まさか、この男がこのようにして『人前』に出て来るだなんて思いもしなかった。
……いいや、この男が義妹の危機にすっとんでくることなど、考えれば当たり前なのに。この男が来るに違いないだなんて、そんな事を思い浮かべる隙間など何処にもなかった。
だから余計に驚いているのだが。
「真一。このお兄さんと話がある。外から誰かが来たら、『来た』と言う意味でこの部屋に入ってきてくれるか?」
「うん。分かった」
真一がすんなりと父親の言うことを聞き入れて、この部屋のドアを閉め、出ていってしまった。
どうしてだろう? この二人が『父子』としての関係を面と向かって築き始めてからまだ一年強しか経っていないというのに。初めて目にした隼人だって、何処にも違和感がない。顔も似ているし、著しく成長した真一の体つきが益々父親に似通ってきているせいもあるのか。──ともかく、二人が言葉を交わすのも、もうだいぶ語り尽くしてきた『親子』として不自然ではなかった。
葉月がこれを見たら。どれだけ喜んだだろう──。
隼人がまず思ったのは、そんなことだった。
そしてそれを口にしていた。
「貴方と真一がそうして一緒にいるところを、彼女は待ち望んでいたと思う……」
涙混じりの震える声。
葉月の想いが隼人の中に流れ込み、今は何も出来ぬ彼女の代わりに感じて伝えている……。
それを目にした純一も、彼の一番の印象そのままである鉄仮面のような硬い表情を見せていたのに、急に胸が詰まったかのように哀しそうに崩した。
「──また、遅かったのか」
彼が気力が切れたかのように、隼人の向かいに雪崩れ込むように座った。
隼人もそれをただ見届けるだけだ。
そうだ。彼だって……この事態を耳にして平気なはずないのだって。
そこに座った彼は、隼人の目の前でも構うことなく、両手で頭を抱え込んで苦悩し始めた。
「……俺は、俺は、こうならないために鎌倉を出ていったんだ」
「え?」
「なんの為の一八年だったんだ……! 葉月を守れなかった……!」
彼の悲痛の叫び──。
隼人の胸がドキリと大きく脈打った。
「出ていった……って、守れなかったって……? それは……真一が生まれて直ぐに『義兄さんはいなくなった』と葉月が言っていたけれど、そのこと?」
彼が迷うことなくこっくりと頷いた。
「なにか聞かされたか?」
それにも隼人は脈が大きく動き、そして徐々に早くなってくるのが分かる。
彼のその問いに、隼人は『聞いていない』と、そっと頭を振った。
純一がそのまま暫く黙り込む。そして一時何かを考えた末、彼が口を開く。
「──右京はこう言わなかったか? 『俺達に任せていればいい』と」
『言った』と、隼人は今度は首を縦に振る。
すると頭を抱えていた純一が、隼人を真っ直ぐに見据えてきた。
大きな黒い目。そしてその目の……深い色に隼人は吸い込まれそうな気持ちになって、またドキリとした。
その目で彼が言う。
「お前さんは、葉月がこうなったことをどう思う」
「どうって何も判らないだろう? 今、俺は葉月が帰ってくることしか考えられない」
「俺もだが」
「彼女に会ってきた……?」
純一が静かに頷く。来て直ぐに京介がそこにいたので真一と一緒に面会してきたと言う。──隼人はそれに気が付かなかった。瑠美が急にこの部屋を出ていったのは、純一が真一と一緒に来たからだったのだろうか?
