-- A to Z;ero -- * 桜ロコモーション *

TOP | BACK | NEXT

12.桜便り

 庭先に停めた車から、達也と一緒に降りる。
 朝晩は冷え込むが、日中になると、もう春の陽気を思わせる程に、空気は暖かく緩んできていた。

「へえ。病院内の一軒家なんてどんなかと思ったけれど、結構、趣があるじゃん。良さそうな庭だ」
「だろう。葉月は毎日、庭に出たがるほど、気に入っているよ」

 日本庭園的な雰囲気を達也が感嘆しながらひと眺め。
 達也は『これなら葉月の心もだいぶなごめていいだろう』と、ほっと安心した顔。
 そのような顔を見てしまうと、やっぱり彼も元恋人であった葉月のことは一時も忘れずに、案じてくれているのだなと隼人は思う。

 だけれど、達也にしても純一にしても。隼人はそんな彼等の心に残したままの気持ちについては何とも思わない。
 かえって逆に『有り難い』と思ってしまう。それはきっと妻である葉月も同じように思っているだろう。
 葉月はこのようにいつまでも案じてくれることを有り難く思いつつも、どこかで気が引けている部分があるかもしれないが、隼人としては『これが妻を愛した男達が得た気持ち』だと思うのだ。未練じゃない。愛した後に残った形だと思っている。

「なんでだー。緊張してきた、ドキドキしてきたっ」

 庭へ一歩、入り込んだ達也が急に拳を握って妙に気が高ぶっている様子。
 きっと、葉月との再会を待ち望んでいた分、そして心配していた分、達也も色々思うところがあるのだろう。
 そして、それは同期生が来るのを待ち望んでいた葉月も……。

 隼人は出かける前の葉月を思い出し、一人で小さく吹き出すように笑っていた。

「何が可笑しいんだよ。兄さんは」
「いや。葉月がさ、達也が来るって言うんで、『この服はおかしくないか』とか『髪は綺麗になっているか』とか、ちょっと化粧したり、落ち着かなくて自分で車椅子に乗って部屋を出てきてしまったり。まったく、達也も同じで、やっぱり二人は似ている波長なんだなあと、久しぶりに見た気がして」

 そう言うと、達也が少し頬を染めて驚いた顔。
 彼等は元恋人という関係を含めた『同期生で戦友』だ。既に男女の関係は越えてしまった仲ではあるだろうけれど、でも葉月のそんな女心を垣間見せる男性であることも変わらないようだ。
 葉月は気がついているのだろうか? 自分がそんな女心をふと『素直』に出してしまっていることを──。

「おいおい。笑い事か? 旦那さん。もし俺が葉月の旦那だったら、元恋人が久しぶりに訪ねてくるからとお洒落をして落ち着かない女房を見たら、むっちゃ腹が立つけどな」
「立っているぜ? もう可愛らしい顔で待ち望んでいるのがねえー」
「うっそだあ。顔、楽しそうだもんな! そう言って俺を逆にからかっているだろう!?」

 『これだから、兄さんのその余裕が気に入らない』と達也はふてくされたが、隼人はやっぱり笑っていた。
 彼が言うように夫としてふさわしくない反応なのかもしれないのだが、今の隼人はそんな妻を見守っているのが楽しいのだ。

 そして庭の小道を歩いているうちに、隼人のその言葉は嘘ではなかったことが証明される。

「ほら、嘘じゃないだろう。見てくれ、葉月の顔を」
「──!」

 小道の先、椿の植え込みの向こうに見える玄関に、エドに付き添われている車椅子の女性がこちらを見ていた。

「達也!」

 上品なワンピースを着ている葉月の顔がぱあっと明るく輝いた。
 頬をうっすらと桜色に染め、艶のある肌は輝き、そして瞳は煌めいている。そして彼女のさくらんぼうの唇が軽やかに彼の名を呼んだのだ。

「葉月──」

 隼人の横で制服姿の達也が立ち止まり、動かなくなってしまった。
 達也は、手を振る葉月を凝視したまま、何かに囚われたように固まっていた。
 隼人はそんな達也を、真顔で見つめる。きっと達也には信じられなだろう。二ヶ月前、この彼は葉月に行ってこいと後押しをして愛の旅へと送り出したものの、生死を彷徨う不幸に遭遇してしまった。だが、今、達也が驚いて立ち止まっているのは、葉月の顔がそんな不幸に鉢合い負傷をした人間の顔には見えなかったのだろう。
 それだけ葉月の顔は輝いて、達也を迎え入れようとしているのだ。

