「キャプテン、どうしたんですか? そんなに慌てて」
康夫は訓練を終えたらチームメイトといつも、のんびりロッカータイムを過ごすのだが……。今日は気が気じゃなくて、いそいそと飛行服を脱ぎ捨て制服に着替える。
「わりー。今日のランチだけれど、俺は抜けるからな!」
『あ……キャプテン!?』
訝しそうなチームメイトを置いて、康夫は足早に中佐室に向かった。
(くっそ〜隼人兄のヤツ。いっつも一枚上を行きやがって!!)
隼人と葉月が上手くいっているかいないか。
戦闘機に乗っていてもそれが気がかりで、仕方がなかった。
隼人がいつもの立派な理屈をこね、それに腹を立てた葉月が生意気を叩いて、初対面から険悪になってしまったら大変だ。しかもその確率が高いと康夫は思っている。険悪になるだけならまだしも、葉月が『帰る!』とも言いかねない。
(まったく、疲れる奴らだな。もうちっと柔らかくなれっつうの!!)
康夫は、長年付き合ってきた二人が持つそれぞれの性分に無性に腹を立てながら、一直線に自分の中佐室に戻る。
やっと俺も話し合いに参加できるぞ! と、かなりの意気込みで康夫はドアを開けた。しかし予想に反し、ドアを開けたそこでは、笑い声などが響いたりする?
「あ……中佐。お帰りなさい」
あの葉月が笑っている。
葉月の笑顔に、康夫は唖然としてしまった。
その笑顔は肩肘張り合いの康夫には滅多に見せない、葉月と同性である自分の妻『雪江』に見せる警戒心のない笑顔。そして、葉月が猫っ可愛がりしている甥っ子の『真一』にみせる母性をも思わせる『女性特有』の笑顔だったのだ。
その笑顔。康夫は久しぶりに見た。
この笑顔を見たことがあるから、気難しいが故になにもかもが意味不明な彼女でも、その笑顔が本当の彼女だと信じ、親しき付き合いが続けることが出来たと思っている……。
さらに、こう言ってはなんだが『気難しい将軍の一人娘』と唯一仲が良いのは、康夫の中で密かな自慢だったりしていたのだ。それだけ彼女が人に心を開く、気を許すのは大変なことで、だからこそ『それを許された人間だ』という自負が康夫にはあった。
でも目の前には、すっかり康夫といる時と同じような彼女になっている? それだけ隼人と向き合わせたのは効果があったと言うことなのだろうか? 勿論、今回二人を引き合わせたのも、解り合えれば二人は良いコンビかも知れないと長年思っていたからなのだが。隼人がこんなに短い時間で葉月の警戒心を解いたのは予想外だったのだ。
呆然としている康夫に、こちらもすっかり気心知れて楽しそうな笑顔を見せている隼人が、何かを差し出してきた。
「藤波中佐。これでやってみようって話になったんだけど。OKを出してくれるかな」
隼人が差し出してきたのは、なにかの『表』。
康夫はそれをおもむろに手に取る。
そして何気なく、それを見たのだが……。
「なんだこれは!? 隼人兄のメンテ新人研修クラスを俺のフライトチームと?」
思った以上のプランが出来上がっていて絶句した。
目の前の二人が顔を見合わせ、『もう決めちゃったもんね』などと示し合わせている息の合い方にも康夫は驚くばかり……。
「いいだろ? いずれはデビューさせるんだから。彼女なら現役のパイロットだし、おまけにフロリダ出身で『島』でトップレベルの若いチームに所属しているから、彼等には良い勉強になると思うんだ。康夫だって新しい整備員、早く欲しいだろ?」
「そりゃ…そうだけどよー?」
康夫にしてみれば、研修よりも葉月には側近確保に力を注いで欲しいところであるのだが。
しかし、この理屈屋の兄さんが相手が女性にも関わらず、葉月を一人の軍人として認め、康夫が願っていた通りに、まんまとカモフラージュの研修を飲み込んだ様子。
それにカモフラージュとは言え、葉月が研修をやるからには決して手は抜かないと言わんばかりの、きっちりとしたスケジュールを組んできている。彼女らしいと逆に感心してしまった。だから……。
「わかった。俺も協力しよう。現役フライトチームと実習が組めるように本部員にスケジュールを組ませておく」
ついにOKを出す事に。それと同時に『俺もうかうかしてられねえな』と康夫も思わされる。
こうして康夫は、いつも葉月のやることに引き込まれて行くのだ。だから、彼女をライバルとして見ている。
「じゃあ、決まりだな。それから今日の予定だけれど、午後の一番講義を見学しようという話になったんだ。研修生にも紹介しないとね。その前に腹ごしらえ。今から、ランチに行くけど、康夫は? 今日はチームの皆とのランチはどうしたんだ?」
既に何の違和感もなく葉月との共同業務を進めようとしている隼人の行動は、既にさも当たり前といった様子。
