新卒研修クラスで、空母要員となるための諸々の講義が始まる。
岸本吾郎──満二十七歳。訓練校の教官の判断と勧めで、甲板要員の夢を諦め、滑走路整備員となり、ただ淡々とその職務を全うしてきただけの毎日。一応、そんなキャリア有。
しかし、今は甲板要員を目指す者としては、自分の周りにいる若い青年達と同じポジションにいる。そんな彼等に囲まれて、同じ事を聞き、同じ事を見、同じ事をノートに必死に書き取る。そして同じ場所で、同じ実習をする。そんな毎日が始まっていた。
「あのさ、ゴローは小笠原で滑走路の整備員だったんだろう? どうしていきなり、甲板要員に?」
「しかもあの最新基地のオガサワラから、わざわざここまで?」
講義が終わった後、実習が終わった帰り、そして何気なく一緒に通うカフェのランチで……。まだ少年のあどけなさを残している彼等にそれぞれ交互に尋ねられる質問は、だいたいこの二種が多い。
そして吾郎はこまごまと説明するのが面倒で、どう伝えれば良いか解らず『うーん』と唸る。しかし最後には『夢だったんだ。諦めきれなかったみたいだ。だからチャンスの話が出た時、すんなりと決断してしまっていたよ』と言うと、何故か彼等は熱くなって盛り上がる。それで『ゴロー。応援するよ。俺達と頑張ろう!』と言ってくれる。そんなところは『若さ故の熱さ』で、いいなあと三十路の男は思ってしまうし、どこか懐かしくてくすぐったくて照れくさくい。でも、心地良かった。
まだ純真だったり、一つのことに熱く真っ直ぐな彼等と一緒にスタートを、そして年齢も国も違うがその輪になんとか馴染むことが出来て、まずまずの滑り出しだった。
今日もそうして、彼等と一緒にカフェテリアでランチをしているところ。
「なあなあ、ゴロー! そのオガサワラの上司ってあの大佐嬢?」
好奇心も旺盛なお年頃。
気になったことは率直に聞いてくる。
そして吾郎も丁寧に答える。
「そうだよ。でも大佐嬢が直接的な上司になったのはごくごく最近のことかな。彼女のおかげで滑走路整備員から甲板要員の研修留学ができたというのかなあ」
「大抜擢じゃん! あのミゾノだろう?」
「……かなあ?」
吾郎は年甲斐もなくちょっと頬を染める。
その『大抜擢』という言葉……本当に夢のようで、小笠原で留学する準備をしている間も『あの悪戯なお嬢様にからかわれているのだろうか?』と、何度もそう思ってしまったぐらい。しかし信じられないと一人で戸惑っているその間に、葉月と隼人の素早い手配で、とんとんと実現してしまったのだ。
そんな大佐嬢の『大抜擢』。
いわば、ちょっとしたシンデレラ的。しかも『男共』が、あのお嬢さんの手でめきめきと出世していく……。彼等の目には、そのように映っているそうだ。
しかも彼等は吾郎が知らない『マルセイユ・シンデレラストーリー』を話し始める。
「大佐嬢の大抜擢といえば……。去年卒業したメンテ先輩達も、あの大佐嬢のお陰ですごいことになったんだろう?」
「それだけじゃないだろう。その大佐嬢がその時の先輩を受け持っていた日本人の教官を引き抜いていって、その人、大尉から中佐にステップしてさ。この前の任務ですごい活躍だったって。訓練校でもすごい噂だったもんな」
そんな彼等の『大佐嬢と澤村』の話は、吾郎があの四中隊大佐室の二人を遠くから眺めていた日々と一緒だった。
特に、隼人のことは小笠原でもそんなふうに噂されていた。これも同じく『お嬢さんの大抜擢』と言われている。
吾郎も、そんな一人……と思っても良いだろうか? まだ信じられないのだ。この異国に来ても……だ。
しかし彼等が言いたい『シンデレラストーリー』とやらは、澤村大尉引き抜きのこと以上の話だったよう……。その話が始まる。
「確か、その小笠原に行ったとかいう日本人教官と大佐嬢がさ……」
「……そうそう。Cクラスの最終実習で変わったことをやって、途中課程をうまく省いてしまった最終陸実習にすごく感心した連隊長の許可で、Aクラスの研修終了より先に最終空母艦実習に入ってさ。そのうちの幾人かが『チーム・クロードの実習クラス』に入れたって。これもAクラスより先に陸研修を終えたからだって教官が言っていたよな」
なんだか、彼等が徐々に興奮している。それほどの話題になってきたことを吾郎も察した。