 隼人も目を細める。
 こんどこそ僅かな嫉妬が湧いたかも知れないほどに、葉月は同期生の彼にとても幸せそうで綺麗な笑顔を見せているのだから。

「行ってやってくれ」

 それでも隼人は達也の背をポンと押した。
 達也はまだ茫然としていたが、次には肩越しにこっくりと頷き、瞬く間に葉月に駆け寄っていった。

「葉月──!」

 駆け寄る達也を見て、葉月も嬉しそうに──。なんとエドの手助けで車椅子から立ち上がった。
 それにも達也は驚いて一瞬だけ立ち止まったが、よろめきながらも一歩、達也に踏みよろうとした葉月に驚いて、再び駆け出す。
 一歩踏み出した葉月がよろめき、倒れそうになったその時、駆けつけた達也がその腕の中に彼女を受け止めた。

「達也……!」
「お前、無茶するなよ!」

 端から見ると、長い間逢うことが出来なかった恋人のようだ。
 だけれど、二人はとても自然に堅く抱き合うと、お互いに同時に泣き始めていた。
 言葉もなく、昔馴染みの男の胸で急に堪えきれなかった涙を流す妻と、彼女を長年愛し見守ってきた男の今も続く柔らかい想いが彼の頬にも伝っていた。
 それを良く知っている隼人だからこそ……。一歩離れた遠くから、二人をそっと見守ることが出来るのだ。

「達也、ごめんなさい。心配かけて……」
「馬鹿野郎! お前が幸せになると思って送り出したのに……! 何度、俺の寿命を縮めれば気が済むんだよ! でも、良かった、良かった!!」

 今度は達也が感極まったように、葉月を固く抱きしめていた。

「い、いたい……」
「わっと。わりぃ、つい……」

 胸の傷のことを忘れたように抱きしめた達也は、痛がる葉月を見て我に返ったようだったが、葉月は嬉しそうに笑っていた。
 そんな葉月が急に、しっとりとした眼差しで、その昔、心を存分に通わせていた彼を見上げる。

「達也。おめでとう。結婚、おめでとう」
「……! お、お前こそ……けっこ・ん」
「もうすぐパパだね。達也がパパだなんて、信じられない。だけれど、私、見たいな。達也が素敵なパパになるのを側で見ていたい。私達、ずっと一緒にいけるよね? 私、死にたくなかった。隼人さんとも達也とも、別れたくなかったから。──生きたいと思ったから」
「お前……」

 達也が今度は柔らかに、だけれど腕いっぱいに葉月を抱きしめる。
 葉月もそっと、達也の背を包み込んでいた。

「ずうっとごめんね。私、ちゃんと生きていく」
「ああ……」
「あの頃だって、達也が一生懸命、私に言い続けてくれていたこと、ちゃんと覚えているわよ。ごめんね。『有り難う』をどう言えば良いか、知らなかったから」
「い、いいんだ」

 達也はもうすっかり泣きじゃくっていた。
 隼人も思う。
 もしかすると今日、達也という男の今までの愛が報われたんじゃないかと。
 彼の望みは、隼人と一緒で、愛されることよりもまず、彼女が生きてくれることだったのではないかと思うのだ。

 凍る横顔で、血の通わない心で、過酷な空へと鋭い翼で飛んでいく彼女を、遠くに行ってしまうのではないかと、何度、不安になり空へ前へと見送ったことか。彼女は帰ってこないかもしれない。それでも彼女が希望を捨てずに、生きていけますように……。何度も願ったし、彼も願っていたはず。

 きっとあの頃の達也の必死な思いが、ちゃんと通じていたことが、この日、判ったはずだ。どんなに遅すぎた『有り難う』でも、達也にとってはそれに気づいてくれただけでも充分の愛だったはずだ。

 何故か、隼人の目頭も熱くなってきてしまった。
 やがて二人は固く結び合っていた再会の腕をほどいて、笑顔で見つめ合っていた。
 葉月の頬に流れる涙を、達也が指先で拭っている。

