『今、結婚なんて考えられない』
マリアの正直な気持ちだった。
「分かっているよ。分かっていて、それでも言わずにいられなかったんだ」
「怖いの。また夫を困らせてしまうような自分勝手な妻になるんじゃないかと……。貴方を愛しているから、二度と……傷つけたくないの。夫妻になると、自分の家族も相手の家族も、自分達の家族になるのよ。当たり前のようで、でも……だからこそ、自分達が傷ついたら、家族も傷つくから……」
「それが……。俺の両親には今すぐ会えない理由なんだな」
本当に言いたいところをちゃんと察してくれ、マリアはこっくりと素直に頷いた。
「俺も悪かった。マリーのそんな周りを気遣う想いを無視するかのように、強引すぎたと思う」
「違うわ。私も素直に、心からの理由を言えなかったから。貴方を追い込んでしまったんだわ……」
申し訳ない気持ちでマリアは俯いたのだが、マイクはそのまま優しく、マリアの肩を抱き寄せてくれた。
「遅かれ早かれ、俺は君に結婚を申し込むつもりだった。追い込まれてなんかいないよ──」
今、彼を今まで以上に近く感じていた。
この前このベンチで感じた目の前に見えるのに歩み寄れない距離を感じてたけれど、今日は違った。マリアのすぐ隣には彼がいて、彼に優しく抱き寄せられ、そして暖かみを感じて……。心も傍にいる、素直な彼らしい彼を、そしてマリアも自分らしい自分を感じていた。
彼の深い紺色の瞳と視線が合う。
もうマリアはその眼差しに吸い込まれ、うっとりと見つめ返していた。
「だから、マリア」
「なに、マイク……」
「返事はすぐにとは言わない。でも、少しだけ考えてくれないか。俺との結婚──」
また彼を待たせてしまう事に、マリアは少し心苦しくなる。
そこもマイクは見抜いたかのように、マリアに取り繕う。
「じゃあ、結婚はもういいや」
え? プロポーズも取り消すって事?? と、マリアは半分断った状態にしておきながら、ちょっと惜しいとも感じてしまう複雑な気持ちになった。
「結婚じゃなくて。生涯の決まったパートナーにして欲しい……なら、どうかな」
「生涯の?」
「正式じゃなくてもいいんだよ。でも、これから一緒に住むのはマリアで、一緒に休暇を過ごすのもマリアだけで、食事をする時目の前で笑って楽しませてくれるのもマリーがいいな。そして……俺が帰ってきた時に珈琲を持ってきてくれるのも、実はベッキーよりマリーがいい」
だんだんとマリアにも、マイクの『確かに欲しいもの』のスタンスが分かってきた気がした。
そして最後に彼が真顔で言った。
「そして、仕事に没頭して周りが見えなくなった俺が、最後に力尽きて帰ってきたそこにいて欲しいのもマリアだ」
もう、マリアの胸は嬉しさで満ちあふれていた。
『結婚』というたった一言はどうしても受け入れられなかったのに、今、マイクが申し込んでくれた事なら彼が言わなくても、自分からもそうしてあげたいと思っていた事ばかりだから……。もしかすると『結婚』というものは、結局はそれらが凝縮されたものばかりなのかもしれない。でもマリアには『結婚』という二文字はまだ重すぎる。しかしマイクはそこもちゃんと汲んでくれていた……。
「私も、結婚しなくても……ずうっとそうしたいと思っていたのよ」
「本当に? だからそれでいいんだよ。そうありつづけたいと、誓いたいだけなんだよ」
そしてマイクは、マリアの頬を包みながら、さらに言ってくれた。
「マリア。今まで通りに、俺を賑やかに驚かせて、金色の笑顔をみせてくれ」
彼がとても嬉しそうに笑った顔に、マリアはとてつもない幸せを感じてしまった。
「うん……。いるわ、ずっと貴方の目の前に」
マリアも微笑んで答えた。
それは結婚というプロポーズにはまだ答えられないマリアの、一生傍にいたいという申し込みに対する返事だった。
