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6.義妹よ

 ついに、花嫁か──。

 息子と一緒に使っている部屋で、純一は明日の晩餐で着用するとっておきのスーツを揃えていた。
 幼馴染みの右京ほど、華やかな質ではない。どちらかというと、地味目になってしまう。
 いつもの黒いスーツに、カラーシャツ、そしてシックなネクタイ。いつもの自分なりの好みで行くと、これまた華やかな右京と品のある着こなしを好む弟分のジュールに『また地味な』と言われそうだ。
 ああ、そうだと、純一は息子と一緒に使っているクローゼットに向かい、ネクタイピンやカフスボタンを収納しているケースを開けようとしたのだが、そのガラス蓋の上に、無造作に置いたままになっているカフスボタンが二つ……。
 近頃、この家の中でばかり仕事をしているので、ネクタイもカフスもつけない日々が続いていた。だから、愛用のカフスボタンもこの通り。出番待ちのまま。だが、ケースに入れずに蓋の上に置いてあるのは『直ぐに着けられるように』している為。今まで毎日取っ替え引っ替え日替わりで着けていたカフスボタンだが、ここ一年はこれだけだった。

 それは義妹が最後に贈ってくれた物だった。

『お嬢様、ご自分のお小遣いで買われたんですよ。最初で最後だけれど、一度で良いから貴方に誕生日プレゼントを贈りたかったと……』

 一年前、その金のリボンをかけられた箱を開ける時にジュールが言った言葉。
 そんなことは知らずに、義妹自身の別れの言葉も聞くことが耐えられず……。うやむやにするように『現世』に送り返した。
 義妹は『またお兄ちゃまの勝手』と怒っていることだろう。だが、彼女は自らの手と足で赤い車を運転し、純一の元から旅立っていった。

 小笠原で義妹と別れるいつもの岬──。
 そこに義妹が残していったのが、白い薔薇が一輪とその黒い包装紙に金色のリボンがかけられている箱だった。
 その箱を開けると、純一好みの黒メノウと銀のコンビネーション、小粒のダイヤがアクセントになっているシックなカフスボタン。

『お嬢様が選んだのですよ。きっと義兄様に似合うと……嬉しそうでした』

 それを聞いて、なんとも言えない気持ちにさせられた。
 黒いメノウ石は実際は冷たいのだが、手に握りしめるとどこか熱く感じた。

 それからだった。
 この一年、このカフスボタンしかしなかった。
 本当にしっくりと純一の手元に似合い、純一が持っているどのシャツにもジャケットにもピッタリ合う気がした。

「いいだろう。明日もこれで」

 そのカフスボタンを手にして、純一は一人、ひっそりと微笑んだ。
 すると気分は『いつもの俺で充分だ』と言う気持ちになってきた。
 とっておきのお気に入りのネクタイと、カフスボタンに合う同じようなシックで地味なネクタイピンで充分だと……急に迷っていた手が進んだ。
 使っているベッドの上に、ジャケットもシャツもネクタイも、スラックスも綺麗に揃え、さてハンガーにかけようかとしていると、ドアがバンと開いて、息子の真一が入ってきた。

「親父! こっちとこっちのネクタイ、どっちがいいかな!?」

 父子だと言うのに、息子の髪はとても明るい色をしている。
 さらに初々しいほどに若い青少年だ。
 センスが若いエドに選んでもらったのか、とても清々しい色合いのネクタイを手にしてきたのだ。

「ううむ。こっちか、いや、やはり栗毛のお前はこっちか」
「やっぱりね」

 純一が選ぶ指先を迷わせていると、息子が目の前で急に膨れ面になる。
 それはどういう意味かと眉をひそめていると、息子が怖い顔を突き出してきた。

「親父って案外、優柔不断なんだよな!」
「……なんだと?」
「身に覚えがあるだろう? ああ、そうだ。俺、こっちにしよう!! 自分でちゃんと決めよう!」

 息子は、きっちりと選んでくれなかった父親に業を煮やしたのか、勝手に自分で選んでふいっと出ていってしまった。

「たっく。生意気な」

 ──と言いたいが、『身に覚えがある』にはなんとなく言い返せない過去があったりする。
 息子に刺されるとは、情けない。
 まだ未成年の子供とは言え、なかなか侮れない眼力を発する時がある。それは父親として誇らしい気にもなるのだが……。
 純一は、そんな息子のベッドを見た。明日着るスーツが揃えるどころか、あちこちに散らばっているのだ。まだネクタイやらチーフやら、それを一階でエドとあれやこれやと選ぶのに夢中で、そっちのけのようだ。

