お迎えに来てくれた金髪の青年が運転するジープは、マルセイユ航空部隊の基地へと辿り着いた。
ジープから下車すると、先ほどの空港より潮の香りが強くなったように感じる。
でも……。真っ青な空と滑走路の向こうには海。真っ青な風景は、これから始まる初夏という季節を予感させ、とても爽やか。
まだ心を重くしている葉月を初めて、軽やかな気分にさせてくれた。
マルセイユの航空部隊は、国際連合軍の航空基地の中ではトップレベル。
今から会う負けず嫌いの『同期生』は、現在、葉月が所属している『島』と呼ばれている小笠原総合基地への入隊を蹴ってまで、フランスへ。
ライバルと認めてくれてはいるものの、女パイロット……しかもツースキップをしている年下の葉月と同じ基地所属なんかではと我慢が出来ず、それなら連合軍トップの航空基地に行ってやると息巻いて、彼はこのトップ基地への所属を見事に勝ち得たのだ。
そんなライバルに呼ばれて、葉月はマルセイユまで来てしまった。
……本当はあまり気乗りしない、フランスへの出張。
それが始まろうとしている。
マルセイユの空は深いスカイブルー。その空を見上げると、轟音を轟かせて何機もの戦闘機が離着陸を繰り返していた。
「どうぞ。こちらです」
お出迎えの青年の声に、葉月はハッと空から視線を戻す。
すると純フランス人らしいその青年に、ぼんやりしている間にスーツケースを取られてしまった。
葉月が頑なに彼のエスコートを拒むのも、訳がある。『嬢ちゃん中佐が、偉そうに男を使っているぞ』。男性隊員達のそんな声が葉月の頭の中だけで響く。そう見られるのが嫌だったからだ。今までもそんな囁きは充分聞き届けてきた。勿論、所属している小笠原の『島基地』ではしょっちゅうだ。
また、このマルセイユの基地でも、きっと……。そう思った葉月だから、青年からスーツケースを取り返そうと、『私が……』と一歩近寄ると、今度は彼に手で制されてしまった。
「フジナミから伺っております。そんなに意地を張らなくとも……。『レディーファースト』をしないと私が笑われます」
彼がそういって、スーツケースをゴロリと背中の方に下げてしまった。
妙に彼が必死になっているように見えた葉月──。
(それも……そうかも?)
葉月は彼の男としての立場を考えて、スッと身を退いた。
ここはフランス。男性隊員のすべてが『レディファースト重視』である事を願いたかった。
そして葉月は、やっとその青年の目を初めて見つめる。
「あなたは藤波中佐の所の?」
すると彼がにっこりと、微笑んだ。
「やっと、お尋ね下さいましたね。中隊管理の本部員です。元はフロリダにおりましたので、お父上のこともよく存じています。それで、私が、本日のお迎えに……」
「そう、父を」
「ハイ。穏やかな方なのに武芸達者で……。若い隊員にも未だに勝てる者がいないのですよね!」
『まあね』と、葉月は心の中で呟く。
葉月の父、御園中将は軍内一の武芸達者で陸系の人間だった。
祖父の実家である『御園』は、元々日本では武芸家元の家系で、亡き祖父はそこの三男坊だったので武芸のたしなみがある。
葉月が軍人でいるのも、幼い頃から祖父と父のダブルコーチで、みっちり武道を仕込まれたこともあるのだと思う。
やっと令嬢中佐のリードが出来て、ホッと一安心の青年に連れられ、葉月は同期生の『藤波中佐』がいる中隊本部へと向かう。
その途中。すれ違う隊員の一人一人が葉月を目にして振り返る。
男性隊員のエスコートを受けてまで入ってきた女は誰か? と……いう眼差し。
葉月はいつもこの視線に出会うと、逃げ出したくなる。その上、制服の上着まで脱ぎたくなる……。皆、肩に付いている中佐の肩章を見てびっくりするからだ。
二十代らしき女が中佐? ……そんな、視線。
そこで誰だと聞かなくとも、それが『御園の娘』の証として皆が興味ありげに、じっと葉月から視線をはずさないのだ。
その落ち着かない視線から解放される時が、やっときた。
「そこの事務室ですよ」
青年が笑顔でひとつの大きな部屋の入り口を指さした。
そこで今度は、嫌な視線から、急に身体が硬直するほどの緊張感にみまわれる。
葉月がライバルの藤波中佐に呼ばれてこの基地まで来たのには訳がある。
一人の男に会いに来たのだ。
その男性に会おうと思えるようになるまでも、葉月の中では沢山の迷いがあった。
それでも、ついにこうしてきた。それこそ、その沢山の迷いを未だに抱えつつ、さらにそれを振り払いたくて──。
その男性に会わねば、何かが終わらないし始まらない気がしたから。
それほどの気持ちを持って、その男性に会いに来た。
仕事? 仕事もある。でも、葉月には今回は仕事は二の次になるのかもしれない。
……そんな不純を交えながら彷徨う心。
(いよいよ……。その人と会う時が来た……)
葉月は、高鳴る胸を押さえながら入り口にたたずんだ。
・・・◇・◇・◇・・・
上司の『遠野大佐』が死んだ。
東欧の不安定な情勢の中、生活支援や保護を目的とした遠征に出かけた彼は運悪く、市内警備巡回中に突然起こった銃撃戦であっと言う間に……。
遠野は若くして大抜擢された、日本人で初めての三十代大佐だった。
