彼女の具合が悪いようだから、すぐにホテルに連れて帰ることにした。
だけれど帰りのバスに乗り、暫くすると葉月は顔色も元に戻って、バスに乗ってしまったことを後悔していた。
「ワイン、買わなかった……」
「いつでも買えるし、ホテルでも売っていたよ。それで良いじゃ・・な・・」
「ううん! あそこで買ったのが良かったの! せっかく隼人さんと一緒に一つになれたと思えた場所、それも沙也加お母様の想い出の場所だったのに……!」
そう言って急に葉月が泣き出した。
隼人はびっくりして周りの乗客の視線を気にしながらも、葉月の肩を抱いて胸の中に抱きしめた。
「……私は、いつもそう。いつも肝心な時にこうなの」
悔しそうに唇を噛みしめている葉月。
そんなにワインを楽しみにしてくれたのかと思うと、隼人は言いだした手前、こうしてバスに急いで乗せてしまった事を後悔してしまった。
葉月は『気分が悪くなった』自分をずっと責めていた。
隼人はただ抱きしめるだけで『ワインよりも葉月が大事だ』と呟くと、やっと気持が落ち着いたようだった。
そのまま、ホテルの部屋に戻った。
・・・◇・◇・◇・・・
部屋に帰ってから、布団を敷いて葉月を横にさせた。
すると意外とすぐに寝付いてしまった。
やはり──旅疲れなのだろうか。
まだ昼を過ぎたばかりだったが、隼人はほっと一息。このまま今日はゆっくりしてしまおうと、惜しむことなくそうすることにした。
隼人は窓際の椅子に腰をかけ、読みかけの文庫本を開きながら、湖の景色をずっと眺めていた。
夕方前になって、ぴくりとも動かずに眠っていた葉月が、むっくりと起きあがった。
「また、寝ちゃったの……私」
もうどうでも良いと諦めたような言い方。
隼人も、和室のテーブルで、今後の予定の見直しをしていたところ。その力無く起きあがった葉月の横へと寄った。
布団の上で、長い髪の中うなだれている葉月の側に寄って、そっと肩を抱いた。
「いいんだよ。こうして何もしないでゆっくりするつもりだったんだ」
「でも──」
「今日は有り難う。俺に付き合ってくれて。本当に来て良かったよ」
「……隼人、さ……ん」
葉月の耳に、心よりの感謝の言葉を囁くと、その気持に救われたかのように葉月がじわっとガラスの瞳に涙を浮かべた。
「泣いてばかりだな。俺のためにそんなに頑張らなくても良いんだよ、この旅は」
「でも……」
「いいんだ。こうしていられたら、それで。葉月もそうだろう?」
ついに涙を頬にこぼし、それでも葉月は心のしこりが取れたかのように、こっくりと頷いてくれた。
その気楽になったような泣き顔、その頬に、隼人はそっと口づけた。柔らかに隼人の胸に抱きついてくる彼女をそのままずっと抱きしめる──。
「気を取り直して、食べ損ねた焼き蟹でもつまもうか」
「そうね……。お茶、入れるわね」
いつもの……いや、近頃隼人をとても安心させてくれていた明るい笑顔に戻った葉月。
やっと立ち上がって布団を畳むと、葉月は和室のテーブルに寄って、楚々とお茶を入れ始める。
その後ろ姿がとても凛として落ち着いていたので、隼人は再度ホッとする。
「……葉月。だけれど無理はやめよう」
「それはなに? 私がこんなになったから、もう旅はやめて帰ろうというの?」
「なんだか心配なんだ」
神妙に呟いた隼人に、葉月が今度は笑顔で振り返ったので隼人はちょっとおののいた。
「それっていつもでしょう。大丈夫よ……。寝たらすっきりしたから」
「本当か? すごく顔色悪かったぞ。脂汗みたいなものも浮かべていたし」
「うん、気分が悪くなって──。でも、バスに乗ったら、全然元通りだったもの。頭痛のせいだと思うし」
「……」
確かに、その笑顔としっかりしている背を見たら、本当に元通りのウサギさんだ。
だけれど、本当にこのままでいいのか……。払拭できないものが隼人の頭にこびりつく。
「あーあ。本当にワイン、欲しかったのよ」
ぶつぶつ言いながら盆に載せた湯飲みを、窓際のテーブルへと葉月は持っていった。
そこに隼人が買った焼き蟹を並べ、それぞれの椅子の前に湯飲みを置いている。
バスの中では取り乱したように泣き始めた彼女だったけれど、もう気持も落ちついている様子。
隼人は『様子を見るか』と、このウサギさんがせっかく楽しそうにしてくれている旅だからと、笑顔に戻る。
「蟹、食べようか」
「うん」
湖が見える窓辺で、二人で向かい合って、蟹の殻を剥く──。
「お、また降り始めたぞ」
「本当……。大きな雪ね」
