長年愛用してきた青い革カバーの手帳。
そこに挟み込んでいる一枚の便せん。
自宅に届いた時は白い封筒に入っていたが、中にあった便せんだけ抜き取り、このように持ち歩いていた。しかし、その上品な便せんに書かれていたこと思い返す度に、覚悟は決めていたのに葉月の感情は、があっと燃え上がるようだった。
『不幸を呼ぶ指輪』がメインとされるその展示会への招待状。
あの岩佐から『元持ち主の御園夫妻にも、是非に来て頂きたい』と記された便せんも同封されていた。
それで? 行ってどうしろと? いや、行ったら貴方に今度はどんなふうに利用されるのかと、葉月はぐっと唇を噛む。
しかし、そんな時……。葉月が一人悶々としながら、その忌々しい便せんを眺めている大佐席の上に、何かがばっさりと置かれた。
何が手元にやってきたかと確かめるその前に、葉月は誰が来たのかと隣に現れた人影を確かめる。
「見ろよ、これ」
そこには大佐嬢の右腕である海野達也中佐が、妙に勝ち誇った顔で立っていた。
その顔。その自信満々もいい加減にしろと言ってやりたくなる時と同じ、向かうところ敵なし、怖い物無しと言う時の、彼特有の勝ち誇っている顔がそこにある。
これが葉月という大佐嬢と何かで張り合った後にこの顔をされると非常にむかつくのだが、今日はそんなことはしていないから、他の事なのだろう。
さて、今日の彼は何を満足感いっぱいに、そんな自信に満ちた顔をしていることやら? 達也が先ほど、葉月の目の前にばっさりと置いてくれた物を、得意げに指さしている。
「……なに?」
「きっと、純一さんがやってくれたんだな。俺、そう思うな」
葉月の目の前に、達也が突然置いたのは、社会情報雑誌。
大手新聞会社が出版している雑誌。浮ついたゴシップ誌ではないが、それほど固くもない情報雑誌だった。
社会も、経済も、芸能もスポーツもすべて網羅し、スクープなども毎度興味深い物が多い。
当然、秘書官魂のこの男が、情報収集は必須のところ、この手の雑誌を読み逃す事はない。海野中佐の愛読書と言っても良い。もっと言えば、隼人も純一もこれは愛読しているようなので、葉月も手にとって眺めさせてもらう事が多い。
その雑誌の一ページを指さし、なにかを教えてくれる達也。葉月はなにごとかとやっとその雑誌に視線を落とすと……。達也の指先には、あの岩佐が写っていた。……のだが、先日とは打って変わって妙に疲れた顔をしている彼がそこにいる。
『世界の宝石展、中止か。不幸の指輪のジンクス、社長に降りかかる?』
などという見出しに、葉月はとても驚き、ついにその雑誌を両手で取って顔に押しつけるかのように、しげしげと眺める。
浮ついたゴシップなどで読者の目を引く事を目的としていないこの雑誌で、そんな見出し? と、葉月は驚いたのだが、ここ最近、彼はどの雑誌にも姿を現しているので妙に違和感がない。さらにその内容を読んでみると、彼は株で大失敗をしたどころか、会社内で幹部と折り合いが合わなくなっているとか、今後の事業展開で提携するはずだった企業ともその話が進まなくなり、ここ数週間で経営不振に陥っているのでは。と言う内容。この雑誌の記事では、『世界の宝石展』の開催を危ぶむ声の中には、そんな背景があるのではという、あくまで推測として書かれている。
そしてその記事を読み終えた葉月の頭の中に、先ほどの達也の声がこだまする。
──『きっと、純一さんがやってくれたんだな』。
葉月は顔が隠れるぐらいに雑誌にひっつけていた顔を、再び、ニンマリと満足げな笑顔のままそこに立っている達也へと向けた。
「達也。本当にそう思う?」
「思うよ。他に誰が、こういうことが出来ると? 俺も御園のお祖母ちゃんの考え方と一緒で、指輪のせいで不幸は起きないと思うな。まあ、たぶん、兄さんが手を出したのは、株ぐらいじゃないの? 後はそれをきっかけにして、順風満帆だっただけの青年実業家にかしづいていた人間がふと目を覚ましたとか。こういうの、割と連鎖反応を起こすからな。ひとつの失敗を元に、じゃあ、さようならってね。甘いのはいつまでも続かないもんなのよ、大佐ちゃんもそう思うだろう?」
