何故、婚姻前夜に矢は放たれ襲撃された?
しかも犯行に及んだのは、予想もしていない『若い女』だった──。
顔も判らない男を追っていた御園家の長兄が、とりあえず帰ってきた。
──ある程度の収穫を手にして。
それは『因縁のゴーストに女房がいる』という話。
そこで黒猫のジュンの中である線が繋がった。
矢を放った者がゴーストと関係があるなら、この家にやってきた女はその『女房』に違いない! と……。
「……結婚、していたのか」
「分からない。が、『結婚している』と言うならば、『内縁』の状態である女がいるということなのか。ただ、葉月が見た時に就いていた仕事場では、独身となっていたようだが……。過去をさかのぼっていくと、二年前には、そんな女と暮らしていたそうだ」
「確かなのか──?」
「ああ。それで幽霊を追いかけるよりかは、この女を追った方がリスクが少ないと思って追っていたんだよ。この女の正体を探るのに北海道どころか、あちこちの地方を回された」
「それで、分かったのか?」
すると右京が溜息をこぼして一息つき、再び口を開く。
「それでこっちに戻ってこられたと言う訳だ。まだこっちでの捜索は始めていない。婚姻晩餐が終わってからと思ってね」
「その女の消息が……首都圏にあるというのか!?」
「室蘭の仲間から一ヶ月前から姿を見なくなったという情報を聞いてね。なんでも東京だか神奈川に行くとかなんとか言っていたとか?」
どうやら右京は、その追いやすいと判断した幽霊の女房をギリギリまで追っていたら、なんと足下の地元に帰ってきたということらしい。
これで、益々の確信を深めた純一は、恐る恐る右京に尋ねてみた。
「右京。その女、若いか?」
「年齢不詳だが、室蘭で探し当てた女の仲間だったと言う若者達の年代を見ても二十歳前後か……。彼等も女の年齢は知らないが、それぐらいだと言っていた」
「は、二十歳!? 真一とそう変わらない年頃じゃないか?」
「まあ、幽霊の年齢も不詳だが? 俺達と同世代かそれ以上であるのは確かだから、いわゆる、親子ほど年が離れた年の差夫妻ってことかねえ。やるじゃないか? あっちの男も」
右京がいつもの人をからかうカラッとした声で笑い出す。
純一は笑えなかった。──まあ、自分も十歳以上年の離れた女性と関係を持ってきたばかりに。だが、それはともかくとして、純一が腑に落ちないのは、あの男が『足手まといになる可能性のある女』を側にいることを許していることだ。
現に、昨夜──女が犯行実行をしても、逃走の際、ある程度のミスを残していった。女房に実行を任せたとしても、女房だからこそレベルを把握しているはずだ。なのに……姿を見られてしまうような逃走をする女房を仕向けてきた? やはり、あの男らしくない。
「右京──。実は昨夜、葉月の療養部屋が、ボーガンの矢で襲撃されてな」
笑っていた彼の顔から笑みが消え、『なんだって』と途端に目を光らせ表情を強張らせた。
「当然、婚姻前夜を狙った幽霊の犯行かと思っていた。そうしたら、ジュールの部員が追った逃亡者は『若い女』だったらしい」
「……若い女がボーガンで? じゃあ、それはもしかしたら……! やっぱり幽霊を追って、こっちに出てきていたのか?」
「そうなのだろうな。どんな関係性かと思っていたが。そういう事だったかと納得は出来た」
「だが、それ──妙だな」
「……だろう?」
二人は顔を見合わせる。
純一がどうにも腑に落ちない点があるように、右京もすぐに気が付いたようだ。
──幽霊らしくない。
その一言だけが、お互いに口にせずとも頭に浮かんだことだろう。
そこで右京が瞳だけ左右に動かしながらじいっと考えている中、呟く。
「もしだが。俺達が一番『この野郎!』と悔しがるようにとなれば──。『婚姻晩餐の真っ最中』を狙われることだ」
「なるほど。あの幽霊なら、それもやりかねないな」
「それを『生ぬるく』、婚姻前夜? 俺達に『浮かれているな』というアピールは出来ても、幽霊の美味しいご馳走としては腹一杯にならない諸行だな」
「となると、婚姻前夜の犯行は女房を使った『前菜』ってわけか……?」
自分でそこまで言って、純一は『いや、違うな』と首を振った。
その昨晩の犯行後、こちらの警護はぴりぴりとした空気が張りつめるほどに『強化』されたのだ。
となると、メインであるだろう『晩餐真っ最中』の犯行をするには、自ら警護を強める方向に持っていってしまったというリスクを、あちらから背負ったことになるではないか……?
そこで純一はハッとしてしまう。
「ま、まさか……! その女房……」
──俺達に『警告』してくれたのか!?