いつの間にか湖の上の空はどんよりとしていて、ふんわりとした牡丹雪が静かに舞い降りてきていた。
ふわりふわりと舞う白い花のよう……。それがやがて景色を埋め尽くすように、隙間なく舞い始める。
「すごい。降り始めたら、あっと言う間ね!」
「うーん。今日、朝一に有珠山に行って正解だったかもな。もしかしたら、また積もるかもしれないぞ」
「それも楽しみ」
やっと今までの葉月に戻ったのを見て、隼人はもう……安心しきってしまいそうだった。
「こんな天気になるなら、帰ってきたのも正解だったかな」
「ワインは絶対に欲しかったわ」
「こだわるなー」
「じゃあ、なあに! 隼人さんはなにげなく『乾杯』って言ったの!」
今度は怒り出すウサギに、隼人ははあと溜息をこぼす。
「そうじゃないけど。俺は葉月と一緒ならどこでなにで『乾杯』しても一緒だと思っているだけだよ」
「それでもあの時買えたかもしれないワインの味は、格別だったと思うわ。……私のせいだけど」
なかなか『女の子らしい』事を強気で言うようになったなあと、隼人は感心したいけど、その強さにたじろいでみたり。
だけれど、あの時の事をそんなに胸に刻みつけてくれたのだと、自分の気持ちがすっきり晴れた隼人としては嬉しい事だった。
「今夜の夕食、二泊目だからここの食事じゃなくて、外食にしたんだ。外で寿司屋を見つけたから、そこに行ってみないか? 帰りに何処かでワインを見つけよう」
「本当?」
「ああ、俺もそうしたいからな。この土地、この日であるなら同じだろう?」
「うん。隼人さんと選びたかったの……。さっきも」
頬を染めて、しっとりと微笑むウサギさん。
そんないじらしい微笑みを見せられてしまっては、隼人も言いなりの降参だ。
窓の外はもう湖が霞むほどの牡丹雪の世界。
二人きり、まるで白い花の中に閉じこめられたようだった。
そこで二人は、何事もなかったかのように、柔らかに微笑みあっていた。
・・・◇・◇・◇・・・
夜が来て暗くなっても、外の雪は変わらずに牡丹雪が舞っていた。
相変わらずの食欲を見せたウサギさんと、北海の幸を楽しんだ夕食を済ませた帰り道。
ふわふわと舞う雪の中、ふんわりと積もった雪の上を跳ねるように前を行く彼女を、隼人は眺めていた。
黒いロングコートに黒ブーツ。そして夜灯りに時にきらりと反射する栗毛。
若草色のマフラーを巻いて、彼女は本当にウサギのようにぴょんぴょんと跳ねて、はしゃいでいた。
隼人の腕には、ワインボトルが一本。
近くにあった土産店で、二人揃って赤ワインを選んだ。
ワインも選べた帰り道。
そうしてウサギは何処までも楽しそうに、雪の上をぴょんぴょんとしている。
隼人はそれを目を細めて眺め、後ろからゆっくりとついていく。
そのうちに、葉月が立ち止まる。隼人も間を揃えるように立ち止まった。
少し先を行ってしまったその場所で、葉月が夜空を見上げていた。
そして、手のひらをそっと広げ、その上に舞い降りてくる牡丹雪を静かに乗せている。
手のひらに乗った牡丹雪は、すぐに溶けていくから、葉月は何度もそれを手に乗せ……やがて、その雪にふと口づけていた。
そうして夜空をまた見上げる葉月。
今度は目を閉じて、夜空に口づけを求めるような顔をしている。
少しとがらした唇に雪を乗せて、また小さなキスをしているように見えてしまう隼人。
──綺麗だ。
そう思った。
そこに雪に包まれて、夜空に口づけている彼女のしっとりとした立ち姿。
隼人は滲むような眼差しで見つめ続けている。
今まで影を秘めていた横顔はなく、その白い雪のようにとても透き通っている微笑みを絶やさない満たされた横顔。
きっと、この日の綺麗な彼女の事は一生忘れないだろうと思えた。
いつまでもその綺麗な立ち姿を見せてくれている葉月の側へと、隼人も歩み寄る。
「どんな味なんだ?」
「甘い味よ」
すぐにそう返ってきた答えにも、隼人はちょっと驚く。
『甘い味』と、にこりと微笑んだ。
今、この時を……『甘い時』と、そう思ってくれているのだと、隼人は感じたのだ。
幸せそうに隼人にも微笑むウサギ。
昼間、気分が悪そうだった影など、もう何処にも見えない。
そして隼人も、彼女がこんなに暖かな笑顔で幸せそうにしてくれているのが、嬉しくて堪らなかった。
──この時がずっと続けば良いと。いや……『もしかすると』、もう本当の幸せは、すぐそこに来ているのではないかと思えた程だった。
ホテルの部屋に戻っても、葉月は窓辺で雪ばかり眺めていた。
「これ、借りてきた」
