別にもう、結婚なんてどうでも良いのよ。
本当にそう思っている。バツイチになって数年だもの。
だけれど、恋愛は別なのね。
でも、恋愛だけって……。なんだか、それが一番、もどかしくて、やっかい。
これっていつまで続くのかしら?
工学科のカフェでランチを取っていると、パイロットのアンドリューが突然、訪ねてきた。
「結婚することになったんだ。挙式と、そのあとパーティーをするから、マリアも来てくれよな!」
数年前まで、マリアは彼には嫌われていた。
空気を読まない張り切り屋とかいう烙印を押され、心より仲良くなりたかった女の子から遠ざけられるように避けられて……。
しかし、今は違う。
彼等とは懇意にしており、良く集まる仲間の一人だった。
そんな彼が、空部隊からわざわざこの工学科棟のカフェまで足を運んでくれ、尚かつ、彼の手自ら綺麗な花の絵が描かれている招待状を、マリアに差し出してくれているのだ。
「サンキュー、アンディ。ついに彼女とゴールインなのね!」
『やったわね!』と、マリアが肘でこづきながら、おめでとうのからかいを見舞うと、アンディはもう頬を染めて照れまくっていた。
彼は数年前、やっとこさ恋人が出来た。それからずっと仲むつまじい様子で安定したお付き合い。そしてすんなりと結婚へと新しい恋は上手く成就したようだ。
「ちゃーんと、レイと旦那のサワムラ中佐、おっと、今はミゾノ中佐か。夫妻で招待して出席の返事ももらっているんだ」
『レイ』というのは、小笠原総合基地にいる大佐嬢『御園葉月』の、フロリダでの愛称。
十代の彼女を知っている男達は、たいてい、彼女のことを『レイ』と呼ぶ。彼女の祖母『レイチェル』の『レイ』からもらった愛称。
アンドリューと彼女は、訓練校のパイロット同期生。肩を並べて精進をしてきたフロリダでの大親友らしい。
だから、彼は葉月のことも忘れず、ぬかりなく招待をしていることを知って、マリアは飛び上がった。
「うっそーー!! じゃあ、葉月も中佐もフロリダにやってくるの!? だって、ベビーが生まれたばかりじゃない」
「だいぶ大きくなったから、連れてくるって言っているぜ」
「やーーんっ! じゃあ、カイを抱っこできるかもってこと!?」
「かも、じゃなくて。できるだ。俺の結婚に感謝しろよ!」
マリアは招待状を受け取って『感謝する、する!!』と何度も頷いて、アンディ素敵! と、はやした。
アンドリューも、仲の良かった訓練校同期生の葉月が、久しぶりにフロリダに来るとあって、とても楽しみにしているとのこと。そんなことを話ながら、彼は食事をしているマリアの隣にやっと座った。
「なあ、マリア。それでさ……ちょっと、聞きたいことがあるんだけれど……」
意気揚々と結婚報告に来た彼が、急に神妙な面もちでマリアに向かう。
マリアもちょっとドキリとする。どんな真剣な話を持ちかけられるのかと……。
「噂で聞いたんだけれどさ。フェニックス通りにある、ミゾノ元中将の家だけれど……あれ、売り出されるって本当か?」
マリアは『えっと、』と口ごもった。
何故かって……。彼が言うとおりに、そんな話が確かにあるからだ。
「良く知らないけれど……」
と、流す……。
じゃ、ないと、あの口うるさい男に『お喋り』と責められる。
閑静な住宅地、しかも目の前が道路一本隔てて浜辺。そしてフェニックスの風景。高級住宅地ではないが、この界隈では一等地だった。別荘も多い。
そこに御園元中将夫妻は長年、住んでいた。そして一人娘の葉月も十代は、その家で過ごした。
それほど大きくはない。でも、住みやすそうな大きさで、そしてリビングは広い。庭も素敵なお宅、さらに道場もある。
しかし、御園元中将夫妻は、お家の事情によって、中将だった亮介も、科学班で活躍していた妻の登貴子も揃って退官。日本の横須賀へと帰国してしまった。今はこちらに帰ってくる予定はないと聞いている。
夫妻にとっては『仕事人生』の拠点だった家。そこを家族の為、娘の為と、あっさりと出ていき、少しずつ私物がなくなり……。今、その家を預かっているのは、亮介の一番側近だった『マイク=ジャッジ中佐』だ。マリアが言うところの『口うるさいあの男』とは、マイクのこと。
今、マリアが誰と一番親しいかと言われたら、この男になる。
恋人……じゃ、ないと思う? 確かめたことはない。
でも、時間があって誰と一緒にいるかと振り返ると、この男だった。一番話せて、一番喧嘩をして、そして……一番頼りにしていて、一番……気になる人。
彼がどう思っているかも確かめたこともない、マリアもまだ確かめようとは思っていない。ただ、今の関係が心地良いだけ。
