-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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1.明けぬ夜

『私が死んだら、棺には私と一緒にこのリングを入れて』

 

 あの日のウサギの言葉、俺、忘れていないよ。
 あの日は、暑い日で、緑の芝が綺麗だったよな。
 ──ちゃんと入れたよ。指にはめたままちゃんとね。

 ああ、そうだ。彼女に軍服は着せないでください。
 白いドレスを着せてください。
 そうです。彼女がそう言っていたんです。
 真っ白になりたいと言っていたんです。
 お願いです。お願いですから……白いドレスを着せて眠らせてあげてください。

「隼人、ちゃんと見送ってあげなさい」
「隼人君、見送ってあげてくれ」
「兄さん、ちゃんと見送ってあげないといけないだろう?」

 しっかり立って、ちゃんと彼女を見送るんだと皆が口々に。

「ほら、この花を──」

 差し出された花は白い花。
 祝福をしてくれたのではなかったのか。
 こんなにすぐに手向けるだけの花に変わる物なのか──。

 嫌です。やっぱり別れられません!
 お願いだから、俺も一緒に棺に入れてください!!

 俺達、やっと一つになれたんです!!!

 真っ黒い喪の軍服を着込んだ男達に取り押さえられる──!

「兄さん、しっかりしろ」
「隼人君、お願いだから……もう」
「隼人……! やめなさい!」

 

「貴方」
『!』

 棺からそんな声──。
 誰もが驚いて、その棺を見る。

 綺麗に栗毛を結い上げている女性が、すっと静かに起きあがる。
 むせかえる花の香りが匂い立つ。
 その白い花びらをまとって、真っ白いドレスを着た彼女が清楚に微笑んでいた。

「貴方。さようなら」
『!』

「さようなら、貴方……」
「さようなら──! ああ、貴方……!」

 しとやかに別れを囁いていた彼女が、急に悶えるように胸を押さえならが、絶叫する。
 手を伸ばし、隼人に助けを求めている!
 白いドレスが真っ赤に染まり、そして血だらけの手、血にむせる唇……!

 

『私が死んだら、棺には私と一緒にこのリングを入れて』 

 

『……馬鹿野郎! 死ぬなんて縁起でもないこと、二度と口走るな!』
『だって……』
『お前が言うと、本当にそうなりそうで、冗談にだって聞こえないんだよ!』

 

 あの日の叫び。
 冗談じゃなかった。
 本当になってしまった……。

 

 冷たい手。
 でも、まだ指先にはぬくもりがある。
 

 

 隼人の身体がびくっと動いた。
 ……なんだか呼ばれた気がしたのだが?
 ふと顔を上げると、周りを取り囲んでいた男達は誰もいない。物思いをしていたようで、隼人ははたと我に返り、首を振りながら『正気』に戻ろうとした。

 いけない、何故、そんな事が頭の中に流れ込んでくるのだろうか。
 そんなこと、頭の中に滑り込んでくること自体、どうかしている。
 そんなのは隼人には許されない。

 隼人の目の前に、横たわっている人がいる。

 冷たい手。
 だけれどまだ指先にはほのかなぬくもりがある。
 ──そうだ。まだ、生きているのだ!
 そのぬくもりは、全てが終わっていないという小さな希望。なにもかもが終わらなかったという有り難い暖かみ。
 その手を取って隼人は頬にあてる。

「葉月、俺だ。わかるだろう? 俺はここにいる。側にいると約束しただろう……」

 その手を隼人は何度も口づけた。

 力無い指先。
 荒い網目の包帯を手袋のようにはめられたその手には、白テープでがっちりと固定された点滴の太い針が食い込んでいた。
 手首にも、ぐっさりと針が刺しこまれ、食い込んでいる。そして、彼女の身体のあちこちから管や線が張り巡らされ、口には青い蛇腹のホースのような太い管を突っ込まれていた。
 頭には白い布がターバンのように巻かれ、彼女の顔は真っ青なまま、自分で呼吸をしている様子もなく、ただ彼女の隣の機材が『シュッコシュッコ』と重い音を響かせている。彼女の代わりに今呼吸をしている機械だ。