ワインオープナーとワイングラスを二つ。外の従業員を捕まえて、借りてきたのだ。
隼人はそれを窓辺のテーブルに置いた。
窓際で雪を眺めていた葉月が戻ってきて、椅子に座る。
ワインのコルクにワインオープナーの螺旋状の針を突き刺さし、隼人は慣れた手つきでキュッとコルクを引き抜いた。
牡丹雪が舞う窓辺の前。
テーブルに置かれたグラスに深紅のワインがこぽこぽと音を立てながら注がれる。
ルビーのように夜灯りに煌めく、赤い水面。
そこにも降る雪が映っていたのか、葉月がそれを覗き込み、暫くしてグラスを手にした。
そして窓辺にワイングラスを向け、今度はグラスの向こうに見える雪を楽しんでいるようだ。
「じゃあ、飲もうか」
さて、乾杯の一声は何にしようかと思いながら隼人がグラスを手にした時だった。
逆に葉月がテーブルにグラスを置いてしまった。
「話があるの」
「……なんだ?」
隼人があげたマフラーを膝掛け代わりにして正面にいる葉月。
彼女の顔が、先ほどの愛らしい無邪気さを含めたウサギの顔ではなく、いつも大佐室で見せている大佐嬢のような引き締まった表情になったのでドキリとした。
「なんだよ、かしこまって」
「あのね。昨日の現役引退の話の続きなんだけれど……」
それにも隼人はドキリとした。
最後まで引退の真意を語ってくれなかった葉月。もう少し時間が欲しいと──二年も一緒に過ごしてきた隼人にすら、言葉を濁したことを今から言うというのだから。急に背筋が伸びて、隼人もワイングラスを置いて姿勢を改めた。
やはりまだ言い難いのか葉月は暫く、窓辺の牡丹雪の舞を眺める横顔を見せていた。
そして、決心がついたように隼人に真っ直ぐ向き直る。
その時の彼女の瞳は、やっぱり大佐嬢のように強く前に進もうとする時と同じ輝きを見せていた。
「私が最後にコックピットに乗ったのは……。ホーネットで空に行ったのは、もう一年前。あの式典の日だわ」
「そ、そうだな。もう、そんなに経つんだ」
その間、彼女はひと言も『早くコックピットに戻りたい』とは言わなかった。
そのことを隼人は気がつくのが遅すぎたのだけれど……。
「その最後に乗った時に起きた事を覚えているでしょう?」
「忘れる物か。コークスクリューの四回転を成功させて、お前は上空で気を失ったんだ」
「そうね……。自分でも驚いたわ。気がついても腰が抜けたかのように身体が死んでいたんだもの」
「──あの時は、焦ったけれど。でも、俺、信じていた。葉月は絶対に帰ってくると」
「あの時、貴方、最後に言ってくれたでしょう?」
覚えていなかった。あの時は必死になって彼女を呼び戻そうと叫んでいたから。
でも葉月はしっかり覚えているようだ。
「身体が目覚めて、危機一髪機体を空に戻せた時に、貴方が言った。『おめでとう……お前は今、生きているんだ』と、そして『生きる事をお前は今……選べたんだよ』と……」
その時の事を思い出したのか、葉月が瞳を潤ませていた。
そして隼人も思い出した。あの時、危機一髪、それでも帰還した彼女の『底力』を見て、自然とそう思ったから言ったのだ。
「あの後、私の中に『血潮』が流れ始めた感触があったわ。私、今までコックピットに限らず、自分をギリギリに追いつめて、もう駄目だと言う時になってやっと馬鹿みたいに必死になる力が起きて、『生きること』を『私は生きたいのだ』という確認をしていたのだと思うわ。だから、あんなことをしてきたと思うの」
「……そうだったかもな」
『なにもかも忘れるほどに戦っていたのよ』──そんな女医ジャンヌの言葉を隼人は思い出して、溜息をこぼした。
葉月の人生はまさにそれの繰り返しだったと思う。女身で戦地で仲間を助けると飛び込んで敵に捕まったり、岬の任務の時も部下である小池を助けるために、自ら犯人の手の中に落ち、最後には犯人狙撃の的になった。そして、昨年の式典でも無茶な技にチャレンジした後、限界を超えた中で急降下墜落未遂を起こした。そうして自ら飛び込んで『私は本当は生きていたいのだ』という気持を取り戻す代償として、身も心も傷つけてきた……。
「……私、そう言うことをしていたのだって。あの時、貴方の『生きることを選べた』という言葉で気がついたの。その時、私は思ったわ。『空』とは決着が付いたと……」
初めて、隼人は『そうだったのか』と驚かされた。
あの時、既に葉月は『コックピット』との決着を感じたから、あれから『戻りたい』という気持もなくなっていたのだと。それも隼人のひと言で──!