「今日から長い出張だな。寂しいけれど、俺も待っている。この家で。だからマリーも俺に縛られずに自由に動き回って欲しい。俺もこの家に帰って、マリーを待っている男になるよ」
『結婚』を申し込まれるよりも、マリアにはずっと心に響いた。
「この家は私達二人だけの帰る場所ということね」
「そう。俺とマリアの家だ。それに君は、天敵の男が爺さんになってくたばる日を見届けたいと思わないか? そんな勝利をしてみたいと思わないかな?」
天敵男がくたばる日には、天敵女は見届けなくてはいけない。そして『最後に勝って笑うのは君だよ』と言い出したマイクの冗談めいた新しい申し出に、マリアはついに吹き出してしまった。
そんな彼に、マリアは心からの気持ちで答えた。
「マイク、愛しているわ。今までの誰よりも、これからもずっとよ」
彼も『俺もだよ』と囁く……。
渚からの潮風が彼の囁きのように玄関先のフェニックスの葉を揺らす中、二人はベッキーがすぐ側にいることも忘れて口づけをする。彼女の『まったく、心配して損したよ』と呆れた声が聞こえ、そこは口づけながら二人は一緒に笑ってしまっていた。
「帰ってくる頃には、感謝祭もクリスマスも終わっているけれど。戻ってきたら、二人だけのパーティーをしよう」
マリアも嬉しく思い、頷いた。
愛する彼に手厚くこの家から送りだしてもらったこの一時を胸に、マリアは旅立った。
・・・◇・◇・◇・・・
「ブラウン大尉、何をしているんだ。もう始まるぞ」
「はい、御園中佐──」
数週間後、マリアは小笠原の工学科にいた。
滞在させてもらっているのは、隼人が異動したばかりの六中隊工学科、マクティアン大佐が仕切る科長室。
今、隼人がいる科長室で先輩ブルースと共にお世話になり、毎日なにかしらのミーティングが開かれ、マリアは忙しく過ごしていた。
今日もそのミーティングが始まる為、会議室へ出かけようとしていたところ。どうしてかぐずぐずと準備をしているマリアに、隼人からそんな急かされる声。
慌てたせいか、手に持っていた書類束がバラバラと床に落ちた。
マリアはハッとして慌てて身をかがめ、それらをかき集めた。
「どうしたんだよ。大丈夫か」
隼人が驚いた様子で駆け寄ってきてくれ、共に散らばっていた書類を拾ってくれる。
「ごめんなさい。慌ててしまって……」
先輩のブルースは既にマクティアン大佐と共にこの科長室を出ていった後。
隼人は、出かける準備が整わないマリアを待っていてくれたのだ。
それなのにこの有様──。落ちた書類を集めているマリアに、隼人が大きな溜息をこぼしていた。
ここ数日、マリアはこんな調子だった。マリアも気が付いている。そして隼人の足を引っ張り始めているのかもしれないと、この時、項垂れた。
「ひとつ、聞いて良いかな」
「なにかしら……」
マリアにとって、この先輩は『目醒め』のきっかけを与えてくれた恩人と言っても良い。マイクよりも先にその感覚を与えてくれた手厳しい先輩中佐だった。その彼が、やや呆れた様子でマリアを見下ろしている。
今回は何を指摘されるのかとマリアはドキドキしてしまい、怖くなって隼人から目を逸らしてしまう程だった。
「今回のミーティング。俺がフロリダの結婚式に出向いた際に提案したわけだけれど、早々に実現できるように手早くスケジュールを立ててくれて非常に助かった。礼を言うよ」
構えていたら逆に礼を言われてマリアは驚いてしまった。
「いえ……。やはり何でも早いほうが良いでしょう?」
「マリアは? 今年の感謝祭は不在でも良かったのか?」
隼人の顔はとても渋い顔。
そしてマリアは固まるしかなかった。
そんなマリアを見て、隼人はまた深い溜息をこぼし、床に残っている最後の一部になった書類を拾い上げてくれる。