 だが隼人の目の前には、そんな物は意識するところでもなく──ただ、彼女の手を何度も包んでは暖めて、そして名を囁き、口づける。
 ──それだけ。

「隼人君、大丈夫かい──」

 見上げると、そこには鎌倉の『御園京介准将』がいた。
 彼は今、ここにいる隼人と同じ格好をしていた。薄い繊維で出来た使い捨ての衛生帽に、スモッグを着て、そこにいた。
 ここにいる者は、スタッフも家族も皆この格好だ。そうしなくては入れてもらえない。

「葉月は、このICUから暫くは出られなのだよ……。少し、向こうで休まないかい? お父さんも心配して待っているよ」
「──僕が彼女を待っているのです」

 彼女の手を握ったまま、彼女の顔を見つめたままに隼人はきっぱりと言い切る。

「でもね、隼人君。ここには決まりもあるし、スタッフも他の患者もいるのだよ。気持ちは解るけれど」
「──あと三十分。駄目ですか」
「……解った。三十分だね。約束だよ。スタッフにお願いするから」

 こうして二時間ほど、ここにいる。
 本当ならとっくに追い出されているところを──。
 家族でもないのに、この京介が『姪の大事な人なので』と言ってくれ、こうして面会謝絶のICUに入れてもらえた。
 その上、二時間も彼女の側に寄り添っていた。
 無理が言えるのも、これで最後だろう。

 家族ではないだなんて──。
 家族になろうと、夫妻になろうとしていたのに。
 こんなところでも、俺達は分けられてしまうよ……。

 そんなことに、くじけてたまるか。

 隼人は、葉月の手を握りしめ、頬に寄せる。

「……葉月」

 何故、こんな事になったのだろう?

「葉月」

 涙が滲む。

 ついこの間、この彼女と白い花の中で朝まで愛し合っていたのに──。

「俺は、ここにいる」

 もう、離さないと、約束した。

『真っ白になりたいの』

 それは白く染まるという意味で。
 それは白く染まり直るという意味で。
 なにもかも無くなるという意味ではなかったのだろう?

 いいよ、今、何も応えてくれなくても。
 ただ、今は何処にいるのか葉月は判っていないのだよね?──お前が誰かに生きることを邪魔されてしまった事は、もう、どうにも変わらないよ。
 だけど、俺に言ってくれたじゃないか。

「貴方の元に必ず帰ります……と……」

 俺もここで待っている。
 また待っている。
 なにがあっても、ちゃんと帰ってくると信じて待っていたんだ、あの時も。
 今度だって──。

 何度も、何度も、念じるようにして彼女の冷たい手を握りしめる。
 そして何度も、何度も、帰ってくるようにと彼女の名を囁き、そして『俺はここにいる』と彷徨っているだろう彼女に呼びかける。

「申し訳ありませんが、もう……」

 マスクをしている白衣姿のスタッフが、困ったような顔でそこに立っていた。
 もうそんなに時間が過ぎたのか……。
 『葉月、また直ぐに来るよ』──言葉にはせず、胸の中でそう呟きながら、隼人は葉月の指先に口づけた。

 すぐに、また直ぐに来る──。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 幾分か落ち着きが戻ってきた。
 まだ安心などとてもじゃないが出来ないけれど……。
 それでも、処置が終わりICUに葉月が移され、そこで対面し、ああして二時間ほど一緒にいさせてもらっただけで、幾分かは落ちついた。

 だが──滑走路駐車場から、医療センターーに緊急搬送されている間のことは……。かなり取り乱していたのだろうか。あまり覚えていない。
 いつのまにか『そこで待っていてください』と言われた場所に、その部屋に座っていたと言った方がよいのか──とにかく、そこにいた。

 ──まだ、生きている。
 生きているのだから。
 なにもかもを失ったわけではない。
 ……まだだ、まだ、これからだ。

 それが判ったのだから……。

 

 

 その部屋に置き去りにされたのは、何時頃か判らない。
 たった一人。取り乱すべきなのか、泣くべきなのか、叫ぶべきなのか。それすらもどうして良いか判らずに、ただぼうっとしていた。
 やがて、誰かがやってきた。
 一番に駆けつけてきたのは、事件が起きたこの基地、同じ敷地内にある訓練校にいた校長の『京介叔父』だった。
 いつもはとても落ち着いている静かな叔父さんというイメージがあるし、会ったことがある隼人もそう感じていた。なのにこの叔父さんは、麗しい栗毛を乱し、額に汗を浮かべた顔で、とても取り乱した様子で側近と駆けつけてきた。