──知らなかった!
勿論、あの後、もっと別の問題で葉月は隼人から離れていき、隼人も手放してしまい、戻ってきてもこんな話をする余裕などはなかったのだけれど。それでも一年経ってこうして改めて聞かされるのには驚きが隠せなかった。
『血が通ったのはこの時』と彼女が言うのだから。
「でも、それはただ『決着がついた』と思っただけで、まだコックピットを降りようとは思わなかったわ」
「え? では……いつ? どうして……」
決意は『それだけじゃない』と言う。
まだしっくりこない隼人に、もうひとつ何かを告げようとしている彼女の唇が躊躇っているのが分かった。
……また、窓辺の牡丹雪を一時眺め、そして彼女が隼人を前にして静かに呟いた。
「子供を産みたいの」
「!」
「貴方の子供。それが私の新しい『夢』だから」
……一瞬、隼人は呆けていた。
もう一度、言って欲しいと言いたいが、言えずに。
でも目の前の彼女は、もうあの決意に意識を固めている険しい顔ではなくて、ほんのりと頬を染め、ふとはにかんで俯いていた。
薔薇色の頬と、ちょっと恥ずかしげに緩めて微笑んでいるさくらんぼうの唇。それらが艶々と女性らしく輝いて見えて……隼人はただ惚けていた。
「そ、それが、ほ、本当の、り、理由……」
自分でも驚きというか、照れというか、戸惑いというか……。言葉が上手く出て来ないけれど、でも、彼女はあの甘い女性の顔でこっくりと頷いた。
「それには、いつ出来るか判らない中。過酷な空への訓練を知らずにしてしまう事は、すごいリスクだと思うの」
「ま……そ、そうだな・・?」
「だから、辞めるの。お腹に出来た子は、今度は些細なことでも全力で守りたいから……」
そして急に苦い顔で彼女が隼人から顔を背けて、小さく呟いた。
「もう、あんなふうにお互いに苦しむような失い方はしたくないの」
「……葉月」
「私、ちゃんと全力で守って、それでも駄目だったなら──。それはそれで哀しみは感じても、後悔はしないと思う。ううん、守りたいの。守りたいから、その為なら、私の全てだったコックピットを捨てたってなんとも思わない!」
そう強く言いきった彼女の言葉に、隼人の頭はガンと打たれたような衝撃が走った。
──それほどに、彼女は『貴方と生きていく。一緒に戦いたい』と言ってくれているのだ!
葉月は既に『命瀬戸際の戦い』にピリオドを打っている。そして彼女の視界にあるのは『命誕生への戦い』だ。
今日──二人でまだ見えぬ『緑』を確かめに行った。
二人はそこでちっぽけな望みを捨てずに、お互いに共に握りしめて帰ってきた。
『きっと、また緑は息吹くわ……。きっと』
『ああ。また……めげずに迎えてみよう』
二人をより深く引き裂いたわだかまりが、綺麗になくなった。
それは見渡した雪景色のように、真っ白になったと隼人が思えた瞬間。
では? 葉月は黙って待っていてくれたというのだろうか?
隼人がそこを引きずっていて、口にするのも怖れ、そして彼女の身体に怖れを抱いて触れられなかったりしていた時も、彼女は一人諦めずに『不育症』の原因を知るための検査を、自ら一人で立ち向かっていた。
そして今日、隼人がそこを真っ白な気持になれたのを知って、やっと言ってくれているような、そんな気がしてきた。
実は、隼人も……? 彼女を待たせていたのだろうか?