忘れぬうちに、こっそりと付け加えなくてはいけないこともある。そんな彼とたった一度だけ『寝た』。でも、それだけ。次の日にはいつも通りの二人。なんかそういうので充分だったのだ。『あの時』は。
そしてそれ以降はまったくなし。元の親しい友人のまま。だから、彼が『亮介パパがここを手放そうかと言い出している』とマリアにだけは教えてくれたのだ。
まだ本決まりじゃないから、マリアはぼかしているのだ。
もし、どんなに親しいアンドリューでも、『……かもしれない』話だけで口を滑らせたりしたのなら、あのきっちりしている男は『不確かなことを簡単に口にして、人を惑わすな』と怒るに違いない。
でも、まて? と、マリアはアンドリューに尋ね返す。
「でも、それがどうしたのアンディ」
するとアンドリューは殊の外、思い詰めたような顔でマリアに迫ってきた。
「あの家、売りに出されるなら俺が買いたいんだ」
マリアはぎょっとした。
やはりあの男が言うとおり! 『売られるかも』なんて言っていたなら、大変なことになりそうだと痛感した!
しかもどこで聞きつけてきたのか? いや、マイクとマリアが口を閉ざしていても、それとなく皆はいずれ売られると予感していたのかも知れない。なにせ、あんなに賑やかだった御園家の『土曜武術手ほどき会』も今では特攻隊長のフォスター中佐とマイクが亮介から引き継いで道場を開いているが、稽古後に恒例だったちょっとしたお食事会はなくなってしまい、手ほどき会に参加していた隊員もここのところ来たり来なかったりで賑わいがなくなっていた。
マイクはそれをちょっと嘆いていた。『やっぱりこの家ではパパが太陽だった』と……。
そんなふうに、閑散としてしまうばかりの『御園元中将宅』。亮介がフロリダに帰ってこないことはもう誰もが分かっていた。彼は日本で、離れていた娘と在りし日を取り戻し、可愛い孫も生まれて、幸せに暮らしているからだ。
だから人々は『あの家はいずれ売られる』と思っていたのだろう。
そしてアンドリューが買いたい訳を……。
「まさか、アンディ。あの家を新居にしたいっていうの?」
「ビンゴ! だって、あの大きさに、あの環境、ばっちりだろ。しかも俺には中将の息子同然と言っても良いマイクというツテがあるもんな」
つまり、彼が兄貴と慕っているマイクを頼って、欲しいと思っている誰よりも先に先約したい魂胆らしい。
「それで、マイクは今、マリアのパパと出張中だろう?」
「そうよ」
「なあ〜。なんとか連絡取れないか? 言っておいてくれよ! 帰ってきたら、なんとか話をまとめてくれないかって」
マリアは『ちょと待って』と言いたくなる。
まだ『売り出す』という話だって決まっていないのに。
「知らないわよ。だいたいパパもマイクも、仕事に出てしまったら『どこにいる』とかいちいち連絡しない主義なのよ。貴方も軍人ならわかるでしょう? 特にパパは中将になってから、すんごいピリピリしているんだから。たとえ家族でも今なにをしているとかどうなっているとか決して喋らないのよ。そういう機密的な地位になっちゃったの。それをパパよりさらに管理をしているあのマイクが、いちいちプライベートで連絡してくれると思う?」
「は〜。やっぱりマリアでも駄目なのか」
「そうよ! 私だって、連絡したら、携帯の電源を切られていることなんてしょっちゅうよ!」
それはご愁傷様……と、アンディも同情してくれた。
まあ、でも。マリアはそこは仕方がないと思っているし、辛いとは……思っていない。
なにせ父親がそんな職務に就いているせいか、幼い頃から『軍人とは』という父親の使命たる感覚は精神の中枢にはしっかり染みこんでいる。
「まあ、そういうことなので、私からのルートは諦めて……」
「帰ったら、直ぐに捕まえるしかないか」
アンドリューは溜息をついて、席を立ち去ろうとしていた。
マリアも招待状の御礼を再度言い、彼を笑顔で見送った。
そしてまた一人のランチに戻って、マリアも頬杖、溜息を落とす。
……実は、マリア。
まだ誰にも言っていない『今、一番悩んでいることがある』。
勿論、現在一番の存在であるマイクにも打ち明けていない。
そんなことを考えながら、マリアはひとり呟く……。
「あーあ、そう簡単にはいかないようね。私もマイクに相談しようと思っていたのに……」
『皆、同じ事を考えているのだ』と痛感した。
あたりを見渡すと、なんだか皆が皆、アンドリューと同じ事を考えているような気がしてきてしまい、マリアも焦る。
マリアの『今、一番、悩んでいること』とは……。
「私も、あの家が売られるなら買いたい!」
実はマリアも、マイクからその話を聞いて『欲しい!』と思った一人だったりする。
もしや、ライバル多し? これは困った状態。
早く、帰ってきてー。マイク!!