京介の案内で直ぐにICUに面会に行ったらしい。特に真一がそこは今までと変わらない小さな甥っ子のまま、葉月にすがって泣いて、泣いて、目を覚ますのを待っていると何度も葉月に訴えたとか。父子で駆けつけた報告を一緒にして、二人一緒に葉月の手を握りしめて待っていると話しかけてきたそうだ。
そんな報告をしてくれる彼──。そして彼が隼人から顔を背け……。あの彼が、この彼が、今にも泣きそうな表情に崩れたので、もっと驚いた。唇を噛みしめ、やがて彼は握った拳で自分の膝を何度も叩き始める。
可愛がっていた義妹、いいや……愛していた女性があんな無惨な姿になって、平気ではいられない。それは隼人とも他の親族とも同じだろうけれど、でも、隼人はこの彼がそこまで見せる感情的な仕草の繰り返しが、我がことのように通じてきてしまい……不覚にも涙を滲ませてしまった。
音もなく涙もなく……でもそこにうなだれて同じように悲しみに暮れる男と男。
もしかすると、今、隼人の気持ちを同じように分かち合ってくれるのは、同じように彼女を愛したこの男だけなのかもしれないとすら……思えてしまった。
暫く、そうしていると、真一が入ってきてしまった。
「横浜のお父さんが来たよ」
それを聞いて純一は、いつもの……隼人もよく目に焼き付けていた彼の顔に戻ってしまった。
「この話はまた後だ。ひとつだけ言っておく」
「なに?」
「間に合わなかったが、まだ終わっていない。俺はお前さんと一緒にやっていきたいと思っているよ。お前さんが良ければだが?」
「……」
何かを含んでいるのが分かるのだが、まだ何のことか分からなくて、急な『一緒にやろう宣言』に、隼人は困惑した。
さらに立ち上がった彼が、威圧とも感じるような迫力ある顔つきになり、隼人に言った。
「──『今度』は、お前さんのことは放っておきはしない。そして俺はお前達『二人』を元の幸福に戻したいと切に願う一人だと……信じて欲しい」
「……義兄さん?」
そんな彼の顔に、なんだか隼人は訳が分からないが……泣きそうになってしまっていた。
「おや……?」
真一が知らせてくれた通りに、和之が戻ってきた。
「横浜のお父さん。お久しぶりです」
「真一君! ……この度は、大変なことに……。叔母さんに会ってきたかい?」
父がそう問うた途端に、真一は泣き顔に崩れて『はい』と小さく答えた。涙を流すまいと唇を噛みしめている……。
それを父が『大丈夫だよ。皆で待とうね』と、優しく真一の肩を撫でていた。そして真一も、素直にこっくりと頷く。
久しぶりに会った父と真一。
あの式典以来だろうが、何度か会って楽しく過ごしたりした間柄は変わっていない。
父は大きく青年へと成長した真一に対しても、小さな少年に接するような柔らかさになる気持ちは変わらないようだし、真一もそんな寛大な『お兄さんのお父さん』の懐に任せる愛らしいところも変わらないようだ。
だが、和之は……当然、そこにいる見たことのない妙な雰囲気の男に気が付き戸惑っていた。
「えっと……。僕の本当の父親です」
「え!?」
隼人は『ああ、そうか』と目を覆いたくなってきた。父には『真一の父親は亡くなっている』と告げているから──。
だが、真一がそう紹介するのは自然だし、誤魔化す理由もない。なんだか『ややこしい』と、隼人は一瞬、この状況に狼狽えた。
少し困った顔をしているのは、和之だけでなく、真一もだった。隼人がなんと説明しようかと立ち上がると、既に純一が父の前に向いていた。
「谷村純一と申します。せがれから、義妹と合わせて、とても良くしてくださっていると聞かされています」
「いえ……こちらこそ、うちのせがれの方がいろいろとお世話になってきたのですよ」
「いいえ。それは紛れもなく私共になりましょう……。特に彼には、私も含め多大なる迷惑に気苦労をかけてばかりきましたから……。お父様にもお詫び申し上げると共に、義兄として父親として心よりの感謝を、お礼を申し上げます」
純一が和之に向かって、深々と頭を下げる。
初対面でそこまでされても、父・和之だって困惑するばかりだろう。純一の後ろにいる隼人を覗き込んで助けを求めていた。
隼人はもう、破れかぶれな気分で『ええい』と、事情を告げようと腹をくくったのに……。純一がそれを遮る。
「……いろいろ事情がありまして、この息子が生まれて直ぐに実の弟に預け、私は家を出てしまいましてね。真一はその叔父であった弟をずっと父親だと思っていたのですけれど。機会があって名乗り出ることが出来まして……」
純一のその臆することのない説明に、やっぱり和之は呆然としていて、隼人に助けを求めていた。
「まあ、親父。そのうち……」
「あ、ああ、そうだな」
御園とは遠くもない付き合いをしてきた和之は『御園の事情』が沢山あることを直ぐに察知したのか、今はなんとか呑み込めたようだ。
そして今は、そうではなくて……葉月の回復を待つことが一番だった。
だけれど何だろう?
