-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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9.娑羅双樹の花の色

 招待客が華やかさを添えている中、シンプルで控えめな黒いスーツ姿の男。
 彼はただ頭を下げ、その姿勢を保っていた。

「無礼だったと思います。しかし、どれほどの痛みだったかをご理解頂きたく思います。お叱りは受けます」

 篠原は無言で、純一の手から当たり前のようにして杖を受け取る。
 純一がそこで頭を下げに下げているので、隼人は胸が痛くなってきた。
 葉月も隼人の背で、ぎゅっと夫の白いジャケットを握りしめ、小さな声で『義兄様』と哀しそうに呟いている。

 いつも、そう。この義妹夫妻の一番背後を、いや、御園家の一番背後、時には一番の底辺でぐっと無言で耐えているのはこの義兄だった……。
 それは『婿養子』として隼人が認めてもらう前、ずっと昔からに違いない。
 そんな義兄の、自分の中にある尊厳さえ厭わないその姿に、若夫妻の二人は顔を見合わせ、そして頷いた。

 二人揃って、篠原の前に肩を並べる。
 義兄だけにそんな思いを押しつけたくない二人の家族としての気持ち。
 そこだってもう。結婚した妻とはいつだって気持ちが揃う。義兄の純一は家族なのだから──。

「篠原様、申し訳ありませんでした」

 隼人も頭を下げた。
 そして隣にいる葉月も、夫に続いて頭を下げるだろうその気配がした時だった。

「この、馬鹿者達が!!! お前達も、親と一緒か!!」

 隼人の頭に何かで殴られた衝撃が襲ってきた。『痛い』と下げた頭を手で押さえながら顔をあげると、篠原が杖を振り上げている。どうやらそれで殴られたようだ。その振り上げている杖が再度隼人の頭に直撃! 『いたっ』と思ったのも束の間……。今度は純一がその杖で首元をバシバシと叩かれている!
 もしかして葉月も殴られるのかと思った隼人は、すかさず葉月を抱きしめ、篠原から遠ざける。案の定、篠原はすごい顔、杖を片手に、息を弾ませながら葉月に向かってきた。

 妻を腕の中に囲いながら、猛然と向かってくる男に隼人は叫んだ。

「……つ、妻が何をしたって言うのですか! 妻は何も悪いことをしていないのに傷つけられ、彼女の姉さんだって無念のまま死んだんだ。何故、彼女の傷を生傷を辱めておいて、貴方にまた殴られなくてはならないのですか。そうだ! 葉月は、葉月は、貴方なんかに頭を下げて謝るような事はなにもしていない! 殴るなら貴方の杖を不作法に跳ねとばした俺だけでしょう!!!」

 隼人は沢山の人の目があるこのサロンであろうとも、なりふりかまわずに葉月を抱きしめ、まるでドシンドシンとやってくるかのような『篠原鬼ジジイ』から守ろうとした。
 その時は、もう、『御園の男』とか『婿殿』などという肩書きは吹っ飛んでいた。
 そして葉月もあれだけ気丈に振る舞っていたのに、隼人がそう言うとまるでその腕にしがみつくようにして頼っている。つまり、葉月もどんなに平気な顔をしてやりのけようとしても、それだけ泣きたい思いで立ち向かっていたのだと……。そんなこと、そんなこと分かりきっていたはずなのに。やっぱりこんなふうにして妻は一生泣きながら、このこととは戦って行かねばならない。そしてやっぱりその度に、このような仕打ちを受けなくてはいけないのか!? と、隼人の胸に痛く突き刺さるばかり!

 篠原が杖を片手にやってきて、葉月をかばう隼人に再び振り上げる。
 俺が殴られるぐらい。小柄な男に細い杖で殴られるぐらい。それぐらいの痛みなら平気だ。大勢の目の前で殴られたって……。隼人はそう思いながら振り降りてくる杖を目の端に止め、その一瞬目を閉じた。
 だが、その杖は隼人には当たらなかった……? 一瞬つむった目を開けると、そこには自分の胸から飛び出して、篠原が振り上げた杖を片手で止めた妻の姿があった。

「やめてください! 夫はただ、ただ……私のことを……!」
「は、葉月……!」

 氷の顔を保っていた奥さんが……頬を真っ赤にして叫んでいる。
 そして葉月の目は涙でいっぱいになっていた。
 その顔はもう、『氷の大佐嬢』なんかではなかった。隼人が良く知っている『ウサギの葉月』だった。

