日射しの中で、ひときわ強い光を放つ銀色のリング。
「これが良いかしら。それとも、これかしら? ねえ、隼人さんはどう?」
意外だった。葉月は、嬉しそうにリングを品定めしてるのだ。
あまりにも予想外だったため、隼人はややぼう然。葉月が影を漂わせ躊躇いながら、『選べない』と言い出した場合のことばかり考えていたからだ。
それはつまり『今までならそうであった』と言うことなのだが。今回は違うようだ。
それでも──。先日、『ゴーストの正体』がやや判明してから、葉月は時には黙りこくって、窓辺の景色をまた静かにじいっと伏せがちな眼差しで見つめてはいるのだ。
まったく気にしていないわけでもない。だけれど、今、目の前の彼女は、まさに直に花嫁になる女性の顔そのものだった。
安心はしたが、やはり釈然としない。
でも、こうでもしないと『この前まで、あれだけ入籍をすることに幸せそうだったのに、何故落ち込んでいるのか』と、家族に怪しまれてしまうだろう。
今はまだ、ジュールに任せている調査結果が出るまでは、少なくとも『今まで通り』でなくてはならない。
それを、葉月も分かっているのだろう──。隼人はそう思うことにした。
「こちらは、近頃のお若い方に人気のあるものですね。こちらは、定番でベストセラーといいましょうか」
「流行も、自分たちが結婚した時代を反映しているようで素敵だし、時代に流されずに愛されているものも素敵ね」
葉月は一つ一つ手にとっては、自分の指にはめて、上に手をかざしニコニコとしているのだ。
まるで全ての指輪が自分の物になるかのような勢いで、指にとっかえひっかえ……。
「でも、隼人さんならきっと、時代に流されないシンプルな物が良いと言うわね」
「そうだな。どちらかというと俺はそういうのが好みだな」
「せっかくだから、エドに『私達の雰囲気』で選んでもらわない?」
葉月の無邪気な笑顔の提案に、エドが驚いた。
「と、とんでもない! わたくし如き!」
「まあ、ご謙遜。兄様も、エドの美的センスは本業を越えていると褒めているわよ。私もそう思うわ」
葉月のお世辞ではない本気の評価。
隼人も同感だった。
この前、横須賀基地の側で使っていた一軒家も、この療養一軒家も、すべてエドがスタッフとコーディネイトしたと言う。
彼全てのセンスではないが、エド直属のスタッフチームというのはなかなかの仕事ぶりだった。登貴子でさえ、そこは『流石だわ、流石だわ』と太鼓判で、『この家は落ち着く』と言っているのだから。
「そうだな。試しに見立ててもらおうか」
「そうよ。それに決めるかどうかは別にして、エドがどのようなものを選んでくれるか知りたい!」
「俺も知りたいな」
二人揃ってねだるので、エドは照れつつも『では』と、白い手袋でリングを幾つかのグループに分け始めた。
グループは四つに分けられた。その中の三つから、エドが一つずつ選んで、葉月の手元に置く。四つ目のグループからはなにも選ばれなかった。
葉月の前には三つの指輪。エドの白い手袋の手が彼の元に落ち着く。選び終わったようだが、結構、迷いのない即決だったように思える。
「四つに分けましたが。この何も選ばなかったグループは、似合う似合わないは別にして、お二人が『好まないだろう』と判断した物です」
二人で『へえ』と言いながら、似合わないと判断されたリングを見ると、結構重厚そうで幅広のリング、中には石がはめられているのもあった。
隼人と葉月は顔を見合わせて『確かに』と頷き合う。二人揃ってもきっと選ばないだろうというのは納得だった。
さらにエドの説明が続く。今度は葉月の前に差し出された三つのリング。
「こちらは、先ほどお嬢様が仰ったように、時代の流行を反映しているもので長くつけていてもそれほど流行遅れというものを感じさせない後世も残せるデザインがあってないようなものです。こちらは流行がというよりかは、カジュアルタイプ。若い内はお似合いでしょうが、年齢を重ねていくとやや重みが失われるタイプですが、最近のライフスタイルの傾向ではそうは左右されないでしょう。最後のこちらは、完全に『定番』です。ただし……」
