この家には、子供が三人いると思った。
今日、それを目の当たりにした気がする。
純一はそう思った。
それと共に、『義弟』は良くやっている。と、尊敬の念が生まれる。
以上に何故か、『隼人、俺はお前に感謝する』とも思ってしまった。
「ええっと、子供達と遊んでいたらこんなになっちゃって」
ちょっと頭痛がする額を指で押さえている純一の目の前には、ちょっぴり気後れしている義妹がいる。
「……隼人は、いつ帰ってくる?」
「ええっと、明日」
「で? お前は今日は、とりあえず土曜日で休みという訳だな」
「うん。隼人さんは横須賀に出張だから、私と子供達と留守番していたの。そうしたら、いつのまにか、こんなになっていてー。それにお隣には、今はあんまり迷惑をかけたくないし」
純一はもうちょっとで『当然だ!』と、怒鳴りそうになった。
その『お隣』とは、義妹夫妻と長年の付き合いがある同僚の『海野家』になるのだが、この義妹は隣の夫人『泉美』にしょっちゅう助けられている。
しかしその泉美夫人は、ここのところ持病が原因で体調が思わしくないらしい。
それで、横須賀基地の工学科で大事な会議があるとかで本島に出張に行くことになった義弟の隼人から『兄さんの仕事が一段落してからでいいから、土曜の夕方にでもちょっとだけ様子を見に行ってくれないかな』と頼まれていたのである。
純一が住むことになった丘のマンションからもっと遠い場所へと移ってしまった義妹夫妻の住まい。海沿いの新興住宅地になるのだが、そこへ出向き、中でもひときわ目を引く白いその家へと向かってみれば……。
「お前、これ……なんとも思わないのか?」
純一は、益々小さくなっていく義妹を見下ろしながら、その家の『美しいはずのリビング』を指さした。
「そう思うのだけれど……」
「おいちゃんっ」
「おいちゃまーっ!」
栗毛のチビと、黒髪チビ姫が、純一が訪ねてきたことに気がついて、リビングが騒々しくなる。
積み木にブロックにミニカー、絵本に人形、きっと彼等が与えられているものが全てリビングに広げられていて、規律のない『おもちゃ展示会』と化していると純一は思った。
自分が彼等に買ってあげたオモチャもぜーんぶ出ている。画用紙にクレヨン。ちぎりまくった新聞の紙くず等々……。
それだけでなく、ダイニングテーブルには食器、小さなスプーンにコップ。こちらもあらゆるものが散乱。
「おいちゃん! ごはんきたの?」
昔の義妹を思い起こさせる栗毛の小僧が、めいっぱいの笑顔で純一の傍へと駆けてきた。
それを目にして、やっと……笑顔が浮かぶのだが。その顔、その愛らしい顔、ほほに何故か、なると巻きのような緑色の渦が書かれている? それだけじゃなく、義妹の顔にまで、訳の分からない線が書かれていて、何の化粧をしたのか? と引きたくなる顔になっているのだ。
「は、葉月。お前もめいっぱい遊んだな?」
「ええっと。はい……。午後からずうっと。夕方になってきたから、そろそろ片づけようと思っていたのだけれど……」
子供と一緒にめいっぱい遊んだ。
『童心に返って』と言ったところか?