純一の驚きに、右京も同じような考えに辿り着いていたようだ。
だが、こちらは淡々としていた。
「気になるな。その女房。幽霊の女房にしてはこちらに寛大じゃないか」
右京の薄ら笑い。そして、彼は益々、その女を先に捕まえてやりたい気持ちが高まったようだ。
純一は思う。
その女房──幽霊の犯行をわざと止めている? と。
そこには、こちらの一族への配慮云々以上に、女のゴーストに対する『秘めた想い』を感じたような気もした。
・・・◇・◇・◇・・・
カルテを書き込んでいるとノックの音。
お茶の時間だろうかと、目の前の置き時計を見つめ、ジャンヌは『どうぞ』と声だけで応えた。
なんともマメな男。
私と同じ金髪の……。同じフランス人なのに、何処かフランス国民とは異なるものを感じる男。
いいや、あの世界の男達に『国』はとっくにないのだろうと、ジャンヌはふとカルテを書き込みながら微笑んだ。
あの世界を股にかけている男達とは初めて接触したが、あの様に揃いも揃って器用だったり不器用だったりという極端さを持ちならがらも、ひとつの想いにひたむきに生きているのは意外だった。もっと『すれている』かと思えば、変におかしなぐらい純粋だったり……。
だけれど『そんな人間、嫌いじゃない』──。
どうしてなのだろう? この一族と関わるようになってから、ジャンヌの中で風が吹いている。ずうっと滞っていた無風の乾いている空気の中を突っ立っているだけだった気持ちの毎日に、それ走れ! と、言わんばかりの風が吹いたのだ。……まだ周りの景色は砂嵐のように濁っているけれど。時々遠くに、手に届きそうな『オアシス』の陽炎が見えたりする。……何年ぶりだろうか。
背後から、甘い香りがした。
ジャンヌはペン先を止めて、毎日マメに仕事をこなしているその黒猫男に呟いた。
「ジュール、私が気に入っている中国茶をいちいち入れなくていいのよ。葉月さんと同じミルクティーで構わないと何度も言ったでしょう? 甘いものはあまり好きじゃないけれど、あのお茶なら私も……」
すると自分の耳元で、ばさっと言う大きな音が過ぎった。
そして頬をくすぐる何かが……。
それが何か分かって、ジャンヌは驚いて振り返る。
それは黄色い花ばかりを集めた大きな花束──!
さらにそれを振り下ろした主が……!
「右京!」
「やだね。待ちこがれていた男を、他の男と間違えるか?」
そこに余裕と自信たっぷりの微笑みで自分を見下ろしている『華やかで明るい男』がいた。
「それに随分、お喋りになって。他の男とも仲良しが出来るんだ」
「何言っているの。そんなの以前だって職場ではそうだったわよ」
「ふうん? 車を貸してくれた横須賀のお父さん軍医とかにも、あんなふうに?」
「好きに勘ぐって」
彼のその手に乗るかと、ジャンヌはきっぱりと切り捨て、カルテへと顔を戻した。
……本当は、今すぐにでも抱きついて『お帰り』と、彼を包み込んであげたいのに。
つい先日までのように、あんなに打ちひしがれ、険しい目つきで闇に囚われ何もかもが見えなくなったように彷徨っていた彼。
彼に振り払われながらも、ジャンヌは最初の北海道への調査に同行した。右京には何度も『来るな』と怒鳴られたが、ジュールの配慮で右京の護衛と調査アシスタントに付いていた彼の部下と同行することが出来たのだ。彼等も無口で寡黙な男達。彼等の直属のボスであるジュールにきちんと説明されていたのか、右京がどんなに拒否しても、ジャンヌがくじけない限りは彼等はジャンヌを何処までも同行させてくれた。
黒猫所有のセスナ機で、北海道まで行った。その飛行機に乗り込み、空へと飛び立ってしまうと、右京はジャンヌになにも喚かなくなった。ただ、側にいさせてくれても口も聞いてくれなかった。
北海道での調査中は同行は許されなかった。付き添い部下の彼等が用意してくれた宿でひたすら右京達の帰りを待つ日々。時にはジャンヌだけを宿に置き去りにし、右京は彼等を連れて何処かに行ってしまうことも考え、『今夜は捨てられるかもしれない』と覚悟をした時もあった。──だが、右京はどんな夜中になっても、ジャンヌが待っている宿には戻ってきた。
これも黒猫の彼等の配慮で二人の泊まり部屋は一緒にしてくれた。それでも愛を紡ぐような男女の営みは一度だってなかった。当然だ。葉月が明日をも知れない生死を彷徨っている中、右京は時には眠れぬ夜を過ごし、時にはとても苛ついていた。ジャンヌは寝たふりをして、じっと側にいるだけの日々だった。
葉月が意識を戻したと聞いた時、その時、やっと右京がジャンヌを見た。
『葉月が……意識を戻した』
『そう……! 良かったわ、良かったわね!!』
彼が泣く前に、ジャンヌの目からは涙がこぼれていた。
勿論、既にどこか繋がっている妹分のような葉月の生還は嬉しかった。
でも、それと同時に──その時の右京の『元に戻った顔』を見て、泣いたと言うのもあった。
そして、彼と自然と抱擁を交わしていた。
『帰りましょう、右京』
『そうだな』
北海道での調査は、そこで一端、打ち切りにしてすぐさま横須賀へと帰ってきたのだ。
それでも、彼はまた──あの荒れ果てた顔に戻って、北海道へとんぼ返り。
今度こそ、置いて行かれた。
でも、それはジャンヌ自身が言いだしたこと。彼の大切な従妹を看病すると願い出たこと。
『どんなことがあっても、貴方の従妹を守るわ』
──貴方の代わりに!
