今夜の横浜は快晴。
郊外に位置する趣ある洋館、そこの一室で控えている男二人。
一人は白いスーツを着こなして落ち着きなく、一人は黒いスーツ姿で壁際の椅子に座り込んで、義弟の様子を眺めている。
「隼人様、落ち着きありませんね」
「いや、あれなりに考えていると思うね」
お供できたジュールは少しばかり心配そうだが、義兄はそう信じたい。
あんなに嫌がっていたスーツも文句も言わずに着込んでくれ、義弟の隼人はいつも以上に無口になり横浜まで来た。
今いるのは、東條家が所有している昔からある洋館。そこの一室を控え室として蘭子が用意してくれ案内人に人目を避けて通される。
どうやら蘭子にとっても『今日の一番ゲスト』といった扱いにしてくれたようだ。だが純一はこの扱いに『蘭子め、楽しんでいるな』と溜息をこぼした。彼女には彼女なりのシナリオがあるような気がした。だがまあまあ、目的はこちらと一緒であろうと純一はそこは心配はしていない。ただ、こちらのシナリオの線を崩されないよう注意は払わねば……。
今日の態勢は、ジュールが隼人の側を離れない付添、純一は雇われ護衛といった『配役』。
だから純一はいつもの黒スーツにちょっとだけお出かけ用のネクタイを締めてきたが、久しぶりにサングラス。遠くから眺めている事を決めている。裏方の姿勢はここでもとことん貫き通すつもりだ。その為に、ジュールが『執事的付き添い』を買って出てくれ、それで隼人は幾分か緊張が解けているようだった。
隼人が眺めている窓の向こうには、次々と黒塗りの車が入ってくる。
そこからタキシードを着た男性や、付き添いできた煌びやかな女性が、次々と姿を現す。
「いやー。豪勢なメンバーですね。東部建設の社長にご令嬢。近代鉄道の社長に奥様。皆、日本ではトップの方達ですね」
その手は広く知っているジュールも、隼人の隣にならんで溜息をこぼしていた。
そうすると隣の隼人はまた肩に力を入れているよう……。
黒塗りの車だけではなく、真っ赤なスポーツカーも入っている。
「あれかな」
「そのようですね」
隼人もジュールもピンと来たらしく、窓の向こうに目を凝らしている。
どうやら今夜の『お相手』が来たようだ。
「あ〜。なんだか分かるなあ……」
「同感ですねえ……」
窓辺の二人が妙な溜息をこぼした。
そして壁際の椅子にどっかりと座ったまま動かない純一の頭には『ワイドリンク』とかいう新進気鋭の会社を思い浮かべ、それと同時に雑誌に掲載されていた無精ヒゲの若僧社長を思い出す。ハリウッドの俳優を気取った若僧だ。それがポルシェだかフェラーリだかしらないが、そういう真っ赤な外国車に乗ってやってきたのだろう? 見なくても見えているから純一は見ない。だが、義弟と弟分は『思った通りだなあ』と言っているのである。
「彼は、女性同伴じゃないんだ」
窓辺の向こうを颯爽と歩いているだろう『ワイドリンク社長』は、今宵は一人でやってきたよう。隼人はそこに心を留めたようだった。
「同伴の場合もあるそうですがね。最近はそうでもないみたいで? 独り身を強調し、何処かのご令嬢でも狙っているのでしょ」
ジュールから聞かされる情報を耳にし、窓辺をそっと眺めている隼人の顔つきが急に変わった。
「……だったら、やりやすい。とことんやれるって訳だ」
隼人のその顔を側で垣間見たジュールもハッとしたのか、背後にいる純一を確かめる。
純一は『これなら大丈夫だ』という小さな頷きを返した。
やがてドアからノックの音。
静かに開いたドアから、ペールグリーンのロングドレスを着込んだ女性が華やかに現れた。
「ようこそいらっしゃいませ、華夜の会へ」
洋風扇子を片手に現れた女性。夜会巻きに髪をまとめ、そして品良い微笑みを携えていた。
その女性がお供の男性と一緒に現れた途端、窓辺で落ち着きを無くしていた隼人が、急にピンとした緊張感の軸を正したように凛とした立ち姿に……。
「まあ。そちらが『婿殿』?」
窓辺にいる白いスーツの男性を一目見て、東條蘭子は目を見張っていた。