その『祭りの後』と言ったところらしい。
なるほど。義弟の隼人が心配そうに『一度、見に行って欲しい』と言った訳が分かった。
「よ、よし……。そうだな。ま、先ずは、葉月。お前、そこだけはなんとか片づけろ。『Be My Light』に行って、いろいろ買ってきたから、俺が食事の準備をする」
純一はその惨たる有様のリビングを見渡しては頬を引きつらせつつ、サンドを包んでもらった袋を片手に『キッチンを借りる』と隣の大きなキッチンに入ろうとしたのだが。
「やったー! ぼく、さんどいっち大好きー!」
「ママも大好きー! やったね。海人」
「あんなもーすきー!」
リビングの真ん中で、チビ二人が葉月に抱きついて、そして葉月が同じように子供のような顔で、息子と娘を抱きしめている。
それを見て、その騒々しさには眉をひそめたくなるのだが、純一はそこで直ぐに笑ってしまっている。
なんて騒がしい母子だろうか。なによりも、あの義妹がそれはそれは、彼女が子供だった時同様の陽気さと無邪気さで、子供と一緒になって賑やかにしているのだから。
(……そうだったな。オチビは、そんなチビ姫だったんだ)
それがどうして、悲しいことになったのか。
今はもう、純一はその痛さと切なさが襲ってきても、直ぐに心の奥に消すことが出来るようになってきた。
勿論、その痛みは消えないものではあるのだが。
「この。やったな、ママ! リベンジっ」
「やー! ひっどーい、海人ったら」
純一がキッチンに籠もって、サンド以外のサイドメニューをこさえようとしても、リビングの方は一向に静かにならず、騒々しい。
本当に片づけているのかと思って覗いてみれば……。また葉月が寝転がり、その母親の上に海人が馬乗りになって、クレヨン片手にお互いの顔に落書きをしているのだ。その横ではチビ姫の杏奈も負けずに兄の真似をして、母親の身体に何かを描こうとしている。
「こら! 葉月!」
ついに、純一は母親である義妹に叫んでいた。
しかし葉月は子供達同様に『きょとん』とした顔で、純一を見ていた。
本当に、この家には『子供が三人いる』。
純一はそう思った。
「おじ様は怒ると、パパよりもやっかいで面倒だから、片づけましょう」
「なんだって? おちび」
そう言っても義妹はつんとして、片づけを始めた。
今度はきちんと母親の顔で、海人と杏奈を諭しながらちゃんと静かに片づけを始める。
不思議と葉月が母親の雰囲気を醸しだすと、海人と杏奈もママの言うことを聞いて片づけを始めた。
純一にほっとした溜息が漏れた瞬間。
しかし、まあ……。
童心に返りながら、義妹はここでも失った時間を取り戻しているようにも見える義兄の純一。
その義妹のはつらつとした元気な無邪気な顔は、とても懐かしいもので、純一は最後には笑っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
そして、あれほど散らかっていたリビングは、純一が良く知っている美しい部屋に戻った。
義妹が子供達を優しく諭しながら、三人共に片づけている姿も最初は騒々しかったが、最後は微笑ましい母子の姿がそこにあり、純一はキッチンからそっと見守っていた。
『Be My Light』に出向いて、子供達が好きなサンド類を買っては来ているが、ちょっとした頂き物があり、純一は今、それに向かっていた。
まな板の上に、小振りの鰺が数尾。それをさばこうとしたところ、義妹がやってきた。
「兄様、なにしているの?」
「ああ。なぎの『将さん』が釣りに行ったとかで、届けてくれたんだ」
「おじ様が? なんだか最近、うちじゃなくてお兄ちゃまのところに直ぐに行くのね。ずるい!」
漁村にある屋台『なぎ』の主人は、純一よりかは若いのだが、地元の男として皆に慕われ頼られている。
独り身で気ままに過ごしている純一は、『なぎ』に良く通う。そのせいか、そこの主人である『将さん』とは、相手があるようでないような中年独身男として意気投合してしまったのだ。そして、勿論、純一も彼のことに好感は持っているし、この島に来て親しくしてもらっている一人だから頼りにしている。だが、義妹や義弟の隼人、隣の達也の方が付き合いが長いが、こうして先に知り合いだった葉月がちょっと妬くほどに、純一は『将さん』に気に入られたようなのだ。
