【福袋7】 *** アンビシャス! ***

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【福袋7】
 
アンビシャス![16]

 いつも綺麗にアレンジしていた栗毛は、男の子のようにベリーショート。まるで軍人風。そこまで刈りあげたスタイル。
 頬は痩け、目の下には隈でもできたかのよう? 化粧のせい? ともかく、一目見たら、まるでなにかの中毒にかかってしまったかのような鋭い顔つきだった。
 あんなに爽やかに明るく女らしく輝いていたのに……。セシルの以前の面影はなく、彼女の目はなにか……獲物を狩るかのような鋭い目つきだった。

 そこまでして……!?

 吾郎はショックだった。
 なにもこんな彼女になって欲しくて、応援していた訳じゃなかったのに……?
 彼女が念願だったコンテスト入賞を目にして、一瞬は『おめでとう!』という気持ちが湧いたが、彼女がこんな……彼女らしくない姿に変貌したのでは、心の底からの喜びは感じることが出来なかった。

 ひどくショックを受けている吾郎を目の前にしている葉月が俯いている。
 そして隼人もどこか悔しさを滲ませているような、どうしようもない複雑そうな顔をしていた。そこにはきっと吾郎と同じ気持ちを……元恋人として持ったのではないかと吾郎は感じた。
 隼人が大きな溜息をつきながら、さらに教えてくれた。

「……それは一年前の雑誌だ」

 吾郎は驚いて、その雑誌の発行年月を確かめた。
 本当だ。一年とちょっと前だ。一年半とまではいかないがそれぐらいの……。

「その後、直ぐにパリからマルセイユに帰ってきたと。ジャンが雑誌を渡してくれた時に教えてくれて」

 帰ってきている!?
 セシルが、マルセイユに!?

 吾郎はさらに驚いて、絶句した。
 パリで念願のコンテスト入賞を果たしたなら。しかも三位だったなら……! これからパリで活躍が出来たのではないか? なのに……?
 すると今度は隼人も妻と同様に項垂れ、とても残念そうな声、消え入るような声で吾郎に告げた。

「帰ってきても……。マスカレードにも復帰せずに……部屋に籠もって……」

 美容師を続けていない!?

「……雪江さんが心配して、距離を置きながら様子を何度も見に行くようになって半年した頃。パリでひどく自分を痛めつけながら追い立てながらの毎日を過ごしてきたとかで、あのような美の頂点を目指す中で女性としてひどい選択を迫られることもあったとか……」
「そ、それ……どういうことなんですか!?」

 女性としてひどい選択!
 吾郎は机に両手をついて、勢いよく立ち上がり、隼人に食らいついた。
 しかし隼人も苦痛の表情のまま、吾郎の目を見てはくれなかった。
 つまり──? コンテストで上位に行く為? それとも『コネ』が必要で? そんな下地をつくるために、望んでもいないことを? それとも無理矢理!?
 潔くてどんなことにも明るかったあの彼女が、清潔感に溢れて煌めいていた彼女が、そんな美の頂点を目指す世界で『汚れた』ことをしたと?

「セシルは、自分が望んだことだと雪江さんに言ったらしいが、帰省してきてからの塞ぎ込み方はどう見ても、それは彼女自身が選んでやったとしても心の底からは望んでいなかったことは明らかで」
「あたりまえじゃないっすか!! 彼女はそんな女性じゃない!!」

 やっと隼人がいきり立った吾郎と目をあわせてくれ、彼も泣きそうな顔で『分かっている』と言った。
 吾郎もハッとし……。少し深呼吸、興奮した波を鎮めに鎮め、再度、椅子に座る。

「以前、俺が彼女をパリに送り出して、マルセイユに帰ってきた時も、本当はセシル……そんな世界だと知って、私には無理だと思って諦めて帰ってきたのではないかと、初めて振り返っていたんだ。だけれど二度目のパリ。今度はそこも覚悟で行ったのではないかな。上に行けば行くほど、自分の思いを表現するその前に、そんな人間の欲望が渦巻いた大きな壁がある。時折、そんな世界を垣間見るが、セシルがいた美の世界、このコンテストではそんな壁があって彼女はそれを乗り越えねば、あのステージにはいけないと思ったのではないかな……」

 それは吾郎も先ほど瞬時に悟った。
 でもだ……!