「まったく仕様のない。訓練校でもこうでないといいのだが」

 純一はまるで母親のようにして、息子が散らかしているスーツやシャツを手にして、皺にならない内にハンガーにかけクローゼットに片づける。
 そのスーツを見ていると、サイズが自分と殆ど変わらないことに気が付いた。
 一丁前に大きくなりやがって。
 ふと、微笑みがこぼれる。

「先に生まれたチビも、一丁前になったがな……」

 それは純一が十二歳になる年の夏に生まれた小さな小さなチビ娘。
 日毎、生意気になって周りの大人達を楽しませていたおしゃまなチビ姫だ。
 それが大人になって、純一が戸惑うほどの女性に変貌していた。

 しかし、もう、手に届かないところへ行こうとしている。
 それでも、つい昨日のように──。その『猫姫』の柔らかな感触は生々しいほどに残っていた。
 それだけだ。たったそれだけで、生きている。
 目の前で、純一よりずっと若い男と寄り添う女は『義妹』であって、あの『猫姫』ではないのだから。
 あの日々、あの時は、例え夢うつつのようなものであったとしても、あの時の義妹は義理の妹なんかではなく、純一には焦がれた女性だった。

 いけない……と、純一は緩く微笑むなか、幻想を振り払うように頭を振った。
 あの焦がれた女性は確かに存在したものではあったが、あの夢うつつの状態で初めて生まれた女性だ。
 夢うつつの世界をこの男が造りだし、そこへ義妹を引っ張り込んで、彼女に在る訳がない夢を見せて、そして……手をパンと叩いた時に、一緒に目覚めて終わりにしたのだ。

 先ほどのカフスボタンを純一はつまんだ。
 あの時の猫姫の置き土産。これだけが、純一の手元に確かな物として残った。

 それを手にしているだけで、どこか満たされる物。
 指でつまんで、ひとしきり、そこに込められて置いていってくれた義妹の心を握りしめるように眺めていた時──。

 ──ガシャーン!!

 同じ二階。何処かからガラスの割れた音!
 純一はハッとして窓辺へと寄った。

『向こうだ!』
『逃がすな!』

 ジュールの直属部下達が、闇夜の警護をしている庭でそんな声をあげている。
 もしや!? ──純一の身体が自然に部屋の外へと走り出す!

「親父、何! 今の音……葉月ちゃんの部屋から……」

 先ほど、部屋を出ていった息子がまた階段を上がってきていた。

「来るな! エドの側にいろ」
「う、うん。分かった……!」

 真一が怯えた顔でも、言うことを聞いて階段を降りていく。
 その代わりに、ジュールが姿を現した。

「お嬢様の部屋の窓が狙われたようです! 何かが打ち込まれたようで……」
「なんだって! それで不審者の後は……!?」
「今し方、二人ほど追いに出ていきました」

 庭にいたジュールの部下達は、純一も認めている優秀な戦闘員だ。
 彼等が追いかけたなら……。いや、あの手際よい男なら、もしくは……? 優秀な部下でも安易な判断をしないことを祈りたい。だが、それよりもまたもや狙われた義妹が先だ……!

 ジュールと揃って、義妹の部屋に向かう。

「ボス……待ってください。今、お二人は一緒で……」
「分かっている! おい! 澤村! どうした! 大丈夫か!?」

 今夜から二人が一緒に寝起きをすることは分かっている。
 それに一時間前に、二人が一緒に入浴をしていたことも、その後も部屋から出てこないことも分かっている。
 だから、ジュールがいうようにドアを蹴破ることは躊躇い、一度はそこで留まり純一はドアを叩いた。

『義兄さん。大丈夫だ』

 ドアの向こうから、そんな隼人の声が聞こえてきた。

「入っても良いか?」
『悪い。ちょっと待ってくれ……』

 握りしめていた拳をドアに当てたまま、純一はじれったく待っていた。
 その間、決して考えてはいけないことを考えていた。この非常事態に……ふと義妹の肌を思い浮かべてしまったのだ。
 それならば、益々、見たくはない……! だが、直ぐにそこに行って義妹を抱きかかえて、部屋から連れ出したい……!

