-- A to Z;ero -- * 桜ロコモーション *

TOP | BACK | NEXT

3.裏切り

  若い学生達が、並んでいる。
  ページは一ページ、二ページとなんなく進んでいった。

 若い学生と、若き女教官。
 それがもしかすると、不幸を招いたひとつの要因だったのかもしれない。

 姉の皐月は、噂の女教官。祖父と父譲りの武道の腕前をしっかり伝授し、何に対しても勇ましく向かっていく。それは太陽のような女性だった。
 若く美しく、そして勇ましい女教官は、当時はそうはいなかったはず。
 年も離れていない女教官は、きっと学生達の間でも目を奪われる存在だったことだろう。
 なにをどうたぶらかされたかしらないが、現実と空想の区別がつかなくなるような悪魔の囁きを植え付けられた若い男が、夢の女教官を本能のままに操れるチャンスに……彼等は人間の心をなくしたのだ。

(空想だけで、終わらせておけば)

 あの男に、殺されることなどなかったのだ!

 もう、分かっていた。
 一人で静かに繋げた線。ばらけているピースを組み立てる作業。
 隼人が覚悟の上で教えてくれた『姉は殺された』という最後の『ピース』が埋まって、大人達から聞かずともだいたいの状況を思い描くことが出来た。

 姉が殺された経過は分からない。
 だが、これであの浅ましくも卑しい汚れた『五つのイキモノ』は、やはり自らの詫び自殺なんかしなかったのだと。
 ずうっと胸の奥で支えていた物がすうっと落ちていった感覚があった。やはりあの都合良きイキモノ達は美味しいところだけ頂いたまま、罪の意識なんてこれっぽっちも持っていなかったのだと。この眼に焼き付いている姉にまとわりついていた彼等の姿を思い起こし、葉月の心に僅かながら、ぼうっと小さくとも焼け付くような炎が灯った。

 彼等は本当に馬鹿だ。
 彼等はあの男に利用されただけに違いない。それでも『可哀想』だなんて言葉が浮かぼう物なら、私の方が悪者扱いになっても構わないし死んでも良いと思うぐらいに、同情する気持ちなど絶対にない。いいじゃないか。現実に起きるはずのない出来事を現実に起こし、人間であれば『犯罪』と名の付く行為だと解るものを、犯罪とも暴力とも認識できることのない『能なしのケダモノ』になることを選んだのだ。人間としての『誇り』をあっさりと捨てた代償だ。償う事もなく死ねたのだから、むしろ『幸運にも上手く逃げられたのだ』とさえ思ってしまう。まあ、地獄という世界が本当にあるなら、彼等は一生……いいや魂と言う物がある限り、ずうっと焼かれる痛みに拘束され悶えていることだろう。後悔したってもう遅い。それが彼等が選んだ道。現実では決して得ることのない『甘く黒い毒夢』を実体験した『大きな代償』。
 ……そう思うと、笑えてくる。胸がすっとする。
 でも、そうなりかける自分を今までずうっと長い年月、抑え込んできた。そんなふうに笑って、胸がすっとしている時の自分も、それほど彼等とは変わりない『魔女』の様な気がしたのだ。
 苦しかった。そうすることでしか、心の中の黒い塊と付き合えない自分が哀しかった。だから『忘れるぐらいのスピードで生きるしかない』と思ったのだろう。それが『軍隊に入隊し、パイロットとして必要以上に命を懸ける』ことだった。じっくり考えた物ではなく、衝動的に本能的に『逃れたい』という気持ちがその方法を思いつかせたのだろう。
 奇しくも。葉月が心の中で何度も復讐をしていた『五つのイキモノ』は、一番の敵であった男の手で無惨に死んだのだ。あの男が、葉月の願いを叶えていただなんて──複雑だった。

(けれど、あの男は……)

 ページをめくりながら、葉月は思い返す。
 当時の記憶が鮮やかに戻ったというのに、妙に冷静な自分がいる。
 心が引きちぎれそうになっていた残酷な映像も、震えが止まらなくなる虐げられた痛みだって。今まで以上に鮮烈だ。
 なのに。それはまるで何かの映画でも見ているかのように、ブラウン管とモニターのガラスを挟んでいるかのような感覚で、思い出したものを見つめていた。

 あの男は、とても冷たい目をしていた。
 五つの『イキモノ』が『ケダモノ』ならば、あの男は『獣・ケモノ』だ。
 そういう眼……。

 その眼をしていた彼は、もう『ケダモノ』と化した若い男達とは違い、姉には一切、男の欲望をみなぎらせなかった。とても落ち着いていて、苛つく様子もなく……。

『哀れな女王様だな。汚らわしい……! もうお前は美しくはない。だからどれだけ汚れても、もう恐れることはないだろう』

 その時だけ爛々と目を輝かせ、笑っていた。
 得意げな顔で、姉を蔑む目で……見ていた。
 とても優越感をみなぎらせている顔、微笑み。

 ──もっともっと汚してやれ!!

