57.西日の中
隼人はベッドの上で一枚の写真を眺めていた。
白い正装制服を着た自分と…少年のあどけなさを残す康夫……
そして……自信をみなぎらせて微笑んでいる長身の先輩、遠野祐介。
三人が一緒に同じ班室で働いていたとき、『式典』でとったモノだった。
遠野が亡くなったと聞いてもこの写真は手にしなかった。
それが…急に…。
隼人は気になって朝起きてからこの写真が何処にあるか探し回り
昼近くにやっと見つけて…こうして日が傾いてもジッと眺めていた。
遠野祐介が急に気になった。
その颯爽とした長身。自信を浮かべた微笑み。その口元…。
それで葉月の全てを包んでいた男。
(彼女をどうやって愛し抜いた?先輩は??)
昨夜の葉月の唇を思い出しては、隣にいるのは自分でなく遠野を思い並べてしまう。
隼人は急にムッとしてその写真を指ではじき飛ばした。
(まったく…いつも俺に後押し付けて…そのまんま死ぬなよ!!)
ブラインドから射し込み始めた西日に光りながら写真は木の葉のように
不規則な軌道を描いてベッドの下に落ちていった。
『ブッブー』
インターホンが鳴って隼人は『?』と腰を上げた。
一応…今日は二日酔い。そんなことはなかったが…ドアの覗き窓を覗いてみる。
そしてビックリして…一瞬躊躇したが、ドアを開けた。
「お嬢さん…」
「ボンジュール…。具合が悪いって聞いたから…」
「…良くここが解ったね…」
「うん。康夫に教えてもらったの」
「そう」
葉月はうつむき…隼人も目が合わせられなかった。
昨日の今日…。お互いが昨夜の口づけで意識しているのが解った。
葉月は目も会わせてくれない隼人をやっと見上げる。
顔色はそんなに悪くはないし、髭もちゃんと手入れされていてつつがなく過ごしているように見えた。
「あの…具合が悪いなら…帰るわ?」
「え?ああ。いいよ。あがっていきなよ。」
隼人は気持ちとは裏腹に葉月を招き入れてしまった。
「えっと…お嬢さんはミルクティーだったっけ?」
「え?あ…いらないわ」
「そ…そう??」
キッチンに入ろうとした隼人の横を葉月はサッと前に行き、隼人のたった一つの部屋を覗いた。
「あんまりじろじろ見るなよ」
「ふ〜ん。これが隼人さんの部屋かぁ。」
といっても、部屋はワンルームなので葉月はそこに入っていき…隼人も止められなかった。
葉月は一歩入って立ち止まった。
ワンルームだが広々したフローリングでキチンと整っていた。
物はあまり置いていない。ブラインドの窓の横に机。やっぱり本が積み重ねられていた。
手が届くところの壁際に本棚。
反対側の壁には、ブラインドの窓の所に立ち上がる分のスペースを空けてベッド…。
それだけだった。
「西日が入るのね」
葉月はブラインドの窓に惹かれて窓辺に近寄った。
指でそっとブラインドの隙間をひっかけて外を覗いてみる。
葉月が泊まっているホテルアパートとは違って少し高い位置にあるらしく建物が並ぶ隙間から
チラリとだけ海が見えるだけだった。商店が結構並んでいる中のアパート。
車や人通りが多い。しかし…そんなに騒音はない。たまに車のクラクションが響くだけだ。
「こんなに西日が入って…暑くない?」
「まぁ。一応クーラー付いているし…昼間は仕事だからね。
気候も良くなってきたからそんなにきつくないよ。」
葉月が立っている後ろのベッドに隼人が腰をかけた。
「それより…何?」
隼人にここに来た用件を尋ねられて葉月はブラインドから指を外した。
そして…うつむいて黙り込む。
「部隊はどうしたんだよ?まだ仕事中だろ?」
「お得意の…サボタージュ」
葉月がニッコリおどけて振り向いた。西日に照らされて葉月の栗毛の縁は金色に透けた。
「もう…する事ほとんどないし。」
「でも、荷造りとかあるんだろ?」
なんだか隼人はやっぱり目を合わせてくれなかった。
それに今すぐ帰れ…と言われているようで葉月は胸が締め付けられるような思いになる。
「………」
黙ってうつむいている葉月が何か緊張しているように見えて…隼人も言葉が出てこない。
すると…
「隼人さん…」
葉月がうつむいてやっと小声で何かを言った。
「は?何??」
聞き取れなくて隼人は耳を葉月の方に傾ける。
「抱いて…くれる?」
「!?」
隼人は身体が硬直した。『しまった!』とさえ思った。
昨夜、あんな事をしたばかりに…とうとう葉月の方から身を投げてきたと。
