33.家族

 

 「お疲れさま〜♪」

 雑務を残している康夫を残して葉月が定時を過ぎて帰ろうとしていた。

別に一緒に帰っているわけでもないので隼人はサッと

葉月に置いてかれてしまって慌てて帰り支度をする。

康夫に気取られぬようさりげなく挨拶をして

それとなく葉月を追いかけた。

「お嬢さん!」

エレベーターに乗ろうとしている葉月を呼び止めた。

葉月はニッコリ微笑んでエレベーターを隼人のために止めて置いてくれる。

しかし。乗ったら乗ったで他の隊員がいたりする。

お決まりだがエレベーターではみんな沈黙をする。

一階に降りてこの棟の正面玄関を一緒に出てやっと話しかける。

「あのさ…。」

ついてくる隼人に葉月が振り返った。

「なに?」

「その…。」

葉月が隼人の様子に首をかしげた。

「あ。テキストのこと?まだ他に読みたいものが??」

雨の休日開けに彼女は早速本を持ってきて貸してくれたのだ。

「いや。そうじゃなくて…。」

「なに??」

葉月が透き通ったガラス玉の瞳でジッと隼人を見上げてくる。

「お嬢さんは“ミシェール”を知っている?」

「ミシェール??何処のミシェール??」

「ダンヒル。その、フランス校の元校長」

「知っているわよ?おじ様は、おじいさまのお友達だったし。

でも。おじいさまのお葬式であって以来ね。父は時々連絡しているかも知れないけど。

小さいころ可愛がってもらったから。」

葉月の返事はパパから聞いたことと一緒だった。

「それが?フランスでは名は知られている方だけど?

隼人さんも知っているんでしょ?当然。フランス校出身ですものね。」

「実は。俺。15でこっちに来たのは知っていると思うけど。

そこでホームステイをしていたんだ。」

そう言うとやっと葉月が驚いた顔をして隼人を指さした。

「それ。本当!?」と…。

「ああ。時々“御園”の話は話題には登っていたけどね?

