子供はまだ欲しくない。
前の結婚でもそうだった。
もう銃で撃ち合うことで牽制し合う時代は終わった。
そう思った時から、時代は通信だと見定め、マリアは航空通信を主体にした工学に移行した。
その時に受け入れてくれたのが、今の教官室だった。
そこへ異動するための時期が丁度、達也との結婚生活真っ只中だった時期。
懸命だった。自分の専門を変更する為の新しい勉強に、教官室へ受け入れてもらう為の試験等々、とにかくやらなくてはいけないこと、休まずに突き進まねば出来ぬ事ばかりだった。
だから『子供はまだいらない』とマリアは思っていた。ただ、達也が『早く子供が欲しい』と切望している中、それをはっきり言う事は出来なかったから、それとなく意思表示をするために、ピルの服用を始めた。──案の定、達也はそれを知って密かに落胆していたのをマリアは知っている。でも……無理に目をつむってもらったのだ。
きっとそこから綻びただろう、二人の夫妻生活。
そしてマリアは思うままに仕事での新しいポジションを獲得し、その代わりに、結婚生活にピリオドを打つ未来が待っている助走を促してしまったのだ。
そして離婚後──。新しい恋に夢中になりながらも、キャリアを積む日々。
「私が、妊娠?」
医務室のベッドの上でマリアは茫然とし、目の前にいる女医にすがりたい気持ちでひたすら彼女を見つめていた。
しかしドクター・マルソーは、やはり起伏のない医師の表情を固めたまま、念を押すようにマリアに答える。
「そうよ。今から調べてみないと何週目か判らないけれど、二ヶ月に入った頃だと思うわ。五週目、六週目……ぐらい、かしら」
「五、六週目?」
その頃に覚えがあった為、マリアは観念した。
──あの時だ。テイラー博士がフロリダ基地に戻ってきたことを知った頃。マイクがそれを安心させようと、初めてマリアの部屋で一晩過ごした、あの時。
前の結婚生活の時はピルを服用していたマリアだったが、今回の同居ではそこまでに至らなかった。
いや、正直に言えば、同居を決めた時に『また産婦人科に行って、検査をして、処方してもらって……』と、そんな予定を考えていた。これから先、飲み忘れがないように一日一回注意しなくてはならない。さらには飲み忘れたら最悪なのだ。もらった錠剤がなくなったら忘れないうちに補充しなくてはならないし、乳癌のリスクも多少伴う為にそのリスクを減らす為の検査も心がけなくてはならない。ピルとはそんな手間もコストもかかり、リスクもある。そういうのがまたやってくるって『ああ、面倒だなあ』とは思っていた。
大人なのだから、既に異性関係を一度は持った事がある男性と同居をすることがどういうことであるか判断できる。ただの友人から部屋を借りる──というような始まりではあったが、そこはマリアだって多少は男女関係に発展する可能性がある同居である事は察していた。
その時に、避妊をすべきだと……。しかし最初からマイクはちゃんとしてくれたこと、さらにはその最初だけではなくて、毎回、毎回。そのうちにマリアはすっかり彼はちゃんとしてくれる人と甘んじてしまっていたのだろう。
だが、あの晩は違った。マイクだけじゃない、マリアも違った。
あの晩の事を思うと、マリアは今だって顔が熱くなる。
彼が、そのままマリアの中に自然に入ってきたことは、彼自身もわざわざ子供を望んでそうしてしまったのではないとマリアは分かっていた。それに対して、熱くなっている彼を受け入れた自分も同じ気持ちだった。ただ──そのまま自然に愛し合いたい。もっとより近くお互いを感じあいたい。繋がりたい。──本当にシンプルな、それでいて熱い想いで、お互いを求め合っただけのこと。
子供が欲しいと思ってそうしたことを受け入れた訳じゃないのだけれど、でもあの時、素の彼を身体の中へと迎え入れて受け入れた時はこの上なく『幸せ』を感じてしまったのだ。だから、そのまま……。そしてそれは相手であるマイクも同じだったと思う。
そして、翌朝。マリアの身体の中、下腹部に、確かに彼の熱い痕跡が残っているのを感じた。どうしてこんなことを軽々しく……という後悔もなかった。
むしろ彼がマリアの身体の中に放ってくれた熱愛の痕跡を感じる度に、本当に満ち足りて幸せに思った。二人の波長がぴったり合った、今までになく熱く求め合うことが出来たあの一夜。
間違いない。あの時の、あの時の子なのだとマリアは確信した。
ただ、今日この日まで、マリア自身『大丈夫。まさか。そんなこときっとない』と過信していた。
いい大人のくせに『できっこない』と高をくくっていたのも事実。
いいところだけ幸せを感じておいて、その後に必ず起きるだろう男女関係の営みの結果を、どうしてかそこだけ無視をして『そんな時期じゃなかった』と自分の中で無理矢理こじつけて、軽く片づけてしまったのも事実。そうして仕事に没頭した。
でも──やはり起きる事はちゃんと起きてしまったのだ。
マリアはやっと……自分の腹部に手をあてた。
ここに? 私にも?
