ボク、今日は真っ白いこの服を着て、彼女のところに行きます!!
「ゴロー、帰って来るなり、なんのつもりだ」
「またまた。せっかく帰ってきたのに、師匠ったらそんな顔はなしっすよ〜」
クロード=レジュが、吾郎の目の前で目を丸くしていた。
数年ぶりの再会がその顔ですか? 師匠?? と言いたくなるほど、渋い顔をしていた。
「なにも帰ってきたからと、それはないだろう? 俺が恥ずかしい」
「なに言っているんすか! 師匠、言っておきますけどね……」
クロードが『恥ずかしい』と言っているのは、吾郎の服装にある。
今日はマルセイユ航空部隊に戻ってきて、その挨拶にやってきた吾郎。
なんとその格好は、真っ白な軍正装。白い制帽もかぶってきたし、真っ白の手袋だって持ってきたぞっ。極めつけは、この部隊に配属なって昇格した『中尉』の肩章だ! 金のモールも付けちゃったもんね。康夫隊長が貸してくれたんだ。いや、彼が『お前、男の勝負だろ!』と激励の気持ちで付けてくれたのだ。
その前に師匠に挨拶をしていこう……と思って、そのままの気合い充分の礼装で吾郎は来たのだ。
そりゃ、クロードはメンテ本部の中佐室に吾郎が入るなり、唖然とした顔。
あのクールな表情が、鳩が豆鉄砲──な顔だったのだ。
彼は『俺との再会にそこまで気合いを入れたのか』と思ったらしい。既にメンテ本部では吾郎のマルセイユ帰りを歓迎してくれた本部員達にも大笑いされ、彼等は隊長が絶対に困った顔をするから早く行けと促したほど。
そこで吾郎はもう一度言う。
「師匠、言っておきますけどね。師匠の為じゃあ、ありませんからっ」
「は? では、なんだその仰々しい有様は」
そこで吾郎は、クロードの前で『むふふ』と頬を緩めた。
それがクロードに取ってどれほど不気味だったかは吾郎には分からない。だが師匠がたじろいでいたのは分かった。
「師匠〜。俺、今から彼女にプロポーズをしにいくんですよ〜」
クロードがまた『は?』と眉をひそめた。
「なんだと? もう一回言ってみろ」
「だから、ここで別れた彼女にもう一度、アタックしに行くんですよ!」
「今からか?」
「はい、そうです。今度は『プロポーズ』でアタックすっよ! なかなか、最強なアタックでしょっ」
もの凄く怖い顔になった師匠が、吾郎を睨みつけていた。
「この馬鹿者!! 俺に会うより先に、そっちに行ってこい!!」
首根っこを掴まれ、吾郎は中佐室を追い出されてしまった。
「ビシッと決めてくるまで、ここに来るな!!」
彼がバタリとドアを閉めてしまった。
彼なりの激励なんだと吾郎も分かって、笑っていた。
『早く行ってこい。坂の上に……』
ドア越しに聞こえた師匠の優しい声に、吾郎は頷く。
やはり師匠は何もかも知っていたようだ。メールのやりとりでこんなことは一言も交わしたことはないが、きっとそれなりに気にして康夫やジャンから聞き出しては案じてくれていたのだと。
吾郎は『ウィ、キャプテン』と答え、早速その『坂の上』へ向かう。
・・・◇・◇・◇・・・
海辺の石垣。坂の道。その途中にある懐かしいレストランに吾郎は入った。
「ゴロー! お帰り!!」
「ただいま、マスター」
懐かしい海辺のレストラン。
彼女と何度も食事に来たレストラン。
小柄な店主の親父さんはとても喜んでくれ、吾郎が現れるなり抱きしめてくれた。
「気合い、入れてきたね! 応援しているからね」
「メルシー、親父さん。それで……」
マスターは吾郎の真っ白い軍礼装を満足そうに眺め、『用意しているよ』とレジカウンターに戻っていく。
「注文の『恋人パイ』だよ」
「なつかしー! すぐ、食べたーい! でも我慢、我慢」
「そうだよ。成就するまで我慢、我慢」
吾郎が注文したパイをマスターはいつものように包装してくれ……。
「これはおじさんからの、激励のプレゼントね」
財布を出した吾郎の手を、マスターが制してしまう。
吾郎は『でも……』と躊躇ったのだが、マスターは『彼女に元気になってほしいと、願いを込めて焼いたから』と受け取ってくれなかった。
マスターもずっと彼女のことを心配していたという話をしてくれた。やはり彼にとっても胸が痛む様子だったらしく、吾郎はそんな親父さんの気持ちを汲んで、有り難く頂いていくことにした。
さて。懐かしい海辺のレストランを出て、吾郎はそのまま石垣の坂をあがる。
この店から、一軒、二軒……。そこから海辺に沿っている石垣の小径をそれて脇道に入り、陸側の向こうの通りに出る。
石畳の坂。店が並んでいる表通り。それでも郊外の静かな小さな町。そこを吾郎はあがっていく。
坂のてっぺんに着く前、そこに小さな美容室をやっとみつけた。
なんとレストランと目と鼻の先。こんなところに……。
マスカレードのように真っ赤じゃなく、気を付けていなければ見過ごしてしまいそうな……なんの店かも分からない目立たない軒先。
それでもチョークでメニューを書いたウェルカムボードにはガーデニング風の花飾り。ドアの周りには南フランスらしい鮮やかな色合いの花が咲く鉢植えが並べられ、ナチュラル志向のコーディネイトでアットホームな感じになっている。
ドアを開ける前に、そっと中を覗いてみた。
客は一人もいない……。人の気配がない?