二人揃ってすっかり聞き入っていた隼人と葉月は、リングを凝視していた視線を揃って『ただし?』と、エドへと向けた。
「定番ですが、重厚です」
手にとって見てはと、エドが勧めたので、隼人も葉月と一緒にそれぞれを手にした。
エドが定番で重厚といったリングを手にして『本当だ』と隼人も驚いた。見ると触るとでは大違いだ。
「シンプルなのに……重いわ」
「うん。手触りも違う」
葉月はそれと指に通してはめた。
隼人もそれを見て、つられるようにはめてみた。
「うん、はめている。という感じがするわね」
「本当だ。はめているという重さがある」
同じ感想で、二人は顔を見合わせる。
そして、一緒に微笑み合い、揃って指輪を抜いた。
最後に確かめるように、もう一度お互いを見て頷き合う。
「エド。俺達、この指輪にするよ」
葉月と一緒に、エドにその試着した指輪を渡した。
あまりにも早い決断だったためか、隼人に従って黙っている葉月を、エドが確かめるように見た。あまり迷いがなかった為かエドは『他の指輪にも迷いはないか』と言いたそうだった。だが、葉月は『異論はない』と言わんばかりの微笑みを見せる。
それでエドもお互いの意志が迷いなくぴったり一致していると納得できたようだ。
「そうですか。こちらで、宜しいのですね」
二人一緒に頷くと、エドは特になにかを感じるふうではない淡泊な様子で、指輪を受け取った。
「それでしたら。刻印する言葉などありましたら」
「二人、別々の言葉なの」
「良いですね。文字数の関係もありますので、お考えの言葉を一度見せてください」
相変わらず淡々としているエドにメモ用紙を渡される。
それに隼人と葉月は、お互いの目に触れないよう背を向き合うようにして書き込んだ。そろって二つ折りにしてエドに渡す。エドがそれを開いてみようとした時、葉月がハッとしたように叫んだ。
「エド! 指につけるまでは内緒なの。口にしちゃ駄目よ!」
「判りました。では、私の胸に納めておきますね。ではお相手には判らないよう拝見致しましょう」
淡々としているエドは、葉月がそこは必死になったので可笑しくなったのかやっと笑っていた。
勿論、隼人も、微笑んでしまった。それに、そこまで指輪交換にこだわりをもって懸命になっているのなら、本当に『結婚に迷いはない』と判る。隼人も『このままでいいのか』と思ってはいるが……。
その間に、エドが二人で書き留めたメモ用紙を二枚開いて、ちょっと面食らった顔をしていた。
……なにか、可笑しかったのだろうか? と、隼人は思ってしまう。隼人も新たに贈る言葉を記しはしたが、やっぱり人に見られるのは気恥ずかしいし、照れくさい。だが、それは葉月も同じようだ。
「なあに。エド──私のがおかしいの?」
「いや、俺の方がおかしいのかも!」
葉月でないなら、隼人の方かと思わず揃ってエドに詰め寄ってしまったのだが。それにも一瞬、たじろいでいたエドが、ついに最後には笑い出していた。
「いえ。お二人とも、素敵な言葉を選ばれたなあと」
「嘘。驚いていたじゃない? やっぱり私のその言葉、おかしい? もっと違うのが良いと思う?」
「あ、葉月。人に聞くのは違反だぞ!」
「そうですよ、お嬢様。どんな言葉であれ、ご自分のインスピレーションで選ばれた物なら本物ですよ。私は、これで良いと思います」
葉月は『そう?』とちょっと信じがたい目をエドに向けていたが、それでもエドが言ったことはごもっともな言葉だ。葉月もそこは納得したのか、選んだ言葉に自信は取り戻したようだ。
だったら『俺のがおかしいのか?』と、隼人は不安になってくる。でも、それもエドの言葉で言うなら『間違いなく、自然に生まれた言葉』だから、もう訂正する気もない。
ただ──以前の『共に勇気ある前進』よりかは、凝っていないからなあとは思っている。
(葉月はどんな言葉を考えてくれたのだろう?)