こうして仕事をするようになるなんて俺も思っていなかったし。

それで…。ちょっと連絡したときに一緒に仕事をしていること言ったんだ。

そうしたら。ミシェールが“リトル・レイ”を連れてコイってうるさくて。」

「おじさまが??ホントに!?」

葉月の表情がぱっと急に明るくなって隼人はビックリ見入ってしまった。

小さな女の子のような微笑みをまた浮かべたからだ。

その微笑みが彼女をパパがいかに可愛がっていたかを窺わせる。

しかし。葉月は嬉しそうな微笑みを浮かべたのに

スグになんだかあのくらい眼差しを伏せたのだ。

「どうしたの?」

「おじさま。何か言っていた?」

それは、彼女がミシェールは良く知っていて

隼人には聞かれたくない何かがあると言った口振りで

隼人はまた胸が高鳴った。

「いや?べつに??綺麗なレディになったなら会いたいって。

マリーママンも。お嬢さんに会いたいっていうんだ。

それで俺は用事があって週末に会いに行くんだけど

その時連れてコイって言うんだ。お嬢さんさえよければ…。」

「そう? でも私は、父の許可なくよそのお偉いさんのおうちに行くことは……」

あんなに嬉しそうに笑ったのに急に渋る葉月に隼人は

益々“知りたい”という衝動に駆られる。

「どうして?」

いつもならこんな風には引き留めやしない。

そして自分の心を晴らすために嫌がる彼女を

事実へと引きずり出そうとしている、そんな自分にも嫌気がさしてくる。

でも。それを知らない限り。

葉月は“元気”にならないような気がしたのだ。

男とはもう付き合わないとか言って嘆いている葉月。

それぞれと上手く行かないのは“根本的”な原因があると隼人は思うのだ。

それがあの肩の傷じゃないかと…。

「じゃぁ。私。自分で行くから。住所と行き方教えてくれる?」

思わぬ返事が返ってきて隼人はしばらく呆けてしまった。

どうせ行くなら“一緒”で良いじゃないかと。

なのに彼女はまるで隼人と行く事をハッキリと避けたように感じたのだ。

隼人の方こそ、パパが連れてこいと言って嫌がったのに

いざ、誘って断られるとなんだか気が抜けたような気になった。

「隼人さんはいつ行くの?土曜の何時?」

“何時”と聞かれて、その時間を避けて彼女が行くと言っているようだった。

なんだか“ムッ”としてくる隼人。

「何だよ。俺と一緒だと嫌なのかよ?」

すると葉月が、困ったように戸惑っている。

「そういう事じゃなくて……」

「もう、わかったよ。とにかく会いに行ってあげてくれる?」

隼人はつっけんどんな口調になってしまい、制服の胸ポケットから

システム手帳の白紙を破ってパパの住所と交通手段を手早く書いて渡した。

「じゃぁな!」

渡すだけ渡してさっさと葉月に背を向けた。

これも今までの自分じゃない。こんな自分になるはずなかったのに。

隼人は自分の不器用さに腹を立てながら、歩き始めた。

葉月は何にもいわず引き留めてもくれなかった。

ふと、振り返ると。葉月はそのメモ用紙を握りしめたうつむいていた。

葉月もこんな風にするはずはなかったのだ。

本当は、隼人の誘いを受け入れたいのにそうすることが出来ないのだ。

隼人は、もう一度戻って説得しようとしたが、

葉月がスッと歩き出したのでやめることにした。

駐輪所で一緒になったが…。

葉月の方が隼人が貸した真っ赤な自転車にまたがって

そっと先へ行ってしまったので隼人はよけいにムッとしたり…。

(あぁ…。なんでだよ。別に彼女と一緒じゃなきゃいけないって訳じゃないのに)

隼人は葉月の後を追うように警備口を出た。

なのに先に帰った葉月はもう姿が見えない。

素早さはさすがと唸る運動神経?とはやとはため息をついて

自分はゆっくり漕いで家路につくことにする。

 

 

 それから数日が経っても、葉月は“一緒に行く”とは言い出さず

いつものように研修が進んでいった。

近頃は隼人との研修が終わると葉月はすぐさま康夫と一緒に訓練に出てしまう。

ランチは康夫のパイロットチームと取ることが多くなり隼人とは別々になった。

その代わり。葉月と一緒にいれることになった

チームメンバー達から…。そして、例のメンテのキャプテンから…。

『お嬢』と呼ばれる声が多くなり、彼女はすっかり

隼人のところに来た“令嬢”ではなくなってしまった。

フランス基地にいつの間にか溶け込んでいて、隼人の生徒が…。

『近頃ゆっくり相手をしてくれない』と、すねる有様だった。

これを願っていたのに隼人もちょっとばかり

葉月が遠くに行ってしまったような気になっていた。

康夫が側にいるので、黒髪の彼女も近寄ってこなくなったらしい。

おそらく隼人のそばから離れ始めたこともあるのだろう。

そんな風に葉月の忙しい研修の日々が進んでゆく。

そして。土曜がやってきた。

 

 

 土曜日。休日の午後。

 

 隼人は結局一人で隣町のパパの家に行くことにした。

もしかしたら、葉月と鉢合わせするかもしれなが、

本当の目的はパパに会って彼女のことを聞くことだから

葉月に会う会わないなど関係ないと心で言い切って

この頃心にある晴れないモヤモヤを引きずってかなり不機嫌に出掛ける準備をする。

天気は晴れやかだった。

だから自転車で隣町まで向かうことにする。

石畳みのこの街を自転車で走る。そして海辺を走り続ける。

ミシェールの家は海辺の側にある白い家だった。

結構町中と言えば町中だが、

リビングから見える地中海は最高だった。

そこが隼人の実家みたいなものだった。今夜は一泊することにする。

マリーママンの手料理が食べられるかと思うとやっと胸が弾んできた。

隼人には母親がいないのだ。隼人が2歳の時に他界した。

うっすらとした記憶しかない。

だから、マリーは年頃から言っても隼人の母に近く

隼人にとっては本当の母親のように思っている。

13歳年下の弟は実は異母兄弟。

継母は隼人と10歳しか違わない若い継母なのだ。

どちらかというと“姉”に近かった。

隼人は…まるでそこを抜け出すようにフランスにやってきたのだ。

父も好きだし。継母は隼人を可愛がってくれたし…。

小さい弟も可愛かった。

でも、いられなかったのだ。

隼人がやっと見つけた場所はミシェールパパとマリーママンの懐だった。

だから、こうして“実家”に帰るときは隼人はかなりご機嫌なのだ。

今回はちょっと引っかかりが心の隅にあるが…。

マリーが『おかえり。隼人』と、優しく抱きしめてくれて。

『おう!来たか坊主!』と、パパが豪快に抱きしめて迎え入れてくれる…。

それを考えると、ペダルを漕ぐ力が早くなる。

今はいないが、長女のアンジェリカは、隼人より10歳ほど年上だが

しっかり者で隼人を本当の弟のように世話を焼いてくれたり。

彼女が趣味で弾いていたヴァイオリンが良い想い出だったりする。

アンジェリカの弟のマシューは隼人より八つ年上で

やっぱり結婚をして外に独立していた。

彼はフランス訓練校の教官をしている。

隼人の頼りがいある先輩で兄貴でもある。

(もしかしたら。アンジェリカが逆にパパに会いに来てるかもな)