「腑に落ちないんだよな。今回のマリアの出張だけれど……。フロリダ側の企業訪問の実現に、スケジュールに、プロジェクト班のミーティング。全てが迅速に実現となって、お見事としか言いようがないよ」
また隼人は賛美してくれるのだが、それでも彼の言い方はどこか納得していないようで不満げだった。
「計画の立て方に、スケジュールの組み方が、なんだかマリアらしいよな。逆に言えば、ジャッジ中佐も、マーティン少佐も、『止めなかった』というのがね、俺には不自然に思えるわけ……」
眼鏡の奥の黒い瞳にじっと、何かを確認されるかのように見つめられて、マリアはさらに硬直させられた。
「そ、それは……。フロリダ側が遅れを取っているから。だからジャッジ中佐もマーティン少佐も今回は感謝祭とか時期の事など気にせずに、とにかくこれ以上の遅れを取りたくないからロスは増やしたくないと……」
「なるほどね。まあ、そういう事にしておこうか」
でもまだ隼人は飲み込めない様子だった。
しかし『やはりこの人は、なにごとにも誤魔化せない中佐だわ』と、マリアはおののくしかなかった
今回、マリアがこうして小笠原がいる現実の中でも、隼人の見解はやはり鋭いとしか言いようがない。
隼人が異動した部署は、フロリダ本部基地の独立している工学科より小さい。中隊の配下にあるこの基地の為の工学科だった。
それなのに、マクティアン大佐という熟練の工科隊員がいるうえに、軍内では指揮力もさることながらメンテに工学、さらに教育といった様々な面で活躍が出来る隼人がいる為に、フロリダ工学科のプロジェクト班はこのやり手の二人に押され、出遅れている形になっている。
今回のマリアと先輩ブルースの出張は、それらを挽回する目的もあった。
なので、かなり無理なスケジュールを組んでしまっていた。
フロリダの監督役であるジャッジ中佐が許可してくれた本当の理由はと言えば、実際はマリアとの個人的な関係から生じた『私情』が根底に絡んでいるのが大きな理由だったりする。さらにはシビアな中佐であるはずのマイクが、慎重な彼らしからぬ判断で今回の計画を推しただけでなく、マリアの直属の上司であるマーティン少佐までもがジャッジ中佐らしからぬ判断になんの疑念も抱かずにゴーサインを出してしまった……。マーティンが許可したのも、今、彼が上へ行く為のポジション争いの渦中にいる為──。そんな色々な要素があって、フロリダ側では強行するような流れになってしまっていた。
しかし、そこを『マリアらしいスケジュールで来たね』と隼人は言い、さらには『無茶な出張スケジュール。よくジャッジ中佐とマーティン少佐が止めなかったな』と感じているところは流石というか……。フロリダでどんな嵐があってマリアが今小笠原に来たのか隼人はまだ知らない。ましてや……『マイクにプロポーズされた』ことだって、口が裂けても今は言いたくないマリア。マイクがあそこまで追い詰められた過程に、今回の『唐突で無茶で急速な出張が成り立った』ことなど、とてもじゃないけれど言えなかった。
でも隼人は、やはりフロリダ側の今回の計画の進め方に『不自然さ』を感じて仕方がないようだ。
さあ、今日も横須賀のメンバーに宇佐美に彗星といった日本企業のメンバーも交えてのミーティングがある。
マリアとブルースが持ってきた米国企業のリストに訪問計画が出来上がっている事に、日本側のメンバーはとても驚き、そして早い行動に移れるようになった為、皆が絶賛してくれた。マリアとブルースにとっても、来るまでに根を詰めてやり遂げただけに、嬉しい瞬間でもあった。
『あともう少しだ、頑張ろう。マリア』
『そうね。帰ったら、少佐もきっと喜んでくれるわ』