「確かに、俺は……。彼女のこの結果を応援していたし望んでいたけれど……。でも、でも……!」

 こんなに傷ついた姿を見たくて応援していたのではない。
 でも、きっと。これはセシルが望んだ果てに見たもの、彼女の終着駅にはこんな姿になるものがあったのだと……。

 吾郎も分かっている。
 彼女は自分で選んだことにはきっと後悔はしない。自分で納得して前に進む。この姿になるまでも、ちゃんと自分がやっていることも、自分が選んだと言うことも分かっている。
 でも……。心の中の『本当の彼女』は悲鳴を上げていたに違いない。
 こんなになって。マルセイユに帰る決意をしたのも、余程のことだったのだと。

 吾郎は雑誌に写っている彼女の頬を撫でた。
 涙が滲んできたが、ここでは堪える。吾郎のその顔は、きっとかなりの悲痛を込めた顔だったのだろう。
 夫妻も黙って、共に沈んでいた。

 そして夫と吾郎の『マルセイユの世界』をただ黙って聞いていた葉月が、やっと口を開いた。

「私、彼女の『答』も『マルセイユ』だった思う。……吾郎君も同じよね? 彼女には今度こそ吾郎君が必要だと思う」
「お嬢さん? それで……俺にマルセイユ行きを?」
「違うわ。ね、貴方……」

 まさかセシルがこのような姿になったことを知って、二人は無理にマルセイユ行きの転属を手配してくれたのか? 吾郎はそう思ったが、葉月は首を振り、隼人に同意を求める。
 するとまた……隼人がかなり悔しそうな拳を机の上で握って俯いてしまう。

「吾郎……。俺達も彼女がコンテストで入賞したことも、帰ってきたことも、この前、ジャンから初めて聞かされたんだ」
「ど、どういうことですか?」
「マルセイユの連中、揃って……セシルに口止めされてたらしい。彼女が帰省してジャンはすぐに吾郎のことを報告したそうだ。ホワイトという新機種の整備士に選ばれたことをな。彼女、とても喜んで……」

 彼女が俺のことで、喜んでくれた!
 それを知れただけでも吾郎の心は明るくなる。荒んで傷ついた彼女が少しでも明るくなってくれた顔が浮かんだ。
 しかし隼人はそこで黙ってしまい……。吾郎は『それで、どうした』と隼人を急かした。

「吾郎には、自分がコンテストに入賞したこともマルセイユに帰ってきたことも絶対に知らせるなと……。一人でも教えた者がいて吾郎に知られたら、またマルセイユを出ていき、二度と戻ってこないと触れ回ったそうだ」

 ……吾郎は、息を止めた。
 そこまで……! 俺のことを……!!

「吾郎にとっては、一番の大仕事だから、そのままやって欲しいと。送り出した甲斐があった、突き放して良かったと……泣いていたそうだ」

 吾郎はもう、呆然としていた。
 そこまで、愛されていたのだろうかと。
 そして最後に隼人が言った。

「でも、それっきり。よけいに元気がなくなって。外へ一歩も出ない日が続いているとか……。だから俺達も知らなかったんだ」

 でも隼人は、『もし知っていたら……』と少しだけ呟いたが、そこで黙り込み一人で頭を振っていた。
 いや、やはり……俺はセシルと一緒で非情な上官になってでも吾郎を小笠原から出さなかったと思うと言った。
 吾郎もそれは今となっては良く理解している。きっと知って、直ぐにセシルの側に駆けつけたくても、隼人が引き留める前にセシルがそれを拒否し、彼女の言うとおり、今度こそ本当に吾郎の前から姿を消してしまったに違いないと。