葉月と同じように、可愛いベビーが? 産めるの?
しかもあのジャッジ中佐の子供。
「ど、どうしよう……。私が、あの人の子供の母親?」
急に涙が出来てた。
嬉しいのか、驚きなのか、不安なのか、そして自信がないからか……。
どれもこれも入り交じって、今のマリアには直ぐには幸福感だけの喜びなど湧いては来なかった。
「大丈夫よ。初めての妊娠で不安を覚える女性も沢山いるのよ」
マルソー先生が、そこでやっと優しい笑顔をみせてくれ、涙をぽろぽろと流すマリアの肩をさすってくれる。
「でも、解るわね。仕事はもう二の次よ。貴女の身体がこれからは一番優先よ。今、お世話になっているのは隼人君のところのようですから、きっと彼が無理を許さないでしょうけれど、上司とよく話し合って、安静にして『今すぐ』フロリダに帰る事をお勧めするわ」
──『今すぐ』?
強制送還を意味していると分かったマリアは……。
いつもならここで『絶対に嫌!!』と、周りを困らせるぐらいに我を通しているだろうに。
もう、今のマリアには……自分一人の身体じゃないと分かったマリアにはそれをしたいという気持ちがあっても、それを表に出すまでには至らなかった。
「マリア、落ち着いたか」
純一が戻ってきた。
どうしてかマリアはホッとしてしまう……。
目の前には同性の女医先生がいるというのに。
「ジュン兄様……。どうしよう」
そんなこと、彼に求める筋ではない事は判っているのだけれど、マリアはどうしてかそこにいる頼りがいありそうな親しい人につい呟いていた。
「そうだな。なによりも、今すぐ、安静を第一にする事。そしてマイクに一番に連絡する事。次は隼人に報告して仕事の穴埋めをしてもらう事。そして今すぐ、フロリダに帰る準備をする、だ」
思いの外、きちんとしたアドバイスが返ってきたので、マリアはハッとさせられた。
その純一がまた目の前にある付き添いの椅子へと腰をかけ、マリアの間近に迫ってきた。
「いいか。俺が言うのもなんだが、この時期が一番大切なんだ。分かるだろう? 葉月が体質だったとはいえ、この時期にことごとく……」
そこで純一は全てを言うのは辛い様子を見せ、顔を背けてしまった。
この初期で葉月が何度も流してしまったという話はマリアも今は良く知っている。
そして言えなくなった純一の代わりに、マルソー先生がその後を続けた。
「純さんの言う通りよ。それでなくても、貴女はこの一ヶ月無理をしてきたのよ。貴女のキャリア、今ここが一番勝負所かもしれないわ。でもね、それはまた後で取り返せると思うのよ、仕事はやり直せる。でも、今、貴女のお腹にいる子は、これっきりなのよ」
これっきり。
マイクと愛し合ったあの一夜のように──。
あのたった一度の、近しい愛を交わし合った瞬間の……。
「女としても、一番の勝負所じゃないかしら?」
彼女の言葉に、純一も深く頷いている。
そしてマリアも、今度はどうしようもなく溢れてくる涙。
純一と先生がなにを言いたいのか分かって、マリアもまだ実感が湧かないながらも、ふいにお腹を抱きかかえ守ろうとする仕草をしてしまっていた。
やっと感じる事が出来た『重み』。
「分かりました。『この子』を一番に考えます──」
そう答えた途端に、自分の中にいる小さくてまだ儚いだけのものを守る者になったのだとマリアは自覚した。
でも……。そう感じ始めながらも、ここまで、もう目の前でやり遂げられるはずだった懸命にやってきたものを切り捨てなくてはいけない口惜しさも消えなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
安静にすると決めたと同時に、マリアの中にあった様々なエネルギーがどこかに飛んでいき消えてしまったような気がした。
頭の中は様々な事で大渋滞。マリアは目をつむってそれらの整理をする事に努めてみるのだが。
なにも考えたくなくなる程に、あまりにも色々な事がマリアに『あれしろ、こうしろ。あれを決断しろ』とせめぎ合い、マリアの心の指示待ち、返答待ち。