葉月は指輪を選ぶ前から『当日、交換するまで内緒よ』と言い張っているのだ。
そこまでされると隼人も、とっても気になる。
それに今までは、無感情な彼女の心に色が灯るようにと願いながら、隼人が言葉を与えると言うことが多かったと思う。その無味だった葉月が、隼人の為に何色かを考えるかのように言葉を贈ってくれると言うのだ。それはもう、隼人は嬉しくて仕方がないというのが本心。だから、隼人も当日を楽しみにはしていたのだ。──しかし、それだけで喜んでいられたのは、先日のゴーストが純一の先輩だったと知るまではだった。今でも楽しみにはしているが、真っ正面から喜べないことも本心で複雑だ。
「では、日付、お二人のイニシャル。そして贈る言葉で刻印できるように致しますね」
意外と早く決められた。
選んだシンプルな銀のリングが、ビロードのトレイの上で煌めいていた。
この二つの輪が、お互いの印。そして、繋ぐ輪。
エドがそれだけを除けて、他のリングをケースに片づける。その合間に、エドが一言漏らした。
「お二人がお互いに選ばれた言葉を拝見させて頂きまして思いました。やはり、お二人はこのリングを選ばれて正解だと思いますよ」
「そうなの? その言葉とリングがぴったり似合っているって事?」
エドに『正解』と言われて、葉月も嬉しそうに笑顔が輝いた。
「はい。この言葉を最初に見せて頂いていたら、私は迷わず、このリングをお勧めしたと思います」
そして、エドが最後にそのリングを『オーダー品』として、手のひらサイズの別ケースに丁寧にしまい込んだ。
「おめでとうございます。お二人はお似合いだと思いますよ。当日の指輪交換、楽しみですね」
いつも『職務第一』と言った硬い表情でいるエドの、心よりの祝福してくれる笑顔。
それを見て、隼人と葉月は顔を見合わせ照れてしまっていた。
すべてを片づけたエドが指輪のケースを収めたアタッシュケースを手にして、去ろうとしていた。
「指輪は当日、お披露目会を行うお部屋に準備致します。お嬢様、先日お渡ししたカタログから、お気に入りのドレス、決めていただけましたか?」
「いいえ。いざとなると迷ってしまって……」
「今回は、内輪のみの親族会との事ですから、既製品ですが。それでもサイズ合わせをしたいと思っていますので、出来ましたら明日までにお決めいただけますか?」
「分かったわ。決めておきます」
「宜しくお願い致します」
エドがすっと頭を下げて、部屋を出ていった。
「ついに来週か」
「本当ね」
駆け足であらゆる準備をした一ヶ月だった。
来週、療養しているこの家に御園家と澤村家が集まって、ささやかな入籍祝いとお披露目会の晩餐をする予定なのだ。
横浜の和之もたまに見舞いに来るようになっていた。一番最初にやってきた時は葉月が以前と変わらない笑顔で迎えてくれた為、とても感極まったのかこれまた崩れて泣いたぐらい。そんな父を見て、隼人は『色々あったけれど、もう義理の娘同然なんだな』と思うことが出来たし、そうして我が子である隼人と同調するように、葉月を愛してくれることは息子としても嬉しかった。それから何度か、菓子箱片手に見舞いに来ては、葉月が元気になる姿を見て、そして御園の主である亮介と、婿入りとかお互いの子供達の結婚する段取りを話し合っては、笑顔で横浜に帰っていった。
『やっとだな。早く、捕まえてしまわないとな』
『捕まえるものじゃないだろうけど。まあ、掴みたいと思っている』
『もう……嫌だよ。あんな思いは沢山だ。早く二人で幸せになりなさい』
葉月が殺されかけた出来事は、流石の父もだいぶ堪えたらしい。
近頃は、顔を見せれば『早く結婚、早く結婚』とばかり言う。自分の息子が婿に行ってしまうという感覚ではなく『早く一緒になれ』とそればかりを願っているようだ。
葉月は元気になったら一番に横浜の実家に出向き、隼人の生母である沙也加の仏前にも挨拶をしたいと言っている。和之もそれを楽しみにしていた。今度こそ──。足止めされてしまった『横浜行き』を実現させたいところだと隼人も願っている。
そんなふうにして、周りは二人が結婚すると信じているのだ。
でも──と、隼人は葉月を見る。
「結婚は延期すると言うかと思った」
「義兄様に大変な事実が判明したから?」
「そう。自分だけ幸せな気持ちにはなれないとね。あるいは義兄さんにまだ言えないのに、それを黙って幸せな顔で結婚は出来ないってね。俺も、その気持ちあるし」
だが葉月はとても哀しそうな目で隼人を見ていた。
その何かを超越したような静かな目は、近頃の彼女が見せる目。そう、彼女が純一の元に逃避行してしまった後、小笠原に帰ってきた時に見せていたあの凄絶と慈愛の両方を見据えている眼差しと似ている。そんな静かな目だ。
その目で見つめられると、やっぱり隼人はドキリと心臓の脈が大きく動くのだ。