その想いで、今度は独り行く彼を見送った。
待っているジャンヌの元に、決して捨てず宿に帰ってきてくれた彼。そして、同じ気持ちで同じ者を案ずる気持ちが通じ合ったような『抱擁』。
それがあったから、今度は待っていられると思えた。
それから一ヶ月。
ひたすら葉月を看病する日々。
しかしジャンヌは今となっては『残って良かった』と思っていた。
右京と一対一で向き合うだけでは分からなかっただろう、彼が属する一族の『バックグラウンド』をたっぷり拝むことが出来たからだ。
ジャンヌは自分もまだまだだと思うぐらいに愛とか恋とか絡むと、どんなに大人になっても、どんな経験を積んでいても『相手の男』しか見えなくなってしまうのは、この歳、あの経験をしてきてもちっとも変わっていなかったと思い知らされたのだ。
あのまま右京にひっついて行きたかった気持ちが、まさにそれだった。だが、あそこで『自分が選んだ使命』を選んだからこそ、手に入れたものもあったのだ。
そしてついに彼が帰ってきてくれた。
それも初めて彼に会った時のように、輝くばかりの華やかなオーラに包まれた姿、笑顔で──。
だが、ジャンヌは席を立つと、その頬をくすぐるばかりの花束を、ばさりと片手で払い落としてしまった。
すると、途端に彼の顔がいつもジャンヌに油断できないと挑んでくる顔になる。彼がこの顔になると、ジャンヌも『ただの絡み合い』では済まないことを既に知っていた。
「今日、婚姻の晩餐会があるから『着飾っている』のは分かるけれど。また『元通り』ね」
「あれ? 気に入らない。俺、格好良くないかな。これでも結構、気張ってきたんだけれどなー」
知っていた。彼がワザと『華やかに見せかけている』事も、『お気楽主義』で生きているように見せかけていることも。
初めて彼を訪ねていった時に『正直、迷惑。関わらないで欲しい』とつっけんどんな鋭い眼で突き返してきた彼の顔に、びびっと身体に電気が走ったぐらいだ。その眼に『闇』を感じた。自分もそうだからか。『上手く隠している予感』があった。──むしろ、この顔に惹かれたと言っても良いぐらいに。それこそ『こちらが本当の彼だ』と思えた瞬間。
案の定、彼とちょっと話しただけで、なにもかもが溶けあっていく感触を得てしまった。それを感じても、彼と繋がる繋がらないという選択肢は残っていたのに。二度と、男とは関わるまいと誓っていたのに。なのに……まだ女だった。やっぱり死ぬまで女は捨てられないという性に身体が焼き尽くされるように、静かにでもぼうっと空高く弱々しくも燃え昇った炎。
彼がそうであるように、ジャンヌもその炎を隠すことだってお得意技のはずだった。
けれど、それこそ彼に見抜かれていた。彼もそう……ジャンヌの奥底にすうっと入ってこられるナチュラルさがあったのだ。
そのナチュラルにすうっと入ってきた彼こそが、本来の彼。
それを、『飾り立てて生きている人』が、こんなにも惜しげなく『私』に見せてくれるのは何故?
静かに弱々しく立ち上った炎は、この時、一気にジャンヌの身も心も熱く焦がしたのだ。
彼に『ナチュラル』に戻って欲しい。
彼は飾り立てて生きていることに疲れている。
今、彼自身が気取って華やかに見せているのは、実は彼本来の美しさではない!