「い、いや!!」

「葉月、大丈夫か?」
「いいんだぞ、もう。やめよう」

 ハッとする。
 気がつけば手元の名簿、関係のないページを握りつぶし、しわくちゃにしてしまっていた。
 その手を純一が握りしめ、止めようとしている。

「平気よ……! 大丈夫だから……!」 

 その手を葉月はふりほどき、額に汗を浮かべながらもページを進めた。
 純一もすっと手を除け、隼人もすっと退き、静かに見守ってくれる姿勢に戻っていく。葉月もそのままの集中力と気力で続ける。
 まだ折り目のところに辿り着かないが、幼い頃に素通りしたページにも。その男はいなかった。
 もうすぐ……幼き日に泣きながら震えながら指さした、忌まわしい『イキモノ』がへばりついているページに辿り着いてしまう。

(何故……。何故なの? 姉様)

 あの小さき少女だった日にも、『姉貴は覚えていないらしい』と教えてもらった時、とても驚いた記憶がある。
 何故? 葉月ははっきりと覚えているのに、あんなに酷い目に遭わされた憎い男達の顔を……大人のお姉ちゃまが覚えていないだなんて!? だけれど、十歳の葉月には『もしかするとこうなのだろうか』と言う大人が出来る複雑な予想など、出来るはずもなく。『忘れてしまったのなら、そうなのだ』としか思えなかった。だとしたら、覚えている自分が大人達に教えて、懲らしめてもらわねばならない。
 だから……辛くても、大好きなお兄ちゃまに側にいてもらって……。

(そう、こんな風に……)

 今、側で見守っている男性がいるように。
 純一が側にいたから、葉月は泣きながらでも、その男達を探したのだ。
 結局──。『もう一人の男の存在』は見逃してしまっていた訳で、もし……あの時、自分が覚えていたならば、姉は死ななくて済んだのだろうか?
 そう思うと、いくら少女だったとはいえ、忘れてしまっていた自分を呪いたくなる!
 でも、もう──遅いのだ。姉は知らぬ間にいなくなり、義兄もどうしてか姿を消し、葉月の元から大好きな二人が一瞬にして消え去ったのだ。
 もう、元には戻らない。だけれど、今度は見逃さない!!!

 その一念でページをめくった。
 途中、忌まわしい顔があったが目の端に掠め、葉月は次々とページをめくった。
 幼き日に、見逃してしまった『あの男の顔』。
 ページをめくる。めくった、もう一枚、めくる。
 忌まわしい男達の折り目もとっくに通り過ぎた。あの日見たはずの『無関係の若き正当な訓練生』の顔が次から次へと……初めて見る顔の感覚で通り過ぎていく。
 ページも残り少ない。こんな最後にいるだなんて? こんなに見つからないなんて?

 嫌な予感が走った。
 葉月の手が急ぐほどに──。
 そしてそれは両隣にいる男性二人もふと気がついたようだ。
 二人が顔を見合わせたのが分かる。

 そして最後のページに辿り着く──。

 葉月は暫く固まっていた。
 嫌な予感が当たったのだ。

「い、いないわ」

 最初のページに戻って、もう一度、きちんと見直そうとしたのだが。
 純一にその手を止められた。

「いや、そうだろうと思った」
「え?」

 どういう事かと葉月が顔を上げると、純一はまだ手にしている茶封筒からいくつかの写真を葉月の目の前に差し出した。

「横須賀の学生は、殆どが日本人だ。だがお前が思い出した男は『日本人ではない目の色で、顔だった』と言うじゃないか。だとしたら、その学生を利用できる目上の人間とも思えたからだ」
「この写真は?」
「当時、皐月の周りにいた同僚に教官だ」

 それは正装軍服を着込んでいる隊員の集合写真だった。

「訓練校の海陸教育隊だ。皐月はそこで横須賀初の女教官だった」

 純一が並べた写真を、隼人も覗き込んでくる。
 そして隼人は純一の『初の女性』というエピソードに、『御園の女性らしいな』と言った。
 すると純一がまんざらでもない嬉しそうな顔になる。本当に自分の家族を褒められたかのような顔だ。