さらに熱の入った彼等の話に、吾郎もかなり興味が……いや、小笠原でお世話になった上官二人が、昨年ここでなにをしたのかが気になる。そんな訓練生まで行き渡るほどの『話題』になったことなど、葉月も隼人も教えてくれなかった。だから吾郎は若い彼等に尋ねてみる。
「なに。それって大佐嬢が去年、このマルセイユに出張に来た時に澤村中佐と一緒にやった仕事のこと?」
「それそれ! 『サワムラ』という教官だったよな」
「そうそう! Cクラスを受け持っていた若い研修教官。大佐嬢と一緒に教えた研修生が、最後にはあの『チーム・クロード』の空母艦実習に選ばれるほどになったって」
吾郎はそこで先ほどから何度か出てきた『チーム・クロード』とは? と、彼等に尋ねる。
「このマルセイユ航空部隊で、トップのメンテチームだよ。ベテランのクロードキャプテンの!」
「最終の空母艦実習研修で、どこかのチームが受け持ってくれるだろう。このマルセイユ訓練生の憧れなんだよ。最後はあのベテランチームにご指導してもらって研修生を卒業! でも……それがね……」
それが? と、吾郎は急にしゅんとしおれた彼等にさらに突っ込んでみる。
「つまり、それが『Aクラス研修生の特権』とでも言うのかな」
「よっぽどじゃないと、俺達Bクラスはクロードキャプテンのご指導は受けられないってことなんだ」
彼等のその話を聞いて、吾郎はやっと理解した。それと同時に……またざざざざっと血が騒ぐ! あの大佐嬢! ここでそんな『伝説』をつくってやがったのかと!!
「つまり、なに!? あのお嬢さんが受け持った澤村中佐のCクラスの新入研修生の幾人かが、Aクラスしか受けることのないチーム・クロードの最終実習を受けたってこと?」
研修クラスメートの若青年達が、そうそうと揃って頷いた。
「まあ、別にAクラスじゃなくちゃ受けられないってわけじゃないから。でもクロードキャプテンが受け入れOKをする研修生が、今まで殆どがAクラスばかり。本当は誰でもチャンスはあるはずなんだけれど、Aクラスがそれほどってことなんだよね〜」
「じゃあ……その『A以外、なかなか認められない』ところを、澤村中佐のCクラスが入った……と言う訳か」
「そう。俺達その話を訓練校で聞いて、みんなで驚いたもんな」
「なんたって俺達Bクラスにはとんでもない話だもんな。噂のミゾノはなにをするかわからなくて、本当にやっちゃうってこれも本当だったんだって。去年の先輩達はラッキーだよ」
彼等の溜息。それは大佐嬢がいればこそ。実力というよりかは、ラッキーだったんだと言っている。
それもそうかもしれない。でも吾郎はこの時一人……解っていた。
『チャンス』──。大佐嬢はその『チャンス』という風穴をあけるには最高の職人なのかもしれない。去年のCクラスの彼等は見事にその『チャンス』を手にしたに違いない。それは単に『ラッキー』な訳じゃない。掴む力がなくては……。
それに彼等がもっと驚くことを言い出した。
「確か、その時のCクラス先輩の一人が、本入隊後にチーム・クロードに配属されたんだよな。これこそシンデレラボーイだぜ」
「噂だろう?」
「そうかなあ。もしそうなら、俺達も〜」
「まさか。やっぱり大佐嬢なんだろう? ここの先輩隊員達も時々口にするじゃないか。ラッキーなお嬢さんがいればなんでも起こりうるってさ」
彼等は、彼女のことを『ラッキーガール』のように言い、彼女がいないのだから、俺達には有り得ないと諦めているようだ。
でも吾郎は心の中で、言い切っていた。
『違う!』──彼女はラッキーガールなんかじゃない。彼女が巻き起こした嵐に皆が巻き込まれて、そこでなにかしらのエネルギーが生まれて、Aクラスを吹き飛ばしたんだって。そこには一人一人の強い姿勢が生まれていたはずだ。そうでなければ、単なる偶然や『ラッキー』でそんなことが起こる訳がない。吾郎はそう思う。なにせ自分がそれを体験したばかりだ。その嵐の勢いで、今は遠いフランスのマルセイユにいて……心の中はこんなに燃えている。だけれど言えるのは『やはり、最後は自分自身の決断』だった。嵐に巻き込まれただけじゃ駄目なんだと。
燃え尽きずに帰れるものか。
何も得られない使い物にならないという結果を出してしまったり、訓練校の教官がそう判断したように『やはりお前は甲板要員向きじゃない』という烙印をマルセイユで押されても、燃え尽きた姿だけは大佐嬢に見届けてもらわねばならない。
でも、この時──。吾郎の心の中では既に一つの言葉が焼き付いて消えなくなった。
『チーム・クロード』!