もっともっと、彼にはナチュラルで見せられる元来持っている、もっとやんわりとした優しい華やかさに美しさを見せてくれる人のはず。
ジャンヌが飾りを捨てて、世捨て人のように生きていた部屋で『なんだか落ち着くー』と、少年のようにごろごろとくつろいでいた彼を見て、益々確信した。
彼の華やかな姿は、虚像。彼が自ら意識して造り上げた虚像。そして彼はその虚像の下で着々と、ある日に備えて『闇力』を備え、スイッチを用意している。
だから、この恋も『一時の恋』。
いつか闇に囚われた時は、俺は女を愛せない傷つけるだけの鬼になる……。
命を懸けても、俺の手でピリオドを打つ。
その気迫。従妹が忘れているという『真犯人』にトドメを刺すことだけが、実は彼の生き甲斐。
その美しい顔で。
その美を愛する目で。
彼は自ら闇に投じ、血の海へとダイブする。
その顔も……ジャンヌは垣間見ることが出来た。
北海道で付き添っていた彼の顔はまさにそれだった。
けれど、嫌じゃなかった。むしろ、無茶に飾り立てている『虚像の彼』より、ずうっと実感がある、親近感がある『人らしい、彼』だったからだ。
苛ついている顔も、なにかに打ちひしがれている背中も、そして目を輝かせて歯ぎしりをたてながら、何かに向かっている顔も──。
それがたとえ『鬼』だとしても、『騙しの華やかな男』より、ずうっとマシ。
むしろ益々、彼が愛おしくて仕様がなくなったぐらい。
なのに──。
やっと帰ってきた、待ちこがれていた男は、また……あの『虚勢の華やかさ』で、にやついた顔でジャンヌの前に現れたのだ。
だから、せっかくの花束も無下にした。
「──気に入らなかったか」
「当然よ」
「……辛気くさいだろう。本当の俺は」
「いいえ」
そしてジャンヌは、しっかりとその彼に向き合って言った。
「今の顔、好きよ」
彼の不意打ちを食らった顔。
やがて彼は、ちょっと悔しそうな苦笑いを浮かべながら、抱えていた花束をばっさりと床へと放り投げてしまった。
そして彼が直ぐ目の前にいたジャンヌに、飛びつくように抱きついてきた。
い、痛い。背骨が折れそう! と思うぐらいの力で抱きしめられて、さすがのジャンヌも悲鳴を上げそうになった。
だが、その潰されそうな力はすぐに緩まり、彼の唇が髪を結い上げているジャンヌのうなじをくすぐり、やがて耳元に柔らかく触れ……。
「愛している、ジャンヌ。今、抱きしめたぐらいに──」
この彼が泣きそうな声で囁いたので、逆にジャンヌは驚いて身体がぎゅっと固まってしまった。
「北海道でのこと、すまなかった。なのに黙って傍にいてくれて。本当はそれだけで充分、俺には大きな力になっていたんだ。なのに、それが言えなくて」
「い、いいのよ。そんなこと」
その言葉に、ジャンヌは涙が滲んできた。
自分が選んでしたことだけれど、それでも素っ気なくされながらも傍にいたことは間違っていなかったと思えたから──。
それに自分にこんな涙が流せる日が再び来るだなんて。
そしてこの幸福感はなに?
新進気鋭の心療内科医として、若くして地位を得て活躍していた昔。
間違いを起こす前、なにもかもが順調で、もうすぐ夢に描いたような『勝ち組の生活』が出来ると浮かれていた結婚前のあの時より、ずっと……。柔らかくて甘くて熱くて、泣きたいほどの満たされる想い。初めてで、そして……やはりあの勝ち組と思いこんでいた心を無くした『鼻持ちならない女だった』時の『自分の幸せが一番』ということしか見えなかったのが、どれほどにちっぽけなものだったかと思い知らされる。
本当の幸せはこんなにも、ささやかだったと──。
目の前の人が、そして彼の愛する人々が、自分と一緒に幸せになってくれたら……。そうして幾人とも関わって、彼等と一緒に『幸せを探す』ことが、こんなに満たされる事とは、以前はちっとも考えつかなかった。
この目の前の男性が教えてくれた。
なのにこの人自身が、それを分かっているくせに、自分自身で受け入れられない皮肉な話。
だから、『愛している』と言ってくれた彼が自ら呟いた。
「愛しているという気持ちは嘘じゃない。だけれど、ジャンヌが『やめて欲しい』と言っていることはやめるつもりはない」
その時、あんなに激しく熱く抱きしめてくれていた彼が、ジャンヌから離れてしまった。
そしてもう、偽ることのない彼の闇を秘めた憂い顔が、ジャンヌを凝視している。
哀しい宣告。
でも、もう……ジャンヌも覚悟も出来ていたし、考え直していた。
だから、彼にそっと首を振り、そして柔らかに微笑みかけた。
「いいわ。貴方の好きにして。私──貴方という鬼と一緒に、地獄を見ても堕ちても良いわ」
彼の口元が、震えるように僅かに動く。
微かに『駄目だ』と聞こえた──。
彼の迷い。
愛しているという気持ちだけは伝えたかったという純粋な思いと、やはり言うべきではなく嫌われるように徹底的に突き放すべきだったかと迷っている唇。