そんな湖のような眼をしている彼女が僅かな微笑みを唇の端に刻んで言った。
「結婚は祝福される幸せな出来事だろうけれど。でも、結婚をする時は、なんの問題も事情もない完璧たる幸せな状況でないといけないの?」
葉月のその言葉に、隼人はハッとさせられた。
その葉月が言っている意味が直ぐに判ったのだが、彼女が先に続けていく。
「むしろ私はこの『どん底』という時にこそ、貴方と強く結ばれたいと思っているわ。辛いことがあるから結婚できないじゃなくて、辛いことからお互いに逃げ出すこともない、むしろ立ち向かっていく為の誓いを……立てたいと思っているわ。もう、逃げない。辛くても貴方の為にも生きていく事をね、誓いたいの。貴方の前で」
そうだった! 隼人は『しまった』とさえ思った。
なにもかも、全ての問題もなくなり障害もなくなって、全てが解決された至極の状況にならなければ結婚は出来ない。と、以前は思っていた。
だから、前回の求婚の際には、葉月に無理矢理、純一へと向き合う荒療治的な状況を作りだして向かわせてしまったのかもしれない。
もう、そうではない。以前、ジャンヌに向かって言いきったように、葉月の心の傷が『一生、治らない覚悟』も出来ているのだ。それならば、今回も同じ事──『一生、解決されない事情』があったとしても、それも背負う覚悟で結婚をするのだ。
『幸せである証を立てる物』ではなく『どんなことがあっても、今、持っていても、それらを全て』──どちらが持っているものも、良いものも悪いものも分け合って背負うことだったのではないのか。葉月の心は、そう言っているのだ。
それならば『大切な義兄に哀しい裏切りがあった事実を知ってしまった』という苦しみも哀しみも、指輪を交換する時に一緒に背負えばいいだけのこと。
「今、私達は厳しい状況にあるけれど、それでも尚、二人で結び合い、今から目の前にある大きな障害を乗り越えていこうという気持ちがあってこそでしょう? 問題がなにもかもなくなったから結婚するだなんて──。それなら私、貴方との結婚は今すぐ取り消さなくてはならないわ。だって、私にはきっと一生……『問題』がまとわりついていくはずだから……」
「そうだったよ、葉月」
目から鱗の気持ちで、隼人は葉月の頬をそっと撫でる。
それに、このような覚悟を彼女から聞かせてもらい、そして教えてもらえたことも、今まで以上の決意を知らせてもらった気持ちで、隼人も感動していた。
いつものように、そこにある彼女の手を、彼女を抱きしめる代わりに強く握りしめる。
「言ったわ。私、一生迷惑をかけるわよと」
「ああ。俺……俺も、葉月が持っている物も全部、俺にも分けて欲しいと思っている」
そういうと葉月はいつものように微笑んでくれたが……。今、彼女の手を強く握りながら、隼人は今までもずっと思っていたけれど言えなかった事を口にしたくなった衝動に駆られた。
何故、今まで言えなかったかというと、やはり……葉月に言って良いかどうか迷うようなものだからだ。
しかしこの日、この時。隼人は言ってどうかと迷っていた言葉を、緊張しながらこの日は言ってみようと決する。
「葉月……」
「なあに?」
「なにもかもを分け合って背負うというなら……」
「うん?」
「心の傷も当然のところ、お前の身体中にある傷さえも、全部、俺の物に……させて欲しい」
流石に葉月が面食らった顔になる。
心の傷のことは今まで散々、隼人も触れたり傷つけたり労ってきたものの、身体の傷のことはどこか『あってないもの』としてきた。
つい先日だって、葉月が『一つ増えただけ』と言ったところを『増えてもいない。前と変わっていない』と言ってみたものの……。やはり看病しながら、彼女の身体を拭いていれば、新しく増えた傷がより一層……彼女の若くて美しい裸体に大きな黒い点が際立っているのは否めない事実だった。
『無いと同然』、『見えない』とどんなに隼人が言ったところで、やっぱり『そこに間違いなく在る』のだ。そして葉月は隼人のように『見えない振り』はしていなかった。そこに新たに存在してしまった『黒い傷』を見ては、どうしようもない事実に打ち勝とうと独りで静かに悶え戦っているのを、何度も垣間見てしまったのだ。
だから、隼人はそれさえも『葉月と俺の物』にしたい。在ってもそれは俺達の物と……そう伝えたくなったのだ。
だけれど、その葉月が哀しそうに俯いてしまった。
やはり──? 女性の身体に着いてしまった傷については、どんなに言っても触れない方が良いのかと、隼人は後悔しそうになった。
でも、本当だ。もっと言うならそれこそ『在っても無くても同じだよ!』と言う意味で『在る』という事実を取ったのだと言いたい。
しかし、ついに、目の前で葉月が泣き出してしまった!
