雪が降る音はしないのだけれど、その気配が伝わってくる気がする。
ふわりふわりとした息遣いのようなものを──。
「う……ん・・」
ふと目が覚めた。
部屋はまだ暗く、日の出ではないようだ。
いったいどれぐらい寝たのだろうかと、隼人は枕元に置いていた携帯電話に手を伸ばして、パネルを開けてみる。
──朝の五時半だ。寝たと言えば、結構寝た方だろう。小笠原ではいつも深夜まで仕事やら調べ物に精を出しているから、睡眠時間は結構短めだ。だが、旅に出てきた第一夜であった昨夜は、ウサギも寝てしまい、当然仕事をすることもないから、いつもより早めに横になった。アルコールが浸透していたので、隼人も葉月同様に眠りにつくのにそれほど時間はかからなかったようだった。
いつも以上の時間を眠って、その結果、いつもより早く目が覚めてしまった──と、いうところらしい。
寝る前にゆるゆるとした暖房に切り替えて寝たせいか、部屋の温度は快適だ。
浴衣で寝ていた隼人は、寝返りを打って携帯電話を元の場所に戻した。
──隣のウサギは。
珍しいな。いつもは彼女が早朝に目を覚ましてしまうのに、今日は二人は逆で彼女はすやすやと寝息をたて眠ったままだ。
暫く布団にくるまりながら『また風呂に行こうか』とか『もう一眠り』とか迷っていた。
夜明けの湖を見ながらの風呂なんて結構贅沢かもしれない。そうだ、風呂にしよう──と、決めかけた時。
「……朝?」
そんな声が隣から聞こえてきた、隼人はくるまっていた布団から顔を出した。
隣で眠っていたはずの葉月も寝返りを打って、きょろきょろとしていた。
「流石だな。旅先でも同じぐらいの時間に目が覚めるとはね」
「隼人さん……。私、寝ちゃったの!?」
「うん。俺が風呂から帰ってきたら、もう寝ていたから、そのままに──」
すっかり寝入ってしまった事に驚いたのか、葉月が布団から起きあがった。
「どうして帰ってきてから起こしてくれなかったのよ」
「でも、俺が布団かけても起きないほどに寝入っていたみたいだけど。それとも? 本当に寝たままで、頂いちゃっても良かったのかなあ?」
懲りずに、葉月が怒りそうな冗談をさらりと呟くと、やっぱり目の前のウサギが『そうじゃないでしょ』と膨れっ面に。
勿論、隼人はそれを見て、一人で笑う。
「……疲れていたんだよ。お前、小笠原に帰った晩も寝ていなかっただろう。解るよ……。気が張っていると寝付きが悪いんだ」
「隼人さん……」
「こんな計画を立てた俺のせいだな。そう思ってさ……」
もう彼女が寝付くまでを見守って、どれぐらいの季節が巡っただろうか。
ずっとずっと前から身に付いている習慣のように思えてくるほどに。
彼女の状態も、全てという訳ではないがなんとなく把握できるようになっていたから、昨夜も『眠らせたい』と思ったわけだ。
そして葉月も……。そうしてずっと見守ってくれた隼人がすぐに様子を察知してくれる事には、とても信頼をしてくれていると思う。だから、もう……せっかくの最初の夜をじっくりと過ごせなかった事を残念がるのはやめたようだ。
「どうだ? 眠れただろう?」
「うん。ぐっすりだったみたいね」
その通りだったようで、葉月の朝一番の笑顔は爽やかだし、顔色も良い──。
そうして葉月はまた横になった。
「いやね。せっかく休暇でゆっくり出来るのに、同じ時間に目が覚めるなんて」
「訓練された身体が恨めしいな。俺は違うけれど、夜更かししなかったから、早く寝過ぎて目が覚めた」
でも、二人揃って目が覚めたね──。と、布団の中から葉月が愛らしく微笑んだ。
それを見て、隼人はそっと自分の布団を抜け出した。
「いいか? 隣に入って」
ちょっと驚いた葉月の顔。
だが、隼人は彼女の返事を待たずに、そのまま寄り添うように隣に入った。
一晩だけしかくるまっていない布団のはずなのに、いつも彼女の部屋で一緒にくるまる水色のアップシーツと同じ甘い匂いが立ちこめた。
──葉月特有の肌の匂い。
隼人は、その甘い匂いを吸い込みながら、そして葉月の肌の暖かみを感じながら身体だけ横になる。そして頭は起こしたまま葉月の顔を見下ろした。