そのうちにどれもこれも考えたくなくなってきた。
「マリア……」
ただひたすら横になっているベッドの横から、そんな女性の声がして、マリアは目を開けてみた。
葉月が立っていた。彼女を見た途端に心がふわっと軽くなり、そして辺りが明るくなったような気さえして、マリアは直ぐさま起きあがった。
「葉月。来てくれたの!」
「純兄様から連絡があったから。お前が側にいて安心させてやれって。私もびっくりして飛び出して来ちゃった」
女医先生に任せ、何処かに行ってしまった純一だが、その代わりにマリアがもっとも安心できる女性に知らせてくれたようだった。
マリアは今まで以上にほっとした。彼女は家族に近いし、さらには母親になると言う点に関しては、マリアよりずっと先輩だ。
「ごめんね、葉月。大佐室を空けるのは大変でしょうに」
「いいのよ。達也がしっかり守ってくれているの、最近は──」
達也──。
前夫の名前が出て、マリアは固まった。
この小笠原基地に来てから、初日に『久しぶり』の明るい挨拶をしたきりだった。
彼もこの小笠原で確実に足下を固め、彼なりの信念で前進をしている姿を見て、マリアも嬉しく思っていた。勿論、別れた夫である彼も──『お前もお前らしく、目標をクリアして爆進しているみたいだな!』──と、喜んでくれていた。私達、お互いにこの姿を求めていて、それをもう一度得る為に別れたのだから、あの別れが無駄じゃなかった事を互いに知る事が出来るのは、またそれも二人が残した幸せの形といえば良いのか……。
『お前さえ良ければ、この小笠原にいるうちにさ……。俺の息子、見てくれよ』
『ほんとう? 会いたい、会いたい! 達也の子供!』
俺にそっくりなんだと、それはもう達也は嬉しそうに照れくさそうに、でも幸せいっぱいのパパの顔も見せてくれた。
「あの、達也は? もう、知ってしまったの?」
マリアはふと気になった。
子供なんてまだいらないと突っぱねた元妻が、次の恋人との間では仕事を優先にしながらも妊娠したと知ったら、彼はなんて思うだろうか……。
いや、あの達也の事。俺の時はそうではなかっただなんて恨みがましい事はいう性格ではない。むしろ真っ正面から捉えて、『お前もかー! やったじゃん!!』と、飛び上がってくれそうな気がする。
「いいえ。まだ、達也には──。でも純兄様は、貴女の受け入れ上司である隼人さんには報告しに行ったみたいね」
「そう」
「私達が言い広める事じゃないわ。マリアが教えたい人にだけ知らせればいいのよ。私は先に知っちゃったけれど……」
ううん、葉月になら直ぐに知らせていると、マリアは微笑んだ。そして、葉月が側にいてくれるだけで、この遠い異国で急に大変なことを知ることになっても、安心だとも彼女に告げた。
そして葉月もマリアが頼ってくれ、嬉しそうに微笑み返してくれる。その葉月がふと、何かを言いにくそうに言った。
「あの……。おめでとう……と、言っても良いかしら」
まだマリアが心の底から幸福感を実感していない事を、見抜かれているようだった。
そんな鋭い妹分には、マリアも誤魔化そうという気が起きなくなり、そのまま項垂れる姿を見せてしまう。
「葉月は、分かってくれるのかしら。私の今の複雑な気持ち」
「分かるわよ。だって、以前の私なら……コックピットを降りるだなんて絶対に嫌だ。そう思ったもの」
「本当に? 私のこんな気持ち、女として、母として、……妻になるとして…… あってはいけないものなんだって……!」
「私も思ったわよ。でもね……」
彼女の瞳が、そこで急に陰り始めたので、マリアはドキリとした。
だけれど、葉月は静かに微笑んでいる。そしてその眼差しはどこまでも静かで優しく、柔らかで……。でも、陰りの色を秘めている。
「でもね……。やはり、女として、母として、妻としても。結局、後悔する事になるし、ずうっと引きずっていく事になるわ。その時の自分を一番にしたが為の『犠牲』が、なによりも一番重いものだったということを、いつまでも忘れる事はなく……そして……」