「ごめん、葉月。俺は……ただ……」
「分かっているわ。とても嬉しい」
「いや。余計なことだったり、やはり触れて欲しくないことだったなら、そうだったと正直に言ってくれ」
「違うわ、違うの……!」
泣きながら、葉月が首を振る。懸命に振る。
では、なんなのだろうと隼人が葉月の顔を覗き込むと、あの静かで落ち着いた眼で涙を溜めている葉月が、隼人に申し訳なさそうな顔で見ていた。
何故? そんな顔を? と、隼人は急に彼女が何処かに行ってしまいそうな感覚に陥ってしまい焦った。
そんな葉月が言った。
「駄目なの。この新しい傷も、肩の傷も貴方の物じゃない」
では、誰の物なのか? それともやはり誰にも触れて欲しくないものなのかと隼人が言いたいところ、それを察したのか葉月は思わぬ事を言い出した。
「ごめんなさい。この傷は、『ゴーストのもの』なのよ。あの男のものなの」
隼人はその葉月の口から出てきた言葉、そして瞳からこぼす涙とどうしようもない哀しみに捕らえられている彼女の顔を見て、凍り付いた。
今からなにもかも、お互いが持っている物を一緒に背負うという誓いを立てる時になって。
隼人がその傷だらけの身体さえも、隼人だけが口づけて愛したい、癒したいと願い出たのに。
なのに、目の前の俺の花嫁は『これだけはあの男の物』と言い切ったのだ。
「何故!? 何故、そんなことを言うんだ? もう、二度と! あの男になんかお前を触らせる物か!」
「分かっているわ。貴方になにもかも捧げたい! けれど分かるの、私には分かる! あの男はまた、自分がつけた『刻印』を、私の身体につけた刻印を『確かめにやってくる』!って……分かるの!!」
正直、彼女が何を叫んでいるのか分からなかった。
何処かで、隼人が見えない物が葉月の中に存在している気にさせられた。
そう。葉月とあの男だけの間にある、黒い糸で紡がれている『縁』というものを……。
それは隼人でも断ち切れないのだと、彼女が言った気がした。
・・・◇・◇・◇・・・
正直──あんな事、言い出すのではなかったと後悔していた。
本当に彼女のなにもかもが自分の物になると思っていた傲りだったのか? どんなに彼女を汚している物ですら、それすらも俺なら触っても良いものなのだと傲っていた罰なのか? 最悪の気分に急降下だ。
少なくとも葉月の中では『結婚しても、隼人さんの物にはならない物もある』と完全に認識しているものが一つだけあったことになる。
だが、隼人は考え改めた。
(そうだ。俺もその黒い糸に巻かれてやる)
なにもかもを背負うと思ったことと一緒。
葉月とゴーストが繋がっているなら、断ち切るのではなく、俺も一緒に黒い糸の餌食になってやると思ったのだ。
彼女と一緒に黒い糸に巻かれて巻かれて、奴の餌食になる。
……と、そう思ったのだが。隼人は今ここには見えもしないゴーストを、どことなくいるような感触で宙を睨みつけていた。
「大人しく餌食になったままと思うなよ」
また俺の花嫁に食らいついてきたその時。その時こそ、隼人の勝負の時なのかも知れない。
もう葉月がどんなに嘆こうとも、結婚しても全てが手に入らなくても、それでも隼人は葉月の片割れになる覚悟。
それならば、黒い糸に巻かれるのは彼女一人じゃない。俺も一緒だ──。
密かにそのように考え改める。
つまらないことを言ったと思ったが、かえって目に見えていなかったことを直視することが出来たと思うことにして、このことはとりあえず保留する気持ちに戻れた。
さて、戻れたところで、隼人も来週の『婚姻』で忙しくなる。
葉月が午後の一眠りについたところで、隼人は一階に降り、ジュールがキッチンで一人、家事をしているのを横目に庭に出た。
幾人かが庭の手入れをしているが、遠いところで動き回っている。黒猫の警護の者だった。
そこで隼人は携帯電話を取り出して、あるところに連絡をしてみることに──。
コール音が、五回ほど。
隼人は腕時計を見下ろす。時間は十四時。だとすれば相手は『会議』に出ている可能性が高い。
それならば、仕事の邪魔になるだろうから、夕方にするかと切ろうとした時だった。
『はい。……兄さん?』
出た! と、思って、隼人は携帯電話を耳に戻した。
「お疲れさま、達也。今、大丈夫か?」
『ああ、もう、ずうっとてんてこ舞いだぜ! もう、いい加減、一人じゃやりきれねえよ!』