綺麗な関係で終わりたいのに…。
すると硬直している隼人の目の前で葉月が西日の中制服の上着を脱ぎ始めた。
隼人は、葉月の大胆さにより硬直し、少しも身動きが出来なくなった。
そうして戸惑っているうちに葉月は金ボタンを全部外して上着を床に落とし
あろう事か…タイトスカートのホックも外してすとんと床に落とした。
白いカッターシャツの下から…艶やかなブラウンベージュのスリップドレスのレエスが揺れた。
隼人が固まっているうちに…
「いいの。今だけ…ここだけの…それだけでいいの」と
まるで緊張している自分を励ますかのように葉月がシャツのボタンも外してゆく。
そこでやっと隼人は立ち上がった。
ボタンを外している葉月の手を取りシャツの襟元を片手で閉じた。葉月の手が震えているのが解って…
「やめろよ!なんのために!!」
「私のためよ!!」
やっと目があったが葉月のガラス玉の瞳は真剣だった。
「お嬢さん…。昨夜は俺が悪かった。だから…」
「どうして!?あれは嘘だったの??そんな物だったの??だったらあんな事しないで!!」
葉月は緊張がはち切れたのか隼人の胸の中できつく目をつむってうつむいてしまった。
隼人はため息をついて葉月から離れ再びベッドに腰を下ろした。
「あれが嘘だったのなら…嘘と言って…」
葉月が栗毛の中うつむいて…涙声で訴えてくる。
嘘なんかじゃない。隼人はそう心で答えていた。
嘘だと言えば…今まで彼女と積み上げてきた関係も全部嘘になる。
今までがあって昨夜の口づけがあったのだ。
だたし…隼人の中ではあそこまでで終わりたかったのだ。
勿論…今、目の前にいる麗しい下着姿の彼女だって嫌いじゃない。
でも…ここで抱いてどうする?これからどうなる?葉月は帰るのだ。
抱いたところで続きはない。葉月に変な期待は持たせたくない。
「嘘じゃないなら…私を抱いて。私…今度こそ同じ事繰り返したくないの。
想い出でもいい…。私の気持ちを受け取って!!」
全てのブレーキがはずれたのか葉月は狂ったように栗毛をかきむしって頭を抱えたのだ。
「………」
隼人は…こんなに激しい葉月を見たのが初めてで茫然としていた。
そして…床の下に落ちている写真を見つめた。
(先輩…。これで最後だぞ!!)
隼人は着ていたTシャツをサッと頭をくぐらせて床にたたきつけた。
それを見て…葉月がさっと後ずさりをした。
「怖いのかよ?だったら…早くそういえよ」
急に男らしくなった隼人に葉月が今度は身を固める。
隼人がジーンズのボタンに手をかけると葉月はもう身動きを止めていた。
隼人は…解っていたからため息をつく…。そして…。
「先に独りよがりをしたのは俺のほう…。いいから…早くおいで?」
怯えているウサギを手招きするように葉月の細い手首を手に取る。
そっと葉月が手を引かれるまま近寄ってきた。
ベッドに座っている隼人は戸惑ってたたずむ葉月を見上げて…そっと微笑む。
葉月はただ隼人を不思議そうに見下ろしていた。
シャツのボタンに隼人が手をかけても…葉月が無反応になった。
西日が射し込む中…シャツを肩から滑らせると、葉月の白い肌がオレンジ色に染まる。
手触りのいいスリップドレスが隼人の胸を急にせき立てたが、
葉月が怯えないようそっと…押さえ込んだ。
「傷…」
葉月がそっと囁いた。左肩の傷は…何とも思わなかった。
よく見ると…腕の裏にもやっぱり傷跡があった。
スリップドレスの上から体の線をなぞると…脇腹にもふっくらとした線があるのに気が付いた。
「見えないよ」
隼人がそっと微笑むとやっと葉月も安心したように微笑んだ。
そのまま隼人の膝と膝の間に葉月を誘って座らせた。
「こうしているとじゃじゃ馬もウサギみたいに大人しいんだね」
葉月の髪を撫でながら微笑むとそんないつものからかいに葉月がムッとした顔を浮かべる。
葉月のほうもやっといつもの自分を取り戻したようだ。
「初めて逢ったとき…思ったんだ」
隼人はすぐに葉月の身体を押しきろうとしなかった。
それも葉月が安心した一つのキッカケ。
隼人は絶えず葉月の髪を撫でているのだ。
「何?」
それでもやっぱり緊張しながらうつむいてしまった。
「綺麗な髪…だなって。触るとシルクみたい」
裏庭で葉月が風に栗毛をなびかせて煙草をくわえていた日を隼人は思い出す。
『先客がいたのね?』
