その男は、いつでも直ぐに飛んでくる。
どんな手立てを使ってでも、ボスが『来い』と言えば直ぐに……。
「お元気そうですね、ボス」
丘のマンション、純一の仕事場に紺のスーツ姿で凛々しく現れたのは、ジュールだった。
「忙しいところ、悪かったな」
今はイタリアの会社はほぼジュールに任せている中、そんな彼を純一は呼びつけた。
だから、今や好き勝手に気楽なフリー業で過ごしている純一としては、少しばかり申し訳ない思い。だが、純一がそんな緩い微笑みを投げかけた途端、ジュールの顔が険しく歪んだ。
「とんでもない。お家が馬鹿にされているとなれば、こちらが『一大事』。話を聞いて、はらわたが煮えくり返ってすっ飛んできたのですからご安心を」
その顔のまま、ジュールは持っていたアタッシュケースを勢いよくテーブルの上に置いた。
彼は、直ぐに上等に着こなしている紺のジャケットを脱いで、椅子の背にかけた。
その仕草はとても急いでいる。
「直ぐに始めます。時間がありませんから。それから『若槻社長』も、直にこちらで密かに手伝ってくれることになっています」
「そうか。頼もしいな」
すると、ジュールの妙に勝ち誇った笑顔が向けられた。
「当然でしょう。私と若槻社長が組んだら『マネーゲーム』など簡単ですよ」
純一はその大いなる自信におののいて、ちょっと呆れた顔で『よく言った』と褒めてみた。
そう……。今回、ジュールを呼んだのは、その『マネーゲーム』を仕掛ける為だった。
オークションの後に、仕手戦をする。仕掛けるのは向こう側になるが、ジュールはその時期を読みとって参戦するのだ。その為にはある程度の準備期間が必要だ。その為に急遽、小笠原にお忍びで来てもらった。
こういった経済方面の戦闘では、ジュールが一番の戦闘員だ。
もっと手堅く仕掛けていく為に、もう少し時間が欲しいと純一は思う。だが残念な事に、二週間しかない。そんな状況の中で、ジュールに無理かと依頼したその時、冷ややかに笑う彼の顔が思い浮かぶような淡泊な声が返ってきた。──『二週間ですか。それはいつになくスリリングな条件ですね。面白いからやります。暫くそういった条件の悪い駆け引きとは無縁になっていたので、楽しみですね』──と、淡々と言い切っていたのだ。
これから、ジュールは二週間後のオークションの日を境とした『ゲーム』が仕掛けられる日の為に準備に入る。つまり『相場師』となって株を動かしていくのだ。
「向こうの部屋に、一式セッティングしておいた」
「分かりました。では、人目に触れないよう、二週間ほど籠もらせて頂きます」
「不自由させるな。隼人は明日の夜、顔を見せに来るそうだ。しかし、葉月は……。あいつに今お前を見つけられると困るんだ。ジュールが仕事できていると言っても、今の何かを感じ取っている状態だと『何かの為にジュールが来ている』と悟られてしまう。その『何か』を知られたくないからな」
「お嬢様、勘がよろしいですからね。お会いしたいのも山々ですが、今回はそれもお嬢様やご家族の為、喜んで『山ごもり』致しますよ」
ジュールは爽やかに笑うと『では、早速』と、彼が戦える場所として用意した奥のゲストルームへと姿を消してしまった。
その背を見送りながら、純一は確信していた。
あの弟分は、きっとやる。経済の世界では純一以上に修羅場を通ってきた男だ。
オークションの日を境に株を上手く動かしてくれるだろう。
しかし、純一が思い描いている『シナリオ』は、マネーゲームの亡者になっている若僧達を潰す為ではない。
その為には、巧みに株を動かしてもらわねばならない。
何故なら、目的は『マネー』なんかじゃない。彼等が築き上げたマネーの城を崩壊させるつもりなどない。
このゲームのシナリオの主役は『指輪』なのだ。
純一はそのシナリオを思いながら、そっと笑う。