行きたい……! 切実に思った。
単に今は、始まったばかりの熱意に燃えているからなのだろうか?
でも、これはきっと葉月が生んだチャンスの果てにあるもの。吾郎にはそう思えた。
・・・◇・◇・◇・・・
今日もその悲痛な叫びが、室内に響き渡る。
顔見知りになったパイロットに女性隊員も、その時は何度でも顔をしかめる。
「何度聞いても、聞き慣れないわね。ゴロー、日本人ってああなの?」
初めてジムに来た日もここにいた女性『マルゴ』と並んでランニングマシンで走っているところ。
彼女はやっぱりあの声が耐えられない様子。なんでもその悲痛な声の主の奥さんと、同じ事務職で部署らしい。
「さあ。俺は同じ日本人でも、あそこまでは。それに日本人もフランス人もきっと関係ないと思うよ。だから、それだけ藤波中佐の意志が強いってことじゃないかな」
「強いって……。やっぱり私、ユキエ側にしか考えられないから……。自分の旦那があんなになったら『もうやめて』って言うわ」
「だよね。奥さん、出産したばかりとか……」
彼女は既婚らしく、やはり旦那がここのパイロットなのだそうだ。
だから藤波夫妻にその妻とは共通話題が多く、親しくしていたとか。ただ今は、藤波夫人の方は出産を終えたばかりで産休を取っているとのことだった。
そんな中、夫の彼があれだけ不安定な日々を送っているだなんて……。吾郎の脳裏に、きっと葉月は藤波夫人のことも心配しているだろうと思うと知らせたくなる衝動に駆られたが、隊長の必死な『男気』を男として粗末にしたくなく、首を振る。
そんな吾郎の苦悩する姿も、隣でランニングをしている彼女には通じたよう……。
「安心してよ。ヤスオも家庭では今まで通りに良き夫だとユキエが幸せそうに言っていたから。それにヤスオったら、生まれたばかりのプチココちゃんが起きている間は、同じような子供になってユキエも大変らしいわよ〜。もうそんなユキエも結局、のろけているのよね。安心したけれど」
その話に、吾郎は『えー!』と目を丸くし……目の前で必死の形相でリハビリトレーニングをする康夫を見てしまった。
でもその話に吾郎は安堵する。あんな必死に自分で自分を追い詰めているような日々を送っている彼にも、ちゃんと心を休める場所があるのだと。なんだ、それならかなり安心じゃないかとほっとさせられた。
「まあ、つまり。ヤスオがあんなに頑張っちゃっているのも、そのプチココちゃんが生まれたからなのかも。これから俺が女房に娘を守っていくんだって気持ちの表れなのでしょうね。妻として女としても嬉しいけれど、でもやっぱり無茶するぐらいなら、ゆっくりして欲しいがユキエも本音みたいよ。でもヤスオがあそこまで回復したのだって、ユキエと赤ちゃんを守りたかったからなのよ。この基地のみんな、そこをとても理解しているのよ。でもね。毎日、こうして見ていると……やっぱりね……」
彼女は『辛いよね』と、吾郎に致し方ない笑顔を見せる。
そしてまた聞こえてくる『悲痛な絶叫』。
でもこのトレーニングジムに通うようになった吾郎は、ベンチマシンで鍛えていても、ランニングマシンで持久力を養っていても……その康夫の声が聞こえてくる度に何かに後押しをされている気になってくる。
また藤波康夫の足が思うように言うことをきかないと言う叫びが響き渡り、吾郎は全速力で走りながら、自分も叫んでいた。
「ぐわーーーーっ! くそ、くそ。負けるものかーーー」
康夫の悲痛な叫びと共に、素っ頓狂な声を張り上げた吾郎。だから隣の彼女がぎょっとした顔。
「な、なあに? もう、日本人ってイヤ! 訳わかんない!!」
だけれど、彼女もガンガンと走り始める。
それどころか、顔見知りになったマッチョなパイロットまでがガンガンとベンチマシンを忙しく動かして、もの凄い気合い。
なんだろう? 近頃、ジムの中がすごく熱くなったような気がしていた。
そして康夫は、今日もがっくりとした背を丸めた姿でひっそりと帰っていく。
吾郎はあの日以来、彼と言葉を交わしたことがない。
彼は自分のことに必死だし、吾郎もそれを邪魔したくないと思っているから。夕方、毎日一緒にトレーニングをして顔も見ているのに、ずっとそんなだった。
吾郎もひたすらトレーニングを黙々と続けるのみ。
まだ基礎の基礎。チーム・クロードへの第一歩は間違いなく、今やっていることなのだからと──。
でも、少しがっかりしていた。
大佐嬢のように生き生きと、威風堂々に中隊を率いる『青年中佐』に会えることを楽しみにしていたからだ。