康夫としては隼人の天の邪鬼ぶりも、お嬢の気難しさと同様に『手強い』と思っている。だからこそ自分が間に入って、二人の間を上手く取り持とうとしたのに……。慌てて帰ってきたものの『出番無し』、予想外の展開。『おいおい。なんだ? いったいどうやって解り合ったんだ?』と不思議で堪らない。
葉月の警戒心が解けているのも驚きだが、昨日までの『拒否反応』が激しかった隼人はいったい何処へやら? まったく正反対の態度になっているではないか? 自分がいない間に何があったと康夫は茫然とするばかり……。
しかし二人はもうかなり馴染んでいる。
「康夫も一緒にどう? 大尉が裏庭でひなたぼっこがてら外で食べようって言うのよ」
葉月もだ……! すっかり隼人に信頼を寄せている笑顔にも、康夫は戸惑ってしまった。
「いや〜。俺はカフェでいつも通りに、後輩達と済ませるよ」
「そう?」
葉月がちょっと残念そうに呟いたので、もう少しで『おう! 俺も行くぜ』と言いそうになった。しかし康夫は毎日、パイロットの同僚に後輩達と親交を深めるべく共に食事をしている。いま戻れば、彼等の輪に入れるはず、間に合うはず。
「それなら私達もカフェに行く? 大尉」
葉月が康夫を気遣ってそう言ってくれたのだろうが、そこで隼人がなにやらびくりと身を固めたように康夫には見えた。
葉月にはにこりとした笑顔を見せながらも、康夫の方になにか助けを求めるような眼差しを隼人が送ってきたのに気が付いた。
なんの眼差しか康夫には直ぐに分かった。葉月を連れて隼人がカフェテリアに行く──それを思い描いた時、あることが康夫にも浮かんだ。そのことを思うと康夫にもぞくっとした悪寒が走り、思わず背筋を伸ばしてしまった──! 『そ、それは一大事!』とばかりに……。
「い、いいよ。天気もいいし、せっかくだから親交を深める為に、二人きりで外に行って来いよ!」
康夫の妙な繕い笑顔に、葉月が眉をひそめている。
「そう? でも、カフェに行けば、雪江さんにも会えると思ったのに」
葉月は、昨日『対面』について心配してくれていた雪江に、なんとか話がうまくまとまった報告をしたいと思っているのだろう?
裏庭に行くとしても藤波夫妻も一緒なら、より楽しいランチになるだろうという彼女の期待は、康夫にもちゃんと通じてはいるのだが。隼人が気が付いたように、康夫としても、葉月がカフェテリアに来るのは『今は避けたい』事がある!
だから、康夫は必死に阻止しようとした。
「ゆ……雪江には! 今夜はうちに二人を招待するよう言っているんだ。あいつも、科が違うからカフェでもすれ違ったりするだけなんだよ」
「そうそう。今夜。せっかくだからこちらのご夫妻に甘えようよ」
一番に懸念した隼人も、さっと康夫のフォローに回ってくれる。
二人の男が揃って言ったせいか葉月も反論が出来なくなったようで、とりあえず『わかった』と妙な素振りの男二人の様子を流してくれたようだ。
しかし『わかった』と了解してくれた葉月の目が、『私がカフェに行くと困るの?』と言っているように康夫には見える。勘の良い、彼女の事──。康夫は彼女に見破られないよう、苦手なポーカーフェイスをなんとか保った。そのおかげか、葉月は納得してくれたようだ。
「そうね……。昨日、来たばかりだものね。私も静かな場所の方が良いには良いから」
お嬢さんと歩くと『澤村大尉』が目立ってしまうだろう。葉月はきっとそこを一番気にするはず。そうして好奇の目にさらされる事は避けたい為か、二人の男が言うがままにしてくれるようで、康夫はホッとした。隼人も、ホッとしたような息づかいをしたのが、康夫にも通じてきた。
「じゃ、じゃあ……。俺達、行ってくるよ」
「行ってきます」
少しばかりぎこちない隼人が言う通りに、葉月はやっとすんなりと外に出て行ってくれた。
康夫は密かに、胸をなで下ろす。
ああ、彼女に妙な災難が降りかかりません様に。
康夫は祈る。
カフェにはそんな『トラブルの元』があるのだから。
・・・◇・◇・◇・・・
葉月は澤村大尉と二人。昨日出逢った裏庭のポプラの木陰で、軽い昼食を取る。
そこでやっと、お互いが学んできた事を話題にした。葉月はフロリダ訓練校の事を隼人はフランス訓練校の事などを話題にして、話に花を咲かせた。
午後の始業ラッパが鳴る時間に、二人は棟舎に入って講義室に向かう。
「さて。若い奴らだから気をつけないとね」
講義書を小脇に抱えた隼人が、葉月の全身を見てにやっと微笑んだ。
その笑みに葉月はおののく。若い男性である『研修生』と触れ合う業務なら、スカートでなく『スラックスにすべきだったか』と──。
でも、この『大尉』がいるから大丈夫だろうと、とりあえず安心する事にする。
それよりも先程から、葉月には気になる事がある。
「まさか、その本を講義で使うの?」
隼人が片時も離さない昨日の『航空学書』を見て、そんな気になってきたのだ。
「だとしたら?」
彼の不敵な眼差しに、葉月は再びおののく。
