やっと彼と二人きり、ひとつになれたと思ったのに……。
夫となった彼は、職務へと葉月を置いて小笠原へと帰ってしまった。
分かっている。もうだいぶ、時間を空けてしまった。彼は自分のこと以上に、大佐嬢である葉月の分の穴埋めをしようと早々の職務復帰を決意したのだって……。
でも、と。葉月は淡いグレー色のニットの胸元をそっと片手で包み込む。
もう私の身体には、あんなに熱く優しく愛してくれる夫の感触がこんなにも鮮やかに刻まれ、そして疼く……胸先とその周りについた口づけの跡。それを思うと、どうしようもなく甘く切ない気持ちに溶けてしまいそうになる。恋しくて、これなら『行かないで』と甘えれば良かったとさえ思ってしまう寂しさが込み上げる。
彼が達也と出ていってしまった後、葉月はそんな気持ちに包まれてしまい、車椅子を動かしてくれる純一に『部屋に戻りたい』と頼み、一人きりにしてもらった。
……年甲斐もなく、泣いてしまった。
一人きり。愛しているあの人に置いて行かれたかのように泣いてしまった。
夫妻になったばかりなのに離れなくてはならなかったことも、彼が一人で職務復帰を決意したことだってちゃんと納得しているし、そうした方が良いのだとちゃんと分かっている。
それでも、泣いてしまった。
やっぱり、寂しかった……。
ひとしきり泣き、落ち着くと、空かしてある窓から柔らかな風が吹き込んでいるのに気がつき、涙を拭いた。
外の景色は徐々に春めいてきている。
膝の上に置いたままの、白いメッセージボックスに、桜のカード。
泉美が贈ってくれたカードをもう一度手にとって、葉月はやっと微笑みを浮かべる。
『寂しい』と、泣けるだなんて……。本当は幸せなのかもしれない。
だって、側にいて欲しいと心から欲する愛する人がいる証拠。そして幸せだから、急に寂しくなるのだって。
桜が咲いたと忘れるところだったと、葉月は心を明るくすることが出来た。
「葉月、入るぞ」
「純兄様……」
もう、涙の跡は消えたかと思いながら、葉月は何度も目元をこすってから純一を見た。
入ってきた純一は、菓子とティーカップを乗せたトレイを手にしていた。
「気分転換だ。ジュールが菓子を買ってきたから食べてみないか」
「うん。そうね」
茶菓子なら、先ほど達也と話しながら存分に食べてしまったのだけれど。
近頃、ジュールは葉月のために菓子を良く見繕ってくれるし、そして義兄は新婚の夫と早速離れてしまった義妹を思って『気分転換』をしようと言ってくれているのだとも分かった。
「まあ、美味しそう。ジュールはこういうの見つけるのが上手ね」
「そうなんだよな。菓子のことは良く知っている。なのにアイツは甘い物はそれほど食べやしないんだ」
「不思議ね。でも、きっと彼にとっては、お客様をくつろがせる為の大事なお勉強なのだわ。見習わなくちゃ」
「俺もだ。いつもアイツに任せきりだったからな」
「本当。お兄ちゃま、お茶はジュールとエドに負けているわよ」
「それを言うな。密かに認めているのだからな」
「お兄ちゃまが素直に認めるだなんてらしくないわ」
二人一緒に笑い出す。その中、 葉月の目の前に簡易テーブルを広げ、純一は持っていたトレイをそこに置いた。そして昨夜まで隼人が座っていたデスクの椅子を軽々と手にして、車椅子にいる葉月の向かいに、純一は腰をかける。
昼下がりの柔らかい早春の風が吹き込む中……義兄と向かい合う。
義兄は目の前で、その風のように柔らかに微笑んでいたので、葉月は目をこすってしまいたくなった。
「どうした……?」
「ううん……」
彼の大きなごつごつとしている手が、今日は流れるような仕草でティーポットを持ち、優雅にお茶を注ぐその顔も。いつもいつも何かに囚われ、そして哀しみを人一倍背負い、笑うことなど俺には許されないのだという戒めを自ら課していた義兄とは全く違う顔だった。
葉月はそんな義兄を静かに見つめている。それだけで、涙が出てきそうだ。
彼のその顔を見たいからこそ……。ただ、傍にいたかったあの頃の切なさを思い出してしまう。
だけれど、と、葉月はそっと目をつむる。
もう一度、目を開けると、そこには変わらずに柔らかに微笑んでいる義兄がいる。
そうだ。私の愛したかった義兄は今は、彼自身で穏やかに微笑んでいる。
そして、私も。貴方のいないところで、微笑むことが出来るようになった。
