・・フランス航空部隊・・

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11.カフェオレ

 

 午前中──。
 康夫が訓練に出かけている間、葉月は初めて澤村隼人と向かい合い『研修』の打ち合わせを始める。

 葉月が日本で組んできたスケジュール表をテーブルに広げると、隼人がまるで宿題を見る先生のように『どれ』と、それを手に取った。葉月は訳もなく緊張してしまう。そんな葉月を気にかける様子もなく、隼人は早速に眼鏡をかけ、スケジュールを眺め始める。
 それをザッと見た彼の表情が、急に引き締まった気がした……。

「すごいね。事細かく……」

 隼人は一時、穏やかな微笑みを浮かべると直ぐにあの無表情な顔で集中し始めた。

「細かいけれど。無駄なところがある……かな」
「判らなくて。藤波中佐から手渡された大尉の現在の役割を元に組んでみました。すべての業務に授業、それに対応できるように組んでみたのですけれど、どうかしら」
「なるほど? でも、メンテナンス実習はパイロットの中佐が監督をしても整備が出来る訳ではないから、ただの見学という形になるだけで時間の無駄だと思うけれど……?」
「私もそう思います。それでも見て欲しいと言われたならば、私もなんらかの力にはなりたいと思っています。もし監督することになれば、パイロットなりの指導は出来るかもしれない。パイロットだって、自分たちが乗る機体のことは一応は学んでいるのですから」
「ふむ、なるほど。全対応型で組んできたって訳か」

 すると隼人は制服の胸ポケットから蛍光ペンを取りだし、葉月が組んできたスケジュール表になにやら書き込みを始めた。

「これで、どう? 俺なりに、ここは見て欲しいと思う所はマークをしてみたけれども」

 隼人が差し出した表を葉月は手にとって眺めてみる。
 確かに。これなら私も無理せずに、良い所は集中的に指導が出来る……。そう思うことが出来る無駄のない彼の計画。確実な見定めが、自分がこの『全対応型』に変更しようと思う前、一番最初にざっと組んだ『ポイント対応型』に似ていて葉月は唸った。

「解りました。これで……」

 すると急に。目の前の隼人は葉月の鼻先に蛍光ペンをびしっと、何かを指摘するような仕草で突きつけてきた。葉月もちょっとおののく。そんな中、隼人は葉月に真っ向から突きつけるように尋ねてきた。

「本当に? それで納得?」

 大尉如きが提案し決めた事に、すんなり同意するのか──と、言う事らしい? 

「特には……」

 それに対する葉月の答としては特に異議はないので、軽く流して済ませようとしたのだが……。彼に改めて問いただされた為、葉月はここでもう一度、自分の心の中を探ってみる──。
 全対応でもポイント対応でも対して差はないと思っているから、とりたてて『こちらの形で実践しなければいけない』とは思ってはいない。
 しかし大尉の補佐具合に教官としての指導振りを『名目上』でも監督すると決めたからにはと思い、葉月はスケジュールを組むのは真剣に取り組んでマルセイユ部隊に持ってきた。特に『全対応型』で組んだのは、必死に組んだ。この大尉の失礼にならないよう、彼に対して自分が出来ることは対応できるようにと……。そう思うと、『どちらでも良い』とふと感じた気持ちは嘘。彼がそうしてここで改めて問いただしてくれなかったら、葉月はいつものように冷たく『どちらでも良い』と言っているところだった。
 だから、葉月は彼が持たせてくれたその間のおかげで湧いた気持ちを、素直に伝えてみる。

「強いて言えば……。大尉が今受け持っている若いメンテナンス研修生と藤波のパイロットチームの合同実習が見てみたいわ。でも教官の大尉が許可しないのならば、まだ『現場実習』ができる段階ではないという所かしら?」

 葉月は素直に答えてみたものの、仕事の話へと深く入り込んでいく間に、いつもの冷たい表情になっていた。
 それだけ、仕事上にあるべき自分のペースが戻ってきたことになる。
 すると、隼人がそんな葉月のなにげない『挑戦』めいた提案に、初めてたじろぎ、ぐっと引いたように見えた。──『自分が受け持っている生徒を実践させる自信はないのか?』──と聞こえた事だろう。
 彼は制服の襟元を正しながら、ふとした溜息をこぼしていた。