顔色も良く、今朝も頬はほんのりとした赤みを差している。
唇もルージュを乗せていなくても、艶々と桜色だった。
「いい顔をしている」
額の栗毛を指先で除けながら、もっとその顔を覗き込んだ。
少しはにかんだようにしながらも、隼人に向かって微笑んでくれた葉月。
それを目にして、隼人は迷うことなく葉月に口づけた。葉月も、戸惑いも驚きも見せずに、静かに隼人に溶け込むように口先を合わせてくれる。
朝、起き抜けの静かで柔らかな口づけ。
だけれども、じっくりとお互いに愛し合っているその小さな音が、静けさの中、二人の耳に聞こえていた。
どこもかしこも、隼人より柔らかい。肌に唇に栗色の髪。唇をすべらした頬もかじり付きたいくらいに柔らかい……。
──昨夜、奥へと押し込め抑え込んだ隼人の『熱い想い』。
それが一気に噴き出した。
やがて隼人の手は、葉月が着ている浴衣の腰ひもを解いていた。
浴衣の袷を開いて、すぐそこに顔を出した乳房に柔らかな挨拶も無しに貪る……。
「っあ、はあ……」
急激で、それでいて荒っぽい愛撫に葉月が驚いたように腰を浮かした。
それを丁度良いとばかりに、抱きかかえ、彼女が身につけている下着へと手が向かう。
「は、隼人さんったら……」
「実は夜より朝の方が元気があるかもしれない」
「……またっ。そんなこと言っ……て……」
悪戯めいた笑みを見せた隼人に、葉月はまた呆れていたが。もう……その隼人の急激な手先の攻めには平気な顔などできず、既に降参状態のようだった。
まだ起きたばかりで力が入っていない恋人の身体を、好きなようにいじらせてもらえるのは朝の良いところかもしれないと、隼人は一人でひっそりと微笑んでしまう。そして、今の葉月はそれほど時間はかからない。昨日のように『あっと言う間』だ。それにも隼人は頬が緩んでしまう。本当なら、もっとじっくりと愛してあげたいのだが──。それはまた……次で……。
「葉月、おはよう」
「……やっ」
あっと言う間に入り込んできた事にも葉月は太刀打ちできないまま、ぐったりと隼人の腕の中へと任せてくれる。
だが、彼女は急激に体の中を走っただろう熱い甘美な波に身体を震わせながらも、小さく一言『バカ』と文句は言ってきた。
二人寄り添っていた暖かい布団の中は、もう激しい熱気が渦巻いていた──。
「あ、ああ・・。ね、え……どうしてこんなふうに愛し合うの?」
「いいことだからだろう・・・」
「こうしなくちゃ・・いけない・・・の?」
「ああ、しなくちゃいけない。俺と二人だけでね・・・」
そこに葉月の根底に流れている『根本的な疑問』のような物を隼人は感じた。
葉月が最初に知ってしまった男と女の原点が、脳裏にこびりつきながらも──。『それは素晴らしいことのはずで、今もこうして素敵な気持でいるのに』……では、あれはなんだったのだ。と言う物を、隼人はちゃんと彼女の短い言葉から感じ取っていた。
だけれど、そんなものに『負けるものか』。
隼人はそんな葉月の中だけで出来上がっている既成概念に立ち向かうように、必死に愛していた。
そうすれば、そうすれば──こんなに良いだろう? 決して、肌を欲し官能に身を任せることは愛し合う中で間違いではないのだと。欲しても溺れてもいいのだと。
俺はもっとお前が欲しいし、もっと葉月に欲してもらいたいし、愛してもらいたいし愛したい──。その一念で彼女を愛した。
じんわりと汗ばんできた葉月の白い肌は、夜灯りの中でも綺麗に浮かび上がる。
そして湿っている甘い匂いが立ちこめる。
その肌を鷲づかみにして、彼女の身体を隼人の全てに引き寄せ、隙間が出来ないほどに押しつけるその行為。
そうして横たわっている彼女を夢中に愛すのだけれど、やっぱり首元、胸元でしゃらしゃらと音を立てながら跳ねる銀色のリングが目に付いてしまう。
いつまでも、いつまでも。その音は隼人に何度も何かを訴えているように見えた。
・・・◇・◇・◇・・・
ひとしきりじっくりと愛し合った夜明け──。