「葉月も、結婚おめでとう。お前が奥さんだなんて信じられないな」
「言うと思った!」

 葉月は笑い出していたが、達也はとても神妙な面もちで葉月を見つめたまま。
 その達也のしんみりとした眼差しに気がついた葉月も、ややふざけていた笑い声を収め、首を傾げている。

「どうしたの?」
「訂正──。奥さんになったんだって信じられる」
「え?」
「だって。お前、今までの中で一番、いい笑顔を俺に見せてくれて、それで、とても綺麗だ。悔しいくらいに……」
「達也──」
「俺、そんな葉月を待っていた。きっとうんと綺麗だと信じていたけど、思っていたとおりだ!」

『おめでとう』

 達也の口からその一言が何度も何度も繰り返され、また葉月が涙をこぼし始める。

 二人は一緒にはなれなかった運命だったかもしれないけれど、きっと二人は今、お互いが幸せになって、それだけできっとお互いを想う気持ちも報われて清々しいはずだ。

『おめでとう』

 今度は隼人が二人に呟いていた。

 隼人はただ、本当にただ見守り、そして、密かに静かに涙を浮かべる。
 妻のひとつのわだかまりが、ひとつのある愛があの二人だけにしか成し得ない形となって、綺麗に昇華されていったのを見届けた気がした。

 二人はきっとこれからも愛し合っていくだろう。
 その愛し合うがどういうものか、もう隼人は知っている。
 そしてそれは葉月が教えてくれた。

 愛って、きっと色々な形があって、ひとつではなく……。
 そして男女に限った物でなく、男女なんて縛りを越えて、もっと広がっていく物だったのだと。

 妻は知っているだろうか?
 それは彼女が見つけた物で、そうして彼女が愛している人々に彼女自身が見せ始めていることを、知っているだろうか?

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 玄関先の再会が落ち着くと、達也自ら葉月の車椅子を押し、客を待っていたリビングへと向かった。

「やあ、来たね。達也君!」
「いらっしゃい、達也君。待っていたわよ」
「親父さん、おふくろさん……! 久しぶりです」

 今日は亮介も登貴子も、明るい笑顔を揃えていた。
 それにこれが『達也効果』というのだろうか? 彼がリビングに入った途端に、ぱあっと空気が明るくなった気がする。
 この家──。勿論、家族皆がなんとか明るくしようと言う努力はしてはいるが、それでもどうしても時には暗澹たる空気が漂い、一人一人が重そうな物思いにふけっている顔を見てしまうことが多い。そんな中、今日は外からやってきた馴染みの達也が、人一倍天真爛漫な達也が来たせいか、誰もがその明るさを欲していたような歓迎振りだった。
 もしかすると達也も心得てきたのかも知れない。『いつも通りの俺で、騒々しくしてしまおう』と。もしそうなら、隼人はとても感謝したいところだ。

「良かったー。皆、元気そうで。いやー、葉月が立ち上がったりするんで驚いちゃって。相変わらずですねー。親父さんもおふくろさんも、また振り回されていたんじゃないですか?」

 達也の大きくてハキハキとした声がリビングに響き、そして御園の両親が揃って笑い出した。

「そうなのよー! 達也君、もう諦めて放っているけれどね。もう旦那さんになった隼人君にお任せなの」
「そうそう。私達は隠居、隠居。隼人君のお陰で、のんびりしているよ」

 葉月はまた『なによ』とふてくされていたが、楽しそうに笑っている両親を見て、やがて彼女も楽しそうな微笑みを浮かべていた。

「パパ、ママ。私達、これから『お仕事』の大事なお話をするの。邪魔しないでくれる?」
「まあ、この子ったら。ママも達也君が来るの楽しみにしていたのに」
「なにが『お仕事の話』だ。小娘大佐のくせに一丁前に」
「言ったわね、パパ! そのうちにパパをびっくりさせてやるんだから!!」

 まあ、最近の御園三人親子はこんな感じだ。
 これはこれで、なかなか仲が良い証拠だろうと隼人は思うのだが、ちょっと油断すると『隼人君は』『隼人さんは』『どう思う?』なんて間に挟まれかねないので、こうなったら遠くから眺めていることを心がけていた。
 それでもこうして言い合える親子になって良かったのではないかと思う、微笑ましい光景だ。
 達也もそれを目にして、最初は戸惑っていたが、やがて『葉月は一生、親父さんには適わねえよ』と笑い出していた。