「澤村。葉月は!」
『大丈夫だ。でも、窓ガラスが割られた。ボーガンの矢のような物が……』

 ボーガンと聞いて、純一は目を見開いた!
 そんな威力のある物で、義妹を再び狙い打ちをしたのかと!!
 もう限界だった。純一は居ても立ってもいられずに、目の前のドアを開けてしまった。

「に、義兄さん……!」

 目の前には、グレーストライプのシャツを羽織っているだけといったふうのジーンズ姿の隼人が立っていた。
 丁度、ドアを開けようとしたところだったらしい。
 その隼人を押しのけて、純一は部屋に入った。

 暗い部屋だが、廊下から差す明かりの先に、ガラスが飛び散っている窓、そして床には破片に混じって矢が転がり落ちていた。
 そこで跪いて、手に取る。

「ジュール。一応、出所を調べてくれ」
「はあ……、あの入っても宜しいですか?」

 なにを悠長なことを言っていると顔を上げると……。

「義兄様……」

 ベッドの上で、素肌に毛布をくるませているだけの義妹が……。
 だから、ジュールもそれに気が付き入っていけないのだと解った。

 その艶めかしく淑やかな姿に、純一は囚われそうになりつつも、義妹にはなにも感じるところなどないとばかりに平静を装わねばならない。

「大丈夫か」
「平気よ……」

 それでも義妹が怯えているのは直ぐに分かった。小さく震え、隣に抱きしめてくれる誰かを欲していることも。
 だがそれは純一であってはならないのだ。
 そして、義妹もそれを充分に分かっている。だから震えながらも『平気』と言っているのだ。

 そのベッドの上には、義妹が着ているはずのネグリジェが無造作に置かれていた。
 どうやら、純一の勘は当たっていたようで、若夫妻となる二人は一晩早い愛の睦み合いをしていたようだ。
 純一はすぐさま目を背け、そのボーガンの矢を手にして廊下に向かった。

「直ぐ調べたい。悪いが『準備が出来たら』、俺の部屋に二人で移動してくれるか」
「分かったよ、義兄さん……」

 悪いが……と、義妹の肌をさっさと隠して、部屋を空けてくれと隼人に頼むと、彼も少しばかりバツが悪い顔をしている。
 こっちもバツが悪い。だが、これは一大事なのだ。
 婚姻前夜にこの犯行──。こちらが幸福で華やいでいるところを、突き落とす……。あの男がやりそうなことだと、純一は奥歯がぎりっと鳴るぐらいに噛みしめた。

 その矢を握りしめ、純一はその部屋のドアを閉めた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そのまま一階のリビングから、ずっと庭を眺めている。
 二階の義妹の部屋には、エドを向かわせ片付けと早急の窓ガラスの処置を任せている。ジュールは庭に出てさらなる厳戒態勢を指示、そして矢が放たれただろう位置と場所を弾き出し、疑わしい位置の捜索を部員にさせていた。

「純! これはどうしだことだ!」

 年寄りは結構、寝付くのが早い。
 先に、一階の寝室で休んでいた亮介がガウンを羽織った姿でバタバタとやってきた。登貴子はすぐさま娘が居る二階に出向いたようだ。

 純一は無言で、ダイニングテーブルに置いたボーガンの矢を指さし、亮介に見せた。

「こんな物が、葉月の部屋に!?」
「ああ。しかし、部屋を狙い打ちしたのは確かだが、葉月が標的ではなかったようだな」
「それは、どういうことだ?」
「腕のある奴なら、窓辺に葉月の姿が見えた瞬間を確実に狙う。だが、矢が落ちていた位置も、そして葉月も……」

 そこで純一は口ごもる。
 葉月が狙い打ちされなかったと判断した訳は、『ベッドで男と寄り添っていて、窓辺から立ち姿が見えるような状況ではなかった』とは……父親の彼には言えなかった。

「まあ、その……チビは横になって早々に休んでいたようなのでね」

 これでこの親父が騙せるかと純一は思うのだが、亮介がどう感じ取ったかは見ないようにした。
 だが、亮介はそれどころではないようで、ボーガンの矢を食い入るように眺めていた。

「では、葉月を狙ったのではなく、『脅かし』のような物だということか」
「おそらく。しかもこの家が明日の婚姻で華やいでいることも、知っていると……考えたくなるところだな」
「ふうむ」