「迷信を本物にしてやろうじゃないか?」
迷信であってもなくても──。『御園』に安易に触れたら痛い目に遭う事を、きっちりと教え込まねばならない。
その為には今回は『迷信』を使うだけの事。
純一の微笑みは、そんな意味のものだった。
・・・◇・◇・◇・・・
湯煙の中、隼人は深い溜息を漏らしていた。
また、面倒な事が起きたなあと思う反面、義兄から報告された内容に、心の底から怒りを感じていた。
妻と御園の家族がここまで落ち着くのに、どれだけ苦しい思いをしたか。それは家族と寄り添ってきた隼人だからこそよく分かっている事ではあるが、『凄惨な事件に遭遇した被害者本人と遺族』と分かっていて、それを『欲しい物を手に入れる為に利用する』という、その『無神経さ』が許せないのだ。
まともな人間なら、よく分かっていなくても、それぐらい『哀しく大変な事だった』と察する物ではないか? やはり、神経が狂っていると思う。
そんな溜息をついていたのだが……。
「ちゅーちゅーにんげん、ロックオン!!」
ちゅーちゅー人間ってなんだ? と、隼人がその声に呼び戻されるように目を開けた途端だった。
丁度、眉間のところに、しゅばっと一筋の湯が襲いかかってきたのだ。
海人だ。今、一緒に入浴している息子の海人が、お気に入りの『水鉄砲』にて、目の前で考え事をしていた父親に命中させたのだ。
「今度は、パパ抱っこチビコアラに、ロックオン!!」
今度は、隼人が湯船の中で膝に抱いている娘、杏奈に狙いを定めていた。
隼人パパが『ぎょ』とした時には既に遅し、お気に入りのアヒルのおもちゃと遊んでいるご機嫌な娘の顔にも、びしっと水鉄砲から飛び出た湯が命中。当然ながら、愛らしい娘の顔が徐々に泣き顔に崩れてきた。
「あーーーん!!! ぱぱー!!」
「よ、よしよし。びっくりしたよな!?」
隼人パパの足をよじ登ってくる杏奈は、パパの首に掴まって大泣き。隼人は黒髪の小さな娘をぎゅっと抱き留める。
「こら、海人! いつも言っているだろう? 水鉄砲は顔に向けちゃ駄目だと。特に女の子の顔は絶対に駄目だ!!」
「ちゅーちゅーぱぱ、ロックオン!」
それでもめげずに、父親の隼人には水鉄砲を向けてくる海人。
そのなにかを曲げない強さ、その目は、母親が大佐嬢の時にそっくりで、息子がやんちゃだとはいっても、時々どっきりとさせられる目なのだ。……なんて、一瞬の隙をつかれ、また隼人のおでこが息子水鉄砲標的の餌食となる。今度は隼人も反撃。息子が向けている水鉄砲を取り上げようとしたのだが。その時、海人が急にバスルームの外へとぴくっと反応した顔。取り上げようとした水鉄砲の先がパパの手先を上手くすり抜け、今度はドアへと向けられた。
そしてそのドアが急に、開いたではないか……? 誰かが来ると気が付いた息子のその『勘』に隼人は驚く。だがそれも束の間、開いたドアには、今度はママが立っている。
「何事? 杏奈が泣いているじゃないの?」
「──大佐、ロックオン!!」
そこをすかさず、海人兵器がついに発射された。
今度はママが着ている花柄のスカートに命中。
「きゃっ! こら、海人!!」
「やった。全機、ロックオン命中〜〜〜」
葉月はお気に入りのスカートを濡らされて、おかんむり。海人にガミガミとお説教が始まって、風呂場はとても賑やかになってしまった。
もう、隼人は怒る気もなくなった……。
現役を引退したばかりの葉月ママ。ラストフライトを一緒に見守ってくれた子供達は、ママの飛行を目にするのは最初で最後だった。それでも海人はとても感動した様子で、それからママにしつこくフライトの事を聞いてくる。その中で戦闘機の操縦はこうしてやるんだと、ママが遊びで教えている中で海人が知った『ロックオン』。海人はそれから何かにつけては『ロックオンごっこ』をするのだ。
まだぐずぐずはしているけれど、泣きやんだ娘を抱き上げてお風呂はお終い、もうあがる事にする。