なんていつものお調子口調な達也だったが、そのうちに真顔で言った。
「兄さんは上手いきっかけを作っただけ。それにこのように悪い事態へと向かってしまっているのは、今まで周囲に対して疎かにしていた様々な事が招いた結果だと思うね。それが悪い事態を次から次へと呼び込んでいる。周囲との関係にも重要性を見出していれば、こう言う時は自然と周りが助けてくれたり、そうでなくても遠いところからバランスをとってくれるものなんだよ。それがこの状態に陥って一切効果がなく落ちていくってことは、この男にとっては当然の報い」
達也の言うとおりだと、葉月も頷いてしまう。それは達也だけではない、葉月の周りの人間は皆知っていて、それでいて、あの晩にも経営王者の篠原会長が食事の席で、葉月だけじゃなく純一や隼人にも説いてくれていたことだったから。
だが、葉月はその雑誌の記事をもう一度ザッと見て流し、大佐席を立った。
そして一呼吸置いた葉月は、隣にいる同期生の隙を狙って、いきなりダッシュ。そこを飛び出しながら叫んだ。
「達也、ちょっと出かけてくるから、お願いね。すぐに戻ってくるから!」
「うわっと! ちょい、待てっ」
大佐席から一目散に駆け出し、脱出成功……と思いきや、自分と同じぐらいに反応が良い達也にがっしりと腕を掴まれてしまう。
達也にどんなに勢いよいダッシュで出し抜こうとしても、やっぱり駄目だった! そこはやっぱり勘を鍛えている陸隊員。しかも葉月よりずっと体格が良い男性。達也の逞しい腕がぐいっと引っ張っただけで、葉月はいとも簡単に、大佐席に引き戻されてしまった。
すぐにも飛び出したい気持ちは既に『ここの隊長大佐嬢』ではなく、いつもの『おちび』の気持ちに染まっていた。
だから、今から思い立った行動をすぐに起こしたい子供のような気持ちで飛び出そうとしたところ、冷静な考えを持っているお兄ちゃんにがっしりと引き留められたという感じになってしまっていた。
葉月はそんなちょっと歳が上の、でも、いつも遠慮ない付き合いをしている同期生に心のまま叫ぶ。
「行かせてよーー! また、私が知らないところで、お兄ちゃまと隼人さんはこんなことをしていたんだわ!! 私にはなんっにも、教えてくれないんだから!! 私よ、私が本当の御園の娘なんだから!! なんで、教えてくれないのよーーー!!」
「わー! うるさい! 分かったから、落ち着け!」
達也の両腕にがっしりと前進を阻まれても、葉月は尚、その同期生の胸元で抵抗しながら前進をしようとする。
「達也だって! この前は協力してくれたじゃない!」
「ちょい、お前、落ち着け。頭冷やせよ!」
「落ち着いているし、ちゃんと分かっているわよ!!」
必死に前へと振り切ろうとするお嬢ちゃんと、必死にお嬢ちゃんをその胸に縛り付ける同期生。
出会って付き合いが始まってから、早十数年。少年少女だった二人は、もう家庭を持つ大人になった。しかし大人になったとはいえ、二人が素になるといつだってこんなに騒々しい。
それも今はこの大佐室には二人だけ。この騒々しさはさらにヒートアップし、収まることはない。
「この前、隼人さんが妻の私には『出張だ』と嘘をついてまで華夜の会に出席する時、達也は『週末はうちの奥さんと子供を頼む〜』と隼人さんに頼まれて任されていても、私の方に協力してくれたじゃない!!」
しかし葉月がそうして騒々しく叫び続けていると、その耳元に達也の大人らしく落ち着いている溜息が聞こえてきた。
「ああ、そうだ。お前に心配させたくないって兄さん達が言うから。俺は『いいよ。葉月には内緒にする。留守番、任せろ』と言った。……葉月もオークションに出る事を知っても、兄さん達に嘘をついたさ」
そこで、やっと……。じゃじゃ馬嬢様も、いったん、力を抜いてうなだれる。
──そう。この時点で、達也は既に葉月の味方についてくれていたのだ。