いつの事を思い出しているのか……。
流石の葉月も、それ以上は誰にも言えないと思わせるような辛そうな表情に崩れてしまい、マリアの方が葉月を抱きしめてしまっていた。
「……そうよね。葉月は、辛かったんだものね」
「マリアにはそんな思いして欲しくない」
そして葉月も抱き返してくれた。
その葉月がマリアに言いだした。
「今からフロリダに帰るまで、いろいろ大変だと思うし、そんな貴女を宿舎に置いておくのは心配だわ。帰るまで、うちにこない?」
妹分の葉月が、そんなふうに案じてくれる事、とても嬉しかったし、とても心強かった。
でも──と、マリアは俯く。
「有難う。とても心強いわ。でも……一人にしてくれるかしら、いろいろ、考えたくて」
「そう。でも、つわりって気分が悪すぎるだけじゃなくて心細くなったりするから、その時は遠慮しないで連絡してね。これ、いつも貴女が私に気遣ってくれる事よ」
「うん、分かった。分かったわ……はづ、き……」
どうしたことか。そんな葉月の気遣いが、急に身に染みてきたマリアは彼女の胸に顔を埋めて泣き出してしまった。
葉月も優しく抱き返してくれる……。いつも一人で冷たく前を見ていた葉月を抱きしめてあげたいと思っていた自分なのに、今はその彼女に温かに抱きしめられ、マリアは泣いていた。
彼女は、自分よりもずっと強く、いろいろなことを乗り越えてきたんだとマリアは思った。
だから、いくらでもその胸で泣けた。
そうだ。突然の出来事に不安がって右往左往している場合じゃない。
自分もこの子の為の前進を始めなくてはいけない。
そんな決意をやっと持つ事が出来た。
マイクに、知らせなくちゃ……。
・・・◇・◇・◇・・・
医務室を出てきたマリアは、工学科科長室に戻る。
その部屋に入るなり、隼人が食い付いてきた。
「マリア! どうしてそんな身体で……!」
あの落ち着きある彼の、もの凄い慌てようにマリアの方がたじろいでしまう。
「いえ……。私もまったく分からなくて」
「お腹に子供がいる状態で倒れたなんて知って、俺の心臓、一瞬止まったぞ!!」
え、隼人中佐でも、そんな驚く事があるの? と、思ってしまったマリア。
彼は何が起きても、先ずは自分の中にドンと受け入れて、良く噛み砕いて、静かに立ち向かう。そんなイメージを持っていた。
なのに。なに、この慌て振り? 隼人はまだまだ向かってくる。
「すぐに宿舎に帰れ。後は俺とブルースがなんとかする。君は何も心配するな。君の頑張りを無駄にはしないし、君のポジションはちゃんと確保する! これで安心だろ!!」
マリアが不安に思っている事をまだ口にもしていないのに、隼人がそこはしっかりとカバーすると豪語。
それはとても安心できる申し出だし有り難いが、とにかく隼人のその剣幕が尋常ではない。隼人の後ろにいるブルースが余計におろおろしているではないか。彼もパートナーであるマリアがこの仕事の主軸を任されているのに『妊娠していた』と聞いて戸惑っているだろう。なのに目の前の上官隼人がその慌て振りでは、不安をさらに煽られているに違いない。
「あの、御園中佐──、私、」
マリアだってまだどこからどうして良いのか上手く考えはまとまっていない。
そんな戸惑っているマリアを残して、隼人の方がいつものマリアのようにバタバタとした騒々しさで落ち着きない。
「そうだ、こうしてはいられなかったんだ。フロリダに連絡だ」
デスクのファイルバインダーに資料を引っかき回して、パソコンのマウスを掴んだかと思ったら、携帯電話を手にしたり、そうじゃないとそれを放って、内線の受話器を手にしたり……。
「ブルース、あと十日でもマリアの代行員を派遣してもらえるかどうかマーティン少佐に相談してくれ」
「は、はい。ええっと、そのなんて報告を……? えっと、うちの少佐より、ジャッジ中佐に先にした方が……」
ブルースの進言に、隼人が『あー、それだ。そうだった』と額を打って項垂れた。