「何故!? こんなことが!」

 まるで隼人を叱りつけるように発した第一声。
 だけれど隼人は、それで申し訳なくなる気持ちすらも、感じることが出来なかった。
 ただ『分かりません、良く分からないのです』と呟き続けると、我に返った京介が何とか深呼吸をして『すまなかったね、驚いてしまって』と、申し訳なさそうにいつもの顔に戻って隼人の隣に座る。そして詫びるようにして『君が一番、驚いているのだよね』と背中をさすってくれた。
 それにも──言葉を返そうとは思わなかった。

「休んでいなさい。私に任せなさい」

 京介はそう言うと、側近を使って動き出す。
 ──警察に、今は『事情聴取は無理』と言え。
 ──フロリダに連絡を。そして小笠原のロイにも……。きっと右京もそこにいるだろう。
 ──鎌倉と……それから……。横浜の澤村社長にも。

 そして京介は最後に側近に念を押す。

 ──『向こう』にもな。

 側近が神妙な顔で頷き、すぐさま飛び出していった。

 それを終えると京介は、落ち着いた将軍の風貌など消し去ってしまい、隼人の前を落ちつきなくうろうろとしているだけだった。

「……何故だ。まさか」

『まさか?』

 隼人の耳にその『まさか』という言葉だけが、鮮烈な音で入り込んできた。
 だけれど、京介はそこで言葉を止めて、黙り込んでしまった。
 そうしてまた、待機室の外に出てうろうろ、入ってきてもうろうろ。
 それが何時間か続いていた。

 その数時間、この叔父さんと二人だけではなかった。
 途中、一番に来たのは父の和之だった。

「隼人──!!」

 とても困惑している父の顔。
 その頼もしい声を聞いても、隼人はなんとも感じられなかった。

「何故……! こんなことに……」

 息子に飛びついて、肩を揺さぶられたが、隼人はやはり『分からない』としか言えなかった。
 父は愕然と力を抜いて、滅多に見せない弱々しい顔に表情を崩し、そして涙目になっていた。

「……待っていたんだ。美沙と和人と……。お前と葉月君が来ると、三人で準備をして待っていたんだ」

 『なのに!』──父の声が泣き崩れていく。あの父が涙を浮かべていた。
 この父が来るまで隼人に付き添うように側にいてくれた京介までもが、なにかが込み上げてきたかのような小さな呻き声を漏らし、噛み殺していた。

 そんな父親を見て、隼人は……何も考えられない隼人は言ってしまう。

「俺達、北海道で結婚をしようと……約束してきたんだ」

 父の、いや京介も……二人の息遣いが止まる。
 ぼんやりと左手を顔の前に持ち上げて、蛍光灯の下でもキラリと光る銀のリングを隼人はただ見つめる。

「彼女の指にも、去年買った指輪をつけてあげたんだ。それで横浜へ、親父に報告しようって……」

 淡々と告げる感情がどこかにいってしまったかのような隼人の報告に、和之が隼人の膝の上に崩れていった。

「そ、そんな気がした……。したのだよ。だから、待っていた……のに」

 いつも威厳を保っている父が、弱ったかのように息子の膝にすがりつく。
 先に泣いている。──親父も歳かな。そうふと思っただけで、後はその光景に対して『俺も哀しい』とか『悔しい』とか『何故こうなったのか』とか。今にも溢れそうな気持ちが胸の中に渦巻いているのに……。誰かにすがって叫びたいのに。そんな父が駆けつけてくれても、隼人の心のコップからは溢れ出ることはなく、その見たこともない父に対してすらも……無感だった。

「すみません、申し訳ありません! 息子が一緒についていながら、本当に……」

 そうして父は隼人の膝にくずれたまま、今度は隣に座っている京介にひたすら頭を下げている。そして『何故、何故、葉月君だけが……』とまた泣き崩れる父──。
 本当にここで今、一番取り乱しているのは、この父のようだ。
 流石に京介もそんな和之の姿に狼狽えている。『おやめください、社長』と泣き崩れる和之を労る声。隼人の隣に座っていた自分と入れ替わりで、なんとか父を隼人の隣に座らせてくれた。