「だろう? それはもう、手もつけられないお転婆だったからな」

 やっぱり義兄は嬉しそう──。
 こんな時、葉月はちょっぴり『嫉妬』しているのだ。
 そりゃ、もう……女として妬くところではないのかもしれないが、義兄が『皐月』という女性か家族か恋人か、それとも妻にしようとした女性なのか、腐れ縁の幼馴染みなのか……。そんなどうとも区切りもつけようもない『姉との縁』を見せつける時、そこにある純一の様々な愛情の持ち方が、義妹を女として愛してくれた義兄とはまったく異なる姿で存在しているのだ。それはまさしく『皐月姉だけのもの』だった。
 でも、今となっては皐月姉に一言では言い表せない愛情を抱き続けているその姿──『それも義兄』。その終わらぬ愛情を持ったままの彼を、葉月はいつしか愛せるようになっていた。しかしながら、その異性としての愛には、もうピリオドが打たれていたが──。
 それぐらいの気持ちを今、純一も素直に……葉月と隼人の前で見せてくれたことになる。それはそれで『新しい家族』として心を許しあっているとも思えた。
 そして隼人も、そんな純一の姿を正面からすんなりと受け止めている。
 姉のエピソードに、興味津々のようだった。

「お姉さんもじゃじゃ馬か。それは葉月以上?」
「と、言いたいところだが。俺から見れば、どっこいだな」
「じゃじゃ馬姉妹って訳なんだ」

 こんな時だが、純一と隼人のその会話に、葉月も『ひどいわね、二人とも』とむくれつつも、少しばかり心が和んで一緒に笑ってしまっていた。
 あの忌まわしい『五つのイキモノ』と再会しなければならなかった名簿を眺めるよりかは、初めて目にする未知なる古びた写真を眺める方が、ずうっと気持ちも軽くなってきていたのかもしれない。

 だが、その集合写真にも、葉月が思うような人間も影もなかった。

「いないわ」
「そうか」

 純一が溜息を落とした。
 それなりに、男の顔が判明することに期待しているのだろう。
 だから葉月としても、そんな義兄達を早く助けたいと思っているのに……。

「これは、やはりやっかいな物だったか。ゴーストはゴーストか」
「ゴースト……?」
「お前が遭遇した男、皐月が『実はもう一人いて、葉月は忘れているのだ』と言い残した男の事をロイが『ゴーストのようだ』と例えて以来、俺達はそう呼んでいる」
「あの男が……ゴースト」
「顔も判らずに追い続け、なのに確かに存在感がある。そしてついにお前に取り憑いて殺そうとした。あれは俺達一家に取り憑いている亡霊だ」
「そう……ね」

 葉月の脳裏には鮮烈にあの男の顔が焼き付いているのに。
 なのに、それを確実に教えられるだろうと確信した名簿にも、そして義兄が予想して手にしてきた写真にも、彼は何処にもいなかった。

 多少の整形はしていたと思う。葉月が幼き日に見た顔とはやや違っていた。
 だけれど、葉月には判った。
 あの目。目だけで判った。目の色、そして声、喋り方、笑い方。

「……少しばかり顔を変えていたわ。もう一度、じっくり眺めてみる」
「そうか。それならば、参考になるかどうかは分からないが。皐月の交友関係になるだろう写真もある」

 交友関係か──と、葉月は溜息をついた。
 姉の交友関係を探り出したらきりがないかも知れない。それだけ『御園』という看板をひっさげて、太陽のように振る舞っていた本当に『女王様』のようだった姉は、いつだって人に囲まれていたことだろう。
 酷ければ姉が『知らない』と言っても、『こちらは知っている』と言う『ほんのちょっと言葉を交わしただけの人間』でさえ、『交友』になってしまうのではないかと思う。
 そういう視点から『探す』となると、何故『面識があるだけのこと』から『あのような仕打ち』をされるハメになったのか。そのような些細なことが事件への過程となると自分たちが居たたまれなくなるだろうし、『怨恨』とも思いたくなかった。『怨恨』となると、悪い悪くないはともかく、『姉側』にも多少の『原因』というものが出てくる。
 葉月の中では『絶対的にあちらの非』でないといけないのだ。自分たちはなにも悪くないと、罪もないのに虐げられたのだと──。