「そうだ、そうだ。とにかくマリアがジャッジ中佐に、いや『マイク兄さん』に個人的に報告すべきだ。そうだ、そうだった……」
本当に慌てている様子。こんな彼、とても珍しい。
マリアも見ていられなくなってきた。その上、冷静沈着であるはずのこの中佐をこんなふうに慌てさせた自分が、またもやお騒がせの迷惑をかけてしまったのだと思った。
しっかりしなくちゃ。
そう思ったマリアは、いつも通りにデスクに座った。
「ジャッジ中佐に連絡します」
毅然とした様子でデスクに戻ったマリアを目にした為か、落ち着きをなくしていた隼人とブルースもハッと我に返ったように静まりかえった。
「今回の妊娠は、彼と私の個人的なものです。それは私が自分で報告します。とにかく、今はあちらは夜で勤務時間ではありませんので、こちらの業務状態に不都合が起きた事だけを先ずメールで報告しておきますね。中将秘書室と私の教官室。早ければ、今夜にでも早朝にでも宿直の隊員が目にしてジャッジ中佐に報告してくれるでしょう──」
テキパキと職務陣としての処理を始めたマリアを見て、隼人がやっと席に座ってくれた。
「わ、悪い。マリア──。俺の方が、どうかしている」
目の前のデスクにいる隼人が、ほっとした顔になり額の黒髪をあげた。
「いえ。こちらが驚きましたわよ、中佐──」
「すまない。どうも、苦手で……。ほら、俺の場合、その……」
隼人の顔が歪んだ。
その顔を見て、マリアもハッとする。
先ほど医務室で、葉月が言葉が続かなくなって辛そうに表情を歪めたのと同じ顔だったからだ。
ああ、そうか。この人も葉月と同じぐらい、妊娠や子供に関しては辛い思いを噛みしめてきた人だったとマリアもやっと気が付いたのだ。
だから……。お腹に子供がいる女性が倒れたのだと知って、顔面蒼白の思いでショックを受けたのだろう。そして、この慌て振り。
そんな隼人らしからぬ様子を目にしてしまったマリアはまた思い知らされる。
儚くとも、まだ目に見えなくても、実感が薄くても……。それを失う痛さがどれだけのものなのかを、御園若夫妻が物語っていると思った。
ここでもし……、自分に何かあったら、自分は先ほどの葉月のような思いをすることになり、なによりも……今の隼人のような思いをマイクにもさせることになるんだと痛感した。
「隼人中佐。私、ちゃんとして帰ります。でもお詫びしておきます。自覚がなくて……自己管理が甘くて、最後の大事な時にこんなご迷惑……」
「妊娠は迷惑な事ではなくて、周りにも喜ばしい事ではなくてはいけないと思っているよ。女性と仕事をする上で、女性が女性として穴を空けざる得ない時に、それをカバーできない職務男など、男の上にも立つべき度量も資格もないと俺は思っている」
やっといつもの『澤村中佐』に戻ったと思わせてくれる隼人の頼もしい言葉に、マリアもさらに安心感を強めた。
「まあ、今のところ、なかなかそうはいかない場が多いのが現状であろうけれど、やはり女性の上官や同僚と働いてきた俺はそう思うよ」
その上官が今は自分の妻。だからこその隼人の志。それがこれからもっと広がればいいなとマリアも思った。
「ブルースも、まだ独身で分かりにくいだろうけれど、そんな男性指導者になってくれたらと願うよ」
「はい。心得ておきます。特に、これから『大事なパートナー』の彼女がその道を歩む訳ですし。私も未熟ながら、女性と働くという大事な意味を経験で培ってきたいと思っています」
ブルースも『お前は安静第一だ』とマリアに言い切ってくれた。
側にいる男性先輩の頼もしさを知って、マリアはとても心強く思い、漠然とした大きな不安に襲われていた気持ちも徐々に落ち着いてくる。
「お二人とも、有難うございます。本当に、大事にして帰りますから……」
目の前の男性二人も、やっとほっとした笑みを見せてくれる。
いつもお騒がせマリアが、突撃女のマリアが……ここまで頑張ってこぎつけた仕事を投げ出してフロリダに帰るとは言わないと思っていたことだろう。