 会場のどこからか『あそこまでしなくても』『あんまりだわ』と、葉月に同情する女性達の声がひそひそと聞こえ始めた時だった。

「その通り。お嬢ちゃんはなんにも悪くない。婿殿の言うとおり」

 そこには穏やかな顔で、妙に鎮まった様子の『鬼ジジイ』がいた。
 彼は葉月が握っている杖の先を抜き取り収めると、葉月の目の前で頭を下げている。

「悪かったね、葉月さん。やりすぎたと自覚しているよ。やってはいけないことをやったと思っているよ。お詫びにこの爺をなんなりと」

 突然の豹変に、隼人も葉月も驚いて顔を見合わせた。
 そんな篠原は葉月を見て、急ににこやかな顔になる。
 これが先ほどまで壁際で、この会場を密かに支配していた強面の爺さんかと思うぐらいの顔だった。

「本当にそこを刺されたのだね。婿殿の取り乱しようもごもっとも。婿殿もすまなかったね」

 と、言われても。だったら何故、純一共々、杖で殴られたのかが判らない?
 隼人は殴られた頭を確かめるように撫でてみるのだが……。

「あの……。では、篠原会長はなにがお気に召さなかったと?」

 隼人が彼の怒りの訳を問うと、篠原がこの騒ぎでだいぶ遠ざかって傍観している岩佐を、ちらりと一瞬だけ見た。

「なにも悪い事をしていないのに、まるで何かをしてしまったかのように申し訳なさそうにして、ただただ甘んじていた事だよ。今の婿殿のように、きっぱりと言うべき、堂々としているべきだと私は思うね。それが出来ないから、婿殿と葉月嬢がここにくることになったのだと思わないかね? 親として全てを守るつもりだったのなら、そうすべきだった。子供達が乗り込んできて、はらわた煮えくり返っていたがね──。しかも一番傷ついた娘が乗り込んできて、どうするんだ」

 それを聞いて、隼人はハッとした。
 だから、事件のことに触れられてもどこか物怖じしていた御園の両親に腹立たしさを感じ、今のように葉月の被害の傷に触れて、こちらが『堂々とする』ことが出来るようにわざと煽っていたのだと気が付いた。
 だが、隼人はここで拳を握った。もう、怖い事はない!

「お言葉ですが、会長。傷を負わされた者なら悪くないのだから堂々としているべきというお言葉もごもっともだと思います。ですが、傷ついた者達は『堂々となれる』以前に、理不尽になぎ倒され踏みにじられた心を携えたままの状況で、自力で立ち上がることから始めなければなりません。誰も助けてくれない中でも、自分だけで立ち上がるのですよ。それが如何に困難か、ということが先です。だから、簡単に言わないでください!」

 また、刃向かっていた……。
 が、もう、破れかぶれだった。
 その破れかぶれついでに、もう一声!
 そうだ。今日は指輪じゃない。リベンジじゃない。これを言いに来たのだとばかりに、隼人は篠原に向かって叫んだ。

「それに私達には親も子供も関係ありません。家族全員でお互いを守ろうとしているだけの事です。いけませんか!?」

 会場がしんと静まりかえってしまった……。
 隣にいる葉月も唖然としているし、篠原も面食らった顔をしている。ただ、義兄の純一だけは無表情にしながらも頷いてくれているような気がした……。
 しかし会場の誰もは、もう、凍り付いたような顔はしていない。
 隼人と篠原の出方、交互に眺め固唾を呑んで見守っている。
 すると篠原が笑い始めた。

「やあやあ。『ジュン』、これはお前が後ろに下がってしまうはずだ」

 篠原は杖の先で、後ろに控えていた純一を指していた。
 純一がそっと顔を背けている。正体を暴かれたからだろうか。

「会長様、わたくしは、一介の護衛ですので」
「そうだった、そうだった。仕事の邪魔をさせたなあ。いや? 護衛だから一応守ったのか。まあ、いいや。お前はもういなくて大丈夫だよ。『護衛は護衛らしく』、もう下がれ」