 でも達也がこうしてきた本当の目的は、葉月が言うとおりに『大佐室業務』について話し合うためであるのは、葉月の言うとおりだ。
 だから、挨拶だけすると亮介と登貴子はまた後にということで、リビングをすっと出ていった。

「どうぞ。そちらにおかけください」

 ジュールが接待をし、エドがキッチンで給仕を始める中、葉月は車椅子のまま、隼人と達也は応接テーブルを挟む形で座った。
 葉月が上座に、彼女の右側に夫の隼人、左に達也。その向きになり、三人でハッと顔を見合わせた。

「大佐室と一緒ね」
「本当だ。なんだか自然にこう座って、達也と向かい合っていた」
「本当だ。俺もなんだかここがしっくりって感じで」

 三人で再びそれぞれの顔を見て、微笑み合った。
 達也が黒いアタッシュケースをテーブルに置いて、開き始める。
 中にある幾束もの書類を手にして、テーブルに出す。

 そうすると一気に、そこは大佐室の空気に早変わりし、あっと言う間に仕事の話に入り込んでいった。

「だいぶあるぞ、大佐嬢。全部、目を通すのは大変だぞ」
「分かっている」
「だが、お前なら集中すれば二、三日で頭に入るだろう」

 葉月が不在だった間の中隊日誌に、会議のレジュメなど。それがその束のようだった。
 他にも出てくる、出てくる。だが葉月は怖じ気づく顔など一切見せず、それは当然の『束』だといわんばかりに立ち向かう顔をしていた。

「それから、お前がメールで出した指示。本部員でここまで手配したから、目を通しておいてくれ。明日でも明後日でも良い。二、三日中にOKとやり直しを振り分けて、小笠原に送信してくれ」
「有り難う。気になっていったの。『私達の計画』、ここでやめる訳に行かないじゃない」
「勿論だ。マリアからも連絡があった。空母で会ったんだって? マリアはマイクから『御園家の事情』を聞いて危機感を持っていたようだけれど、こんな直ぐに葉月がとんだ被害に遭うだなんてとショックを受けていたぞ」
「……そう」
「何も出来なくて、ごめんと言っていた……」

 達也が元妻の言葉を、また涙ぐんだ声で伝えると、隼人も葉月も揃ってしんみりと俯いてしまった。
 だが、葉月がすぐに顔を上げて、あの大佐嬢の顔で達也に向かっていた。

「達也、マリアさんに『ごめんね』なんて私に言っている暇はないわよと伝えて」
「え? なんだよ、急に……」
「そうそう、隼人さんにもそろそろ言っておこうと思ったの」
「なんだよ?」

 そして俺達の大佐嬢が、ついにあの不敵な微笑みを見せた。

「今度、フロリダ工学科と合同の顔合わせをするのでしょう?」
「ああ。少しばかり延期になったけれど」

 そうなのだ。隼人が休職してしまい、それでも構わずに先に進めて欲しいと隼人は連絡したのに、マクティアン大佐がなんとか隼人の復帰をギリギリまで待ってスケジュールを遅らせるという有り難い処置を取って粘って待っていてくれたのだ。
 だからこそ、隼人はそのこともあって、妻を置いての早々の復帰を決意したのだ。
 そして葉月が言い出すことは、どうもそのことであるようだが?

「今度は女性スタッフが幾人かいるわけじゃない?」
「あー。そうだったなあ」
「男性には無駄なことと言われるかも知れないけれど……」

 途端に隼人は渋い顔。
 今、隼人の頭には中学校時代の同窓生である『青柳佳奈』の顔だとか、その彼女が反している『佐々木奈々美』とかいう優秀な工学レディとか、女性特有のどろっとした関係が久しぶりに過ぎっていったのだ。
 葉月はそれを知った頃、なにかをやらかそうという悪戯っぽい顔をしていたが、まさか……。ふと、妻の顔を横目で見ると、やっぱり! あの悪戯の微笑みでにんまりと隼人を見ている! それは妻の顔でなく、大佐嬢ちゃまがお兄ちゃん中佐になにかをやらそうと目論んでいる顔なのだ。
 隼人は逃れようと、達也に『俺がお願いしていたこと〜』と、違う方向へ行こうとしたが、無駄に等しい。葉月がすぐにそれを遮るように、隼人に向かってくる。

