【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![1]

 潮の匂いが違うなあ……。
 晴れ渡っている空を見上げると鼻先を掠めていく青い風が、そう思わせる。
 ちょっと無心になる瞬間。

「ゴロー。お前、俺の話を聞いていたか?」

 現実逃避、失敗。
 吾郎が着ているメンテ作業服の襟首を掴まれ、軽々と上へと引っ張られた。
 目の前にいるのは、吾郎がお世話になっているメンテチームのキャプテン『ジャン=ジャルジェ少佐』。
 ものすごく怒った顔をしている。でも、吾郎はまだとぼけた顔をして見せた。

「えっと。聞いてはいましたが……」
「俺、なんて言った? 言ってみろ」
「暫く甲板は降りろ。先ずは基礎体力をつけてこい。明日から一ヶ月ないし二ヶ月、みっちりと……」

 すると、キャプテンは『ふん』と荒い鼻息をとばし、吾郎の襟首を放してくれた。

「どうした。やはり、小笠原が恋しくなったか」
「いいえ。このまま帰ったのでは、大佐嬢に合わせる顔がありません」

 それは本心で迷わずに彼に言った。
 今度の彼は笑顔になる。そして『よく言った』と労ってくれた。

 今、吾郎はマルセイユ航空部隊が訓練で使っている空母艦の上にいる。
 ……しかも、今日、初めて乗ったのだ。初めてというのは、メンテ員として初めて乗ったのだ。
 つまり『憧れの甲板メンテ員』として、今日は特別に参加させてもらっていた。とりあえず、キャプテンの横に、金魚のフンのようにひっつき回って、キャプテンの言うとおりのことをやっただけ。機体に関しての基礎知識はあるのだから、普通のことはできる。あとは担当機種の特徴を学ばなくてはならなくなるのだが。この日は、キャプテンの責任でということで、まずは『動きながらの見学』だった。

 しかしである。キャプテンだからなのか、それがマルセイユ航空部隊のレベルなのか、それとも? これが滑走路で輸送機やチャーター便のメンテをしていた者と甲板要員の違いなのか? すっごく動き回るし速い、やることいっぱいあるし! なによりも、滑走路で『何時に着陸、離陸』とかいう余裕ある時刻割りとはまた違う。とにかく、カタパルトから見送ると言ったら、なんですか……あの秒刻みの発進アシストは? 知ってはいましたが、目が回りそうになりました、ボク。というほど、吾郎は圧倒されてばかりだった。だから、最後にはくったりとなっていた。ただキャプテンの横にひっついて走っていただけになり、そこを感じ取ったジャンキャプテンも、最後にはなんの指示も与えてくれなかった。

 そしてやっと終わったなあ、と思って空を見上げたら、このキャプテンに『お前、まだ無理』と通告されたのだ。
 まあ、当然のことだろう。

「でも、まあ。最初は俺の指示に迷いはないメンテをしてくれたから、甲板要員の講義と実習を終えたら、あっと言う間だろうな。それは保証できる」
「メルシー。少佐」

 と、ジャン先輩は『初日』を労ってくれ、その後の激励もしてくれた。
 しかし、吾郎は、訓練校卒業ほやほやの新入隊員研修生と同じクラスに放り込まれることが後で決定になったほど。キャリア無しの初心者扱いをされることになる。
 だが、それも覚悟していた。
 初日を迎えたばかり、吾郎の心はまだまだ燃えていた。

 

 まだ走ることを許されていない甲板には、色とりどりのベストを着て走り回っている先輩達。
 小笠原と違い、多い人数で構成され、ひとつひとつのポジションに決められた色のベストを着て役割分担されている。

 小笠原の澤村中佐と同期で親友だったという『ジャンキャプテン』は、この大人数メンテを取り仕切る責任者。さすが、澤村中佐と親しい人だけあると、吾郎は納得、でも圧倒されるばかり。
 そのジャンキャプテンが言った。
 ──フロリダでもここでも、細かな役割分担でそのポジションだけの仕事を任せる形式が決まっているが、人数が少ない小笠原では、色分けベストを配るまでに至らないほどに、一人一人の負担が大きく、いくつもの作業を担当することになるだろう。──と。つまり、小笠原は少数精鋭で今はやっているということ。それが如何なることかという話。
 つまりは、ここにいる男達以上にならねばならないということらしい。

