
それでも隼人は構わずに言う。補佐の彼女にはそろそろ知っていてもらっても良いという判断からだった。
「あの青年も『事件の被害者』なんだよ。きっと葉月と同じ苦しみを持っているはずだ。だから、あんな飛行を――」
隼人はそれだけいうと、瞬時に青ざめた顔になった小夜から目線を逸らすかのように、バインダーを開いた。
「横須賀でも一人きりだったみたいでね。本当に見ていると、あの頃の葉月によく似ている」
「は、葉月さんは……それを?」
今度は小夜の顔をきちんと隼人は見た。
「いや。テッドと話し合って『今は彼女が知る時期ではない』と判断し、テッドは調査書からその部分を抜き取って報告していない」
「あの人、そんなことを……」
「うちの葉月に報告する前に、俺のところに相談に来たんだ。俺は報告して構わないと言ったのだけれど、テッドは躊躇ったみたいだな。だが俺も……それで良かったと、鈴木を見て思った」
小夜がドアを見た。きっと鈴木の背を思っているのだろう。
「わかりました。私も胸の内にとどめておきます。それから……あの子がお茶をとても楽しそうに飲んでくれる訳をやっと知ったような気がします」
何処か憎めない男の子のような顔をすると、小夜はずっとそう思っていたそうなのだ。
それはこの基地でエリート志向で肩肘張って頑張っている若者の中では珍しい『純朴なひとこま』を垣間見てしまうのだと――。
「そうかもな。俺には違う態度でぶつかってくるが、俺もそう思うことがある。不器用になってしまうのは、あれは『純粋』だからなんだろうな、と――」
「そうでしたか。でも、それならば、私よりも葉月さんの方が同じ気持ちが分かるのでは」
「今は駄目だ。同じ過去を持っている持っていないに関わらない土俵で、指揮官とパイロットの信頼感を築いていって欲しいと今は思っている」
すると小夜もなるほど――と、納得してくれた。
「今はまだ。互いの『過去』すらも、訓練では関係のない『プライベート』ということだ」
「しかし。あの子はあれだけの無謀な飛行をするということは、葉月さん同様に、命を顧みずにギリギリのところに突っ込んでいくと言うことでは……。訓練総監の葉月さんが知っておいた方が……」
既に思い入れのある青年なのか、途端に小夜が落ちつきなくなる。それだけ心配になったのだろう。
「だから、そこを。俺とお前と、テッドでフォローしていこうじゃないか。『その日』が来るまで」
互いが互いの過去を知る日が来るまで。
隼人の言葉に、小夜も茫然としつつも、やがてゆっくりと頷いてくれた。
「わかりました。その日まで、良いお姉さんでいてみます」
「そうしてくれ。鈴木のあの笑顔を見て、ほっとしたんだからな」
「あら。やはりいつか覗きましたね?」
「失礼な。偶然、見てしまっただけだ」
でも二人はそこで笑い合う。
「そうでしたか。あの子に運ばれたこと、覚えていなかったので、お礼を言いに講義室に行った時が、鈴木君と初対面でした。その時、一人きりの講義室でとっても寂しそうな顔をしていたように見えました。でも……見間違いではなかったのですね」
やはりこの後輩は流石だなと、隼人は思う。
人の、そんな気持ちが分かりすぎるから、彼女からつい一生懸命になってくれているのだ。
そんな小夜がさらに言う。
「確かに。あの頃の葉月さんの横顔に似ていました。だから私……」
後輩が科長室から見える空を見上げた。
その彼女が向こうに見ているのは、隼人も良く知っているあの切なくなってしまう妻の横顔か。
にわかに胸が痛んだ。
・・・◇・◇・◇・・・
残念ながら、その日は『雨模様』。
小雨の桟橋から、英太は御園大佐共に連絡船に乗り込んだ。
「ホワイトの初日にこの天気とは、さてはお前は雨男だな?」
英太の目の前で空模様を見上げている御園大佐がそんな文句を。
「そんなんじゃないっすよ。たまたまでしょ。本当は自分が雨男なんじゃないっすか」
今度は文句を言い返すと、いつものように大佐が笑ってくれる。
「さて。まだ雷神のフライトとは共に飛べないことは分かっているな」
「はい、分かっています」
「今日から暫くは単体の飛行訓練だ。准将じゃない、俺が訓練教官だいいな」
「イエッサー」
と、言っておこうと英太は澄ましておく。
だが、御園大佐がいつまでも英太の顔を見ている。おそらく彼も勘づいていて探っているのだろう。なかなか気の抜けないおじさんだ。英太はため息をつく。横須賀のように簡単には行けないようだ。だがそこすらも――。
(面白い。またやってやる)
やっと甲板に空に戻ってこられた。今日からが本番だ。英太の血が騒ぐ。
「今日はまず、テスト飛行のマニュアルを一通り飛んでもらう」
「楽しみです」
そのテスト飛行も楽しみにしていた。
研修で、どのようなデーターを取っているかも講義のうちにあった。そこには英太が好むようなギリギリの限界に挑んでも良いようなテストもあったが、そのギリギリ具合が英太にしてはちょっと『安全すぎる』ように思え、少し疑問に思っている。そこをだ……。そうでなければ、テスト飛行の意味もあるまい?
小雨の中、空母艦に到着し、連絡船を下りる。
早速、甲板へと向かう。
通路を出て、雨降りの甲板へと出てみる――。すると目の前に、今までとは違う甲板が英太の目に飛び込んできた。
そこには真っ白な戦闘機がメンテナンサーによって発進準備を始めていた。
さらに。目の前には、真っ白い飛行服を着込んでいるパイロット達が整列していた。
「あれが雷神のパイロットだ。白い飛行服は、ホワイトスーツと呼ばれている。お前も『ちゃんとしていれば』、もうすぐあれが着られる」
だが英太の耳にはもう、大佐の声は聞こえていなかった。
もう真っ白な飛行服のパイロット達に釘付けだった。
すんげー、かっちょいー!
俺も早く、ホワイトスーツを着たい!
英太の目は輝いていた。
Update/2008.9.7