「吾郎……。彼女を頼む。俺にとっても大事な友人で、妹みたいな存在だったから」

 また隼人が頭を下げている。
 彼にとっても……セシルという女性は心の中ではとっても大事な存在なのだと分かった。 
 ちょっと気になって葉月をチラリと見たが、彼女は吾郎を真っ直ぐに見て毅然としていた。彼女の目が『彼女を捕まえて』と言っているように見えた。

「俺の心はもう。決まっています。もう、ずっと前から……」

 吾郎がそう言って笑うと、夫妻はやっと微笑んでくれた。

 

 その後、マルセイユ部隊がカフェで食事をする時間帯を狙って、吾郎はジャンを捕まえる。
 そしてセシルのことを、さらに問いつめた。

「キャプテン! 聞きましたよ、彼女のこと!!」

 するとジャンはあからさまに嫌な顔をした。
 どうして? と、吾郎は思ったのだが……。

「実はまだ、彼女の『吾郎に言ったら、消える』宣言は撤回されていないんだ」
「え!? じゃ、じゃあ……キャプテン? もしかして……」

 ジャンは口を尖らせながら、栗毛をかいて、また疲れた溜息を……。

「そう、セシルの必死の約束を、俺は破ったって訳。いや……ヤスオもユキエも共犯かな。とにかく、ゴローに今度こそ知らせようと」
「彼女は? 知っているんですか? キャプテンが小笠原に来ていること。それを知ったら……俺に喋るかもと、逃げてしまうかもしれないじゃないですか……」
「だから、俺達も必死に隠し通したよ。俺は今、海上で空母艦の任務に出かけていることになっているんだ」

 マルセイユでもそこまで、吾郎とセシルの再会の手引きをしてくれていて、吾郎は驚いた。

「とにかく。ひどかったんだ。ユキエが通わなくちゃ、セシル……壊れていたと思うよ。今も、ギリギリの状態……かな?」

 そんなにひどい!?
 間接的に聞くより、彼女を間近に見ている現地の人間から聞くと、もの凄く生々しく聞こえた──!

「あー。とにかく、ゴロー。マルセイユに帰ってくるんだってな! いや〜! ほっとした、ほっとした!! これからも俺達とやっていこうぜ!!」

 だがジャンは直ぐに明るくなった。 
 そして以前通りに、そのおっきな身体で吾郎を力一杯抱きしめてきたので、吾郎は『ぐえ』となる。
 あれ? 隼人先輩の落ち込み方とはなんか違うぞ???
 吾郎はこの時、妙にさばさばとした様子に変化したジャンに違和感を持った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 すごい……。今日の甲板はすごい。
 いつもと違う。明らかに違う!

 今、吾郎の周辺には四機のホーネットが集まっていた。
 そのうちの二機は、悪戯やんちゃ蜂『ビーストーム』のペイント。あとの二機は違う絵柄がペイントされていた。

「ゴロー、来い! 一緒にチェックするぞ!」

 ビーストームの二号機からエディの声。
 その隣では一号機担当の村上サブキャプテンが、ミラー中佐の機体を。
 そしてその隣では、マルセイユ航空部隊のジャルジェチームのメンテ員が、藤波中佐の機体を。
 さらにその隣では、フロリダ本部基地メンテ空部隊のチームが、アンドリュー=プレストン中佐の機体を。
 それぞれ、パイロットが乗り込む前の最終チェックに追われていた。

 四機のホーネットは尾翼のペイントが違っても、所属基地が違っても、今日は一緒の空母から同じカタパルトから同じ時間に空へと向かう。
 御園葉月という女性パイロットの最後のフライトを共にする、彼女と共に空を駆けてきた三機。
 そして甲板は、その『ラストフライト』が迫ってきている緊張感に包まれていた。