この義兄さんと久しぶりに言葉を交わしたような気がしなかった。
それに……急に隼人が隼人として律することが出来たような……。
不思議な感覚だった。
だけれど、父が真一と純一を見て、ひと言言った。
「なるほど。親子ですね。似ています」
父子が揃って驚き、そして照れ合っていた。
こんな時だけれど、隼人も思わず、微笑んでしまった。
葉月がこんなになって、頬がふと和やかに緩んだのはこれが初めてだった。
だってそうだろう? これを見たらきっと彼女は喜ぶ。だから今、俺が代わりに微笑むよ──葉月。だから……帰っておいで。
隼人は何処にいても葉月に話しかけている。すぐ側にいる気がして。
・・・◇・◇・◇・・・
「葉月、良かったな。義兄さんが来てくれたね。待っていただろう……」
言えるはずもなかった言葉。
それを今、隼人は素直に口にしていた。
言えたとしても、いつも躊躇ってやっと口に出来ていた言葉。それを聞いた葉月も、ちょっと戸惑った顔をしていた事も思い出す。
──『まだ、会えない』。
そう言っていた……。
隼人の手前でそう言ってるとも思えたし、それでも小笠原に帰ってきた彼女が一生懸命、自分の思うように自分の力でやってみようと頑張っていた姿を思い返せば、『まだそんな私を義兄様には見せられない』と言っているのだとも思えた。
けれど、今はもう……。
「真一は、親父、親父と言って純一さんからちっとも離れないんだ」
隼人は葉月の指先を握りしめ、また頬にあてる。
まだ、大丈夫。暖かい……。
ごめんな、葉月。
俺は在っても良いと思っているよ。
お前と義兄さんの『愛』──。
消えやしないこと……。俺、本当は知っていた。
それを精算させようとして、俺達、傷つけ合って……。お前を頑張らせて……。
それでも同じ事だったね。
俺も同じだって、痛いほど解ったよ──。
一度愛したら、なかなか消えないんだよな。
……こんなに愛していると。
……こんなに消えるはずがない想いを、どんなになっても抱き続けていくだろうと言う想いだけが予想できるよ。
葉月。俺のことも、あんなに愛してくれて。
お前は俺のことも、きっと消すことはできないのだと……。どうして、あの時、解らなかったのだろう?
本気で愛したから。義兄さんの事も、俺のことも。
苦しめたね……。葉月。
葉月、お前のことをずっと愛していくと思うよ。
どんな形になっても、どんな状態になっても、どんな条件になっても──。
本当に心から愛すると二度と消えない事を……俺、知ってしまったよ。
お前も、こんな気持ちを抱えているんだよな?