勿論、事情が判った以上、そこを期待しちゃいけないのは理解している。でも、皆が言うのだ。彼はもっと陽気で明るくて、そして男気も格好いい『日本男児』。フランス基地の『サムライ』だと。吾郎もその姿を見たかった。葉月と離れてしまった分、葉月とおなじものを感じ取れる人間から、あの身震いがするような唐突に湧くエネルギーを感じてみたい。それを期待していたのだが……。やはり、今の彼からは無理だろう。
そして吾郎など、今の彼にはなにも出来ないのだから。
今日もただ、彼の項垂れる小さな姿を見送って終わる。
・・・◇・◇・◇・・・
だいぶ慣れてきた頃のこと。
若いクラスメイトと、いつものランチをしている時だった。
「ここ、空いているわよね」
若い青年達数名と和気藹々と固まって、笑いあっている席。
そこに、まったく無関係の女性が割り込んできた。
しかも日本語? 吾郎は驚いて、青年達の輪の中に割って入ってきた女性を見上げた。
「あ、空いているように……見えますか?」
戸惑いながらも、率直に返していた。
するとその黒髪の女性が頬を引きつらせている。
吾郎には彼女が何故、そんなことを言いだしここに来て、さらに『ちっとも空いていない席』に来たのかが解らない。
吾郎が今いる輪は、一目で『新卒研修生』と解る若い青年が固まっている一団だ。
先輩達に遠慮しながら同期生で助け合って固まっている席には隙間など無い。そこへ、女性隊員がやってくるなど皆無な状況の中、その黒髪の女は『空いているわよね』などと強引なことを言い、強引に割り込んできたのだから。
当然、吾郎の周りにいた研修生達も眉をひそめている。だが日本語がわからないから、そこは吾郎にお任せという顔で固唾を呑んでいる。
理由があるとしたら? 同じ日本人だから声をかけてくれた? としか思えない。
そして強引なことに、彼女は吾郎の隣に座り込んでしまい、手にしていた珈琲カップをツンとした横顔で傾けている。なんだかすごく威張っているように見える。しかもそっちからやってきたのに、一言も話さない。まるで吾郎から何か言えと脅迫されているような気分になってきた……。
「日本人ですよね。どちらから……?」
「横須賀よ。それがなにか」
なにか? って、あんたから俺の隣に来たんだろう??? と、流石に吾郎も苛ついた。
幾つぐらいだろう? 三十半ばかな? と吾郎の直感。顔立ちは綺麗だが二十代の雰囲気ではなかった。それに目元がとてもきつい女性。でも肩には『大尉』の肩章。どうやらキャリアがある女性と言うことのようだ。
その彼女の顔から、どのような人か考えていると、彼女は珈琲カップをことりとテーブルに置いて、やっと……吾郎に向かって『にっこり』。微笑むと綺麗な女性だったが、吾郎としては逆に恐ろしさを感じるほどの、落差ある表情。
「ふふ。貴方は若いわね。ここにいる学生達より少し上? 小笠原から来たのでしょう? メンテ員なら『隼人』の勧めで来たのでしょう? 彼、元気? 私、彼のことはよーく知っているのよ。やっぱり彼は出来る男だったわけよね。中佐になってしまうなんて……流石、私が選んだ男だわ」
彼女は勝手にぺらぺらと喋りまくる。しかも『隼人』という名が出てからは、彼のことばかり。
もしかして……? 吾郎もそう勘ぐったが、でもそれが本当ならかなり幻滅? あの澤村中佐が『こんな女性』と? 美人だけれど……なに、この『自己中心』な単独プレーで気分上々な顔をして吾郎の隣に座っている『おばさん』は! 益々むかっ腹がたってきた吾郎は『隼人は若い頃から優秀で、訓練校もトップクラスで卒業で〜フランスでは芽が出なかったけれど〜』なんて繰り返している彼女の話の腰を折るように言ってやる。
「澤村中佐はお元気ですよ。大佐嬢との連携で小笠原では大変な活躍をしております。彼女の側近だけじゃなく、もうすぐ彼女がいるフライトチームのメンテチームも結成しますし。その行動力が大きく評価されています。俺も、そのメンテチームの一員として滑走路整備から甲板要員にならないかと大佐嬢と澤村中佐に引き抜いてもらって……それで中佐の薦めで、澤村中佐がいたここを手配してもらったんです」
すると腰を折られた彼女はムッとした顔。そして見る見る間に恐ろしい表情に変わり、吾郎はまたどっきりとさせられる。
その彼女が持っていた珈琲カップを、ごん! とテーブルに叩きつける。若い彼等がそっと見守ってくれていたが、彼等がざっと二、三歩後ずさるほど、彼女の顔があからさまな憎々しい表情に……。彼等の幾人かが『ゴロー、なにしたんだ! 大尉だぞ』とか『大丈夫なのかー!』と遠巻きに声をかけてくれる。だが吾郎としては徐々に解ってきた気がする。この人は……澤村中佐を好きで、彼のことが忘れられない……やはり恋人だったのか? 片思いだったのか? ということは、だ……吾郎がそこで思ったことを彼女が声に出した。
「あんたも、あの泥棒猫の信奉者ってわけね!!」
やっぱり! 葉月を恨んでいた!