「マリアさん、きっと苦労するわね。そうなったら、きっと『頼りがいある先輩』として思っている隼人さんを頼ってくるわ。でなければ、私が思うに彼女の性格だと、日本の女性スタッフの間であれこれあったらきっと爆発するわね」

 元夫の達也も、そして隼人も『マリアが爆発』で、ついにギョッとして葉月を見てしまった。

「私はね。隼人さんに何かをして欲しいのではなくて、そこを『気を付けておいてね』と言いたいだけよ」

 意味ありげにウィンクをした葉月を見て、隼人は黙り込んでしまう。

「ただ、私がお願いしたいのは『マリアさん』であって、彼女にちょっとした『ミーティング』なんか担当して欲しいなと」
「マリア嬢を筆頭にしたミーティング? 何を考えている?」
「女性パイロットの私から、工学レディ達から出てきた今回プロジェクトの『案』って言うのを見せて欲しいなと」
「女性だけの? 言っておくが、物を造り出すのに、男も女もなく、女性が良い仕事をすればそれもちゃんと採用される平等性はあるといいたいけれどね」
「そう? それでも軍隊という男性的な世界の中で、女性が『防衛』に関するとどういう感性を発揮するか──。私は興味があるわ。ただそれだけ。無駄で良いの」
「俺は、男女の違いはないと思う」
「それなら、それで良いわ。防衛に関する思考も男女平等というのが見られたら、私も納得するから」

 隼人はじっと葉月を見た。
 なにかを始めようとしている割には『無駄で良い』とか『それなら隼人さんが言っていることが正しいのだと認めるわ』なんて、妙に諦めの良い部分を強調しているように見える。

「どちらにしても、マリアさんはいずれ首を突っ込んで騒ぎそうだし、彼女が仕切って行かざる得なくなるでしょうね」

 それをしっとりとした声で葉月が呟いたのだが、そのちょっとばかり憂いを秘めているような声の向こうに『実は貴方が睨んでいるとおりに、それは建前』とほのめかしているようにも聞こえた。
 それで隼人も、彼女の思うところを汲んだ。

「分かった。その無駄なミーティング、折を見て私が担当しましょう。勿論、ミーティング自体は『女性のみ』でさせましょう」
「あ、良かったわ。出来れば男性が一人関わっているのも面白いと思ったから」
「だろうね。嫌な役だなあ」

 ああ、また乗せられた……。
 もう可愛い新婚奥さんの顔だけじゃないものが『復活』してしまった。
 隼人は密かに『短い安泰だった』なんて、ジョイのようにちょっと意地悪で不謹慎なことを心で呟いてしまうのだ。
 彼女が生死を彷徨っている時はどんな状態でもと思った物だが、こうして元気になってしまうと、こういう『余計なじゃじゃ馬さん』が俺達を振り回し、なんだかんだと文句を言ったところで、結局は彼女に従ってしまう自分がいる。
 すると達也が膝を叩いて高らかに笑い出した。

「あははーー! 安心した! その様子じゃあ、大佐室復帰もいずれどころか、もう復帰しているようなもんだな! あー、その女性だけの集まり、俺も覗いちゃいたいな〜。兄さんが羨ましいーっ」

 『他人事かよ』と、隼人はふてくされたのだが。

「あら、達也でも良いのよ?」
「げ。願い下げです。マリアが怖いし」
「そら、見ろ。達也だって嫌なんじゃないか」

 そこで急に、三人一緒に笑い出していた。

「あはは。なるほどね、それならマリアも葉月に負けるもんかと元気になりそうだ。言っておくよ」
「ええ。マイクにも合同研修の件、覚悟しておいてと言ってね」
「分かった」

 大佐室と変わらぬじゃじゃ馬振りを見て安心したのか、達也は出てきた珈琲をほっとした表情で味わい始める。
 仕事の話は、まだ葉月にとっても復帰段階なので小一時間で終わった。