二人はそれからも眠りもしないで、ひとつの布団で寄り添っていつまでも肌と肌を合わせ、口づけあっていた。
こんなに何にも捕らわれないで愛し合える時間が、とても贅沢に思えたひととき……。
やがて遅い夜明けがやってきて、部屋の中に朝日が射し込む。
本日は晴天のようで、青空が広がっている。
窓辺には水面を煌めかせる湖と、その周りを真っ白に縁取る雪、そして羊蹄山。
それの景色に包み込まれたような部屋は、燦々と輝いていた。
その中で、本日の身支度を済ませた二人は、外に用意されている朝食を取りに部屋を出た。
朝食を用意されているホールはレイクビュー。しかも席は窓際だった。
「良い席ね」
「ああ、部屋と違って大きな窓から見ると迫力あるな」
温泉宿らしく、朝食は和食だった。
朝にもかかわらず、葉月はいつもの食欲で端から端まで綺麗に食べ尽くそうとしていて、隼人は圧倒される。
「相変わらず、良く食うなー。朝はあまり入らないんだけどな、俺なんか」
「そう? これぐらい食べないと動けないわよ?」
確かにマンションでも、葉月は隼人が作った朝食は綺麗に平らげる。戦闘機に乗るならそれぐらいは食べられないとやっていけないのだと彼女は言う。だから、残している日があったなら『どこか具合が悪いのか?』と聞いてしまうぐらいだ。それに反して、朝の隼人は少食だ。……にしても、目の前のウサギはいつに増してもよく食べていると思う。
隼人がまあだいたい食べ終わろうとしている時には、葉月は綺麗に平らげ、最後の緑茶を味わっていた。
雪景色の湖を見渡しながらお茶を味わうその横顔。今日は黒いタートルネックのアンサンブルに、千鳥格子柄のタイトスカートをはいている彼女。シックなモノクロの色合いにも栗色の毛先が際だって朝日に煌めいている。湖も綺麗なのだけれど、隼人は窓辺の景色そっちのけで、そんな葉月を眺めてばかり……。
「……いたっ」
「! どうした?」
急に、葉月がこめかみを押さえて、湯飲みを置いた。
しかめたその顔は、痛みを堪えている顔で、隼人もドキリとして箸を置く。
だけれど、葉月は落ち着いていた。
「大丈夫。最近、良くあるの」
「良くあるって? 初めて聞いたぞ」
「あ、そうよね」
隼人の目の前で、葉月は持っていたハンドバッグからあの花柄モザイクのピルケースを取り出していた。
そこの蓋を開けると、前と同じように何種類かのカプセルを覆ったアルミが見えた。
そこから一錠、白い薬を取り出し、葉月はすぐさま水で飲み込んでしまった。
「……いつからなんだ」
すると葉月が、『母艦で若い青年達の喧嘩に巻き込まれ、思い切り殴られた』という話をしてくれて、隼人は驚いた。
しかもその時に、妙な気分になって夜中に甲板で荒れた海に向かっていて、恩師であるトーマス大佐にひどく叱られた──と言う話を葉月がしてくれた。
どうもそれから頭痛がすると言うのだ。勿論、ジャンヌが側にいたし他の軍医にも強打しただろう頭の事は調べてもらったと言うのだが。
「もう一度、調べてもらった方がいいのじゃないか? その時からなのだろう? だとしたら頭を打ったからとしか思えないのだけれどな」
「でも、異常はないと言われたし。航行生活の疲れのしわ寄せが、頭痛になって現れているのかもしれないし」
「……かもなあ。でも、昨夜はしっかり眠っていたじゃないか。それとも……やっぱり強行軍すぎたのかな」
やはり少しばかり無茶をさせたかと、隼人は溜息をこぼした。
だけれど葉月は、『大丈夫よ』と爽やかな笑顔。それにその頭痛ももうなくなったと言い出したから、隼人は安心をした。
まあ、でも『無理はしないようにして旅を続けよう』と念を押すと、葉月もにこやかにこっくりと頷く。
そんな笑顔を目にすれば、もう頭痛など他愛もない事だったような気になっていた。
・・・◇・◇・◇・・・
葉月も少し気になり始めていた。
頭痛など、今までこんなに頻繁には起きたりはしなかった。
「さあ、行こうか」
黒いダウンジャケットを着込んだ隼人が、昨日、葉月があげた白いマフラーを目の前で巻いていた。