 亮介が顎をさすり、口ひげもすっと指で撫でた。

「まさかとは思うが……」
「オジキ、悪いが。俺のところに密通者がいるとは思えない。だが、岬基地の『前例』もある。ジュールに徹底させる」
「悪いな。疑いたくはないのだが……」
「分かっている、オジキ」

 亮介だけではない。純一もそれを頭に掠めてしまったのだ。
 考えたくはない。あのジュールの直属部隊だ。間違いはない……。

「どうかされたの? 何の騒ぎ?」

 白衣姿のジャンヌも出てきた。
 そして彼女はすぐにテーブルの上にある矢に気が付き顔色を変え、駆け寄ってきた。

「まさか……!」
「ええ、そのまさかですよ」
「彼女は!?」
「無事ですよ。多少、怯えていますが、澤村がついているし、おふくろさんも今向かったところで……」

 と、純一が全てを言い終わらない内に、ジャンヌも白衣を翻して二階へと向かって行った。
 女医が殊の外に慌てた為か、それにつられるようにして、亮介も娘の元へと飛んでいってしまった。

 あの食えない女医が顔色を変えるほど……。純一の目の前にある『矢』は、婚姻前夜で華やぐ一家には異物だった。
 彼女も初めて肌で感じたことだろう。この一族がどれだけの大敵と長年対峙し……。そしてそこの長兄である右京が、部外者を巻き込むことを恐れてきたか。
 だが、彼女はきっと怖れはしないだろうと純一は感じていた。あの真白き青年が、熱い心ひとつでこの一族に飛び込んできたように……。
 また一人の部外者が、純一が寄り添っている哀しい一族の子息に息女に熱い心で共になってくれる気がしていた。
 彼女にはその根性と気構えがある。

(それなのに、右京はどこをうろついているんだ)

 今夜帰ってくると、一昨日に連絡があったきりだった。なのに夜半になっても帰ってこない。彼が帰ってくる前に、こんな騒ぎも起きてしまった。
 携帯電話での連絡は皆無に近い。
 電源が切られていたり、留守電になっていて出なかったりで、結局は着信履歴を目にした右京から連絡をくれることを待つしかない近頃だ。
 葉月が訓練生名簿を見ても、それらしき人物はいなかったことも連絡した。右京は葉月の決意に驚いていたが、分からないなら葉月の記憶に無理に触るなと怒り、また独自の調査に精を出している始末。それにちっとも収穫がない。判らないなら途方もなくうろうろしていないで帰ってこいと何度か言った。だけれど、右京はじっとしていられないのだ。彼はこの時を待っていたのだから。しかし──もう、一ヶ月半経った今となっては、タイミングがずれすぎている。ゴーストも這々の体で逃走完了していることだろう。そして奴はまた、自分のテリトリーに戻り、こちらをニヤニヤと見ているはず。

 だが……あちらから『来た』。
 それが婚姻前夜であることが憎々しいが、落ち着いて考えれば、それはそれで向こうから顔を出そうとしているようにも思えた。
 つまりそれは、手がかりを掴むチャンスでもある。

 ジュールが息を切らして、庭からリビングに入ってきた。

「ボス」
「何か判ったか」

 弟分のジュールがいつになく慌てているように見え、純一の胸はざわついた。
 そしてそのジュールが思わぬ報告をする。

「追跡したのですが、逃げ切られてしまいました。申し訳ありません。ただ……聞いたところ、逃げていったのは若い女だったそうです」
「女だと?」
「はい。矢を発射しただろう思わしき位置にも、女性らしき足跡が。大きさから見ても男の物ではないと思われます──」

 『女?』と、純一は何度も首を傾げてしまった。
 てっきりあの顔も判らぬ男の仕業かと思っていたものだから……。
 その上、ジュールがもっと疑問に思うことを言いだした。

「黒髪の小柄な女性だったそうです」
「日本人か」
「断定は出来ませんが。しかし何かの意思表示のような犯行は姿も見せないくせに存在感を匂わすやり方は今まで通り、あの男らしいとは思えるのですが。たとえ女を使ったとしても、その依頼しただろう使い手がこのように『姿を確認される』ような手際をするレベルとは──。はっきり言ってその女がプロなら手抜かりばかり。『幼稚』としか思えません」
「確かに……」
「こちらも追跡せねばなりませんね。意外とこちらは早く捕まえられるかも。例の男と繋がりがあるかは解りませんが」
「今までも、仲間の気配などなかったぞ」
「らしくないですね。この犯行が別件だとしても、悪戯にしては何を見定めてここを狙ったのか……」

