34.ヴァイオリン
隼人は階段を駆け上がって、すぐに二階の客間に当たるバルコニーの部屋に駆け込んだ。
隼人がものすごい勢いで入ってきたので、パパもママンも葉月もビックリして硬直していた。
「何だ。隼人騒々しい!」
パパが立ち上がって、バルコニーから部屋に入ってきた。
だが、隼人は構わずに葉月に向かってゆく。
何かしら感づいたのかママンがさっと立ち上がって葉月の横に行こうとしていた。
だが、それより先に隼人は葉月の手からヴァイオリンを手荒く奪い去っていた。
「まぁ!隼人なんて事するの!」
ママンがやっぱり怒って葉月をかばおうとしていた。
「ママン!これはアンジェのヴァイオリンじゃないか!」
「隼人!それは彼女のものよ!」
ママンに言われて隼人は初めて手にしてヴァイオリンを見つめた。
アンジェが持っているヴァイオリンよりずっとピカピカの重いものだった。
“高級品”だとすぐに解った。
それがいかに彼女が“ヴァイオリン”に精通しているか窺わせ、
あれだけの腕前ならこれぐらいの物を持っていて当たり前と言う程の
立派なヴァイオリンだった。
よく見ると。バルコニーのテーブルの上にジュラルミンのケースが開いてあって
それはアンジェのヴァイオリンケースではなかった。
つまり、葉月は日本から持ってきて、結構持ち歩いているって事だった。
(え?彼女って何者??)と、隼人は茫然としてしまった。
「謝りなさい!失礼なことをして!!」
いつも優しいママンが険しい顔をして怒るので、
マリーには弱い隼人はそこで素直に…
「ゴメン。俺の勘違い。」
と、葉月の頭を下げて丁寧にヴァイオリンを両手で差し出して返した。
しかし。今度は葉月が険しい顔をしていた。
その上…。
「おじさま。おばさま。おじゃましました。もう日が傾いてきたのでおいとまします。」
と、微笑んでさっさとヴァイオリンをケースにしまおうとしていた。
「何を言っているんかね!せっかく久しぶりにあったのに!」
パパがひどく驚いて葉月を止めに向かってきた。
「そうよ!ゆっくりして行きなさい!」
どうしたことか。夫妻は妙に必死で葉月を止めようとしている。
葉月の方は隼人を見るなり“帰らなくては”と慌てているように見えた。
「また。日本に帰る前に挨拶に来ますから…。」
葉月がそう言ってヴァイオリンをしまい持ってきていたエルメスの小さいバッグを手に取った。
パパが隼人の横に来てつついた。
(止めんか!早く!)と。
(なんでおれが?)と、隼人は渋った。
実は、葉月の態度が気に入らない。
この前から気に入らない。隼人に隠れて何か避けてるように感じるからだ。
その上。パパとママンが嫌に彼女に気を遣って大切にしているように見えてきた。
ジェラシーではないが、まるで藤波夫妻と同じだった。
何処にいても彼女はこうして“大切にされるお嬢さん”というのが
ちょっとしゃくに障ったのだ。
「気を付けてな」
隼人が素っ気なく言葉をかけると、葉月の方も素っ気なく隼人に会釈をして
部屋を出ていってしまった。
もちろんパパが追いかけた。
「いいじゃん。彼女が帰りたいって言うんだから」
隼人はいつもの“あまのじゃく”と解っていて、気兼ねないママンの前では
だだをこねる子供のように吐き捨てるように言った。
だが。ママンはかなり怒った顔で隼人を見つめるのだ。
「隼人。あなた彼女のことが知りたいんじゃなかったの?