「そうね」
「頭痛、治ったか」
「……ええ、大丈夫よ。もう、痛くない」
出かける前に、念を押すように確かめる隼人の顔が、やや不安そう。
だけれど、もう、本当に痛くない。アスピリンを飲んだ瞬間から治ったから、薬を服用しなくても治ってしまうほどの他愛もないものだったのだと思った。
でも、とても痛かった。一瞬、ガンと殴られたように。それでも男の子達の喧嘩で思いっきり殴られたような痛さでもない、ゲンコツで殴られたぐらいの痛さ。それでも気になった衝撃はある痛さだった。
それがどうも、空母にいた時よりも一瞬の痛みが強くなってきている気がしたのだ。
──それが『気になる』。
だけれど、痛みはなくなったのだ。
そして今は、愛しい人との楽しい旅の最中だ。
なによりも今から彼が言う『確かめに行く場所』へ向かうというのだ。
その方が葉月にはもっと気になること。
彼が一緒に確かめに行って、確かめる自分のことを見守って欲しいと、葉月に側にいて欲しいと言ってくれたのだから──。
タイツを二重に穿くことで防寒をし、黒いロングコートのボタンを上から下までぴっちりと閉める。そして葉月も彼からもらった若草色の優しいマフラーを首に巻いてバッグ片手に隼人の後へと続く。
ホテルを出てバス停に向かう。
晴れているのにキラキラとした小雪がちらついている。降っているのではなくて、積もった雪が風に吹き上げられて舞い上がっているものらしい。青空にキラキラとした銀の粉が舞っているようだった。
洞爺湖が位置している道南は、雪は降れどそれほどには積もらないらしい。数日前に全道的に雪が多く降ったらしいが、ここも雪かきをされて道ばたに雪山があるけれど、もう車道の雪は水っぽくなりミゾレのようになっていた。
隼人と行く道の途中、それでも葉月は時々その道脇の雪山に触れては、さらさらの粉雪を手にして北の感触を楽しんでみた。
そのうちにバス停に着く。
既に幾人かの観光客らしき人々が並んでいた。
「何処に行くの? まだ聞いちゃだめ?」
「──有珠山だよ」
「有珠山。活火山よね」
「ああ。この時期、まだロープウェイが動いているから、それで上まで行ってみるんだ」
──そこが貴方が確かめたい場所?
葉月はそう問いかけようとして、巻いている若草色のマフラーの中に顔を埋めた。
今日はあれこれ聞かない。黙って彼を見つめていようと思う。
そしてやっぱり隼人もまだ多くは言ってくれなかった。
やがてバスがやってきて、何人かの観光客と一緒にバスに乗った。
雪道を湖沿いに走っていくのを葉月は黙って見ていた。隣にいる彼は急に無口になってしまい、もう既にそこに向かうための気持に入り込んでいるのだと思えた。だから、何も話しかけないで葉月は外の景色を眺める。
やがてバスは湖畔を離れ、道を曲がった。
平地の雪、白樺の雪景色──。それをほんの暫く眺めていると、目の前に噴煙立ち上る赤い岩肌を見せる小高い山がバスの窓に現れた。
「昭和新山だ」
「昭和新山?」
隼人の話によれば、昭和十八年、ある日の地震と共に突然、畑の地面が盛り上がってあのように隆起した活火山だと言うことだった。あの岩肌そのものが溶岩なのだそうだ。
とても原始的な姿。そして緑がひとつも生えていないその姿はどこか恐ろしさを感じた。なんだか生物を受け付けない激しさを感じる……。
葉月がそうして昭和新山に釘付けになりながらも、その姿に魅入っている内にバスは『火山村』というところに辿り着いた。
バスを降りた駐車場から見える昭和新山は、目の前にそびえ立っていて、葉月はやっぱりそれを食い入るように見てばかりいた。
「どうした?」
「なんだか怖いけど、でも……見ていたい気がする」
「うん。迫力あるよな。あれが畑から盛り上がったなんて考えられないもんな」
いつまでも見ている葉月を、隼人が見守るようにして笑って、一緒に見上げた。
すると隼人が一言、呟いた。
「他の生物を受け付けないほどの強さという気がしないか? それでも『彼』は力強く活きているわけだ」