パートナーとしてタッグを組んでいる先輩ブルースも今回はとても活き活きと動き回っている。
特に小笠原に初めて訪問できた事、そして兼ねてから尊敬していた老先生マクティアン大佐の側で仕事が出来る日々に嬉々としていた。
彼も充実感に達成感で満ち足りて輝いている姿を見て、マリアも同じように底から湧き上がってくるエネルギーが溢れるままに前進する出張の日々を送っていたのだが……。
ここ数日、どうしたことか体調が良くない……。やる気はあるのだが、身体がついていかないというのだろうか? 一番困っているのは、ちょっとした貧血がしばしば起こる事と食欲がなくなった事。そのせいで集中力が低下してしまった事……。それで今も書類を束ね損ねてこの有様。
そして隼人はそんなマリアに限界が来ていることを見抜いているようだった。
「あと十日で、マリアの出張も終わりだろうけれど……。やはり俺は今回はいくらマリアでも『無茶押しの出張だった』と思うよ」
それが隼人が言いたい事だったようだ。
彼はどこか冷めた目でマリアを見つめたままだった。
「どうしてジャッジ中佐が、こうも急ぎ足のスケジュールにゴーサインをしたかが俺にはどーも腑に落ちないって言うか……」
もう〜、またそこに戻るの? 見逃してよー。と、マリアはあせあせとするばかり。
このまま追求されたら、またフロリダでマリアがどれだけマイクを振り回して今回のこの仕事に繋がったかを隼人に知られてしまう。
この人のことだから、きっと呆れるだろうなと思う以上に、今回も根元はマリアであるのに、尊敬するジャッジ中佐であるマイクを仕事の上であれだけ巻き込んでしまった中で、あのマイクが決して譲らなかった線を仕事でも譲ってしまった事を隼人が知ったら……幻滅するんじゃないかと。
もし、そう思われたら、マリアのせい。自分の突撃は毎度の事だから今更隼人にどう思われたって構わない。でもジャッジ中佐の威厳は、守りたかいから知られたくない──。
だが、隼人はもっと違う心配をしてくれていたようで、それをやっと口にしてくれた。
「マリア。今日はミーティングが終わったら、午後は早退した方がいい。君は今、充分頑張っている。でも今の君には休養が必要だ」
逆にマリアは、軽く目を見張って驚いた。
「だ、大丈夫よ。中佐ったら、大袈裟ね」
「大袈裟? 気が付いていないのか。マリア、君はとても疲れた顔をしているし、一昨日より昨日、昨日より今日。確実に集中力もなくなってきている。側にいれば分かるよ。だから言っているんだ。どうしてこんな無茶な出張を計画し、一番の責任者であるはずのジャッジ中佐が許可したのかと。目に見えて疲れ切っているじゃないか」
マリアは黙り込む。
今は大事な仕事を任されて、それを遂行している最中。なにがなんでも奮い立たせ、これを終えることで得られる成果を土産にフロリダに帰らなくてはならない。
しかし、隼人が言うとおりだった。小笠原に来るまでに企業を三つほど訪問。広大なアメリカ国内を飛び回り、慣れないホテル住まい。そして最後は小笠原。自分の体力は限界に来ていると、マリア自身も感じている。
何故こうなったのか。マイク共々、何故、こうなってしまったのか。こうなってみて分かる。マイクと自分の意地が、もっと付け加えれば、マーティンの意地もブルースの意地もあったからだ。
だから隼人が『ジャッジ中佐にとっても大事な女性で部下であるはずなのに、ここまで消耗する仕事をさせるだなんておかしい』と言ってくれているのだ。
「いえ、大丈夫よ。小笠原にいる間に、息を合わせておかねばならない話し合いもまだ終わっていないし、調べたい事も……」
強がるしかないのだ。
そしてマリアはそうしたい、やり遂げたい。
なにせ、マイクのプロポーズを断ってまで選んだ仕事なのだから!