 どうやら、会長は『義兄、純一』のことは既に顔見知りで、しかも彼が大人しく護衛として壁際で控えていた事もお見通しだったようだ。
 純一はやっと解放されたかのように、篠原に一礼すると直ぐさま下がっていくのだが……。葉月はそんな義兄の退いていく姿を申し訳なさそうに見つめている。
 そんな葉月の前にいる篠原が、葉月にやんわりとした声で笑いかけてきた。

「葉月嬢」
「はい……」

 元気をなくしている葉月の声。
 隼人はそんな妻を元気づけようと、並んでいるそこで触れている手を握りしめた。

「申し訳なかったね」
「いえ。ですが、堂々としているべきというお言葉は、私どもにはなかなか出来にくい事ですが、それでも救われるお言葉でした」
「指輪の事だがね。やっぱり譲らせてもらうよ。さっそく、契約をさせてもらおうか」

 葉月が黙ってしまう……。
 篠原が先ほどは葉月に預けると、競り落としたものの余計な物を買ったかのような顔をしていたのに。今度は心底、それを買うという気持ちになったようだ。
 しかしこの彼の今までの言葉から、葉月は感じ取ったことだろう。『その不幸、私が買った。五億で買おう』と聞こえたに違いない。隼人も同じように感じた。

「……『おじ様』さえよろしければ。所有権はおじ様に、保管は私にさせてください」
「そうしようかね。おまえさんの言うとおりにするよ」

 つまり、葉月はやはり『曰く付きの指輪』は他人様には任せる事は出来ないと言ったのだ。
 隼人もそう思う。いや、それこそがレイチェルが門外不出にしてきた理由なのだから。
 祖母レイチェルは、それは『不幸の指輪』だとは思ってはいなかったはず。『宝石』という人間が古来より崇めてきた価値から生まれる『欲望』がつきまとうだけの事だと言っていたとか……。ただその欲を持った者ほど、最後にはそれほど良い思いはしないものだと言いたかったようだ。
 レイチェルが生まれるずっと前から家にあったその指輪にまつわる数々のエピソードは、そうした人間元来の欲望が起こす悲劇が繰り返され『ただの指輪』にひっついてきてしまっただけのこと。『言い伝え』に『迷信』などは、つまりはそうした古来にあった人々の戒めでもあると良く聞くが、レイチェルが指輪を通して言いたいのもそう言う事だったのではないだろうか。隼人はそう思う……。
 だからレイチェルは迷信を携えた指輪が人の手に渡った時、その欲望の主には人間古来よりあるだろう道筋を辿るに違いないと言い、そしてその欲望の者達の欲望を助長させない為にも『門外不出』にしていた。……ということらしい。
 だからこそ、なるべくなら外には出さない。それはルビーを引き継ぐ者と、ルビーを守る家に在る者達の使命。だがそれでも出さねばならぬなら、出してしまえという家訓もあり。

 今回はついに、この指輪を手放すところに来た……。

「さて、サファイアの方はこのようにまとまったが? 岩佐君のルビーは、君が所有者となり保管するということで良いのだね」

 篠原の最後の忠告に違いない。
 己がどういった手でこの一族を欲望の為にいたぶったか。そのいたぶりが如何に手前勝手な都合で使ったか。
 篠原の大袈裟で大胆な『芝居』を見た者達は、その篠原の真意を知り、冷めた目を岩佐と若手社長陣に向けている。

 だが、岩佐はそのムードを分かっているだろうに、ふと溜息にも似た僅かな笑い声を緩い微笑みを見せながらこぼし、堂々と言い切った。

「勿論です。その指輪はもう私の物。七億も寄付するのですから当然でしょう。出品をした時点でそちらも手放す覚悟。これで『待った』なんて仰るのならば、オークション参加をする前に皆で交わした契約に反するではありませんか?」

 確かに。多額の資金が動く事、そして高価な品が出品されるだけあって、大きな争いが起きないようにと前もって『参加契約書』にサインをする決まりがあった。当然、隼人もそれにサインをし、葉月もサインをした事だろう。そうでなければ、どんなに高額の資金を持ち込んでこようともどんなに高価な出品を試みようとも、サロン会長の蘭子に閉め出される事になっている。しかも弁護士がしっかりと付き添っているから誤魔化しも利かない。