「──受け付けない強さ」
なんだかその言葉が葉月も胸に響いた。
勿論、他の生命体がその岩肌に存在しているのかもしれないけれど。緑がみえない岩肌、溶岩の姿はそう見えた。
だがそんなふうにじっくりとその迫力を堪能している葉月と違って、隼人は先を急いでいるようだ。すぐにその場を離れた隼人の後を葉月は追いかけた。
みぞれっぽい道を、滑らないようにして歩くのだけれど、隼人はまるで歩き慣れているようにどんどん進んでいく。
ロープウェイ乗り場に向かっているようだ。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫よ」
ちゃんと振り向いてくれた。
葉月は立ち止まっている隼人の側に急いだ。
ロープウェイ乗り場までやってくると、もう切符を買う隼人の背が何かとても寄せ付けない強さのようなものを発しているように葉月には思えた。
既に何も話しかけてはいけないような……。それだけ、彼が思うことに集中しているのだと思った。
『行こうか』と声をかけてはくれても、葉月は一歩退いた距離を歩き、そして隼人もそれを気にしていない様子。
見守るとはこういうことなのだろうか? 隼人はいつもこうして『私』を見守ってくれているのだろうかと思ったりもした。
「頂上、寒いだろうな。覚悟していこうか」
「ええ」
ロープウェイの出発時間がやってくる。ゴンドラに乗り込んだ二人は、窓際の見晴らしが良さそうな場所に立った。
頂上へと発車するロープウェイ。麓側の窓際に立った二人の目の前を下へ下へと流れていく雪の景色──。
暫くすると昭和新山が見え、その向こうに洞爺湖が広がり始める。その雄大な景色に葉月は感嘆し、その気持を隼人に嬉しげに言おうとしたら……。隣の彼はそんな雄大な景色ではなく、ロープウェイのゴンドラが過ぎていく足下ばかり見下ろしていた。ゴンドラの真下など、真っ白な雪に覆われているだけで何もないのに……。
本当に、とても真剣な顔で見ている。
なにか話しかけたいけれど、話せなかった。
そして葉月も、同じようにじっと下を見つめる。そうすれば、彼が何を思っているのか解るかもしれない……。
一緒に下をじっと見ていると、急に隼人が笑い出した。
「そんなに怖い目で見ていたら、雪に穴が空く」
「だって、隼人さんが見ているから──」
隼人さんも怖い顔をしていたと言い返すと、隼人は一時は笑っていたが、でもすぐにまた元の何かを真剣に探している顔で地上を見下ろしていた。
「今は雪で見えないけど。ここも火山灰だらけの山肌なんだそうだ」
まあ、火山だからそうだろうと、葉月も思う。
だけれどそのまま隼人の言おうとしていることを漏らさずに聞き取りたいから、葉月は黙ったまま。
「親父とおふくろがここに来た時もそうで、でも……山肌には蕗がいっぱいあったんだってさ。それでおふくろが、春になったらこの険しい山肌にもふきのとうがいっぱい顔を出すのだと言って、それが見てみたかったと……言っていたらしい」
「沙也加お母様が……」
「うん。こんな険しい活火山の懐にもそういう生命が息づくってすごいと言っていたらしい……」
それで──。雪の下にまた、母が見ただろう景色を探っていたのだと……。先ほどの怖いくらいの隼人の顔を思い出した葉月は、自分もそれを見つけるように雪しかないゴンドラの下をずっと見下ろした。
先ほどの昭和新山もそうだった。
地球の激しい生命力を見せつけ、そのエネルギーである噴火の灼熱の中では息づくことが出来ない柔らかな生命達。私達、人間でもそう。彼等が怒り出したら手も足も出ない。容赦なくその炎に焼き尽くされ、そして、抗うこともできない灼熱の溶岩に呑み込まれるしかない大きな活動力。それに怖れを抱く故に、近寄りがたいもの。そんなところに緑も生物も近寄りはしないし、生きる場所としては選びはしないだろう……。
でも、そこで根付く緑もある。もっと他の優しい土地で生きることも出来ただろうに、そこに息づく生命もある。
──沙也加はそう思ったのだろうか?