だから、彼が仲間と釣りに出かけるとなれば、お誘いもかかるし、仕事で断った時にも、こうしたお裾分けが必ずあるのだ。そしてそのお裾分けには『兄貴の純さんから、嬢ちゃん一家にも分けてやってくれよな』と言う意味も含まれている。
そして、この日もそのお裾分けを届けてもらい、『丁度良い。義弟に頼まれて、義妹宅へ様子を見に行くから届けよう』と、彼が釣った魚も手土産に持ってきたのだ。
「小鰺ね。フライにする?」
「そうだな。子供達もその方が喜ぶだろう」
設計士と隼人がとことん相談してまでこだわったという大きな調理台に置いてあるエプロン。葉月はそれをさっとつけ、颯爽と包丁を握った。
純一も、魚をさばくことは慣れている。一人で自炊をしてきた経験もあるし、野外訓練で染みついた経験もある。
だが、この島民として暮らす決意をした葉月も、負けていなかった。
まさか、あのお嬢な義妹が、和食の腕を上げただけでなく、こうした下ごしらえの技もマスターしているのを目にした日には、純一も驚きだった。
そしてこの日も、義妹の葉月は、未だに目を見張っている義兄の目の前で、さっさと手早く小鰺をフライ用に開きにしていく。
しかし、それも見慣れてきたはずなのだが、どうもしっくりしない点が一つ。
「葉月。その包丁の持ち方、なんとかならないのか?」
「え? ああ……。隼人さんにも言われるのよね。お前が魚をさばく時の手つきが怖いって」
純一も『だろうなあ』と溜息をこぼしたくなる。
何故なら、その包丁の持ち方がやはり軍人なのか『サバイバルナイフ』を握っているかのような手つきの、さばき方なのだ。
純一もたまにはそうなるが、やはり魚をさばく時は『調理スイッチ』にちゃんと切り替わるというのに……。
しかし、ここでも文句が言えない自分がいる。それを分かっているかのように、義妹がけろっと言った。
「それに、私が軍に入隊した頃に、刃物はこうやって握るんだって……。お兄ちゃまが教えてくれたのよ」
「ああ、そうだ。そうだったな」
だからってお前、切り替え下手だなあと、ぼやくのは、純一の場合は心の中だけ。
こんな時、きっと夫の隼人なら、ちゃんと口にして言葉にして義妹に言うのだろうが。
こうしてなんでも飲み込んでしまう兄貴の姿を目にした時、義弟の隼人がふと呆れたように言うことがある。
『兄さん。少しは言葉にして、葉月に言った方が良いと思うよ。それが彼女にとって良い時もあるし、逆に甘やかしている時もあるなあって、俺は思っているんだ』
それを聞いて、純一は初めてハッとしたことがある。
それほどに、お喋りをする方ではないが、確かに必要以上に言葉にしない分、言っておかねばならないことも素通りしてきたことは多々あっただろうと自覚していただけに。
自分では分かってはいても、身近な人間にはっきり言われて初めて真っ向から認める時もある。
義弟の隼人に言われると、なおさらだった。
「お前、包丁は包丁の持ち方をしろ。子供がいつか真似したら困るだろう」
「そうね。うん、直せるように努力します」
すると葉月は途端に、ちゃんとした持ち方に直した。
しかも、その持ち方に直しても、しっかりとさばけている。
(だったら、お前。最初からそうしろよ)
流石に、これを言ったら、また義妹が騒ぎそうなので、これは言わないでおいた。
なるほど。
やっぱり義妹の扱いは、義弟の右に出る者はいないと純一は思う。
それでも隼人は、『兄さんにはきっと一生敵わない』と言ってくれるが。
もし、それが本当に胸を張っていえるなら……。
きっと、目の前にいる義妹の『主婦』であり『母』である姿は、俺の物だったのかもしれないと……。
ずうっと若い時であれば、この義妹を一番分かっているのは俺だと胸を張って言えていた。
しかし、今は違う。やはりこの義妹の、こんなに幸せそうな穏やかな女性の姿を見られるのは、あの義弟の成したことなのだ。
「隼人がいないと、寂しいな」
キッチンから見える夕暮れる海を遠く見つめながら呟くと、義妹もちょっと寂しそうな顔になって『そうね』と呟いた。