そうなのだ。あの『澤村』という男は、腹をくくるととんでもなくでかくなる。隼人は今、その気迫を見せていた。
そこは、ひ弱な工学だけの軍人とか思いこんでいた蘭子も意外だったのだろう。彼女だって東條グループの総裁だ。一目でどのような人間か見切る力だってあるはずだ。その『虎の女』が、隼人を一目見て表情を変えたのだ。
隼人には『東條蘭子』という女性の話はしてあるが、隼人も隼人で蘭子を見た途端に、見事に仕事をしている時同様の中佐の顔に引き締まった。
隼人はそのまま静かに蘭子の前へと歩み寄り、彼女の正面に向かった。
「はじめまして、御園隼人です。この度はこちらの勝手で招待をして欲しいという失礼な願いを聞き入れて頂きまして有難うございました」
隼人は挨拶の握手をする為の右手を差し出していた。
その眼鏡の穏和な微笑みを、蘭子がじいっと見上げている。
だが隼人は物怖じせずに、さらににっこりと蘭子に微笑みかけていた。
虎の蘭子が、少しばかり目を逸らした気がした。
たぶん……。女性にはその笑顔は直視できない何かがあるのではと、義妹を捕まえられた義兄は思ったりしている。もしくは『計り知れない笑顔』に見えるのか、どちらかなのではと。
だが蘭子も直ぐににっこりと隼人に微笑み返した。
「ふふ。男性の中で仕事をしている私にとって、『握手』は対等に見て頂いていることとして、とっても嬉しいわ。でも……私も今夜は『レディ』なんですけれど……。少なくとも貴方にはそう見て頂きたいわね……」
少しばかり隼人を試すような笑みをたっぷりと浮かべている蘭子は、隼人に手の甲を差し出していた。
大きなエメラルドの指輪があるその手を見て、隼人は少し驚いた顔。しかし、直ぐに笑顔になって蘭子の手を取った。
「これは、失礼致しました。マダム」
隼人はその手を取ると、なんの躊躇いもなく、その手の甲に口づけた。
勝ち誇ったような蘭子の微笑みは、どこか女性として満たされたような顔に見える純一。
純一の隣に控えていたジュールが、そっと耳打ちをしてきた。
「気に入っていただけたようですね。流石、隼人様。フランスが長かっただけあって、慣れていますね」
まあ、隼人もあれでフランスが長かったし、あのダンヒル夫人があれこれ躾けてくれていたのは耳にしていたので安心はしていたのだが。あれほど物怖じせずにやってのけるとは……。目の前で、ああいう義弟を見たのは初めてである分、純一は感心してしまったのだ。
そして今夜の女主人もとてもご満悦だった。
「フランス勤務が長かったとお聞きしております」
「はい。十五の時、あちらの訓練校に入校しましたので。それから、小笠原に来るまではマルセイユの航空部隊で空母甲板要員を経て教官をしておりました」
「まあ、十五歳? 随分とお若い頃から。中学を卒業して直ぐと言うことですよね」
そこも隼人はにこやかに『はい』と返事をする。
益々、蘭子の目が輝いた。
「ふふ。純さん、気に入ったわ」
この部屋に入ってきて隼人しか見えていなかったような彼女が、やっと壁際にいる昔なじみの純一に声を掛けた。
「なるほど……と、言ったところね」
「そんなの一目で分かるのか?」
いや、彼女なら分かるだろうと思っていながら、純一は改めて言ってみる。
彼女もそこは分かっているのか、ただにんまりと微笑むと、その笑みをワザと隠すように扇子を口元で広げた。
「今夜、わたくしは高みの見物ですから存分に。なにかやってくれそうというのは、分かりましたわ」
扇子で顔半分隠されていたが、彼女の目が急に真剣みを帯びたのを純一は見た。だが、その目つきも直ぐにいつもの食えない彼女の微笑みの眼差しに変わってしまう。
「では、ご迷惑をかける事になるかと思いますが、お許し下さいませ」
隼人がそこは『婿殿』として、御園の我が儘を聞き入れてくれた礼の為、蘭子に向けて丁寧に頭を下げてくれる。
「いいえ。彼等にも『分』があることを、しっかり叩き込んでやってくださいませ、婿殿」
今度の蘭子は微笑んではいたが、目は笑っていなかった。
それはまるで、隼人という刺客に『失敗は無しよ』と、遠回しに念押しをしているようにも見えた。