しかも、その恨みの火の粉は吾郎にも降りかかってきた。
「あの泥棒猫、またこんな奴を嫌みったらしく送りつけてきたわね! 彼女になんていわれたの? 『寝てやるから、私の所においで』って言われたのでしょう? それで彼女に惚れちゃって、それであんたはやる気満々ってわけね!」
……吾郎、頭の中で、ぷちりと小さな音が聞こえたが、なんとか堪える。
たとえそのように思っていても、ここに日本語がわかる者が少なくても、公然の場でそんなことを言っちゃいけないことぐらい彼女の年齢なら吾郎よりも重々承知のはず? いや、それともこれがこの女大尉の特徴なのだろうか? とにかく今、目の前にいるのは吾郎より大人の女性には見えなかった。
まあ、だいたい呑み込めてきた。隼人の元恋人だか熱烈な片思いかは解らないが、とにかく大好きな彼を、あのお嬢様にあっさりとさらわれてしまったのだろう? その執念がまだ燃えていると言ったかんじだ。今、吾郎の耳に聞こえてくるのは『葉月の悪口』。泥棒猫に始まり、魔性の女で男を次々と騙していく悪女で、親をバックに仕事も自己中心的にやりたいほうだい。常識破りもいいところ、それを周りの男達が許して擁護しているのがおかしい。だから身体をつかっているんだと……。かなりの侮辱振り! そしてその顔、醜い鬼女。そんな女性のどこからも、女の魅力も人としての魅力も垣間見れない。彼女は昔はとても美女で優秀で魅力的だったのかもしれないけれど、ずっと前からこの様な有様だったのなら、そりゃ……あの澤村中佐だって愛想を尽かすわな。と、吾郎はそう確信した。
そして吾郎はまだまだ葉月の悪口を並べ立てて興奮している女大尉の目の前に、ゆらりと立ち上がる。
「ここ、俺達学生が休憩している席です。大尉の偉い言い分は後で聞きに行きますから、ここをどいてくださいませんか」
彼女の目を、既に睨んでいたと思う。
静かに言うのが精一杯。本当はかなりの怒りが吾郎の中に渦巻いている。
何故? こんな女性がマルセイユに? 隼人は何故? このような女性に? ああ、でも解る。こんな女性がもし……間違って恋人になったら吾郎だってここから出ていきたくなるだろう? それにしても澤村中佐らしくない。出ていくならちゃんと片をつけていそうなのに。……いや。まて、この女性には皆無だったのだろう。吾郎の中でそのような境地に至った。
そして目の前の彼女は吾郎の『出ていけ通告』にふるふると震えている。
「あなた、誰に向かってそういっているの」
「大尉にです。いかなる処分も受けますから、もうその口を閉じていただけませんか。学生の前ですよ。『みっともない』と思いませんか?」
「なんですって!」
彼女もがたりと立ち上がり、吾郎の前に立ちはだかった。
そして彼女は歪んだ醜い顔で、飲みかけの珈琲カップを片手に振りかざし、吾郎に向かってばしゃりと中の茶色い液体を振りかけてきた。
なんとなく……。彼女がそれをやりそうな気がしたし、そして彼女が飲みかけのカップを吾郎に向かって振りかざしたモーションもスローに見えたほど。勿論、避けられるスピードではなかったから、吾郎にはやや熱めの液体が、白い訓練服にべっちゃりと染み付いていた。
周りで見守っていた若いクラスメイト達が流石にここでは『ゴロー!』と駆け寄ってきてくれた。しかし彼等は吾郎より血気が多い。ここはと、吾郎は彼等を背中で制して鎮めさせようとした。それをいいことに、鬼女が吾郎を指さし叫んだ。
「泥棒猫に立派に仕込まれているわね! そりゃ、そうよね。あの女がいなければ、あんたにだってチャンスなんかちっとも巡ってこなかったはずなんだから! なんでもかんでも彼女のお陰、だから彼女の為ならなんでもやってやる!」
そして彼女は堪えに堪えている吾郎に最後にこう吐き捨てた。
「あんたも隼人もそんな汚い男なのよ! あの女はもっと汚い!!! だから大佐になれたのよ! あの女は魔女、魔女なんだわ!!」
もう〜、我慢限界だ!