脱衣所で、まだぶつぶつと言っているママと一緒に、子供達の濡れた身体をバスタオルで拭く。
葉月は娘を、隼人は息子を。
「杏奈、明日はどの髪飾りにする? 赤いリボン? それともお花の髪飾り?」
「おほしさま」
「うん。おほしさま、ね。準備しておくわ」
こちらは『女同士』。
肩まで伸ばしている娘の黒髪は、とても手触りがよく、そして艶やかだった。真っ黒な髪と、真っ白な頬、そして小さなつんとした唇がさくらんぼうのようで、何度見ても可愛らしい。その娘が、穏やかに微笑むママを目の前にして、先ほどの泣き顔も何処へやら。とても安心した嬉しそうな顔で、じいっとママばかり見つめているのだ。
そんな葉月も娘を目の前にして、愛おしそうに黒髪を拭いている顔はとても優美……。
隼人は息子の身体を拭きながら、ついつい横目で何度も見てしまっていた。
「パパ、ごめんね。杏奈にはもうしないよ」
「わかった。男でも女でも、顔は駄目だぞ」
「うん」
こちらは『男同士』。
約束だぞ。という、拳と拳をごっつんと合わせる。
「濡れたついでに、このままお風呂に入っちゃってもいい?」
「ああ、いいぞ。子供達、俺が先に寝かしつけているから」
「有難う」
裸で走っていく子供達の後を、隼人も追う。
バスルームのドアを出る前に、隼人は肩越しにふっと妻へと振り返る。
白いカットソーとスカートは既に脱ぎ去っていて、丁度、スリップドレスの紐を肩から落とすところだった。
その色香が漂う後ろ姿に、隼人はまた、見とれている。そして妻がこちらに気が付いた。
「な、なに?」
少しばかり照れている顔を見て、隼人は微笑む。
「部屋で待っていろよ」
「え……。うん……」
また妻は照れて、今度は背を向けられてしまった。
それがどういう意味か。夫妻だけの合図。
昨日、横須賀出張から帰ったものの、夜遅くまで隣の主人『達也』と、義兄の純一と、御園の両親のことや今後について話し合った為に遅くなってしまったのだ。達也の家で男三人顔を突き合わせて話していたのだが、隼人が自宅に帰ると、もう、葉月は子供達と一緒に眠っていた。
週末も堪えた上に、今夜になってそんな姿を目にしたら、もう……。
葉月も分かっているのだろう。いつまでもこちらを見ている夫の目線を気にしている。まるで彼女が全裸になるのを待っているかのような、その夫の視線を。だけれど、葉月は諦めたかのように全てを急いで脱ぎ去ると、さっとバスルームに姿を消してしまった。
パパとママの時には恥じらいもなくなるが、こう言う時はまだ男と女だった。その時に見せるウサギの照れを……まだ楽しんでいる男がここに一人。
隼人はニンマリとにやけながら、そこを出る。
「パパ。なに笑っているの?」
「ぱぱ、にこにこ、どうしたの?」
「へ?」
兄と妹と並んで裸で待っていた子供に問われ、隼人はドキッとする。
近頃の海人はなんでも『つっこみ』をしてくるし、思わぬ事を目にして質問してくる事があるのだ。
「……うーん。パパもおじさんになったなあと」
「スケベおやじ?」
まったくその通りの意味の『おじさん』だったのだが、自分なりにぼかしたつもりが息子にズバリと言われてしまい、隼人はまたまたドキッとさせられる。
その息子が、ちょっと冷めた目──いや、ママが大佐室で人を動かす時にみせる平坦な顔の目で、父親の隼人をびしっと指さしたので、隼人はおののく。
「ママが裸になるの、ずっと見てた」
「ぱぱ、えっち」
『図星』のパパ……。
お兄ちゃんの真似をする杏奈にまで、ちょっと冷めた目で指さされ、パパは益々たじろぐばかり。
「いやー。ママが綺麗だからさあ……」
勿論、『咄嗟』に出た誤魔化し。
だが、そういうと海人も杏奈もちょっと驚いた顔をして黙ってしまった。
「ちゅーちゅーパパは、ほんとうにママが好きなんだね」