リッキーから華夜の会のことを聞かされ、葉月は隼人と純一が本筋の血を引く一人娘の葉月を無視するかのように影でオークションの準備をしていることを報される。だったら? 『それなら、私も内緒で行ってやるわよ!』と決めると、何故かリッキーは『レイが正しい』だなんて訳の分からない事をいい、義兄や夫に内緒で葉月を全面的にバックアップしてくれた。
さて。こうなると、週末は主人も妻の自分も家を空ける事になるというのが頭に浮かび、子供達を預ける為にもそこで達也に相談した。だが、達也はこの時点で既に純一と隼人がオークションに参加する事を知っていた。それでも達也は、隼人や純一に頼まれて約束した事を破る形にしてまで葉月に協力すると言ってくれ、当日まで隼人や純一には知られないよう、『留守番は俺に任せて。じゃじゃ馬は俺が見張っているよ』とばかりに澄ました顔をやり通してくれたのだ。
『言っておくけれど。兄さん達には悪いが、俺の場合、先ずはじゃじゃ馬の味方ってわけ』
それが協力してくれた達也が、悪びれもしない笑顔で葉月に言い切ってくれた言葉だった。
しかも最後に一言つけくわえたのが『俺だけじゃなくて、泉美もね』だったので、葉月はとっても心強く思い、同期生の変わらぬ協力にとても感謝し、あの兄様面の二人を驚かす事が出来た……いや? 一矢報いる事が出来た? と、言う訳だった。
まあ、あの後。どういう訳か、あの兄様面の二人には一言も説教もされなかったし、これまたおかしな事だが、『どうして来た』という追及もされなかった。それも葉月としてはちょっと不思議だったが……。あの義兄弟二人は、そんなところまで息が合っていて、そう思うと、妙に腹立たしい思いに駆られる事もある。
妻なのに──。
長年の義兄妹なのに──。
御園の娘は私なのに──。
何故、一緒に考えさせてくれないのだろうと……。
そして、まただ。
華夜の会で指輪を手放しただけでは義兄と隼人の作戦は終わっちゃいないだろうと睨んでいたが、彼等が何をするのかととりあえず見守っていたら、こんなことになっている!?
達也がピンと来たくらい。葉月も、この記事だけ読めば、『株で大失敗』のところに目が貼り付く。つまり、同様に『兄様がやったんだ』と思えたのだ。
勿論、全てが『我が家の為』と葉月だって分かっている。
でも……。以前がそうであったように『お前は子供だから知らなくても良い』とか『全て、俺に任せていれば良い』とか、なんでも葉月が知らないままに義兄だけが苦労して守ってもらうのは、もう嫌なのだ。彼が傍に一緒に暮らしてくれている今なら、尚更。葉月は義兄と一緒に考えて、戦っていきたい……。
それに夫の隼人も隼人だ。結婚を決めた頃、彼に『私の味方でいて。同じオチビでいて大人側に行かないで』と言った時に彼は笑顔で『俺はお前の側にいるし、味方だよ』と言ってくれた。……けれど、最近は。隼人も義兄と同じ様になってきた気がする。株で打撃を与える事、きっと知っていたに違いない。
そう思うと葉月は、勤務中なのにこの部屋を飛び出そうとした勢いが急に削がれてしまった。
がっくりと肩を落として、大佐席にもう一度座ろうとしたのだが……。
今度は片肩がぐいっと宙へと持ち上げられ、座る事を許されなかった。
それは達也だった。先ほど捕まえた腕をぐいっと持ち上げ、なんだか今度は怖い顔をして葉月を見下ろしている。
「おい。それでお終いか?」
「……なによ。行かせてくれないから、引き留めたんでしょう」
どうせ、この男も最後は『大人の男同士』の顔をして、隼人や純一に同調してしまうんだわ。と、葉月は思い、もう少しで『味方』になってくれていた彼にこの口悪を叩きそうになった。
だが、その前に、さらなる力で達也にぐっと引っ張り上げられる。
「い、痛いじゃない!」
「引き留めたのは、お前が『ちびの顔』で突っ込んでいこうとしたからだ! 落ち着いたなら、今度はちゃんと『今の葉月の顔』でぶつかってこい!」
逞しい達也の腕の力は加減をしてくれず、本当に遠慮無い乱暴さで葉月はついに大佐席から立たされる。
腕にじいんとした痛みが走ったが、それ以上に同期生のその言葉に葉月の頭の方にガンとした衝撃が……。
葉月は立ち上がって茫然と、達也を見上げた。