 その契約をした以上、確かに岩佐の物となったし、岩佐に手渡さねばならないのだ。

「岩佐社長。その通りです。では、早速ですから手続きをしましょう」

 隼人の覚悟を決めている顔に、岩佐も調子の良いにやけた顔はしなかった。

 どんな手を使っても、勝利をすれば、それで勝ち。
 なにも法的に罰せられる事はしていないのだから、なにをしようがやった者勝ち。
 それが出来る覚悟がないなら、最初から勝利など夢見るな。
 周りから叩かれる事は覚悟の上、その覚悟があってこそ勝者になれる。

 だから今回のやり方も俺は後悔などしていない。
 これでまたひとつ、俺にとって話題になる『イベント』が増やす事が出来た。
 ただそれだけの為にやっただけ。
 利用される方が悪い。利用されないよう賢くなればいいだけだ。

 彼の真顔はそう言っているようだった。
 同じように軍隊で仕事をしている隼人にだってその理屈は重々分かっているつもり。
 ただそれが許される許されないという『使い方がある』と隼人は思う。

 ──あんたは、それを間違えている。

 『やった者勝ち』の中にある隼人の異論。

 それを、手渡した後に存分に味わってもらおうじゃないか。

 隼人は強く岩佐を見返す。
 彼も暫くは隼人を見ていたが、『相手じゃない』とばかりに小馬鹿にした笑みを残し、契約を取り交わす部屋へと向かっていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 この後、蘭子が用意した契約部屋で弁護士を通じ、各手続きが行われた。

 契約の間、その部屋はシンとしていた。

 白いレエスのテーブルクロスがかけてある大きなテーブルに、御園家の若夫妻と指輪の獲得者二名が向かい合って手続きを交わす。
 蘭子は立会人として、両者の間に立ち、御園家と獲得者の間を東條家の弁護士が書面を手に行ったり来たりしていた。

 弁護士の説明を良く聞き、そして確認しながら、隼人は書面にサインを、そして隣に座っている妻の葉月もサインをする。
 お互いにそのサインをする手に迷いはなかったと隼人は思う。

 獲得両者は寄付金を支払う手続きをし、御園家から指輪を手渡す手続きをし、ついにその指輪を手にしたのだ。
 その瞬間、隼人の目の前にいる岩佐がほっと一息。用意されていた紅茶に口をつけ、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 隼人の中にも、妻のように、内で静かに燃える炎がずうっと宿っている。
 壁際でまだ護衛の顔で静かに控えている義兄を見ても、隼人は同じように感じていると確信できる。
 そしてそれはこの婿義兄弟だけじゃない。一時的とはいえ、その指輪をついに御園の門から出さねばならぬ準備をしているジュールも。そして、どうしてこんなことになってどうしてここにいるのか? 未だに理解は出来ないけれど、ジュールと同じように執事のような顔で葉月のアシスタントをしているホプキンス中佐も。皆、どこか無表情で感情の起伏などない顔をしているが、岩佐を時折見る目がとても冷たいと隼人も感じ取っていた。

 ジュールとリッキーも、先ほどまで隼人と葉月が手にしていたトレイに、もう一度各々の『主人』が出品した指輪を乗せ、獲得した二人の前に厳かに差し出した。

「では、こちらのサファイアの今後の所有者は篠原のおじ様が、管理は今まで通りに葉月さんがと言う事でよろしいですわね? おじ様」
「ああ、いいよ。蘭子、寄付金は彼女の希望通りに手続きをしてくれ」
「かしこまりました」

 契約書にサインをする篠原の顔は、とても穏やかだった。
 向かいにいる葉月とも時折目を合わせては、ちょっとはにかんでいる妻と微笑みあったりしている。
 どうやら、ウサギ奥さんは素の顔を見せられる相手になってしまったよう。だが、先ほど、荒っぽいやり方ではあったけれど御園家に対してあれだけのことを言ってくれた篠原に隼人は既に人間味ある人だと感じている。だから、妻がそうして本来ある愛らしい顔で気を許しているのをどこか微笑ましく見ていられた。

