-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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3.気づかぬ兆し

 その日、フライトチームは『空域線接戦』の訓練をすることになった。
 越えてはならぬ空の見えない国境で、相手国機と牽制をしあうことを想定した訓練だ。

「よし。まず、マニュアル通りだ。いいな」
『ラジャー!』

 国内側チームと国外チームと振り分け、まずは誰もが叩き込んでいる『基礎』から始めることを、ジェフリーがパイロット達に念を押す。

「いいか、お前等。近頃は『マニュアル通りなんてクソ食らえ』なんて叩く奴が多いが、マニュアルをなめるんじゃないぞ! それが完全に叩き込まれてから、生意気を言え!!」
『イエッサー!』

「自己流のパターン化、アドリブをした者は、すぐに着艦だ。覚悟しろ」

 ジェフリーのしつこいまでの念押しに、パイロット達は規則正しく管制員と交信を取りながら、想定した空域での『牽制訓練』を始めた。
 それはとても静かなやりとりで、そして、相手を決して煽らない冷静一徹のコース取りでまるで相手をなだめるかのような穏やかなものだ。

「そうだ。それでいい──。すぐに喧嘩腰になるものじゃない。相手を挑発せず、あるべき場所に静かに返せ。それが『一番の手柄』だ」

 そしてジェフリーは呟いた。
 『ドッグファイの時代ではないのだ』と。

 こうして訓練をしていると、もしかすると退屈かもしれなかった。
 しかしこういう『なにも起きない為の地道な静かな作業』ということ。そして如何に抑えていくかと言うことが実際は、何事も起きない『平和』への近道なのかもしれない。
 葉月もそう思いながら、ジェフリーの芯が強い指揮に心を震わせ、そして彼のしっかりとした言葉に頷いていたのだが──。

「──と、俺の部下にはそう言っておいて。葉月、やってくれ」
「はい?」
「マニュアルラインを壊して、困らせてくれと言っているんだ」
「あ、はい!」

 今、国内チームは湾岸部隊。そして国外チームはミラーの小笠原部隊が扮している。
 湾岸部隊がジェフリーの厳しい指示通りに規律正しい応対をしているのと同様に、葉月の方も『マニュアル通り』に、国内チームの冷静な応対に大人しく引き下がるだろうというマニュアルで想定されている『行動』に徹していた。

「ウォーカー中佐。お願います」
「オーライ。きっと彼等は面白がって乱してくれるだろうね。退屈そうだ」

 湾岸部隊より若い階層を集めている小笠原チームはリュウを筆頭にして、元気がよいと言われている。
 その彼等が小笠原でのびのびと訓練しているのと、実務をかねた訓練をしている今では多少の窮屈さは感じていたようだ。
 そこにきて、湾岸部隊を引っかき回すというところに来たら……『暴れそうだわ』と葉月でもちょっと不安になって苦笑い。

 だが、目の前では既に彼等が『想定空域』を突破し、次々と冷静に対応していた湾岸部隊を餌食にし始める光景が。
 ジェフリーから『マニュアル通り』という厳しい指示を叩き込まれた湾岸部隊のパイロット達が、戸惑い、そして翻弄され、どうして良いかという迷いの中で応戦していた。

『湾岸4、ロックされました。一機、撃墜』

 管制員の報告。湾岸部隊の一機が落とされたようだ。

「まあ、堪えた方だな。よくやった」

 なんて、他人事のように呟く恩師に葉月は少しだけ凍り付いた。

「……意地悪ですね」
「きっと本番はこれぐらいのプレッシャーがかかる」
「いつ、彼等を救うための『反撃命令』、その許可を言うつもりなのですか? 一機……失いましたよ」
「そこだよな。俺も、この時点で『失格』だな」

 ジェフリーが力無く笑った。
 そして葉月もそこでドッキリとする。

「わざと、攻撃されっぱなしを眺めているのですか!?」
「……どうだ? 葉月。この気持ち、嫌だろう。すごく嫌だな」
「きょ、教官……?」
「この気持ちを『俺達』は知っておかねばならない」

 目の前の電光板には、空域を奔放に破って自由に湾岸部隊を攻撃する小笠原部隊と、そして反撃が出来ずに国内線という限られたラインを守り、なおかつ攻撃という要素を一切含まない『マニュアル応対』に徹した限られた条件のなかでの攻防戦でしのぐ湾岸部隊の悲惨な姿が、データーの点で映し出される。その中から、一機、二機と撃墜されたというサインが浮かび上がる。