 そう思うと、夢だけで後押しをされて出てきた心が、ちょっと自信をなくしそうだった。
 でも、聞こえてくる……彼女の声。

「待っているわよ。貴方の凱旋」

 栗毛のクールな眼差しの、遠い存在だった大佐嬢。
 でも、実際は子供っぽいお転婆で、皆を振り回しているお嬢ちゃん。

「帰ったら、お嬢さんの機体を飛ばすよ」

 「待っているわ」、「待っていてくれよな」。
 そんな約束をした。
 彼女がいなければ、吾郎の中に閉じこめていた夢は目を覚まさなかっただろう。
 でも、彼女が覚ました。そして吾郎は覚めたままに、このマルセイユにやってきたのだから、まだまだこれから!

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 初日の訓練が終わり、今後の話し合いを、ジャン先輩と交わした後、吾郎は受け入れてくれたこの中隊の長がいる『本部』へと足を運んだ。
 今日の訓練が始まるまでは、こちらの基地で過ごす為の準備に追われていた。
 でも、そこはどんなに手続きだの、日常生活の準備に駆けずり回っていても『日本人の中隊長』には挨拶をしておくべきだろうと、この基地に到着して直ぐに訪ねたのだが……中隊長は留守だった。
 その時、中隊長の補佐をしているという金髪の大尉が一人、補佐席にいるだけ。彼はにこやかに『大佐嬢が送り出したというのは君なんだね』と迎えてくれたが、吾郎が『隊長に挨拶に来ました』と告げると、彼がとても困った顔をした。『悪いね。たぶん、今日はここには来ないよ』と……。そういうこともあるだろうと思った吾郎は、では、また次の日に……と下がった。しかし、それから毎日顔を出しても、その『中隊長』に会えなかった。その度に金髪の大尉は『本当に悪いね』と心底申し訳なさそうな顔を見せ、『中佐がここにいる時にメンテ班に連絡するよ』と言ってくれた。
 ところがそれからも連絡が──ない。いくら連絡をくれると上官の彼が言ってくれたとしても、やはり任せっきりは良くない。吾郎は改めて、中隊長に自ら会いに行こうと向かっていた。

 おかしいな。確か中隊長は、あの大佐嬢の同期生で、かなり親しいと聞かされている。
 だが、一度も会っていない。向こうだって隊長なのだから、親友の彼女が送り出してくれた隊員が来ることぐらい分かっているだろうに? どうして会ってくれないのか。それとも既に俺は何か失礼なことをしたのか? 吾郎はたった数日を振り返り不安になる。……まさか、こんな不安になるだなんて思わなかった。
 この修行に来るに当たって、吾郎がとても安堵したのは、メンテのキャプテンが澤村中佐の親しい友人であること、さらに受け入れ中隊の隊長も大佐嬢である葉月の昔馴染みであること。お二人がとても信頼しているフランスの友人だから、吾郎だって思い切りをつけて遠い南フランスにやってこれたのだから。
 なのに、その中隊長『藤波中佐』にまだ一度も会っていない!

 金髪の補佐は、吾郎が来る度に申し訳ない顔をするが、どうして不在なのかは『忙しいのだよ』としか言ってくれない。今日もそう。
 そして『今日も会えなかった』とジャン先輩に報告すると、彼は眉間に皺を寄せて深い溜息をつくだけだった。ジャン先輩に『なにかあるのか』と聞けば、彼はただ首を振るだけ。

「お前、お嬢さんからどう聞いている? うちの隊長のこと」

 キャプテンは自分の口からは言い難そうな分、親友の葉月が隊長のことをなんと説明して送り出してくれたのか、と……逆に吾郎に尋ねてくる。

「大佐嬢からは、この前あった春の岬任務で、同期である藤波中佐がテロ犯に撃墜されてしまい機体と共に墜落、大変な怪我をしたけれど一命は取り留めて、今はリハビリ中……と。それだけですが」
「だろうな」