「だから、海人? その『ちゅーちゅーにんげん』とかなんなのだ??」
「あんな、しってるよ。パパ、おはようで、ちゅー。いってきますも、ちゅー。おかえりも、ちゅー。おやすみも、ちゅー。それでおにいちゃん、パパはママにちゅーちゅーばっかりだから、ちゅーちゅーにんげんなんだって」
娘の説明に、隼人は頬がかあっと……。子供達の前でも熱くなってしまった。
「そ、そんなにしていないとおもうけどなあパパは。ま、毎回じゃないだろうし」
……何故? 子供達の前で、めいっぱい言い訳をしている自分がいて、隼人ははっとした。
特に海人。本当に近頃、侮れない。お嬢様ママがちょっと落ち着いた大人になったと思ったら、今度はその息子が隼人を翻弄する近頃。ウサギの子は、やっぱりウサギのようで、隼人は息子の思わぬ着眼点に、心臓をどかっと蹴られたような気持ちになる事が増えてきた。
「なんだか言い訳っぽいよ、パパ」
「ぱぱ、いいわけ、いいわけ」
「ちがーう!! さあ、裸でいると風邪ひくぞ。こっちに来なさい!」
パパが怒った時の言葉遣いと顔で叫んだのに、子供達は『きゃー』と笑いながら逃げていく。今日のところは痛くもかゆくもないようで……。
まったく、この生意気さは絶対に奥さん似だと隼人は溜息をついた。
ママが入浴中に服を着せ、寝る支度を済ませ、二階の子供部屋に向かう。
今、海人と杏奈は同じ部屋で、小さなベッドふたつをくっつけあって眠っている。
そこに子供達と横になると、ものの数分で二人とも寝付いてしまった。
……でも、パパは暫く一緒にいる。
子供の部屋からも潮騒の音。
そして海上の星が見える。
毎回、自分に寄り添ってくる娘の杏奈の甘い匂い。
「ママと似ているな。お前、大きくなったら大変だ」
御園の子は『栗色混じりの髪』で生まれるらしいのに。杏奈だけは、真っ黒で生まれた事は皆が驚いたようだった。
それと共に澤村の顔だと皆は言う。
まるでこの娘が、隼人が婿養子で入っても此処には澤村の血があるのだと、強く訴えてくれているようだった。
それでも念願で憧れだった『登貴子ママみたいな日本人形のような黒髪の女の子』を産んだ栗毛のママは大喜び。特に髪の毛を大切にしているのは、自分の習慣を伝えているかのよう。絶対に長く伸ばして、切らせない。なんて今から言っているのだから。それは大切にして、髪結いも忙しくても欠かさない程だった。
「黒髪でも、御園の子だもんな」
娘のちょっとした仕草に、眼差しが、三歳児ながらどきっとさせられる時がある。
それはママからの血筋なのか、それともママを見て娘がいつのまにか覚えてしまうものなのか分からない。
そのせいか、娘は隼人の職場の男性達には本当に可愛がられる。隣の達也なんか自分の息子と海人には『男だから』と厳しいが、杏奈には滅法甘いおじさんになっている。テッドも毎回なにかしら手土産を持ってきては、姪っ子でも出来た気分とか言いながら猫かわいがりをする。そのせいか、娘はテッドが大好きだ。
それを目にしたリッキーが言うには『昔のレイみたいだなー。アンには周りの皆に可愛がられちゃうなにかがあるね』ということらしく、妙に感心していた。
と、なるとなんだか胸騒ぎのパパ。……まあ、それはもっともっと先の話になると思うけれど? 男親の心配とはこう言うものなのかとちょっぴり切ない味を知るこの頃だった。
「お義父さんも、きっとその度に、こんな気持ちを噛みしめて、でも黙って見守っていたのだろうな」
娘となかなか上手く関われなかった時期があった御園の義父。
異性関係だけではなく、葉月が戦闘機で身も心も削っている時にだって、止める事も出来ずに見守っていただけの……。『隼人君、親はね、一生そうなんだよね。きっと、今もね……。だから心配もさせてほしいし、見守る事もさせてほしい』──いつか亮介がそう言っていたのを隼人は思い出す。
