52.記念の宵

 

 「心なしか外の風が涼しくなってきたねぇ」

 

 葉月がレストランでミルクティーを飲んでいるとママンが

カウンターを拭きながらそう話しかけてくる。

「もう夏も終わりね。日本でもそろそろ涼しくなっているはずだわ」

葉月はフランス語の新聞を広げて何気なく眺める。

「アンタももう来週帰っちゃうんだね?寂しいよ。アンタのヴァイオリン最近ここらで評判だよ?」

ママンが深いため息混じりに言うので葉月までため息がこぼれてしまった。

「所で…。いい若い娘が週末だって言うのになんで

こんなに天気がいい日に新聞を読んでいるんだい??」

生徒達のデビューがつつがなく終わって数日経った週末連休だった。

「いいじゃない。その内に出掛けます!」

葉月はお客のいない昼下がり。日射しが程良く注ぐ窓際の席でふてくされながら新聞読み続けた。

「ボンジュール」

店の扉がキィとあいた。

「おや、隼人。丁度良い。この子をどっかに連れ出しとくれよ!」

『ハヤト』と聞いて葉月はドッキリ飛び上がった。

「隼人さん…」

「ああ…。そこを丁度、通ったから」

いつも通り…シャツにジーンズ姿の隼人がニッコリ微笑みかけてきた。

「ママン。牧場まで行って来たんだ。このチーズ使ってよ」

「悪いねぇ。いつも。じゃぁ今夜はウチで食べるんだね?」

「勿論。おいしく作ってよ。お嬢さんも食べる?」

「なんのお話?」

実は葉月は隼人と『記念の食事』を明日の日曜の夜約束していた。

なのに。今夜も一緒に食べる? と来た。

「カルボナーラだよ。あの牧場のチーズでママンに作ってもらうと極上だぜ!」

「そう…」

葉月は新聞をたたんでそっと立ち上がる。

そして…ロングワンピースの裾をなびかせてレストランを出ていってしまった。

「……??」

隼人はあっけにとられてママンと見合わせてしまった。

「近頃ずっとあんな様子だよ。仕事が上手く行かないのかねぇ。」

ママンは呆れてお客のいないテーブルを拭き始めた。

「様子を見てきたらどうだい?隼人」

「いや。やめておく。そっとしておいて欲しいんだろう…。夕方また来るよ」

隼人もため息をついて外に出た。

自転車にまたがると…ヴァイオリンの音が聞こえてきた。

「最近…ここのホテルからヴァイオリンよく聞こえるわよね〜。」

「ホント。音楽家でも来ているのかしら?」

通りすがりのマドモアゼル達がそう囁きながらホテルアパートを見上げる。

聞こえてくるのはポリスの『見つめていたい』だった。

隼人はふと四階を見上げた。カーテンが揺れる影から流れるように音が乗ってくる。

一通り聞き込んで隼人は自転車を漕ぎ出す。

葉月は隼人との研修を終わらせてもう、講義も今週で離れた。

後は今回のことを書類にまとめて次の週末には日本に帰るだけになったのだ。

来週の今頃は…もう葉月はいなくなる。

隼人も…何処かしら落ち着かなくなって…ついついこうして顔を出してしまうのだが…。

葉月は研修が終わるなり気が抜けたように元気がなくなったのは確かだった。

隼人が側近として心動かさぬ事を覚悟しているのだろう。

隼人も心苦しいが…。側近のことに関しては今すぐは決心が付かない。

葉月の研修で心が揺れ始めても…。すぐには決心が付かない。

時間が欲しいが…。答えを出す日はすぐそこに近づいてきていた。

隼人は微かに聞こえるヴァイオリンの音を掠めて…自宅に戻った。

その日の夕方。葉月は隼人が食事に来た時間にはレストランに降りては来なかった。

親父さんが一声かけにいったらしいが返事はなかったという。

「寝ているんだよ。きっと…『研修』の疲れが出たんだろうね…。」と、親父さん。

「アンタの生徒がちらほら来るけど…。なんでもすごい事したらしいじゃないか?