 『だろうな』って? 彼は彼女がそれだけしか言わなかった事をよく分かっているような口振り? 藤波中佐に会えないことや葉月が余り詳しくこのような事情を説明してくれなかったことがなんなのか、吾郎は訝しく思う。
 するとこちらのキャプテンは急に頭を抱えてうなだれ、本当に困ったように言った。

「うーん。俺からは、やっぱり言えない。恐ろしい」
「恐ろしいって、なんですか?」

 流石の吾郎も、噂の大佐嬢同期生に挨拶も出来ないもどかしさが募り、先輩の彼に詰め寄ってしまう。

「そうだな。実は……。いや! やっぱり言えない、駄目だ、駄目だ!!」

 挙げ句に……。あれだけの大人数のメンテを統括しているキャプテンの彼がぶるぶると頭を振りながら、『俺が殺される』と震えていたのだ。訳が分からない顔で困惑している吾郎に気が付いたキャプテンははっとして気を取り直した顔に戻る。

「まあまあ、ゴロー。そのうち、必ず会えるさ! 半年はここにいる予定なんだからさあ」

 栗毛のこの先輩は、とても明るい。そして男気たっぷりのキャプテン。
 男達に慕われているし、頼られている。
 そんな彼の明るい笑顔で、バシバシと肩を叩かれると、本当にそんな気になってくる。
 少佐でキャプテンと言っても、少し歳が上であるだけのことで、同じ青年であるのは吾郎とはそんなに変わらない。こうして訓練が終わると、気さくなお兄さんと言ったところ。

「ですよね! まだ俺も来たばかりだし!」
「そうだ、そうだ。明日は会えるさ!」

 二人で笑い飛ばす。
 そして吾郎はその時、送り出してくれた葉月がとても哀しそうな顔をしていたのを思い出す。
 長年の同期生で、なんでも澤村と出会えたのも彼のお陰……と、あの大佐嬢が、吾郎の目の前ですっかり女の子の顔で恥じらったかと思うと、フランスの恩人ともいうべき親友のことには、本当に今にも泣きそうな顔をしていたのだ。あの『無感情令嬢、ロボット女』と言われている彼女が。本当にあの顔を見た時は、『あんなの噂だ』と思った程……。
 彼女があんな顔をして心配するほど。親友の彼もさぞや辛い時期に違いない。

「大変な墜落だったと大佐嬢もとても心配そうで……。いつも凛々しい彼女がとても哀しい顔をしていましたから、それほどのことだったのですよね。まだまだ毎日が大変なのでしょう。こんな経歴も力もない俺一人の為に、受け入れを承知してくれた隊長ですから、それで充分。俺、いつまでも待ちます」
「ゴロー……。お前、やさしいなあ〜。うんうん、ハヤトが言っていたとおりだ。お前、気遣い上手なんだってなあ〜」

 あれ。吾郎としては普通に言ったつもりだったけれど。何故かこのキャプテン。人より人情味がありすぎるのか、ちょっと涙もろいところもあるよう? 初対面の時も、よく解らないが? この調子で半泣きの彼に『お前がゴローか! ハヤトとお嬢さんのところから良く来た!』と、かなりのハイテンションで抱きしめられ迎えてくれたのだから? そして、また今も、その大きな外国人の身体で吾郎をがっしりと抱きしめてくれた。
 こうなると、少佐やキャプテンの威厳はどこへ? でも、きっとこんな彼だから、男達はあの過酷な訓練も明るく乗り切っているのだと思えた。

「そうだ、忘れていた。これな、明日からのカリキュラム。新卒訓練生と同じ研修クラスと陸訓練教育部の基礎体力訓練を申し込んでおいたから。教官にも良く頼んでおいたから、頑張れよ」
「有難うございます、少佐」

 まだ甲板は遠い。暫くはその体力作りと新卒訓練生の新人研修クラスに放り込まれることになる。
 甲板での体力維持の大切さは、今日、身に染みた。そして甲板整備に関してはド素人。訓練校での課程はもうだいぶ昔になるが修得しているので、まあ、本当に卒業した時点で止まっているといったところ。だから本当に訓練校を卒業したレベルからの再スタートをすることになった。