 二人一緒に唸ったが、純一は素早く切り替える。

「ともかく。どんなことも見逃すな。その女も追え」
「はい。今、追っています」
「しかしお前のチームから逃げ切ったとは、素早さは抜群のようだな」
「小柄な分、身軽なようでした」

 そうかと、純一は溜息を落とす。
 ジュールはまた庭へと戻っていった。

 その晩、この療養一軒家の庭は黒いスーツを着ている男達で物々しくなってしまった。
 もう庭師や業者、ハウスキーパーや看護師に扮して、目先を誤魔化すという物ではなくなった。
 こうして物々しくしておけば、あちらもそうは近づけないことを悟るだろう。再度の犯行があったとしても『時間稼ぎ』が必要だ。

 どんなに物々しくしても、義妹が決心した『婚姻』は無事に迎えさせたい。
 今日も、白いドレスが届いた時は、何とも言えない嬉しそうな顔を見せていたのが、純一の目に焼き付いていた。

「まったく、無粋な……」

 しかし女を使って、『婚姻で浮かれているな』と言いたげに脅しをかけてきたのが、どうも腑に落ちない。
 わざと手際の悪い女を使ってこちら側に『自分とは無関係の別件の犯行』と思わす為そんなことを? いいや、それならば、彼の存在感を示す目的から外れる。彼は多少の匂いと存在感を残すやり方をする。それならば、彼自身がすれば良いではないか? それとも? 女を使って手際の悪い犯行を見せつけたのも、幽霊の計算の内なのか?
 そうだとしても、それこそジュールが言ったように、手慣れていない女を使って脅かしに来たやり方は腑に落ちないし、女のやり方は『幼稚』だと思えて仕方がない。

 純一はリビングのソファーに座る。
 日本庭園が見える位置にある、単体一人がけの大きなソファーだ。
 そこで部員達の動きを監督するように、じいっと考えていた。

 その間、エドの手配で夜中だというのにガラスが運ばれ、夜が明けるまでに義妹の部屋は元通りになった。
 夜が更けてからも、隼人が降りてきて『葉月は義兄さんの部屋で、先生にもらった軽い薬で眠った』と報告をしてくれたが、先ほどの睦み合いを見てしまい見られてしまいを意識してしまったのか、彼はそのまま二階に上がっていった。
 そのうちに、徐々に家の中が静かになる。
 心配していた亮介も明日は花嫁の父だというのに、いつまでもリビングで頑張っていた。うとうとしているのを見かね、自分が起きているからと寝室へと向かわせた。
 登貴子は大事な一人娘を婿へと引き渡した気持ちになったそうだが、流石にこのようなことになっては気が気ではないようで、葉月の側につきっきりのようだった。
 部員達が一晩中、交代で庭とこの家の周辺を、ボス猫の目が光る中、巡回している。

 もうすぐ、夜が明ける──。
 義妹が花嫁になる朝がやってきた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 日が昇れば、大胆な犯行は出来ないだろう。
 朝の光が射し込んできて、純一はほっと、ひとまず安堵する。
 その途端に、眠気が差してきた。

「ボス。今夜のお祝いの席の為に、先に休んでください」
「すまない。そうする」

 朝になり、朝食の準備を始めたジュールが純一が座っている目の前に、コーヒーを一杯置いてくれた。
 だが純一はそのまま目をつむってしまう。

「ボス。お部屋で……」

 その部屋には義妹がまだ寝ているはずだ。
 だからジュールもそこまで言って黙ってしまった。
 そのソファーで腰をかけたまま、純一は頭をもたげて力を抜いた。こういった眠り方は慣れている。そんな仕事もしてきた……。

 小鳥のさえずり。
 風の音。
 良かったな、今日は天気だ。
 二月も半ばになってきて、気のせいかも知れないが風も心なしか寒さを和らげてきた気がする。
 降り注ぐ日射しの中、夢に落ちそうで落ちなく、それでも目が開かず……。
 昨夜の緊張感は何処へ行ったのか……。うららかな晩冬の日射しに包まれ、純一の心は和らいでいた。