彼の『巻き込みたくない』という気持ちは充分に分かっている。そんなの当の昔に気が付いていた上で、ジャンヌは彼の中に溶け込んでしまったのだ。
もう、遅いわ……。
今度はジャンヌがそう小さく呟き、彼を捕まえるようにその胸に飛び込んだ。
そして彼が迷う間もなくなるぐらいに、ジャンヌから彼の甘い香りがする唇を塞ぐ。
「私の執念深さ。知っているでしょう」
「ああ、思い出した」
触れあっている唇の上で、右京が小さく吹き出していた。
やがて、彼が先ほどのように強く抱きしめ、もっともっと強く深く……。何にも囚われずに『何もない飾らぬ家』で熱愛を交わし合った在りし日の激しい口づけを繰り返してくれる。
もう、ジャンヌもその腕の力にとろけるように身体を任せ、力を抜ききっていた。
口づけはなかなか終わらない。
ずうっと二人で求め合っている。
そんな中、身体も触りもしない彼が、ジャンヌの髪留めに触れ、それを外してしまった。
ジャンヌの背中に、ばさりと黄金の髪が舞う。
彼が指先でその毛先を巻きながら、満足そうに微笑んでくれる笑顔。
右京はそのままジャンヌから離れ、ドアに立てかけている大きな箱を取りに行った。そして、それをジャンヌの前に突き出した。
「きっと夜空に昇った太陽のようになるだろうと思って……」
そこに屈託ない彼の笑顔と、美しい物を心から愛している彼だからこその表現で彩られる言葉があった。
きっとこれが……本当の貴方。
彼が箱のリボンを優雅な手つきで解いてくれる。そして彼がぱあっと魔法をかけるように箱の蓋を開けた。
そこには、艶々としている紺色のドレスが入っていた。
「きっと、その金髪が映えると思う」
「メルシー。嬉しいわ……」
そして彼が言う。
「これを着てくれないか……。いつでも良い。着る気になったら、一番に俺に見せてくれ」
「右京……!」
その『いつでも良い』という言葉。それは彼がそれまでは自分一人で何処かに行ったりはしない。無茶に命を懸けないという意味だとジャンヌは思った。
だから、また彼に抱きついていた。
「ずうっと着てやらない」
「相変わらず。手厳しいな……」
彼が小さく笑いながらも、また抱き返してくれる。
ジャンヌは心で呟いた。
本当は、その顔なら今の華やかな貴方はとても魅力的だと……。
水色の君は、どこか少年のようであって、そして儚く、美しい人。
・・・◇・◇・◇・・・
俺には白が似合うからと、本当に無地の真っ白なネクタイが選ばれた。
その代わり、シャツは結婚する花嫁のパーソナルカラーである水色を自ら選んだ。
良く聞く。花嫁が白い衣装を着るのは、結婚する相手や嫁入りする家風の色に染まるために、白いのだと。
俺は今日、花嫁をもらうと同時に、この一族の一員になる。婿養子になる。白いネクタイはその意味にも思えるが、それならもうとっくに『彼女色に既に染まっている』とばかりに、水色を着ようじゃないかと。
すると誰もがその色が似合うというのだ? なんだか意外だった。
午後には弁護士が来る。
妻になる葉月と彼女の両親。そして晩餐会より一足早くやってくる横浜の両親を交えて、隼人が澤村家を出て御園家へと婿入りすることに関する話が行われ、手続きとなり、『御園隼人』という男になる準備が執り行われる。
それが終わったら、晩餐会。祝いの席の前で、二人は婚姻届にサインをして、指輪を交換するだけの、親族のみのささやかな人前式だ。
隼人は今、純一と真一が使っている部屋にいた。
昼前に目が覚め、シャワーをひと浴び。いよいよとスーツを着込み始めたところ。
その水色のシャツを着て、真っ白なネクタイを締める時、隼人は窓辺に寄って庭を見下ろした。
なんとも物々しくなったことか。黒いスーツを同じように着込んでいる黒猫男達が、これでもかという警戒心を放ちまくっている様子で警護している。
ネクタイを指先で滑らしながら、隼人は溜息を落とした。
──なんでも? 昨夜の矢は若い女が放ったものだとか。
それが何を意味するのか、今の隼人にはゆっくりと噛み砕き予想する余裕はない。
だが、言えることはひとつ。
それを目が覚めて、隼人のところにやってきた純一にもはっきりと告げた。
「義兄さん。俺は今夜、なにがなんでも結婚する。例え、再度の襲撃があっても……」
「分かった。それを聞いて安心した」
彼は昨夜の騒ぎで、精神的なバランスを崩し『延期する』と婚姻する二人が言い出すのではないかと、心配したのだろう。
だが、隼人の意志は固い。さらに、向き合っている目の前の義兄も、とても納得している顔。彼もなにがなんでも今夜の婚姻を迎えさせようという意志が強いのを隼人も感じ取った。
義兄としての気持ち。そして、きっと……愛している女性の花の門出をなんとしても迎えさせようとしている。