この家の主人である御園隼人は、今は留守。やはり義妹はその帰りを待ち望んでいるのだと……。義兄の純一には、葉月が僅かに伏せた眼差しで知ることが出来た。
「おいちゃん。僕も杏奈も、ちゃんとお片づけしたよ」
「あそぼ、おじちゃま」
母親がキッチンに籠もってしまった為か、子供達もやってきた。
「私が料理するから、義兄様、遊んであげてくれる?」
「そうしよう。チビ達、伯父さんを仲間に入れてくれ」
純一が微笑みかけると、甥と姪は『いいよ!』と、その足下にひっついてきた。
おいちゃん、おじちゃまと慕ってくれるこの無邪気な天使達と日々を過ごしていることも、純一には新しい心の拠り所だった。
成人し独り立ちしてしまった息子『真一』が幼かった時に出来なかったことを、純一も今この島で、いつでも寄り添ってきた義妹と同じように取り返していた。
だが、ここで息子には心から詫びている。
本当なら、お前にこうしてあげるべきだったし、こうしたかったのに──と、今更なのだが。
その息子真一はまだ医学生として大学に在籍中ではあるが、ある時からあの横須賀のマンションを出て都内で自活している。彼にとっても幼い時埋まらなかった心を埋めたり、純一にとっても父親として出来なかった事をやり直す事も、共に生活することで満たし合う事が出来た。
だから、その過程を二人で辿って納得できたので、また別れて暮らすことになった。……と、言っても、息子が自立する時期がやってきただけなのだが。
それでも真一は、あの横須賀のマンションを出ていく時に『親父と暮らした日々があるから、俺はここを出ていけるんだよ』と言ってくれた。それどころか『お父さん、お世話になりました』と……そう言って出ていった。この時、息子のこの言葉に純一はどれだけ救われたことか。数年暮らしただけで、その言葉を受けるには、あまりにも申し訳ない気持ちもあり、逆に重くのしかかっていた詫びたい気持ちをだいぶ軽くしてもらったりした。正直、息子には頭が上がらない部分があったりする。
その息子がさらに父を思い言ってくれたのが『親父ももう自由なんだから。好きなところに行けばいいよ』だった。それには、純一はどきりとさせられた。
息子はそれ以上は何も言わなかったが、それでもその時の顔に最後にやや語尾を濁した感じから、純一には『本心を見抜かれている』と思ったのだ。
それが……小笠原にいる義妹の傍に行きたい。と言うこと。
息子の真一は、親父にとってはそれが一番だと最後には言ってくれた。
そうして、この時の純一は、素直に正直に決断をした。
──『小笠原に住む』と。
だから今、こうして義妹の傍にいた。
そして敬愛する義弟、隼人とも……。
純一の今の生活は、充実している。
・・・◇・◇・◇・・・
「純兄様、本当にごめんね。来てくれて有難う」
「いいや。丁度、将さんのお裾分けもあったし、仕事も片づいて手が空いていたからな」
それに、お前達と明るく楽しい団欒が取れて嬉しいと心で思い、やはりなかなか口に出来ずに、純一はただ葉月に笑いかけただけ。
それでも義妹の葉月は何もかもを知ってくれているように、昔から変わらぬままの、言葉も必要ない心地良い疎通を感じられる微笑みを見せてくれる。だから、純一は『言わない男』になったのかもしれない。
「お隣に達也がいるから、それも心強いのだけれど。それでもやっぱり、あちらは一つの別の家庭である『お隣』だから」
「そうだな。今は泉美さんを大事にしないとな」
「女一人、一軒家で子供とお留守番は、ちょっと気が張るのよね。その分、晩ご飯だけでもお兄ちゃまが来てくれたら心持ち違うし……。それに……」
そこで、好き勝手に楽しそうに食事をしている子供を見下ろして、葉月がちょっと暗い顔になる。
自分の好物であるサンドを頬張りながらも、自信をなくしたような、子供達の顔が直視できないような顔に……。
純一は義妹のそんな顔を、同じ島に暮らすようになってから何度か垣間見たことがある。最初は何を思っている顔か気になっていたのだが、今はもう分かっている。
葉月はまだ、あのマンションを出たことに不安を感じている部分が残っているのだ。