『艦長、湾岸1からなんとかしてくれと』

 管制員の言いにくそうな報告。
 ジェフリーが溜息をつく。

「──『悪かった。良くやった』と伝えてくれ。葉月、そっちも攻撃をやめてくれ」
「はい」

 その時、ジェフリーは電光板を見つめて、何とも言えない辛そうな顔をしていた。
 葉月はその横顔から目が反らせない。そこにもまた、彼が『俺達が知っておかねばならぬこと』を感じ取っている気がして、およばずとも葉月も何かを感じ取ろうと、彼の横で一緒に電光板を見上げていた。

 その日の訓練はそれで終わった。

 

 ジェフリーの艦長室へと向かう。
 なんだかとても重い気分になった訓練だった。何故なのだろう?

 後を元気なくついてくる葉月に、ジェフリーが振り返った。

「敏感だなあ」
「え?」
「そういうところが、昔からあったな」
「はい?」

 まあ、いいとばかりに彼は艦長室の扉を開けた。
 葉月はなにを言いたかったのかと首を傾げながら、艦長室に一緒に入る。
 するとなんだかいつもより良い香りが鼻を掠めた気がして、葉月は重くなっていた頭を上げる。

 汗くさくて、昔から知っている教官の男性特有の匂いしかしなかった艦長室で、何故? 花の匂いが? と思ったら……!

「ハァイ! 葉月」
「!」

 目の前には、まばゆい金茶毛の女性が一人、葉月に向かって手を振っている。

「レイ……! 元気だったかい!」

 そして……。黒髪の背の高い男性が青い目を輝かせて葉月に微笑みかけてきた。

「マ、マ……」

 『マ』がつく知り合いが二人。どっちの名を先に呼べば良いのか分からなくなって、葉月が口をただ動かしていると、二人が一緒に大爆笑をしたのだ。

「やったわ! 葉月が驚いている!」
「あはは! 今度は俺達がしてやったりだ、レイ!」

「マイクにマリアさん……!? どうして……!?」

 やっと葉月が叫ぶと、その隣では肩を揺らして笑い声を堪えつつもにやけた顔をしている恩師の姿が……。

「ふふ。驚いたか? 彼等と共謀したんだ」

 葉月はジェフリーまでグルだったと知ると益々唖然とした。

「な、なんなのよ? 何しに来たのよ?」

 しかもフロリダから……?
 今回の業務とマイクの仕事はなんにも接点がないはずだし、マリアの仕事とこの空母艦の接点もないはず!
 これはいったい……?
 だが、呆然としている葉月に、まず近づいてきたのはマリアだった。

「会いたかった。元気にしていた……?」
「マリア……さん」

 彼女は優しくそういうと、昨年、そうしてくれたようにその大きな胸元に優しく葉月を包み込むように抱きしめてくれていた。
 そしてその彼女の後ろには、穏やかに微笑んでいるマイクの顔が見えた。

「元気だったかい? 心配していたよ」
「マイク……」

 彼の目はとても哀しそうに揺らめいていた。
 葉月はマリアに抱きしめられたまま、ふと、俯いた。
 この一年。フロリダから勘当されてからの自分なりの過酷な一年を……既にどれだけのことか感じ取ってくれている兄様の目だった。

「葉月、葉月……心配していたわ」
「……」

 マリアも知っていると分かった。
 きっと親しくなったマイクからそれなりに聞いたのだろう。
 別になんとも思わなかった。それで構わないと思う。

「いろいろ、ごめんなさい。自分勝手をいっぱいしたわ……」

 そんな葉月の力無い声を労るように、マリアがギュッと葉月を抱きしめてくれる。
 そしてそんなマリアと葉月の肩をマイクが一緒に包み込むように、抱きしめてくれていた。

 それはフロリダにいる姉様と兄様に再会した気分だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼女の恩師が『女の子同士で艦内を回ってきてはどうか』と、葉月とマリアに勧める。
 久しぶりに会った『フロリダ姉妹』は、大人のジェフリーの穏やかさに安心したのか、本当に女の子同士の賑やかさで艦長室を出ていった。

 そこにマイクとジェフリー、男二人だけの静かさがやってきた。

「ご無沙汰しておりました。そして大佐への昇進、おめでとうございます。航行中、お邪魔致しまして申し訳ありません」
「いいえ、とんでもない。ジャッジ中佐の早々のご活躍もシアトルに転属してからも耳にしておりました。お元気でしたか?」