「解りました。中佐が帰るまでには一度、その合同実習が出来るよう努力してみましょう? なにせ新人ばかりですから何処まで出来るかは保証できないのですが」
「新人だから、楽しみにしてきたの。言ってみれば、彼らの『滑走路デビュー』でしょう? そんな瞬間に立ち合えるんじゃないかって。大尉の生徒がどう旅立つのかって……」

 葉月が眼差しをふと伏せて微笑むと、なんだか隼人がちょっと戸惑った表情で見つめている?
 葉月は首を傾げて、彼を見つめ返した。

 彼がじっと自分を見ている。
 今度は、昨日の彼や今日の大尉としての彼からは見られなかったような、何かを秘めたふうの黒い瞳に葉月は固まる。
 ──なにを見られているのだろう。

 ふとした恐ろしさのようなものを感じてしまう……。
 でも、葉月は今までにないものを感じていた。
 一直線に葉月に向かってくるその視線は、何にも逆らえないような気持ちにさせられる。そしてそれが彼の性格を表しているような気さえしてきた。
 その強い眼差しに吸い込まれそう……。なんて綺麗で真っ直ぐな黒い目。
 葉月も彼の黒い目に囚われたように、彼を見つめてしまっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そこには二十六歳というあどけない若さを残しつつも、どこか凛とした気品が急に備わったように見えた……。
 自分は今そんなことを感じているのかと気付いた彼、澤村隼人ははっと我に返った。
 気が付けば、彼女も黙ってこちらを真っ直ぐに見つめている。ガラス玉のように透き通っている、薄い茶色の瞳。その目で、彼女は俺の何を見ているのか……。

「あ、嫌だわ……つい。また、生意気って言われるかしら?」

 お互いの目を見つめ合ってしまった、ほんの僅かな時間。葉月も同じように我に返ったらしく、急に昨日のような『女の子』に戻っておどける。
 隼人も、慌てて言葉を繋げようと焦った。

「いや、中佐らしいお言葉だよ。うん……解りました。最終的に彼らを実践的なデビューさせるという目標で……」

 隼人はついに、葉月の思うところに従うようになる。
 彼女の言い分。隼人もいつの間にか聞き入って、そしてその考え方や気持ちに引き込まれていなかったか? そんなことを思わせるような見つめ合いだった気がした。
 隼人はまた蛍光ペン片手に、スケジュール表に書き込み始める。
 彼女の目の力にまた引き込まれないよう、顔を俯かせる。……彼女は気が付いていないと思うが、ペンを持つ隼人の手の平が少しばかり汗ばんでいた。こんなこと……久しぶりではないだろうか? つまり、隼人は目の前の、自分よりか弱い女性に圧せられたということではないだろうか?

「先程より、少しばかりメニューが増えますが」

 彼女が醸し出す不思議な雰囲気に負けないよう、隼人は密かに気合いを入れ、葉月に再度の提案を示す。
 再び、目の前の彼女が、それを手にして眺める。

「はい。構いません、これで。今日から御願い致します」

 上官であるはずの彼女から、丁寧に頭を下げてくれたので隼人は驚いた。
 部下にあたる隊員に頭は下げど……。そこには毅然とした中佐がいると感じずにはいられなかった。

 これは、もしかすると……。
 自分が彼女に対して持っていた先入観は、かなりの誤りだったのではないかと……。隼人はついに心の奥で認めようとしていた。

 さて、目の前の彼女は、隼人の新しい提案を今度はどのように受け止めてくれるか……。
 先ほどのように、こちらをさらりと上手く試すように運ばれてしまわないよう、隼人は彼女の反応は如何なるものが飛び出してきても大丈夫であるよう、密かに力んで構えていた。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 葉月は再び、彼が直したスケジュールを眺めて唸っていた。
 たとえ彼を側近として『確保』出来なくとも、この研修をこなしただけでも本当に良い成果になり、良い経験になりそうだと思った。
 このまま行けば、本当に日本に帰るどころではなくなってくる……。