「悪いな。休職期間も切れてしまったのに……有給休暇で繋いでいる状態で」
『冗談だよ。あ、でも、早く復帰して、また一緒にやっていきたい気持ちはバリバリあるんだぜ! まあ、今は仕方がない。俺達、なんとかやっているから心配するなよ』
「有り難う。それを聞いて、葉月も安心して療養しているよ」
『今は?』
「眠っている──」
『そっか。元気みたいで安心した。こっちも、俺も泉美も順調だぜっ』
彼の元気な声に、隼人もほっと心を和ませた。
山崎のこの病院に移ってきて直ぐに、達也には連絡をした。
その時、すぐさま電話に出てくれた達也のやつれた声、そして怒るような声を今でも鮮烈に思い出す。『葉月がやっと幸せになるための旅行だと泉美と一緒に送り出したはずなのに、何故、こんな酷い目に遭うんだ!!』とか『俺が今日まで、どんな気持ちで待っていたか分かるか!!』と言ったような、彼の怒鳴る声。どこに心配していた怒りをぶつけて良いか分からず、やっとそれを叫んでも良い相手から連絡が来たと言った感じで、最初はちっとも隼人に喋らせてくれなかった。だが、彼の葉月と隼人を心配し、心が張り裂けんばかりに待つだけの日々を堪えていたその姿に、隼人は電話口で声を殺して泣いてしまったぐらいだ。そして、達也も泣いていた。
その時に、とても残念なことを達也から知らされた。──『俺達、一月に執り行うはずだった結婚式を延期した』と言う話だった。
それには隼人も驚いてしまい……。しかし、だからとて、達也も一番に見届けて欲しい『相棒』である葉月がいない結婚式を無理に強行したところで、気持ちがすっきりしなかったのだろうと理解することが出来た。それは妻になる泉美も同じ気持ちだろう。そこまでして無理に執り行う気はないと。泉美の出産後というように延期したと……。
それは当然、葉月にも知らせた。すると葉月もとても申し訳ない顔になり、すぐに達也に連絡をしたぐらいだ。
『お前なあ。そんなに謝るなら、絶対に元気になって俺達の目の前に帰ってこい!! そうすれば、許してやるよ。それから結婚式に出てもらうの、最低条件だからな!!』
『葉月ちゃんがいない結婚式をするぐらいなら、入籍だけで充分よ。本当よ!』
夫妻揃って、葉月にそんな檄を突きつけてきたそうだ。
葉月は申し訳ないやら、自分がいなくちゃ始まらないと言ってもらえて嬉しいやらで、やっぱり泣いてばかりいた。
そんな経過があったのだが、二人からは嬉しい報せもあった。
『葉月が意識を戻したって聞いてさあ。もう、俺も泉美も一緒に大泣きしながら、婚姻届を書いて提出したんだ!』
相棒の葉月が生き返った連絡を受けて、その後直ぐに入籍したとのこと。流石の葉月も驚いていたし、隼人も驚いた。
だけれど、二人で微笑み合い、葉月が持っている受話器を代わる代わる取り合って、達也と泉美に『結婚おめでとう!』と祝福をした。
あちらはもう、既に『新婚生活』に突入しているとのことで、今も達也に連絡をすればなんだかにやついた声が聞こえてくるのだ。
『兄さん達も、来週だろう?』
「ああ。けれどまだ、本部の皆には言わないでくれよ」
『勿論。兄さんが復帰した時に、ネームが御園に変わっていたら、基地中が大騒ぎだな。なんだかそれも早く見てみたいー』
達也が我が事のように、わくわくとしている様子に隼人はちょっと苦笑い。
そんなに騒がれたくないが……。やはり逃れられないか、騒がれるのだろうなあと隼人も諦め加減だ。
『一度、俺だけでも見舞いとお祝いに行きたいと思っているんだ。駄目かな』
「うん。葉月もだいぶ落ち着いたから、大丈夫だと思う」
『そっか。それなら近い内の週末に行くよ。その時、また連絡する』
「ああ、待っている」
『じゃあ、葉月にも宜しくな』
「そちらも、泉美さんにもお母さんにも宜しく」
そうして電話を切る。
達也とは定期的に連絡をするようになっていた。
達也には結婚報告はしている。
これも何かの縁なのか、一ヶ月違いで結婚することになってしまっていた。
海野家は一足早く夫妻になり、そして今度は隼人と葉月が……。
幸せなんだろうけれど、やはりどこかこの家の上には晴れない薄黒い雲が渦巻いているよう。
隼人は庭の空を見上げた。庭の上の空はこんなに澄んで青いのに。どうして彼女の上には晴れた空がないのだろう。それは同じものを背負う決意をした隼人の頭の上も、雲がさしかかってきたような感触だった。