私達、それまで二人きりだったよね。ううん、二人しかいないと思いこんでいたのかも知れない。もっと言うと……葉月がそう思いこんでいる気持ちに純一も寄り添ってくれていた。
今だって、ほら。私達の間に、見つめ合う間にも……。
そんな事を思っている葉月を、純一がちらりと見た。
大きな黒い瞳が葉月に目を細める。近頃はいつも綺麗に髭も剃り、さっぱりとした素肌の顔で若々しい表情を見せてくれ、とても穏やかな口元……。
「幸せそうだな」
「うん」
「良かった」
「お兄ちゃまも……」
「安心したからさ」
と──。葉月が見たことがない輝く笑顔を見せてくれた。
それだけで、泣きそうになってしまった。
「い、頂きます」
その声が涙で震えていないと良いと思いながらも、僅かに震えてしまっていた。
そして洒落た焼き菓子へと延ばした指先さえも──僅かに、震え。なんとかつまんだ菓子を口に運ぶその時も、目の前の義兄は穏やかに微笑んでいる。
「あの、シンちゃんはどうしたの?」
あまりにも純一がそうして葉月を見ているので、ちょっとその暖かすぎる目線に耐えられなくなり、気になっていることを咄嗟に聞いていた。
すると、純一は途端に深い溜息をついて、渋い顔に。
「まったく。普段、世話になっている海野が来るのだから、出かけるなと言ったのに。わざと俺に反抗するように出かけてしまった」
「それで見あたらないの。達也も会えなくてがっかりしていたわ」
「言うのではなかったな。俺が何かを言うと、近頃はかえって逆のことをしようとする」
そうなのだ。葉月から見ても、近頃の真一は父親の純一と向かい合えば反抗ばかりしている。
自分の心の整理に精一杯で、ちっとも構ってあげられなかったことも、やや落ち着いてきた今になって後悔していた。と、言っても真一のこと。『葉月ちゃんは心配しなくて大丈夫』だなんて、笑顔をみせてくれるに違いない。葉月には、今までと変わらない笑顔を心がけてくれているようだ。
それの健気さが、余計に葉月の心を痛めてしまう近頃。
だからと言って、この父子の間に入って『お兄ちゃま、ああしたら』とか『シンちゃん、こうしたら良いと思うわ』だなんて出しゃばろうとも思っていなかった。
せっかく目の前に、ちゃんと父子として向かい合っているのだから。出来れば、二人で気持ちを摺り合わせるように、喧嘩をしてでも向かい合って欲しいと思っているのだ。
しかし──と、葉月はティーカップを傾けながら、純一を見た。
「ねえ、純兄様。私、そろそろお買い物、行きたいわ。連れて行って」
「買い物か? 欲しいものがあるなら俺達が……」
「嫌。私、外に出たいの。お兄ちゃまが傍にいれば安心だもの。警護も付けてくれるのでしょう?」
「まあ、それはできるが……」
「隼人さんが帰ってくるまでに欲しいものがいっぱいあるの。お洋服も自分で選びたいし、それにお兄ちゃまとランチもしたい!」
昔、そうだったように、大きなお兄ちゃまに無邪気におねだりをしてみる。
純一は渋い顔をしていたが、やがて『仕方がないな』と呆れた溜息をこぼしながら了解してくれた。
葉月が『やった』と喜ぶと、やっと義兄の顔が先ほどの穏やかな微笑みを取り戻してくれた。
・・・◇・◇・◇・・・
外はすっかり夜のとばりに包まれ、今日も星空。
窓の隅っこに、小さな三日月がちょこんと顔を出していた。
『小笠原に無事に着いた。奥さんは、どうしているかな?』
夕食を終えた後、携帯電話を見ると隼人が電話をかけてくれたという着信履歴と、部屋に不在だったためかそんなメールが入っていた。
掛け直すと、丁度、彼も夕食を取っているところ。官舎の海野の家に招待されて、達也の母と泉美の手料理をご馳走になっているところで楽しくやっているようだ。隼人が『また後で掛け直す』と言うので、直ぐに電話は切った。
ベッドに入れてもらい、葉月は部屋で一人、今度は達也が渡してくれたメッセージカードをじっくりと眺めていた。
沢山のカード、そしてなんだか恋しい仲間達の懐かしい声に、葉月は涙をこぼしたり、相変わらずの茶化したメッセージ等にも笑ったりしているところ。
日本語でも英語でも、本当に一言だけしか書かれていないメッセージもあるけれど、その人の名を知り、そしてその人特有の文字を目にするだけで、再会した気持ちになり、胸が熱くなった。
第一中隊メンテナンスの源中佐にブロイ中佐。第二中隊のスチュワートと山下キャプテン、そして……。
(ロニーも!)