 そこで暫く──二人の間で、お互いを探り合うような沈黙が流れた。
 静かなその空気に気が付いた葉月が彼を見ると、やはり目が合う……。
 葉月は今度はどうして良いか分からない顔になっていただろう。それが証拠に向こうの彼も、同じような戸惑いを見せる苦笑いを浮かべているではないか。 二人はそのまま、妙な笑顔を浮かべあっていた。

「そうだな……じゃあ、早速。午後一番の講義が、奴らのクラスだから見学をしてみる?」

 隼人は、変わらずの言葉遣い。
 葉月としては、今まで不安に思っていた『令嬢扱い』や、『出世の道具扱い』などを気にしなくても良い人間性を隼人から感じ取ったし、康夫とのやりとりを見て『私たちよりキャリアは上の先輩』と感じ始めたので、『階級』を抜きにして受け止めることが出来始めていた。
 だから、その言葉遣いは、隼人なら注意する気は少しもなかった。そしてそこには、今までにない……心の縛りを解くかのような素直さが不思議と生まれているような気が葉月にはしていた。

「そうね。そうします」

 葉月の方が時々敬語になるほど、まだ少し、緊張していた。
 でも、向こうの彼はもう肩の力が抜けたようで、昨日見せてくれたお兄さんの笑顔を見せてくれていた。

「楽しみだなあ! 実は、フロリダ仕込みってヤツに興味があったんだ」

 隼人の方は、既にこの研修を飲み込んだようだった。
 康夫の喜ぶ顔が葉月の脳裏に浮かぶ。

「君が七光りだけの中佐じゃないと判っていれば、面白そうな研修とは思っていたんだ。だけど……」
「よろしいのよ。そう見られることには慣れているし、本当に七光りですから」

 彼がすっかり、昨日見せてくれたただのお兄さんの顔になったので、葉月も『気にしないで』と自然に微笑むことが出来る。
 それに今のお言葉は、認めてもらえたという喜びがあった。

「良かった……。実は昨日、『もしかして御園中佐?』とは思っていたんだ。でもお嬢さんの方も、そうは見られたくなさそうだったし。だから『騙されてみるか』とね。もし、目の前のお嬢さんが『中佐』だったら、俺、うんと失礼なことしちゃったなって思ったよ。それで『機嫌を直してくれよ』なんて、せめてものお詫びのつもりだったんだ。あのランチは」

 またまた照れくさそうな昨日のお兄さん……。
 葉月は隼人の心内を聞いて『そうだったのか』と、昨日の出来事を良かった事として受け止めることが出来た。しかしそれと同時に、本当に食えない人なのだと思った。

「いつから、私だと?」
「はっきりと判ったのは、ほら……昨日、雪江さんの所に君も来ていただろう? 雪江さんも俺がすっぽかしたことを知って不機嫌でさ。君のことも誰だか教えてくれなかったけど、俺の方は予感があったんで、カマを掛けたらポロッとね……」

(雪江さんまで、ひっかけたわけ?)

 葉月は目の前のお兄さんが、あの藤波夫妻の二人さえも巧みに操ったことに絶句してしまった。
 それだけじゃない。このお嬢中佐の葉月ですら……。『俺知っていたよ〜』と言わんばかりの今朝の意地悪な再会の挨拶。葉月も、すっかり彼の手の上で既に転がされていたことになる!

 『やっぱり、からかっていたのね』と、葉月は再び、往生際の悪い自分を思い出して恥ずかしくなってきた。
 しかし今度の隼人は、あの優しい笑顔を見せてくれている。恥ずかしい失敗をしでかしてしまったと言いたげなお嬢さんを、温かく見守るような目。──そんなことたいしたことじゃないよとでも言ってくれそうな目。私の好都合な解釈だろうかと思いながらも、彼のその笑顔を見れば見るほど葉月はそう感じずにはいられない……。

「それでは……。今朝は判っていて、あのように……」
「そうだよ。あんなに必死になって隠そうとしているんだもんな。『もう、ばれてるよ』なんて、あそこでは言わない方が良かったと思うんだけど? 俺も、あそこで、見かけたのは驚いたけれどね。まさか朝一に再会するとは思っていなくて……。でも、どうせ後で会うと判っていたからね。ショックは柔らかい方がいいと思って、俺が、日本人の大尉と知れば、お嬢さんも気付くだろうなと──」