その蘭子が今度は純一をじろじろ見ている。
「ところで、そちらの『仮婿さん』は、相変わらずの格好だこと。レイチェルおば様が泣くわ。タキシードぐらい着てきなさいよ」
彼女の呆れた声と眼差し。いつもの嫌味は彼女の挨拶みたいなもの。だから純一も動じずに、静かに笑い返す。
「今宵、俺は『護衛さん』なんでね。派手には出来ないのだよ」
「あら、そういうこと。だとしたら、貴方、会場のはしっこで弟さんを一人見守っているってこと?」
「一応、この男が側につく。構わないかね」
純一の隣にいたジュールが、蘭子に丁寧に頭を下げた。
蘭子とジュールは面識がある。いつものように蘭子へのお遣いに彼を使っていたからだ。
「あらジュール、お久しぶりね。でも貴方も間違っているわ……」
また蘭子は扇子で口元を隠し、目だけでジュールを威圧しながら手の甲を差し出した。
「これは失礼を。蘭子お嬢様」
ジュールも品良い微笑みをなんなく浮かべ、彼独特の優雅な手つきで蘭子の手の甲に挨拶の口づけをした。
蘭子は隼人に挨拶の口づけをもらった時より、ずっと嬉しそうな目つきを扇子の影で見せている。それも純一の方を見て、妙に勝ち誇っているのだ。
御園の男連中が、こうしてかしずいてくれるのが心地良かったのだろう。彼女の中にはまだ『皐月』が生きている。そのライバルお嬢様の一族の男達がこうして接してくれるのは、やはりどんなに大人になっても爽快なのかもしれないと純一は思った。
そして彼女もその心根を純一には隠さない。ほうら、今回は全て私のもの。昔なじみの純一にまるで自慢をしているかのような笑顔だった。
そんな彼女は、やはり純一にも手を差し出してきた。
「本当ならその気はないのだけれど。護衛さんにも許してさしあげるわ。さあ、どうぞ」
嫌味な女だなあと、純一は小さく舌打ちをする。すると扇子の向こうで見せている蘭子の目が『あら、そんな態度を取ってもよろしいの?』と言っているようだ。なにせ、今回、ここに来られたのは、このお嬢様マダムが隼人を招待してくれたからだ。その時に彼女と取り交わした『なんでもお返しをする』という約束をちらつかせているようだった。
純一は心の中ではやれやれと呟きながらも、義弟にも高貴な弟分にも負けない心積もりで、丁寧に蘭子に頭をさげて柔らかく唇を手の甲に押した。
「ふふ」
蘭子の今まで以上に勝ち誇った笑み。
昔のライバル御園嬢が焦がれた男を跪かせた気分でいる事だろう。
……でも、ここにもし、皐月がいたら……。ふとそんな事が何故か純一の頭の中を過ぎる。そんな昔を思い出しながら、変わらずに気高く生きている蘭子嬢との思い出に敬意を示す意味も込めて、丁寧に長く唇を落としていた。
「もう、よろしいわ……。純さんたら」
彼女のらしくないしとやかな声のお許しが出て、純一はやっと唇を離し頭も上げた。
すると目の前には、なにか気持ちが通じ合ってしまったのか、何処か哀しい色合いの瞳を揺らしている蘭子がいる。純一は意外に思った。
「御園の殿方が、そこまでしてくださるのは解りました。これでも、わたくしも……貴方達の苦悩には及びませんが、心を痛めておりましたので」
強気の一手だった蘭子が急に、もの悲しい顔で窓辺に立った。
そして扇子をぱちんと閉じながら手のひらにそれを打った時、彼女の表情は何かを強く見据えたように固く一変する。
「会長の私に迷惑をかけないで欲しいと言いましたが、そのようなこと構いませんので、存分にしてくださいませ」
どのように戦っても良いというお許しが出たのだ。
純一は、隼人ともジュールとも顔を見合わせた。
「東條殿、礼を申します」
隼人より先に純一がそう言い、彼女の背に頭を下げていた。
それに合わせ、義弟の隼人とジュールが共に頭を下げる。
「ふふ。純さんは相変わらず。昔から、そういう『お兄様』なのよね」
彼女も昔と変わらない蘭子嬢の微笑みを肩越しに見せてくれていた。
やがて彼女の付き添い人が『開始のお時間です』と声をかけてきた。
「では、いきましょうか。『御園さん』──」