マリアは心の中で彼を呼んだ。
・・・◇・◇・◇・・・
前夫の海野達也と円満離婚をして、数年。
その間、マリアは生まれ育った家から、基地の工学科に行き来している。
アメリカでは二十歳そこそこで親元から独立するのが、一般的。勿論、逆にそれぞれの事情があって同居ケースだってあるが……。現在のマリアは特に事情もなく同居をしている、だった。
しかし、兄弟もいない一人娘の為、両親は『自立しなさい』とか急かすようなことはいっさい言わなかった。
マリアだって離婚で出戻ってくる前には『それなりに独立』していた時期がある。
マリアがいる世界は軍人世界の為、独立という前に、大抵の少年少女訓練生は全寮制。マリアも最初は寮にいたほど。訓練校を卒業し軍内にある工科大学に入る時には家に戻り、そして卒業。さあこれで本隊員、今からどうしようかと言う時に、達也と出会って結婚、独立をした。
でも、離婚で戻ってしまった。それからなんとなく、仕事が忙しくなったこともあり、家を出るという時間も取れることなく、ずるずるとそれっきり。出戻り状態で、そのまま。
しかし『離婚した』という心の中の大波も、もうすっかり収まっている。
周りの友人達も結婚していようが独り者だろうが、独立して頑張っている。
特にマイクという一番傍にいる頼れる人は、内地の農業地帯の出身。十代の時に、亮介のバックアップを頼りに単身田舎から出てきて、彼はフロリダ基地一番のエリート秘書官にまで登りつめた……。
そう思うと、マリアのように何度か『それなりの独立』をしたことはあっても、つねに同じ街に両親がいたことなどを考えると、彼に『お嬢様育ち』と突きつけられた事があったのは、それも仕様がないことだなと今は思っている。
そんな様々な要素が固まりに固まって、そろそろ出ていく頃だろうとも思っていた。そして出ていきたいというマリアの強い意志が働いていた。
そこで近頃のマリアが、仕事の次に常に考えているのが、『実家の近くでも良いから、部屋を借りたい』だった。
これはマイクにも相談した。彼も賛成だった。マリアが本気なら、部屋探しは手伝ってくれると頼もしい一言。マリアはその気になっていた。
しかし、マイクの最後の念押しは『それでも、やはり一緒に住んでいることがご両親にとってはなによりも代え難い幸せのはず。それも忘れずに』と……。勿論、マリアも両親の深くて温かい愛はちゃんと感じているから、素直に頷いた。
でも部屋を探しているうちにマイクが言い出した。
『御園のパパが、あの家を手放そうとしている』と。
その時、マリアはすごく驚き……。そしてそれは『絶対に駄目だ!!』と思った。
何故なら、『葉月が帰ってくる場所がなくなっちゃう!!』と、思ったから。
細かい理由に感情などは、マリアの場合、いつも後からひっついてくるものだから、この時咄嗟に思ったことが『売ったら駄目!』であり、その後直ぐに思ったのが、葉月のフロリダでの場所だった。
それ以来、マリアはあの家が売れてしまうなら、私が買って住んで、葉月が帰ってきたときのために管理する! と、思ったのだ。
マイクにはまだ言っていない。マリアだってもう大人。考えついたから即実行的なことは、もうしない。ほんの少しだけでも足を止めて周りを見渡して考えてから『口にする』、『実行する』ことにしている。それにまだ亮介も『売る』とは決めてはいない段階。だからまだ『私が買いたい』とは彼にも告げていないのだった。
だからマリアの部屋探しも、滞ってしまった。
売らないなら部屋を探すし、売ってしまうならマリアが買いたいと思っている。
だが、どうやらあの一等地にある一軒家は、基地の誰もが目を付けているよう?