・・・◇・◇・◇・・・
ふと目が覚めると、隼人もいなくて、部屋に一人。
とても静かだった。
日射しが傾いている窓辺。
窓の側にある木立の枝先が、小さく木枯らしに揺れていた。
それでも枝先に小さな芽が出てきたような気がする。
「そうね。もう、来月は春を迎えるのだわ」
独り、そんなことを呟いてしまっていた。
窓辺の風情はまだ、白と茶色の冬の風情だが、枝先に芽生えてきたぽっちりとしている膨らみをみると、何故か頬がほころぶ。
なのに直ぐに、心の中は絵の具をかき混ぜたマーブル模様のような渦巻きが回り始める。
せっかく薄桃色と若葉色の気持ちに包まれていたのに、いつもそう、真っ黒い絵の具が混じってぐるぐる回っているうちに、とても奇妙で例えようもない色合いに混じり混ざってどんよりとしてしまう。黒い絵の具が及ぼす影響は絶大だ。たとえ僅かな一滴でも、美しい色は濁ってしまうのだから。
今……そんな気持ち。
葉月は眼差しを伏せ、見えるだけの手に届くことのない芽をけつはじめた枝先を遠い目で眺めていた。
(眼の色は変わっていなかった)
あの男の顔。
思い出したあの時は、頭が真っ白になるほどの恐怖におののいたが、それは幸か不幸か……。その瞬間にナイフが胸に突き刺さったのだ。
『思い出さない方が幸せだ』
あの男が言っていた言葉。
「馬鹿ね。そんな優しさいらないわ。なんなら記憶を取り戻した私が十歳の少女に戻るが如く、あまりの恐ろしさに泣き叫んだあの姿──」
大人になった葉月が、あの少女の時のまま恐怖に逆行する姿を、見て笑って楽しんでから殺す。
そういう残虐な楽しみ方だって出来たのだ。
いいや、違う。
葉月は胸の辺りをそっと手のひらで押さえた。
その方が、『殺されることより、もっと恐ろしい事』に、葉月は気がついていた。
「おかしいわ。あの男なら、一発で仕留められたはず──」
心臓の横……傷の位置はその辺りのような気がする。
なんだが違和感が残っている。
一日に一度、回診に来る山崎にも尋ねた。
『先生、傷の位置は何処だったのですか?』
『心臓の横だよ。それで君は助かったという訳だ』
彼が間髪入れずに答えてくれた。
何故、そのようなことを聞くのか? 彼がそんな顔をして、葉月の様子を窺うだろうかと思えば、彼は聴診器を葉月の心臓の位置に宛てたまま、いつもの余裕ある微笑を変わらずに見せ、なんの迷いもなく答えたのだ。
葉月の感覚では、医者は即答はしない──。そう思っていた物だから、それこそ違和感だった。
だが、葉月が見たところ。この先生は『曲者』という雰囲気を肌で感じていた。
だとすれば。即答をしたのはむしろ何かを教えてくれようとしたのか。
『君は、あの男に生かされているんだよ。奴は君を死の淵に追いやって、生きるか死ぬかを眺めて楽しんでいるんだ』
……そんな事、山崎は言いやしなかったが、彼がそう言いたそうにしているように感じてしまったのだ。
と、言うことは──だった。
そこで葉月が辿り着いたのが『殺されるよりも、もっと恐ろしい事』だった。
「あの男は……。楽しんでいるのだわ」
死んでも死ななくても、彼には同じ事なのだ。
葉月が苦しみながら死んでも、苦しみながら激痛に耐え生き延びても──。その悶えている一瞬を味わっている葉月を見て、楽しんでいるのだ。
『お、俺の印──。はっきりと残っているじゃないか!』
葉月は閉じかけていた目を見開き、震え始めた。
ナイフを突き刺された時の眼より、ナイフを刺され服を引き裂かれ、あの男が十八年前にぐっさりと葉月に刻印した傷を見て喜んだ時の眼の方が忘れられない。
あの喜びに満ちた眼。傷を『俺の印』と言いながら興奮したあの眼。その興奮故に、葉月の肌をまさぐったあの感触──。
「い、いやっ……!」
おぞましい幽霊の手。
冷たく、じっとりとまとわりつくような手が葉月の肌に乳房に貼り付いた感触が残っている。
それがあの後輩と親しんでいる先輩の笑顔を見せている男と一緒だなんて!!
心の中に、真っ黒い絵の具がぐるぐると、葉月が持っているあらゆる色を消し去ろうと速く渦巻き始める。
心が真っ黒になって、その渦の中心から小さな人型がずるりと湧き出てくるのだ。
『復讐を、復讐を。葉月ちゃん、彼奴に復讐して。お姉さん、苦しいの、助けて』
何故? 姉の声でそんなことを?