扉へと向かった蘭子は、その艶やかな姿に胸を張りながら、隼人に向かって腕を求めていた。
つまり、今宵の女主人のエスコートをして欲しいという要望。
女主人をエスコートできると言う事は今宵は一番の名誉にあたる。隼人もそれが解ってか、少しばっかり怖じ気づいた顔になっていた。
「私で構いませんか?」
「勿論よ。御園の婿殿が来るとあって、今宵は皆、貴方に注目しているわ。私もそれにあやかるの。皆の視線を集めるのは、女主人として当然でしょう」
「ごもっとも」
隼人もそんな蘭子の調子に慣れてきたのか、直ぐに愉快に楽しもうとしている笑顔に変わった。
隼人もすっかりその気になって蘭子が掴まる腕を差し出す。そこに白い手袋をした蘭子が腕を通し、隼人の隣に寄り添った。
「あら、意外と背が高いのね。長身の純さんの横では損ね。それに腕も逞しいこと」
「これでも甲板要員でしたからね。力仕事は得意ですよ。特に『縁の下』の仕事、空に発進させる仕事などは僕の専売特許ですから」
「まあ、言ってくれるわね。それって戦闘機もそうだけれど。奥様もってことね。流石、婿殿」
高らかに笑う蘭子は、隼人のエスコートにすっかりご満悦。楽しそうに扉へと二人で向かっていく。
「ジュールはついてきなさい。黒猫さんは、扉を出たらそこまでよ。分かっているわね!」
何故か純一にはきつい彼女。
純一はハイハイと呟きながら、サングラスをかけて黒いスーツの襟元を正した。
彼女の合図で、扉が開けられる。
円形のホールが目の前に現れた。
色とりどりの花々が散りばめられている淡いピンク色の会場。
そこには既にウェルカムドリンクのシャンパンを片手に華やいでいる紳士淑女達が。
蘭子が優雅に姿を現すと誰もが笑顔でこちらを見たのだが……。その隣にいる白いスーツを着込んだ男性を目にして誰もが驚いた顔のまま表情を止めてしまった。
この時、純一は蘭子に感謝をしていた。上等の演出をしてくれた。ほら見ろ。例の若僧社長など、気のせいかも知れないが『やられた顔』をしている。純一は心の中で囁く。『当然だろう。義弟はお前などとは格が違うのだから。お前が頑張ったとしても、蘭子嬢のエスコートが出来るのはもっと先だ』と……。その笑みを堪え、純一はそっと扉を出て直ぐの壁際に護衛の姿勢で立った。
蘭子のサポートで、義弟はついにこのホールで御園の名をひっさげて出ていった。
やがて、誰もが蘭子の方へと歩み寄ってくる。いや、蘭子だけじゃなく、『近頃噂の御園婿』を拝みに寄っていくのだろう。ただ一人、悔しそうな男を残してはだが。でも、その男も寄らずにはいられないはずだ。何故なら、隼人の横に静かに付き添っている黒いスーツ姿の金髪の男が手にしているアタッシュケースには、彼自身が欲しがった『家宝』があるのだから……。
そして、それはまたその男だけではなく、誰の目をも釘付けにしていく。
「ふふ。今宵のオークションは盛大になりそうで楽しみだわ」
蘭子が高らかに笑うと、それについてくるように皆は口々に『楽しみだ』と囁き合っていた。
だが、皆が蘭子を取り囲む中、純一がいる真向かいの壁際に一人の老人が椅子に座っている。
なんとあちらも負けずと? 真っ白い三揃えのスーツ姿。
(篠原会長──)
純一の視線はそこに暫く留まる。
彼はいつもそうなのかもしれないが、非常に不機嫌そうだった。
さて、純一が一番気になるのはワイド……なんたらとかいう小僧よりも、その会長。
彼が御園の両親から指輪を引き出す為に若い者と共に面白がって言い合っていたとかいう冗談。ただそれだけじゃないと純一は睨んでいるのだが……。
その真意は如何に。
・・・◇・◇・◇・・・
「では、空母甲板要員で奥様を空へと送り出すポジションを……」
「まあ、素敵ですわね。それなら、お二人は空母甲板で結ばれたようなものですわね」
「挙式も空母で盛大に行われ、隊員達の祝福を受けたとお聞きしておりますよ」
本当に。俺が喋った訳でもないのに、皆様よくご存じで……と、隼人はもう少しで引きつり笑いになりそうなのを何とか何とか堪えて『そうなのですよ』と気の良い笑顔での応対に努めていた。
