薄暗い棟舎を足早に出るようにして、葉月は潮の香りが混じる外へと出る。
滑走路は海辺により沿っていて、相も変わらず騒々しい轟音を響かせていた。
それとは、反対側の裏庭へと葉月は向かうことにする。
そよ風を頬に感じるなり、ベージュグレーの生地に黒い肩章が付いている上着を脱ぐ。
それでも……物足りず、むしゃくしゃついでに上着を裏に返して肩章が見えないようにしてみる。
白いカッターシャツの肩先にワンレングスに伸ばしている栗毛がパサリとはためいた。
タイトスカート姿で、上着さえなければ葉月も普通の26歳の“女の子”に、少しはなれた気になれる。
その上、葉月はヨーロッパ系のクォーターだからこのフランスではよく溶け込めるとも言えるところだ。
皆が勤務中の裏庭が葉月は大好きだった。
昼下がりのこんなお天気のいい日は、『裏庭』に限る。……というくらい。
人の目もないし、おまけに静かだ。
昔……亡き祖父と父に連れられて、何度かこのフランス基地に来たことがある。
(変わってないわね)
ポプラ並木の裏庭が目に飛び込んで、やっとにっこり微笑むことが出来た。
潮の匂い混じりのちょっと湿気の多いそよ風。6月に入っても、南フランスはもう夏。
ポプラ並木の小道に入って、一つ、二つ、三つ……と沿って葉月は日に透ける新緑の葉を見上げる。
『これは立派なこと』……と、感じた木の幹を見つけて葉月はそこで立ち止まった。
その大木の影にはいると、ひんやりとして気持ちがよかった。
空を見上げると、白煙を上げるF14が編成を組んで空高く上昇している。
そうして、いつもがたいのいい兄様方にもまれる訓練を離れ、若いエリートの集まりとはいえ、主を失った中隊の管理を離れ……。
葉月は今、一人きり。
遠い異国のこんな所にいるのだ。
もう、先程……まだ逢えぬ大尉にすっぽかされた事など、どうでもよくなっていた。
そんな今さっき起きた事よりも、もうずっと前から心のおもりになっている事のほうが大きいからだ。
ここで一息……葉月はタイトスカートのポケットから煙草を一本口に挟む。
そして、制服の胸ポケットから、シルバーのジッポーライターを取り出す。
──キン──
いつもの仕草で火を付けて、やっと出来た一服に深いため息も乗せてみた。
──カチン──
蓋を閉めて、ここ一年、癖になったようにしばらくそのライターを見つめてしまう。
決して触れない一部分があった。
そこには、自分の指紋より大きな指の錆びたような使い込んだ跡があるのだ。
あの日──。
『絶対に帰ってこれるよう。何かお守りをくれないか?』
遠野大佐が、空母艦に乗り込む前の大佐室で葉月にそう頼んだ。
目尻にしわを寄せて、今までにない笑顔でそういったのだ。
その時、何にも思いつかなくて自分が身につけているものを探っているうちに見つけたのが、昔から親の目も気にせずに煙草を吸っていた葉月に、祖父が冗談で作ってくれた青いスリムのライターだった。
蓋の留め金の所に、祖母が実家からもらってきた衣装箱の装飾に使われていた、かなり希少価値があるという小さなサファイアをあしらったものだった。
もちろん大佐はビックリして『それは……。祖父さんからもらった宝物だろ』と、たじろいだ。
『だから、絶対返して下さい。持って帰ってきて下さいよ』と差し出すと、葉月より八つも年上の男が少年のように嬉しそうに微笑んでそれを受け取ってくれたのだ。
『じゃぁ、これを代わりに……。無いと吸えないだろ? じゃじゃ馬』
そういって、この世で最後に見た彼が、葉月にこのシルバーのジッポーライターを交換で渡してくれたものだった。
ところが、彼はゲリラかテロに鉢合わせてあっけなく銃弾に倒れて亡くなった。
彼は葉月のライターを握りしめた姿で発見された時には息絶えていたと聞く。
葉月のライターには血糊がべったりと付着した状態で、手元に戻ってきた。
しばらくその血糊は拭くことが出来ずに、まるで彼の最期の血とばかりにそっとしておいた。
彼が亡くなって一年経って、やっと拭くことが出来たのはつい最近のことである。
(どうして……? あんなに勇ましいあの人が死んでしまったの?)