「……ちびの顔?」
「そうそう。あのまま兄さんのところに突進しても、おちびおちびとまた上手くあしらわれていたと思うぜ。ちゃんと言いたい事、頭にまとめてから行けよ。相手はお前よりずうっと大人で、社会でも世界を股にかけている百戦錬磨の社長だぞ? 落ち着いて話せっつーの」
そうかも? と、葉月はおちびの気持ちに染まって飛び出そうとしていただけに、自分の頬を撫でながら、どんなオチビ顔だったのかと思ってみる。
すると、目の前の同期生が……。大人の男性として落ち着いてきた顔つき、頼もしい目つきで、葉月の頬を両手で包み込んできたので、ドキッとさせられる。
こんなこと。もうずうっとなかった気がする? 彼が結婚を決める時までは、危なげな関係の中でままあったけれど。三十代を迎えて、お互いに家庭を持ってから……。
でも、彼のその目はもう男性ではないと葉月は思えた。その同期生が言う。
「でもさ。前みたいに『どうせ私は子供でオチビだから仲間はずれ』なんて顔して黙っているより、家族なんだから言いたい事はしっかりと言いに行こうとした今のお前はすごく変わったと思うよ。だから、送り出す。でも、それとは別の意味で……家族なんだろう? 信じてやれよ」
もしかすると……。いつまでも『おちび目線』で一緒に見てくれるのは、この同期生だったのかも知れない?? と、葉月はふと思った。
どんな時だって、世間に対して同じように感情をぶつけてきた。お互いに子供のくせに変に背伸びをしていた時期も、大人になろうと必死な時も、同じように同じように歩んできた同期生。
その頼もしい大人になった彼に頬を包まれたまま、葉月は『そうね』とすんなりと頷いていた……のだが。
「勤務中に抜け出す借りはでっかいからな、覚悟しておけよ〜じゃじゃ馬」
と、にんまりと笑った達也に、そのまま両頬をむぎゅうっと外側へとひっぱられた。
「いったーーーい! なにするのよーー! 放してっ」
「おもしれえ顔! 氷の大佐嬢の顔じゃねえなあ!」
葉月は面白がって頬をいじくる達也を『ばか!』と突き飛ばし、やっと解放される。
……馬鹿だった。一瞬でもこの同期生に心を穏やかに緩め預けてしまったなんて、馬鹿だった! と、葉月はがっくりと大佐席にうなだれる。
「行って来いよ」
「うん……。じゃあ、行ってきます」
それでも、最後はやっぱりいつも葉月が大佐室のなにもかもを任せている頼もしい同期生の顔、余裕ある笑顔を見せてくれる達也。
葉月は愛車のキーを握りしめ、そのまま大佐室を飛び出した。
向かうのは、以前の住まい『丘のマンション』。
・・・◇・◇・◇・・・
今日は地味にライトグレーのスーツ。シャツもオーソドックスに無地の白、ネクタイも同系色グレー、ありがちな地味な柄。しかも、流行遅れの太い黒縁の伊達眼鏡までかけて……。
テーマは『野暮ったく』。わざとコーディネイトを崩しに崩してやってきた。
目的は『目立たない為』だった。
アタッシュケースを片手に歩くその男は、今、小笠原総合基地の中にいる。
勿論、許可を得て、正面警備口をチェックインして敷地内に入ったのだ。
そして今、『許可をしてくれた中佐』が待っているという一室にやってきた。
正面玄関から三中隊、四中隊、五中隊、六中隊と経て、連絡通路を幾つも通り過ぎ、本当にこの基地の棟が並ぶ端の端にやってきたのだ。
地味なビジネスマンの姿で営業を装ってやってきたジュールは、リッキー=ホプキンスがFAXで送信してきた地図に記してあるその事務室の名を確かめ立ち止まった。
『陸部訓練科訓練第三班』とある。その通りに、この部屋の向こうには『訓練班』の事務室が一班二班とある。……つまり、三班は最後の班、しかも、一番端の部屋。そしてこの廊下は恐ろしく静かだった。
本当に人などいるのか。もとい、『彼はいるのか』と思いながらジュールがドアをノックすると『待っていたよ』という彼の声が聞こえ、分かっていたのに驚いてしまっていた。
ドアを静かに開けると、誰もいない事務室の机にひとり、腰をかけている彼が手を振っていつもの笑みを見せている。