 しかしと、葉月はこめかみを押さえる。
 その『こちらは知らないけれど、あちらは知っている』──と言うのは、葉月自身が一番体験してきた物だ。
 御園という看板をひっさげて歩く道には、いつだってどこからだって近くても遠くても『人の目』があった。
 そこは無視は出来ないだろう。特に太陽のようだった姉は、葉月以上に目立っていたはずだ。

 そんなことを考えながら、新しい視点で探そうと気を取り直し、純一が目の前に並べてくれた写真を、おもむろに眺めた。

 姉の周りを囲んでいた『兄達』と写っている写真が多い。
 だが、さらに兄達を囲んでいる見知らぬ軍服姿の男性達も多数いる。

「これはロイの同期生だ。今、フロリダで秘書官をしている。これは右京の音楽隊の……。これは真の医学校の同期生」

 純一がそれぞれ説明してくれる。
 隼人は物珍しそうに、葉月が見終わった写真を手にして葉月以上にしげしげと眺めていた。
 若き兄達と、それに囲まれる輝くばかりの姉の姿に、とても魅入られたようだ。

「皆、若くて……。そして、輝いている」

 思わず出たような隼人のそんな一言に、葉月も純一も揃って彼を見てしまった。
 美しき姉を中心に取り巻いていた世界。そこには、隣にいる純一にとっても一番輝いていたひとときだったのかも知れない。
 だから、隼人はその世界に魅入られながらも、『なのに何故……』と言いたそうな顔で、その写真を眼差し陰らせながらも眺め続けていた。
 葉月と純一も、一緒に俯いてしまう。本当に、小さかった葉月にとっても『いいな。私も早く大人になって、姉様や兄様達と素敵な大人の世界を繰り広げたい!』と思っていた『憧れの世界』だったのだから。

 いや、もう……そのような昔のことなど、惜しむまい。
 何度も取り返すことなど出来もしないのに、奪われたあるべきだった世界に渇望し苛まされた日々。それを思い返せば辛くなるばかりだからと、切り捨てようと努める。
 その姉と兄達の輝かしい世界を鮮やかに残している写像へと、意識を戻す。

 普通の軍服姿に、白い正装姿。
 どれにも姉が写っている。

(本当に、姉様の交友関係から発生したのかしら?)

 ふと、そんな疑問が湧いた。
 『御園』と言う枠で考えるならば、もしや? 親や他の親族との絡みもあるのではないだろうか?
 ただ単に、皐月が受け持っていた生徒が『加害者』故に、皐月の縁故からだと、こだわってはいないか?
 学生が利用されたのなら、目上の男性。記憶を取り戻した葉月が思い返しても、確かに、あの男は五人の学生よりずっと偉そうで『威厳』があった。……だとすれば?
 しかし、新たに一枚の写真を手に取った瞬間、葉月は思い直し『でも』と首を振る。
 両親や親族関係だとしても、あの男は若かった。そう──義兄や従兄ぐらいの年齢で、犯行当時はうんと若かったはずだ。もし『裏仕事』をしていたとしても、それほど腕がある年代でもなかっただろう。もし、あったとしたらそれこそ『尋常ではない生い立ち』が浮上するはずだ。
 なので普通に考えるならば、両親親族関係からと言うよりかは、それこそ同世代である姉と関係を持っていたからこその『事件』だったとした方が、すんなりと考えることは出来る。

 今、葉月が手にしている写真のように……。
 こんなふうに、親しそうな仕事仲間と肩を並べて写っているこの男性ぐらいの世代との繋がりの方を予想した方が、もっと自然だ。
 楽しそうに輝く笑顔を浮かべている軍服姿の姉と、一人の見知らぬ黒髪の男性を挟んで、ちょっとばかり面倒くさそうに無愛想に写真に写っている純一。

 仕事仲間であろう先輩だろうか? 姉と義兄に挟まれ、両手をいっぱいに広げて姉の肩も義兄の肩も、とても愛情深そうに抱いている親しそうな男性と、笑顔で写っている写真。

 目の色……蒼っぽい薄い色素の目。
 愛情たっぷりの微笑み。
 けれど、よく見ると目には感情が宿っていない気がする。
 気のせいか……?

 だが、葉月の鼓動が早くなる。
 そうだ。目を見た瞬間にもう、葉月の答は出ているではないか!

 ──何故!? ここにいるの!?