「ごめん、葉月──。俺、今日までお前にたった一人で……」
「違うわ。私の気持ちがどうしてもそうなってしまっていたの。だから私独りで向かっているとしても、『たった独り』だなんて、そうは思わなかった……」
隼人なりの後悔を言おうとしたら、それを即座に遮った彼女のその強さに、改めて驚かされる。
彼女は本当に、たった独りで前進してきたのだと……本当にそう思った。
「だけれど、ごめんね。隼人さん──」
急に、緩く微笑みながら葉月がそんな詫びの言葉を──。
そんな彼女が哀しそうに隼人に告げた。
「検査の結果……判らなかった。先生はまだ調べてみようと言ってくれているけど、今のところ、私は40パーセントの原因が判らない人に入るみたい……なの」
「葉月──」
「もしかすると、私の『夢』は叶わないかも知れない……。貴方にも……駄目かもしれない」
「……」
そして隼人はいつか東京で鉢合った葉月と一緒にいた医師の話を思い出す。
『不育症』の原因が判明する患者は60パーセント、判明しない患者は40パーセント。さらに三連続流産をする『習慣性流産』の女性が、次の妊娠でも流産する危険性は約50%だと。だがその医師は言った。逆に言えば、それは50パーセントの希望があるのだと。──彼女はそれに賭けている。そう言っていた。
あの頃の隼人はそんな葉月の姿勢に驚きはしても、まだ手を伸ばして触れようとも思わなかった。むしろ目を背けていた……。
そしてやはり、葉月の運命は『酷』な部類に分けられてしまっているようだ。
だが、葉月は微笑んでいた。
「何故ね。急にそんな気持になったかというと──。やっぱりね、今まで命を削ってきた私なんだけれど、そんな私が生命を世に送り出せたなら、それは生きていた証になるのじゃないかと。生きていく力になるのではないかと。──『あの子』が私の中に息づいてから、そう、『この子』がいた事を消したくないから、もう一度生きてみようと。私が生きていかないと、この子が短い命だったとしても共にしていた時間が無意味になるような……あの子を生かせない気がして。だから、もし、本当にこの腕に抱けて、愛している貴方と死ぬまで慈しめたなら……私、どんなに不幸でも『生まれてきて良かった』と思えると思うの」
最後に葉月が深く吸った息をそっとゆっくりと落とした。
──牡丹雪が待っている夜。
隼人はただ……いつになく自分の気持ちを熱く語った葉月を、見ていることしかできなかった。
だけれど、葉月が言う『血潮』。それを隼人も感じさせてもらえた気がする。『命』って……こんなに熱い物だなんて、当たり前に生きてきた自分には解らなかった。
いつも冷たく血の通わない生き方をしてきた彼女の方が、充分に知り尽くしている。そんな気にさせられた。
熱い。隼人の身体も急にかっと熱くなってきた気がする。
そして葉月は……待ちかねていたワインを手に取らず、すっと席を立った。
若草のマフラーをまるでショールのように肩に羽織って、また……窓辺へと行く。
白花の雪が幾重にも重なる湖の夜景。
それを葉月がじっと無言で眺めている。
窓ガラスに映った彼女の顔は、満たさている微笑みを携えていた。
「葉月」
隼人も席を立ち、彼女の後ろに立った。
──何を思っているのだろう。
そう問いかけられない分、彼女の両肩を撫で、後ろから抱きすくめた。
「ねえ、真っ白になっていくのね」
「本当だな。積もるのもあっという間だろうな」
曇った窓を、葉月が手で拭いた。
先ほどまでぼやけていた白い牡丹達が鮮明に写し出され、次々と二人の視界から去っていく。
小さな白い花達。なのにこの花達はこの大地を真っ白に塗り替える大きな力を持っているのだ。
「私も『真っ白』になろうかしら」
「……そうだな」
『真っ白』の意味を、隼人なりに捉えてみた。
だけれど、もし勘違いなら、葉月を驚かせてしまうかもしれないし……。
そして隼人も……。
一度、前に一度口にして、『壊れた言葉』──。
そうして噛みしめていると、彼女が肩越しに振り返ってそんな隼人を、優しい笑顔で見つめていた。
隼人もハッとして元の顔に戻そうとしたのだが──。
「隼人さん……」
「な、なんだ」
その清らかな笑顔で、葉月が隼人の目の前に向き直る。
抱きしめていた腕を解いて、隼人も向き合った。
彼女の後ろを、暗闇の中、白い花が幾重にも舞っている。
そんな中、葉月から隼人の両手を取って、見上げてくる。
「いつも貴方からもらってばかり。今日まで沢山の愛と言葉を有り難う」
「え? な、なんだよ。改まって」
「私、もう……怖くない」
「怖くない?」
なんの事か解らないが、でも葉月は本当に満ち足りた清らかな笑顔で、隼人に囁いた。
「貴方のために、真っ白になって。私、貴方と『勇気ある前進』をして行きたい。『真っ白なドレス』、貴方のために着てみたい。着てもいい……?」
笑顔から、急に彼女のガラス玉の茶色い瞳が奥まで透き通って輝いた。
その瞳が熱く揺らめいて、濡れている……。
真っ白な花に囲まれて、彼女が小さな唇からこぼした『愛の告白』──。
それは彼女からの『求婚』だった。
隼人は一瞬、息が出来なくなったかと思った。
──先を越された?