マリアはマイクが帰ってきたら、真っ先に問いつめて、黙って考えていたことを聞いてもらおうと決めた。
・・・◇・◇・◇・・・
なのに。その男は電話をしても、ちっとも出てくれやしない。
思いあまって父親の方に電話をして『側近のマイクを出して!』と娘として甘えてしまおうかとまで考えたが、家にいる時の疲れている父を思いだして、やめた。
まったく、この人はこんなだから……あんなに大々的に振られたんだ。なんてかなり前のことを思い出してみる。
マイクの中では最高の恋人だった『テイラー博士』。二人とも仕事に熱中するタイプだから、長く会えない時間が生じてもなんとか付き合ってこられた。あまりにも会える時間が少ないから途中から『恋人』という肩書きすらも二人は捨て、たまに空いた時間に会うように……約束も肩書きもない関係になってしまったとか。それでもお互いの心を占めている異性は、貴方、貴女だけ。──と、思っていたのは実は『マイク』だけだったという顛末。
やはりテイラー博士も女性だった。貴方を待っている時間が辛かった泣いていた。そして、仕事よりも恋人の私を選んでほしかった。そんな本心をマイクに投げつけ、いつでも自分の傍にいてくれる男性を選んで結婚を決め去っていった。
それをマリアも実感していた。あの男は仕事に没頭したら、仕事しか見えていない。マリアのことはすっかり忘れているに違いない。
ただ、マリアがあの博士と何が違うと言えば、『今はまだ待っていられる』だった。
それに結婚は、もう、いい……。
結婚してもしなくても、この基地の側にいれば、あの男は舞い戻ってくる。世界の何処へ仕事へ行っても、どんな内容の仕事でも……。
さらに今は父親と一緒で、父親がいつだってマリアのところに帰ってきてくれたように、側にいるあの男もパパと一緒に帰ってくるという軍人の娘としての『確信』と『信じて待つ』ことが出来るから、どんな約束がなくても待っていられる。
結婚という枠にも、あまり意味がないことだって分かっている。結婚しても、そこには一人の女と一人の男がいるだけのこと。相手の心は決して自分のものではないということだった。
それになによりも、仕事が一番であるあの男から、自由を奪いたくないとマリアは思っている。
それでも彼は仕事が終われば、直ぐにマリアに連絡をくれる。『マリー。今、帰ったよ。会える?』──その声を何回も聞かせてもらったから、マリアは待っていられる。
あと数日もすれば、帰ってくるはず。
マリアは携帯電話だけは手放さずに、出かける。
・・・◇・◇・◇・・・
仕事が終わり、マリアはあるところに向かった。
それはなんと、父親の城である『中将室』だ。
基地にいる間、父を訪ねることは滅多にない。もっと言えば、父が中将になってからはなおさら近づかなくなった。
それはマイクがいる秘書室も同様で、用事があれば秘書室に連絡を入れてアポイントメントを取ってから伺うようにしていた。それは仕事上で彼と会う時も同様に。私用で連絡をするなんて皆無だった。
だけれど、マリアはその中将室へと向かっていた。
ただ向かっているのは、中将室に隣接している秘書室の方。
マイクが留守の、秘書室に向かっている。
勿論、『お留守番』をしている秘書官にお伺いを立ててから、出向いている。
電話に出てくれた『お留守番の彼』が言ってくれた。
『今、俺一人だけだから、おいでよ』──と、彼らしく明るくからっと訪問を許してくれた。
秘書室に着いて、マリアがドアをノックすると、その『明るい彼』がドアを開けてくれた。
「いらっしゃい〜。マリア!」
「忙しいところ、ごめんなさいね。ジョイ」
「なーに言っているの! そんな大事な話を聞かされて、あーとーでーっなんて、俺が言うと思う!?」
やはりマリアの今の『悩み』について、マイク以外に相談できる男はこの男だったとマリアはほっとした。
Update/2007.11.12