『……様』

『にい さ ま』

 微かに聞こえる柔らかい声に、うっすらと目を開けた。

『残念、まだ眠たそう』
『そうですね。直に目覚めましょう。お茶でも如何ですか?』
『いただくわ』

 ジュールの声、そして……。
 純一はそこでふと目を開ける。
 すぐ横に、車椅子に乗っている義妹がそこにいた。

「純兄様!」

 彼女が無邪気なだけだった頃そのままの、良く知っている笑顔がそこにあった。

「葉月……。どうした」

 もたげていた頭の重さで痛んだ首を手で押さえ、顔をしかめつつ身体を起こす。
 するとそれを目にした葉月が途端に申し訳なさそうな顔になった。

「ずっと起きていてくれたと聞いて……」

 起きあがったので、ソファーに座ったまま肩越しに振り返る。
 葉月がそこにいるならと思ったのだが、この部屋にはキッチンにジュールがいるだけ。葉月は今、一人のようだ。

「澤村は」
「彼もずっと起きていてくれたの。シンちゃんと寝ているわ」
「では、お前一人で?」

 葉月がこっくりと頷く。
 どうやら一人で車椅子に乗り込んで、ホームエレベーターを使って降りてきたらしく、純一は驚いた。

「シンちゃんまで昨夜は頑張ってくれていたみたい。なのに……私だけお薬で眠ってしまって……」
「気にするな。危ない目にあったのだから」
「うん……」

 やや気にしていたところを、純一がそう言った為か、やっと力が抜けた微笑みを浮かべていた。

「私、ここにいるから。義兄様もお部屋で眠って」
「それを言いに来たのか?」

 また義妹がこっくりと頷く。
 だが純一は、そのままそこで腕を組んで、どっしりと座り直した。

「余計なお世話だ。お前は今夜、花嫁になることだけを考えていればいい。俺は俺の好きなようにするから、放っておけ」
「そう……ね」

 無愛想に突き返すと、葉月が致し方ない微笑みを浮かべて黙ってしまった。
 しかしそれは一瞬、彼女はすぐに愛らしい顔で純一を見ているのだ。
 純一のつっけんどんな無愛想さなど、この義妹はチビの時から当たり前。つっけんどんに接されることが辛いとか寂しいとか、それ以前に『当たり前』なのだ。しかも、このやっかいな性格の純一と一番上手く付き合い続けてくれるのは、この義妹だった。

 それは別れた今も、変わりはないようだ。
 だから余計に意固地になってしまう。
 以前と変わらぬ心地よさを感じさせられると、純一の方が寂しくなってしまうではないか。
 そんな本心は決して誰にもみせたくはない。特に義妹には一番、悟られたくない。
 あの日、シャンパンの泡と一緒に消えていなくなったように、そのまま嫁に行ってしまえばいい。
 むしろ、早く行ってしまえと思っているのだ。

「でも、義兄様……。有り難う」
「なにがだ。知らん」

 ついに純一は立ち上がり、リビングを出ていこうとしたのだが……。

「義兄様、私が入れるお茶を召し上がってくれる?」
「要らない」
「義兄様……。お茶も入れさせてくれないの?」

 去ろうと背を向けていたが、その哀しそうな声に純一は思わず振り返ってしまった。
 そこに今にも泣きそうな義妹の顔。

 彼女の傍にはいつだってあの義弟になる男と、両親がいた。
 意識を戻し、ある程度話せるようになってからは顔を合わせるだけで、傍に付き添うこともなかった。
 彼女を避けているというのは否めない。
 それも皐月のことをどう話せばよいか解らなかった事もある。それにあの別れの時、まるで別世界へと送り出した義妹は本当に別世界にいるように思えて、側に寄れなかったのだ。
 彼女が回復すればするほど、警護に力はいれども距離を作っていたのは本当のこと。
 それを義妹も仕方がないとは思えど、慕い続けてきた心が寂しく思っていることも、純一には解っていた。
 しかしそれでも……だったのだ。今日までずっと。
 純一は、そこで去ろうとしたソファーに再び腰を下ろした。

「もらおうか。ただし……」
「お砂糖なしのエスプレッソね」

 義妹が嬉しそうに笑う。
 そしてエスプレッソを入れるのを手伝って欲しいとジュールを呼びつけ、車椅子のまま二人でキッチンへと行ってしまった。

 ジュールと義妹がなんやかんやとキッチンで賑やかにエスプレッソを入れている。
 やがて純一の元にも、薫り高い珈琲の香りが漂ってきた。
 良い香りだ。そしてまるで家庭にいるかのような気持ちにさせられる。
 気心知れている同居人の男と、義妹。彼等の声と、日だまりの庭と風と小鳥の声。
 ふと目を閉じた。もしかしたら、あったかもしれない日々をこうしてたった独り、静かに密かに想うことぐらいは許されるだろう──。