東條蘭子会長の助けもあって、紳士淑女達の中へと身を投じた滑り出しは、まあまあ好調といったところかと、隼人は一安心。手にしているシャンパングラスをゆっくりと傾けた。
ジュールから前もって覚えておくように言われた財界人の男性達にも囲まれて、さて、どうしようかと思ったが、ここは『軍隊』で、細川やら永倉やらロイと言った上官を相手にしていると思えばいいという心積もりで、隼人は笑顔で接する。
だいたいの社長達は、やはり空軍や甲板での話、中には今、隼人が工学科で手がけている仕事も噂で聞きつけているとかで、その質問もされる。大手の宇佐美重工と組んでいるとなれば、それは割と大仕事。それが如何ほどか気になるのも経営人としては当然といったところか。そんな話題も上ったりした。
奥方達は、葉月の事を知りたがる。勿論、そこは『事件の当事者』としてではなく、『御園のお嬢様』や『大佐嬢』としてだ。そこも当然の『話題』。隼人も快く答える。奥様達は上手く話題を提供してくれ、逆に助かるし、ここは『お嬢奥様のアピール』にはもってこいだから、隼人は大いに葉月の日常を口にした。
「それにしても、御園のお父様が入院とは大変でしたな」
「はい。ですが義父ももう歳だと言っておりまして、今回は大人しく養生する覚悟を決めたようです」
「私もお父上とは同世代、他人事ではありませんね。しかし、お父様のゴルフの腕は素晴らしく、久しぶりに良いゲームが出来る相手と巡り会えたと思えていたのですが……。お疲れだったのでしょうな。お大事にとお伝え下さい」
穏和な言葉をかけてくれたのは、近代鉄道の社長だった。
彼は『お疲れだった』と言いながら、まだ隼人を取り囲む輪から外れているワイドリンクの青年社長とその取り巻きのようにいる若い社長達の輪へちらりとみやった。
どうやら、彼は味方か? 彼等が若さと財力と勢いを振りかざして御園当主夫妻をいじくりまわしていたことを、面白く思っていないと隼人は感じたが……。まだ、様子見だ。
しかし隼人もその見舞いの気持ちを素直に受け止め、『有難うございます。きっと義父も喜びます』と返すと、近代鉄道の社長はほっとした顔をしてくれた。
そんな社長は隼人に一声かけ終わると、さっと身を翻し、壁際へと去っていく。そこには隼人も先ほどから気にしている白い三揃えの篠原会長がいた。どうも古参の者は、蘭子の顔をまず立てたら『ゴッドファーザー』の元へ行くのがお決まりみたいだ。そして主人が去れば、そこは奥方も去っていく。
その波が引けた頃、やっと例の青年と目が合う。
隼人より少しばかり若いと聞くが、彼からはその飛ぶ鳥を落とす勢いとかいうオーラを感じる。つまりは、『自信たっぷり』ということ。
彼が新しいシャンパングラスを手にして、隼人の前にやってきた。
「おかわりは如何ですか」
「有難うございます。岩佐社長」
「あれ、僕のこと存じてくれておりましたか。光栄です。御園中佐」
彼が差し出してくれたシャンパンを、隼人は快く受け取った顔をして先に持っていたグラスと交換する。
勿論、ここは礼儀として、隼人も新しいシャンパングラスをジュールに持ってきてもらい彼に御礼返しとして差し出した。
彼も笑顔で受け取ってくれる。
それできちんと二人で向き合い乾杯をした。
そのシャンパンを飲み干した岩佐。ふうと一息ついて晴れ晴れとした顔で話しかけてくる。
「いえね。僕は運良くここまでこられたわけですよ。この世界に仲間入りさせてもらって、この会の噂を耳にしましてね。密かな噂なんですよ。ここに招待されなくちゃ、一流じゃないって。お陰様でなんとか仲間に入れてもらえた訳ですが、ご覧の通り、ベテランの先輩ばかり。今夜は同様に若い方に出会えて嬉しいですよ」
なるほど。口は上手いなあと思いながら、隼人は笑顔だけ浮かべてシャンパンを味わう。
「ですが、岩佐社長の周りにはお若い社長さん達もいらっしゃるではありませんか」
「ええ。あちらも先輩達ですが、お兄さん方と言った方がよろしいでしょうかね」