 葉月は『すべてこの人の思惑に、はまっていたんだわ!』と、改めて情けなくなる。
 そんな自分に呆れた溜息をこぼしてしまった程──。

「本当に、ごめん。すっぽかしたのは悪かったと思っている。でも、騙されたふりには、悪気はなかったのだけれど」
「ええ、もう、いいの。先ほども思っていたのだけど。これで良かったのだって……。昨日のランチの時間が、私達のご対面だったのかも。ほら、だからこうして大尉にもなんとか向き合ってもらえるようになったことだし」
「俺もね。すっぽかしは無駄ではなかったんだ。って、いいわけかな!?」

 隼人が何かを誤魔化すように笑い声をたてたので、葉月もなんだか可笑しくなってきて一緒にくすりと笑みをこぼしてしまった。
 すると、また隼人が葉月の目の前に手を差し出してきた。

「改めてよろしく。君がね、康夫の親友って事、よーく解ったよ。でも、康夫のヤツいつもこう言うんだ『じゃじゃ馬。跳ねっ返り。強情ぱり。融通が利かない』これだけ聞かされたら、誰でも怖じ気づくと思わないか? 康夫のせいにするわけじゃないけど、誤解したままで終わらなくて良かったよ」

 葉月はそれを聞いて『まったく! 元をたどったら、康夫のせいじゃない!? 何処でなんて言いふらしてるのかしら!?』と憤慨! ふてくされながらも、破れかぶれに付け加える。

「でも、じゃじゃ馬は本当かも知れませんわよ。父も、私をそう呼びますから」

 葉月はしらっと平坦な物言いで、隼人の手を握り返す。

「ははは! 本当? それは楽しみだなあ。将軍お墨付き、噂のじゃじゃ馬が拝めるかも!!」

 じゃじゃ馬が楽しみという男も珍しいな? と、葉月もなんだか可笑しくなって微笑んでしまった。

(本当にお兄さんっぽい人ね。なんだか解り合えそう……)

 葉月は憂鬱さを引きずってフランスに来たが、本当に心が緩んだ気になれた。
 それも目の前の彼の、こんな人柄のおかげ──。
 やはり遠野の後輩で、康夫の先輩だと納得が出来た。

「さてと。お互いを分かり合うためにちょっと色々と話そうか? その為にもお茶を入れて差し上げましょう『中佐』──」

 なんだか、やっぱり……隼人の方が主導権を握っているように思えてきた。
 手際が良いし、気配りがとてもきめ細かい。

(内勤向きって訳ね?)

 補佐だけはある。ということは、そのワンランク上の側近も向いていると言うことだ。
 それに、葉月はここで一つの企みが中佐として働き始めていた。
 葉月の亡くなった祖父、そして現役の父……いや、この二人にかかわらず『御園一家』の人間は『お茶入れ』に厳しいことでも有名だった。
 それは、御園一家でなくてもレベルある仕事を要求される高官に秘書官などは、皆、お茶入れには厳しい。
 礼儀とは作法から来るが亡くなった祖父の口癖で、お茶入れもその中で大事な作法の一つだと言っていた。
 その為。鎌倉にいる准将の叔父などは『茶道』を極めていたりするぐらいだ。
 叔父は、武道家の父と違って、のんびり屋の風流人。しかし叔父は『茶道の道は作法も然り。人をもてなすには精神統一』などと言って、横須賀訓練校の授業の一つに『茶道』を取り入れたりして若い隊員に煙たがられているそうだ。

 そして葉月はまた、思い出す。
 初めて、遠野大佐を迎え入れた日。側近としてお茶を入れるよう命じられたときのことを……。
 彼は、葉月が入れた日本茶を口にして──『合格だ。流石、御園中将の娘だな』と、かなり誉めてくれたが、お茶入れ一つで最初から試されていた手厳しい上司にとても驚かされた出来事だった。
 それと共に、『このような人なら信じてついていけそう──』と、上官として信頼できた瞬間でもあった。
 しかし、遠野は『カフェオレ』だけは『上手になった』と言ってくれても、『合格』はいつまでも言ってくれなかった。
 フランス勤務時代に遠野の後輩であった康夫も『俺もそうだった。合格はもらえなかった』と昨日こぼしていた。
 誰一人、フランス仕込みの大佐の『カフェオレ』を再現できなかった。
 そして遠野が作るカフェオレは美味しかった……。だからこそ、誰も合格が出来ないのだと葉月は思う。