「迷わなかったみたいだね」
「いえ。迷いそうになりました。真っ直ぐにこられましたが、本当にここなのかと。まあ、静かであるのはうってつけですけれどね」
するとリッキーはまたジュールに向かってニンマリ。
「だろ? ここの廊下、全部『架空部署』だから。しかも今日は俺が『人払い』の為に、他の仕事に行かせた」
ジュールはやっとこの部署がどういう部署か判り『はあ、なるほど』と、人気のない事務室を見渡した。
その静かな事務室にいるのは彼一人で、いつもの意味が有るのか無いのか分からない微笑みを浮かべた顔のまま、でも、ふてぶてしい格好でデスクに腰をかけている。
その彼が、野暮ったい格好で出向いてきたジュールを上から下まで意味深な目つきで眺めている。その目つきの嫌味なこと。『いつもお上品な王子様が……』とでも言いたそうなその目は、楽しんでいるとしか思えなかった。
だがジュールはそんな『天敵の手』には乗るまいと、いつもの平坦な横顔は崩さずに、持っていたアタッシュケースを彼が腰をかけているデスクの隣へと静かに置いた。
そして無駄な時間はこの男とは過ごしたくない為に、さっさと本題に入る。
「こちらの作戦は成功しましたよ」
「ご苦労様。流石だったね」
なーんか、いちいち『俺の方が上だからね』とでも言いたそうな上目線を感じてしまうジュール。
……仕方がないか。数年前の対決で、ジュールは見事に黒星を付けられてしまい、今のところ彼に白星がひとつ多くついている状態。
それを思うと口惜しいが、今回はその決着をつけに来たんじゃない。だから、ジュールはさっさと用件をすまそうと思う。それにやっぱりこの基地にいるのは居心地悪い。兄貴のように、『この基地に出入り出来るようになって嬉しいなあ』なんて気分にはジュールの場合はなれなかった。
「もう、情報誌にも出回っている頃でしょう。ここ最近、ワイドリンク社は経営不振に陥っていますから、そろそろ……」
ジュールがそういうと、リッキーはまだあの微笑み顔のまま『見たよ』と片手に資料のように丸めて持っていた雑誌をジュールのアタッシュケースの上に置いた。
だがその途端、この余裕綽々の中佐が真顔になった。
「お見事。あのマネーゲームを楽しんでいる奴らを上手く出し抜いて、ここまで傾けるとはね。やったのは株だけ?」
「株だけですよ?」
するとリッキーはとても鋭い目線をジュールに突きつけてくる。
それはジュールも良く知っている眼で、彼と真剣勝負をしてきた時の、彼が本気で戦う時の眼だったので、ジュールは身構える。
「そうかな? 君の事だから、株で痛い目にあわせた後も、しつこいぐらいの追撃でもしたのじゃないかと」
「まあ、ご想像に任せます」
「だよね。俺に口を割るぐらいじゃ、黒猫の第一幹部は務まるまい?」
まあ、そう言う事と、ジュールは無言でただ彼に微笑み返した。
ジュールのその静かな微笑みだけの返答に、彼は少しばかり不満そうな顔で溜息をついている。
だが、そこはそれで諦めてくれたようだった。
「さて。それでは、この前、君と俺で話し合ったとおりに、次は俺の出番ってわけね」
「そうです。頼みますよ」
「君に頼むといわれちゃあ、失敗は出来ないな」
ジュールは天敵に『当然でしょう』と突き返した。
リッキーの顔は一瞬、引きつったが、次にはなにかの遊びを見つけたかのような楽しそうな笑顔を見せていた。
「やっぱり、最後は黒猫クイーンだろ? 任せてくれ。あの男、最後はレイの足下に跪かせてやるさ」
リッキーのその言葉に、ジュールは少しばかり驚いて、彼をじっと見てしまった。
そんなジュールがあんまり真っ直ぐにみつめてくるから、リッキーも驚いているし、心地悪いらしく顔を逸らされてしまう。そのリッキーに、ジュールは一言。
「貴方って本当に、御園が好きなのですね」
「それはお互い様でだろう。それぞれ、胸に掲げている『女王』は違うだろうけれどね」
「まあ。そうですね……」
胸に掲げている女王。
それをジュールは思う。
彼の心には、『皐月』という女王がいる。