葉月はこの一年こうしてふと、闇に捕まって深みにはまる日々を過ごしてきたのだ。
まるで康夫とロイにまんまと乗せられたようにして、葉月が素直にこの研修に来た理由が幾つかある。
ひとつは、康夫の好意を無にしないため。
ひとつは、負けず嫌いの康夫が認める年上の男だということ。
ひとつは、あの手厳しいロイが認めた事。
ロイが認めたという点では、葉月はまだ『合点がいかない』部分がある。
『澤村大尉』は日本人の中でも珍しく15歳で単身異国の訓練校に入学して立派に卒業していた。
これだけでも、フロリダ校を卒業した葉月とも釣り合えるとロイなら考えそうではあるが、ロイはいつも──『いくら学歴が素晴らしくとも、それに伴う結果が伴っていなくてはそれまでのヤツ。そこから上に行く気のない者にチャンスはやらん!』──と、言っている。
『澤村大尉』は、葉月が見たところ正にそれであって、しかも……後輩の康夫に使われていたりする。
それも、康夫よりずっと先輩であるはずの『澤村大尉』が年下の康夫に出世を先に越された上に、日本人だというのにフランス訓練校でトップクラスの成績で卒業したにも関わらず、『大尉』と『教官』という、安易な地位に何年もいる……。
なのに? 康夫も、ロイも『いいぞ。いいぞ。会ってみろ』などと、すっかりその気なのも気になる。
そうして、それ以上の一番の理由は──。
また、一昔の話になるのだが……。
遠野という男は、孤独な男であったのだが、そんな彼が一度、懐かしむ様にしてくれた『ある男』の話……。
『フランスにいた時な。面白い後輩が一人いたっけ?』
遠野と康夫が一緒に働いていたことは知っていたので、『藤波のことですか?』と、聞いてみた。
『いいや。康夫ともそうだが? もう一人、よくつるんだ後輩がいてな。若いくせに妙に冷静で頭が切れるヤツなんだ。なのに、欲が無くて上に行こうとしない。何かワケがあるらしいがその事も言おうとしない。俺にバッサリ本当の事を突きつける生意気さがあるのに、ある程度で満足してるヤツなんだ。冷たい男だったけどな。いい奴だったよ』
『ふうん?』と、葉月がそんな目線を投げかけると遠野は訝しそうに尋ねる。
『何だよ……?』
『いいえ。大佐がそんなに誉めるのなら、余程の男性ですのね。珍しいわ──』
葉月は、にこりと意味深に微笑んだ。
『笑わせるな。俺よりも、歳は下だし……欲は無いし……』
『いいじゃないか。そんなこと。他の男には興味は持たないでくれ』
そうして、彼は慌てて……。きつく背中から抱きすくめられたことを思い出したのだ。
そう……。葉月と遠野大佐はそういう仲だったのだ。
もちろん、三十代の彼には妻と幼い一人息子もいた。
だが、フランス勤務、フロリダ勤務を単身で務めていく内に、少しもついてこようとしなかった妻とは疎遠な仲になっていた。
日本の小笠原に帰国しても妻は側に来ないし、本島で華やかな生活ばかりしていて、夫の遠野は夜遊びに身を投げている始末。
葉月は他人様の事と放っておいた。
これで、仕事が出来ない男だったらロイに抗議してやると言うほど、小笠原赴任当初から女と夜のそぞろ歩きをしていたのだ。
ところが、遠野が本気になったのは無感情でロボットのように働く葉月のほうだったのだ。
『少しは、笑え』とか、『堅いだけじゃ仕事にならないぞ』とか。
そういって、葉月の心の固い扉をこじ開けようと、しつこいの何の……。
葉月も彼のふざけた誘いに反抗するので精一杯。
最初はパートナーワークなどひとつもなかったのだ。
しかし、仕事は出来るのに私生活はふざけている上司が、本当は孤独な男というのを垣間見てしまってから、葉月はいつの間にか、強引な遠野を心の中に入れてしまったのだ。
世間では、二人の仲を“不倫”と呼ぶのだろう。
葉月も、彼の妻が美しい姿で島に訪ねてくる度に罪の意識が生まれた。
しかし、遠野のほうが葉月に本気だったのだ。
夜のそぞろ歩きはピタリと止んで、妻と離婚の話し合いまで始めたのだ。
遠野は『遠征から帰ってきたら、一緒に暮らせるようにする』と、はりきって出掛けて……そうして、亡くなってしまったのだ。
その上、妻のほうは遠野が遠征中に他の男の子供を身ごもってしまい、今は、その男と暮らしていると聞いている。
葉月は、彼が本気になっても、離婚すると言ってもやっぱり無感情な女だったかもと今思っていた。
妻に悪いと思っていた部分もあるが、彼の熱烈な求愛にも、どこかしらポッカリ穴が空いた様に静かな自分がいたのだ。
それに気付いたのが、彼の葬儀の時。
『私はまだ全部あなたに伝えてない。全力で愛していなかった。本当はうんと必要で愛していたのに!!』
心でしか叫べなかった。
彼の棺が火の海に入って、もう二度とその肉体に触れられないのかと思うと、いても、立ってもいられずにしがみついて泣き叫んだのだ。
それが、康夫が言っていた『無感情令嬢の珍しい取り乱し』だったのだ。
その遠野大佐が想い出の中にしまっている後輩が『澤村大尉』と知ってそれが一番の理由で逢う気になったのだ。
つまり……『澤村大尉』の中から『生きていた頃の遠野祐介』を見たいが為に……。
そんな、よこしまな心で来た葉月から、見込まれていた大尉が何か察して逃げるのも、葉月には責められなかったが……。
(なるほど。あの大佐が言うだけあってよっぽど勘がいいか、頑固な人のようね)
葉月は、ふと笑ってそのライターをスカートのポケットにしまい込んだ。
(大佐……か。大佐があの話をしてくれなかったら、ここまでこなかったわ)
未だに祐介を心の奥にこびりつかせている自分に葉月はため息をついた。
その時──。
煙草を半分まで吸って、急に風向きが変わったような気がした。
父に仕込まれた勘というヤツだろうか?
ふと、人の気配がしてそっと木の幹の裏に顔を覗かせてみる。
そこで、黒髪に眼鏡をかけて本を読んでいた男性とばっちり目があって葉月はビックリのけぞった。
あちらの男性も、きょとんとして葉月の煙草の煙に見入っていたのだった。