マリアが我を通す前に意地になる前に、なんとかして言い聞かせなくては──。だから隼人もとても力んで慌てていたのだろう。
だけれど、マリアも分かっている。
帰らなくちゃ。
そしてマイクを安心させてあげなくちゃ……。
しかしマリアは心苦しいメールを打ち始めていた。
『ブラウン、体調不良の為、職務への復帰は不可能とドクターストップが出る』
その旨を記し、残すところあと十日だが代行員を派遣できるかどうかという指示を仰ぐものを、秘書室と自分の教官室、上司のマーティン宛てに送信する。
その後、マリアは隼人の意向もあり、素直に工学科科長室を後にすることにした。
・・・◇・◇・◇・・・
フロリダ──深夜。
その日の夜も、マイクはリビングのテーブルで仕事に向かっていた。
日々の習慣の為、特に何もなくてもこうしてノートパソコンを広げ、仕事の画面に向かっている。
それにしても、なんとも……寒々しいことか。
同居人の彼女が出かけてから直に一ヶ月が経とうとしている。もうすぐ帰ってくるのだから、そろそろ心が躍っても良いのではないかと思うのが、それがまったく……。
最初の頃は仕事が忙しかったせいもあったし、数年ぶりにカンザスの田舎へ感謝祭の為に帰省したこともあって、それなりに気も紛れていた。
しかし、感謝祭から帰ってきてから直ぐ、このフェニックスの家に帰ってきた途端に、妙な脱力感に襲われた。こんなことは初めてだった。
今まで何事にも打ち込んできた仕事が目の前にあって、これらは逃げる事はないというのに……。それらに毎日向かっていても、どうもしっくりこない。同じように厳しい場面に対しても、それをなんなくこなしても、いつもの充実感を得られる事がなかった。
そして今日も、なんとなくこうしてノートパソコンを目の前に、いつも片づくことなく次から次へとやってくる書類に資料に囲まれているが、惰性でこなしているというような腑抜けた状態だった。
ベッキーも寂しそうにしている。『あの子がいるだけで、本当に明るくなるんだって思い知らされたよ』。彼女のその言葉に、マイクも同感だった。
いれば賑やかで、危なっかしくてハラハラさせらる。でも、その分金色の彼女は黙ってそこにいれば、それだけで本当に輝かしい存在。俺達を楽しませてくれるというのだろうか。
「なにしているんだ、俺は。もうすぐ帰ってくるのだから」
と、近頃言い聞かせている。
街並みは既にクリスマス。
だが、そのクリスマスに彼女はいない。
独り身のマイクは、その時々に誰かに誘われ、その家のパーティに呼ばれるので特に寂しい思いをした事はないが、今年は流石に……。
まあ、彼女が帰ってきたら二人だけのパーティーをする予定なのだ。
それまで待て。マイクはさらに言い聞かせる。
そんな彼女の帰宅に思いを馳せているだけの時間、マイクの手元に置いてあった携帯電話が鳴る。
着信は秘書室。なにかあったと予感したマイクは気持ちを切り替えて、電話に出る。
「どうした」
電話の向こうの声は、今夜の当直ロビン。
彼が少し慌てるように報告してくれた内容を耳にして、マイクも一瞬だけ息を止めた。
「その他の詳細は? ない……か。分かった。今すぐ秘書室へ行く」
それだけ彼に伝え、マイクは電話を切る。そして直ぐさま周りに散りばめているものをかき集め、側に置いているアタッシュケースに詰め込む。
部屋に戻って制服に着替え、基地へと出向く身なりを整える。テーブルには、朝この家にやってくるベッキーに夜に出かけたことを伝言するメモを置いていく。
それを手早く済ませ、マイクは黒い愛車に乗り込み先を急いだ。
暗闇に包まれる白い砂浜の海岸沿いを基地へと車を飛ばした。
「マリー、何があったんだ!」
もうすぐ帰ってくると待ち構えていたのに。
それを目の前にして、彼女に『ドクターストップ』が出たという報せ!
マイクが踏むアクセルは強くなる一方。しかし運転する車よりも、マイクの気持ちの方が先に行ってしまう感覚。
もどかしいまま、数メートル先を走っているような気持ちで急ぐばかりだった。
Update/2008.2.29