しかし見覚えのあるものが目に付いた。
あの白いソファーだ! 吾郎が今でも愛用しているものとそっくりの! しかもそこで栗毛の女性がブランケットにくるまって座ったままうたた寝をしているのが見えた!
セシルだ……!
吾郎は暫くそのまま彼女を見ていた。
ほっとした。彼女にあの雑誌で見た恐ろしい表情はもう窺えず、前のように健康的なふっくらとした愛らしい頬に戻っていて、赤みもちゃんとさしている。
髪もコケティッシュなおかっぱ頭にしていて、前とは雰囲気は違うけれど、彼女らしくファッショナブルなセンスは消えてはいなかった。
ドアの向こう。そこには安らかに眠っている彼女がいる。
客が来なくても、マルセイユ郊外の閑静な町の隅っこにある小さな美容室でも、彼女のその眠り顔を見れば分かる……。
彼女は自分らしさを取り戻したんだって……。
このマルセイユに戻ってきて、真っ先に彼女に会いに行こうとしたら、康夫とジャンに引き留められた。
すると彼等が揃って『嘘をついた』と頭を下げて、吾郎に謝ったのだ。吾郎にはなんのことかわからず……。
聞けば、彼等が隼人に知らせた話はほとんど事実。しかし違う報告もしたとのこと。事実と違うのは『吾郎の成功を知って、ますます元気をなくして部屋から出なくなった』という部分。何故そうしたかというと、吾郎に帰って来て欲しい為、そして隼人に吾郎を見送らせる為に、マルセイユ陣がでっちあげた『嘘』だったと発覚。
事実はこの通り。ぼろぼろになってパリから帰って来た後は暫く塞ぎ込んでいたセシルだったけれど、吾郎の成功を知った途端、彼女は急に外に出て自分だけの小さな美容室を始めたのだそうだ。
それを聞いて、吾郎は嬉しくて堪らなかった。自分という男が、愛してきた女性の原動力になれたことが!
そして決めた。彼女が元気になったらと思っていたが、そうとなれば、もう『プロポーズ』をしよう! と。
そうしたら、康夫に雪江にジャンが『行ってこい!!』と直ぐさま送り出してくれたのだ。
彼等が教えてくれたのがこの坂の上の美容室。知る人ぞ知る小さな美容室。マスカレードの元常連客に、市内でセシルのパリでの功績を知った者がマスカレードを訪ねてきて、オーナーのレイモンの紹介でここにくる客など……。あとはこの界隈の年輩の客もセシルがどのような功績を持つ美容師か知らずに入ってくるようになったとか……。セシルが自分で出来る分だけの仕事をしていると聞かされている。
そうして彼女は、今はゆったりと海辺の坂で、大好きな美容師の仕事を続けている……。
暇になっても構わない。
一日、客が来なくても良い。
のんびりやる。
それはなんの為?
