46.ヴィジョン

 

 「そうよ……」

隼人の『側近にしようとフランスまで会いに来たのは俺か?』と言う問いに

葉月はジッと隼人をまっすぐに見つめて静かに答えた。

葉月がとうとう言った…。

隼人は葉月が申し出たとき自分の心がどう動くか確かめたくて…

彼女に話をせかしたが…。

やっぱり…。なんにも心は動かなかった。

「俺は…」

『最新基地の一中隊長の側近なんて…』それが隼人の答えだった。

すると、葉月がフッと微笑んで手のひらで制してきた。

「解っているわ。『その気はない』って言うんでしょ?覚悟していたわ…。」

(そんなに引き際良くていいのか??)

隼人は逆にガッカリした。説得して欲しいとかでなくて。

彼女ならもっと積極的に仕事ならば突っ込んでくると思っていたからだ。

「いい?私のこと話して…」

「?お嬢さんのこと?」

「フランスへ来た訳よ。それこそもう大尉には殆ど話したわ」

「先輩の後輩である俺に会えば?」

「遠野大佐を身近にもう一度感じられる。でしょ?それはもう判っていたんでしょ?

私が来るより先に…だから。お嬢さんの気分転換研修。そんなの相手に出来ないと

あなたは私にそっぽを向いてすっぽかしたのでしょ?」

「ま…まぁね。でもそれはもう…」

「解っているわ。その事に関しては隼人さんには良く理解してもらって

本当に慰めてもらったと思っているし。私も…大佐は本当に何処にもいない。

これからは、本当にいなくなった人として前に進まなくては…と言う気にさせてもらって

感謝しているわ。それからね?私が言いたいのは…もっと前のこと」

「俺に逢う前?」

「そう…。康夫にもね。側近の話があって断って彼はフランスに戻った。っていうのは知っているわよね?」

「ああ…。お嬢さんとはライバルだから。下ではやれないって…

お嬢さんには悪いけど…俺は…康夫が戻ってきて良かったと思った。」

隼人はこんな時…葉月が自分のことを自ら語ってくれるのだから

自分も率直に持っていた気持ちを伝えようとした。

勿論葉月もそんなことは重々解っているとばかりに

ニッコリ『そうよね…』と微笑んでくれた。

「私…。実は康夫が企画書をもって来たときすごく怒ったの。

新しい側近なんていらない。上司をよこせ。もしくは年上で男性である康夫に

中隊長になってくれって頼んだの。」

「…そうなの?」

ライバルの康夫に『中隊長の座』を譲ろうとしたなんて…それは余程のこと。と隼人は思った。

「そうしたら…康夫も怒ったわ。三世で一期上で…同じ中佐の私が任命されて当然だって。

男とか…年上とか…ただのそんな理由で頭を下げるなって事だったと思うわ。

彼からしてみれば、年上で男なのは当たり前。実力で認めなければ意味がないって事。

私のこと…女とは思っていない。女という理由で譲るなら…『絶交だ!』って言ったわ。

すごく有り難い言葉だったけど…私は彼のプライドを傷つけようとしていた。

そう思ったから、康夫が断った後も納得してフランスに返したの。

それに…やっぱり私たちは一緒に仕事するには立場も私事にも距離が近すぎる。

お互いに張り合っているし…もっと、成長してから一緒にやろうって約束したの。」

葉月がそこは清々しく微笑んだので隼人もニッコリ『そう…』と、返事をしていた。

その和やかさを見計らってやっとマスターがお茶を葉月の手元に持ってきたが…

やっぱり…すぐに去っていった。

葉月は、一口カップに唇を付けて…

「あ…ボン・アロマ♪(いいかおり)」と、マスターに笑顔を投げかける。

マスターもカウンターから『メルシー』と手を振っていた。

「それでね…。康夫が企画書を持ってきたとき怒ったと、言ったでしょ?」

「うん。側近はいらないならどうして?俺に逢う気に?」

「それも…今朝言ったわ。」

葉月が恥ずかしそうに微笑んだ。二度も言わせるなと言うように…。

隼人も朝方の会話を思い返してみる…。

『康夫と大佐が心に残している人なら…いい人かなって…』

そう言っていたような気がした。

「私の方も実は…そんなに乗り気でないままフランスに来たの。

ただ…遠野大佐の影を捜しに来ただけ…。康夫が…遠野大佐のお気に入りの後輩だ。

その一言で来たの…。だから…逢ったこともない大尉に逃げられて当然だったわけ。

あなたが当の『澤村大尉』と知らずにランチを取って…宿に戻って…。決めていたの。」

葉月がお茶を口に付けながら、気後れした表情で言葉を濁した。

「決めていたって?」

「大尉の気も考えないで来たのはやっぱり間違いだった…。日本に帰ろうってね?」

「そうだったんだ…」

葉月もそれなりに考えて…乗り気でない研修はやめようと思っていたなんて

隼人はここに来てはじめて知った。なのに…彼女はまだフランスにいる…。

「つい最近まで…側近のことはちっともその気にならなくて…

だからこそ。ただ…フランスに来ただけでは置いてきた補佐達に申し訳立たないでしょ?

