康夫との研修が終わろうとしていた、そんなある日。
葉月は彼の口から思わぬ事を告げられた。
主がいなくなって、未だに不在の大佐室。
今、葉月は亡くなった遠野大佐の席に座り、康夫は彼女が座っていた側近席に着いていた。
訓練が終わり、夕方の雑務を二人で黙々とこなしていた時だった。
「中将がな。諦めてくれた」
ぽつりとふっと湧いてきた彼の一言だったが、葉月はひどく驚いた。──『あの兄様を押し切ったの?』──と。
すると、康夫は席を立ち上がって葉月の目の前に立ちはだかる。
葉月が『何?』と、黒髪の彼を見上げていると、康夫はいつになく神妙に大佐席に手をついて身を乗り出してきた。
なにやら、ためらってもいたが……。
「なぁ……葉月。俺の中隊にいいヤツがいるんだ。会ってみる気はないか?」
などと、思わぬ事を申し立ててきたのである。
葉月は息を止めて驚き、そして──
「ちょっと……!? なぁに? 自分が側近になる気がないからって他人に……しかも自分の部下に押しつけるつもり?」
“なんて調子がいいの!?” と、らしくない康夫のやり方に今度は葉月が憤慨した。
すると彼はいつも見せる、見透かしたような意地悪い微笑みを浮かべて、葉月を見下ろすのだ。
葉月もそこで勢いをぐっと引っ込めて、イヤな予感を走らせた。
「つまり。俺が日本に来たのは“この為”さ。元々、おまえの側近にはなる気はなかったって事。ほれっ!」
そういって、葉月が座る“隊長代理”の席へ、康夫が『ほれ』と投げてきた書類に葉月は目を疑った。
「何! これ!?」
「ご覧の通り。この企画書はフランク中将の目を通ってGOサインが出たって事だ」
康夫はまたニヤリと笑い、胸を張ったのだ。
康夫があの兄様を、“ウン”と言わせた書類をめくって葉月は絶句した。
そこには既に、康夫が言う“イイ奴”と逢わなくてはならない手はずが整っていたからだ。
つまり、康夫はロイに言われるまま“側近研修”に素直に来たフリをして、来たら来たで、この企画をロイに認めさせるために日本に来たのだ……と、言わんばかりの余裕であったのだ。
コレでは必死にライバルに頭を下げ、泣きついた自分がバカではないか?
葉月は“くぅ……!”と歯をきしませて、その企画書を握りつぶした。
「ひどいじゃない! よくもやってくれたわね!」
(相談もナシにコソコソと!)
席の前に立つ長身の彼にその企画書を投げつけたが『おっと……!』と、なんなく、かわされてしまった。
こっちが彼のプライドを傷つけたと、反省していたのに、今度は葉月が傷つけられた気持ちになった。
「ひどい!! そんなことなら、最初から日本に来ないでよっ!」
いつもなら強がりの女中佐も、このときは半ば泣き叫んで康夫に食いついた。
そんな葉月を見て康夫はひとつ、ため息をつき、床に落ちた企画書を拾い上げる。
「葉月。おまえがな……この一年、本当に辛い思いをしたのはよく解ってるつもりだ。おまえさ……。去年、大佐の葬儀で取り乱しただろ? 心配していたんだぜ」
康夫は、今度はいたわる優しい笑みをそっと浮かべて、葉月の席の上で、企画書のしわを伸ばしはじめた。
葉月も今にも落ちそうだった涙がピタリと止まった。
そう……遠野大佐は康夫の先輩でもあったのだ。
神奈川訓練校のOBでもあるし、フランス基地でも一緒の時があった。
遠野はフランスを出て、フロリダ本部へ、そして、葉月がいる“島”と呼ばれる小笠原基地へと、やってきた男だったのだ。
康夫はその後輩として、遠野の葬儀にも参列していた。
「俺が日本へ来たのは、おまえの事もあれからどうなったか気になっていたし。女房の雪江もな。様子見て来いとばかりにこの “研修出張”に送り出してくれたし……。まぁ……。俺と張り合う元気があるんだ。何とか大丈夫そうだってな。それからなぁ。昔なじみの俺に頼るようじゃダメだ。おまえはな。“御園の一員”なんだ。しっかりしろ」
そこで葉月は、信頼ある彼の言葉が身に沁みて、こらえていた涙がボタボタと落ちてきて、机の上にうずくまってしまった。
「何だよ。いつもの“じゃじゃ馬”はどうした? いいか?? とにかく、コレに目を通しておけ。言っておくが、おまえにはもったいない男かもしれないぞ。“遠野先輩のお気に入りの後輩”だ。俺の部下だけど“頼りがいある先輩”。何よりも、フランク中将が認めた。とにかく……見るだけでも見ておいてくれ。いいな?」
康夫はグズグズと泣く葉月を見ていられないのか、ちょっと気まずそうに……机の上にある企画書を、指でコツコツと叩いて外へと去っていってしまった。
(!? 遠野大佐のお気に入り??)
葉月は康夫が残していった言葉に、急にハッとして、その企画書を一人めくってみる……。
それが……フランスに来た訳であった。
それでも、そのまだ見ぬ新しい側近候補の彼が『令嬢中佐』を受け入れてくれるのか??
葉月はそんな不安を抱えて、やっと日本を出てきたのである。