「今、親族を集めていますが……。葉月が目覚めた時に君がいないと、あの子はきっとがっかりする。一緒にいてください。こちらからお願い致します」

 京介も心を痛め、落ち着きをなくしているのが見え隠れするのだが、その『親族への伝達が終わった』と言う報告を側近から聞いた後、幾分か落ち着いたような気がする。

「隼人。私がついているからな。一緒に葉月君を待とう……」
「──」

 そうして父が無感になっているような息子の側にずっとついている有様だった。

 そんな中、夜がやってきて、次々と人がやってきた。
 その次に来たのは、鎌倉の『瑠美叔母』。夫の京介の胸元で一時泣きさざめく声。それが外の廊下で響いていた。
 着物姿の叔母さんは、隼人がいる待機室でちょっとした挨拶を交わしただけ。叔母さんの顔は真っ青で、とてもじゃないが会話をするという気持ちではなさそうだった。そうして夫の京介と一緒に、外でずっとうろうろしては廊下のソファーに座って泣いている声だけが……。
 やがて、若い男性の声。ロイと右京が揃って来たようだ。

 隼人にはそれぐらいしか分からなかった。
 ただ話しかけてきた右京にだけ、どう反応したか覚えている。

「澤村……」
「お兄さん」

 彼がとても困惑した顔で、隼人の隣にやってきた。
 その彼は困惑はすれど、取り乱す気配も取り乱した気配もない様子で、隼人の隣に座った。
 そしてなんだか労るような手で、優しく隼人の背を撫でてくれる。

「北海道に行っていたらしいな。海野から聞いた」

 隼人は素直にこっくりと頷いた。

「葉月、喜んでいたか?」

 さらに隼人はこっくりと頷き……。
 そこで背中にある右京の手に急に力が入り、隼人が着ているシャツをギュッと握りしめたが……すぐに力は緩まり、初めて泣きだしそうな小さな震える声で『有り難う』と言ってくれた。
 だけれど、そんな感情が露わになりかけたのは、そのほんの一瞬だけ。右京は、何かを堪えているかのように、震える深い溜息をゆっくりと落としていた。
 そして隼人に強く言う。

「いいか、澤村。葉月は絶対に戻ってくる。頼むから、側にいてやってくれ」
「お兄さん……俺……」
「側にいてくれたらいい。他のことはなにも考えるな。俺達親族に任せてくれたらいい──」

 そんな彼の寛容な笑顔に、隼人はやっと……自分と一緒にいた彼女と一瞬離れた隙にこんなことになった責任のようなものから、少しは許された気がした。
 だが、右京はすぐに引き締まった顔になる。
 そして彼が隼人の隣からすっと去っていった。

「親父──。こっちは俺に任せてくれないか」
「伯父さんが来るまで待ちなさい」
「そんなの間に合うか! ロイ、俺がやるから手出しするな」
「だが右京……」
「ロイ、このセンターの警備を今よりもっと厳重にしてくれるよう、この基地に手配してくれ」
「わ、わかった……」

「俺がやる」

 そんな右京の声──。初めて聞いたような気もした……。
 なんのことか分からないが、そんな会話が微かに聞こえてきた。
 それから何時間も手術室にいるだろう葉月の帰りを祈るように待っていた──。

 

 

 この待機室と手術室はまったく別の場所。
 隼人が待たされているのは、確実にくるだろう『ICU(集中治療室)』と『HCU(高度治療室)』があるフロアだった。

 夜が更けた頃、階下にある手術室から『御園葉月さんがこちらに入ります』と言う看護師の案内があった。
 その時、状態はともかく『助かった』のだと……! そう思えた隼人と同様に、黙ってばかりいた親族にも、一瞬の安堵が広がったのだ。

 その後、葉月が横たわったベッドが運ばれてくる。
 あの痛ましい術後の状態は、とてもじゃないが今日の夕方まで美しく輝いていた女性とはまったく別人のような姿だった。
 誰もが叫んで飛びつきたいのだろうに、誰も……それすらも出来ないほどショックなのか、看護師がICUの扉へと向かっていくのをただ見送ってしまうだけだった。
 やがて医師がやってきて、京介があらかたの説明を受けたようだ。

『出来る処置はした。だがこの二、三日を乗り越えられるかどうかは判らない』

 つまり様子を見るしかないと言う。
 意識レベルはとても低く、バイタルも安定していないとの事だった。
 そして輸血もかなりの量だったと……。

 細く、細く、繋ぎ止まっているだけ。
 彼女はこの世となんとか繋がっているだけの儚い状態だ。

 