疲れたんだよ。あの娘だって毎日元気に出ていっても疲れるのだろうねぇ。

起きてここに降りてきたら、あんたのオススメのカルボナーラ食べさしとくよ。」

ママンがそう言うので隼人は諦めて一人…また外に出る。

四階を見上げると。灯りはともっていなく親父さんが言う様にうたた寝でもしているようだった。

(………)

明日…。約束をしているから…。

そう思って隼人は何処かしら『せつなさ』を感じながら自転車を夜道に走らせた

 

葉月はそっと…窓辺に身を潜めて隼人が自転車で去ってゆくのを眺める。

明日は『記念の食事』

でも…きっと『断られる』そう感じていた。

最後まで諦める気はないが、隼人の内側に入る勇気がなかった。

何を言い出す気なのだろう?

隼人は『記念の食事』と言ってくれたが…本当はやっぱり

『葉月と隼人』の話になると予感していた。

葉月は自分の今までを思い返しながら…カーテンを握りしめる…。

(こんな私…。)

栗毛の中でうつむいた。

隼人には深入りしすぎた。感情が入りすぎた。

この前そう気が付いてから急に彼を側近にするのが怖くなったのだ。

隼人がもし日本に来て…。十五年暮らしたフランスをやっと出て…。

やっと出て日本に戻ったのに葉月と上手く行かなかったら…。

隼人をまたフランスにすぐに帰すわけには行かない。

フランスに返してももう彼の居場所はないのだから。

すると…『達也』が頭をよぎった。

彼のようにあんなに気があった側近でさえ葉月の元を去っていった。

隼人も…そうなのか?

そして…『お前の側に来ると言うことはまた離れてゆくと言うことだ。仕事の関係にとどめておけ』という

あの黒猫の兄の声がまた帰ってくる。

(義兄様…。どうして側にいてくれないの?)

自分は男を幸せに出来ない女。こんなにせつなくても…もう、別れが見えていることがもっとせつない。

どうせなら…。側近にしない方がいいのか?

側近にしたらもう止まれないかも知れない。

葉月はそこまで辿り着いて『隼人に恋している』と認めてしまったのだ。

恋をしたら…彼を傷つける。

こんな事になるために隼人に会いに来たのではないのに、

『恋している』と認めてしまったが為に『側近』にするのが怖くなったのだ。

数日前まではこんな気持ちはなかった。

隼人と共に仕事をしているのがとても充実感があった。

遠野の影は薄れていき葉月はこのフランスで生き返った。

でも…。また一人日本に戻らなくてはならない。

彼を何処まで受け入れて何処まで突き放せば『側近』として迎えられるのだろう?

葉月は…深入りしすぎたことに後悔していた。

元々…。側近にはそんなに入れ込んでなく、私情を挟んでフランスに来たから

隼人にはプライベートの部分を開きすぎたのだ。

それがしっぺ返しとなって今帰ってくる。

彼がすんなり側近になってくれるとは思えない。

でも…どうせならこのまま、一緒に仕事が出来たらそれは葉月にとっては

新しい日々の始まりとなる。

そうすると。気持ちが止まらない。

葉月はそっとため息をついてベットに倒れ込んだ。

いっそのこと…。このまま時間が止まればいいとさえ思ってしまった。

 

 

 そんなもの思いにふけっているウチに日曜日の夕方になった。

葉月は日本から持ってきたよそ行きの洋服に袖を通した。

先日ダンヒル校長の家に行ったときに着ていった紺のワンピースに

ジャケットはやめて白いレースのカーディガンを羽織った。

化粧は口紅を少し華やかにピンク色にした。

髪は…まとめようとしたが気力が湧かなかったので

いつもはそのまま流している髪をちゃんとブローして

まっすぐにして…前髪を横に流すだけにした。

「はぁ…」

鏡を眺めてもなんだか顔色が冴えなかった。

「いけない。いけない…もしかしたら楽しい話で終わるかも知れないし」

葉月は無理にそっと微笑んで鏡を伏せた。

今日は何処に連れていくのだろう?そう思っていると…約束の時間がやってくる。

『プップー』

窓の外からクラクションが聞こえて葉月はそっと見下ろした。

隼人が車に乗って運転席を降りて上を見上げていた。

(車!?)