だけれど、また心の奥底に沈めようとしていた『幽霊の傷』を、生々しく蘇らせてくれた輩に対して、『また、戦っていた』だなんて……。
死んでしまった義姉さんのことを、あのような社交的な場でさらされ、哀しくて千切れそうな心を再度いじくられ。知っている者は決して手を出さないだろう『秘宝』を、御園を思っての姿勢を借りて畏れ多くも手を出そうとするとは、本当に『怖いもの知らず』。
何故、御園が『門外不出』にしていたのか、純一に改めて聞かされ、隼人も次期当主となるだろう婿として『門外不出』は守らねばならないと心を改めた。
迷信もある。だが迷信などなくても、事実、あの指輪は本当に『血』を吸い続けてきたと思う。レイチェル祖母の昔の家系が騎士だったことからも、その時からあっただろう指輪はどことなく血を連想させる。そして、この指輪を渡すか渡さないかで辱められた皐月義姉のことも。それだけじゃない。葉月が参戦した岬の任務でもこの指輪は顔を出し、それを手にしたテロリスト達は死を遂げた。そしてその度に、やはり、御園の手に返ってきている。
そういう情報もきっと、相手の青年実業家達は掴んでいて、それも『迷信』のように思っている部分もあるかも知れないし、『迷信』として利用しているのかもしれない。
「いや、迷信を作るんだ。俺達で」
──家族の為に。
隼人は隣で眠っている娘を、片腕で抱きしめる。
そしてその向こうで眠っている息子を見つめる。
妻が虐げられる事は、将来、子供達の苦難にも通ずる事。
そのようなモノは、一片たりとも許さない。
「やるぞ、義兄さん。俺もやってやる」
子供部屋の窓に見える星々に、隼人は呟いていた。
・・・◇・◇・◇・・・
暫くしてから子供部屋を出ると、丁度二階へと階段を上がってくる妻の姿が見えた。
風呂上がり姿の彼女が、階段を上がりきって夫がそこで待っているのに気が付く。
「大人しく寝たの?」
「ああ。ものの数分」
寝る前はあんなに元気だったのに、あっと言う間だったと隼人が笑うと、葉月も今日も賑やかだったわねと笑い返してくる。
バスローブ姿の葉月。……そう言えば、週末、横須賀のマンションでこの姿を逃したんだよなあと、『おじさん』は思い返すのである。そこでまた、息子に『ちゅーちゅー人間』だとか『スケベ親父』とか言われたことを思い出し、少しばかり吹き出しそうになるパパ。
「どうしたの? 何が可笑しいの?」
「可笑しいさ。まったくチビウサギとチビ姫にやられっぱなしで……。俺が『ちゅーちゅー人間』なんだってさ」
「ちゅーちゅー人間??」
妻の葉月も、首を傾げる。
そこで隼人は、それがどういうことか彼女にも教えた。
おはようも、ちゅー。いってきますも、ちゅー。おかえりも、ちゅー。おやすみも、ちゅー。だから、パパはちゅーちゅーだと……。
やはり、妻もそれを聞いて、頬を染めていた。
「結構、見ているのね? でも、そんな毎回じゃないでしょう?」
「俺も同じ事を言ったよ。そうしたら『言い訳ぽい』って二人に言われた。参るよな〜。これでも二人の目を避けているつもりなのに……。それだけじゃない。さっき寝かしつけている時も、杏奈に『パパはおはようも、いってきますも、おかえりも、ただいまも、おやすみも。そうじゃないときもママにいっぱいしてる』とか言われたぞ。そうかな? そんなにしているか??」
と言いながら。隼人は『しているだろうな』と思っていた。
そして妻は『末恐ろしい子達』とおののいている。
「パパもママも外国が長かったと言えば? 実際に、そうなんだから」
「うーむ。そうだなあ……。でも、杏奈も海人も知らない『ちゅー』があるんだよなあ……」
葉月が笑いながら『なにそれ? そんなのあったかしら』と言うので、隼人はすこしばっかり意地悪な気持ちが湧き起こる。なにも知らない少女のような顔で笑っている妻の手首を取って、自分の胸元に勢いよく引き寄せた。