 どっと額に汗が滲んだ。
 『この男よ!!』──と、もう少しで叫びそうになったが、必死の思いで堪えた。
 そして葉月は、そうっとその写真を、他の写真を眺めている隼人に渡した。

「に、兄様。こ、これはどなたなのかしら?」

 まだ見ていない写真を手にして、どうでも良い無関係の見知らぬ男性を指さしてなんとか純一に聞いていた。
 純一は、そんな葉月が必死に隠した動揺など気がつくこともなく、『それは俺達の上司だな』とか言って、自分も懐かしいだろう写真を数枚、眺めていた。
 その彼の手の中に、あの男がさらにいくつか顔を出しているのに、葉月はギョッとした。そして純一はその写真を見終えると、葉月のテーブルに重ねて置いたのだ。
 義兄としては、まったく不審に思うことはない『男性』だと葉月は思った。

 そこで初めて葉月は感じた。
 すぐに『誰、この人』と聞くことができなかった自分。
 こんなに親しくしているような男性。しかもこの様子だと毎日、毎日、顔を合わせていただろう。
 それに姉も……! あの男に肩を抱かれて、楽しそうに笑ってたじゃないか!! それは二人にとって『とても信頼していた男性』で『とても親しかった』事を意味している。
 だから、咄嗟に聞くことが出来なかった! 『お兄ちゃま、この人誰?』と聞けたとしても『この人だ!』とは言えなかった。
 この『言えない気持ち』──! それを感じて、葉月も感じたのだ!

(だから、お姉ちゃまは……黙っていたというの!?)

 気分が悪くなってきた。
 手元に残っている写真を、手の平ですうっと扇を広げるように束を崩しても、その男の顔が所々から見え隠れしている。

「ここらへんは、俺の仕事関係だな。まあ、皐月も俺がいた基地の『本部』に、良く顔を出していたから、写ってはいるが……」
「そう。では、この辺りの写真は……兄様の先輩、後輩、上司ってことね」
「そうだな。特に、この先輩には世話になったなあ」

 そういって純一がいつらしからぬ笑顔で指さしたのが……。蒼い目のその男だった。
 葉月は気が遠くなりそうになったが、必死に堪える。

「俺と皐月が大変な時も、必ず基地に戻ってこいと励ましてくれたりな」

 その純一の昔話に、葉月の心の中に、激しい炎がぼうっと燃え上がったのだ!!

 私達の『兄様』を騙していたのね!!

 何も知らない純一。
 姉は、それを聞いてどんな気持ちで『黙っていた』事だろうか!!

「……に、兄様?」
「どうした?」
「き、傷が痛くなってきたの……。横になるわ。続きはまた……後で……」
「そうだな。そうしよう」

 兄達の若き頃の写真に夢中になっていた隼人も、我に返ったように立ち上がり、葉月の顔を心配そうに覗き込んだ。
 純一がリモコンを手にして、リクライニングで起きあがっていたベッドと倒してくれる。そして、隼人が額に滲んでいる汗を、柔らかいタオルで拭いてくれた。
 二人は、この滲んでいる汗は『傷の痛みに耐えていた』と思っていることだろう。

 純一が、テーブルに散らばった写真を束ね、そして隼人もそれを純一に手渡して返そうとしていた。

「調子が良い時に見ていたいの。姉様が笑っているから……。純兄様達が……楽しそうに写って……いるか・・・ら」

 それがどれだけ哀しいことを意味するか考えると、涙が溢れてしまって仕方がない。だけれど、純一には『在りし日の姉の姿』を見て、泣いているとしか取れないだろう。
  それでいい──。
 葉月のその顔と涙を見て、純一は『そうか、分かった』と、テーブルの上にある名簿も写真もそのままにして手を遠のけた。

「純兄様……。ジュールに蜂蜜入りのホットミルクを作って持ってきてくれるよう、頼んでくれる?」
「そうだな。皆で、一息入れるか」

 それは駄目だ! ──葉月は言葉には出さずに首を振る。
 今は純一と共に、一休みの一杯でくつろぐ余裕はない。
 その為に、純一がこの部屋をでていってくれるように仕向けているのに……!