そして、それは葉月も同じで、昨夜は怯えはしていたが『ここであの男の思い通りにはなりたくない』と、まるで闘いに出るような顔で今夜の晩餐を迎える気持ちを強くしていた。
午後になり、横浜の澤村家がやってきてた。
伯父の昭雄と弟の和人も一緒だ。二人ともいつにないかしこまったスーツ姿で緊張しているのを見た隼人は、ちょっと致し方ない笑顔を見せながらリビングへと案内する。そこで金髪の男や栗毛の男、黒いスーツを着込んでいるガタイの良い男達がうろうろしているので余計に緊張しているよう……。それでも日本語が堪能なジュールの物腰の良い接客に少しは心が和んだようだ。
やがて真一も一丁前のスーツ姿でリビングにやってきて和人と再会。二人は向き合って、学校の話など、年相応の男同士の会話で楽しんでいた。
父の和之と継母の美沙は、二階の別室に案内される。
御園の両親、そして葉月と隼人と共に、弁護士を交え、ついに隼人の婿入りの話し合いになる。
話し合いと言っても、両家の者が揃っての最終意思確認と言ったところ。もうここ一ヶ月半で、御園の両親とも横浜の父とも随分と話し合ってきたことだから、すぐに終わる。
「お父さん。この度は大切なご子息を養子へと、こちらの為に快く承諾してくださいまして有り難うございます。大切にさせていただきます」
「こちらこそ。どうぞ立派な男にと鍛えてくださいませ」
「決して、危ない目には遭わせません。誓って……」
「有り難うございます。どうぞ、そちらのご家族と共にさせてあげてください」
まるで隼人が『嫁に行く』ようなやりとり。
息子のいない亮介に息子が出来るのだ。それを亡くなった妻の忘れ形見として愛でてきた息子を反対もせず文句もなく快く手放してくれた和之には頭があがらないといった様子だった。それは登貴子も同じようで、夫と共にずっと横浜の両親には頭を低くしているばかり。
葉月と隼人はそれをただ黙って、ちょっと戸惑いながらも……『二人で御園になる』という意味を、両親のやりとりを見て、今まで以上に深く思う。
弁護士を通しての婿入りへの手続きと確認が、両家を通して無事に終わった。
葉月がいよいよ花嫁姿になるために、母親とエドと一緒に部屋に入った。
少しばかり日が長くなってきたのだろうか。
ほんのりと空が夕暮れてきた頃、この家のリビングが徐々に華やかな雰囲気に染まり始める頃──。
鎌倉御園家がやってきた。
京介叔父夫妻は、そろって着物姿。そして鎌倉姉妹も華やかな装いでやってくる。
隼人のスーツ姿を薫にからかわれ、姉の瑠花と共に選んだという『結婚祝い』を受け取った。
「ちょっと、うちの子になるんですって?」
「はい、宜しくお願い致しますね。薫お姉さん」
「駄目よ、不合格。うちでは『薫姉様』とお呼びなさいよ」
早速、鎌倉末娘の薫に散々いじられている間に、豪勢にコーディネイトされているテーブルにちょっとしたオードブルが並び始める。
今夜の晩餐は、誰もが気軽に会話や親交が深められるように、ビュッフェスタイル。
そこで集まった親族が好きなようにくつろぎ楽しんでいる中、薫がきょろきょろと辺りを見渡していた。
「ねえ、隼人君。うちの兄貴はどこにいるの」
「二階の……」
女医の部屋だと言おうとして、隼人はちょっと躊躇う。
妹さんは、知っているのだろうか? と……。
「ねえ? パパに聞いたんだけれど。兄様に恋人が出来たって本当なの〜!?」
どうやら、鎌倉御園家では知るところらしく隼人は驚いた。
それで薫は『外人って聞いたけれど、綺麗なの。どんな人なの?』と隼人に聞いてくる。何処まで言って良いか分からずに戸惑っていると、純一が寄ってきた。
「薫、相変わらずだな」
「あら、純兄様」
彼が隼人の横に並び、さらりとシャンパングラスを薫に差し出した。
食事が始まるまでのウェルカムドリンクらしい。
薫は純一をふっと見上げ、そして彼女がニコリと微笑みながら、グラスをしなやかな手つきで受け取った。
「右京の相手を見たいなら、二階に行って挨拶でもしてきたらどうだ?」
「なによ。恥ずかしいわよ……。私、フランス語下手だし」
「彼女の日本語もイマイチだぞ。お互い様でいいじゃないか」
「いやよ。彼女、頭の良い女医さんで、あの兄様が敵わないって聞いたわよ」
「お前にはピアノがあるじゃないか。お前の音には強さがある。また聴かせてくれよ」
「本当に? あ。ねえねえ、純兄ー、お願いがあるのー」
「なんだ」
「どうしても手に入らないバッグがあ・る・の!」
「お前は、またそれか」
薫が純一に甘えるように、彼の腕に寄りかかった。
それを見ていた姉の瑠花も『純兄様』と笑顔で寄ってくる。
そして彼女にも当然、純一はそつなくシャンパングラスを手にして優雅に差し出した。
久しぶりに会ったのだろう。鎌倉姉妹も馴染みの義兄に会えて嬉しそうだった。