部署ごとに綺麗に並べられているのは、これはきっと達也がしてくれたのだろう。達也は普段は男性特有のおおざっぱさはあるけれど、仕事になると本当に手抜かりない整理整頓を発揮する。彼の自宅の部屋の散らかりようと、彼の大佐室デスクの整然さの両方を目にした者は、これが同一人物かと驚くに違いないと言いたいぐらいの落差なのだ。
カードは一言だけのものもあれば、カード一枚ぎっしり書かれているものもあるし、中には表も裏も埋め尽くしてあるものもあった。
葉月が手にした『ロベルト=ハリス少佐』のカードがまさにそれだった。
葉月は早速、それをじっくりと眺める。
いつしか目にしたことがある、彼の綺麗な筆記体の英語がびっしりと綴られていた。
『葉月、君の身に起きたことを海野から聞いて、驚きと悔しさで一杯です。今まで俺は敢えて君が抱えていることには触れようとしなかったわけだけれど。もしかして君がこうなってしまった中には、君が今まで苦しんできた沢山のことが原因なのだろうかと思わずにいられない日々です……』
彼の手紙には、葉月が刃に襲われた背景に、今までの何かが関わっていることを既に見抜いているようなニュアンスが漂っていた。
『やはり、俺はあの時、君から逃げていたのだと今になって痛切に自覚している。もっと君に踏み込むことが出来ていたら……。でも、怖かった。そうすると君を失うような気がして。君にずっと傍にいて欲しかった気持ちは本物だった』
──許してくれ。
そんな言葉。彼が言う言葉ではないのに。
もう隼人が来る頃には、心の整理がついてお互いに決着がつけられた『恋』だと思っていた。
だけれどどうしてだろう。やっぱり葉月の目には熱い涙がこぼれる……。
何故、あの時、流れなかったのだろう? 隼人に、別れたばかりの恋人がいると告げた時だって、淡々としていた自分がいたのに。今になって、今になって。もう思い出と出来た恋にすら、熱く切ない想いが胸から溢れていた。
やっぱり、彼にも恋をしていた。
なのに、それを上手く伝えることもできなくて。
そして、自分も『怖くて』手放してしまったのだと。
「ロニー、許して」
許してなんて言い合っても、分かっている。彼も葉月を許し、そして葉月の方こそ彼から簡単に離れてしまったことを悔やみ、彼よりも自分を責めた時もあった。
だけれど。そんなそっとして傍にいてくれる彼が、そして何も言わなくて良いと傍にいさせてくれる彼の胸の中は心地良かった。だから……。
でも、そんな優しい彼の心の中に、熱く望んでいる願いを垣間見た時に、それはきっと私では無理だと思ったのだ。あの時は。
するとそんな彼の文章を、再度、目で追っていると驚くことが書かれていたのだ。
『そうだ。実は俺、年明けに中佐に昇進したんだよ。それから……今年はついに、父親になります』
葉月はそこの部分に、ギョッとして何度も読み返してしまった。
そこには確かに、ロベルトが昇進し、妻の妊娠が最近判ったと記されている。
もう一度、何度も、何度も読み返した。
ロベルトが中佐に昇進することは、葉月が願っていたことだった。
そして、父親になることは……ロベルトの夢だった。
彼が平凡な結婚をし、そして妻と子供と共に家庭を築くこと。そんなことを彼が心に秘めていたから、葉月は自分には無理だと思い逃げてしまったのだから。
だけれど葉月は、別れてからもそんな彼の幸せをずっと願っていた。彼が葉月ではない女性と直ぐに結婚したことだって……。本当はちょっと哀しかったけれど、それでも彼が幸せならばと祝福した。そしてそこで葉月が思いついたのは、そんな家庭を持った彼に実力を発揮できるチャンスへと向かわせ、それが昇進のきっかけになればと言うことだった。
そうして新たに恋人となった隼人と元恋人であるロベルトを向き合わせ、ひとつの新しいメンテナンスチームを立ち上げる仕事で組んでもらうだなんて、彼等にとってはとんでもない計画を持ちかけた。葉月の目的を叶えるなら『新しいも元も恋人も関係ない』と自分でもかなり無理矢理に割り切った思いはあったが、それしかないと思ったのだ。それに、フランスで心を通わせた隼人を信じていた……。それでも、意図を知らない隼人は、葉月のこの計画には戸惑っていたし、事情を知っているデイブには『無茶するな』とそれとなく反対されたものだ。
だけれど、葉月の中にある秘めた気持ちを素直に話した時、隼人は葉月の気持ちを汲んでくれて、元恋人であるロベルトとの仕事を彼から勧めるようにして取り組んでくれた。
そんな葉月と隼人が一緒に願っていたのが、彼の昇進だった。
私達の想いが、ひとつ叶った!