なあ……答えてくれよ。葉月。
「あの。処置をするので、よろしいですか?」
また困っているスタッフの顔がそこにあった。それは出ていって欲しいという遠慮がちな声。
時計を見ると、今度は一時間──。
父にも諭された。
お前の気持ちはよく分かるが、今大事なのは葉月君が治療をすること──。それが今一番優先で、それが出来るのはお前じゃなくスタッフだから迷惑をかけてはいけないと。
だから、駄目なら駄目で、今度は退く。だけれど、出来る限りの努力はする。
「また来るよ──」
隼人はまた、僅かなぬくもりだけがある葉月の指先に口づけた。
声をかけたスタッフは、隼人が行く行かないに関わらず、持ってきた注射器を管の一部に射して、薬液を注入していた。
葉月の顔は変わらない。
生きていない顔をしている。
でも、隼人は自分の手先に残っている僅かなぬくもりを信じている。
『オチビは帰ってくる』
『葉月ちゃん、いつだって帰ってきたよ。俺、今度も信じる』
何故だろう──。あの父子が気持ちを揃えて言い切ってくれたことから、なんだかとても心が強くなっていた。
そして隼人は気が付いていた。
やはりあの父子と葉月はとても長い年月、心で繋がってきた『家族』なんだと。──認めていた。
そんな彼等が『信じている』と言ってくれた途端に、独りぼっちで絶望していたような気持ちから救われているだなんて──。
それはもう、隼人の心の何処かで『あの三人はずっと前から家族だったんだ』と言う感覚がいつの間にか植え付けていたのだと……改めて思えた。
でも、一人じゃない──。一緒に彼女を待っている人達が沢山いるのだと、やっと思えてきたのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
ICUを出ると朝になっていた。
相変わらず、御園の一族が待機室にこもるわけでもなく、廊下でうろうろしている。
特に叔父の京介は、ずっと廊下に出て歩き回っている。
入れ替わり立ち替わりやってくる息子にロイに、そして側近を迎えては指示をしていた。指示と言えば……右京だけは父親の言いなりでなく、自ら動き回っていた。
「おふくろ。ここに宿を取ったから、少し休んでこいよ。鎌倉に瑠花と薫が出てくるそうだ。帰るなら使いを出して送らせるから」
「いいえ、まだここにいるわ。でも、そうね……皆さんにも休んで頂かないと」
「おばさん、俺は俺で宿を取ったからいいよ。おばさん先に休んではどうかな」
息子の右京とロイが瑠美を労って、一番先に休息するように勧めているが、瑠美は首を縦に振らない。義兄夫妻の亮介と登貴子が来るまでは頑張るつもりらしい。
それに比べて、同じ一族のはずなのに、純一と真一は大人しく待機室に収まっている。
和之となにやら色々と話している様子だった……。
「おい、ジュン。俺は行くぞ。小笠原に連絡してくる」
「ああ、またな」
あのロイと純一が挨拶を交わしあった。
隼人は思わず目を見張る。確か? 敵対していたイメージがあっただけに? 何という光景か。いや……それ以上に、なんなのだ? 二人はずっと一緒にやってきたという違和感のない言葉の取り交わし。
そうして驚いていると、ロイが隼人を見ていた。
「隼人」
「はい」
「とりあえず、葉月と共々一ヶ月の休職を取った。安心して付き添ってくれ……」
「有り難うございます……」
「海野には昨夜、リッキーから伝えるように言っておいた……。いずれ、基地内で起きただけに隊員達の耳にも入るだろうが、まだ伏せておくようにした……」
「はい」
──休職。
そんなこと、思いつきもしなかった。そして達也のことも……忘れていた。そして、これを聞いて小笠原の同僚達がどう感じるだろうなんてことだって──考えつかなかった。
だが、ロイのその配慮に、隼人は頭を下げて礼を述べる。そうして欲しいと……。
達也……驚いて、きっと彼も直ぐに駆けつけたいだろうに。
泉美さん……びっくりしてお腹と心臓に影響が出なければいいな……。
やっとそんなことが頭に浮かんだ。
「あの連隊長。海野は婚姻を控えていて……」
「分かっている。フィアンセの彼女は心臓に障害があるが妊娠しているそうだな。影響が出ないよう、周りの者にも気配るように伝えておく」
「有り難うございます」
「なにも心配するな。小笠原のことは、俺に任せてくれ」
普段、隼人が気遣いそうなことは、流石ロイ──全て汲んでくれていたので、本当に安心した。
彼は『葉月を頼む』と肩を叩いて、この日は昨日の件についての軍内対処担当とかで出かけていった。
「俺も今日は、忙しい。澤村──葉月のことを頼む」
右京まで……。葉月の側にひっついて離れないような気がしていたのに、彼は昨夜から動き回ってばかりだ。
それもなんだかとても急いでいるように見える。
「純一、あとは頼んだぞ。ここはお前に任せる」
「分かった。ジュールが外で待っている」
ここでも初めて見る光景が──。これが幼かった頃から葉月を取り囲んでいた兄達の姿なんだと、数人揃って言葉を交わしあっているのと見ると、凄く実感してくる。
それに、ジュールと聞いて隼人はハッとした。あの金猫も来ているのかと──。
どうやら、兄さん達はもうすっかりお互いの『持ち場』を振り分けているようだ。
ロイが連隊長として『軍内での対処』。
純一は義妹の周辺の見張り?