 術後の面会が許可され、鎌倉御園夫妻と従兄の右京が行けることに──。
 その時、京介と右京から『彼もお願いします』と、隼人の同行を許可してくれるようにお願いしてくれたのだ。
 ロイも行きたいという顔をしているところ、申し訳なく思いつつも、隼人としては会わずにはいられない。
 家族以外面会謝絶だなんて、黙っていられるか。なにがなんでも彼女の側に行ってやる──。そう思っていたから、迷わずについていった。
 父の和之も『早く行きなさい』と急かしたぐらい。送り出してくれた。

 ICU内は部屋区切りではなく、カーテンで仕切られているだけだが、意識のない患者が数名並んでいるという光景。
 その一番向こうの壁際に案内される。
 そこにやってきて、ひとつのベッドを見た時、誰もが息を止め……そして、叔母の瑠美が一番にベッドの縁に泣きすがった。

「は、葉月ちゃん……。ど、どうして、なにがあったの……! 何故、貴女ばかり……」

 あらゆる機器と管と配線に支配されているその姿。
 表情は当然なく、彼女の意思を感じさせるものは何一つない悲惨な姿。
 彼女は今『生きている』のではなく、『生かされている』──そんな絶望的なものを感じさせられた。

 足に力が入らない!
 これが、生きている? 生きていると言えるのか!?
 今すぐ、彼女の側に行って泣き崩れたい。
 そんな痛ましい、彼女とは思えない異様な姿でも、抱きしめて頬を寄せて手を握りしめて、口づけてあげたい。
 でも……そんな絶望的で痛ましい恋人の姿を見てしまったら、逆に身体が動かなくなった。
 足が震えている。指先も唇も……! 身体が震えるだけで、近寄れない……!

「葉月。もうすぐお父さんとお母さんが来るからね。頑張るんだよ。叔父ちゃんがついているからね。大丈夫だよ」

 いつも姪にそうして優しく語りかけてきたのだろう。
 京介はいつもの穏やかさで、泣き崩れている妻の背中から、そっと葉月に話しかける。
 妻が握っている手を、京介が一緒になって握りしめる。
 すると優しい叔父さんの語りかけが、急に感極まった泣き声に変化した。

「怖かっただろうね。すまないね……。叔父さん、なにもしてあげられなかったね。葉月、葉月……許してくれよ……」

 そして、京介まで。
 妻と一緒に床に跪いて泣き崩れてしまったのだ──。

「貴方。もう……嫌よ、こんな事の『繰り返し』。なんとかして、なんとか出来なかったの! こんなのあんまりだわ!!」
「瑠美……」

 ──『繰り返し』。
 それを耳にして、隼人は『そうか』と思った。
 御園の人は、これが初めてではないんだと。
 二重の二度目の惨劇が目の前で起きて、その全てを象徴する姿を今、葉月が見せつけているのだ。

『なんとか出来なかったの!』

 瑠美叔母の悲痛な叫び──。
 それが隼人の耳にこびりつく。

 何とか出来なかったのか。
 いや、こうなってしまったのだから、何とも出来なかったというのが『結果』ではあるのだろう……。
 葉月の姿をこうして見るまでは、何も考えられなかったが、こうして彼女が今、意識不明でも、それでも全ての希望が奪われたわけではないと判り、隼人の中の思考能力が僅かに蘇ってきた。

(何かがあるなら、もっとそれ以前に何かが出来たはず)

 それがちっとも判らない。
 それは今から判るのだろう。
 だが、ここで隼人はなんとなく勘づいてきた。

(何かがある……)

 葉月が『狙われる理由』だ。
 むしろこの『一族』なら、一族の中だけで握りしめている事情があるような気がしてきた。
 そんな事を思い巡らせていると、身体の震えが止まってきた。