 やらなくては。ここまで来たからにはやらなくては。

『貴方と仲間になりたかったの』

 また彼女の声が聞こえてくる。

『吾郎君、今度は甲板で一緒にね』

 小笠原を出て来る時、彼女は丁寧にも見送りに出てきてくれた。
 同い年だからということで、いつの間にか彼女と吾郎の間には『大佐嬢と平隊員』という格差はあっと言う間になくなった。それも彼女が『岸本君』と吾郎のことをそう呼んでいたところを『吾郎で結構、仲間なら』と言ってから、彼女の方もかなり肩の力を抜いて接してくれるようになった。
 そうなると本当に『同い年』の二人。さすがに吾郎は『葉月』と呼び捨てには出来ずに『お嬢さん』と呼んでいるが、あちらは吾郎が願ったとおりに『吾郎君』と呼んでくれる。……彼女のあの声で呼ばれると、今でもちょーーっと吾郎は頬が緩んでしまい、心がくすぐったく一人で暴れたくなる。
 あの大佐嬢と、目指すところが一緒になった。
 しかも眠っていた吾郎の消えそうだった夢をチャンスを見出してくれた。

 しかし、彼女が吾郎に精一杯に出来ることは『チャンスを作る』、ここまでだ。
 どんなにチャンスが転がってきても、チャンスは始まりに過ぎない。

『このチャンスを無駄にするなよ。後戻りしたら、今まで以上に辛くなるだけだからな』

 ──さあ、行ってこい!

 最後に頼もしく力強い後押しをしてくれたのは、大佐嬢ではなくて彼女の恋人である『澤村中佐』だった。
 葉月がチャンスを作ってくれたが、マルセイユまで吾郎が行く道筋を切り開いてくれたのは、全て澤村中佐だった。

 二人が甲板で待っていると見送ってくれた。
 飛び立つ横須賀行きの便の中、二人がいつまでも空を見てくれていたのを思い出す。
 俺もあの人達の中へ……。帰ってきた時には、きっと。
 吾郎の新しい夢。

「そうだ。体力作りコースがスタートでも、新卒クラスからのスタートでも。そこを通らなくては、小笠原空母の甲板にはいけないんだ」

 吾郎は明日からのカリキュラムのプリントを握りしめ、その講義がある訓練場の見学へと出かけた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 新卒新入隊員と共に学ぶことになる講義室の場所や、陸訓練で使われているこの基地のアリーナにグラウンドの場所も確認。そして自主トレをジャン先輩に勧められ、そのトレーニングジムがある場所を最後に確かめようと吾郎は基地内を歩き回る。
 小笠原基地内にもあった様々なトレーニング機材が置かれている白い一室を発見。既に、幾人かの隊員がトレーニングに励んでいた。

 アクリルの透明な壁で仕切られているその向こうを、吾郎はただ眺める。
 飛行訓練着の繋ぎ服を着ている金髪の隊員、深緑色の訓練着だから、きっとパイロットだと思った。上だけ脱いで腰で巻き付けているが、露わになっている上半身の筋肉が……すごい。肩幅も広いし、胸筋も半端じゃない。腹筋も割れている! さすが、パイロットは鍛えて損はないと精進しているのだと吾郎は圧倒された。
 他にも、訓練着ではない自前のトレーニングウェアで体力作りに励んでいる男達、中にはランニングマシンで黙々と走っている女性もいた。皆が各々にトレーニングに励んでいる。
 吾郎も早速、明日から通うべきかどうかと考える。ジャン先輩はまず、教官と相談しろと言っていたからそれからになるだろうが……。そんなふうに、明日からのことを思い描きながら、トレーニング風景を眺めていた時だった。

「うっぐああー!!」

 トレーニング室の奥から、そんな悲痛な声!
 なにかが起きたのかと、吾郎ははっと我に返り室内に目を凝らす。
 他のトレーニングをしていた男性隊員に女性も、ぴたりと動きを止め、その声がした方向へと振り返る。吾郎がハラハラしているそんな中、誰もが駆け寄っていくのかと思えば……そうでもなく。また、彼等は黙々としたトレーニングに戻っていった。いったい、どういうことだろうか? 事故ではなかったのか?
 吾郎が不思議に思っている中、またあの痛々しい声がけたたましく聞こえてきた。

(なんだよ! どういうことだよ!)