自分の身も心も鉄壁で護ってくれていたマンション。そこを、誰よりも信頼している夫と共に出る決意をし、彼女は夫と共に『自分達の城を共に築く』とやっと出ていくことが出来たのだ。
それはきっととても勇気がいることだっただろうし、あの隼人だったからこそ、外に出る気持ちになったのだと思う。
そして義妹は確実に、夫と共に家庭を築いている。
それでも、隼人は『一生、残る傷。治ることは決してない。以前の環境からなかなか抜けられないのは当然のこと。無くせと言う方が罪なこと』と純一の前では良く口にする。純一も、そう思う。義妹の心の底に深く刻み込まれた『恐怖感』は、決して消えるものではないのだと思う。
そしてこのように、夫が留守の晩。
子供達を守るのは母親の自分だけだとよく分かっていても、きっと子供達が寝付いた後の深夜などは不安に駆られることもあるのだろう。
……だが、だからとて、純一は夫の隼人が留守の時に、そんな義妹に気がついても、この家に泊まり込んだことは一度もない。そして葉月も望まない。
それは隼人という夫を選んだ義妹と、認めた男に義妹を任せた義兄が選んだ道なのだ。お互いに、そこを甘やかしたい気持ちも甘えたい気持ちもあることが分かっていても、決して口にしないし、態度には出さないし、行動には移さない。
だから今、子供達に『弱いママ』であることに気後れしている義妹を見て、純一は言う。
「それでも、この家を建てる時も、隼人がちゃんとしたセキュリティをつけたし、何かあれば、丘にいる俺のところにも連絡は直ぐに来るようになっているだろう。隣には海野家もいる。大丈夫だ」
「うん、分かっているわ。それに……何があっても、子供は絶対に守る」
「そうだ。自信を持て。今『守る』と言ったお前の顔、ちゃんと母親だ」
妹の今でも愛らしい目を、真っ直ぐに見つめて純一は言い切った。
やっと、葉月の表情が柔らかくなる。
「まま。あんな、べたべた〜」
「ママ、杏奈の手と服、べたべたになってる! エプロン、落ちちゃっているよ。これ拾ったから、つけてあげて!」
「あらあら、伯父様とのお話に夢中になっちゃった。ごめんね、杏奈。そうね、お兄ちゃんの言う通りね。有難う、海人」
まだまだ、暗闇にどっぷりと浸かりきっていた義妹の影は消えない。
それでも、彼女はだいぶ前に進み、自分の足で歩いている。
勿論、それはあの夫なしでは考えられないことではあるが、この義妹が幸せそうに輝いている限りは、純一も幸せの日々でいられた。
子供達は、そんな母親のことなど知らない。
そして子供達にとっては、どんな母親でも、やはり輝いていなくてはならない。
義妹はそれを良く知っているから、過去の自分を思うと、余計に不安になることもあるだろう。
『時々、俺だけじゃあ、駄目なんだ。義兄さんじゃないと、まったく駄目な時もあるんだ』
自信をなくすのは、なにもこの義妹だけじゃない。
義妹の前では、しっかり者のあの隼人だって──。時には憂う眼差しで純一に不甲斐なさをこぼすこともある。
しかし、それはこの義兄も同じ事なのだ。
今、上手く回っている。
義妹が駄目なら、夫と義兄が。
夫が駄目なら、義兄と妻が。
義兄が駄目なら、義妹と義弟が。
そうして三人で支え合っていた。
そして隣の海野夫妻が共に生活をしていることも、大きな強み。
今、『小笠原御園家』の環境は、しっかり整いつつある。
つつがなく、皆で過ごしている。
たとえ、この義妹がふと昔の闇に囚われそうになっても──。彼女はちゃんと戻ってこられるようになったし、隼人と純一で光の中に引き戻す。
なによりも、あの義弟と純一の本当の幸せは、この義妹の葉月が笑顔で煌めいていることだから。
小さな子供達の賑やかさに紛れて、義兄妹は和やかな食事を済ませた。
そして純一は、やはりこの晩も、どんなに心配でもこの家を出て、今の住まいに帰る支度をする。
「隼人さん、明日の日曜も帰ってくるのは夜だから、いつもの週一食事会は中止なの」
「構わない。今日、子供達と一緒に食事が出来たから。そうしたら、また来週だな」
「うん、連絡するから来てね」
土曜か日曜、海野家と共に食事会をするのが恒例となっている。
海野の母も交え、義兄の純一も交え、時には彼等の部下や後輩が招待されることもある。