隼人は、葉月が来ているかも知れないなんて事は

すっかり忘れてしまい、“家族”の笑顔に胸を弾ませていた。

隣町の繁華街にさしかかり、人並みを縫って隼人は石畳みの歩道を走り続ける。

オープンカフェのある通り。カラフルな日射しよけのある店。

基地の街よりこっちの街は賑やかである。

バスが通り、駅にさしかかる。駅の前ではより一層人が多い。

駅前の石畳みの広場。噴水で子供達がアイスクリームを食べている。

隼人も同期生達と良く通ったお店や、

この広場でアイスクリームを食べた学生時代を思い起こした。

そうしているウチに、住宅街に入る。

庭先にピンクのバラが揺れている家。

外国らしい芝庭に、ロココ調の鉄の垣根。

パパが住んでいる家はちょっと高級住宅街なのだ。

静かな住宅街だが石畳みの道路にはちゃんとバスも走っているし結構車も走っている。

ちょっと丘になっているが海が見渡せるところだった。

その中の、白くて二階建ての芝庭の家。

ブルーベリーと杏の木が目印。パパの家にやってきた。

隼人は門の前で自転車を降りる。

隼人の背丈よりちょっと低い鉄格子の門の前に立つ。

で。インターホンを押そうとすると…。

二階のバルコニーからヴァイオリンの音色が聞こえてきた。

(あ!アンジェが来ているんだ!)

彼女は結婚してからヴァイオリンは滅多に弾かなくなったので

隼人は久しぶり!と喜び勇んでインターホンを押さずに門を開けて中に入った。

庭の方に出ればバルコニーが見えるからと芝生の方に走ってみる。

(何だ?アンジェ上手いじゃん)

趣味程度で弾いていたにしてはなんだか妙に洗練されている音だった。

(あれ?パパがCDでも聞いているのかな?)

聞こえてくる曲はボッケリーニのメヌエットだった。

軽やかで、休日の昼下がりにはもってこいの曲だった。

隼人が少しいぶかしみながら芝庭に出て、バルコニーを見上げると。

パパがバルコニーのいすに座ってくつろいでいた。

ママンもお茶を飲みながらニッコリ微笑んでいた。

アンジェの姿はなかった。

(何だCDだったのか。どうりで…。音が良いはずだ)

隼人が、“ただいま!”と叫ぼうとすると…。

眼鏡はかけていなかったが。一目でビックリしてそこで直立不動になった。

バルコニーのカーテンが揺れる部屋先で、

栗毛の女性がヴァイオリンを弾いていたのだ。

紺のワンピーススーツをキチンと着た女性。

“葉月”だったのだ。

葉月がヴァイオリンをものの見事に弾いていた。

パパもママンもうっとり聞き惚れていた。

(彼女!ヴァイオリンをあんなに弾けるのか!?)

隼人はビックリしてしばらく芝庭で眺めることしかできなかった。

しばらくして、彼女の演奏が終わった。

もちろん。パパとママンは拍手喝采だった。

それどころか…。

お隣の庭からも拍手が聞こえてきた。

隼人が聞いても彼女の腕前は“プロ級”だった。

葉月がニッコリ微笑んで構えをといて…お隣さんにちょっとお辞儀をした。

その時、やっと庭に隼人がいることに気が付いたらしく

葉月はビックリして固まっていた。

「やぁ!さすがだね!!ちっとも衰えていないじゃないか!」

パパは隼人に気が付かずに、“レイ。お見事!”と拍手ばかりしていた。

ママンも…。

「アンジェなんてお嫁に行くときにヴァイオリンほったらかしていったのよ。

アンジェのヴァイオリンなんて足元にも及ばないわね〜。」

と、言って、葉月を褒めまくっていた。

それを見て隼人は何故かムッとした。

アンジェのヴァイオリンは隼人の想い出。

彼女が触っているのはおそらくアンジェのヴァイオリン。

それを勝手に触られて。

アンジェが小馬鹿にされたように感じたのだ。

(アンジェのヴァイオリンに触るな!アンジェのヴァイオリンだっていい音だ!)

葉月とそこでバチッと目があった。

隼人の険しさに感づいたのか葉月が少し後ずさりをした。

その様子でパパとママンがやっと庭に視線を変えた。

「おう!隼人やっぱり来たのか!リトル・レイは午前中に来てなぁ!」

「あなたも早く上がってきなさい!!」

夫妻がニッコリ呼んでくれたが、

隼人はプイッとそっぽを向いて…。

すかさず玄関に走った。

葉月ごときに、自分の家族の仲に溶け込んで欲しくないと

彼女の手からヴァイオリンを今すぐ取り上げたい気持ちで

階段を駆け上がった。