 今度は誰も振り返らない。そして何も聞こえなかったように、黙々とトレーニングを続けている。

「ぐうう、あああああーーーっ!」

 相当な絶叫だ!
 だが、気が付けば……。吾郎の目に見えていたトレーニング中の隊員達が、皆、苦い表情を刻んでいる……。
 ランニングマシンで走っていた金髪の女性なんか、今にも泣きそうだった。それでも、彼女は声がする方に顔を背けて、走り続けている。

 そして吾郎はやっと見た。
 その奥では、黒髪の男性があらゆる機能が取り付けられているベンチマシンに腰をかけ、膝の少し下にあたる重りを必死に上へと上げようとしているその姿が……。
 吾郎なら、あれくらいなら、ちょっと重くても歯を食いしばったら上げることはできるだろう。
 でも、彼はそれがとてもやりづらい、いや、出来ないよう……。だが、彼はもの凄い声を張り上げてまで、やろうとしている。

「フジナミ! やめろ! 無理するな!」
「ぎいいいーーっ……あああ!」

 黒髪の彼の側には、栗毛の年輩に男性が付き添っているが……。
 その男性、短髪のスタイルが多い軍人の中、彼はかなりぼさぼさに黒髪を伸ばしていて、顔は無精髭。まるで山籠もりをしていたのかと思わせるほどに、もっさりとしている。なのに、歯を食いしばってもの凄い形相! そしてその長い前髪の隙間から見え隠れする眼光が尋常じゃない力みを物語っている。
 その目と合ったなら、鬼に睨まれたと言っても良いだろう。それほどにもの凄い、気迫だ!

「そうだ、フジナミ。今日はもう良いじゃないか」
「そうよ。せっかく回復したのに、そんな無茶ばかりしていたら、せっかく治った足がまたおかしくなるわよ! あなた、パパになったばかりでしょう? ユキエが泣くわよ!」

 見ていられなくなったのか、トレーニングをしている誰もが絶叫の主にそう訴えている。
 だが……吾郎はこの時、青ざめていた。
 フランス語はまだヒヤリングがやっとだが、はっきりと聞こえた! 皆が口々に、あのもっさい男の方を見て『フジナミ』と言っている。

 では、あの男が!?
 吾郎は再び、今度はマシンの上にぐったりと寝そべっている彼を見た。
 彼が『藤波康夫中佐』。大佐嬢の大親友、同期生、ライバル!

 そしてやっと解った。 
 これは彼の必死の、体力回復を目的としたリハビリなんだと。 
 でも、見る限り……。あの足は……かなり力をなくしているのでは?
 あれはパイロットにとっては致命傷……ではないか?

 この姿、葉月が知ったらどう思うだろう?
 しかし吾郎の目の前には、既に、あの哀しそうな顔から涙を流している葉月の顔が、自然と浮かんだ。
 彼女の泣き顔なんて見たこともないし、彼女が泣く女だなんてつい最近までは信じられなかった。でも、あの顔を見せてくれた彼女だからこそ、今は彼女の哀しむ顔が自然と浮かぶ。

 そう思って、もう一度、藤波康夫がいる方を確かめると、なんと……彼と目が合ってしまった。
 ただ目が合っただけ……。でも、吾郎は顔を逸らしてしまう。なんというか『見てはいけないもの』を見てしまった気がしたのだ。
 だが、気が付いた時には、あの恐ろしい気迫を漲らせている彼が、吾郎を睨みつけている。吾郎はその鋭い視線に身体が硬直し、動けなくなってしまった。
 しかも彼がゆらりと立ち上がり、吾郎から視線を外さずに、ゆっくりとこちらに向かってきた!