そして右京は……何なのだろう?
よく分からないが、そんなふうに隼人には見えた。
妙に連携が取れている。これが一族が培ってきたものなのか。
そして隼人は『葉月を励ます担当』というところらしい。
勿論、その役所は誰にだって譲りたくない。今、一番に任せて欲しいところだ。
でも、急に腑に落ちない。やはりまた、長年感じてきたあの『部外者扱い』が強く胸に押し迫ってきたように感じた。
「どうだ。少しは一息つきに一杯、行かないか」
ロイと右京が出かけて行ってしまい、気が付くとそこに純一がいた。
待機室では、真一が眠っていて……。それを同じく眠そうな父和之がそっと見守っている。
そして京介も疲れた様子で、ソファーでうたた寝を始めていた。その隣で瑠美がやっぱりまだ落ち着けない顔で俯いていた。
もう一度、純一の顔を見ると彼は『今だ』と言いたそうな顔で、あちこちで一休憩している光景を見渡し、隼人に促しているように見えた。隼人は『分かった』と頷いた。
階段を使って、一階にあるドリンクコーナーまで向かうことにした。
「葉月、どうだったか」
「ああ……まったく……」
やはり彼も義妹の側にいたいのだろう。先ほど、側に行った隼人を気にしているようだった。
まったく生気はなく、気配もない。指先だけがほんのり暖かい──。そんな隼人の重たく潰れるように掠れた声の報告に、純一も重たい溜息をついた。
「兄さんも行ってみたらいいじゃないか」
「見ても変わらないだろう。お前さんが話しかければ充分だろう?」
遠慮していると分かった。
行きたいくせに。
「じゃあ、今度行く時は真一と一緒に行こうじゃないか」
「ああ、そうだな」
「その時は、葉月に話しかけてくれよ。彼女、アンタの声も待っているんだからな」
「どうだかね」
ムッとした。
そして思い出した。
ああ、そうだった。この人、初めて母艦の機関室で会った時もめちゃくちゃひねくれていて、隼人はもの凄く腹が立って殴ったんだと。
(こういう性分なのか)
あの葉月がそこも分かっている上で、この義兄を誰よりも愛していたという『苦労』が通じてきたような気がする。
「話しかけなくちゃ、ぶん殴る!」
「お、元気じゃないか。安心したぞ」
拳を握って威嚇しても、彼はなんのその。ニヤリと笑うのだ。益々ムッとしてきた。
そして、ムキになっている自分にもハッとさせられた。
だけれど、と隼人はふと微笑んでいた。この人がきて、隼人は本当に独りではないと思わせてもらったのだと……。
そうして純一と階段を下りていると、途中、黒いスーツの男性が踊り場で立っていた。
彼は純一がやってきたと知ると、顔を上げた。
その男、隼人ははっきりと覚えている知っている男だった。栗毛で無精髭の男……。
「ボス」
「エド。彼と下で話してくるから、上がってくれ。ICU周辺を頼む」
「承知致しました」
葉月が妊娠した時に病院で付き添ってくれたあの男だった。
彼と目が合った。
「お久しぶりです。その節はお世話になりました。お礼も言えぬままで……」
あの時、言えなかったお礼も込めて、隼人はエドに頭を下げた。
「おやめください。あれは私の仕事に過ぎません。それよりも今回のこと……とても残念で、悔しくて……」
彼が唇を噛みしめていて、本当に悔しそうな顔をしていた。
そんな彼が急に表情を引き締め、純一に向かった。
「ボス。外と内の警護、こちらの部員でも固めました。軍の警備だけでは不安ですので」
「ご苦労、エド」
エドはスッと音もなく階段を上がっていった。
そして純一の『ボス』としての威厳、そして……組織をまとめているその指示に、隼人は彼が『黒猫』というネームを持つ闘う男と言うことを、久しぶりに肌で感じ、ごくりと喉を鳴らした。
だが、気になることが──。
階段を先に下りる純一の背に、隼人は尋ねてみた。
「警備、警備と……。また犯人が来ると思っているみたいだけど?」
すると純一が立ち止まった。
そして……彼が肩越しに振り返り、一時、静かな眼差しで隼人を見ていた。
また……隼人の胸がドキリと脈打った。そして、その感触は正解だったのか……?