今度の隼人は困った顔をしている。
しかし次の彼の顔は厳しいものに変わった。
「俺の、中佐としての命令だ。午後は休んでくれ。倒れられても困るからな」
「い、嫌よ! 今、じっとしていることが一番嫌なんですもの!!」
ついにマリアは、いつもの調子で隼人にまで噛みついてしまっていた。
だがこちらの中佐も、マリアのそんな突発的な攻撃などなんのその。平然とした顔、どころか……この冷静沈着な中佐が今にも怒鳴りそうな顔に変貌したので、流石のマリアもここで勢いを引っ込めた。
本当にそうなのだ。じっとしていると、プロポーズを断ってフロリダに置いてきたマイクの事ばかり考えてしまうのだ。
出張に出かける時に、手厚く送り出してくれたマイクと、お互いに愛し合っている事を確認することが出来たから、マリアは安心してフロリダを旅立った。
でも──日が経つにつれて、マリアの思いは安心したはずなのに、どうしてかまだ胸につかえがあるような……釈然としないものに変化していったのだ。
それはフロリダに帰ってからの自分を想像した時に起きた。あの家に帰れば、今まで通りの生活が出来るだろう。マイクが言ったとおりに、二人が帰る場所となって、そして二人がいつまでも同じ時間を共有する為の場所になるだろう。それで納得できたはずだった。
でも……やはり。あれほど我を忘れてまで申し込んでくれたマイクのあのプロポーズを、あのまま放置しても忘れてしまっても良いのかと思ったのだ。それに対してマリアは『今は結婚できない』という答を出したのだが、その答を出したからとて、じゃあ……一緒に住む帰る事であのプロポーズの件についてはこれでお終いで良いのだろうかと思ったのだ。
送り出してくれた時にマイクが言ってくれた『帰る場所さえ同じなら……』。よく考えればあの言葉すらも、マリアの為に取ってくれたマイクなりの『距離』だったような気がしてならない。それに気が付いた時、また自分はマイクに甘えさせてもらったのかと思ったのだ。
彼の全てをかなぐり捨てたかのような懸命なプロポーズに対して、マリアが出した答は『結婚したくはないけれど、今までどおりでいたい』という答え。
やはりまだ中途半端ではないかとマリアは気が付いたのだ。
そしてマリアは初めて考え始めていた。
マイクとの『一生の夫妻生活』を始めることが出来るのか出来ないのかを──。
まだ答はでない。そうなりたい気持ちは充分にあるのに、なにかがまだマリアを引き留めている。
あと十日。帰るまでにそんな気持ちになれるかどうか……。
「まあ、今はミーティングが先だ。その話は後で、とにかく急ごう。もう始まってしまう」
隼人も今はそれどころじゃないと、気持ちを切り替えて動き始めた。
マリアも頷き、自分も気を改めて隼人の後を追う。
しかし隼人がドアを開けようとした時──。
「失礼──。お邪魔致します」
隼人じゃない誰かがドアを開けた。
そして開いたドアには、マリアも良く知っている長身の男性がそこにいた。
「ジュン義兄様!」
「義兄さん、来たんだ」
マリアは再会に感激し、隼人はちょっと冷めた目つきで飽き飽きとした出迎えだった。
勿論、純一はマリアにはにこやかな笑顔を見せてくれ、冷たい義弟にはお返しのひと睨み。
「お前が俺を呼びつけておいて、なんだその『なんで来たんだ』というような出迎えは」
「俺達、今からミーティングなんだ。そういう間が悪い時に来るの、得意だよな。流石、義兄さん」
フロリダでも何度か見せられたが、この義兄弟の二人はなにかにつければこう言った憎まれ口で喧嘩腰の会話している。
最初、マリアはハラハラしていたのだが、葉月は慣れているのか『またはじまった。いつものこと』と平然として義兄と夫の不和とも思わせるやり取りを放置していた。その通り、毎度の事のようなので、マリアもそのうちに慣れしまい、彼等が帰る頃には『また始まった』と思えるようになっていた。
それがまた目の前で見られるとは、妙な感激をマリアは覚えてしまう。
なによりも。最初はちょっと近寄りがたくてとっつきにくくて、苦手な感触ばかりだった純一ではあったが、最後は皐月の話などを楽しくできたことがなによりも嬉しかった。今までの誰よりも皐月の話を良く聞いてくれ、そして良く知っている人だったのだ。その上、見た目は怖い無愛想な人だと思っていたのに、向き合うととっても紳士で大らかで、なんともソフトに接してくれる素敵なお兄様だった。葉月が羨ましくなったことこの上なかった。
そんな純一にまた会えた感激! そんな感激に震えているマリアに、さらに純一から嬉しい言葉。
「マリアが工学の事でこちらに来ていると聞いて、会いに来たんだ」
「君がピックアップした気になる企業があっただろう。実は、義兄さんは、クロウズ……」
隼人がなにかを話し始めたのだが、マリアはとにかく純一の言葉に感激。
きゃーっ、ジュン兄様。私も会いたかったのよー!