葉月はそう思い、カードに向かって『おめでとう!』と呟きながら抱きしめていた。
──長かった気がする。
でも、報われた気がする。
自分勝手だったと思う恋。だけれどそれは誰にも見せられなかったけれど、葉月にとってはあの短い恋だって『恋』だった。
彼のこと、好きだった。彼の部屋に行くことを心待ちにしている自分がいた。静かで穏和で優しい彼の胸に包まれるだけの二人きりの時間に、密かに甘さを感じていたこと……。上手く彼に伝えられなかったあの頃だけれど。
でも、これで笑ってこの恋ともさよならが出来ると思えた。
好きだった人が幸せになると知った時のこの気持ちも。
あの頃、恋をしていた密やかなときめきを感じていた幸せと同じくらいに、幸せだった!
「今まで私はいったい、何をしていたのかしら」
こぼれてくる涙は、後悔ではなくどこか清々しいほどに心を綺麗にしてくれたかのような涙。
いつも自分のことでせいいっぱいで。こんなふうに、人を思える気持ちで幸せになれるだなんて……。
知らなかった。異性との恋や愛以外にも、こんなふうになれる気持ちがあるだなんて。
そして、それはきっと。
この彼と恋をすることが出来た結果なのかも知れない。
彼のお陰で得られたことなのかも知れない。
愛してくれて、有り難うと言いたい。
葉月は繊細な文字が綴られているそのカードをそっと胸に抱きしめた。
彼は葉月から得てくれたものがあるのならば……。
どのようなものなのだろう?
他にもデイブの豪快な『喝』が綴られているカードもあった。
細川からも『結婚 おめでとう』と言うメッセージも。そして『早く、甲板に戻ってこい』とも添えられていた。
もう一つ、驚いたことが──。ミラー中佐だった。
『君はいったい、なにをしているんだ。君がサワムラと二人きりの旅に出たと聞いて幸運を祈りながら、俺も負けるものかとシアトルに出向き、帰ってみれば君がこんなことになっていて……。俺がどれだけ死にそうな思いをしたか分かるか? まあ、これであいこかな。俺が不明機に囲まれた時、君は空母の管制室できっとこんな思いをしてくれたんだと痛感していた。君の帰りが待ち遠しい。──妻と息子が君に会いたいと待っている』
──アメリカキャンプの一軒家に移り、家族三人で暮らし始めた。
それにも葉月は驚いて、何度も読み返したのだ。
ミラーもついに! 彼が一番欲していた家族を取り戻したのだって。
最後に葉月は、泉美の桜のカードを手にしてまだ枯れていない花びらを撫でた。
ビロードのようにしっとりとしているその花びらは、やがて色褪せ瑞々しさを失っていくだろう。葉月はそれでも思い出に残しておきたいと、押し花のようにしようと分厚い書籍に挟んでしまっておくことにする。
「泉美さん、いっぱい、桜、咲いたみたいね。私も頑張るわ」
小笠原にいっぱい桜が咲いている。
その花をここまで届けてくれた淡い春の色が、葉月を柔らかに包み込んでいた。
・・・◇・◇・◇・・・
隼人のカードにもロベルトの話やミラーの話は届いているのだろうか?