『それは良いですね。頼りがいありますね』と、隼人は先ほどまで彼がいた輪にいる若手の社長達の顔を見た。
どうやらこの『華夜の会』では、三つの輪が出来るようだ。一つは隼人の背後で奥様や令嬢の相手をしている蘭子が中心の『淑女陣』。一つは壁際の『ゴッドファーザー』に準ずる『年輩社長陣』。そして三十代の岩佐の勢いを借りて年輩陣とは反りが合わない顔をしている四十代前半ぐらいの『若手社長陣』。
それを知って、隼人はこの会の中である程度の派閥争いのようなものが静かに起きていて、そこへ運悪く御園両親が巻き込まれた……という感じを受けた。そして若手の彼等は、御園の両親はこの会の創設者であるレイチェルの伝統をしっかりと守っているだろうあちらの篠原会長サイドの人間と見定めたことだろう。その上で、さらに古参陣彼等の象徴であるレイチェルの家族『御園家』を傷つける事、または、そこから『冠』を奪う事で、ここに集まる財界人らの上に立とうという野望を持ったのではないか……。そんな背景を掴み取った気がした。
ということは。今は笑顔で『同じ若い仲間』と言っている彼は、この御園婿の隼人をそちらに引き入れようとしているのか。はたまた……。こちらもまだ警戒中だが、直ぐには邪険にしない。
だが、そんな隼人の『様子見』の間も吹き飛ばす程のことを、岩佐は口にする。
「その付き添いの方が持っているのが、例の指輪かな」
ストレートに来たので、隼人はどっきりとしたが、やはり隼人に近づいてきたのは派閥云々ではなく『率直にそれが目的か』と思った。
だが回りくどくなくて、まあ、やりやすいかと、隼人は『ええ、まあ』と濁しつつ笑顔で答える。
「今夜は奥さんも来てくれるかと楽しみにしていたのに残念ですよ。御園さんも、軍服で来るのではないかと楽しみにしていたのに」
「妻は私より忙しい人ですから。それに私も今宵は『中佐』ではなく、『御園の人間』としての心積もりで来ております」
「そっか。奥さん、パイロットだったとかで色々と話を聞きたかったなあ……」
岩佐の目的は、もしかして指輪だけじゃなく、『葉月』もかと隼人はふと思う。
こういう男は今までだって幾らでもいて、幾らでもはね除けてきた隼人としては、不安も何もないが、やはり『要注意』だ。
「それとも。大事にしまっておきたいんですかね、御園さんは。ほら、奥様、事件で大変な目にあった訳でしょう? 日頃は大佐嬢としてしっかりされているようだけれど、貴方の前で素になってしまって結構大変なんじゃないかな。やっぱりあるのでしょう『PTSD』──心的外傷後ストレス精神障害っていうんでしたっけ? そういうご主人の労り方、男性として参考にしたいなあなんて思っているのですよ」
『なるほどね』と隼人は静かに答えながら、シャンパングラスを傾けたが、実際には心の中ではぐわっとした荒波が盛り上がっていた。
つまり、御園の両親もこうやってちくちくやられた訳だ。おそらく義父と義母の場合はもっと事件の核心に触れられたのだろう。それを思うと、隼人は今にもそのにたついている青年の無精ヒゲの顔に、持っているシャンパンをぶっかけたい思いに駆られた。
だがそこはこうして美味しいシャンパンで一呼吸。もう一度、笑顔を作り直す。すると、そこまで隼人をえぐった岩佐は少しばっかりおののいた顔を見せてくれた。
「たいしたことありませんよ。普通に接していますから。たぶん……岩佐さんがそんな女性の恋人になっても、素敵な男性ですから? なんなくその女性の心を受け止められると思いますよ」
つまりは、『こんな俺よりいい男なんだから、聞かなくてもちゃんと分かるでしょう』という隼人の切り返し。
彼がちょっと言葉に詰まっている。そして、彼も隼人に置いてかれまいと何かを言おうと口を開いたそこを、隼人はさらにねじ込むように言い続ける。
「それから『労り方』ですが、貴方が想像している通りですよ。私がわざわざ言うほどのことではありません。当たり前過ぎてきっと『つまらない話』になってしまいますから」