──逆に求婚をされた?
違う! 彼女が俺のために……真っ白になって前に行くと言ってくれたのだ。
「葉月──。だ、駄目じゃないか。それは俺がいつかもう一度……」
「いいの。返事はいつだって。私の今の気持だから……」
そんなふうに落ち着いて笑う彼女。
急に隼人は肩の力が抜けていくようだった。
なんていうか先を越されてしまった男として、『がっかり』……というか。
違う! 本当は、う、嬉しいのだ。この上なく! だけれど、本当は『俺』がその言葉で彼女をうんと幸せに微笑ませたかったのに!
返事はいつでもいい? 冗談じゃない! 愛するウサギからの愛の告白を受けて、俺はそんなに迷ったりなんかしない。
──そう、俺ももう、何も怖くない!
「そんなに怖い顔しないで。おあいこで良いじゃない。もう、貴方から言われてばかり、愛されてばかりは嫌なの」
隼人の手を離し、胸元からもするりと葉月は抜けていく。
そして、またワイングラスが置いてあるテーブルへと戻って、椅子に腰をかけてしまった。
隼人は大きな溜息をひとつ落として、ちょっとふてくされながら自分も元の椅子に戻った。
「……ひとつだけ言っておく」
「なに?」
「子供が欲しくて……一緒になるんじゃない。葉月とどんな葉月でも、一緒にいたいから。お前と生きていきたいから。それは指輪を渡したあの日と気持は変わらない。だけれど、前と違うというなら……」
「違うというなら?」
「──無理しなくていいんだ、葉月。もう二度と、お前を傷つけるような『無理』はさせやしないよ」
「!」
「でも、葉月が望んだこと、『痛くても勇気を出して行きたい』ことなら、俺、側から離れずに、見守る。どんなになっても、俺はお前から離れないよ」
「隼人さん──」
「今のままで良い。無理に良くなろうとしなくて良い。むしろ、今より落ちて行ったとしても側にいる。それでも俺がいる。離れない──」
彼女の瞳から、大きな涙が一粒だけこぼれ落ちた。
隼人はワイングラスを手にして、葉月の方に差し向ける。
「さあ、乾杯だ」
隼人がそう言うと、葉月も涙を拭いてグラスを手に、隼人に向けてきた。
今日、二人で真っ白い冬の大地から『緑』に思いを馳せた。
今までの沢山の思いを、哀しい思いを抱えていても、いつかきっと春に出会えると願って、抱き合った。
そして、白い花の中、彼女が清らかに愛を告げてくれた。
その『乾杯』をしよう──。
隼人は葉月の目を見て、微笑んだ。
「俺達の『結婚』に乾杯」
「──!」
葉月の驚いた顔。
白いドレスを着て真っ白になると言いはしたが、彼女は返事をもらえるまではあからさまには言えなかったのだろう。
それなら、先を越された俺が、その空白を埋めてあげよう。
「どうした? 俺の返事だけれど……」
「……私、きっと、貴方を幸せにするわ」
「あ、また……先を越されたな。俺は、絶対に葉月から離れない。もう、二度と……手放さない」
『さあ、乾杯だ』
その隼人の微笑みに、葉月も涙を堪えながら……顔を上げて微笑んでくれた。
「乾杯、貴方」
「乾杯、葉月」
グラスをカチリと合わせ、二人一緒にグラスを傾け、ワインを飲み干した。
真っ白な花達が祝福してくれているようだ。
真っ白になりたいと言った彼女。
真っ白になんかなれなくても良い……。
そのままでいい。
いままでどおりでもいい……。
隼人はそう思いながら、最後の一滴まで……喜びの美酒を飲み干した。
・・・◇・◇・◇・・・
透明なワイングラスの向こうには、いつまでも、いつまでも、白い花が降り止まぬ。
この花に香りがあったのなら、それはもう、そこら中に立ちこめて、愛し合う二人を包み込んでいることだろう。
だがその花に香りはない。だけれど真っ黒な闇夜から、小さいながらも幾つも幾つも降り注ぎ、夜空色を隙間なく彩っている。
まるでその花達に祝福されたように、囲まれているよう。
──その花の中、ふたりきり。
布団の周りに散らばっている衣服。
彼女のスカートに、スリップドレス、タイツに、俺のジーンズにセーター。
八方あらゆる方向に、散らばっていた。
白い花の中、白いシーツが乱れ、ほっそりとした指がそこの端を握りしめては、悩ましげな声を響かせている。
「あっ……っ! だ、だめ・・・もう、あ、いやあぁ……」
いつもは控えめな彼女が、燃えている。