なんだ、この女! どこの世界の中心で叫んでいやがるんだ? こっちの世界がかなーり別世界になっているだろう! 吾郎は彼女を指さして、『お前の方が魔女だ!』 と言おうとしたところだった。
そんな女大尉と吾郎の間に、すっと黒髪の男が割り込んできた。
「おい、魔女」
しかも、その男。来るなり手にしていた水入りコップを彼女に向けて、躊躇うことなくぶっかけていたのだ!
ぼさぼさに伸ばしている髪、そしてあの鬼気迫る眼光の男。藤波康夫がそこにいた。
ここで吾郎も、背中にいた若い彼等も後ずさった。
もちろん『魔女』も、びしょ濡れにされて唖然とした顔。まさか男性にここまでやられるとは思っていなかったのだろう? だがそれも一瞬で、また魔女の顔が戦闘態勢に入った。
そして妙に楽しそうな勝ち誇った笑みを、ゆっくりと康夫にみせつけるかのように微笑むと彼女は下がりっぱなしだった口角をこれでもかというぐらいににやりと引き上げる。でもそこにはなんとも醜いしわができ、たるんだ頬の肉がその口角に垂れ下がるように見え、益々、醜い中年の顔に。吾郎は心の中で、魔女じゃなくて『山姥、ヤマンバ』かなあと思ってしまう。その顔でも彼女は誇らしげに、目の前に突然現れた敵に言い放つ。
「あんたには魔女の効力がなくなったみたいね。パイロットじゃなくなったんだから、早く日本に帰ったら? 彼女の所に行けば、いくらでも出世できる仕事をくれるはずなんだから〜」
吾郎はひやっとした。この女大尉、一番言っちゃいけないことを言いやがった! あれほどに苦悩している男の一番核心である部分『パイロットじゃなくなった』と。
だが目の前の鋭い眼光の男は黙っていた。
吾郎は流石だと思った……。男の中の男は、こう言う時こそ、どんなに痛いところを探られても毅然としているものなのだと。それこそ、彼がまだパイロットの誇りを捨てていない証拠。捨てていれば彼女が言ったことが図星だったことになるし、ここで同じように騒げば彼自身がその心情を認めることになるのだから。
そして彼はそんな彼女に静かに言った。
「高橋。この小笠原の男の話で解っただろう。隼人兄はここにはもう二度と帰ってこない。待っていても無駄だ」
すると今度は彼女の方が、なにかをいきなり悟ったかのように狼狽えた。
つまり図星だったということらしい?
「さらに、軍隊ではもうあんたを欲しいと言ってくれるところはない。ここでなんとか頑張っているだけだろう。ここしか居られないからな。荒れる気持ちも察するよ」
どうしたことか……。彼女は怒りたいような顔をしているのに、でも唇を震わせているだけで、もうこの中佐には噛みついてこなかった。
「ここを出ていきたいのに出ていけない。出ていきたいなら、俺にも考えがある。もし本気なら、俺の所に来な。日本に帰る手伝いをしてやるぞ」
「……どういうこと?」
「まあ、来てくれたらの話だけれどな。あんたにとって俺なんか、言葉も交わしたくない男だろうけれど? それならそれで、ここの工学科で婆さんになるまで踏ん張れよ」
彼が『それだけだ』と言うと、彼女はなにかに追い立てられたような泣きそうな顔になって走り去っていった。
……気のせいか。吾郎は急に、魔女の見てはいけない姿を見てしまったような気がして哀しくなってきた?