 一方、その隣にいる岩佐は指輪が手に渡ると慌ただしく動き出す。
 岩佐は手続きが終わると、指輪は自分が持ってきたアタッシュケースに収納し、直ぐさま立ち上がった。

「では、私はこれで……」

 その淡々とした終わり方は、まるでビジネスの契約のようだった。
 寄付をするとか、わざわざ出品をしてくれて……なんて雰囲気ではないその割り切り方。

 彼が出ていった後、蘭子があからさまに大きな溜息をこぼした。

「本当に、嫌な人」

 彼女の一言に、何故かここにいる誰もが無言になる。
 誰の心の中にも、あの無情さが耐えられないものになったのだろう。
 ひとつのテーブルで向かい合って契約を交わしていた隼人も、隣で静かに隼人に任せていた葉月も俯いて無言だった。
 虎の女と言われている東條グループ総裁の蘭子だって、彼のそのスタンスは隼人同様に重々分かっている事だろう。それはきっと百戦錬磨の経営王者である篠原会長だってそうして生きてきたのだろう。
 でも彼等はそうして上へ登りつめるほどにどこかで何度もその無情さを噛みしめながらも、そのずっと向こうにある無情とは遠い位置にある人として忘れてはいけないものも実はなくしてはいけないことだって、誰よりも良く知っているのだろう。
 それが証拠に、食えない女と言われている蘭子だって、偏屈な顔をしていた篠原だって、最後はさりげない人間味を見せてくれたじゃないか……。
 隼人が言いたいのはそこだった。
 無情な世界で大きな柱としてシビアに生きている者だからこそ、忘れてはいけない物がある。
 蘭子はそれが言いたくて『嫌な人』と言い、篠原も同じ意で無言になっているのだろう。

「やれやれ。せっかく『レイ』の孫娘に会えたというのに、後味が悪いったらありゃしない。蘭子、さっさと終わらせて食事に行こうではないか」
「まあ、篠原のおじ様ったら。実はそれが目的で、あんな意地悪をワザと御園若夫妻にしていたのではないのですか? 葉月さんが目的だったのね」

 なんて蘭子がしらけた目線を篠原の方へと横に流すと、思いの外、『違う!』と慌てて否定している彼がいる。
 それにそんな篠原の口から自然に出てきた『レイ』。それは『リトル・レイ』と呼ばれている妻の事ではない、本家本元の『レディ・レイ』のことを言っているのだと知り、隼人と葉月は顔を見合わせた。

「葉月さん、お気を付けなさい。このお爺ちゃまはね、昔それはそれはプレイボーイで」
「これ、蘭子!」
「……と、言うのも、本命のレイチェルおばさまにちっとも振り向いてもらえない腹いせだったというわけなの。それで結局、独身のままなのよ。レイおば様同様に素敵な女性に成長した孫娘に会って舞い上がっちゃっているのよ。今日もあの迫力あるお芝居。おじ様、お歳を召したお身体で頑張りましたわね」

 蘭子のにったりとした笑み。そして篠原を恐れない毒舌。だが篠原は言い返しもせずに、つんと顔を背けてしまった。
 その背け方。隼人はふと思い出す。彼が葉月と目があって顔を背けた時のことだ。
 つまり? 年甲斐もなく、若い葉月に照れたとか? もしかして? レイチェルの面影を残す孫娘を目の前にして、若い頃の気持ちに戻ってしまいやっぱり照れくさかったとか?? あ、でも……男としてそのいつまでも純粋に持っていたい女性への気持ち、分からないでもない! と、隼人はそんな老紳士に妙な好感を持ってしまった。
 そして葉月も、さらに心を開いたようだ。

「祖母の事、よくご存じなのですね」

 嬉しそうな葉月の微笑みにも、篠原は顔を背ける。
 もしかすると彼の若い頃からの特有の仕草なのかもしれないと隼人は思った。
 そんなだんまりしている篠原の代わりに、蘭子がまた面白可笑しく教えてくれる。

「そりゃあ、もう。フロリダで貴女のお祖母様が病気で倒れられた時も、会社を放ってアメリカにいっちゃったぐらいですもの」

 蘭子が教えてくれたエピソードに、葉月も隼人も揃って驚き篠原をまじまじと見てしまった。当然、彼はさらに顔を背けてぶすっとした顔に。
 だが隼人の隣にいる葉月は、そんな目の前で仏頂面に戻ってしまった篠原から何かを探すかのようにじいっと見つめ続けている。やがて葉月はふと微笑んで篠原に話しかけた。