丘のマンションにいた頃から良く知っている妻の、入浴後の匂い。漂う花の香り……。それが隼人の側でふわっと広がった。
柔らかに洗濯されたバスローブを纏っている身体を、抱きしめる。その耳元に囁いた。
「知らないなら。今からその『ちゅー』をしようかと思っているけれど。『真夜中のちゅー』──」
そう言いながら耳元に口づけると、妻がとても困った顔をしている。
「貴方がそんなこと言うなんて……」
「もう、おじさんだから」
それにも妻は眉をひそめ『なにそれ』と聞き返してきたが、もう子供の話はお終いと、隼人はそのまま葉月の唇を塞いだ。
淡い照明にしてある廊下でひとしきり、待ちに待っていた『挨拶』ではない口づけを堪能する。
その瞬間に、柔らかに崩れていく妻の身体、肌、唇……眼差し。
隼人という男の妻であり、まだ恋人でもある彼女。その全てが、腕の中にやってくる。なにもかもを委ねられ、隼人もそれを待ち構えていたかのように抱きとめる。
そのまま、彼女の手を引いて、寝室へ向かった。
バスローブ一枚の妻を素肌にするのには、もう前置きのような間などいらない。
それが夫妻というものか。彼女の衣服を解く事に躊躇いなどもうない。結婚前の、恋人同士だったような、まだどこか乗り越えていない一線を目の前にして、彼女を推し量って気遣っていたものは、もうない。
あの頃に比べると、夫となった隼人は乱暴かもしれなかった。
こんなふうに……。妻と寝室で二人きりになって、すぐに彼女の衣服をはぎ取って、すかさず、彼女の身体の上に乗るだなんて。
ベッドの上での口づけが忙しないのは、もっと先を欲している心が急くからだ。
先ほど、廊下で味わった濃厚でゆったりとしたような口づけじゃない。今度はベッドでの挨拶の口づけ。でも……今夜は急いでいた。彼女の肌を滑り落ちていく夫の唇は早くも彼女の胸先に辿り着き、そこも今夜は急いでいる。
その時、思った。──今夜の俺はどうしたのだろうか、と。そしてその時やっと我に返り、妻の顔を見下ろす。
「……ど、どうしたの? 貴方」
やはり、ちょっとばかり困惑している顔。
「どうもしないよ」
いや、どうかしている。
隼人の心はそう言っていた。
間もない急かすばかりの夫のやり方では、流石の妻も、まだ潤うはずもないだろう……。と、そんな期待はせずに、でも、急ぐ指先が妻の栗毛の奥をなぞると……。こちらもどうしたのだろう? 夫の予想以上にその身体は反応していたのだ。
その時、隼人は『これはどういうことだろう?』と言いたいが口には出さず、ただ繰り返し指先で確かめながら妻の瞳を見つめた。勿論、その目線の言いたい意味を妻は直ぐに汲み取ってくれたのか、気恥ずかしそうに顔を背けてしまう。
彼女も待っていてくれたのだろうか? 週末のささやかな夫妻のひとときがなかったから?
隼人の指は、それを彼女に問うように動く。むしろ、しつこく……。
「や……。そんなにしないで……」
「どうして?」
妻が黙る。
隼人の指先はそこから進まない。
そこで妻にずっと問うように、そのままだった。
葉月の顔が火照り始めたのか、ほんのりと薔薇色に染まる。
乱れる息を小さくつく口元、なにかに耐えているかのように悩ましい顔で……。
閉じているまぶたが時々うっすらと開くのだけれど、その時、彼女は隼人を見てはくれなかった。
この時、初めて──隼人は悟る。
俺が今日、急いでいるのは……。妻が、俺を、今日、感じてくれないかも知れない。と、そんな不安があったからだ。そんな『認めたくない気持ち』だからこそ、自分の中でも誤魔化していた気持ち。それを探り当ててしまったのだ。
隼人は自分を見てくれない妻の悩ましい顔に心で問う。
お前、今日は義兄さんのこと……考えているだろう?