「あの……有難うございました。あの人は……?」
「どうってことないやつだよ。ああいう女なんだ。昔から」
「なんなのです? あのおばさんは……」
吾郎がそういうと、致し方ない苦い顔をしていた康夫がびっくりした顔で振り返った。吾郎もびっくりだ。
すると彼が急に高らかに笑い始める。
「ぶ、わははは! 『おばさん』だって? あいつ、昔から自称『美女』なんだぞ。今だってそう思っているはずだぜ!」
「自称『美女』? とんでもないっすね。どう見たって『おばさん』じゃないですか? 昔は美人だったのかもしれないけれど、あの人の表情が凄まじい『ひがみ根性』を物語りますよね〜。なんすか、あのドロドロ世界にどっぷり浸かっちゃっている妄想的でしみったれた感性は。あれじゃあ、澤村中佐だって逃げるって」
「隼人兄が逃げる! わははは! 確かに確かに。あの兄さん、逃げていったと言えるかも!」
どうしたことか康夫は、あれほど切羽詰まった姿ばかりを吾郎に見せつけてきたのに、今は目の前で腹を抱えて笑い転げているのだ。
吾郎の背中にいる彼等が『フジナミ隊長が笑っている!』と驚いている。さらに気が付けば、カフェテリア中の隊員がこちらに注目していた。
最初は皆、そんな藤波中佐が笑っている姿を見て戸惑っていたが……。
やがてあちこちから『フジナミが楽しそうに笑っている!』という喜びを思わせる囁きが聞こえてきた。それどころか彼を知っているだろう男性隊員達が駆け寄ってきて康夫を取り囲んでしまった。
「おい! フジナミ、何がそんなに可笑しいんだよ。どうやって魔女を退治したんだよ」
「日本語じゃわからねーよ。俺達にも教えろよ!」
彼等はよってたかって彼女のことをはやし立てたいわけじゃなさそうで、ただフジナミという良く知っている男が笑っているのがとても嬉しい様子だった。
そして康夫本人も……なにかとても楽しそうに見えた吾郎。
「ゴロー! もうすぐ午後の実習が始まる」
「いそげ!」
わ、本当だ。と、ゴローは汚れた訓練着のまま、若い彼等と食事の後を片づける。
そして慌ただしく、騒動が起きたテーブルを離れることにする。その前に、目の前にいる上官に皆で『敬礼』。
するとあのもっさりとして彷徨っていたかのような男がなんとも凛々しいぴしっとした姿で、若い彼等に敬礼を返したのだ。
そうしたらもう……若い彼等は大喜び。そのまま駆け出して行く。吾郎もさらに一礼をしてそこを去った。
「やっぱフジナミ隊長も格好良いよなーー!」
「カミカゼ、サムライ! 俺、飛ばしてみたーい!」
どうやら基地の中でも、人気あるパイロットのようだ。
なんだか吾郎も嬉しくなっちゃうのは、同じ日本人だからなのだろうか。
それにしてもなんだろう? あの女大尉。
ま、もう……関係ないかと吾郎は思った。
以上に、二度と会いたくありませんと祈った。
しかし、この後、吾郎の願いも虚しく会うことになるのだが……。
・・・◇・◇・◇・・・
研修の一日のカリキュラムを終え、その後の夕食までの自由時間も、吾郎は自主トレにジムへと通っていた。
ところがここ数日──康夫の姿がない。
他のトレーニングメンバー達も不思議に思って、いや、心配していて、一応同じ中隊に所属している吾郎に『どうしたのか』と尋ねてくる始末……。吾郎だって滅多にお目にかかることがない自分が所属している教育部研修班を束ねている中隊のトップなのに。同じ日本人で『サワムラと知り合い』というだけで、皆がその康夫と親しいのだと思いこんでしまっているのだ。
本当に解らない。挨拶も済んだから、中佐室を訪ねる理由もない。さらに、あの魔女の件から数日。あんなに笑ってくれた中佐とは会うこともなく、話すこともなくだった。
「ゴローなら、訪ねていっても大丈夫なんじゃないの?」
マルゴが、まるで『ゴローが様子を見てこい』と言わんばかりのひとこと。
それどころか他の男達まで『ゴロー、行って来いよ』なんて言う。
「あんなに毎日毎日、取り憑かれたように無茶なリハビリをしていたのにおかしいと思わないか?」
と言い出したのは、マッチョパイロットの『ボリス』。
「それが急にぱったりと来なくなったのはおかしい。逆にどうしてそんな心境になったのか、心配だよ。俺達パイロットも、フジナミキャプテンのことは他人事じゃないからな。着任して殉職寸前だぜ。俺達、若い頃からコックピットに乗れるようになるのに必死になって、さらに乗れるようになっても必死なんだ。努力して手に入れた座席を追われるのってなかなか踏ん切り付かないだろう?」
それはパイロットでもない吾郎もなんとなくでも察することはできるし、隣にいるマルゴも同じく。
「うーん、じゃあ。なにか口実を作って行ってきてみるよ」
なんで俺が〜。と思う。
マルゴは康夫の奥さんと仲が良いはずだし、それにボリスも所属中隊は違っても同じパイロットで、ここのジムに毎日通う者として顔見知りのはず。
でも何故か、皆は『ゴロー行け行け』というのだ?