素敵で格好良くてやり手の貴方は何でも持っていて知っているだろうから、こんな一介の男がいちいち話す事はない。
そんな隼人の『攻撃』が効いたのか、だったら格好良いやり手の社長さんは、それ以上何を問えばいいのか咄嗟には思いつかなくなってしまったようだ。
「あら、ほほほ。やはりお若い者同士、仲がよろしいこと」
ほどほどのところで、きっとそれとなく見守っていただろう蘭子が間に入ってきた。
隼人は此処でもすかさず、静かなる攻撃の手は緩めなかった。
やってやらねば。御園の両親を餌食にしたのだから、『言い過ぎ』、『やり過ぎ』だなんて心配はいらない。『思い切りやってやる』。それが今夜の隼人の決意。
「有難うございます、会長。私と同じ三十代の若い男性も、『招待してくださっていた』のですね。ほっとしました」
御園の自分が招待されたから、それに合わせて、若い社長も招待された。つまりは御園の自分が招待されたから、君もここにいるのだという意味。
それの意味が通じたのか、流石の余裕で『妻』をも餌食にしようとしていた男の顔が歪んだ。そして隣の蘭子もハッとした顔に。
だが、隼人は『勘違い』とも『言い過ぎ』とも『やり過ぎ』とも思っていないから、蘭子ににっこりと微笑みかける。
すると蘭子もふと、呆れたような微笑みを見せ言ってくれた。
「ええ。婿殿がおじ様ばかりでは退屈してしまうかと思っておりましたのよ。ですから、岩佐さんがいれば大丈夫と思いまして、お呼びしましたの」
……やった。彼女が味方に付いてくれた。
隼人は心の中で小さくガッツポーズ。でも、まだまだだ。
「お気遣い有難うございます。ああ、でも私は軍隊で『怖いおじ様』には慣れているから大丈夫ですよ」
「まあ、それもそうでしたわね。気が付きませんでしたわ」
蘭子の方が頬が引きつり始めている。
彼女も『婿殿、言い過ぎ』と思ったのだろう。さっと扇子を広げて顔を隠してしまったが、なんとか合わせてくれる。
だが目の前の岩佐はもう、表情が強張っていた。
『別にこの男の招待はいらなかったのに』と、隼人は突きつけたのだ。
「オークション、楽しみにしていますよ」
彼はそれだけ言うと、かなりの真顔で去っていく。
岩佐が若手社長陣の輪に戻ると、早速、強面で他の者達とヒソヒソと話し合っていた。
「まったく。よーく分かりましたわ。あの純さんが貴方を持ち上げる訳が」
「これぐらいではまだまだ。じゃじゃ馬の後ろは歩けませんからね」
「なるほど。場数は踏んできたという訳ね。それなら安心したわ。貴方、一人で篠原会長にご挨拶、出来るわね」
その方が、篠原には印象良くなるのではないかと蘭子に言われ、隼人も覚悟する。
岩佐を最後に、初めて来た御園婿への挨拶も終わった為、隼人は蘭子の顔を立てて壁際にいる篠原の元へと向かった。
椅子に座っている彼の側には、ガタイの良い黒服が一人。
純一のような護衛のようだ。
その男を従え、杖を持った老人……とも言い難い白いスーツ姿の男性の前に隼人は向かう。
「ご挨拶が遅れて失礼致しました。初めまして、御園隼人でございます。今宵はご機嫌いかがですか?」
軽く頭を下げた後、隼人は彼の目を真っ直ぐに見る。
確かに老人なのだが、やはり眼の輝きは恐ろしいものがある。そして人相。その人相は、まだまだ人を恐れさせる威力を失っていない。肌は衰えても、彼は気力でその強さを保っているのだろう。
ぎゅっと結ばれている口元は、ちょっとやそっとでは開きそうにない雰囲気だったのだが。
「今宵はまあ、機嫌は良いかね。婿殿はどうかね」
淡々とした声が割と早く返ってきたので、隼人はハッとし、直ぐに返事をした。
「お陰様で。噂で聞いていた御園の祖母が創ったという夜会にお誘いいただけまして光栄に思っております」
彼は『うむ』と返事をしただけだった。
それ以上は何も言葉もなく、それも予想通りだった為、隼人は早々に挨拶をしてそこを去ろうとしたのだが。
「婿殿、早くオークションを始めてくれないかね。それを楽しみにしていたのでね」
彼の目がキラリと光り、隼人は何故か硬直してしまった。
……彼も、指輪を狙っているのか?