真っ黒な火山灰の山肌に、緑色の小さな顔がちょんちょんと出ている風景に想いを馳せていたのだろうか。
すると隼人が笑いながら言った。
「俺って、その旅行で出来たんだってさ。おふくろ、何か感じていたのかな? 『誕生』ということ」
「! え、じゃあ、隼人さんってハネムーンべ・・・」
「いうなっ。恥ずかしいから!」
隼人に口を塞がれた。そして隼人が少し照れているのが分かり、葉月は塞がれたままその彼の手の下でニンマリしてしまった。
だが、隼人の手が離れて、葉月はハッとした。
それに気がついて彼を見上げると、隼人はもう見えぬ春の景色ではなく、横手に広がる洞爺湖のパノラマを遠い目で見ていた。
(じゃあ、隼人さんが北海道に来たかった訳って……)
だんだんと見えてきた気がした。
新婚旅行の愛の結晶は、北海道での出来事。
そして、亡くなった母が愛おしそうに想いを馳せた北国の新緑、厳しい山肌でも、生きるべき場所として力強く息づく生命。そして見ることのなかった新芽。
──それらを思い並べた葉月の脳裏に浮かんだ言葉は『命』だった。
命ときて、隼人が思い馳せるのは……もしかして?
小笠原に置いてきた『ガラスの天使』を葉月は思い浮かべた。
では、隼人がこの雪に覆われながらも葉月と一緒に、母の思いを頼りに確かめに来た物とは……!?
「さあ、ついたぞ」
「……!」
ロープウェイが山頂についた。
山頂にある建物の中には土産店とちょっとしたレストランになっていて暖かかったが、その向こう、山頂へと向かう扉の向こうは小雪が斜めに舞っていて、見ただけでも風が冷たそうだった。
「外に行きたいんだ。外で景色を眺めたいんだ」
「いいわよ。行きましょう」
とても真剣で、もう気持がそこまで高まっている彼を見て、葉月は迷わず頷いた。
二人一緒に外に出る。
山の上のせいか、ものすごい横殴りの風が二人を襲った。
すぐ目の前にそびえる有珠山。所々噴煙を出しているのは、昭和新山と同じで、どこか恐ろしさと雄大さを見せつけてくれる迫力──。それを一時、寒さを忘れて隼人と一緒に見上げた。だが、隼人はすぐに歩き出す。彼の目的は『火口展望台』ではなく『湖展望台』のようだ。
湖の展望台はすぐそこだったが、それでも麓ではまったくなかった吹きつける風に飛ばされそうだった。
薄く積もっている雪を踏みしめながら、二人でその展望台に向かう。
「大丈夫か」
「大丈夫よ」
彼が手を差し出してくる。
激しい風に吹き付ける小雪。
その中、彼の大きな手が葉月へと伸びている。
葉月は、その手を迷わずに取った。
彼の力がぎゅうっとこもり、『絶対にお前も一緒に』と感じるぐらいの強さで引っ張られていった。
そんなに……。ここに一緒に来たかったのかと改めて思わされる。
白い柵がある展望台。良くある望遠鏡もあるが雪がかぶっている。
そして──そこの柵に辿り着くと、そこには壮大な湖と山と雪景色!
ホテルの窓で見たものとはまったく別物のスケールだ。湖が大きく広がる大地に、遠く見える羊蹄山、そして足下には噴煙を上げている昭和新山──。
これが北海道。しかも葉月と隼人が見ている今の景色は『白銀』だった。
風に煽られる中、暫く二人は寒さを忘れて見渡していた。
幸い、小雪がちらついてはいても本日は晴天で湖の上は青空。湖面がキラキラと鏡のように光っている。
「ここに、親父とおふくろも立ったんだ」
「え……! ここに?」
白い柵の前。その柵を隼人が手で握って、そしてさすった。
「横浜に帰った時、写真をみせてもらった。まったく同じだ。おふくろもこれを見たんだ」
「……お父様とお母様がここに」
「それで、俺が生まれたんだ。『息吹く命』が愛おしいと、その旅行で感じたおふくろの中に俺が息づいたんだ!」
その隼人の声は、叫ぶような声。
そしてそれは葉月に話しかけるのではなく、独り言だった。
葉月はただ……それを黙って見ていた。そう、今、彼は『確かめたい』と言っていた事を、確かめている最中。彼の気持の中に、今、グッと『亡き母の思い』が入り込んできている最中。邪魔をしちゃいけない……。
でも、葉月は先ほど繋いだ彼の手を代わりにぎゅっと握りしめた。すると隼人も力を込めて握り返してきた。そしてその手を引き寄せられ、葉月はその隼人の胸の中に抱きしめられた。