「わ……わ、私、い、今頃、酔ってきたみたい……。ああん、もう、熱くて、おかしくなりそうっ」
「俺は、俺は……酔っていない。酔ってなんか……。ああ、でも葉月……」
もうじっくりと彼女の肌を愛した後で、既に彼女と一つに交わっている最中。
胸の下に彼女を抱きしめたまま、隼人は離そうとしなかった。
隼人の胸板と彼女の柔らかな乳房が隙間もないほどに合わさる程に。彼女を押しつぶすほどに。隼人は上から葉月を抱きかかえたまま、交わるその部分は力強く彼女の中に潜り込み、なにもかもを注ぎ込むように愛し続けている──。彼女の中へと強く押し込めても、執拗にじっくりと泳いでも、体勢を変えることなく、ただ彼女を握りつぶすかのように身体を押しつけ、どんなによがって逃げたそうにしても、絶対に逃がさなかった。
「あっあ! あ・・あー……」
乱れた白いシーツの上で、彼女がじんわりと湿り始めた栗毛を振り乱し、今夜の彼女はとても熱い。
強く愛せば大きな声で反応し、じっくり愛せば力尽きるような儚い悩ましい声を漏らす。
なにもさせない。お前はなにもしなくていい。
でも、私も愛したい。貴方をどうすれば愛せるの──そんな囁き。
その返事はない。
今夜は俺に愛させてくれ。
お前はそれを受け止めるだけで良い。
そう彼女の耳元で囁くと、自由を奪われている彼女に背中をひっかかれた。
それでいい。それだけでいい。もどかしいなら、いくらでもひっかいたらいい。
今夜は、その指先だけお前に残して、あとは全部、俺の物だ。
「もっ……もういい加減にして……っ」
「嫌だ。俺は今まで随分と遠慮してきたと思う」
「……そ、そうかしら」
「そうだ」
そうして彼女を布団に縛り付けたまま、身体全体で抑え込んだまま、胸の下でもがくだけしか術のないウサギを、存分に愛した。
やがてそれにも観念した彼女の身体から反抗する力が抜けていく。
腕と腕を重ね、指と指が隙間なく握り合う両手。
白い花の匂いはないけれど、この花の匂いはもうそこら中に立ちこめていた。
しっとりとした口づけ。一度ぴたりと合わさったなら、暫くは離れない。その熱い会話をするような口づけをいつまでも続けながら、愛し合う。
その熱くて甘いたるい口づけをすれば、するほど──。それに応えるように、葉月が身体を一杯に開いてくる。
そうして彼女がいっぱいに開いて招く中へと、隼人も存分に入り込んで、隙間なく満たしてあげるのだ。
彼女の悩ましい顔。
燃えるように染めた紅の頬。
濡れた唇を震わせながら漏らす、艶っぽい声。
振り乱す湿った栗毛から甘い花の香り──。
そして胸元には、隼人が動く度に跳ねる銀色のリング。
──隼人はそれに触れて、握りしめた。
「も、もう──これはいらないっ」
「あっ。駄目……!」
大事にしているネックレスを手に取られて驚いた葉月は、抵抗する間もなく『痛いっ』と声を上げた。
それを握りしめた隼人が、鎖を力一杯引きちぎったのだ──。
随分と乱暴だったと思う。
葉月の首元に赤い筋がうっすらと浮かび上がる。
鎖を引きちぎる時、彼女の首を鎖が強くこすったようだ。
それほどに、力を加減なく入れてしまった。
案外、簡単にちぎれた銀色の鎖。
しゃらりと音を立てながら、彼女の真っ白な肌の上でまたしゃらりしゃらりとうごめく。
その切れた先から、銀色の指輪が彼女の肩を滑り、キラリと煌めきながら彼女の耳元へと転がった。
「あ、も……もう、駄目っ。お願い、お願いよ・・離して、離して……」
身体を思うままによじらせて、感じる方向へと行かすことも隼人は許さない。
腕の中、俺の腕の中、今夜は存分にその独占欲に浸ってやるのだ。
だから、堪えられなくなった彼女の爪がギュッと今まで以上に、隼人の背に食い込んだ。
──『も、もうだめ・・・』。
歯を食いしばって、堪えきれない甘い渦に、今、まさに巻き込まれようとしている『俺のウサギ』が──。ついにしっとりと濡れたような儚い声を、吐息混じりにこぼした。
その時は可哀想だから、腕を緩めてあげる。腕の中で、背を反らして濡れた声を悩ましく聞かせてくれる彼女。
そんな甘い渦に巻き込まれている最中であるのに、それでも容赦なく、彼女の乳房の先に甘噛みを交えた口づけを執拗に繰り返した。
それでもっと震える声、身体、肌。まつげ。うっすらと閉じたまぶたの影から、キラリとした涙が滲んでいた。