今回、彼ホプキンス中佐が先輩格にあたる純一やロイが密かに話し合った『作戦』を無視し、単独行動で『御園嬢』である葉月を舞台に引っ張り出した心情はそこにある。
彼の信念は強い。そこから今回、彼が誰よりも強く思ったのは──『御園の問題は、最後は御園が締めるべき』──だった。
純一がロイの元に『華夜の会に参加する』という報告にやってきた時、その作戦を知った彼が感じたのは『またロイと先輩が、以前と変わらないことをしている』ということで、そこがひとり密かに納得が出来なかったようだ。勿論、当主令嬢である葉月抜きで、婿殿のラインで問題が片づくのもそれはそれでいいだろう。しかしこのスミレ色の瞳を持っている彼は御園が馬鹿にされているのに、婿殿のラインで事が収まるのは我慢が出来なかったようなのだ。そこをまた、『当主の本筋である娘』という自覚をきちんと持っている葉月が『ないがしろ』にされるのを嫌がっている事を知り抜いている彼は、そこを突いて葉月を表舞台へと送り込んできた。
彼の作戦は、いや……彼の思惑は成功といっても良いだろう。あの華夜の会があった晩、招待客達は葉月が登場した事で『やはりレイチェルの血筋を引く者』と一瞬にしてこちら側に人々の関心を惹きつけることができ、レイチェルの色彩が薄れようとしていた伝統の夜会に、再び、今は亡きレイチェルの姿を孫娘によって鮮明に蘇らせる事が出来ただろう。
ジュールはそこはこの目の前の天敵に感謝している。
ジュールの女王様は『レイチェル』。
その彼女の夜会で彼女が朽ち果てることなくいつまでもいつまでも鮮烈に君臨している事は、ジュールにとっても喜ばしい事だ。
目の前の栗毛の彼の場合は、おそらく、彼の亡き女王『皐月嬢』を、あろうことかその祖母が創立した夜会という公の中、口頭だったとしても哀れな姿で逝ってしまった彼女を赤裸々に陵辱しかけていたことに腹を立てたのだろう。『皐月嬢』を屈辱的にさらした男を徹底的に叩きのめすには、彼の場合は婿殿の手で万事上手く叩きのめされても腹の虫が治まらないといったところらしく、そこで先ほど彼が言った『レイ』……つまり『御園の女の前に跪かせる』事へと、今回の信念は繋がっているようなのだ。
彼の作戦を知ったのは、『華夜の会』当日、本番中。葉月が海の氷月をひっさげてきた会場で、だった。当然、葉月が表舞台に堂々と出てきてしまった事と、それを引っ張り出してきたのが『天敵』だったことが直ぐに分かった時には非常に驚いた。それでも彼が葉月に付き添っているのを一目見て、ジュールには直ぐに彼の気持ちが我が事のように、心の中にすうっと入り込んできたのだ。
俺達の女王の名誉の為に!
彼と目があった時、そんな言葉が互いに浮かんでいた事をジュールは確信していた。
だからあの本番中、いきなりの『共演』でも、二人はばっちりと息を合わすことが出来たのだと思う……。
あれから数週間経っても小笠原のボス自宅に滞在しているが、この彼と顔を合わすのはあれ以来、初めて。
そこで、ジュールは今日になって初めて口にしてみる。
「今回は、利害一致しましたね」
お互いのボスには内密に密会している今この時になって、ジュールは初めて彼と意志疎通が出来ていたことを確認している。
すると向こうは、すうっと静かな微笑みを見せただけ。いつもなら、その笑みもどこか小憎たらしいところだが、今日の彼はどうしたことか……その不思議な色合いの瞳をやや陰らせ伏せ目がちに微笑んでいる。
彼から、ジュールが望むような返答はなかったが、それでもジュールには彼の心内が今日は何故か手に取るように分かる。
「俺達、おかしいよな」
ホプキンス氏らしからぬ、弱々しい一言。
その『おかしいよな』も、どうしてか今日のジュールにはよく分かる。
お互いの女王はもう、居ないのだ。居ないのに、ムキになって頑張ってしまう自分達が居る。生き残っている自分達だけが、まるで一人で踊っているように。
ジュールには彼のその陰っている目がそう言っているように思えた。
だが、ここは天敵。ここでジュールもやんわりと同情するつもりはまったくない。