こんなに……。今、確かめたいことを確かめている彼に、一緒にいてくれと必要とされている。
その隼人は葉月を抱き込んだまま、この寒さなど忘れたかのようにずっとその両親が揃って見たという景色を見つめていた。
やっと分かった気がする。隼人が『確かめたい』事。
生命を受け付けない厳しい環境の中でも息づく命があって、それを命をかけて産んでくれた母親が愛おしく思って慈しんでいた事を。
どこか自分と重ねた。生命を受け付けない身体である自分と……。だけれども時に短い命でも息づくことが出来た命が確かにあったこと。
そして、命があるから命が生まれること。体が弱くても精一杯の力で産んでくれた人がいるから、今ここに隼人がいるのだって……。
葉月にも、ものすごく──伝わってきた。
「写真では、緑が広がっていた。残念……行こうと思ったのが冬で」
隼人が写真で見たという緑が広がっていた方向を指さした。
確かに今は緑はないけれど……。
でも、真っ白だ。
なにもかもが、真っ白。
そこからやがて、緑が息吹くのだろう……。
今の私達に『緑』はない。
目の前にある景色とおなじ、ただ真っ白なだけ。
そしてまだ春も迎えていない、冬の中──。
それでも抱き合ってここまでやってきた。
小雪が舞う山風の中……。
葉月もその雄大な大地の景色を胸に刻みつけ、そして眼を閉じる。
彼の胸に抱かれたままだけれど、今度は葉月が両腕を一杯に伸ばして、彼を抱き返す。
そして葉月は、自然な気持で隼人に呟いた。
「きっと、また緑は息吹くわ……。きっと」
「葉月……」
その意味を隼人はどうとっただろうか?
どう取ってくれても構わないと葉月は思っている。
彼の腕に力がこもり、寒い風の中、彼の胸の中にすっかり覆われる。
もう寒くはない。とても暖かい。
だから葉月も、同じように精一杯の力で彼を抱き返す。
彼の頬が、葉月のつむじに押し当てられる。彼がそこでゆっくりと頬ずりをしている……。
「ああ。また……めげずに迎えてみよう」
「──! 隼人さん」
意味が通じていた。
多少敏感になっていただろう彼が、わだかまりが溶けたかのように、穏やかにそう言っていた。
彼は今、ここで……確かめて、そして母の思いに触れて、ずっと絡みついて離れなかった鎖を解いたかのようだった。
葉月の目に熱い涙が滲んだ……。一人で頑張ったって、一人でどんなに頑張っても、こればかりはパートナーが一緒ではないとどうにもならない。
だけれど、葉月は去年──その命をたった一人の物にしようとした。父親ではない男と一緒に……。隼人を置き去りにしようとした。だから……天使がするりと逃げていったのだろうか。そして最大の罪はその父親である彼を苦しめたことだった。彼は命の終わりを見届けずに、突き放した事をとても悔いている。そうさせたのは、紛れもなく葉月であるのに、隼人はそれでも自分も悪いと責めに責めていた。それがやがて、彼の心の奥で深い傷となる。
そんな傷をつけた本人が『貴方の子供が欲しい』だなんて、容易く言えなかった。
元通りに、いや今まで以上に愛し合うことが出来るようになっても……。そこはまた別格の問題だった。
それがついに、溶けたと思った。許されたのかもしれないと思った。
「今度は、緑の季節に来てみたいわね」
「ああ、そうしよう。緑の大地を見に来よう……」
より一層、葉月を抱き寄せてくれる。
吹きすさぶ小雪混じりの山風の中、二人は寒さも忘れてその大地を前に抱き合っていた。
──確かにここに存在する隼人を送り出してくれた沙也加が立ったこの場所で。
今は真っ白いだけの世界に、新しく息吹く緑に思いを馳せて。
・・・◇・◇・◇・・・
麓に降りると、山頂で吹き付けていた山風など嘘のように穏やかだった。
沢山の土産店が並ぶ中、この冬景色の中でも沢山の観光客がバスでやってきてにぎわっている。
葉月と隼人もその人並みに紛れて、駐車場に並んでいる店先へと足を向けた。
「ワインが欲しいな。一本買って、今夜、二人で乾杯しよう」
「それ、良いわね。買いましょう」
山頂から、ずっと二人の手は離れることなく繋がれたままだった。