吾郎にはそこでセシルが言うだろう言葉がもう聞こえてきそうな気になっていた。
もう名声はいらない。
自分の手でお手伝いをした人々が、『綺麗になった』と喜んで帰ってくれたらそれでいい。
そして『また貴女の手で綺麗にしてね』とやってきてくれたならそれでいい。
だからもう、セシルはずっとここでやっていくのだろうと吾郎には伝わってきた。
わかるよ、セシル。
セシルが見つけた答がこれだったんだね。
俺もセシルも遠回りしたよね。
自分達の夢を追いかけて、本当の俺達を見つけるの……時間かかったね。
でもセシル、やっと……俺達……!
吾郎は意を決し、ドアを開けた。
やっぱりそのドアも、あの日のように『カラン、コロン』という鳴らすベルがついていた。
「……い、いらっしゃいませ!」
そのベルで彼女ががばっと起きあがる。
眠い眼をこすって、『しまった』という顔。
前のオーナーの彼女から考えられない間の抜けた店主の顔だった。
「お願いします。ずうっと伸ばしちゃったので、格好良くしてください」
吾郎は白い制帽をとって、小笠原を出てくる頃から手入れをせずに伸ばした髪を彼女に見せた。
「ご、……」
声にならず、そこで固まってしまったセシルを見て、吾郎はにっこりと微笑みながら持ってきた箱を掲げた。
「そこのレストランで美味しいパイがあったので、これをお代にしてくれませんか?」
彼女はまだ呆然と固まっていた。
だが、やはり……。吾郎が予想していたとおりに、彼女はふいっと顔を背け、背も向けてしまった。
「……ヤスオ? ジャン? あの人達とはもう絶交だわ!」
吾郎は溜息をついた。
彼女に欠点があるなら、ここまで真っ直ぐすぎることだろうか?
自分だって真っ直ぐ馬鹿じゃないかと、吾郎の中では認定だ。
「別に。セシルの為に帰ってきたんじゃないんだ」
吾郎の頭の中にはある日の自分の言葉が蘇る。
──『セシルの為に、ここに残ると決めた訳じゃない』。
甲板要員になって直ぐ。小笠原に帰らずにここに残ってやりたいことが出来たことを彼女に告げた日も、『君の為じゃない、俺の為』と言った。
今回もそうだ。わからず屋の彼女に、吾郎は冷たく言ってやった。
「マルセイユにもテスト用の新機種がやってくるんだ。その新機種の管理を任されることになって、師匠と組んで守っていくんだ。これからテストパイロットも乗るようになってここで取れるデーターは小笠原とフロリダに送られる。つまり、まあ……。セシルが嫌がっても出ていっても、俺はここで暫くは大事な任務があるってこと」
そう言うと、セシルがとても驚いた顔でやっと振り向いてくれた。
「それ、ほんとう!?」
「だって、俺ほど適任いないでしょうー」
吾郎が胸を張って言い切っても、彼女はまだ信じられない顔をしていた。
「ここってさあ。お客を選ぶ店なわけ? やってくれないなら、俺、他に行くけれど」
しらけた吾郎の目線に、やっとセシルがハッとした顔に。
「ど、どうぞ。こちらへ……」
少しばかり腑に落ちない顔をしていたが、吾郎はニンマリと笑い返し、彼女が促した椅子に座った。
「オーナーにお任せ」
「かしこまりました」
ヒゲも数日剃らないままにしてやってきた。
吾郎はケープを被せてもらいながら鏡に映った自分を見る。そして顎をさすりながら、鏡の中にいるセシルに言う。
「ヒゲも剃ってね」
「勿論よ……」
鏡の中でやっと目が合い、彼女が……柔らかく笑ってくれた。
いつかのように優しい彼女がそこにいる。
カットはあっという間に終わった。
吾郎はあっけにとられる。彼女、本当に腕を上げていた。
すぐにひげ剃りに入ってしまった。
彼女が長い剃刀を真剣な顔で手にして、吾郎に向かう。
「前みたいにさ〜。して欲しいって言ったら怒るかな〜」
前みたいに。セシルがヒゲを剃ってくれる時は、彼女の柔らかい膝枕でやってもらった。
そしたら、セシルがちょっと頬を染めて照れた顔。
「い、いいわよ……」
吾郎は『やった』と彼女が構えてくれた膝へ、泡だらけの顔で寝転がった。
うわ〜ん、これこれ! と、吾郎は心の中ではしゃいでいた。
「変わっていないね。セシルの膝、あったかい〜」
「そ、そう……?」
やはり、どうも……。彼女は以前のようにはつらつとしていない。
どこか気後れをして、吾郎と正面を向いてくれていない。
きっと……自分で決意してやり抜いた中で、どうしても許せない汚れを持ってしまったことで、吾郎の顔を見ることが出来ないのだと思った。
だから、彼女は嬉しそうなのに、辛そうな顔で、吾郎のヒゲを剃っている。
そんな彼女を初めて目にして、吾郎の胸も痛んだ。
「セシル!」
そして吾郎は、まだひげ剃りも途中の彼女の手首を掴んだ。
彼女は『危ないでしょ!』と怒ったが、吾郎はその手を放さなかった。
あの時、突き放された腕。もう、放されてたまるもんか! 吾郎はひげ剃りも途中の顔で起きあがり、セシルの手首を掴んだまま、正面に向き合った。
「セシル。俺とセシルは国籍が違うけれど、一緒にいれば、それはどこだって『俺達のマルセイユ』だと思うんだ!」
セシルは『え?』と小首を傾げた。
吾郎は上手く伝えられない自分の口を言葉を呪いたくなりつつも、さらに叫んだ。
「だから、だから。俺と、ここで一緒に……。それで、瀬戸大橋も見に行こう!!」
あれ? 『俺と結婚して』というつもりだったのに??