それとももう、海野家の食卓で話題になっただろうか?
葉月は、そんな暖かくなった心や嬉しさを夫に伝えたくて、携帯電話を手に取り、メールを打ち込み始める。
すると、長々と隼人に伝えたいことを打ち込んでいると、ドアからノックの音──。そこから、ダウンジャケットを着込んでいる真一が姿を現したのだ。何処かに出かけ、外がすっかり暗くなってしまた今、帰ってきたところのようだ。
今夜は、夕食の食卓にも真一はいなかった。
フロリダの両親は『ジュールの部員が警護についているから大丈夫だろう』なんて言いつつも、ちょっと心配そうな顔をしていたけれど、純一ほど苛立ってはいないようだった。
義兄は食事の間中、むすっとしたままずっと無言だった。
父の亮介が、いつもの如く、馬鹿馬鹿しい話を食卓で繰り広げたが駄目だった。
「シンちゃん、どこにいっていたの?」
「ちょっとそこまでだよ」
「それにしても」
『帰りが遅すぎる』──なんて、説教じみたことを呟きそうになって葉月は口をつぐむ。
だが、真一は葉月のそんな顔を見て、ちょっと申し訳なさそうに口元をまげると、そのままドアを閉めて葉月の側までやってきた。
「これ、葉月ちゃんにお土産だよ」
今、葉月がカードを広げていたベッドテーブルに、真一が書店の紙袋をどさっと置いた。
「なあに? 書店に行っていたの?」
「うん。そこだけじゃないけれどね。開けてみてよ」
「なにかしら?」
甥がせっかく買ってきてくれたお土産のようだから、葉月はわくわくしている微笑みを見せながら、紙袋を開けた。
中から写真集のような本と、カラフルな本が出てきた。
「最近、葉月ちゃん、ここの日本的な庭木をみて、これはなんだろう、なんだろうって言っているじゃん。だから、日本庭園で使われる庭木の写真集。草木の名前とか特徴とかも書いてあるから、散歩の時に見比べたら面白いと思うよ」
その写真集のような本をめくると、本当に図鑑のように椿や木蓮、そして金木犀などの写真や解説が掲載されていた。
葉月はそれを選んでくれた甥に驚いてしまい、ベッドから見上げた。
「有り難う。これは暫く楽しめそうね」
「だろう。俺だって散歩のお供できるよ。言ってよね」
親父ばっかりじゃなく、俺も役に立てるよと言いたそうな顔に、葉月はちょっと笑いたくなってきてしまった。
もう一冊はなんだろう? と、手に取るってみる。色ばかりが載っているが、今度は色図鑑なのだろうか?
「でね、これは色の本」
首を傾げたまま、両手の中でそれをただめくる葉月に、真一が一緒にページをめくって説明をしてくれる。
「ジャンヌ先生に面白くて楽しめる本がないか聞いたらね、色で心を診ることが出来る本があると教えてくれたから探したんだ」
「色診断ってこと?」
「そんなところかな? 選んだ色でその時の自分の気持ちとか心理状態が分かるんだって。あまり専門的ではなく、真剣に考え込まない遊び程度のものを選んだつもり。俺もやってみたけれど、面白かったよ」
「そう。なんだか面白そうね」
「ちょっと選んでみてよ」
真一に言われ、葉月は沢山の色が並んでいるカラーチャートから、幾つかの色を指さしてみた。
気のせいかな。桜が届いたからそんな色ばかり選んでしまう。
すると真一がにっこりと笑っていた。
「幸せなんだね、葉月ちゃん。安心した!」
久しぶりに……。甥っ子が昔から見せてくれていた可愛らしい無邪気な笑顔を見せてくれて、葉月はそれに目を奪われてしまった。
それで逆に『シンちゃんは何色を選んだの?』と聞きたいところだが……。ちょっと怖くて聞けそうにない気分だった。
そして真一も、昔なら『俺はこれ!』と無邪気に突っ込んできそうなのに、今日は葉月の笑顔を見て、傍らで微笑んでいるだけだった。
そんな真一を見上げると、彼はもう大人の顔をしている事に気がつく。
背丈がずうっと上へと越されてしまっても、葉月から見れば、真一の顔はいつだって愛らしい甥っ子のままだったけれど、今のその微笑みには何処か陰りが含まれ、ただ楽しくて笑っていただけの男の子ではなくなっていると思ったのだ。