 いよいよその時がやってきた。
 艦の先端から滑り込んできた潮風。その風に流されるように、甲板にいるパイロット達にメンテ員達がざわめいた。

『来たぞ──』
『御園大佐だ』
『大佐嬢!』

 艦内へ通ずる扉、そこに大佐嬢の葉月が飛行服姿で立っていた。
 彼女は耐重力スーツを身にまとい、コックピットに乗り込む為の装備も完全に装着、そして腕にヘルメットを抱えていた。
 彼女が現れただけで、甲板を滑っていた潮風が大空野郎達の視線を集めて、彼女のところに運んでいくような流れを、吾郎は見た気がした。

 この四機のホーネットの整備を監督していたのは、彼女の夫である御園中佐。
 彼も今日は、真っ赤なメンテ作業着を着て、『澤村キャプテン』として自分が結成したメンテチームに復帰していた。
 今日は彼にとっても、『現場メンテ員、引退の日』だ。

 ざあっと甲板の上を素早く吹き流れていく潮風にのって、そんな夫の目線も、パイロットの姿となって現れた妻の方へと流れていく。
 大勢の大空野郎の視線を集めていた大佐嬢は、その中から『たった一人の男』としか視線を合わせなかった。
 そして周りにいる沢山の空軍の男達も、それに気が付いた。まるで空軍夫妻の瞬時に繋がった目線の絆を目の当たりにさせられたような光景が、吾郎の目の前でざあっと繰り広げられ、吾郎はぞくっと鳥肌がたった程だ。

「大佐が来たぞ。ビーストーム2、もう一度確認!」

 大佐嬢が現れ、時間が止まってしまったかのように感じていた吾郎を動かしたのは、エディの声だった。

「ラジャー!」

 我に返った吾郎は、自分の頬を数回パンパンッと叩いて気合いを入れ直す。
 その時、走り出そうとした吾郎を、隼人が見つめているのに気が付いて、吾郎は足を止める。
 彼が『しっかりやれよ』と言いたそうなグッドサインをこちらに笑顔で向けてきた。それを見て、吾郎は隼人のもとへ走った。

「御園キャプテン。俺、待ちくたびれましたよ」
「そうだな。岸本だって、彼女と甲板を共にすることを夢見て『研修荒らし』をしたんだもんな」
「やっとこの時が来たって感じです。俺にとってはたった一回だけになってしまったけれど、精一杯サポートします」

 隼人は吾郎に頼もしそうな眼差しを向けてくれ、笑顔で頷いてくれた。

「おい、吾郎! 下をもう一度チェックしろ。俺、コックピットな」
「ラジャー。エディ!」

 エディの中では、もう始まっている!
 甲板の上では『レイと俺はペア』とまで言い切っていた彼も、この瞬間を本当は迎えたくなかっただろう一人だ。
 だが、彼は誰よりも先にこの瞬間を走り出した。
 俺も置いて行かれるものか──! 吾郎もその一歩をホーネットへと踏み出す。

 本当なら。
 もっともっと前、帰国してすぐに彼女の機体を触りながら、何度も何度も空に飛ばすはずだった。
 なのに。彼女の哀しい運命。空を飛べない身体となって、吾郎の帰国を迎えてくれた。ただ、あと一回のチャンスを残して……。
 そのあと一回のチャンスの日がついにやってきた。

 

 吾郎と葉月にとって。
 最初で最後の、フライト。

 そして、吾郎にとっても……。
 もうじき、小笠原空母ともお別れ。
 ビーストームとの別れが迫ってきている。

 

 吾郎の手は、いままでの全てを、彼女のおかげでこの手に修得した全てを注ぎ込むようにして、彼女の機体をチェックする。
 やがて、総指揮官トーマス大佐の『GO!』というかけ声が聞こえてきた。