 吾郎の額に、冷や汗が滲む。
 なんという威圧感──。
 この基地に来て、一番の緊張と不安と恐怖。
 身体が大きいフランスの大男達からも決して感じなかったものを、この異国に来たというのに母国の日本人から感じることになろうとは……。

 藤波康夫がじっくりと歩いて、吾郎が見学をしている廊下まで出て来た。

「見ない顔だな。日本人だな」
「はい」

 その一言で、彼は吾郎が誰であるか悟った様子。
 ここ数日、ちっとも会えなかった訳は、やはり吾郎が葉月の所から来たと言うこともあったのだろうか?
 藤波康夫はそれでも吾郎を睨みつけるように、じりじりと近づいてくる。あのように足のトレーニングをしていたが、歩いている姿は普通だ。でも、ほんのわずか……引きずっている。たったそれだけのことだけれど、日常生活に支障はなくなっても、やはりあれだけの『重力』がかかるとかなりの負担を招くと言うことか……。
 しかしその僅かに引きずっているぎこちない歩き姿も、とても迫力がある。

 そして、藤波康夫は吾郎の前にやっと到着した。

「小笠原から来ました、岸本……」
「岸本吾郎──だな」
「そ、そうです。この度は、私の受け入れをしてくださいまして有難うございました」

 吾郎はなにはともあれ、康夫に深々と頭を下げた。
 しかし彼からの反応がなにもない。
 吾郎は間が持たなくなって頭をあげると、どうしたことか目の前の先輩の胸が息が上がったように激しく動いていた。

「……おい、お前」
「は、はい」

 しかも、とてつもなく吾郎を睨み倒している。
 どうしてだろう? ここ数日、初対面の挨拶もさせてくれないほどに避けられ? そしてやっと会ったら睨まれている。もしかして、歓迎されていないとか?
 その悪い予感は的中!? 吾郎はその気迫ある青年中佐に胸ぐらをいきなり掴みあげられ、直ぐ横のアクリルの透明壁に身体を叩きつけられた!

「フ、フジナミ! どうした」
「なにしているのよ!!」

 彼の荒れっぷりが分かっているかのように、先ほど彼に付き添っていたトレーニングコーチの年輩男性が駆けつけ、さらにトレーニングをしていた者達も一斉に外の廊下に出てきた。

「ぐ……っ。ちゅ、中佐……ど、どうして?」
「お前、言うなよ……」

 ぎゅうっと締め付けられる首元。
 そして、直ぐ側にある鬼の目。その光る眼光で、藤波康夫は息も荒く吾郎に叫んだ。

「葉月には、葉月にだけは、俺の今の姿を言うんじゃねえぞ!!! 分かったか!」
「……いっ。で、でも、彼女はとても、心配して……」

 葉月の哀しみの顔を、少しでも分かってもらおうと吾郎は口答えを……。
 しかしさらに彼に吠えられる。

「馬鹿野郎! きさま、葉月に知られてみろ!? このマルセイユから追い出すからな! わかったか!!!」

 腑に落ちない吾郎。
 でも……彼のその鬼気迫る声を耳にして、吾郎にも徐々にその『男心』が解ってきた気がした。

 彼はライバルの彼女には、今の無様な姿を知られたくないのだと。
 そして、きっと……なによりも心配をかけたくないのだと……。
 だから、葉月の元からやってきた吾郎に、なかなか会う気になれなかったとか?
 いや、そんなこと、どっちでもいい。彼の想いはきっとひとつ。これほど必死な力と気迫。それが彼の男としてのライバルとしての誓いを物語っている気がした。

「イ、イエッサー……。ち、誓います、中佐」

 息も絶え絶えに答えると、あっというまに彼が腕の力を抜いて吾郎を解放してくれる。
 でも……。そんな彼を見上げると、どうしたことか今度の彼は魂が抜けたような情けない顔で吾郎をみているじゃないか? それにもかなりどきりとさせられる。

「す、すまなかった……岸本」
「い、いえ……」
「期待している。精進してくれ」
「はい、藤波中佐」

 彼の力無い激励の手が、静かに柔らかく吾郎の肩を叩いただけ。
 彼はそのまま、背を丸めて去っていってしまった。
 トレーニングコーチの男性が彼を心配そうに追いかけていく……。

 吾郎はそこに、パイロットの誇りを奪われたままの哀しい男性をみてしまったような気がして仕方がなかった。

 

 そして吾郎は改めて誓った。
 葉月には、知らせまい──と。

 

 

 

 

Update/2007.9.9
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