今の態度じゃパパも私も教えないわね!」
マリーはそう言ってバルコニーに出てパパが葉月を追いかけるのを
心配げに眺め始めた。
隼人は益々ムッとした…。
「何でだよ!俺が何したって言うんだよ!」
隼人はムキになってマリーの側に駆け寄った。
すると、ママンが哀しい眼差しで葉月がパパを振り払って道行くのを眺めていた。
「葉月はね。きっとあなたにヴァイオリンを弾くところを見られたくなかったのよ。」
「どういう事?」
「本当なら…。あの子は軍人でなくて。“ヴァイオリニスト”になっていたんだから。」
それを聞いて隼人はハッとした。
ヴァイオリンを弾かなくなったのは“肩の傷”のせい…。と閃いたのだ。
引き裂かれたような傷だった。それは誰かに音楽の道を断たれたと言うことなのか?と。
昔なじみでない隼人にヴァイオリンを弾くところを見られて
昔の影をさらけ出した気に葉月がなったのだと気が付いた。
だから。昔なじみのパパ達の前では昔通りにヴァイオリンは弾けるが
隼人には“過去”の片鱗を見せると“どうしてヴァイオリンを弾くのか? 止めたのか?”と
聞かれるのが嫌で、彼女は隼人とは一緒に訪問したくなかったし
パパ達にせがまれてヴァイオリンは弾けても隼人の前では弾きたくなかったのだと…。
「彼女。元々音楽家になろうとしていたの?」
「そうよ。今は人前では滅多に弾かないそうよ。
せっかく久しぶりに彼女のヴァイオリン聞いたのに。
アンジェはね。小さかった葉月が上手にヴァイオリンを弾くのを見て習い始めたのよ」
ママンの言葉に隼人は頭が真っ白になった。
自分が何にも知らなかったとはいえ、葉月にとった態度。
それに、アンジェがそんな昔に葉月を見てヴァイオリンを習い始めたと言うこと。
それだけ、ここの家族は“御園家”と親しいのだ。
後から来たのは隼人のほう。
それなのに、葉月に、“俺の家族の間にはいるな!”とばかりに
追い返してしまったのだ。
「俺!行って来る!!」
隼人が駆け出すと、マリーがやっといつもの優しい笑顔を浮かべて
“車に気を付けて!”と送り出してくれた。
隼人が門を出て歩道に駆け出すと近くにあるバス停で
パパが一生懸命葉月を説得しているところだった。
隼人は少し遠いバス停に向かって走ったが
タイミング悪くバスがやってきてしまった。
(あぁ!くそ!)
隼人は、パパが説得に失敗したらしく
葉月を見送ろうとうなだれているのを感じてさらにスピードを上げた。
葉月がバスに乗り込んだ。
パパにお辞儀をしながらタラップを上がってゆく。パパもションボリ手を振っている。
バスの扉が閉まろうとしていた。
「隼人!?」
パパの声が一瞬だけ耳にかすった。
バスが走り出す。隼人は息を整えてやっと周りを見渡すと
目の前でビックリして戸惑っている葉月がたたずんでいて。
周りの乗客が駆け込み乗車をした隼人をしばらくジッと眺めていた。
乗客の視線がはずれた頃。
隼人は呆然としている葉月の腕を引っ張って空いている席に一緒に腰をかけた。
落ち着くと、葉月はジュラルミンのケースを抱えて窓辺にそっぽを向いたままだった。
隼人もかける言葉が見つからなかった。
窓側に腰をかけた葉月はいつも以上に哀しそうに瞳を伏せていた。
町並みを眺めているようだが視線は遠く感じる。
すかしてある窓からはいる風が葉月の胸のまである栗毛をはためかせて
隼人の頬までやってきた。
紺のテーラーカラーのジャケット。
膝丈の紺のワンピース。
細くて白いベルトでウエストをマークしていて
ヴァイオリンケースを抱えていると
本当に、音楽学校に通っている良いところのお嬢さんそのものだった。
「あんまり上手いから。CDかと思った。」
やっと彼女に言葉をかけられた。
でも。葉月は何の反応も見せずに同じく遠い視線で遠くを眺めている。
「ごめん。俺、何にも知らなくて。お嬢さんがヴァイオリンを弾いてるのを見て
アンジェ姉も始めたのだと、さっき聞いて。その……」
「いいの。私の方こそ。たまたま今回はフランスにヴァイオリンを持ってきただけ。
普段はあんまり触っていないの。ただ。もしかしたら必要になるんじゃないかって」
「必要って?」
「それは言えないわ。例えば。今日みたいに昔なじみの方に逢えたらって事」
ミシェール以外にも昔なじみがいるのかな?と思ったが