 葉月は、隼人が備え付けのコンロに立ってコーヒーを入れる姿を眺める。
 大佐にならって、お茶入れを試す心もあった。
 ひどく非難するつもりはないし、心の中で見定めるだけだ。
 でも……フランス暮らしが十五年、入隊して十年の遠野の後輩の彼はもしかしたら……? また、よこしまな心が動いてしまった葉月は我に返り、『いけない』と首を振った。

(駄目よ。大尉から影を探そうなんて……失礼だわ)

 『研修』を共にすると決めたからには、この心はもう捨てねばならないと葉月は思う。
 葉月がそうして一人で思いふけっている内に『はい、どうぞ』と、表面にきちんと泡が立っている薫り高いカフェオレを、隼人が差し出してくれた。
 『泡が立っていなくちゃ本物じゃない。ミルク多めの七:三が決まりだ!』──それが、遠野の口癖だった。

(泡立ってる……)

 遠野が入れてくれたカフェオレと同じようなきめ細かい泡が……ある。
 それはいつか見たことがあるような懐かしいものを感じつつ、葉月はごくりと喉を鳴らし『いただきます』とカップを手に持った。

 一口、口に含む。
 葉月はそのまま、温かいカフェオレカップを見つめた。
 穴が開くほど、見つめた──!

 そのうちに隼人のとても驚いた戸惑いの声が聞こえてきた。

「ど、どうした! なにか、悪かったのかな? 中佐、はっきり言ってくれていいんだぞ!」

 彼が何を言っているのか葉月は分からなかった。
 でも彼はとても困惑した顔で、今にも葉月に向かってきそうな勢い。そして隼人が小さく呟いた。

「……俺、泣かすようなことをした? ちゃんと言ってくれ。これ以上、そんな困らせるようなことは、もう君には出来ないと思っているのだから」

 『泣かす?』──葉月はその一言を不思議に思いながらも、もしや……と自分の目に触れてみた。
 指先に、少しだけ濡れた感触……。泣いている? 自分が今泣いてるとやっと気付いて、黒カフスで目元を拭った。
 しかしその途端だった。泣いているんだと気が付いた途端に、意志とは関係ない涙がぼろぼろ流れ始めて、自分でも慌ててしまった。

「嘘……」

 泣いているのに……。
 自覚無しに泣いている自分のことを『嘘?』と慌てている葉月を見て、隼人が茫然としている。
 きっと向き合っている彼の方が『嘘だろ』と言いたくなるような光景に違いない。

「な、なんだ? 『先輩仕込みのカフェオレ』がそんなに泣けた?」

 隼人はとても慌てた口調で、スラックスから白いハンカチを出してくれた。
 そう言われて、葉月もやっと気が付いた。
 『このカフェオレ、あの人が作ったそのものだ』と──!

「紅茶にするべきだったな。でも、俺も自慢でね。先輩が唯一合格をくれたことだから。でも……ちょっと、気配り足りなかった。そ、だ。ちょっと、ドーナツでも買ってこようかな?」

 隼人は『しまった』というような気まずさを漂わせて、そっと中佐室を出ようとしていた。

「ドーナツは結構いけるんだ。カフェテリアの……じゃ、行って来る」

 葉月を一時心配そうに眺め、出ていってしまった。
 彼が出ていった途端にどっと涙が溢れてきた。

(大尉。もう判ってしまったわね。きっと……。あんなに慌てて……)

 彼の憶測の中にあった『遠野先輩とのプライベート』。
 そこに何があり、葉月とはどのような関係性だったか……。なにもかも。

 それでも、さりげなく出ていってくれた隼人の気遣いがなんだかひどく身に沁みた。
 その事が、その柔らかな気遣いが、再び涙が溢れさせてしまう拍車をかけていた。

 葉月の顔を覆った隼人のハンカチから、異国の洗濯石鹸の香りが漂っていた。

 

 

 

Update/2007.9.29
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