「シンちゃん。あのね……」
「どうしたの? 葉月ちゃん、やっぱり隼人兄ちゃんがいなくなって寂しいの?」
そんな尋ね方だってちっとも変わっていないのに。
葉月が『違うわ』と首を振ると、真一が長い上半身をすっと曲げて葉月の顔を覗き込んできた。
その心配そうな男らしい顔つきが、まさに父親の純一にも似ていて、そして亡くなったもう一人の義兄、真にも似ていて、葉月はドキリとしてしまった。
だが、葉月は躊躇っていたことを、もう迷わずに、真一に投げかけてみようと決意をし、そんな真一の目をじっと見つめる。
真一はそんな叔母の目線にも怖じ気づくことなく、間近でもしっかりと受け止めていた。
もしかすると、真一の方は既に予感しているのか……。
「シンちゃん。実はね、私……。当時の記憶がなかったらしくてね。つい最近、思い出してしまったの」
「……それ、本当!? 葉月ちゃん、そんなことになっていたの?」
葉月は静かに頷く。
真一はとても驚いたのか、葉月から少し後ずさっていた。だが、直ぐに側に戻ってくる。それも今度は、葉月の目線に合わせようと床に膝をつけた姿勢で葉月の側に寄ってきた。
「俺が聞いても良いの?」
「……私は、聞いて欲しいの。そのことでね。今、困っているの」
「どんなふうに困っているの!?」
聞かせてもらった話が『困っている話』なら、俺は絶対に葉月ちゃんを助けてあげるよと言わんばかりの勢いに、葉月はなんだか叔母として胸が熱くなってしまう。
直ぐ側にある真一の真剣な顔。彼はそれこそ『今こそ、男らしく葉月ちゃんを助けるんだ』と思ってくれているのだろうが、その心配してくれる顔は昔から慕ってくれている小さな甥っ子の顔のままだった。
「あのね……。私を刺した犯人は、昔、私の肩を傷つけた男と一緒だったの」
「……! や、やっぱり!」
真一は、自分なりに予想できていたようだ。
そうだろう。家族が三代揃って一軒家で物々しい警護の中で暮らしていれば、子供の立場である真一だって気がつかないはずがない。
それに、いずれ彼は知りたがるだろう。このまま隠し通すとしても、それは『父親がいる』事を隠し通そうとしていたあの時と同じだ。隠しても、きっと真一は自分の力で探そうとするだろう。そして今、彼はそれをどうしてよいか分からないジレンマの中で苛立ち、そして目の前にいるのに『子供』の一言で蚊帳の外に置いて、家族の一員として一緒に戦わせてくれない父親に、もっと苛立っているのだ。
「それで、その男の事。親父に言ったんだろう? それで親父はその男をちっとも見つけられないってことなの?」
そこで葉月はまた躊躇うのだが、でも……と、真一を真っ直ぐに見据えた。
叔母のその目が、何かを強く訴える眼だと思ったのか、真一が息を止めるように黙り込み、葉月に囚われたように瞬きもしないまま、大きな茶色の目で葉月を見つめ返していた。
その目をきちんと見据え、葉月は告げる。
「言っていないわ」
「どうして!?」
「……すぐに言えない『男』だった」
「!」
真一が黙り込む。彼は直ぐに直感したのだろう。
それが父親と『縁のある、叔母が言えない男だった』のだと。
だから、葉月はそのまま言う。
「兄様が昔、軍でお世話になっていたという『先輩』だったわ」
間近にある真一の目が見開いたまま動かなくなる。
彼が葉月の膝の上で握りしめていた拳からも力が抜け、五本の指がぱらりと開いていったほどに脱力したようだ。
そして、葉月が恐れる間もなく、真一が呆然としたまま力無く言った一言。
「まさか……。その男が母さんを殺したとか、言わないよね。ね? 葉月ちゃん」
「シンちゃん……!」
葉月は驚いた!
そうだ、この子がそう思うことだってあり得るはずだった。
なのに、葉月は『そんなはずはない』という……『そうかもしれない』と信じたくないから、自分で安心したい『そんなはずはない』と思い続けてきたのだが、やっぱりそれは『間違っていた!!』と愕然とした!