来て良かった──。隼人は下りのロープウエイの中でとても満足そうに呟いていた。それは葉月も一緒だ。
『新しい門出』だと思った。そして彼もそう思ってくれている。それを『乾杯しよう』だなんて言ってくれて、もう……葉月は幸せで仕方がない。
「美味そうだな。いい匂いだ」
「本当──」
沢山の土産店が並ぶ中、やはり北海道らしく鮮魚店がある。
勿論、蟹が店先に並べられていて、豪快に網焼きもしている。その網焼きの匂いが二人の足を止めた。
「どうだい。焼きたてだよ!」
足を止めたら、流石、お店のご主人はすかさず声をかけてくる。
店先の網の上で焼かれている蟹足に帆立貝。それを横に腰をかけて焼いていた。
「せっかくだから食べようか。昨夜は焼き蟹はなかったし」
「うん、食べる、食べる」
「ウサギの胃は底なしだな」
やっと彼らしい嫌味が出てきて葉月はふてくされる。
そこで隼人の手が離れていった。
「足を二本下さい」
「はいよ、有り難うさん」
威勢の良いオヤジさんと隼人がやり取りをしている間、葉月はその店の近くにあったワイン店を目にして、そこを覗きたくなってうずうずしていた。
『この蟹、地方発送とかしてくれるのですか』
『するよ、するよ! 何処までだい?』
『えっと、横浜です』
『ああ、出来るよ!』
そんな声が聞こえてきた、隼人は店先に並べてある蟹に夢中になってしまっていた。
オヤジさんと彼の商談。結構長い。
焼いた蟹はどうしたのだと言いたいぐらいに。だけれど『横浜』と言うことは、実家にお土産として送りたいのだろうと思ったので、葉月はそのままにしておく。
昭和新山を見ながら、ちらばる観光客の人並みを、ただぼんやりと眺めていた。
『もうすぐお昼だね。なにか食べる?』
『あ、あれ美味しそう!』
『寒いな! 早く建物の中に入ろう』
『そうですね、お父さん』
若いカップルもいるし、観光バスでやってきた初老の夫妻も色々いる。
『どうですか、寄っていってください』
『地方発送いたしますよ!』
沢山の土産店が並ぶ中、行き交う観光客を呼び寄せるお店の人。
『今日の仕入れ分、持ってきたぜ』
『おお、ご苦労様!』
店先に停まったバンのトランクを開けて、鮮魚を入れている発泡スチロールを抱えてお店の人に渡す漁師風の人。
「──!」
来た──!
まただ、また『ガン』と来た……!
「いった……」
こめかみを押さえる。
いつもはこれぐらいで終わるはずなのに……。
なのに……。
「い……痛いっ・・・!!」
初めてだ! こんなに連続で殴られるような痛み……!
葉月はそこにしゃがみ込んだ。
吐き気もしてきてた……!
あの時と似ている。
空母で喧嘩に巻き込まれて殴られた後、ジャンヌとテッドの前で気分が悪くなった時と似ている──!!
そこにうずくまったまま、葉月はポケットから出したハンカチで口を覆って、何度も突き上げてくる吐き気のまま嗚咽を漏らした。
『隼人……さんっ』
凄い寒気がする……。
彼のところに行きたくて、葉月はなんとか立ち上がった。
だけれどどうにもならないぐらいに頭がぐらぐらする……! 何故……!?
額に汗が滲んでいるのが分かる。力が入らなくて葉月は手に持っていたピンクの花柄ハンカチをひらりと手放してしまった……。
雪の上、葉月のつま先にそのハンカチが落ちる。
「お嬢さん、大丈夫ですか? ハンカチを落としましたよ」
声をかけてくれたのは先ほど目にした漁師風の男性だった。
そのハンカチを差し出してくれる男性の顔も判らない。
「だ、大丈夫です。あ、ありが……」
そのハンカチをなんとか受け取ろうとした。
「葉月……! どうした?」
やっと隼人が気がついたのか背後から慌てた声が聞こえ、それが近づいてきた。
「お連れですか? 無理しない方がよろしいですよ」
その男性がギュッと葉月の手の中にハンカチを握らせてくれた。
そして隼人が来る前にサッと去っていった。
「今、座り込んでいただろう。大丈夫か?」
「隼人さん……。寒い」
「え?」
身体が震えていた。歯もガチガチと震えていた。
だけれど、頭痛は止んでいた。
──いったい、自分に何が起きたのか分からない。
あの空母の時とまったく一緒であって、もっと恐ろしいような感触が葉月の身体中を駆けめぐった気がした。