「有難うございました。篠原のおじ様……」

 『おじ様』と言えば、それは『リトル・レイ』として……。
 そんな葉月のしとやかな声に、篠原がやっと表情を和らげて葉月の微笑みに応えてくれる。

「レイチェルが開催するこの会にはどんなに忙しくても時間をあけて参加したものだったよ。葉月嬢、お前さんにも何回か会ったことがあるのだよ。お前さんは、いつも水色のドレスを着て……まだ、小さなお嬢ちゃんで。近頃はこなくなってしまったが、右京君と揃ってヴァイオリンを弾いてくれただろう? 本当に華やかな彼女にぴったりの孫達。羨ましかったよ」

 面識があったか……! と、隼人は驚いた。
 まあ、そりゃ考えれば当然なのだが……。しかしその話は、隼人があまり知らない『事件前』の妻が無邪気に無条件に幸せだった時代の話だ。そしてそんな話は妻はあまりしない。出会った時から、結婚した今だって。葉月はそんな話は昔からしない……。
 そして隣の妻も『覚えているだろう?』とばかりに見ている篠原に対して、困った顔をしている……。ついにはどうしてか泣きそうな顔で俯いてしまったのだ。

「……申し訳ありません。きっとそうだっただろうと分かっているのですが。『事件前』のことが、どうも思い出しにくくて……。いえ、きっと覚えているんです。でも……その、思い出すという事が……上手く、出来なくて……」

 そんな妻のもどかしそうな顔。
 自分の事を鮮明に覚えてくれていた人の記憶と自分の記憶をなんとか合わせようとしているのに、それが出来なくて葉月はもどかしそうに親指の爪まで噛み始めたではないか。それは隼人にとっても初めて見た葉月の姿だった。……そうか。自ら幸せだった時期を口にしなかったのは、そんな心理が働いていたのかと夫になったというのに初めて知った隼人。
 隼人は静かに葉月の手首を掴んで、『そんな無理をしなくても良いのだよ』と噛んでいる親指を口元から離すように引き下ろした。
 そしてその妻の痛々しい仕草を見た篠原と蘭子も、初めて『虐げられた者の後の姿』を目の当たりにしたのだろう。どうしようもない悲しみに途方に暮れた顔を添えていた。

「いいのだよ。無理に思い出さなくても、私が覚えている」
「そうよ、そうよ。私、皐月さんがすごく羨ましかったのよ。ほら、私は一人っ子の一人娘でしょう? 可愛い妹に可愛い服を着せて手を引いている皐月さんがすっごく羨ましかったの。だって貴女、本当に可愛らしかったのよ」

 慌てて取り繕うだなんて、この大物の二人はしなかったが。それでも昔に確かに『リトル・レイ』は存在していたのだと言ってくれている。
 すると二人の心遣いは葉月にもちゃんと通じたのだろう。嬉しそうに微笑んでいた。そして、その笑顔は隼人も知っている妻が無邪気な少女の心に戻った時の笑顔。
 篠原と蘭子もそれを一目見ただけで、とても嬉しそうだった。

「では、意地悪なおじ様のおごりだそうですから? 今日の会はさっさとお開きにして、私達だけで二次会に繰り出しましょう。今夜は落ち着かなくてなにも食べられなかったから、フルコースがいいわ。おじ様」
「なんだ、蘭子。お前にご馳走するのではないぞ。御園の若夫妻にご馳走すると言っているんだ」

 どうも二人は昔馴染みで、そちらの方が本当の祖父と孫娘のような仲に見える。
 そんな賑やかしさで、隼人と葉月は顔を見合わせて微笑み合った。

「では篠原会長のお言葉に甘えて。僕たちご馳走になります。隣の妻ならフルコース、ばっちりOKですよ。僕より大食らいですから」
「貴方ったら……!」
「そして、最後のデザートはうるさいですから、腕の良いパティシエがいるところをお願いします、会長」

 せっかく蘭子と篠原が賑やかにしようとしているから、隼人が調子よく合わせてみる。
 すると篠原もとてもほっとした顔になり、蘭子も隼人の妻をからかうような言葉に笑い出す。
 だが夫につつかれている葉月はいつものウサギの顔でふてくされていた。……でも、それすらも……今となってはここにいる者達には葉月にはあって欲しい愛らしい表情に見えたに違いない。

「よしよし。では、そこの付き人も、護衛も皆まとめて、ついてこい」

 上機嫌になった篠原の大盤振る舞い。ジュールもリッキーも揃って静かに頭を下げている。いつもはどこか避けあっている『天敵』と言い合う二人。どうしたことかいつになく穏やかに顔を見合わせて微笑み合っていた。向かうところが一緒の時は、この二人は強力なタッグなのかも知れないなと隼人は思った。