「行ってやってくれ。話しかけてやってくれ。澤村」

 動けない隼人を見守ってくれていたのか。右京がそっと背を押してくれた。
 隼人が行くと、瑠美も京介もスッと落ち着きを取り戻して、そこを譲ってくれる。

「葉月──」

 隼人も跪き、彼女の手を握った。
 いつも彼女の手は冷たい。こんな時も容赦なく冷たい。
 いつだって生きてい欲しいと、そんな意識が薄い彼女の手を、暖めてきた。
 そして今もそれは変わっていない。
 なんてことだろう。彼女は生きていても、こうして死線を彷徨っていても、同じように感じされるほどに、なんて儚い体温を維持していることか……。
 ……けれど、この時、隼人は指先に残っている僅かな暖かみに気がついて、それがいつもよりほんのりと暖かく感じられた。
 ああ、生きているんだ。まだ、大丈夫、生きている。
 その指先を頬にあてる。いつもより、そのぬくもりが際立っている気がする。とても、とても、有り難く思えた。

 握った手は左手だった。
 指輪がそこにある。
 血で汚れたのか、拭われたような跡がある。
 隼人はそれにも口づけた。

 苦い感覚。 
 金属の匂い。
 血の味。

 忘れるものか。
 許すものか。
 今度は絶対に俺が守り抜く。

 誓いの口づけだ。

「約束しただろう。側にいるよ。俺、ここにいるよ──」

 それからずっと側にいた。
 隼人の背から瑠美の泣き声が聞こえ、そして京介のうなだれる姿も目の端に見えた。
 だけれど、どうしてか右京は両親のように泣き崩れたりもせず、そして隼人のように葉月に語りかけようとはしなかった。

「隼人君、もう……行こうか」
「嫌です。俺、ここにいます」
「でも、だね……」

「いいじゃないか、親父。そうさせてあげろよ。そしてきっと葉月も見ている。感じている。側に誰がいると、聞こえているんだ」

 右京のその強い言い方に、誰もが彼を見た。
 そこには今まで見たことがない右京がいた。
 何かを強く見据え、そして密かに燃えるものを内に抑え込んでいるかのように、目が輝いていた。
 どう言えばいいのか、恐ろしい顔とも言えようか。あの煌めくばかりの華やかで優雅で、いつもふわりと柔らかに世の中に存在しているような彼ではなかった。
 その彼が、やっと葉月の側に来た。

「葉月、お前を守ってやれなくてすまなかった。だけれど安心しろ。もう何もお前を襲ってはこない」

 その右京の言葉に、隼人は背筋がゾッとしてきた。
 そしてやっぱり何かがあると、直感した!

「葉月、澤村がいるのが分かっているだろう? もう大丈夫だ。こっちに来ても、大丈夫だ。お願いだから、帰ってきてくれ。兄ちゃんも待っている」

 どうしてか……?
 この従兄の祈りは悲観していない。
 従妹は必ず、自らの意思で帰ってくると信じ切っている。
 どこにも、『死んでしまうかもしれない』という悲観が感じられなかった。
 そして何よりも、本当に今、葉月とそこで会話しているように聞こえてしまったから、不思議だ。
 ──それを聞いて、隼人の心も強まった気がする。

「俺、ここにいます」
「うん。そうしてくれ。気にするな。スタッフには言っておく」

 右京がまた、励ますように背をさすってくれる。
 なんだかこのお兄さんが、こんなに頼もしいと思えるのはいつものことなのだけれど、今まで以上だと感じた。
 鎌倉御園一家が、去っていった。

「葉月、ここにいるよ。ここだよ。俺達、離れないと……」

 指先のぬくもりだけに励まされるように、隼人も葉月を何度も呼んだ。

 ──それが先ほどまでの二時間だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 連れ戻しに来た京介と一緒に、ICUの出口で簡易スモッグを脱ぎ捨て、外に出た。

「長期戦になるだろうから、あまり頑張りすぎないようにね。君までもが倒れたら、やるせないし、葉月も望んではいないよ」

 気遣ってくれての言葉だろう。
 だが、隼人は『はい』と一応は答えたが、心の中ではそうは思っていなかった。

 彼女があんな瀬戸際に追い込まれて、苦しんでいるのに。自分だけ力をセーブして日々を乗り越える? 冗談じゃない。倒れるほどに今は自分の力を全て使い切ってでも、彼女の側に……。
 そこまで思って、隼人は自分のことを『大馬鹿者だ』と思った。

 今頃、『倒れてでも側にいるよ』だなんて。
 ──遅すぎるじゃないか。
 今まで葉月と生きていくために、あれだこれだと彷徨って彼女と傷つけ合ってでも、『この距離がベターだ』とか『ここは離れた方が良い』だなんて繰り返してきたのに。今になって『全力で側にいる』だなんて言葉と気持ちが浮かんでくるなんて……。