「そういうことだ。だからロイと右京が動き回っている。葉月のことも心配だが、葉月の意識回復を待つよりも、もっと先に手を打って置かねばならぬ事だ」
「!?……それ、来た時に言っていた話の続き?」
純一がこくりと頷いた。
そして彼が、先にいる彼が、数段上で立ち止まっている隼人の方へと向き直り、鋭い眼で見つめてくる。
また……隼人の胸の鼓動が早くなった。
犯人はまた来ると思って、妹の瀬戸際に付き添いもせずに駆け回っている兄達は、もう犯人を知っている?
そんなふうに急に思えてきて、血が凍り付く感覚に襲われる。
そして純一が教えてくれる。
「そうだ。その話を今からする。お前さんの協力が必要だ」
純一が顎で『来い』と促してくる。
今の今まで、彼は割と落ち着いていると思っていたが、その顎で粗略に指示するようなその仕草に、とても急いでいるようなものを初めて感じた。
だから、少し乱暴で苛ついているようなその仕草にも、隼人は大人しく従って純一の後を付いていった。
一階のドリンクコーナーで、とりあえず熱いカップコーヒーを一杯ずつ純一が買い持たせてくれた。
「外に行こう」
熱いコーヒーを片手に、二人揃って外に出た。
この病棟を出ると、外は見慣れた基地の風景。
師走も半ばを過ぎ、夜が明けたばかりの空気はきりりと冷え込んでいる。白い息が出て、朝靄にぼやける景色を照らす冬の朝日が気持ちと反して、柔らかに眩しかった。
ああ、そうだ。昨日の朝……札幌の朝もこんなかんじで、ホテルの窓から見下ろした札幌の街も冬の朝靄に霞んでいた。
先に目覚めた隼人の背から、眠たそうに寝返りを打った彼女が、隣に隼人がいないのに気が付いてむっくりと起きあがり……。
『おはよう』
素肌で抱き合って眠った夜の後──。滑らかな白肌に、煌めく栗毛を滑らす起き姿。
目をこすりながら、窓にいる隼人に微笑んでくれていた。
あの濡れた眼差しも、薔薇色の頬も、艶々と煌めかせていた桜色の唇も。小さく震える乳房も、その乳房の先をほんのり彩っている愛らしい胸先も。全てが全てがとても美しく隼人の目の前に存在していた。全てがあの時、隼人のもので、そこにあるもの全てが二人だけのものだったのに──。
昨日の今頃──。
彼女はまだ、笑っていた。
幸せそうに嬉しそうに楽しそうに笑っていたのに!!
「……葉月っ」
悔しい──!
カップのコーヒーを一口も口に付けていないのに、隼人は握りつぶしてしまっていた。
熱い。溢れて手にこぼれてかかってしまった液体は熱かった。だけれど、こんな熱い痛さ……。胸をえぐられた彼女の痛みに比べたらなんでもない!