それなりにフランスに来た跡は残したいから…航空訓練だけはキッチリやろうって思ったの。

それはやっぱり…。隼人さんとなら仕事が出来ると感じたから…。

だから…。」

葉月がそこでカップを置いた。そしてまた…今度は輝くガラス玉の瞳が

透き通るように隼人をそっと見つめるのだ。

「だから…怒らないで?」

「怒る?俺が何に対して??」

「まるで…研修がカモフラージュみたいだったって事…。」

葉月が急に気まずそうに茶色のまつげを伏せてうつむいた。

「カモフラージュね…。側近抜きの話を聞いたら…確かに。そう思えるけどね」

腕を組んで呆れたため息をついた隼人に葉月が怯えたように顔を上げた。

「でも…俺の生徒は中佐のお陰でとうとう来週『滑走路デビュー』だ。

本来の予定より1ヶ月早い。それは紛れもなく…フランスに来た成果なんじゃないの?」

隼人のその言葉に…葉月が救われたように微笑んだ。

そのこの上なく嬉しそうな微笑みに隼人は思わずドキリと胸が高鳴った。

仕事のこととなると…これほど嬉しそうに微笑みやがって…と言うほど…。

もっと他のことでも嬉しそうに笑えよ…とまで思ってしまったほどだ。

「良かった…。その事だけは…解って欲しかったの。

隼人さんにコソコソと…いつまでしていればいいのかって…

側近にすると決めたときからずっと…気になっていたの」

「でも…側近の話は別!」

隼人がパシッと切り落とすと…葉月は…

「いいの。解っているわ。まだ時間はあるもの♪」

などと…落ち込むことなど微塵も見せないので隼人は拍子抜けしてしまった。

「時間があっても答えは一緒!俺には出来ない!」

「言うと思った。八割方断られるって覚悟はしていましたからね。」

早速いつもの生意気小娘になって隼人はムッとした。

「じゃぁ。解っただろう??」

「うん。解ったわ。」

「解ってない!すぐにフランク中将に断られたって連絡しろ!」

すると葉月は急に兄貴ぶる隼人にツンとしてお茶を飲み始めた。

「連絡しても。まだ諦めるなって言われるわ。それとも?今すぐフランスを出ていけって?

来週は滑走路デビューがあって私が立ち会わないと『デビュー』したっていう

許可書作れないでしょ?」

(くっそ〜。また、そんなこといいやがって!!)

隼人は葉月の生意気さに歯が立たなくなってフンッと鼻息を飛ばした。

「とにかく。行かない。俺には出来ない」

「出来なくても…来てくれなくても…」

そこで…葉月に言葉の歯切れが悪くなり…彼女はまたカップを置いた。

そして。うつむいてそっと囁いた。

「島に…研修に来るって言う約束は忘れないでね…企画書は一番に見せてね…」

あまりにも恥じらいながら葉月が呟いたので…隼人としてはそこはなんだか…

『男』として妙にドキリと胸が動いたしまった…。

時々思う。この娘はどうしてこんなに男のツボを押さえるような表情をするのかと…。

だからだろうか?葉月の元から男が去っても去っても『俺と付き合ってくれ』と

後を絶たないのは。だけれども、そんなに男運に恵まれていても

葉月の場合、受け入れてもさらにうち解けることが出来ない『トラウマ』があるのは

隼人としても『可哀相に…』と、思ってしまう…。

そんな葉月の表情や気持ちにほんの暫く呆けて…

(いかん!いかん!騙されないぞ!)

隼人は首を振って元の自分に戻ろうとした。

「まぁ…。それは、俺が言いだしたことだから…そうなったら必ず連絡するよ。」

「ほんと?約束よ。断られたときのためにこのことだけは念を押しておきたかったの!

これで、隼人さんとも出会った意味が残るって事ですものね♪」

「もう断っただろ!」

「まだ。諦めていないもの!」

また。シラッとお茶をすする葉月に隼人はムッと唇をとがらした。

「諦めてないから…私が帰る前までにもう一度考えてくれる?」

「考えるだけ無駄!」

「どうして?空想だけでもいいから小笠原にいる隼人さんを想像してみたら?