 ついに来た! 午前最終フライト、もとい『ラストフライトチーム』の四人がこちらで待ち構えているホーネットに向かって走ってくる。

 一番に愛機に到着したのは康夫だ。

「吾郎! しっかりやれよ!!」

 梯子に足をかけた康夫が、吾郎に向かって叫んできた。
 吾郎は笑顔で『当然っすよーー!』と返し、コックピットに乗り込もうとする康夫に手を振った。
 ミラー中佐もいつもの落ち着きで到着し、梯子に足をかけたのだが……。同期生同士、葉月の足並みに合わせて肩を並べ笑顔で微笑み合うアンドリュー=プレストン中佐が彼女と楽しそうにこちらに向かってくるのを、微笑ましそうに眺めている。

「レイ、空で待っているからな」
「うん。アンドリュー、並んで飛びましょう」

 葉月が笑顔でそういうと、アンドリュー=プレストン中佐はとても嬉しそうで、彼もコックピットに向かっていった。
 この演習が始まってから、この同期生のどつきあい風景も名物? 隊員達の間で面白がられていた。だが今日は、仲の良い同期生の雰囲気だ。
 葉月が二号機に辿り着くと、梯子を上らずに待っていたミラーが彼女を呼んだ。

「大佐嬢」
「ミラー中佐」

 こちらの二人はビーストームを引っ張っているパートナー。
 彼は空で彼女は甲板で……。そんな二人は『俺は彼女と、私は彼と、離れていても一緒に操縦している』だなんて、真剣に言いきっている。パイロット同士だけの感触らしいが、それを裏付けるような息のあった指揮は定評がある。それも基地では有名な話。そして認められている話。

 そんな二人が今、真剣な目つきで見つめ合っていた。

「待っていたよ。この時を……君と初めての空だ」
「私もです。楽しみにしていましたわ」

 でも、最後の空──。
 二人はそう口にはしなかったが、そこは少しだけ憂う眼差しを絡め合っていた。

「行こう」
「はい」

 それほどお喋りはしない二人なのに、いつだってパイロットの意志疎通、その絆を吾郎はいつもこの甲板で見てきた。今日も二人の絆は変わらない。

 康夫のホーネットがカタパルトへと動き出す。
 彼の機体を、ジャンキャプテンが誘導している。
 甲板にいるメンテ員達が忙しくなる。

「エディ、吾郎君」

 共に飛んできた男達と、最後の空へと向かう葉月が目の前にいた。
 今日の彼女はどうしたことか、真っ赤な口紅をつけていた。
 不思議に思えど、でも……何故か、その口紅をつけている彼女は格好良かった。
 最後の空への気合いか。それとも……ここ最近の彼女が見せていた『これから始まる』為の決意なのか。そんな思いの強さと新たなる情熱が、真っ赤な口紅に込められているように感じた。

「レイ、ばっちりだぜ。乗った途端に、あの頃をすぐに思い出すからな」
「思う存分、飛んできてね、お嬢さん。俺達、ここから見ているよ」

 はりきって見送ろうとしているエディ。
 そして吾郎も笑顔で見送ろうとした。

 でも、葉月は急に……。 
 先ほどまで、空を飛ぶ男達と意気揚々とした笑顔だったのに、吾郎とエディの目の前にきたら、ちょっと泣きそうな顔になったから驚いた。

「レイ! 飛ぶ前に泣くなよ、帰ってきてから泣けよ!!」

 でもエディの方が先に目尻に涙をこぼしちゃっているじゃないか……。と、言いたい吾郎も目がうるうるしてきちゃった!!

「有難う、エディ」

 葉月は微笑むと、なんとエディにぎゅうっと抱きついてしまった。
 吾郎は流石にぎょっとしたのだが、エディはちっとも違和感がないようで、彼もぎゅうっと葉月を抱きしめている!?