今日、二人はランチを取った。そんなこと、よくある事だ。だが、義兄がいつになく機嫌が良かったのが、いつもと違う事だった気がした。
ただそれだけの事なのだが……。
決して『言っても認めてもいけないもの』が、何故か今日は鮮烈に湧き起こった。
忘れようと努める。そのジレンマが指先に籠もる。自分だけじゃない。彼女にも忘れて……ほしい……。
「も、もう……いいわ。あなた……もう……」
指を噛みしめて堪えている妻が『あなた』と言ってくれる。
そうだ。忘れるんだ。『分かっていても、忘れるんだ』。隼人は唱える。
でも無くなることはないのだ。妻の、その『もう一つの真実の愛』は。そして無くなったら彼女ではなくなるのだ。
彼女が夫の隼人にも、それをぶつけたい義兄にも、ひた隠しにしているのだから、そんな彼女の心の隅に小さく小さく密やかに息づいている『花』を、隼人は見てはいけないのだ。
だってそうだろう? 彼女はそうして俺のところに帰ってきたのだから。隼人が望んだ姿で帰ってきたのだから。それが彼女が出した答だったのだから。
──そして、隼人はその彼女を、この胸に受け止めて抱きしめたのだから。
気が付けば、その妻の足首を両方掴み押し広げている。
彼女の足を折り畳み、その膝先が乳房を潰すように強く押しつけ、その強引さを夫の特権のようにして隼人はそこに向かう。
だいぶ昔のこと。やや辱めるようなこの姿を思わずさせた時、葉月が怖がるように逃げてしまった事がある。でも今は、なにもかもを許してくれる。なによりも大人になったこの彼女が、こうしたあられもない格好に慣れたふうな一面を見せてくれた時、隼人はとても燃え上がってしまう。そんな男の性を掻き立ててくれた。
彼女はもう、あの頃の少女の面影を残した女ではない。女性という色香を存分に振りまいて夫を誘う花となって咲き続けている。
……俺の目の前で。そう、俺の目の前で。隼人はそう思いながら、いつものように妻と一つになる。
「あ……」
「は、葉月……」
忘れよう、邪念は振り払おうと思うから、なりふり構わずに妻を自分のものにして……。
でもそんな彼女と一つになって一息。シーツの上で悩ましく横たわっている妻は、今度は隼人をじっと見つめてくれていた。
戻ってきたかなと、思った。
「はやとさん」
ふと葉月が微笑む。
優雅に、柔らかに。今、ひとつになっている二人の身体。その瞬間にみせてくれる至福の笑顔。この俺と繋がっているこの瞬間のその笑顔。
それで充分という気がした。
彼女に、その顔で『はやとさん』と呼ばれて、それだけで良くなってしまうほど、隼人は妻を愛している。
妻が隠してしまった真実があることなんて。本当はどうでも良い。そうだった。何故なら、俺はお前がいなくちゃ駄目なんだ。俺がお前を愛していたいんだ。
その原点に戻って、隼人は力強く妻を愛し抜いていた。
耳元に妻の激しく喘ぐ声。やがて力尽きる前の、隼人への艶っぽい囁き。それに応える隼人の口づけ。
いつもどおり。隼人の二の腕には妻の爪痕が残り、背中には多少のひっかき傷。噛まれた指に、小さな歯形までついている。
それを確かめて、隼人は微笑んでいた。
全てがお互いの身体を駆け抜けた後、火照った身体をシーツの上で寄せ合う。
「今夜はどうしたの?」
「別に。いつもどおりだけれど」
「そう? なんか、いつもより強かった……し、うんと熱くて……」
お互いに何かが違うと感じても、俺達夫妻の場合は、それだって『いつものこと』。
妻の心の奥に、ひっそりと咲いている『秘密の花』が枯れない限りは、こんなことだって『日常』なのだ。
そして隼人は知っている。その花は既に『永遠』という名を付けられている事を。そして枯れない事も。それがある限りは、こんな夜がたまにはあるだろう。