そんな真っ黒い顔で、真っ黒い泥をかぶっている姉が、あの美しかった姉が、あの男と同じ眼で葉月に訴えてくる。
「違う、違う。貴女は姉様じゃない!」
独りで頭を抱え、髪を振り乱す。
そしていつのまにかジタバタと暴れていたようだ。
「葉月ちゃん!」
「葉月さん──!? どうしたの!」
ふと気がつくと、山崎とジャンヌが看護師と他の医師を伴って、そこにいた。
「せ、先生……」
「大丈夫かい?」
葉月が正気に戻って、いつもの顔で彼を見つめたせいか、そこでホッとした顔をしている。
葉月もすうっと身体から何かが抜けていった感触。
「今日の回診に来たんだけれど」
「そうですか──。いえ、つまらぬ考え事をしていたら、なんだか無性に怖くなって」
山崎がリクライニングを起こしてくれる中、葉月は乱れていた息を整え、なんとか落ち着いていく自分に自分でホッとしていた。
そんな葉月を見て、山崎がちらりとジャンヌを見る。おそらく、ここで言葉をかけるのはその専門医であるジャンヌの役所という意味なのだろう。
その通りに、山崎よりもジャンヌが前に出てきた。
「沢山考えることがあることでしょう。怖いと思えるのは、貴女が現実に背を向けずに、それに立ち向かっているからよ」
「はい……。だから、大丈夫です」
「考えるのは良いことだけれど。でも、独りで抱え込みすぎるのは駄目よ。ちょっとでも良いから、話せることは話したい人になんなく聞いてもらえば良いわ。話さなくてはいけないではなくて、貴女が『話したいこと』で良いのよ。話したくないことは話さなくて良いの」
「はい……」
ジャンヌが言うことはよく解っていた。
だけれど、まだ、今の葉月には隼人にさえ言えそうもなかった。
言いたくないというよりかは、どう伝えればよいかがよく分からないと言った方が良い。
「葉月ちゃん。胸の傷……いいかな?」
「はい。先生──」
いつも通り、山崎が来て傷の具合を触診する。
ジャンヌが葉月のネグリジェの前ボタンを外して、胸を開いてくれる。
そこに山崎が聴診器を当てるのも日課で、そして彼の指示で付き添っている看護師が消毒をしてくれたりする。
点滴は一日に一回になってきた。食事も、病人食向けだが、もう普通通りだった。
その一日に一回の点滴が施される。今から一時間ほどは、この点滴とお付き合いだ。
他の医師と看護師に処置を任せながら、山崎はいつも隼人が座っている椅子に腰をかけて、いつも通りにカルテを書き込んでいた。
ジャンヌもいつも山崎の後ろに立って、他の医師と看護師の動きを見ているのだ。
「傷、まだつっぱるでしょう。まだ痛いよね」
「はい……。まだ、全然。でも、平気です」
そんな痛みなんか。実はちっとも痛くないのだ。
痛い物はもっと他に沢山あるのだから──。
「傷の痛みはあれど……と言ったところかな?」
流石、この先生は──と、葉月は降参をして頷いた。
だけれど山崎もそこまでしか言わず、葉月の心中をズバリと言い当てる事は痛いだろうからと知ってか、言い当てるという出過ぎた真似は決してしないのだ。
そんな山崎は、会った時から胡散臭いとは思いつつも、どこか葉月は彼に委ねられるような安心感を得ていた。だからこうして彼に全面的信頼を持って体も心も委ね、治療を任せている。
そんな彼がいつもより長いこと、カルテを書き込んでいるような気がした。
「あのね。そろそろ言っておこうかと思って。マルソー先生と話し合ったんだけれどね」
「なんでしょう」
あの山崎がちょっと躊躇っている口元。
なんとか安心させようとしている微笑みにも見えるのだが、口元があまり素直に緩んでいないのが葉月には分かる。
ジャンヌを見ると、彼女はいつもの落ち着いた表情のない女医の顔だった。
「構いません。私の身に起きていることなら言ってください」
「うん。君なら直接言った方がいいと、マルソー先生は言うのだけれど」
「大丈夫です。言ってください」
傷が大きく残るとか、それとも今までも何度か勧められたように『整形手術をしてはどうか』というそんなことの様な気がした。
整形なんて考えたことはない。自分の身体を綺麗にしようだんなんて気持ちまで辿り着くこともなかったし、今はそんな心境でもない。身体の傷を綺麗にしたからってどうだというのだろう? 今までも今も、葉月はその心境なのだ。傷が残るというなら、それももう、ごくごく当たり前の事──今更何をと思った時だった。
「御園大佐はパイロット。それは僕も良く知っているよ」
山崎が急にそんなことを言いだして、葉月はハッと山崎を見てしまった。
彼のやるせない残念そうな顔に、葉月の胸になにか押し迫る物が……。
「大佐嬢なら分かるよね。傷の位置、パイロットには致命傷だと」
「……は、はい」
勿論、葉月はそれもふと頭に掠めないこともなかった。
だが、それこそ『整形がどうのこうの』よりも、自分が目を背けていたことだったと葉月は思い知らされる。
その現実を、山崎がやんわりと突きつけてきた。
「たぶん、もう、激しい上空の重力には……耐えられない胸だと思う」
それは『パイロット生命』を絶たれた事を意味している!
葉月の胸に、とてつもない落胆たるもの、何かに突き落とされるような絶望が襲ってきた!
何故……!? もう、引退すると決めていたのに!
だが、そうじゃない。
あと一回……私は飛びたかった!
最後に悠々と空を飛ぶ中で、パイロットとしての道を終えたかった!
動かなくなった葉月に、山崎が『適性検査をクリアできるかどうかのリハビリが……』と何かを話していたが、葉月には聞こえていなかった。
幽霊からの贈り物がまた、ここに。
葉月の目の前に、彼の笑い声が聞こえる。
お前からまた、ひとつ奪ってやったと──。