嫁に出て外で主婦生活をしている鎌倉姉妹とは隼人も葉月も滅多に会う機会もないが、彼女たちと純一だって幼い日々を共にしてきたということを、ここで垣間見せてもらった気がした。
彼は元々『兄気質』なのだろうか? 鎌倉姉妹も葉月がそうしているように『兄様、兄様』となんだか嬉しそうで、そこから離れないのだから。
どうやら鎌倉姉妹は、今宵主役で新しい家族の一員になる隼人のことは忘れたよう……。
さりげない純一の助け船に、実はほっとした隼人は、今度は自分がウェルカムシャンパンを手にして、昭雄伯父の元へと足を運ぶ。
「伯父さん、来てくれて有り難う」
「隼人。おめでとう。やっとだね……」
「うん」
「きっと今夜は沙也加も見に来ているよ。お前が幸せなら……沙也加はどんな形だって……」
亡くなった母の兄である昭雄伯父は、もう、目に一杯の涙を溜めているので、隼人ももらってしまいそうになる。
彼はいつも母の代わりに、母が言いそうだという言葉を聞かせてくれた人だ。
今夜はここにはいないけれど、その母が今涙をこぼしている兄の傍にいるような気さえしてしまった。
「それにしても、婚姻晩餐というめでたい席なのに……大変だね」
昭雄がシャンパングラスを小さく傾け味わいながら、座っているソファーの正面に見える庭を見つめていた。
そこには黒いスーツを着込んでエスピー並に小型インカムのイヤホンを耳に付けぶつぶつと呟きながら庭を徘徊している男達。リビングの華やかさとは裏腹の物々しさに、昭雄が戸惑っている。
「お前達の結婚を邪魔するだなんて。伯父さんも許せないよ」
「有り難う、伯父さん。大丈夫だよ。葉月の義兄さんである純一さんの部下は皆、優秀なんだ」
「そうか。あの背の高い人だね。ご挨拶しようかな」
「そうだね。俺も紹介したいよ」
二人揃って、やっと物々しい庭から一族で華やぎ始めたリビングの雰囲気へと帰っていく。
純一と楽しそうに笑っている鎌倉姉妹の元へ伯父を連れて行き、紹介をする。
彼と彼女達も、伯父を優雅に迎え入れてくれる。
先ほどまで、純兄様と可愛らしく触れあっていた鎌倉姉妹から途端に優雅な雰囲気が放たれたせいか伯父が一瞬、躊躇した。だが、姉妹は澤村精機のことを話題にしてくれ、伯父もいつのまにか楽しそうに会話を始めていた。
そうして誰もがウェルカムシャンパンを手にして、それぞれやってきた親族と顔見せの挨拶を自由気ままに交わし合っている。
徐々に宴前の華やぐムードに誰もが酔いしれ始めた頃……。
右京がやっと顔を出した。あんなに目に付く水色のスーツを華やかに着こなしていたのに、彼はしっとりとした紺色のスーツに着替えていた。
それでも華やかという輝かしさは控えめになっても、充分に品で着こなしていて、本当にそこから甘い香りでも漂ってきそうな雰囲気を放っているのは流石だった。
そして、どこかとても落ち着いた顔……。葉月と純一から聞かされたが、彼の心よりの愛の告白が上手く通じたのではないかと思えた。
……だが、残念なことに、ジャンヌは同伴していなかった。彼女はまだ部外者で、そして右京が誘っても親族のみという晩餐には、一線とけじめを持って断る質だろと隼人は思う。だから、仕方がないかと思った。
「皆様、花嫁が参ります」
給仕をしているジュールの一声で、また皆が盛り上がりを見せた。
そしてそれぞれの席に着き、会場であるリビングが急に静まりかえった。隼人は一番奥、花嫁と二人で並ぶ席で彼女を待つ。
リビングのドアが開く。
そこには、スーツ姿の父親と母親と腕を組んで立ち上がっている葉月が、真っ白いドレス姿で現れる。
まだ自由に歩けないため、足裁きがしやすい短めの膝丈のドレスだったが、しなやかで真っ白いその生地は、彼女の胸元から裾まで綺麗なドレープが静かに波打ち、目を惹いた。華やかに、愛らしく巻き毛にセットした栗毛に、右京からもらった白い薔薇と青い小花を数本髪飾りにしている。
そんな柔らかなドレスに彩られた優雅で清楚な姿がそこに──。
まさに、花嫁。隼人の妻となる女性がそこで優美に馥郁とした微笑みを見せてくれている。
皆の拍手の中、両親に両脇を支えてもらいながら、葉月は車椅子ではなくおぼつかない足取りで隼人の元まで向かってくる。
──夫となる貴方のところまで、歩いていく。
その気持ちを汲んでくれた両親と一緒に、よろめきながら、でも煌めく笑顔を迎えてくれた一人一人に向けてやってくる。
隼人も彼女の元までいかず、じっとそこで笑顔で彼女を待った。
やがて、父親の亮介に手をとってもらい葉月がやってきた。
「どうぞ、娘を宜しくお願いします」
「お父さん、有り難うございます」
亮介の大きな逞しい手に、可愛らしく小さく見える彼女の手が乗っている。
それを亮介が静かに、隼人の手元へと運んでくる。
その手を、隼人も静かにそっと厳かな気持ちでもらい受けた。
父親が退いてしまい、よろめきそうな彼女を今度は隼人が支えた。