また自転車の後ろに乗せてゆかれると思ったので葉月はビックリして

慌てて下に降りてみる。

「デートかい?」

フロントにいる親父さんのからかいもほったらかして葉月はサッと玄関を出た。

「どうしたのコレ??」

葉月は赤いアウディにビックリ…思わず指さしてしまった。

「やっぱり。お洒落してくれると思って」

葉月のワンピース姿をニッコリ隼人が見つめる。

「俺は鈍感な男だけどコレくらいは解るよ♪まさかその格好で自転車には乗せられないだろう?」

運転のために眼鏡をかけている隼人の微笑みに葉月は思わずうつむいてしまった。

「俺のじゃないけどね。借りてきたんだ。乗って。」

隼人にせかされて葉月は早速助手席に乗り込む。

発進させて運転をする隼人を思わず見つめてしまった。

いつものジーンズだったが今日は長袖の白いシャツを隼人は着て袖をめくっていた。

「さて、何処に行こうかな。今夜はどこでも行けるよ?」

「でも…」

葉月は特別に遠いところに行くのもなんだか気が引けた。

「なに?俺とこうして『動く空間』に二人きりは怖い?それなら早く言えよ」

ニッコリ言ってくれても…おそらく『トラウマ』を意識していっているのが葉月には解った。

怖くはないが…やっぱり何処か怖いのかも?と葉月は固まった。

隼人が急に『男』になるようなことがあったらそれは今までのイメージが崩れる。

葉月の中では『恋』は認めてもまだ『兄様』なのだ。

「いつもの…所でいいんだけど」

そっと小声で言ってみる。せっかく車を出してくれたのに「近場がいい」は失礼だったかな?と思いながら。

「そう??よかった。俺もそれでいいかな〜って。

お嬢さんに似合いそうなところ俺苦手だし」

隼人は、葉月の申し出にホッとした様なので葉月もホッとした。

「私だって固いところは嫌いよ」

やっと肩の力が抜けた。

「でも、慣れているんだろう?何たってお祖母さんが『スペイン貴族の家系』だもんなぁ」

「お祖母様は普通の女性だったわよ?確かにスタイルがいい美人だったけど?

姉様はそれを引き継いだのに私は引き継がなかったみたい…」

葉月はそっとため息をついて記憶に残る豊満な姉のスタイルを思い出し…

自分の薄型の体型を見下ろした。どうやら自分は『母』の日本体型を引き継ぎ

身長は父の大柄をもらったに違いないと…。

「でもお嬢さんは身が軽そうだな。しなやかって言うのかな?

『武術』を見てそう思ったよ。すごく身体が柔らかいんだなぁって」

「そりゃね…父に散々仕込まれて…」

二人は海辺の夕凪の風が入ってくる車の中でいつもは話せない自分たちの話に

いつになく花が咲いた…。しかし、それでも…。

隼人からは『家庭』の話は出てこない。

出てきても…『フランスに来てから』の話ばかりだった。

そのまま赤い車は潮風をきって海辺のレストランに向かう。

 

 