それだけでもいいから…ね?」

今度は無邪気な妹のよう頼まれる。

聞き入れられることなら、隼人だって協力はしたい。

しかし、こればかりは心の隙を作る気はなかった。

先程。心が動かなかったのが答えなのだ。

「空想するなら…この先見える空想は、俺がフランスでつつがなく暮らしているだけ!」

「ふぅん。で?金髪の彼女と同棲していたり?」

今までそんなこと突っ込まなかった葉月がカップの中の液体に

また冷ややかな視線を落としてシラッとするのが、ものすごく生意気なのだが

隼人としては過去を見透かされたようでドッキリ慌ててしまった。

「そんなこと! 関係ないだろ?」

「大尉で教官で…このまま先に進まないのなら、大尉にとって残るは結婚じゃないの?」

ズバリ…その通りなので隼人はグッと後に引いてしまった。

それにしてもなんて生意気な嬢ちゃんだと腹立たしくなって来たが

葉月が言うことはそれは現実的に一理ある。

現に隼人は周りの大人達に「結婚・結婚」とせっつかれることが多くなったからだ。

日本の父にもよく言われる。「帰ってこんのか?」の次は「そっちでもいいから誰かいないのか?」だった。

そしてもう一つ。「目標がないなら軍人はやめて家に帰ってこい。」だった。

どれも隼人の今の生活を壊すことなので聞く耳は持たなかった。

勿論父もそれは、「いい加減にしなさい」といい、そこで父子の間で溝が出来たまま…。なのである。

葉月が言うことには「このままでいられるの?」とも聞こえる。

だから…。

「いいんだよ。俺はそれで…。お嬢さんこそ早く結婚しろよ!」

腹立たしさも手伝って隼人は切り口上に突き返していた。

「私が結婚?すると思う?こんなじゃじゃ馬の上に…その…私は…」

勢い良く切り返してきたが…葉月の言葉の歯切れは悪くなり、

その先が『男は怖いから嫌い』が続くと解って隼人もうつむいてしまった。しかし…

「きっとさ。お嬢さんだっていい人見つかるよ。女だろ?結婚とか憧れないの?」

どの女もきっと白いドレスに憧れる。隼人もそれは葉月も例外ではないと思っている。

「私に…。そんな『ヴィジョン』はないわ。ある訳ない。」

カップをカチリとソーサーに置いて葉月が隼人がきっぱり否定したように言い切ったのだ。

それは本気の眼差しでそんな女は初めてだったので隼人は思わずゴクリと怯んでしまった。

「でも…」

「私の中にある『ヴィジョン』は遠野大佐が残した中隊をこのまま保持すること。

せっかく大佐が大きくしたのに小娘の不届きで『縮小』なんてされたら…

天国の大佐に顔向けできない。今は目の前の事しか頭にないわ

そういう隼人さんこそ、ヴィジョンはないの?」

(ない…)

すぐにそう思った。それと同時にこの年下の小娘に丸め込まれた気になった。

偉そうなこと言って…隼人には葉月のようなヴィジョンがない。

今ある『居場所』に理屈をこねてしがみついている。それだけ。

葉月にそこを見抜かれて『裸』にされたように『劣等感』が生じる。

それが嫌なら『日本に来い』と言われているのだ。

しかし…そんな風に見抜かれて『天の邪鬼』が大発揮する。

「おれは。そこまでの男なんだ。もうほっといてくれ!」

葉月には、康夫や遠野のように信頼される…一緒に感化出来る仲間になりたい。

それが本心なのに、隼人は自分を下げてでも葉月との関係を断ち切ろうとする

自分の弱さに呆れながら席を立った。

「早く部隊に戻れよ。まだ時間あるだろう??」

すると、葉月は天の邪鬼で冷たい隼人に腹を立てるわけでもなく…ただニッコリ…。

頬杖をついて立ち上がった隼人に笑いかける。

「大尉がいないと仕事が出来ないから…康夫が帰っていいって…」

(俺のせいでか!!)