ぜーんぜん違うこと、俺言っている!! 心の中ではがっくりしている自分がいた。
だけれどセシルは、吾郎が『結婚』を仄めかしたことをちゃんと理解してくれたのか、固まっていた。
「嬉しいわ。でもね……」
でも、と彼女はまた俯いてしまう。
吾郎が知っていた爽やかで明るい彼女じゃない。でも……それが今の彼女なんだと、吾郎はパリで彼女が少しだけ変わってしまったことを実感してしまう……。でも、大丈夫。これからそんな彼女も俺は愛していくよ!! と心の中で吾郎は叫ぶのだが、言葉にはならない。しかもやっと口が開けば……
「セシルはマルセイユに帰ってきたんだよ。パリを通って帰ってきたんだよ。俺も小笠原を通って帰ってきたんだよ。それで俺達また会ったんだよ!? それじゃあ駄目なのかな? 俺はパリから帰ってきた元気のないセシルもきっと大好きになるよ!」
ぎーっ。上手く言えない!
パリで何があったか知っているとはあからさまに言いたくないが為に、遠回しに言おうとしたらこんな支離滅裂な言葉しかでてこなーーい!!
ただ叫んで、ただ彼女の手首をひっつかまえて! 吾郎が必死にしているのはそれだけ。
あ、そうだ! もう一つ、自分が必死になって出来ることがあった! と吾郎は閃いた。
「セシル……」
吾郎は泡が付いたままの頬を彼女に寄せて、強引に唇を塞いだ。
セシルのぎょっとした顔。そして硬直した身体……。心とは裏腹に身体を投げ出してしまった後遺症かと吾郎は思った。
だから、優しく彼女の背を抱き寄せても逃がさない。だから、彼女の唇をゆっくりと愛しても長く離さない。
「ご、吾郎……」
「変わらないね、忘れていないよ」
セシルの頬には、ひげ剃りの泡がいっぱい付いてしまった。
徐々に熱くなってくるセシルの頬に指先に……。吾郎の舌に溶けあってくる柔らかい唇。
彼女の涙が吾郎の頬を濡らしはじめる。
いつしか二人でその泡を指先で拭っては口づけを繰り返していた。
「匂いも変わっていないよ」
抱きしめた柔らかい身体も、そして彼女らしい爽やかな甘酸っぱい匂いも……。
昔のように、彼女も吾郎に溶けてくれ、吾郎も自然とセシルのシャツの下に手を忍ばせ、懐かしい肌に触れてみる。
椅子と椅子を向かい合わせてぴったりとくっつく二人の身体。
昼下がりの小さな美容室の柔らかい光の中、熱い口づけと柔らかい官能的な触れあいで、一気に懐かしい記憶がもどったようで、あの頃のように夢中になる。
だから……つい。吾郎は後先考えずに、セシルの懐かしい肌をずっと愛おしく撫で続ける。
白いシャツがめくれあがってしまったセシルも、すっかり吾郎の愛撫に身を任せ、向き合う胸と胸、腰と腰が、ぴったりとくっつきはじめる。
熱く愛し合ったあの日のように。その感覚が徐々にお互いの身体と身体の間に蘇る。
やがて吾郎の手は、彼女の柔らかい胸先を……ふいと弾き……。セシルが吾郎の耳元で小さな喘ぎ声を、しっとりと漏らしたほど……。
でも、そこまで。
そこでセシルが急にハッとしたように、吾郎を突き放した……。
そして吾郎は囁く。
「セシル、このまま俺のところに来てくれ」
あの日、バスで彼女から突き放した吾郎の腕。なにもかも彼女にリードしてもらっていた恋人初心者の男。
でも、違う。彼女が初めてでも彼女が最後。何年も忘れなかった。これはもう揺るがない気持ち。これも小笠原で知った吾郎の真実。
だから、今度は絶対に! この手首を離さない!