「何故、もっと早く……これに気がつかなかったんだ」

 なかなか出てこなかった涙が、今、ここで溢れてきた。
 込み上げてきた悔しさを噛みしめ、そして隼人は咽び泣く。
 京介がその声に気がついたのか、『隼人君』と振り返り、驚き……そして隼人の側にやって来て、父親のように肩を抱きしめてくれた。

「君が今まで、全力で姪を想い愛し続けてくれたことは、よく分かっているよ」

 だから、そんなに気に病むなと言ってくれている。
 当然のことながら、有り難いはずの言葉なのに、今の隼人にはどうにもそうは思えないし納得できない。
 隼人がそう思っていること、そう感じていることも、京介は百も承知だろう。それでも彼は言ってくれる──『君はなにも悪くない』と。

 そんな京介に連れられて、待機室に戻ってくる。
 そこには父と、そして瑠美とロイが重い空気に押しつぶされたかのようにうなだれ、誰一人言葉を発しないでそこにいた。
 ──右京がいなかった。

「右京は出ていったのか」
「ええ。今後のために近くの宿を確保してくると……」

 京介の問いに、妻の瑠美が答える。
 右京はすでに先の事へと動いている。一人で……?

 暫くするとロイも出ていった。
 なんでも小笠原に今後のことについて手配するとかしないとか……。
 そして、瑠美も外に出ていく。

 残ったのは隼人と和之だけだ。
 今、隼人の頭の中にあるのは『次、いつ、どうやって彼女の元に行くか』だけだ。

「隼人。私も横浜に連絡してくるよ」

 隼人はこっくりと頷く。
 一人きりになった……。

 ただじっとしていることしか出来ない。
 だけれど、意識を何処か宙に飛ばしている気持ちになろうと努めていた。
 もしかしたら、そこらに彼女がいるかもしれないじゃないか。
 ──そんなこと、出来やしないと分かっていても、気持ちは魂で彼女を追いかけている。

 本当に、何処にでも勝手に行ってしまうんだな。
 頼むから、そんなに遠くに行かないでくれ。
 ……俺をおいて、行かないでくれ。
 ここでお前がいなくなったら、もう、俺も、俺も。

「葉月──。こんなに欠けた気持ちで生きていくって……こんなに……」

 きっと葉月は、ずっとこんな気持ちで生きてきたのだろう。
 側で見守ることしか出来なかったし、そして彼女と同様の気持ちになる努力はしても、やっぱりこんなに辛いことなのだなんて、こうなってみないと分からない。本当に、葉月がそうしてきたように、こうして息をしているだけでも引き裂かれる思いばかり。苦しくて痛くて、呼吸をしているのが辛い……。だから、彼女はいつも、いつも……。

 誰もいなくなったせいか、隼人は両手で顔を覆って、また一人、咽び泣く。
 悔しくて、苦しくて、情けなくて、哀しくて──。

『そんなになっちゃだめよ』

「葉月?」

 ふとそんな声が聞こえた気がした。
 勿論、気のせい。そして隼人の幻聴……。
 そう言って欲しいという、隼人の心奥底の本音から創りだした幻……。

 

「オチビは帰ってくる」

『!?』

 低く重い男性の声。
 それも聞いた途端に『誰』か分かっただけに、隼人は驚いて顔を上げた。

 開いたドアから一人の男性が入ってきた。そしてもう一人……。

「隼人兄ちゃん……。泣かないでくれよ」
「真一!」
「葉月ちゃん、いつだって帰ってきたよ。俺、今度も信じる」

 栗毛の長身の少年がそこにいた。
 泣きそう顔はしているけれど、隣にいる男性と同じ思いを抱いている言葉、そして顔がそこにあった。

「親父が直ぐに来るって言うから、一緒にと思って、ロイおじさんとは行かずに……。小笠原まで迎えに来てもらったんだ。今、ついたところ」

 親父──。
 栗毛の少年がそういって見上げた隣の男は、その息子より背が高い黒いスーツの男。

「……純一さん」
「遅くなった。これでも出先の香港から急いできたんだ」

 一年ぶりの再会だった。
 そこに『黒猫のジュン』が、息子と一緒に並んで現れたのだ。

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