その恒例となった食事会ではあるが、義妹は今でも『来てね』と欠かさずに純一に念を押すのだ。
まだ、どこかでこの義兄がふいっと何処かに消えてしまうかもしれないと思っているようだ。
そんなことはないと純一は言いたいが、そこは言葉じゃなくて、やはりこれから何年もこの彼女の傍にいて安心させてやるのが一番だと思っている。だが、やはりここでも義弟に言われた一言を思い出して、純一は葉月に向かって言う。
「ああ、楽しみにしている。仕事もそれに合わせて片づける癖がついてしまったな」
「そう。約束よ」
義妹のホッとした顔。
なにもかも安心できたのか、義妹はすっかり明るい顔になって玄関で子供達と見送ってくれようとしていた。
しかし、純一が革靴を履いた途端に、スラックスのポケットに入れている携帯電話が鳴った。
連絡主は、この家の家長『隼人』だった。
「ああ、隼人か。今、葉月と子供達と食事をして帰るところで……」
隼人に頼まれたとおりに、様子を見に来ていること──『お前が心配した訳を痛感した。ほんっとうにあれは大変だ。俺が見に行かなくちゃ、どうなっていたか。ひどいもんだった』──と、すぐさま言って、弟とじゃじゃ馬娘のことを笑い合いたいのだが、なにせ義妹が目の前にいるので、それがもう言いたくて堪らないのに、言えなくて純一はもどかしくなる。
だが、そんな純一の楽しい思いをかき消すことを、受話器の向こうにいる義弟隼人が告げてきた。
『御園のお父さんが、救急車で運ばれた』
それを聞いて、純一は一瞬固まる。
そして笑いたかった頬も急激に強張り、つい、葉月を横目で見てしまった。
義兄の様子がおかしいことに気がついた葉月も、途端に不安そうな顔になる。
『仕事が終わって、横須賀のマンションを訪ねたら、管理人さんが御園さんは救急車で運ばれたって──。どうしてか原因は判らないけれど、兄さんの部屋で待っていても、お母さんからもちっとも連絡がないから、居ても立ってもいられなくなって、消防に問い合わせて搬送先の病院を突き止めたんだ。今、そこに向かうタクシーの中。兄さんにも知らせなくちゃと思って……』
「分かった。直ぐに俺も行く」
『病院についたら、俺もまた連絡する。たいしたことないと祈っているけれど──』
受話器の向こうで不安そうな声。
純一が直ぐに行くという一言に、やや安心した声になってくれたようだ。
携帯電話を切って、純一は動き出す。
いや、その前に──。実の娘である葉月に何も言わないのは、酷すぎるだろうと思い、純一はちゃんと葉月にも報告をする。
「横須賀の親父さんが救急車で運ばれたらしい。隼人もまだ状況を把握していない状態で、搬送先の病院をやっと調べて向かっているところだそうだ」
「パ、パパが……!?」
いつも表情は冷静である義妹が、流石にここでは気を失いそうな顔になって、ふらっとよろめいた。
そんな義妹の肩をがっしりと掴んで、純一は強く言った。
「直ぐに飛行機を手配するから、支度しろ。子供達も連れて行くんだ。しっかりしろ」
「わ、分かったわ……」
子供達も連れて行くから、母親のお前は連れていけるようにしっかりしろの一言に、義妹は大佐室でそうであるように、しゃんとなった。
それでも、動揺を隠しきれない不安そうな顔。
「ママ、どうしたの?」
「カイ、今からパパに会いに行くの。支度しましょう。杏奈もよ。飛行機の中でねんねしていいからね。ママも一緒よ」
「あんなも、ぱぱのところいく」
「そうね。パパ、待っているからね。行きましょう」
子供達を不安がらせないように努めて笑顔を見せている義妹。
だが、優しく子供達を抱きしめている指先が震えているように、純一には見えた。
いつものように、純一の配下にあるセスナを呼び寄せて、直ぐに小笠原を飛び立った。
狭い飛行機の中、子供達は眠ってしまい、それを両脇で抱いている義妹は不安そうな顔のままだった。
純一も腕を組みながら、目をつむり、じいっと不安を堪える。
まだまだ一家の闇は晴れてはいないが、それでもここ数年は人並みの幸せを味わってきたと思う。
なのに……。あの頑丈な武人である亮介が?
移動中、隼人からの連絡はなかった。
Update/2007.4.1