「レイ。寂しいけれど、最後にレイが飛ぶ姿を見ることが出来て良かった」
「エディ。これからは同じ甲板で、一緒にパイロットを守っていこうね」

 固く抱き合いながら、エディも納得した顔で頷いている。
 この二人は育ちがアメリカだから、まあ、いいじゃないか? それに二人は妙に馴れ合っているのも皆が良く知るところ。隼人曰く『ジュニアスクールの同級生みたいなもん』らしいので、二人が妙に馴れ合っていてもへっちゃらのようだった。いまもそんな感じ、きっと……。

 エディと離れた葉月が、今度は吾郎を見た。
 なんだか胸がドキドキしてきた吾郎。

「吾郎君」
「お、お嬢さん……」

 暫く、彼女と見つめ合った……。
 長かった約束の日。
 その間、彼女とは楽しい日々を過ごした。

「吾郎君も、卒業ね」

 晴れやかな彼女の笑顔。
 吾郎の中で揺れた沢山の迷い。それを彼女はずっと見守ってくれていた。

「うん……。俺、俺も……今日、ここから飛ぶのかな」

 ふとそんなふうに思えてきた。
 葉月だけじゃなくて、自分もこの甲板から……。海の向こうへ……。

「そうよ。今日は吾郎君も一緒に、コックピットにいるわ」

 俺も一緒に、彼女の側に、彼女のコックピットにいる?

「今日は私、隼人さんも貴方達も乗せて飛ぶつもりなの」

 吾郎の目に、涙が浮かぶ。エディのこと、言えやしないほど……。
 そして気が付けば、葉月は吾郎のことも優しく抱きしめてくれていた。
 吾郎も……照れもなしで本気で彼女を抱き返す。
 彼女が始まりで、そして彼女はかけがえのない、吾郎の友人。

「有難う、お嬢さん。俺も、これから始まるんだね」

 葉月は『そうよ』と吾郎の胸元で頷いてくれる。
 彼女はやっぱりいい匂い。汗くさい甲板とコックピットの世界で、彼女のコックピットはいい匂いがすると男達は言っている。でも、それ、本当だと吾郎は改めて思う。
 その匂いはもう……。綺麗な女性とか高嶺のお嬢様とか、そういうものではなかった。
 彼女が願っているような、空の女房というべきか。空の男達をその懐に抱きしめて、包み込んで、安心させてくれるようなそんなものだった。

 

『フロリダ機が行ったぞ。次はマルセイユだ。小笠原ビーストームも急げ』

 

 カタパルト台で各部隊の発進を見守っている隼人からの無線が聞こえてきた。

「行ってきます!」

「行ってこい、レイ!」
「いってらっしゃい、大佐嬢!」

 葉月が梯子を駆け上がる。あっという間にキャノピーを閉め、コックピットに乗り込んでしまった。
 彼女との機動確認。エンジンがかかり、彼女の操縦で機体が動き出す。それをエディと一緒にスティックライトで誘導をする。他のメンテ員が運転するトーイングトラクターの牽引で葉月の機体はカタパルトへと向かっていく。
 まだヘルメットのシードルを降ろしてない彼女とは、甲板にいる吾郎とエディともまだ視線を合わせることが出来る。彼女は時折、目を合わせては微笑んでくれる。しかし……ミラー中佐のカタパルト発進の確認が始まると、彼女から笑顔が消え、黒いシールドを降ろしてしまった。
 真っ赤な口紅の唇だけが見える。その唇はきゅっと真一文字に結ばれ、彼女がいよいよパイロットとしての意識を集中させているのが窺えた。やがて彼女の表情を知る最後の唇も、酸素マスクで隠されてしまう

「ビーストーム1、発進終了。ビーストーム2、行きます」

 吾郎の無線に、葉月はコックピットからグッドサインで答えてくれた。

 彼女の機体を、カタパルトにセッティング……。
 発進台にいる隼人に手合図を送るエディ。
 ──準備は整った!