「おかしいのは、貴方だけですよ。私は至ってまともにやるべきことをやっているだけですから」
すると彼はちょっと驚いた顔でジュールを見ていたが、やがてふっと可笑しそうに小さく笑い出す。
「王子様は、相変わらず真面目だね」
「貴方はだいぶふざけていますよ。まったく、一人でお嬢様を動かすだなんて。流石のボスも隼人様も度肝を抜かれていたではありませんか」
「いいもん、見ただろう? おっと、君の驚き顔も忘れちゃいないよ俺は」
また、そういう嫌なことを言うかとジュールは腹に据えかねるのだが、天敵故に、いつかの湖での黒星の時のように、こっちの弱い腹を探られてたまるかと堪えに堪えた。
それに、彼の言う『君も驚いていた』には否定は出来ない。彼が葉月嬢をひっさげて登場してきた時、ジュールは一抹の嫉妬を感じたぐらい……。
何故なら、ホプキンス氏が『これは譲れない俺の信念』とばかりに、御園の血筋をひっさげてきたことが……実は、羨ましく思ったのだ。
……つまり、ジュールも純一に従ってはいても、『本当は本筋の人間』がきっちりとケリを付けるべきなのではと思っていたのだ。それを彼はボスに反してまでやりのけてしまうその行動力。
今回も、負けてしまった気持ちにさせられた。
しかし、だからとて、ここで負けた顔をするつもりもない。
だが、今日は彼とは意志疎通を図っておかねばならない。
「ホプキンス中佐、貴方のその『客観性』にはいつも脱帽です」
「いいや。君もちゃんと分かっているから、『そっち』を任せて安心できる。そうでなければ、今日はこうして秘密裏に会ってくれなかったはずだ」
「では、私の方はもう一押しやるつもりですから、その後、頼みましたよ」
ジュールは彼にそう言って、アタッシュケースに置かれている例の雑誌を手にとって、あるページを開いてリッキーに突き返した。
『世界の宝石展、中止か……』
岩佐が写っているページを見せる。
そして彼はその男へと視線を落とし、いつもの不敵な笑みと瞳の輝きを見せた。
「分かった。『表』の方はばっちり手引きする」
「ボスと隼人様は、あれから考え方改めていますから大丈夫ですよ」
「レイを守ろうと頼もしい婿殿だったよ。俺だって、婿殿達の心を否定するつもりはない。でもね、やっぱり……」
「同感ですよ。やっぱり、最後はクイーンがたちませんと。それが『御園』です。婿殿ジャックがしっかりと道筋は整えてくれましたからね。その先のクイーンまでの道案内、お互いに手抜かり無く行きましょう」
「オーライ。待機しているよ」
あの彼がこっくりと素直に頷いてくれた。
今はお互いの女王は亡き者となっても、『永遠』だ。そしてその永遠の先には、その血を受け継いで懸命に生きている女性がいる。
ジュールはリッキーと目線をもう一度合わせ、今度はそれを振り切るようにして密会をした事務所を後にした。
「黒猫クイーンか……」
廊下に出て、ジュールは彼が言ったその一言を思い浮かべ、ふと笑う。
確かに葉月はずうっと前から『黒猫達』の女王様だった。
とくに……。あの幽霊との決戦を目にしたジュールの部下達は、あの冷ややかな蒼い月のようなお嬢様の目が忘れられないと言う者が多い……。その時はなんとも思わなかったのだが、後からじんわりとその恐ろしさが迫ってくるとか。あの冷たさと底知れない静かさが、まるで底なしの湖に引きずり込まれるようだったと……。
燃えるように情熱的だと思われていた『マザー・レイチェル』を信望していた黒猫連中は、あれは本当に孫娘かという程にその違いに驚きながらも、その冷めた横顔をみせる現女王を見つめ続けている内に、色は違うが冷たく燃える恐ろしさは底知れない『マザー』『ママン』と一緒だと、葉月を恐れる男達ばかりになっていた。
そういう女性だ。
婿殿ジャックの向こうには、やはり忘れてはいけない『クイーン』が存在している。
それが『仕上げ』だ。
ジュールの今の女王は、その『黒猫クイーン』。
今は、いやこれからは、彼女の為に生きていく。
さて、黒猫のシナリオは、まだ始まったばかりだ。
Update/2007.6.16