 咄嗟で悪いが、それでも近頃、密かに気にしていたことを純一に投げかけた。

「兄様……。最近、シンちゃんとお話をしている? 側にいるからって放っておいちゃ駄目よ?」
「なんだ。信用されていないのだな」
「当然じゃない。何年も拒否して放置していたくせに。そう簡単には信用なんかしないわよ。お兄ちゃまって、時々、酷く鈍感で何にも知らないのだから」
「酷い評価だが、言い返せないな。ただ、チビに言われるとは」
「チビを馬鹿にしないで。チビはチビの目でちゃあんと見ているのだから、シンちゃんもそうよ。あの子、小さい頃から大人の思惑など通用しない程の適わない眼力で、既に義兄様のことに疑問を持ったり、『このことは大人の前では口にしちゃいけない』とか『こうしたら、葉月ちゃんが怒られる』とか……そんな気遣いが誰よりも出来る子なのよ。兄様……私達、あの子にどれだけ助けられたと思っているの?」
「分かっている……。そして苦労させたと思っている」
「お願い。今シンちゃんが寝ていても、起こして向き合ってあげて。気分転換に外にお食事にでも出かけたら? そうだわ。私に美味しいお菓子でもお土産に買ってきて」
「わかった。俺も気にしていたところだ。そうする」

 では、ジュールに持ってくるように伝えると言って、純一がやっと部屋を出ていった。
 葉月はふうっと一息ついて、横になった身体のまま天井を見上げた。
 また涙が溢れ出してきた。
 すると、隼人の溜息が聞こえてきた。

「真一を挟むと、まるで『両親』みたいだな」

 ちょっとふてくされた横目。
 葉月も、はっとしてしまった。

「ご、ごめんなさい。私──」

 義兄とのやりとり。隼人がいないかのように、まるで純一と二人きりで向き合っている時と同様な自然さで話していたことに、今、気がついた葉月。
 だけれど、それは、それだけ隼人の存在が自然になっている証拠でもあって、そして純一と接することに関しても自然であるということだ。それは隼人も解ってくれているのだろうか? 自分が存在しなかったような話しぶりに、ふてくされた横目はしたものの、今はもう、笑顔だった。

「冗談だよ。むしろ、葉月が義兄さんと自然に話せる姿が見られるようになって良かったよ。俺の前で意識して避けるような態度を取られた方が、不信に思ってしまっただろうな」
「そう。それなら良かったのだけれど」
「これから、結婚すれば。彼とも義理の兄弟だし、葉月にとっては既に、そして一生の家族だ。ああなってくれないと困るよ」

 そうして真顔になった隼人が、テーブルの上から一枚の写真を抜き取り、指に挟んで葉月に差し出した。
 隼人が何食わぬ顔で指に挟んで葉月に向けた写真は──あの写真!
 葉月は、隼人には何かを既に見抜かれていたかと驚き、怖いくらいに真剣な顔をしている隼人を見上げる。

「真一のことを出しにしたように見えたけれど。かなり必死に義兄さんを追い出していなかったか?」
「どうしてわかったの!?」
「指が……。俺に渡す時に指が震えていたから」

 それにも葉月は驚く。
 指が震えていただなんて、意識していなかったし覚えていなかった。
 だけれど、隼人はそれを見逃していなかった。その後、葉月が『傷が痛い』と急に疲れを見せ、そして純一を必死に追い出した事も──。隼人はつぶさに観察し、葉月を見守っていたのだ。

「この写真。もしかして……」

 隼人の言葉が、そこで止まった。
 彼も分かったのだろう。姉と義兄の笑顔に挟まれて写っている『この男なのか』と。

「そうよ。その男よ!」

 その真ん中で、姉も義兄に対しても『いい顔』をしているその男だ! 葉月は叫んで唇を噛みしめた!!
 何故とか、どうしてそのような親しい男が『私達』を襲ったのかなんて、そんなことは今は考えられない。
 ただ、これを知ったら純一はかなり驚くだろう。
 そして隼人も驚いたのだろう。力が抜けたようにすとんと、椅子に座った。

「なんてことだ。それでお前、純一さんを……」

 直ぐには教えられずに、追い返したのかと隼人は言いたそうだったが、そのまま彼もどうしようもない表情で唇を噛みしめ俯く。ベッドの上で声を殺して涙を流す葉月の手首を取ると、いつものように『抱きしめる』ように、手を握りしめてくれた。それで幾分か気持ちが落ち着けることが出来た。