 

 では、いざ。篠原のおじ様に連れられて、今度こそ楽しい今宵を──。と、外へと出ようとした時だった。
 篠原はそっと壁際にいた純一に近寄り話しかけている。

『お前の事だ。なにかやるのだろう? 楽しみに見物させてもらうよ』

 隼人の耳にそっとそう聞こえてきた。
 レイチェルが後継し、ビジネスマンとして育てた『ジュン』と言う男のことは、ゴッドファーザーも良く知り、そしてレイチェル同様に期待を寄せている顔をしていた。

 そうだ。隼人が『白き表婿』として表舞台に出た役目はほぼ終わった。
 ここからは、『黒き裏婿』として影に控えている義兄が暗躍する番だ。

 その後、篠原が連れて行ってくれた食事会は、『華夜の精神』を引き継いでいる者だけあって、楽しいものとなった。
 なによりも、葉月がいつもの彼女の顔で楽しそうにしていたのだから、この夜もレイチェルが願ったとおりの『華夜』になったのだと隼人は思い、自分も婿殿の肩書きを忘れて楽しむ事が出来た。
 内輪だけになり、純一も食事の輪に入っていたが、こちらの兄さんは相変わらず、静かで無口。自分からぺらぺら喋る事もないが、篠原のかけ声にはそつなく応えている。
 しかしそんな篠原が、静かな純一を見ていった。

『やはり、人に頭が下げられる人間になれてこそ、一人前』

 たくさんの部下を従えている者は、威厳だけでは駄目だと彼は言った。時には謝る勇気がある事、自分の非を認められ受け入れられる事も、部下を守るうちの一つなのだと言う。
 隼人はその経営王者の言葉に、妙に納得……。そして、思い返す……。  すぐさま、大勢の人の前で頭を下げていた純一。そして、葉月を辱めようとした事に潔く頭を下げ詫びてくれた篠原。
 そんな男の姿。同じ男として、部下を持つ者として、隼人はそんな先輩男性達の姿を目に焼き付けておこうと思った晩ともなった。

 

 この『華夜の会』の二週間後、とある雑誌に今や噂の青年実業家として有名人の岩佐社長の姿があった。
 『世界の伝説宝石展』をするとの記事。門外不出とされていた『不幸を呼ぶ指輪を初公開』という見出し。

 それと当時に、御園若夫妻の元にその宝石展示会への招待状も届いた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 某日、小笠原。
 あの『華夜の会』から、数週間経とうかという頃……。
 この日も純一が住まう丘のマンションから見渡せる景色には、清々しい青色が広がっている。
 季節も気候も丁度良い時で、リビングの窓、テラスの三面窓全てを解放し、潮風が入ってくるのを堪能しながらキッチンに立っていた。

 そろそろ昼時。
 書類やバインダーが散らかっているリビングの仕事部屋を傍目に、対面に作り直したキッチンで、純一はホットドッグを作っていた。
 作っている分量『三人前』。

「忘れていた。若槻はピクルスが嫌いだったか」

 半分に切り込んだ細長いパンの間に詰め込んだ様々な具から、そのピクルスを抜き取った。
 そして抜き取ったパンの隣のパンに詰め込む。……ジュールなら喜んで食べるだろうと。あとはケチャップとマスタード。それから……コンソメスープは片手で飲めるようにカップに入れて……と、久々の給仕をしているところだった。

「先輩! 来てください!」

 仕事部屋になっているリビングに若槻が駆け込んできた。
 純一も彼等の食事を作る手を止め、直ぐさま元の部屋へと戻っていく若槻の後を追った。

 純一の住まいにと作り替えたこの自宅の奥にある一室。そこでジュールが一ヶ月ほど籠もって『決戦』に備えながら、その瞬間を待っていた。
 数日前から若槻もこの小笠原の純一の自宅に泊まり込んでいる。
 ジュールとタッグを組んで『そろそろ来るだろう』と、その株価の動向を見守っていた段階。
 ……いつくるか分からない。だから目が離せない。
 二人はまた山ごもりをしている男同様に、荒れた無精ヒゲの顔に、しわや汚れがついたワイシャツを着込んだままの格好で息を抜かない数日を過ごしていた。