 なのにその僅かな至福を勝手に感じ取っていると、漂っていた珈琲の香りがふうっと窓辺へと逸れていったような気がして、純一は目を開ける。
 するとそこには、午前の燦々と降り注ぐ日射しの下に、栗毛を煌めかせている男が笑顔で立っていた。

「よう。意外と趣のある療養家じゃないか」
「右京! お前……!」
「いいね、この藤棚。惜しいな、初夏なら見事な藤が楽しめただろうに。花も咲かない冬とはね」

 その藤棚のあるテラスから、彼がリビングへの窓を開けて立っていたのだ。
 綺麗に身なりを整え、いつもの貴公子のオーラを取り戻している。
 しかもお得意の水色のスーツ姿で、片方にはリボンをかけた大きな箱を持ち、片方には大きな花束を二束も肩に背負っているのだ。
 あまりにも派手で気障なありさまに、流石の純一も唖然とした。

「わりい。鎌倉の実家に一度帰って支度しようと思ったら、眠っちまってさあ。起きたら朝だぜ。驚いた」

 散々心配させて置いて、彼はいつもの軽いノリの笑顔で、上がり込んできた。
 するとそれだけ派手な姿をしているためか、キッチンでお茶を入れていた葉月も直ぐに気が付いたようだ。

「右京兄様……!」
「よう! 今宵の花嫁、おめでとう」

 葉月はとても驚いたのか、はたまた待ちかねていたのか、右京の元に一目散に駆けつけるかのように車椅子を進ませようとしていた。それを察したジュールが、葉月を右京の前まで連れてきた。

「兄様! 何処をうろついていたの!? 私が直ぐに帰ってきて欲しいという連絡、聞いてくれなかったでしょう!!」
「まあまあ、そう怒るな。いろいろと寄り道ってあるだろう? あちこち巡っていたらさあ、まあ、いろいろな景色にも目を奪われるわけよ」
「はぐらかしても駄目なんだから! あの男はね──」
「おっと。今日はその件の話は聞きたかないね」

 右京は真顔でそう言うと、頭に血が上っているような葉月の目の前に肩に背負っていた大きな花束を、ばさりと振り下ろした。
 真っ白な薔薇と青い小花とグリーンでまとめられている清楚で涼しげな花束だった。

「そんな口がきけるようになって、お兄ちゃんは安心した。これはお祝いだ」
「兄様……。待っていたのよ。あれからずっと来てくれないんだもの」
「悪かった。でも、元気に回復していると連絡があったから、安心していたんだ」

 花束を受け取った葉月だが、祝福の贈り物よりも、従兄が帰還したことに感極まっているようだ。
 そして右京がこの上ない笑顔を従妹に向ける。

「よかったな。葉月……結婚、おめでとう」
「……有り難う」

 葉月は、花束を両手一杯に抱きしめ、やっと花嫁の笑顔になる。
 純一も、その時は素直に微笑ましく見守っていた。
 だが、暫くして葉月がこの上ない貴公子に変身した従兄を不思議そうに見上げている。

「兄様? その花束は?」

 もうひとつ、右京が抱えている大きな花束はこれでもかと言うぐらいに明るい黄色でまとめられていた。
 ガーベラーにミニ薔薇、様々な黄色い花がまるで歌でも唄い出しそうなぐらいに賑やかに、華やかに。純一の目から見ても、それは水色のイメージをもつ葉月宛ではないことが判った。
 そして、直ぐに相手も判った。それは純一だけでなく、葉月も……。

「分かったわ! その花束……」
「なんのことだ?」

 ところが右京は『なんのことだ?』ととぼけつつも、顔は笑っているのだ。
 それがチビである葉月に悟られても『もう、構わない』という顔のように純一には感じられた。
 だから純一も、一言、言ってやる。

「やっとその気になったのか」
「だーから、なんのことだ?」
「その色、彼女の『金髪』みたいだな。一度だけ見たが、あの髪を下ろしているとかなり目立つ、見事な金髪だもんな」
「へえ。割とよく見ているんだ。そうだよなあー色男」
「うるさい。早く渡して来い」