「だったら……スパルタだわ。だって──」
葉月はそこで口をつぐんだ。
それは、フロリダの特別訓練校在籍の者でも苦労したのに、この普通基地のフランスで? と、言いそうになったからだ。
『ここはフロリダ校以下』と言わんばかりの発言になるかと、それはちょっと失礼かと思ったから、その先を言えなかった。
だけれども、それを判っているかのように、隼人はちょっと口を曲げつつも穏やかに微笑み返してきた。
「俺はフランス校の出身だから、フロリダの特校のことは知らない。でも康夫が君と同じ特校の出身だ。これを見せられてちょっとショックだった。『俺もこんな勉強をしたかったな』と。この本はフランス国産なのに、どうして、本家本元では使ってくれなかったのだろうか? とね」
言われてみれば、そうだ。と、葉月も思った。
母国語を習得しているフランス人ならもっとより深く、そして葉月のように語学から叩き込まなくても、使いこなせるのに……と。
そこは、もしかしたら、フロリダがトップ校として君臨するためにレベルの差をつけようと目論んだ管理者達の思惑があるのかも知れないが。澤村大尉がそこを思って、訓練校出たての将来ある研修生達に『難しいだろうけど、やってみよう』──と、『貢献』をしようとしているのだと知り、葉月は、その姿に感心をした。
だが、そこで一抹の不安が一点。
そこは素直に問いただしてみた。
「ついてこられるの?」
これは、一中佐として聞いておきたいことで、失礼かも知れないが尋ねてみる。
フロリダでも学生としてなんとか使っていたこと。既に学生という域を卒業をして目の前に実践デビューが待っている研修生にとっては、やることがよけいに増えるという『リスク』が生じる危険もあるからだ。
本当なら、学生中に済ませているべき過程を大尉が押しつけているとも言える。
すると葉月が心配した通りに、彼の表情が強ばった。が、葉月も引く気はないから、彼の反応を待ってみる。
「訓練校でやっておかなくてはならないことも、やってないことなら『今』教えるべきだ。本隊員になってからでは、もう学ぶ場がない。これからはクラスの一人一人が色々な場に配属される。そこで何かが足りないなんて、教官として送り出すからには無責任だと思う。何処の出身の隊員とも負けて欲しくないからね。それに──ついてこられない者は、そこまでだ」
立派な教官のお言葉が返ってきて、葉月は絶句した……でも、感動した!
「すごいわ。私も『澤村教官』に習いたかった! ──と、思ってしまったわ!」
葉月が小さく拍手をすると、隼人はシビアにきつく言った手前、照れくさいのか顔を背けてしまった。
葉月も、ニッコリ誉め讃えつつも心の中では『ビジネス論に厳しかった大佐の後輩だけある』と思ってしまい、再び自分もしっかりせねばと気が引き締まってくる。
さらに隼人と言葉を交わすほど、彼は大尉で教官だけで済むレベルの男ではないと、葉月は思い始めてきた。
何故? フランスで一大尉で教官のままなのだろう? と。
だが、だからこそ──小笠原連隊長であるロイも『これは掘り出し物!』と思い、葉月を送ったのかも知れない? とも、思えてきた。
つまり? である。
──『解ったなら、絶対に落としてこい』
ロイ兄様のいつもの冷たい声の『ご指示』が、葉月の頭の中に浮かぶ……。
そうなると、連隊長が中佐に下した『特命だ』と受け止めて考えると、側近としてどう口説くかで頭が痛くなってきた。
『向上心がない者』とあのロイが判っていても、そこを『その気にさせてこい』と言っているのならば、かなりの大役ではないか?
(どうして、これほどの人がフランスで、その地位で留まっているのかしら?)
葉月の何気ない疑問は、この後かなりの難関となるのだが、この時は目の前にある講義見学に集中すべく、この疑問については直ぐに頭から去っていってしまった。
そうしている間に、講義室が並ぶ中、前を進んでいた隼人が一室に立ち止まった。
彼が、ドアを開ける前に眼鏡をかける。細い黒フレームの眼鏡。彼がその眼鏡をかけると急に別人のようだ。いかにも工学教官と言った堅さが醸し出される。眼鏡をかけた彼は『お兄様』っぽい──。かけていない彼は『お兄さん』と言ったところだ。それに……眼鏡をかけると、やっぱり義理兄を思わずにはいられなかった……。
講義室の前の扉に辿り着く。
「さて。始めましょうか。中佐」
「よろしくお願い致します。大尉」
(そう──ここからは仕事)
葉月はそう心に決めて、隼人と共に微笑む。
いよいよフランスでの研修を、綺麗な心積もりで本気で始める気持ちに向き始めたから。
もう日本には帰らない。
研修だけでもきちんとやり終えてから帰る。ここで何か新しいものを掴んで帰りたいと葉月は心に決めた。
Update/2007.9.30