吾郎の力がぎゅうっと彼女の手首を握りしめる……。まだセシルは戸惑った顔をしているから……。そっとその泣きそうな目元に軽く口づけた。
そうしたら。頑なだったセシルの顔に、ぱっと花咲くような微笑み広がった。それはまるで真っ黒な魔法からとけたかのように……。
「わたしの……黒髪、やっぱり幸せな気持ちにしてくれる黒髪……」
やっとセシルがぎゅうっと吾郎に抱きついてきた。
あの日のように。仕事から帰ってきた彼女はいつも吾郎にこうして『疲れた〜』と甘えた声で抱きついてきた。
俺、本当は知っているんだ。
あの時から知っていたんだ。
セシルは強い人だけれど、本当はとっても甘えたがりやな女の子なんだって……。
だから、吾郎はまた飛び込んできた彼女を抱きしめる。
美容室の壁には数々の絵葉書。
日本の風景。
その葉書の存在が、唯一、汚れて荒んでいく自分の中に生き残っていた綺麗な存在だったと彼女が後で教えてくれた。
見知らぬ異国の、東洋の色彩に惹かれ……。そしてマルセイユで出会った日本の熱くて不器用で真っ直ぐ馬鹿な男達に出会って、セシルは『サムライ』という創作を見つけたとのことだった。
この葉書がなかったら、マルセイユにも戻れないほど、パリで自分を見失って荒んでいただろうと彼女は言う。
この葉書が綺麗な部分が消えないようセシルを留まらせ、そして、マルセイユに帰る決意をさせてくれたと……。
「吾郎は、ずっと側にいてくれた。そう思っているのよ。アリガトウ」
吾郎も嬉しくて泣きそうになる。
『待って、見守る』
それは無駄じゃなかった。彼女を救ったのかも知れないと……。
「恋人パイ、久しぶり。食べよっか」
やっとセシルが笑った。
あの日のように笑った。
吾郎も頷いて、先ほど、彼女がうたた寝をしていたソファーに座った。
マルセイユの坂の上にある美容室は、知る人ぞ知る小さな美容室。
そして、そこにはたまに軍整備士の旦那さんがひげ剃りに来るという話が、ちらちらとこの町で囁かれるように……。
・・・◇・◇・◇・・・
ある日、小笠原の白い家にあるポストを開けた少年は、目に付いた写真の絵葉書を見て驚いた。
「う、うどんのおじちゃんだ……!」
栗毛の少年はその葉書を持って、早退をして家にいる父親のところに走った。
二階の書斎で仕事をしている父。今日は妹の杏奈が鎌倉から帰ってきたので、毎度の『サボ』をしたらしく、先ほどすっぽかされた父の補佐『小夜さん』から文句の電話がかかってきたことを海人は知っている。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
慌てて走っている姿を妹に呼び止められ、海人は杏奈へと走る。そして葉書を見せた。
「知っているか? これ、うどんのおじちゃん!」
「え、いつも『さぬきうどん』を送ってくれる岸本のおばさまの、フランスにいる息子さん?」
海人は『そうそう!』と興奮しながら頷いた。
遠い記憶、淡い記憶の中に、いつもうどんを茹でているおじさんが、うちのキッチンにいた記憶がある。そしていつもおじさんの邪魔をしていた幼い自分も……。
すると母親と同じ歳のはずのおじさんは、母よりずっと無邪気な若々しい笑顔で海人に笑いかけてくれて、『内緒だよ』と誰よりも一番に、茹で上がりのうどんを小皿に分けて食べさせてくれた……。なのに、いつの間にかそのおじさんはいなくなっていた。
だけれど、御園の家に年に一度。夏になると四国の香川から『岸本加代』という差し出し名で、かかさずに『讃岐うどん、ぶっかけうどんセット』が届く。
家族はそれを毎年、楽しみにしていた。
『パパとママのお友達よ』
『お父さんが昔持っていたメンテチームにいた後輩なんだ』
母と父はいつも『うどんのおじさん』のことを懐かしそうに話してくれる。