マリアは興奮しながら隼人の言葉など遮ってまで、いつもの突撃態勢で純一に抱きつこうとしたのだが……。
その瞬間、マリアは自分の身体がふわっと浮いた感覚を覚え、さらにはくらっと目眩を感じた。目の前の飛びつこうとした純一の顔が妙な方向に傾き始め、彼のとても驚いた顔に変貌したのがスローモーションのように見えてしまい……。
『マリア! どうした!』
純一の驚きの声、そしてマリアに手を差し伸べている姿がぼんやりと見えた。
『マリア──! 大丈夫か!? だから、言っただろう!?』
そして隼人の叫び声。
酷い目眩──。マリアはついに倒れてしまったようだった。
『マリア。おい、マリア!』
『隼人。ストレッチャー、持ってこい! 医務室へ運ぶぞ』
『わ、わかった……!』
だけれど、そんな二人の男性の声は微か遠くに聞こえるだけになり、マリアの目の前も真っ暗になってしまった。
・・・◇・◇・◇・・・
マリー、俺が悪かったよ。
どうして? 貴方はなんにも悪くないのよ。
ぜーんぶ、我が儘な私のせい。なんでもかんでも自分がやりたいことには強引に我を通してしまう私の……。
貴方がいつも言っているとおりだったわ。私は『なにも知らないで育ったお嬢ちゃん』なのよ。
ごめんね、貴方。
いつも私のこと、なによりも優先にして、上手に付き合ってくれて……。
きっと、貴方しかいないわね。私の事を投げ出さずに、傍にいてくれて。そして傍にいたいと申し込んでくれたのに。
ごめんね、貴方。
帰ったら今度は貴方の事を、ちゃんと考える。
だって、私だって、貴方に幸せになって欲しいもの。
貴方と一緒に幸せになりたいもの。
たったそれだけのことなのに。どうしてその先が怖くて仕方がなかったのかしら?
貴方さえいれば、何も怖くないって思えなかったのかしら?
マイク、ごめんね。
こう思ったの。
貴方がいなくなってしまうほうが、怖いって……。
だから……。
マリー、ここに帰っておいで。
「マイク!! 帰るわ、私、帰る! 帰って貴方と一緒にいる!!!」
急に恋しくなってマリアは叫んでいた。
あの深海の青い瞳で、いつものように優しく囁きながらマリアを迎え入れようと手を差し伸べるマイクが目の前にいて、もう直ぐに抱きしめて欲しくて、もう直ぐに彼に抱きつきたくて……!
マリアはその夢から覚めて、起きあがるなり、目の前にいるその人に抱きついていた。
「マイク〜。ごめんなさい〜。私が悪かったわーー。こんなになったの私のせい〜」
マリアはひたすら、マイクを抱きしめて、先ずはマリアの小さな嘘から始まった意地の張り合いで出来上がった出張で、『こんな有様』になってしまったことを謝った。
「お、俺に謝られてもなあ……」
ん? なんだか愛しい彼とは違う声?