そして二人で見つめ合い、一緒に頷きながら、こちらを見守ってくれている親族へと二人で向き合い揃って一礼をする。
皆の大きく叩いてくれる拍手が響き渡った。
「では、お食事を始める前に、お二人に婚姻届にサインをしていただきます。どうぞ、皆様が証人でございます。見守ってくださいませ」
ジュールの進行で、エドがアンティーク調の銀の台を二人の目の前に運んできた。
そこには二人がサインを残して書き込んだままにしている婚姻届が広げられていた。
用意されている羽付のペンを隼人から手にした。
賑やかに迎えてくれた親族がそこで急に静まりかえり、会場の雰囲気が厳かな緊張感を醸し出している中──。
隼人はそこにサインを……。
すぐに隣にいる葉月にもペンを渡す。
隼人に支えられながら、葉月もそこにゆっくりとサインを記した。
「それでは。お二人がお互いに贈る言葉を刻んだと言う指輪の交換です」
今度、その婚姻届の前にリングピローに乗せられているリングが置かれた。
用意してくれたエドが、隼人からと無言で促してきたので、レエス仕立ての小さなピローの上でひときわ強く煌めくリングを手にした。
隣でジュールに支えてもらいながら、待っている葉月の手を取り、隼人はその細い指先を暫く眺め、ちょっと緊張しながら通そうとしたのだが。
「お待ち下さいませ」
そこでジュールが指輪を通そうとした隼人の手先を制してしまったのだ。
ここぞという時をジュールが止めたので、純一も親族も、そして葉月も何事かという顔になっている。
だが、ジュールは『お嬢様もお持ち下さい』と葉月にリングピローを差し出してきた。
まさか、同時に指にはめろと? 二人揃って首を傾げたが、葉月もピローから隼人の指にはめるリングを手にした。
そして今度はエドが言う。
「どうぞ、皆様にお二人が愛する人に贈ろうと決めた言葉を、聞かせてあげてください」
すると右京が『聞きたい、聞きたい』と茶化してきた。
右京のその一言で、親族の誰もが『いいね』『いいわね』と拍手を盛んにするので、二人は揃って照れて俯いてしまった。
観念した隼人が『では。俺から』と、手に取ったままの葉月の指先に指輪を近づけて小さく呟こうとしたら、またジュールに止められてしまった。
いったいなんなのだと、今度は誰もがジュールにちょっとした抗議の目を向けたが、ジュールとエドだけは楽しそうな顔を見合わせて笑っているのだ。
「宜しかったら、お二人揃って、お言葉を発表してくださいませ」
今度こそ、隼人と葉月は『はあ?』と眉をひそめてしまったのだが……。
そこでやっと……ハッとして、隼人も葉月も指輪を手にして顔を見合わせた。
もしかして……?
二人が同じ事を考え、気が付いた。
隼人が妻になる葉月へと、沢山の思いを凝縮させた言葉。
葉月が夫となる隼人へと、思いを込めて選んでくれた言葉。
二人は恐る恐る、お互いが選んだ言葉を呟いた。
「Je t'aime」
「Je t'aime」
──ジュテーム。
『私は、あなたを愛している』
二人の声と言葉が揃って、会場から驚きと祝福の野次が飛んできて、拍手が鳴り響いた。
「フランスで出会われたお二人の思い出が表れているお言葉ですね」
「そのシンプルな一言に、様々な思いを込められたことでしょう。このシンプルで重みのある指輪を選ばれたお二人にはぴったりですよ」
ジュールとエドの祝福と拍手。
だが、二人は驚きのあまり、暫く見つめ合ったままだった。
「どうした! 隼人、早くはめてやりなさい」
和之までが茶々を入れてきて、隼人はハッとして葉月の指にそっと通した。
葉月の指に通すと、また皆の拍手が響き渡る。
葉月は強く煌めく銀の指輪をはめられた薬指を、とても幸せそうに見つめている。
そして次には葉月がリングを手にして、隼人の手を取った。
「ジュテーム。ただそれだけ──。苦しくても幸せでも。勇気ある前進も全てここの中に」
葉月がそう言いながら、隼人の薬指にそれをはめてくれた。
「まったく同じ思いだよ、葉月」
「貴方」
どんな言葉にしよう?
前触れもなく選んだ前の指輪には偉く凝った言葉を彫り込んだ。しかも一方的だった気もした。
それ以上の言葉。それはなんだろう?
ひとつしか浮かばなかった。ありきたりかも知れないけれど、それしかなかった。
彼女が言うように、苦も楽も酸いも甘いも、そして勇気ある前進も、今までのなにもかも、そしてこれからの何もかもがその一言に尽きると思ったのだ。
その思いすらも揃っていた感激に、人目に照れていた二人はいつの間にか揃って手を握り合い微笑み合い、抱きしめ合っていた。
「おめでとう!」
今宵二人は、ひとつの言葉の元に、『御園夫妻』となった。
庭の桜の木。枝先はまだ晩冬の冷たい風に震えているだけだが、直に沢山の幸せ色の花が咲き誇るだろう。
でも今宵、ここには頬を染め合い、心を色づかせる春を迎えた若い二人には、もう……桜が咲いていた。