「そうだ。皆にいろいろと頼まれてきたんだ」

 達也はまたアタッシュケースから何かを取り出そうとしている。

「もうさ。テッドとか小夜ちゃんとかが、一緒に見舞いに連れて行けとうるさくて。昨日までずうっとさ。やっと諦めてくれたんだぜ」
「……そう。嬉しいわ。でも……」
「分かっているって。テッドは事情を知っているようだから説明しておいた。今、御園家には危険な人物がつきまとっているから、見舞いに来て部外者が巻き込まれることを一番、恐れているから分かってくれとね。後はテッドが事情は打ち明けなくても、小夜ちゃんやテリー、クリストファーを説得しているだろう。コリンズ中佐には、事情は説明しておいた。あの人も、見舞いに行きたくてうずうずしているけれど、我慢しているよ。お前に……『頑張れ』と」

 達也のその話を聞いて、隼人の目の前で葉月がギュッと唇を噛みしめていた。
 彼女の声が聞こえる。──『会いたい。お見舞いにだって来てくれたら、嬉しい。だけれど……』。だけれど、葉月は、そしてこの家は、『因縁の男』によって再び悲劇に向かい合っている最中。ふとしたことで、良かれと思って見舞いに来てくれた友人が、どんな卑劣な手で巻き込まれるとも分からない。だから、達也にはずっと前から『見舞いに来たいという人がいる』と言う報告には『気持ちだけで充分。事情が事情なので今は会うことは出来ない』とお願いしてきた。それは達也も例外でなく、でも、今回は達也自らが危険をを承知で、覚悟の上で出向いてきてくれたのだ。

 そんなふうにして、今は『元の日常』に帰ることの出来ない葉月の目の前に、達也が葉書サイズのファイル箱を置いたのだ。
 何かと首を傾げる葉月に、達也が『まあ、開けて見ろ』と言う。
 葉月がその箱を開けると、中には本当に葉書のような白いカードが沢山収められていた。

「伝言がありすぎて、覚えられないからさあ。大佐嬢へのメッセージがある奴はこれに書け! て、回覧したんだ。テッドも営業先とかフライトチームとか回ってくれたんだぜ。そうしたらその噂が結構、広まっちゃってさ。四中本部まで書きに来る隊員も結構、いたんだぜー。カフェテリアのロブもそうだったし、ああ、そうそう! 永倉のおっさんの側近までやってきて、少将が書きたいと言うからカードを下さいなんて来ちゃってさー!」

 それを聞いた葉月はとても驚いて、自分の両手にずっしりと何十枚も入っている白いカードの束に驚いていた。

「これ、全部……」
「そうだぜ、葉月」
「すごいな、葉月。良かったじゃないか」
「おっと、葉月だけじゃないぜ。兄さんの分もあります」

 隼人も驚くと、達也がニタニタしながら同じような箱を隼人に差し出してくれた。
 隼人の箱にも妻に負けずに、ぎっしりとつまっている。

「ちょっと思い詰めた女性からのも混ざっているから」
「なんだよ、それ!」
「まあ、夫婦で分け合って読んでください。そうそう、二人には『最後の一枚』を渡さなくてはいけないんだった」

 また達也がアタッシュケースから、今度は白いカードを二枚、取り出した。

「うちの奥さんから、お二人へ」
「泉美さんから?」

 隼人と葉月は顔を見合わせながら、達也が差し出してくれている泉美からのカードを、一枚ずつ手に取った。
 それには隼人には『御園君へ』と書かれてあり、葉月には『葉月ちゃんへ』と書かれている。

『ご結婚 おめでとう』

 毛筆で綺麗に書かれた文字の周りに、桜の花びらが……。

『私達に桜、咲きましたね。貴方にも咲いて嬉しく思っています。私達の周りに、いっぱい咲きましたね。今年の本物の桜は一緒に見られなかったけれど、せめてここに』

 泉美のメッセージ。
 花びらは本物だった。本物の桜の花びらが貼られているのだ。

「達也、これ。本物?」
「もしかして、小笠原の……?」
「ああ。泉美、休職に入ったからさ。官舎で母ちゃんとのんびり過ごしているよ。官舎の駐車場に桜の木があるだろう? 散歩の時に拾ってきて、それを一生懸命、貼り付けていた。葉月はきっと小笠原の桜を楽しみにしていたはずだって」
「泉美さんが……」