「皐月さんが『顔を覚えていない』と言ったのは、このためだったのか……」
「きっと、そうだわ」
「では、純一さんは十八年も何も知らずに、この男を信じているわけか」

 先ほどの『特に世話になった』と言っていた純一のなにも知らない顔を思い出すと、また涙が滲んでくる。

「義兄さんにも、『知らされていなかった事実』が、あったということか……」

 やるせない溜息をこぼしながら隼人が呟いた言葉に、葉月はハッとさせられる。
 それを隼人が先に言ってしまった。

「今は言えるわけないと皐月姉さんと同じ気持ちになって、咄嗟に追い出したが。それはいつまでも黙ってはいられないことだと俺は思うけれど」

 落ち着いている隼人の意見に、葉月は凍り付く。
 こんな哀しい『裏切り』があったことを知った義兄の顔なんてみたくない!
 でも隼人がそう言ってくれた意味も、葉月には直ぐに解った。

「私が何も知らされなかったように……? 義兄様も知って向き合うべきなのね」
「何も知らないまま、義兄さんにも平穏はやってこないだろう。それは知らぬ事を知ることになった葉月自身が、『知らなかった年月』を思い返すその気持ち、一番解っているはずだ」

 全く、その通りだった。
 でも……今、直ぐには……。

「勿論、もう少しこの男のことを知ってからの方が良いだろう。何かの間違いかも知れない」
「分かっているわ。私の見間違いかも知れないし」

 と、思いたい。
 しかし、葉月の心の中ではその『蒼い目の男』が他にいるとは思えないほどの確信を得ていた。顔だって、当時の顔の方がしっかり記憶している。……自分をあんなに虐げた男の顔だ。
 ここはひとまず、密かに確実な情報が欲しいところだ。だが相手も写真に写っている笑顔のように、巧みに裏をかいて、姉と義兄を信じ込ませていたことだろうから、どれだけ彼の『裏切りの事実』に辿り着けるかは分からない……。
 だが動かぬ事には始まらない。まずはそのために……。

 この部屋のドアからノックの音がした。
 ジュールが頼んだホットミルクを持ってきてくれたようだ。

「お辛かったでしょう。お疲れさまでした」

 葉月のテーブルに、ほんわりとした湯気を揺らめかせているホットミルクを入れたティーカップを置いてくれる。
 そこで涙に濡れている葉月を見たジュールが、心配そうな顔になる。
 ミルクを飲むために、隼人が再びベッドの背を起こしてくれた。
 身体が起きた葉月は、とりあえず落ち着くために、彼が持ってきてくれたミルクを一口──。ほんのりと甘い匂いに包まれ、幾分か気持ちがほぐれた。
 そうして落ち着いた葉月を確かめ安心したジュールが話しかけてくる。

「なにも判らなかったようですね。今は無理をすることはありません。ゆっくりお休みになることが第一ですよ」
「有り難う、ジュール」

 この一軒家に来て再会してから、ジュールはジャンヌに負けず劣らずに親身になって案じてくれる。必要以上に入り込んでくることもなく、遠くから見守ってくれている。遠くにいても絶対に目を離すことはなかったし、その視線が気になることもなかった。
 葉月に『償いと天使』を見つける手伝いをしてくれた『恩人』。葉月の中でも、彼への信頼は絶大だ。それは隣にいる隼人も、葉月が知らぬ間に同じぐらいに信頼していることが解った。隼人と彼の間でも、きっと……葉月が感じたようなものを感じた機会があったのだろう。

 だから、葉月はそんなジュールを呼びつけたのだ。
 義兄を部屋から出す口実で、ミルクも彼を呼びつける口実だった。

「ジュール。この男のことを調べて欲しいの」

 隼人が先ほど抜き取ったあの写真を葉月は静かに、ジュールに差し出した。
 首を傾げながら、ジュールがそれを手に取る。
 皐月と自分のボスが写っているものだと、暫く彼も眺めていたが……葉月が調べて欲しいと言う男を目にした彼がハッとした顔で葉月を見た。
 もう多くを何も言わなくても、彼なら気がついただろう。

「まさか、お嬢様……。この男だというのですか!」
「そうよ。横須賀で襲われた時には顔が多少変わっていた。でも当時の顔は、その男で間違いないわ」

 落ち着いて告げる葉月を、彼は茫然とした顔で見ている。
 『裏切り』を素早く思い描いたのか、流石のジュールが絶句しているのに葉月は気がついた。

「……まだ、ボスには」
「まだ、言えない。だから、貴方にお願いしているの。誰にも言わないで! 今はまだ、私と隼人さんと貴方だけ。お願い!」

 再び写真を眺め、ジュールが黙り込んでいたが、やがていつもの冷たい部下の顔にキリッと引き締まった。

「かしこまりました。ボスには判らないように、必ず」
「お願いね」
「……なんてことでしょう。ゴーストがこんな近くの縁ある人間だったとは」

 ジュールもやるせない顔に一瞬だけ歪めはしたが、すぐにあの冷たい顔に戻った。
 胸ポケットにその写真をしまい込んで、彼が動き出す。

「早速、私の直属の部下を使って調べてみましょう。お任せ下さい」
「頼んだわよ」

 ジュールがこっくりと頷き、仕事の顔で出ていった。
 それを隼人と見送る──。

 ゴーストの足跡は途中で消えているかも知れなくても、彼ならある程度の事は、すぐに調べをつけてくるだろう。
 その時、また──知りたくないことを知らなくてはならなくなるのか。