どっしりとしたこの威厳ある声は……。
それにマリアが今抱きついている人、すっごく煙草の匂いが染みついている。マイクは、煙草、吸わないんだけれど??
恐る恐る、その男性の胸から顔をあげてみると……。
抱きついている男性と目が合ってマリアはびっくりして飛びあがる。
「ジュ、ジュ、ジュン兄様!?」
ど、どうしてこうなっているの!? と、マリアはおののいた。
抱きつかれたままの純一は照れくさそうに頭を掻いているだけで、言葉が出てこない様子だった。
そしてマリアは思いだす!
「わ、私……倒れたの?」
「思いだしたか。俺と隼人の目の前で倒れただろう。驚いて二人でここまで運んだんだよ」
そう言われ、マリアはやっとあたりを見渡した。
マリアはベッドの上にいて、純一に抱きついてしまったのは、彼がベッドの側にある椅子に座って付き添ってくれていたからだ。
そしてマリアが寝ていたベッドがある部屋は……消毒の匂いがする部屋。つまり医務室?
「あ、隼人中佐とのミーティング……」
「俺が付き添っている約束で、隼人はミーティングにいかせた。随分と根を詰めたスケジュールが続いていたらしいじゃないか。まったく、マリアの無茶な噂は聞いていたが、なにもそこまで張り切らなくても……しかも……そんな体調で……」
そこで純一が口ごもってしまった。
「え、私の体調がどうか?」
「うーん、なんと言えば良いかね。そうだな。マイクに『お前は馬鹿か』と言いたいところかねえ」
純一が妙に、口にするのは憚るかのようにぎこちない口調。
自分が倒れた体調を言ってくれない事に、マリアは一抹の不安を感じてしまった。
「あら、気が付いたようね」
寝ているベッドを囲っていた白いカーテンがさあっと開いて、そこから眼鏡をかけた金髪の女性が現れた。彼女は白衣の上に聴診器を下げている。どうやら女医のようだった。
「純さん、席を外してくれる」
「そうですね、ジャンヌ先生。では、暫く……」
その女医は純一に対して妙に親しげな口の利き方だった。そして逆に純一も親しい様子。
「初めまして。ブラウン大尉。マルソーと申します。運ばれてきてすぐに医師が検査をしたのですけれどね、私の所へと判断しましたので……」
「あの、私……」
貧血が酷く、そして過労。
そうとなれば、もしや、フロリダに強制送還かとマリアはおののく。
そんなことになったら、この体調管理を怠った詰めの甘さにて、この大事な出だしでもある出張をやり遂げられなかったという結果を残し、さらにはそれが自分の経歴となってしまう。それは絶対に嫌だと、マリアは慌てた。
「少し休めばどうにかなりますよね。あの、先生──。なんとか働けるように、とにかく元気が出る点滴でもなんでも打ってください!」
診察の結果を告げないうちから、そう叫んだマリアに、マルソー医師は少しばかり驚いた顔。
「貴女、気が付いていないのね」
「貧血ですか? 気が付いていましたよ。ちょっとここ二、三日頻繁になってきてやばいなーとは思っていたのですけど、どうしても休みたくなくて……」
「食欲もなかったでしょう? 例えば、今まで食べられていたものも食べられなくなって……」
「そうです。疲れ切って食べられなくなって……。正直にいうと、吐き気も頻繁にありました」
しかし、女医の次の質問にマリアは固まった。
「生理は、きている?」
その質問に驚いて、マリアは女医先生の顔を見た。
マリアの頭の中でざあと振り返る過ぎた日々、そして様々な出来事。その先に思いついたことの衝撃……。それを彼女が平坦な医師の顔ではっきりと告げてくれた。
「貴女、妊娠しているわよ」
え、妊娠?
マイクとの、子──ということ?
まだ夢の中なのかとマリアは思ってしまった。
Update/2008.2.24