 隼人のカードにも、貼られている花びら。それを指先でそっと触れる。
 本物の花びらは、色褪せてはいたけれど、瑞々しいままに柔らかい感触だった。
 隼人と同じように、葉月も泣きそうな顔で触れている。

 自分たち夫妻の周りに、桜が咲いたかどうかは実感する間はあまりなかったからこそ、その『桜、咲いている』と言う祝いは、二人の胸にじんわりと幸せな気持ちにさせてくれた。
 花見なんて行かないと言っていた妻。桜は別れの季節だと、そんな哀しいことを隼人に聞かせたこともあった。
 だけれど、今年は──まだ見ぬ桜が、実は自分たちの周りに一斉に咲いていたのだと。葉月の傍に密かに寄り添っていた女性が教えてくれ、それを祝いの言葉にしてくれたのだ。

 葉月は今にも泣きそうな顔で、その花びらを慈しむように何度も指で撫でている。 

「結婚してからも、俺、葉月のこと良く話題にしてしまうんだけれど、よくよく話すと泉美も葉月のこと本当によく見ていたんだなと思うぐらいに、あいつも葉月の話ばかりするよ。そうだよな。俺は途中から小笠原を出てしまったし、兄さんは途中から来た訳だけれど、泉美は葉月が入隊した時からずっと見てきたんだ。誰よりも遠くから見ていたと言っても良いぐらいだよな」
「うん……。私、知っていった。泉美さんとはあまりお話はしなかったけれど、いつも優しい目で見てくれていたの……」
「泉美が言っていた。時々、この世に生きていて何か良いことがあるのだろうかと思いながらも、やっぱり心臓の発作が起きると『生きていたい』と思う自分がいるって。それを境遇は違うけれど、葉月にも見てしまう時があるんだって。その葉月が、桜が咲くといつも長いこと立って、眺めている姿をよく見たってさ」
「……そう、そうだったの。泉美さんが……」
「葉月はきっとどこの桜よりも、小笠原の桜が好きだろうって言っていたぞ」

 さらなる泉美の葉月を遠くから思う気持ちを知って、葉月はついに……カードを胸に抱きしめ、涙を流し始めた。

「有り難う、達也。泉美さんにお礼を、俺達が一緒に感激したというお礼を伝えてくれ」
「ああ。俺達、結婚も同期になったな。これからも宜しく」
「勿論──」
「あ、俺からのお祝いのカードも入っているんだ。恥ずかしいから、帰ってから見てくれよ」

 葉月は桜のカードを抱きしめ、そっと頷き、隼人に遅れ『有り難う』を彼女も呟いていた。

「葉月が元気だったと知ったら、泉美も安心するよ」
「そうだわ、私もあったの」

 小笠原からの嬉しい土産に感激してばかりの気持ちが落ち着いた葉月が、隼人と顔を見合わせる。
 隼人も頷いて、葉月が準備していたものを彼女の代わりに取りに行く。リビングの片隅に置いてあるひとつの箱を手にして、それを二人揃って達也に差し出した。

「なんだろう?」
「遅くなったけれど。北海道のお土産なの。小樽で隼人さんと選んだオルゴール。お腹の赤ちゃんに聴いてもらおうと思って……」
「俺達の子供に……?」
「うん……。渡せなくなるかと思ったけれど、良かったわ。ね、隼人さん」
「ああ。選ぶ時、葉月が一時間ぐらい迷って大変だったんだぜ」
「うわあ、サンキュ! 泉美、喜ぶよ。今、うちは胎教ブームだからさあ」

 あの時、渡せなかった土産がこうして渡すことが出来て、葉月は嬉しそうだった。

「良かったわ。貴方達も幸せそうで」
「そっちこそ。まあ、新婚さんだから暫くゆっくりと言いたいが、悪いな。兄さんを、借りていくぜ」
「うん。主人を宜しくお願いします」
「うはあっ。葉月から、そんな大人っぽい言葉を聞くことになろうとは……! やっぱり信じられねえ!」
「なによっ! 私だって達也が胎教しているなんて想像できないわよ! あんまり騒々しくして赤ちゃんをびっくりさせちゃだめよ!」
「泉美と同じ事を言うなっ!」