だから、おぼろげにしか覚えていなくても、毎年来るうどんで、遠い昔の『両親の友人』が誰でどのような人か、海人も杏奈も知っているのだ。
「ねえ、お兄ちゃん。その葉書に写っているの、大きな橋ね」
「うん。瀬戸大橋みたいだな」
「四国の、おっきい橋!? 橋の下に線路があって特急も走るのでしょう」
「おじさんの故郷だよ。だから讃岐うどんが毎年、来るんだろう?」
海人は妹と一緒に、淡い水色の空に、悠然と浮かぶ白い大きな橋の写真を見た。
どこかの浜辺か。そこに遠い日の記憶を鮮やかに思い起こさせる笑顔の男性がいた。……変わらない少年のような笑顔。
「あ、この女の人が、ママがいつも言っているおじさんの、フランス人の奥さん?」
「みたいだよ。えっと……『この前、盆に帰省しました。妻との帰省はこれが初めてではありませんが、彼女は日本に来るとあれも見たいこれも見たいといつも興奮してしまい、俺が連れ回されています。今回は能登の方に行きたいとか言いだして、母と勝手に計画を進めてしまいせっかくの休暇もゆっくり出来ず……』……」
「ふむふむ? その続きはどうした? 海人」
そこに記されている『吾郎おじさん』からの言葉を読み上げているとそんな声が聞こえて、海人はぎょっとした。
妹と葉書を覗き込んでいた頭の上、そこに父がいつの間にかいたからだ。
杏奈も父の気配がなかった為か、突然の登場に『きゃっ』と飛び上がっていた。
海人の手から、その葉書がするりと離れていった。
父に手際よく奪われてしまったのだ。
父はその葉書を笑顔で眺めている。
「そっか。久しぶりの帰国をしていたか……」
父隼人も懐かしそうに目を細めていた。
「カイは四つで、アンが三つだったかな……。吾郎がフランスに行ってしまったのは……」
海人は父の手にある葉書をまた覗き込んだ。
変わらない少年の笑顔のおじさん。そして寄り添っている綺麗な奥さん。そして……いつもうどんを送ってくれるというおじさんのお母さんも一緒に写っていた。
この前、盆に帰省しました。
妻との帰省はこれが初めてではありませんが、彼女は日本に来るとあれも見たいこれも見たいといつも興奮してしまい、俺が連れ回されています。
今回は能登の方に行きたいとか言いだして、母と勝手に計画を進めてしまいせっかくの休暇もゆっくり出来ず、能登に行った後あっという間にマルセイユにとんぼ返りです。
今はまだマルセイユにいますが、いずれ、二人で日本に住む予定です。
彼女はこの坂出市の海辺で、マルセイユと同様に小さな美容室を持ちたいといつも言っています。
俺はメカがあればどこへでも。彼女はハサミさえあればどこへでも。二人で一緒なら何処でも住めて、そこが俺達の場所なんだねと思えるようになったんです。
子供はまだですが諦めていません。御園夫妻のように可愛い子供、諦めずに待っています。いつか海人や杏奈のような可愛い子供に恵まれると良いなと祈っているところです。
今でも思い出します。お嬢さんの銀色の翼を。
時に思い出して、俺もお嬢さんのように時間をかけて飛びたいなと思っています。
次の帰国では、小笠原の珊瑚礁の海を妻と見に行きたいと思っています。
また、それまで──。
「そうだ。今度の旅行は、四国にしようか」
父が唐突に言い出したが、海人と杏奈は『やったあー』と飛び上がった!
「ママも行きたいと言っていたから、きっと喜ぶよ。そうしよう」
『ママ』と父が笑顔で呟く時。実は一番幸せそうな笑顔であることを、海人は知っていた。
吾郎おじさんも、幸せそうに笑っているね。
■ アンビシャス! 完 ■
突然、長編化しましたが、ここまでのお付き合い有難うございました。
近日中に、【ラブリーラッシュ♪】(マイク×マリア フロリダ編)の連載を開始する予定です。
また、応援していただけたらと思います^^ 今後ともよろしくお願い致します♪
守谷優生。
Update/2007.11.5