「そうなんだ! やっぱり! 変だと思った!! 母さんが俺を置いて自殺だなんて、酷いと何度も思ったけれど、そうだったんだ!!」
「待って、シンちゃん!!」
真一はショックのあまりか、半ば怒りに震えているような顔で立ち上がると、それを何処かにぶつけに行きそうな勢いで走り出そうとしていた!
葉月は、胸の痛みも厭わず、懸命に腕を伸ばしてなんとか真一の片腕を掴むことが出来た。だが、甥っ子の駆けていく勢いと力はもう『大人の男の勢い』。葉月はそのままベッドからずり落ちそうになった。だが、それでも甥っ子の腕を放さなかった!
「は、葉月ちゃん……!」
思うように駆けていけない、腕にある重みに気がついた真一が振り返る。
その時、葉月は身体が半分、ベッドから落ちようとしていたが、それでも甥っ子の腕を掴んだまま、甥っ子の顔を見上げて叫んだ。
「シンちゃん、お願い! 私と一緒に兄様を助けて!」
「た、助けるって……!?」
「十八年前、兄様はその男を追うために全てを捨て、貴方を置いてまで、私を殺そうとした男を追いかけるために鎌倉を出ていったの! 全部、全部、俺のせいだと、何もかもを背負って出ていったの! そして二度と、その男が私達に近づかないようにするために。私が記憶をなくして思い出せなくなった正体も判らない犯人を追って……!」
葉月の叫びに、真一は驚いて固まっていた。
だが、葉月がもう落ちると言う時になって、ハッと我に返ったように駆けてきて、床に落ちる危機一髪で葉月を両腕で抱き留めてくれた。
いつの間にか大人の身体になってしまっている甥っ子の広い腕の中に落ちても、葉月は真一の腕を掴んだまま、顔を上げる。すぐそこにある甥っ子の顔を見つけ、今度、葉月は彼の両頬をそっと包み込みながらも、目にぎゅっと力を込めて彼に言う。
「今までのこと、許してだなんて言わない。だけれど、お願い。義兄様は今でもその男のことを『良い先輩だった』と信じて疑わないわ」
真一の息遣いがまた止まり、瞳が動かなくなる。
既に目の前の若叔母の顔ではなく、遠くへと意識が飛んだかのような顔をしていた。
そこには『親父は職場の先輩に騙され、母はその父が信じて疑わなかった男に殺された』と、すぐさま察知したのだろう。
それでも葉月は続ける。
「それを、兄様に言わなくては、なにも始まらない。だから、私は言うわ」
「だけれど、それを親父が知ったら……」
「そうよ。兄様は『俺がちゃんと見抜けなかったせいだ』とショックを受けて、また一人で背負い込んで何処かに行ってしまうかも知れない。それこそ、今度こそ、一人で決着をつけるのだと」
真一が首を振る。『親父にそんなこと、させやしない』。そう言いたそうな泣き顔に崩れていく……。
だから、葉月も叫んだ。
「私も嫌! だからシンちゃん、お願い。私達、十八年前は兄様を引き留めることも出来ない赤ん坊と子供だったし、そんな力もなかったわ。でも! 今は違う! 私達『オチビ』でも、兄様を引き留めることだって出来るし、兄様を助ける力だってあるわ。でも、それには息子であるシンちゃんの力が絶対に必要なの!」
──だから、お願い! 私と一緒に『真実』と向き合う勇気を!
葉月の叫び。真一の頬には既に大きな涙が一粒だけ、静かに流れていた。
そして彼は……。葉月が見たことがない……、いや、今まで見てきたことがある『谷村の男』のような、あの勇敢だった『姉』のような歴とした眼差しで葉月を見ていた。
「分かった。もう、二度と、親父と分かつことがないように……」
だが真一はそれだけの新たなる決意を決めた後は、葉月が見守り続けてきた男の子の顔で涙を蕩々と流し始めていた。
そこにはどんなことも言葉には出来ない、まだ心が小さいだろう彼の中から溢れてくるだけの哀しい気持ちが表れていた。
葉月を膝の上、腕の中、男らしく抱き留めてくれていても……。泣いている真一は、まだ誰かの胸を必要としたがっている小さな男の子だった。
だから、葉月はそっと抱きしめる。
自分と同じ瞳の色と髪の色をしている甥っ子を、まだ痛みが残るその胸に。両手一杯に抱きしめてあげた。