最後は俺──。
「葉月、葉月……葉月。愛している、愛しているよ。もう、もう、離さない」
「あ、わ、私も……愛しているわ……。貴方」
既に力尽きたというのに、男最後の全力疾走を身体一杯に受け、彼女は腕の中に隼人を抱きしめてくれる。そのいじらしさ。
──なにもかもが堪らなく、愛おしかった。
もうそれしか思い浮かばなかった。
……俺のウサギ。
真っ白い花に覆われる中、彼女と真っ白に染まり行く感覚を……隼人は感じた。
まだ止まぬ白花の舞い。
そして二人も、行き着くところまで愛し合った後も、濡れた素肌のまま、抱き合っていた。
「凄かった」
「ああ……。うん、だろうな」
横になって上の身体だけを起こしたまま、隼人は横たえている彼女を抱き寄せていた。
隼人の息切れる胸に、しっとりとした小さな手を添えて、頬を寄せている葉月。
その頬はすっかり火照ってしまった色のまま、熱かった。
隼人も、そのまま彼女の肩を栗毛ごと抱きしめた。
「乱暴だったわ。まだジンジンする……」
「……謝らない。俺はそれでも精一杯、今夜はそうして愛したかったから」
『乱暴』──。あんなふうに拘束して奪うような行為は、彼女には控えたかった。
でも、今夜は出来なかった。今まででも、幾たびかはセーブしてきた行為だ。
だが正気になって、やっぱり多少は酔いに溺れた部分もあったと理由をつけたくなるほど、我を忘れていたというか……。
だいたい。こんなふうになるまで女を奪ったことなどなかったと隼人は振り返る。だけれど、このウサギには幾たびかセーブはしてきた熱い想いなのだ。
すると、はたと我に返っている隼人を見て、葉月が可笑しそうに笑い出す。
「いいのよ。貴方なら……。素敵だった」
「そうか、良かった……」
いつもの自分に戻れた隼人は、息切れたまま、ホッと笑顔をほころばせ『お前も綺麗だったよ』と囁く。
すると彼女も嬉しそうに、隼人の唇を塞いできた。
柔らかなその唇に、そうして熱く愛されてしまうと、もうまたどうにかなってしまいそうだ……。彼女の栗毛を両手ですくい上げながら、また彼女を強く抱きしめ口づけに応えた。
「喉、渇かない? お水、出すわね」
「ああ」
葉月が離れていく。
隼人はやっと力が抜けたように、ふうと一息、そのまま仰向けに寝ころんだ。
裸で歩く葉月を目で追っていたのだが、彼女は今夜用意されていた浴衣を着込んでしまった。ちょっともったいない気もするのだが、汗をかいていたからすっと冷えたのだろう。
備え付けの冷蔵庫は、障子の向こう、窓辺のテーブルがある間にある。そこで葉月が小さな冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出している。
そして戻ってくるのかと思ったら、また……窓辺に立ち止まって、いつまでも降っている牡丹雪を眺め続けている。
いつまでもそうしているので、隼人はちょっと残っている邪な気持を諦めて、起きあがる。
自分も浴衣を羽織って、葉月の元に向かった。
葉月はその白い花が気に入ったようだ。
とても無垢な眼差しで、嬉しそうに見ている。
「葉月」
笑顔で振り向いてくれた葉月の手を取った。
隼人の手には、銀色のリング。
夜灯りの中でも、若草色の石がキラリと煌めいた。
彼女の胸元でずっと息を潜め、生き続けてきたリング。
それを隼人は無言のまま、静かに彼女の左薬指に通した。
そして隼人は、先ほど乱暴に引きちぎって、彼女の首についてしまった赤い鎖の跡へと、許しを乞うように口づけた。
もう、あのことは綺麗に終わったのだ。これが彼女の最後の傷になればいい。
もう一度……。いいや、もうあの頃の約束は関係ない。
綺麗に真っ白になって、新しく始まるのだ。
「帰りに横浜に寄って、親父に報告しよう。帰ったら直ぐに準備を始めよう」
もう、待てない。
この機を逃さずに、彼女と一緒になりたかった。
葉月もこっくりと頷く。
そしてずっとそのリングを、夢でも見ているかのように眺めていた。
──辛い思いをさせた。
たとえ、彼女に裏切られたのが事実だとしても、隼人はそう思った。
幸せそうにリングに口づけた彼女。
その麗しい女性の顔になった彼女。
そんな彼女の綺麗な姿と白花の夜は、きっと忘れられない一夜になるだろうと思った。