その時なびいていた髪がふんわり風に舞って艶やかに輝いていたのだ。
「俺。たくさんの男に恨まれるね」
唯一…女として手をかけている髪を褒められて葉月もニッコリ微笑んで…
まるで小さな女の子のように…やっと隼人の首に抱きついてきた。
西日の中…。
後は車のクラクションと…行き交う人々のさざめきだけがブラインドの部屋に響くだけだった。
すっかり日が落ちて、暗くなった頃。
隼人に抱かれて一時眠っていた葉月がむくりと起きあがった。
隼人の手先に巻き付けていた栗毛がスルリ…と離れてゆく。
隼人も寝返りを打って手元のスタンドをつけると…白いしなやかな背中がぼんやりと浮ぶ。
葉月がシーツを胸元に引きつけて眠そうに目をこすった。
「帰るの?シャワー使う?」
隼人は急に葉月を帰すのが惜しい気持ちになり、そっと背中から抱きしめてしまった。
「いい。隼人さん使って…」
「そう?じゃぁ…。」
愛らしく微笑んだ葉月に安心して、隼人はまだ引き留めたい気持ちが手伝ってシャワールームに向かう。
暫くすると…シャワーの水の音が葉月の耳に届く。
葉月はおもむろに隼人のベッドから下りて…時計を確かめた。
(いかなくちゃ)
フローリングに散らばった自分の服をかき集めた。
その時…ふと一枚の写真が落ちているのに気が付いて手に取ってみた。
(大佐!?隼人さんも…)
床に膝をついて暫く眺めていた…。白い正装の…葉月が愛した男が二人。並んで微笑んでいる。
そして葉月はそっと微笑む…。
(大佐?これでいいのでしょう?ちゃんと素直に飛び込んだわよ。でも…)
葉月は、遠野に言われたとおり…『もっと素直になれ。』の言葉をやっと実行した。
しかし…。この写真のように二人の男はもう…想い出の中。
葉月の側では二度と微笑んでくれない。
葉月は制服を着込んで、その写真を胸ポケットにしまった。
それと同時にシャワーの音がピタリと止んだ。
「………」
葉月は…心を決して歩き出す。
『隼人さん?』
バスルームの扉の向かうから葉月の声。
隼人は身体を拭くバスタオルの手を止めた。
「なに?待って送って行くから…」
『ううん。まだ時間早いから…一人で帰るわ。』
「え?ちょっと待って!!」
隼人は既に見られた裸なのにあたふたしながらバスタオルを放ってバスローブを捜した。
『ありがとう…。嬉しかった。じゃあ…また…明日ね』
葉月のやわらかい声が明るく返ってきた。
「お嬢さん???」
隼人が慌てている間に『バタン』と、玄関が閉まる音がした。
「??。なんだよ。まったく…」
隼人は裸のままやっとバスローブを見つけて羽織った。
「まあ、いいか。明日……。またどうするか?」
またどんな顔で葉月に会おうかと、隼人は思いあぐねた。
しかしそれは…昨夜の『やってしまった!!』とは違って…
葉月のしっとりした白い肌に対しての『照れる』にすり替わっていた。
隼人の肌に…葉月が付けていた『カボティーヌ』の香りが立ちこめていた。
葉月は早足で階段を駆け下りる。そっと…アパートの入り口で…
乗ってきた赤い自転車に振り返った。
そして…隼人の部屋を見上げる。
『さようなら。隼人さん』
葉月はプラタナス並木のなか。そっと走り出す。
暗闇の中…。石畳みの街から姿を消すために…。
一枚の写真はお土産にもらうことにした。
葉月の中で『綺麗な関係』はもう無くなった。
女として身を投げた以上、残ることは『想い出』だけ。
それでも…心の中に宿っていた『恋心』は充分満足をしていた。
『せつなさ』が残っているが…。
きっと…写真の中のようにいつまでも…隼人の笑顔は残る。
想い出の中で…隼人とはずっと微笑んでくれる。
今度逢う事があるなら…
その時隼人が葉月の今日、伝えた気持ちに答えを出してくれるだろう。
彼が…フランスに残るならそれまで…。
仕事であってももう…『中佐』と『大尉』、彼は再びフランスに帰るだろう。
側近になってくれるなら…。
今度は葉月は『大好きよ』…。そういえるだろうと。
暫く走りきって…葉月は胸ポケットからメモ紙を取り出す。
「もう…いらない」
隼人からもらった『アドレス』の紙をビリビリに破いた。
『綺麗な交流』はもう出来ない。
だから必要がないのだ。
『これでいい。終わったわ…』
葉月はそっと微笑んでまた、石畳みの上を走り出した。
『さようなら。マルセイユ!!』
葉月の手から紙の切れ端が風に乗って飛んでいった。