古参か新参か、どちらの派閥がレイチェルの冠とも言える『鮮血の花』を競り落とすか。それもあるのだろうか!? 隼人はそう思った。
ともかく、この品をここに持ち出してきた以上、純一の言葉を信じて、差し出すしかない。
「では、ひとしきりお食事も落ち着いたようですから『いつものお楽しみ』を始めましょう」
それでも蘭子はその場を盛り立てようとしているのか、陽気な声を張り上げて『開幕』を宣言した。
今夜の出品は、この『鮮血の花』だけだと蘭子が言っていた。それほどに、他の者達も注目しているという事、そして、誰も『鮮血の花』が出品される日に、自慢できる出品が出来ない、つまり怖じ気づいたということを蘭子が教えてくれた。それだけ『ピジョンブラッド』の秘宝が凄いと言う事だ。
「さあ。今宵は皆様お待ちの『鮮血の花』。ついに御園家が『これが慈善事業のお役に立つなら』と、出品を決意してくださいました!」
蘭子の進行に、皆が固唾を呑んでいる。
壁際の篠原はじっとこちらを見据え、岩佐は何か作戦があるのか、若手社長達としきりに言葉を交わし合っていた。
「婿殿、こちらへ」
蘭子に中央の丸テーブルに連れて行かれ、そこに置くように指示される。
隼人はジュールと顔を見合わせ、頷き合う。それと同時にジュールが手にしていたアタッシュケースが中央のテーブルに置かれた。
白手袋をはめたジュールが、丁寧にアタッシュケースを開けようとしたのだが。
「あら。少しだけお待ちになって、婿殿」
蘭子に止められ、隼人とジュールは彼女に振り返る。
……どうしたことか。その蘭子が扇子を広げて、またクスクスと笑っている。
何が言いたいのだろうかと進行を止める蘭子の目を確かめる。彼女はまるで何かを企んでいるようで、そして楽しんでいるようだった。
「皆様、今宵は、もう一つ出品がございますの。わたくしのところに『是非』と願い出てくれたお品です」
中央にいる蘭子がそう嬉しそうに叫ぶと、周りがざわついた。
誰もが、鮮血の花に並んでも見劣りしない品などないだろうと遠慮をしたのに、同じ夜に『願い出てまでの出品』があるという。
隼人にもそれはまったく予想外の事で、思わず、壁際で控えている純一へと視線を走らせた。だが、純一も驚いているのか、小さく首を振っている。
「では、どうぞ!」
そんな内に蘭子の合図で、隼人が出てきた扉が開いた。
純一が立っている直ぐ隣の部屋だ。
そこに現れた女性を見て、隼人はとてつもなく驚き……唖然としてしまった。
なんと、そこには真っ白な軍正装をばっちりと決めている『妻』、葉月が立っていたのだ。
「蘭子さん……!?」
「ふふ、婿殿、ごめんなさいね。実は私、貴方を気に入る前に、あっちのおちびちゃんを気に入っていたという訳なの」
隼人は『え?』と思った。
一瞬、彼女が何を言ったか直ぐには理解できなかったが、つまり?? 隼人より前に、妻の葉月が『出品』を決めていたと言うこと?? それとも??
まったく判断つきかねた。
だがそんな風に隼人が慌てていても、立派に大佐の肩章と金モールを付けている白正装の妻が歩み寄ってくる。しかも、同じように真っ白い正装のリッキーを側近の如く従えていた。そんな彼の手にも、ジュールが持っていたようなアタッシュケース……。
もしや……!?
「まさか、お嬢様……」
ジュールも気が付いたようだ。
それは純一も。だが、そこは動きたくても動けないもどかしい顔のまま、純一はなんとかその場に踏み耐えたようだ。
それにもう、遅い。
隼人の目の前には、凛々しい軍服姿の妻が優雅に微笑み向かい合っていた。
「こんばんは。旦那様」
「葉月──」
昔から変わらぬ葉月の不敵な微笑みを、隼人は見る。
それを見てしまうと、なんだか、もうどうにも出来ず彼女の思うままにさせられてしまう。隼人はそれを重々解っている。
だから、隼人も腹をくくった。何が起こるかなんて、その時はその時! と──。
中央のテーブルに、二つのアタッシュケースが置かれる。
そしてテーブルの前には、真っ白い服を揃えている夫と妻が紳士淑女達に向かっていた。
「ジュール」
「リッキー」
お互いに付き添わせている男達に二人は声を揃える。
ジュールもリッキーもいつもは天敵の顔をしているが、今宵は一発で息を合わせたようだ。二人は白い手袋をした手で、丁寧にアタッシュケースを開ける。そしてビロードのトレイにそれぞれの指輪を乗せ、それぞれの主人に差し出した。
白いスーツ姿の夫が手にするトレイには、赤い指輪が。
白い軍服姿の妻が手にするトレイには、青い指輪が煌めく。
それを目にした会場の者達は、感嘆の溜息をこぼした。
「御園家当主より出品の『鮮血の花』です」
「わたくし、御園家次女が所有の『海の氷月』です。こちらをお役立てくださいませ」
白き姿を揃えた夫妻は、同時にそのトレイを会場へと差し出していた。
思わぬウサギの参戦。
さあ、どうなる?
Update/2007.5.22