「おい……大丈夫か」
「ああ。大丈夫だよ……『兄さん』」
濡れてしまった手を払っていると、純一がそっとハンカチを差し出してくれる。
隼人はそれを遠慮せずに手にとって、拭った。
彼はコーヒーを一口、呑み込んでいた。
彼の口から白い息。
二人は暫く、その出口で朝焼けの冬の朝を眺めていた。
「少し歩こうか。気分も幾分かは変わるかもしれない」
彼が先に歩き出し、隼人もついていく。
アスファルトの道脇は芝に固められていて、どの建物も基地らしく金網で仕切られていた。
空気が澄んでいていきりりと凍っている冬の朝、彼が言うとおり、こうして歩くと頭の中の淀みが綺麗に押し流され、そして浄化され、冷やされていくようだった。
「基地の中をこうしてゆっくり歩く日が来るとはね。懐かしいな」
純一が建物のひとつひとつを懐かしそうに見上げていた。
そうか。彼は元々この横須賀の隊員だったのだと、隼人は思い出す。
長身の細長い背、相変わらずの黒いスーツの裾が一時吹き付けてきた北風にはためいた。それでも彼は寒いと震えることもなく、なんなくその風をその逞しそうな胸に受けていた。片手に持っている紙コップ、コーヒーの湯気を燻らせクッと一口ずつ飲みながら、ゆっくりと大股で歩く後ろ姿。
その今の姿からは、彼が軍服を着て規律正しい軍隊にいた男だったなんて、隼人には想像が出来なかった。
そんな彼の背を、今まで見てきた彼とはまったく別の人間を見るかのように、隼人は見つめていた。
「義兄さんはどうして、軍人を辞めたのだろう」
彼が『懐かしい』なんて言うから、なにげなく聞いてみたのだけれど。口にしてから、隼人はそれこそ『生まれたばかりの息子を置いていった理由』と直結しているのではないかとハッとしてしまった。
やはり純一は立ち止まり、隼人へと振り返った。
そしてひと言、はっきりと──。
「ある男を追うためだ」
「!」
今まで以上に、隼人の心臓が大きく動いた。
そのひと言で、あらゆる事が隼人の頭の中に次々と浮かんだ!
そして、隼人も突き当たったひと言を……恐る恐る、躊躇いながら彼に言ってみる。
「まさか……それが……。まさか、葉月を刺した男だとか……?」
純一は頷いてはくれない。
でも、隼人をじっと見ている。
頷いてはくれなくても、その眼が『そうだ』と語っている。
……隼人の指先と唇が震え始める。
「おそらく……だがね」
彼がふともどかしそうに、俯いた。
唇を噛み、拳を握りしめ……。飲み干した紙コップを彼もギュッと握りつぶしていた。
ただ、飲み終えたから潰したとは見えなかった。
隼人とは違うが、彼も静かに怒りを燃やしているのだと──。
「何故……その男が? 昨日、葉月を?」
「分からない。俺達もどんなに追っても追いつけなかった男だ」
──それほどの!?
今まで以上にゾッとしてきた隼人。
「それは、どういう男なんだ?」
隼人のその問いにも、純一は隼人の顔を見たまま、黙っていた。
時々、口が開きそうなのだが。なんだか溜息をついて俯いてしまう。彼らしくない様子──。
だが、やっと決したように彼が唐突に言った。
「皐月は自殺なんかじゃない。殺されたんだ」
──え?
確か、葉月は事件を苦にして姉は自ら命を絶ったと言っていたが?
頭は白くなりかけたのだが、その代わりに今度は指先、唇以外に足も震えてきた気がした。
それでもまだ言い難そうな純一が続けて言う。
「そしてその男は……葉月の肩に傷をつけた男だ」
「!」
驚くばかりの隼人に、純一は最後に極めつけのひと言も言う。
「だが……葉月は覚えていない。その男の事を。顔すらも。あの事件の直後、心の奥に押し込めたままだ。つまりそこだけ記憶がない」
「なんだって……?」
またあらゆる事が、隼人の頭の中に巡るのだが──。あまりにも在りすぎて処理不能、フリーズ状態に陥った。
冬の朝焼け。
車など通りはしない基地内の道路の上に吹き込んでくる北風が、二人の男の間を通り抜けていった。