その帰り、マルゴがちょっと楽しそうに笑いながら吾郎に言った。
『私もついね。なーんかゴローを見ていると、ハヤトと重なっちゃうのよね』──と、言うことらしい。だから、ハヤトならヤスオのことわかるでしょう? 聞いてよ、聞いて来いよ。という感覚だったらしい。
それだけ康夫と隼人は仲が良くて、いつも一緒に仕事をしていたということ。それを皆が吾郎が来て、カフェであの魔女と対峙し、康夫が間に入って……。そして最後に男二人が魔女を追っ払って笑う。その図式を見て、どうも吾郎の向こうに皆が懐かしそうにして『ハヤト』を見てしまうのだと。
これを聞いた時、吾郎は別段、なんとも思わなかった。
同じ日本人だから、隼人と重なっても仕様がないだろうぐらいにしか──。
ところがこの後。吾郎にとってマルセイユまで送り出してくれた先輩隼人は守護神のように思えていたのに、徐々に吾郎にとって『亡霊ハヤト』と化することになる。
それからまた十日ほど、経ったか?
やっぱり康夫は顔を見せないし、姿も見ないし、またもや吾郎が訪ねていっても金髪の補佐に『忙しそうにしています』と言われ、会うことが出来なかった。
吾郎も気分転換。
だいぶ慣れてきたマルセイユの市内に出てみる。
なんだか知らないけれど、カフェテリアのコック『フィリップ』から、美容室の割引チケットをもらってしまったのだ。
なんでも奥さんが受け付け事務をしているらしい。日本を出てきたから、だいぶ伸びてきたので丁度良いと思い、クラスメイトも誘って出てきた。
フィリップが教えてくれた地図に従って、土地勘があるクラスメイトについてやってくると、そこには真っ赤なスタイリッシュな美容室がある。
「げ。なにかの間違いじゃないのか? めっちゃお洒落なサロンじゃないか。ゴロー! 本当に割り引きしてくれるのか?」
何故か吾郎だけにチケットをくれたフィリップ。なんでもそのチケットを持っていけば半額にしてくれる上に、クラスメイトもOKと言ってくれた。だからこうして来たのに。普段、がさつで汗くさい男ばかりの体育会系な集団生活に染まっている吾郎に若いクラスメイト達。こんなお洒落な場所には出向くこともないし、何年か社会人生活をこなしてきた吾郎はまだしも、若い彼等は訓練ばかりの日々で、私生活は至って素朴な修行中の身。こんなお洒落なお店に来る余裕などないのだ。
確かにお洒落な女性客ばかりが見える店内。しかもすごく綺麗なお姉さん達に格好良いお兄さん達が忙しそうにカットしたりブローしたりしている。
そんな店に楽しそうに入る余裕だって、研修中の吾郎にも青年達にも、ない。
だが、そこで怖じ気づいていると、店の中をゆったりと歩いて見回っている栗毛の女性と目が合った。
そして彼女は暫く吾郎を見つめ、すぐさま何かを確信したような喜びの顔になってこちらに駆けてきた。
店の赤い扉が開き、その上に付いているベルが『カランコロン』と鳴り響く。そして彼女は石畳の舗道をヒールを履いた足でも軽快に飛び跳ね、吾郎の目の前に一直線にすっ飛んできた。
「もしかして、貴方がゴロー!?」
彼女は戸惑っているゴローの両手を取ると、もう直ぐそこ、吾郎の鼻先でキラキラとしたアクアマリンの水色の瞳で真っ直ぐに見つめる。そしてはつらつとした輝く笑顔……。
「ええ、ゴロー=キシモトですが……」
「きゃーー! 黒髪、黒髪が来たわ♪」
彼女がぎゅっと抱きついてきて、吾郎は唖然。
彼女は吾郎に抱きついたまま、かなりの興奮状態。
いったい、どういうことなのでしょう?
でも、吾郎。そんなに嫌な気分じゃない。
そこは男。しかも異国の、こんな美女に抱きつかれて、嫌な思いなんてするはずもありません──。徐々に自分の鼻の下が伸びているのがわかりつつ、吾郎は彼女の髪から香ってくる柔らかい甘い匂いに、ついに悩殺状態に追い込まれていた。
十代の頃から訓練校生活、軍隊に入っても男の世界。しかも離島の基地。実はそんなに女に免疫ないんです、ボク。
すでに吾郎の頭の中は、くらりくらりとしていた。それでもまだまだ、突撃してきた可愛らしい彼女の無意識の攻撃は止まらない。
「来てくれて嬉しい。私、セシル。貴方の髪、私に切らせてね」
きらきらの水色の瞳。甘い眼差し。
一目惚れ宣言しちゃっても、良いでしょうか〜???
若い彼等も彼女を見て、にっこにこ。
すっかりこのお洒落な美容室にお世話になる気になってしまい、彼女に誘われるまま訓練生集団はついに『オサレな美容室デビュー』をすることに。
しかし吾郎、実はここに一番巨大な『亡霊ハヤト』がいることに後になって気付かされることになる。
Update/2007.9.12