 その兄達の会話に、葉月の顔が輝いた。

「右京兄様、それ。やっぱり『先生』に渡すの!?」
「……まあな」
「素敵! 早く行ってあげて! 先生、待っていたんだから!!」

 葉月の『先生は待っていた』という言葉に、右京は急にまんざらでもないような顔で照れて、顔を逸らしてしまったのだ。
 これは良いものを見てしまったと、純一としてもかなりにやついてしまった。

「そうだ、そうだ。彼女、お前を待ち焦がれている事を顔に出さずに、本当に葉月だけでなく、この家族皆の為に頑張ってくれていたんだ。なあ、葉月」
「そうよ。私、もう……先生のこと、本当にお姉様のように思っているんだから……」

 葉月と並んでそう言うと、途端に右京がどうしようもない苦笑いを浮かべて俯いてしまった。
 だけれど、彼は言う。

「ああ、分かっている。旅している間に純から聞いて……。俺も、色々と考えた」

 考えて……『それで、どうするのだ』と問いただしたいが純一は言えず。そして隣にいる葉月も右京のその姿に何も言えないようで、切ない顔で見つめていた。

「先のことは分からない。だけれど、今ある気持ちだけは……正直に伝えても良いかと……思って……」

 まだ迷いがある言い方。
 気持ちはあれど、それでも『彼女を巻き込むのは忍びない』という気持ちも拭えていない上での決意なのか?
 だが、それもあのジャンヌが誠心誠意に、葉月を患者として看るという使命以上に、一族の中で奮闘してくれた気持ちが通じたのかと純一は思えた。

「行ってこい。右京……」

 遅すぎないように──。
 俺のように、遅すぎないように──。
 恐れることが胸を締め付けても、それが彼女の為なのだと何度も捨てようとしても。
 それでも心が燃えるなら行くべきだ。

 今の純一は、幼馴染みの彼にそう叫びたい。
 ……義妹がそこにいないのならば。
 そして幼馴染みの彼が、言い続けてくれていた言葉であったはずだ。
 ただ純一はついに、そのアドバイスに報えることは出来なかったのだが。だからこそ……!

「彼女は……?」

 右京が静かに聞いてきた。
 葉月と一緒に、二階の自室にいると答えると、彼は花束をばさりと肩に背負い、前を向いた。

「いってらっしゃい、右京兄様」

 葉月も嬉しそうだった。
 いつまでも独りでふらついていた従兄の本気を見たのだろう。
 彼がリビングのドアへと向かっていく。

 だが、肩越しに振り返って一言。

「純、話がある」
「あ、ああ。分かった」

 彼の目が恋とは別の意味で輝いた気がした。
 その眼の色に、純一はドキリとした。
 ごくたまに、彼が本気になった時に見せる眼。どこか恐ろしさを秘めているようで、その時ばかりは純一も気構えてしまうのだ。

 花束とリボンの箱を抱えている右京と一緒に、リビング外の廊下に出た。
 階段へと向かう途中で、彼が立ち止まり、後ろについてきていた純一に振り向いた。
 その時、あれだけ先ほど煌めいていた彼の周りを取り巻いていたオーラが急に陰ってしまった。そして純一はやるせない気持ちで目を細め、幼馴染みを見た。
 ……痩せたな。少しやつれたなと思った。それを従妹に心配をかけまいと今まで通りに明るく装ったのは流石だと思ってしまった。
 その彼が話し始める──。

「留守の間、こちらを任せきりにしていてすまなかった」
「なにを今更……。俺が言うのもなんだが家族同然じゃないか」
「……それに、音信不通にして申し訳なかった」
「まあ、たまに連絡が返ってきていたから安心はしていたが……」

 徐々に彼の眼が、妙に鋭く輝き出す。
 どこか闘いを挑むかのようなその眼の色は、滅多に見られるものではなく、垣間見せたのならその時は黒猫のボスもおののく眼だ。

「実は──。幽霊はここ数年、北海道の室蘭辺りを行動範囲にしていたらしく、今まで勤めていただろう場所など当たっている内に、思わぬ話を耳に入れてね」
「思わぬ話──?」

 純一が首を傾げると、右京が驚くことを言い始めた。

「ここ数年、葉月が火山村で見た幽霊には『女房』がいたそうだ」

 そこで純一にピンとしたものが、頭の中で弾いた!
 幽霊と関係のある、『女』とくれば──。

 

 昨夜のボーガンの女は、この女だと!

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