 葉月は胸が苦しくなって、テーブルにつっぷした。

「葉月。俺がいる」
「貴方──」

 隼人がしっかりと葉月を見つめ、手を握ってくれている。
 大丈夫。重き真実が襲ってこようと、今は一緒に受け止めてくれる人がここにいる。
 葉月はそっと隼人の胸の中に頬を寄せ、その温かさひとつで新たに自分を呑み込もうとしている渦の黒さから逃れようとした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それから数日が経った。
 なにも変化のない数日だった。

 依頼をしたジュールは、特に変わった様子はなくいつも通りのようだった。
 隼人も解ってはいるが『ジュール、調べてくれているんだよな?』と心配になるぐらいに、彼はなんにも請け負っていないかのような顔で淡々としているのだ。
 日課である一日に一度の外出も、いつも通りの時間帯、いつも通りの時間で帰ってくる。そんなに『調べまくっている』という必死な様子も見られなかった。
 それとも、それがプロなのだろうか? 絶対に顔に出さないし、生活のリズムもちっとも崩していない。彼が動いていないなら、それだけ自分の代わりとなって動いてくれる部下がいるということなのだろう。

 葉月はあれからずっと、手元に名簿と写真束を手にして代わる代わる『眺める振り』を装っている。
 隼人もそれに付き合っていた。勿論、時折、純一や登貴子がやってきて『いなかったなら無理して眺めることはない』と、根を詰めているふうの葉月のその様子を心配しているのだが、葉月としては『ちっともそれらしい人がいない』と、決して見つけたと言うことを悟られないための姿勢なのだ。
 そのお陰かどうか判らないが、誰も──葉月が見つけたという事実があることに、気がついていないようだ。

 しかし葉月の横で見守っているだけの隼人の胸にも、大きな何かが押し寄せてくるようなものを感じ取り、落ち着きなさを覚える。
 その時にふと思うのだ。
 このような状態で、入籍だけとはいえ、結婚してもよいものなのだろうか……と。

 結婚と言えば、たいていは幸せを噛みしめるもの。
 勿論、隼人だって、葉月と共に婚姻届を前にサインを残しているとはいえ、書き込みをしたときは『いよいよだ』と幸せな気持ちになった。
 葉月もだった。彼女は時々、その婚姻届を広げて微笑みながら眺めている。
 なのに、彼女の大好きな義兄に『哀しい裏切りの事実』が待ち受けていること。彼女だって自分の身に起きたことのように、大事な人間が傷つけられた痛みに切り裂かれるような思いでいるはずだ。現に隼人だって、葉月のその気持ちを思うと哀しくなってくるのだから。

『私だけ、幸せになんかなれない』

 そう思っているのではないだろうか?
 隼人だってそうだ。純一がどのように受け止めるか判らないだけに、それを知る前だろうが後だろうが、自分たちだけ『おめでたごと』で浮かれて良いものなのかと。

 そんなふんわりとした幸せな気持ちや、じっとりと重く貼り付いてくる黒い気持ちが入り交じる複雑な心境が現状だ。
 だが、周りの人間は何も知らずに着々と準備を進めていた。ただ一人、事情を握っているジュールでさえもそうだ。
 誰もが今は『とりあえず』──御園家の『若夫妻誕生』へと気持ちが向かっている。

「こちらです。お嬢様」

 そしてエドが葉月の目の前に、沢山の指輪を持ち込んできた。

 葉月の前に、隼人と交わす『マリッジリング』が並べられたのだ。
 ……今の状況で、葉月はどのような気持ちでリングを見つめているか。隼人はとても気になったし、自分もこのまま選んでも良いのかと思ってしまった。

 紺色のビロードのトレイ。
 そこに白い手袋をしているエドが丁寧に、銀のリングを並べた。

 やはり葉月は笑顔を見せずに、そのリングを眺めていた。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.