それでもこうして、お互いの肌と心を寄せ合い、愛し合う。
──それで良い。
やがて妻も、子供達同様に、直ぐに寝息をたてて眠ってしまった。
変わらなかった。
頼りなげな小さな寝息が、そっと隼人の耳元に届くのも。すうっとひんやりとする肌が隼人に寄り添って眠るのも。
あんなに頑なに警戒していた葉月は、いつからか、隼人の手を探して握ってから眠るようになって。
そして隼人は、愛している彼女の栗毛を腕に指に絡めて、その感触をいつまでも愛でている事も……。
なにも、変わらない。
妻がいなければ、誰も此処にはいない。
俺も、子供達も。そう、義兄さんも。
今夜のように、日頃は目隠しをしているものが外れて、隙間風が吹き込んでくる事があっても……。それでも、隼人は今の生活をとても愛している。
そして隼人に寄りそう栗毛の女性は、間違いなく、隼人という夫の目の前で幸せそうに微笑んでくれているのだ。
彼女だけじゃない。
彼女の家族の誰もが。
この婿となった隼人も含め、この一家は幸せに過ごしていたのだ。
それを、また……。
もう、二度と傷ついて欲しくない。
葉月の匂い。
今夜の熱。
それをもう一度思い返し、隼人もまどろむ。
心の中に、婿としての戦いを決意して。
だが妻も、密かに心積もりを整えている事など、隼人は何も知らなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
『華夜の会』が催される日が近づいてきた。
純一がいつもの仕事をテラスの部屋でしていると、そこのドアが開いた。
「ボス、準備万端ですよ。いつ仕掛けられても、次の仕手戦に参戦できます」
いつもはきちんと顔を整えているジュールが、無精ヒゲを生やした顔でやってきた。
だがその顔は清々しく、自信に満ちていた。
「ご苦労だったな」
「ええ、若槻社長の協力もありましたからね」
その若槻はこの日は仕事で本島に帰っていたが、オークションが終わった頃、また小笠原にお忍びでやってくる予定だ。
「それなら、一休みしたらどうだ」
「そのつもりです。流石にしんどいですね。でも、久々に根を詰めてしまった程のやり甲斐はあって楽しかったですよ」
あのジュールが目の下に隈ができてる顔。その顔には、彼が一番嫌うことが起きたから、必死になったというのが窺えた。
彼が命を懸けても守りたい『家族』の為に、もしかしたら間に合わなかったことを、彼は間に合わせてしまったのだ。
純一が頭を下げて礼を言っても彼は怒るだろう。なにせ、ジュールはもう『家族同然』なのだから。ジュールは今でも一歩引いて遠慮はしているが、それでも心の底では、亮介に葉月を頼むと言われた事も、義妹に『ジュールもエドも、皆、家族よ』と言ってもらえたことを密かに胸に温めて、幸せを噛みしめている事を純一は知っていた。それに近頃、彼はイギリスにいる姉にも度々会いに行くようになったとか……。
「さて、私は一風呂浴びて、休憩に入ります」
「そうしてくれ」
ふらりとジュールが出ていった。
純一もほっと一息つき、心でやり手の弟分に感謝の言葉を呟いていた。
直ぐ隣にある寝室へと純一は向かう。
ドアを開けると、直ぐ目の前の壁には、当日自分が着ていく真っ黒いスーツ。純一は既にネクタイも何もかもコーディネイトをして準備を済ませ、ハンガーに掛けていた。
そして、その隣には、水色のポケットチーフをあしらった真っ白なスーツ。
「ついに観念したか」
あんなに怒っていた隼人だが、あの後、どう気が変わったのか『何でも着る』とその気になってくれたのだ。
義弟には、誰の目も引くほどに『御園家婿殿』としての印象を残して欲しいと思って用意したのだが。
でも、純一は隼人には白がとても似合うと前から思っていた。
さあ、華の夜を楽しむ時間がやってくる。
Update/2007.5.18