 純一はそんなことを思い描きながら、ジュールに秘密基地のように与えていた仕事部屋に駆け込んだ。
 八畳ほどの狭いその部屋は、純一の広いリビングの仕事部屋同様に散らかりまくっていた。
 ワイシャツのボタンを胸元まで開け、くわえ煙草でパソコンの画面に向かっているジュールがそこにいる。若槻も純一を連れて戻るなり、自分が受け持っているデスクへと直ぐに座り込んでしまう。

 男独特の匂いと煙草の煙が充満しているその部屋で、無精ヒゲ顔のジュールの目が、輝き始めている。

「ボス、先日まで下がりに下がっていたのが、三日前からじりじりと上がってついに千六百円まで乗っかったんですよ」

 仕事の手を止めずに、くわえ煙草で呟いたジュールの報告に、純一も彼の背からその画面を見た。

「やはり。この銘柄で正解だったか。流石、ジュールの情報網だな」
「そりゃね。そこの辺は間違いないですよ。知らない人達はこの下落の間にこの銘柄を手放したようですね。個人所有の株がだいぶ手放されたようですから、それも静かに買っておきました。が、岩佐社長も然りですがね」

 今、ジュールが戦っている相手は、勿論『ワイドリンク』。
 ジュール独自の情報網と情報収集力を集結させ調べに調べ、岩佐が買い集めている銘柄株を、彼に気が付かれないようジュールも水面下でひっそりと地味に買い集めていた。

 いまや乗りに乗っているワイドリンク社長岩佐。
 資金力も怖い者なしと言ったところだろう。

「下落と見せかけて小さなものもかき集めるやり方。そこからまた値を上げてドンと売りさばく。私が見たところ、かなりの自信のようですから、彼は理想として二千円台までは様子を見ると予想していますが……」

 そしてジュールがボスの純一をチラリと見た。
 おそらく最終的な判断を求めているのだろう。

 まだ判断できずにいる純一にジュールが付け加えた。

「二千円台、二日か三日の間に乗ると思いますよ。ここまで値が上がったら手放す者などいないでしょうから……」

 あと二日。
 いや、岩佐の判断でもっと早まる可能性もある。
 俺達はこの株仕手戦では、あちらに痛手を与えねばならない。

 純一は一人頷き、弟分達に呟いた。

「千七百だ。岩佐が売る前にこっちの持ち玉を全てぶつけろ」
「妥当ですね。私も賛成です、ボス」
「俺もですよ、先輩」

 純一のその判断に、ジュールも若槻も納得してくれたのか強く頷いてくれた。

「今回の私達は、この仕手戦で儲ける為にやっているのではないですからね。二千円台なんかに魅力はない」

 ジュールの勝ち誇った冷たい笑み。
 つまりその売りの渦の中に後手になる岩佐を巻き込もうというのが、こちらの狙いだった。
 二千円台を理想として待ち構えているだろうが、そんな岩佐でも損をしない為、動きが出てしまう前にせいぜい千八百程で切り上げてくる可能性がある。彼が高みを見極めて売りさばく前に、こちらが最大の動きを生み出すゴングを鳴らし、主導権を握ってしまう事。それが儲ける事よりも黒猫サイドには大事な狙いだ。彼より先に売り尽くし、彼が売る前に値を下げ、最高値を出し抜かなくてはならない。こちらの持ち玉も充分。どかんと千七百で大きな売りの動きが出れば、他の持ち手も値がさがる前に我先にと売りに出すはず。そうすれば、後は値が下がる一方。二千円台を待ち構え売り遅れた岩佐はそこで損害が生まれる。それでもさっさと持ち株を手放さないと千七百どころではなくなる。流石の岩佐も必死になる事だろう……。

「さあ、鮮血の花が引き寄せる『不幸』の始まりだ」

 その弟分の妙に楽しそうな顔に、純一は『一番怖いのはお前じゃないか?』と言いそうになって、心の中だけに留める。
 金猫の追っ手が迫っているとも知らずに『勝利者』の顔をしているだろう岩佐の笑みを純一は思い浮かべ、静かに株価の画面を眺め呟く。

「娑羅双樹の花の色……。中学で先生に暗記してこいって言われなかったのかね、若社長は」

 

 

 

Update/2007.6.4
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