つまり、将来有望視をされていた『超エリート』。いくつもの任務をこなし、あっと言う間に大佐に登りつめた男だった。
葉月はその部下。フロリダ本部基地から大佐に昇進してやってきた遠野が仕切る『小笠原第四中隊』の隊長補佐、つまり『側近』を命じられた。
その上司と、いつしか愛し合う仲になり……。
そして彼は小笠原に赴任してたった半年で、逝ってしまった。
短い恋。でも、いつも冷たいままの葉月の中に熱いものを吹き込んでくれた人。
ずっと年上だったせいか、何事にも大きくて、何事にもとても安心させてくれた。
だけれど仕事はシビアで、葉月は軍人としても彼から沢山のことを教わった。でも……ただ厳しいだけじゃなく人情的で、どの部下達にも慕われていた。
そんな彼に葉月はすっぽりと包まれて温めてもらう日々を送っていた。
『じゃじゃ馬。素直になればおまえも可愛いのになあ』
『笑った方が良い。笑った方がお前、ずっといい顔だから』
何度も、何度もそう言っていた。
冷たい葉月の横顔に、いつもそう言っていた。
『帰ってきたらずっと、俺の傍にいてもらうぞ』
……でも、帰ってこなかった。
それで、あっと言う間に終わり。当然、別れの言葉もない。
たった半年。まだ、あの人にそれほど笑顔を見せないままに。
戸惑っている内に終わってしまった。
その後、葉月には泣く間も許されない日々が襲ってきた。
遠野が置いていった中隊を、若くても中佐である葉月に維持するよう命令が下った。
二十五歳になろうかという小娘にとって、あまりにも厳しい指令ではあったが、そこは『中佐』という地位を頂いてること、そして中隊の全てを遠征に出かける遠野から『隊長代理』として任されていた葉月が『今のところは適任』と判断された為……。
その危うい状態で、一年ほど……。他の先輩方の力を借りてなんとか中隊を維持してきた。
そんなことに精一杯。でもちょっとした隙間に襲ってくる『短い恋』のあらゆる悲しみ。
毎日、どんなものが自分の目に映っているかも葉月には分からなかった。
ただひたすら、残された者としてやらねばならぬこと、残された者としての悲しみに暮れていただけ。
葉月のそんな不抜けた日々を見ていられなかったのか、このマルセイユ航空部隊にいる『藤波康夫』が、小笠原連隊長の手引きで葉月のところに仕事でやってきた。
名目は交換留学のような『航空研修』。でもその水面下で、小笠原連隊長は『御園の部下にどうだろうか、側近としてどうだろうか』という打診をしていたそうなのだ。
だがあの負けず嫌いの男が、同期生とはいえツースキップしている年下女の部下になど、なりたいはずもない。
その『藤波康夫』がそこを回避する為の一策として、連隊長にある男を推薦した。
『なあ、葉月。この人に会ってみろよ』
どうしてか連隊長にその企画が通ってしまい、そして葉月も最後には承知していた。
承知したのも訳がある。
『遠野先輩がマルセイユ勤務時代の、お気に入りの後輩だ。俺の部下だけど頼りがいある先輩』
遠野先輩のお気に入りの後輩?
その一言だけが、何事にも心が動かなくなってしまった葉月の心を動かした。
(あの人のことを、知っている人? 沢山、知っている人?)
つまり、そんな動機。
そんな不純な動機で、今、ここに。フランスマルセイユ航空部隊の基地の中に、彼がいるだろう事務室の前に葉月はついに立っていた。
お迎えに来てくれた金髪の彼が向かうドア。
その向こうに、『彼』がいる。
……あの人の後輩。
あの人が、葉月に少しだけ教えてくれたことがある男性がいる。
『フランスにいた時な。面白い後輩が一人いたなあ……。懐かしいな。今、どうしていることか……』
康夫が勧めてくれたその後輩さんの『履歴書』を眺めている内に、遠野が生前、そう言っていたことがあるのを思い出した。
きっと……。その人のことだわ!
そう思った葉月は、そこで決断をする。
──マルセイユへ行こう。
ただ、それだけのことで。
上の命令で出向いてきたというよりかは、葉月の今回の目的は、気持ちは、ただそこ一点に向かっている。
ついに、金髪の彼がそのドアをノックした。
そこに、そこに、『その人』がいる! 『あの人』を知っている人がいる!
そう思うと、なんだか妙に救われた気持ちになる。
だから? 来てしまったのか?
ここに来て、初めて葉月は自分の気持ちを知らされた気になる。
葉月の心が今から会おうとしている男性に問うている。
まだ、顔も知らないその人に──。
『貴方は、あの人を良く知っていますか? 教えてください。私、もう一度、あの人に会いたいのです』
貴方の先輩だった『あの人』のことを、教えてください。
葉月の心は、今、ただひたすら『あの人』を探していた。
「どうかされましたか?」
ひどく俯いて思い耽っていたせいか、金髪の彼が事務室に一歩入って葉月へと振り返る。
「ど、どうもしないわ」
いつもの顔を整える。
「フジナミ中佐、只今戻りました。ミゾノ中佐をお連れ致しました」
『メルシー。入ってくれ』
良く知っている声がドアの向こうから聞こえてきた。
『藤波康夫』の声。葉月の同期生。そしてパイロットとしてのライバル。
フランスに入隊してから八年もこの基地に所属している彼のフランス語は、とても綺麗だった。
Update/2007.8.18改稿