軍人一家の彼女なら上官とも顔が広いから
その為に持ってきたのだろうと隼人は思った。
「言わないで。」
葉月がぽつりとつぶやいた。
「なにを?」
「基地のみんなには私がヴァイオリンを弾くんだって事。康夫は知っているけど。」
「どうして?」
あれだけ弾ければ充分人前で通用するのにと隼人はもったいなく感じた。
「私はヴァイオリンを捨てたの。捨ててパイロットに。
“上手ね”って言われて喜んでいたのは子供の時まで。
今はもう。自分のためにしか弾けないの。」
葉月がジュラルミンのケースをギュッと抱きしめて
今にも泣き出しそうにうつむいたのだ。
「でも。パパとママンはあんなに喜んで」
隼人だって変な“あまのじゃく”や“思い込み”がなかったら
彼女の意外な特技に感激していたと思う。
でも。横でうつむいている女の子はそれが辛いと悲しんでいるようだった。
無理もない。隼人の予想では。
葉月は小さいときからヴァイオリンを弾いていて
ある日突然信じて疑わなかった“夢”をうち砕かれたに違いなかった。
彼女がヴァイオリンを捨てたんじゃない。
誰かが彼女に音楽家として最悪の致命傷を肩に刻んで
彼女は諦めた。としか考えられなかった。
どんな風にして再びヴァイオリンを弾けるほどに回復したか解らないが
彼女はヴァイオリンを諦めて、お家柄軍人になったのだと。
ヴァイオリンが本当に大好きだったに違いない。
ヴァイオリンはぴかぴかだった。今だって本当はたまに自分で弾いているはずなのだ。
人前で弾くと、みんなが“どうしてそこまで弾けるのにやめたの?”と、
隼人が思ったように尋ねるだろう。
そうすると、彼女は弾けなくなった肩の傷を思い出すのだと。
そこでハッと隼人は気が付いた。
彼女の傷は軍人になる前。任務とか訓練とか、そんな事で負った傷じゃないと。
ヴァイオリンをやめるようになったキッカケならば、子供の頃だと。
回復したならどうしてヴァイオリンを止めてしまったのだろう??
あれだけ弾ければ充分今からだって“音楽家”にはなれそうなモノを…。
彼女が軍人になったわけが今度は気になり始めたが…。
とても聞き出せるような雰囲気じゃなかった。だから…。
「わかった。言わない。もったいないから秘密にしておく」
それもいいじゃないかと思った。
彼女の本当の特技を、知る者は少ない。
その中の一人になれるのも良いじゃないかと隼人はそう思うことにしたのだ。
「有り難う」
かすれそうな弱々しい声がうつむく栗毛の中から聞こえてきた。
「でも。一言イイ?すごく良かったよ。」
あまのじゃくは今は出来やしなかった。なんだか素直にそう伝えたくなったのだ。
隼人がうつむく葉月の様子をジッと窺っていると、
やっと彼女がわずかながらに微笑んで隼人を見上げてくれた。
瞳が潤んでいたが、いつものガラス玉のような瞳で輝いたので、隼人はホッとした。
「あ!」
隼人がいきなり叫んで葉月の腕を掴んだ。
立ち上がらされて葉月はビックリ。そのまま隼人に引っ張られて
いつの間にかバスを降りることになってしまった。
賑やかな街の中で急におろされて、バスが行ってしまい、
葉月は、隼人に腕を掴まれたままヴァイオリンケースを抱えて呆然としていた。
「なに??」
「あそこ。美味いもんがあるよ。それで許してよ」
(また。美味しいもの?)
葉月は、初めてランチを取った日に“不機嫌は美味しいもので直してくれ”といった
隼人の言葉を思い出した。
葉月には美味しいものを食べさせれば機嫌が直ると思っているのだろうか??と、
葉月は益々唖然としてしまった。
不器用と言えば不器用な男性の対応。
今までは何処かしら、女性慣れしている男性が殆ど。
葉月には“お嬢様”として頑張ろうとする男性ばかりだった。
「さぁ。行こう?アイスクリーム好きだろ?」
まるで。小さな子でもあやすようなやり方だった。
「失礼ね!私子供じゃないわよ!」
葉月がふくれると隼人が手を引っ張りながら何も言わずに優しく微笑んでくれた。
その笑顔が。いつの間にか葉月を安心させるものになっていると葉月は今気が付いた。
(これでいい)
もう。何にも言葉はいらないだろう。葉月はそう思えてくる。
葉月は“決心”をした。
『この人には本当のことを言おう』と。