 今夜は車なので程良くしていつもの海辺のレストランにたどり着いた。

隼人と共に車を降りて店にはいると…。

「いらっしゃ…い?やぁ。お嬢さん。見違えたね♪」

あの小柄なマスターが葉月がよそ行きの格好でやってきたので

嬉しそうに微笑んでくれる。葉月は思わず隼人の背に隠れてしまった。

どうも制服でないといつものように見てくれないので戸惑ってしまうのである。

「隼人?デートかい??」

いつものからかいだが…今日の隼人はふてくされなかった。その代わり…。

「彼女来週、日本に帰るんだ。たぶん今夜がここは最後」

そっとおどけるとマスターがビックリして隼人の陰に隠れている葉月をのぞき込んだ。

「そうだったのかい…。それは残念だね…。」

マスターはガッカリはしたが『じゃっ♪今夜は特別なモノ作ってあげる』と張りきって

キッチンの奥に下がっていった。

「なんだろう?ロブスターでもでてきそうだな♪」

案外ちゃっかりしだした隼人に葉月もクスリと笑っていつもの席に着いた。

今夜は隼人は運転とあって『ジンジャーエール』を頼んだので葉月もそれに合わせた。

二人でそっと『お疲れ様』の乾杯をする。

それが終わると早速…。

「今日捕れた上物だよ♪」

マスターが隼人の期待通り本当にロブスターを丸茹でして持ってきた。

『すっご〜い!』 二人は揃って…思わず日本語で喜んでしまった。

マスター直伝の『フレンチドレッシング』をかけて飛びついた。

「おいし〜。日本じゃそういう食べ方出来ないわよね〜。勇気がいるもの♪」

いつもの如く『おしい♪』を連発する葉月を見て隼人もやっと気分が和らいでくる。

夕べだっておいしいカルボナーラを一緒に食べてそんな笑顔が見てみたかったのだから。

「日本じゃ。刺身にわさび醤油…。これ以外は『もったいない』だもんな」

「そうそう♪」

せっかく良い服を着てきても葉月はお構いなしにロブスターの殻をバキバキ破っていく。

それが見ていて気持ちがいい。隼人はそう思って自分も負けじとロブスターに飛びつく。

「あ!ミソ!お嬢さんも食う?」

「当たり前じゃない!!独り占めしないでよ!!」

がっつく葉月のそんな勢いに隼人は『はいはい』と苦笑いしながらもキチンと半分にする。

冷製トマトスープもでてきた。冷たいが黒胡椒がピリッと効いていてまた食欲をそそる。

サラダもフランスパンも次から次へと出てきてあっという間にテーブルは一杯になった。

『マスター。最高♪やっぱり今夜はここに来て正解♪』

葉月は余程感激したのか、さっきまで人見知りをしたように大人しくしていたのに

制服を着ているときのように活き活きし始めた。勿論マスターも得意げそうだった。

「また。フランスに来たら一緒にここに来よう…。」

隼人が急に手元を止めてそっと囁いた。

葉月はとうとう…その時が来たかと…自分の手元を止めてしまった。

しかし…それは一瞬で葉月は構わずロブスターの殻を力任せに壊してゆく。

「お嬢さん。俺のこと…なんで聞かない?」

葉月の手元に対して隼人の手はゆっくりになった。

しかし葉月は構わず海老の身を頬張ってゆく。

「ここに初めて二人で来た日もそうだった。お嬢さんは自分の素性を隠して、

俺の名は聞こうとしなかった。その後…俺がなんて言ったか覚えている?」

『俺に名前とか聞かないね?自分の名を聞かれたくないから?』

まだ、彼のことを『澤村大尉』本人とは知らずに偶然、出逢ってランチに連れていってもらったあの日。

葉月も覚えている…。当たっていた。自分の名は聞かれたくないから隼人の名も尋ねなかった。

しかし葉月はその問いには答えずにひたすら食を進めた。

隼人はほんの少し呆れはしていたが、また続ける。

「自分のこと聞かれたくないから…俺のことも聞かないって訳?」

それも当たっている。『誰でも言いたくないことはある』だから隼人が隠している内側は聞かない。

そして…自分のことも…。

「だったらさ。お嬢さんのことはもう充分俺は聞いてしまったから…」

いや…葉月はまだまだ隼人には言っていないことはあるのだ。でも隼人は続ける。

「だから…俺の話聞いてくれる?」

(そら…来た…) 葉月はやっぱり今夜は『隼人の話』なのだと…。

やっと手元を止めて…おしぼりで手を拭いて…隼人をジッと見つめ返した。

「今から…隼人さんが話すことが…『側近』になれない『理由』って事??」

すると…隼人は『コクン』と静かに頷いた。

彼の黒い瞳が何処か『哀しみ』を携えて葉月に訴えてくる。