「発進チェック開始──。こちらメンテ、発進準備完了。ビーストーム2、発進OK?」
「ビーストーム2! 発進準備OK!」

 いつものスピードに乗った発進確認が隼人と葉月の間で始まった。

 隼人とキャプテンのデイビットは機体横にいるが、サポートのエディと吾郎はその後方で甲板に身を伏せるように身体をかがめ、発進を待つ。

 徐々に高鳴るエンジン音。そして真っ赤に燃える噴射口。しゅうっと蒸気を吹き上げるスチームカタパルト。
 吾郎とエディがいる後方にはかなりの気流が吹き付けてきた。

「ラジャー。こちらメンテ、発進OK──。管制、お願いします」
『ラジャー。こちら空母管制、上空障害無し、発進許可OK』
「ラジャー。こちらメンテ、発進許可OK。ビーストーム2、OK?」
「ビーストーム2! 発進OK!」

 

 来た! もうすぐ、彼女が飛ぶ!

 

『葉……づ、き……・ 最後……な、い。これが最後じゃない』

 戦闘機の後方気流の煽りと、ざざっとたまに途切れる無線雑音の向こうから、そんな隼人の声が聞こえてきた。
 エディと吾郎は顔を見合わせる……。

『聞こえ……い ……か? お前……これからだって……』

 発進寸前の赤ランプ点灯。そんな中、妻を最後のフライトへと見送る夫がなにかを一生懸命に伝えようとしているのが、雑音の向こうでまだ止まない。

 でもそんな隼人の声に、吾郎は熱い物が込み上げてきて、唇を噛みしめこぼれ落ちそうなものを堪える。
 隣のエディも身をかがめる中、吾郎の肩を握りしめ、気流の中、葉月が飛び立つ前方の海原を見据えていた。

『あな…た いってき……す! 貴方の心を乗せて、共に行ってきます!』

 青ランプが点灯!

『GO! ビーストーム2!』

 ガタン、という音でカタパルトが動き出し、葉月の機体は一瞬だけゆっくりとカタパルトの軌道を滑り、次には瞬速に動きだす!

「くそ、やっぱりこれが最後だなんて、ちっくしょーーー!!」

 直ぐ隣でエディが叫んだ。吾郎はびっくりしたが、エディの必死の形相に、やっぱりそれが本心なんだなと思った。
 そして──隼人の叫びも聞こえてきた。

『忘れ……な! お……えの、勝利……空、帰ってくることだ!!』

 ……吾郎の胸に、衝撃が走る!
 『待って、見守る』
 あの言葉、本当はこの人が痛いほど……。貫いてきたことだったから教えてくれたのだと……!

 吾郎も見た。激しい気流の中、目を逸らさず閉じずに見た。
 葉月の機体が勇ましくカタパルトを滑り、翼を輝かせながら機首をあげ、青い空へと銀色に光りながら向かっていくのを……!

 葉月が飛び立った甲板──。そこには、ひゅうっという静かな残留気流の音が通り抜ける。
 彼女の機体が甲板に渦巻いていた熱気を全て絡め取り空へと持って行ってしまったのか……? 男達の沈黙。彼等も空を見上げている。

 空には銀色に煌めく葉月が、青い空の中、くるりと旋回し羽ばたいていった姿が見える。

 やがて、カタパルトの側にいる隼人が空に向かって敬礼をしていた。
 それを見てエディも、隼人の側にいるキャプテン・デイビットも……。吾郎も、空を見上げて敬礼を……。

 

 

 君は知らないだろうね。
 君が今度こそ、幸せな銀の翼をはためかせて飛んでいった後──。
 甲板にいる沢山の空軍野郎が君に敬礼を捧げていたのを。
 それとも、そこから見えるのかな?
 君の眼なら見えるのかな?
 有難う。俺の気持ちも空へと感じさせてくれて、有難う。

 

 

 銀の翼はいつまでも輝いていた。
 その姿を吾郎は一生忘れないと思った。とても綺麗な翼だったから。

 この日のフライトが終わった後、吾郎は紺色のキャップを夕暮れの甲板に置いていった。
 最後に深々と小笠原空母の甲板に一礼をして、去っていく。
 赤いメンテ服を脱ぎ、吾郎は大佐嬢が飛ばしてくれたまま、小笠原を飛び立った。

 

 

 

Update/2007.11.4
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