 相変わらずの双子同期生の騒々しさも復活で、隼人は毎度の如く間で苦笑いをこぼすだけだ。
 キッチンではジュールとエドも笑いを懸命に抑えているのが見えた。

 そうして暫く、仕事も事件のことも忘れ、大佐室の三人は久しぶりに他愛もない話で和んでいた。
 ジュールが用意したお茶も菓子も尽きるころ、ついにその時間がやってきた。
 隼人は荷物をまとめ、ついに小笠原に帰る旅支度を整える。荷物を持って一階に降りると、車椅子に乗っている葉月の傍らに、外に出かけてしまった純一が戻ってきていた。そして純一の前には達也がいる。つまり、葉月にとっては達也と義兄が対面した瞬間をやっと目にしたことだろう。そして、それが決して『初対面ではない』ことも……義兄の顔を見て悟ったはずだ。
 隼人が葉月の顔を覗き込むと、葉月はふてくされたような顔をしていた。
 それを見て、隼人は『ばれたな』と、呆れた溜息をこぼす。
 だが、やっぱり隼人も知らぬ振りだ。

「では、義兄さん。行ってきます」
「ああ、気をつけてな」

 純一がそっと葉月の車椅子の押し手を握りしめる。

「葉月、行って来るよ。お父さんとお母さん、そして義兄さんの言うことを……」
「子供じゃないわ」
「子供じゃないが、じゃじゃ馬だ。そう言われたくないなら、しっかり大人しくしていることだな」
「意地悪──」

 お嬢ちゃんの口をきく妻の言葉を、ピシリと弾くと、適わないと思ったのか葉月は『意地悪』とふてくされている。

「じゃあな、来週を楽しみに、また帰ってくるからな」

 隼人は、葉月の手を一時握りしめる。
 彼女もそっと握り返してくれるが、それをなかなか離してくれなかった。
 やはり、昨夜……彼女があんなに熱く燃えたように、本心は寂しいのだと。それが分かると隼人だって離れがたい。やっと手に入れた彼女で、やっと取り戻した彼女だ。今のこの状態で彼女から離れてはいけないのかも知れないが、それでも、二人で『こちらに進もう』と決めたことだ。
 だからか……。葉月からちゃんと隼人の手を離してくれた。

「貴方……。いってらっしゃい」
「行ってくるよ、葉月」

 葉月は清々しい笑顔を見せ、見送ってくれた。
 御園の両親にも見送られ、隼人はついにこの療養家を後にする。

「葉月、寂しそうだったな。けれど、アイツ……大人になったよな」
「まあな。じゃじゃ馬は健在だけれど」

 制服姿の達也と肩を並べて、横須賀基地へと向かう。

「さあ、そのじゃじゃ馬に存分に暴れてもらう準備をしなくちゃな。兄さん、忙しくなるぜ」
「そうだな」

 そんなこと、ずっと前から当たり前のことだった。だから大丈夫だと隼人は笑う。
 だが、達也がふと不安そうな顔で、今出てきた療養家に振り返った。

「本当に良かったのか? 犯人がうろついているかもしれないんだろう……? 葉月を殺そうとした男が、二度も……殺そうとした男が。出来れば、俺もひっつかまえて一発、殴りてえよ」

 葉月の前でも、隼人の前ですら決して話題にしなかった事を達也がやっと口にした。
 そしてそんな達也の顔も、とても憎々しそうに唇を噛みしめている。
 隼人もそっと俯いた。

「まだ少し……。家族だけの時間が必要なんだ。特に葉月と純一兄さん。せめて一週間、俺がいない方が良い気がした」
「そうなんだ。良く解らないけれど、兄さんがそう決めたなら、そうなんだろうな」

 達也がちょっと呆れた溜息をこぼした。
 元々愛し合っていた二人を残して、留守にする新婚夫の気持ちが、多少、理解できないといったところなのだろう。

 隼人も一ヶ月弱過ごした一軒家に振り返る。

 帰ってくる時には、どのようになっているだろうか?
 義兄にちゃんと話し、そして義理兄妹でどのように受け止め合うだろうか?
 お互いに衝撃的な話を聞くことになるだろう。
 二人が今までのお互いを想う気持ちを信じて、隼人が帰ってくるころには、せめて……真実を受け止めてくれているといいのだが……。

(葉月、頑張れよ──)

 少しだけ寂しそうな顔で、短い別れを惜しんでいた妻の顔を隼人は思い出してしまっていた。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.