隼人はそんなところだけ意味ありげに微笑む妹上官にまたムッとした。

「解ったよ!!ここは俺がおごり!俺帰るぜ!」

「ご馳走様♪毎日おごってもらってごめんなさい♪でも、側近のこと考えてね♪」

葉月のにっこり余裕がますます生意気で隼人はムッスリとしたまま

テーブルの伝票を取り上げた。

「ったく…!」

隼人の悔し紛れのこぼし文句にまで葉月はニッコリ。

断ったら…先程まで悩んでいた葉月のあの「あれは幻」とか言う

儚そうな瞳で責められると思っていたのに予想は大外れ…。

隼人は馬鹿らしくなって一人席を離れようと背を向けた。

「どんな形でも…小笠原に来たときには美味しいお刺身ご馳走するわ。それはホントの約束…」

隼人の背にまた恥じらう小声が帰ってきた…。

『どんな形であれ…』

その言葉が隼人を救う。

少なくとも、側近にならなくても彼女は隼人をこれからも信頼してくれると言う現れ…。

(彼女の方が強いかもしれない…)

隼人は伝票を握りつぶしてうつむいた。

でも…康夫が言っていたように彼女も一人のか弱い女。

元彼が結婚を決めても悲しむこともできない…幼いときの悪夢のせいで

心が欠落してしまった哀しい女には変わりもないのに…。

そんな風に他人に強く出来る事が隼人には大きく見えてしまう。

隼人はもう一度伝票を握りしめて…スッと元の席に戻り腰を落とす。

すると…おごってくれてラッキー♪とワザと調子良くしていた葉月がビックリ…。

茶色の瞳を開いて隼人をまじまじと見つめ返してくる。

「俺…実は…どうしてここにいたいかというと…」

フランスに居たい訳。それを正直に告げる衝動が隼人の唇を動かそうとしていた。

しかし…やっぱり…口の中が乾いてきて…唇が震えて…言葉が滑り出てこない。

すると…葉月がまたニッコリ。ちょこんと首をかしげて微笑み返してきた。

「そんなこといってどうするの?」

(知っている!?)

葉月が何か察して言葉を止めたような気がして…

知られていることに逆にドッと汗が背中に滲んだ。

『ミシェール』か?『康夫』か?どっちかが隼人のことを詳しく話した!と思った。

そう思い巡っているウチに…。

「今は訳は聞かない。だってまだ時間あるし…最後の答えは私が帰国する前に聞く…。

あなたが…今の気持ちと変わらなくても…変わっても…」

葉月が「八割方…決まっているけどね?」と、おどけながら…

カップに中の最後の一口を飲み干した。そして…

カップを手持ちぶたさにくるくる動かしながら…

今度は微笑みもない無表情にそっと呟いた。

「誰だって…言いたくないことあるし…」と。

隼人はその言葉で…今すぐ彼女に言いたいけど言えないことを証さなくていいと救われはしたが…。

葉月のその表情は隼人に向けられたものでないような気がした。

『私も言いたくないことあるし…いいの…』

そんな感じだった。

(???この娘は…まだ何か色々ある?)

そう直感した。だがそのお陰で隼人は喉が渇くほどの緊張から逃れられたのだ。

「ごっちそうさま♪儲かった♪」

途端に調子よく葉月がリュックを持ち出して席を立った。

「大尉はまだ居るの?おっさきに〜♪」

じゃねっ♪と敬礼をしてすたすたと去ろうとする調子の良さに隼人は呆れた。

しかし…それは今の重い空気をはねのけようとする『わざとらしさ』だと、

隼人には解っていたので…思わずそっと微笑んでしまった。

「待てよ。俺の方が今さっき先に帰ろうとしていたんだぜ!」

隼人は憎まれ口を叩きながら再び席を立つ。

伝票をレジにだすと…

「じゃ!外で待ってる♪」

葉月がにっこり微笑んで「マスターご馳走様♪」と扉を開けて出ていった。

(まったく…ああしていると普通の娘なのになぁ)

隼人はそれが可愛らしく感じつつも…呆れながら財布をスラックスのポケットからだす。

「なんだかねぇ!」

マスターがふくれながらアンティークのレジを叩くので隼人は首をかしげた。

「まったく。昼間来たときはまるで子供のように哀しい顔してしょぼくれていたのに…

葉月が来た途端に活き活きといつもの隼人に戻るんだね!」

マスターの言葉に隼人はかぁ…と頬が火照った。

「まるで恋人同士の話し合いみたいだったよ♪」

マスターのニヤリに隼人はグッとおののいた。

「ご…ご馳走様!!」

隼人はマスターが出してくれたお釣りをパシリと手荒く受け取って…。

「なかよくなぁ♪」と、すぐになんでも客をくっつけたがるマスターに

しかめ面を残してカフェを出た。

カフェの横の駐車場で…葉月が貸してあげた真っ赤な自転車を手にして

空を見上げていた。

栗毛が柔らかになびいている…。

隼人はそっと……その毛先に見とれていた。