 その昔、『葉月』を挟んで、マイクは御園の人間として彼と良く接触をしていた仲だ。

 静かになった艦長室で同年代の男が二人、それらしい挨拶を交わし終わると、彼がやっとマイクの向かいに座ってくれた。
 彼の側近がそっと退いて、お茶を入れ始める。

「なにか気になることでもありましたか? 葉月はそつなく日々を過ごしていますよ」
「そのようですね。安心致しましたが……」
「が……。なんでしょうか? それは『事情を知る者』として多少のことは私も心得ているつもりです。それでも小笠原部隊の中に葉月を親身に診察している掛かり付けの医師まで同行させたいとあちらの連隊長秘書から申し出があった時点で、私としてはかなりの安心と共に、失礼ながら相変わらずだなと『呆れた感覚』は持ったのですがね」
「マルソー医師のことは、小笠原連隊長から報告されています。むしろ……その医師をつけて送ったということが、気になりましてね」

 やはりそこでジェフリーが、呆れた溜息をこぼした。
 それぐらい『普通なら呆れられる過保護』とマイクも分かっている。そして『御園嬢』という一人の訓練生を見事に鍛え上げ、今の彼女の礎を築いてくれた『敏腕教官』だからこそ──そこで『社会』という世界でシビアにならねばならぬ部分を甘く緩めているような『一族のみの常識』に呆れてしまうのも当然のことろだろう。マイクでも実際はそう思う。が、このケースでは『別格』なのだ。
 でもそこもマイクは『よく取られる態度』故、なにも気にせずに流した。
 対するジェフリーもそこはもう『御園の人間だな』と諦めたのだろう。思うだろう批判などせずに『今はその状態』と受け入れてくれたようで……。

「失礼致しました。勿論──そちらが何年も辛い思いをされてきた事は、僅かに関わることになった私でも察しております」

 彼から神妙に折れてきてくれた。
 彼もあるべき厳しさを思いながらも、教え子である葉月の行く末を心配してくれている一人なのだろう。
 それは今に始まったことではない。彼はずっと昔、教官時代からもそうしてこちらの一族と上手く付き合ってくれた一人だった。
 彼とはその昔、葉月の様子を知る上で何度も顔を合わせていたから、ジェフリーの今のその顔は心の底より案じてくれているものだと、マイクにも直ぐに通じた。

「いえ、こちらこそ。こちらの息女に関して、真摯に取り組んでくださるその姿勢。以前から父親を始め、一族は今でも変わらずに感謝しております」

 ジェフリーが謙遜気味に『いえいえ』と首を振って、照れ笑いを見せてくれたところで、マイクもほっと微笑みをこぼした。

 そこでやっと彼がリラックスをした様子で近況を報告してくれる。

「そのマルソー医師がついているからかどうかは分かりませぬが、今のところ、なにもないようですよ。むしろ、彼女は生き生きとしてる。そして真剣に自分の役割はどういうものなのか捉えることに取り組んでいる。十数年ぶりに会えた教え子のその姿に私は感動しているし、そして私もそんな教え子と一緒に取り組む仕事には充実感を感じています。この母艦クルーにもその小笠原から入ってきた異なる新鮮なエネルギーは良き影響となり、近頃の航行は活気があって受け入れて良かったと思っているぐらいです」
「そのようですね。そう……この一年、彼女はそれぐらいに成長したと思います」
「……昨年。何かがあったようですね」

 そこは恩師の彼も気がついていた様子。
 それでなくても、先ほどの再会場面を見守っていたらなら、こちらマイクとマリアのフロリダ側が、葉月を案じている様子を嗅ぎ取ってしまっただろう。
 だからマイクは『ええ』と素直に返答していた。
 そしてジェフリーも、疲れた溜息を……。

「ですが──。それは彼女にとっては『辛くても良きことだった』ようですね」
「そのようで……。今だからこそ、そう言えるのかもしれませんが、実際はかなりのことでしたね。そのことで、今、彼女はフロリダの実家にいけない状態になってしまって……」
「それは? 親御さんが怒られているということで?」
「はい。父親はそうでもないのですが、特に母親が……。いわゆる『勘当』というものです」

 教え子の『苦難』に想い馳せたのか彼はまたもや深い溜息をこぼし、とても辛そうな顔をしたのだが、次にはふと微笑みを浮かべていた。

「彼女には言わなかったけれど。それでも、そこを乗り越えたせいでしょうか? 予想以上に『女性になったのだなあ』と思いましたね」
「そうかもしれません──。小笠原の知り合いに聞いたところ、迷いもなく真っ直ぐに前向きというものを信じる姿が輝かしいと聞かされています」
「まったくその通りだよ」

 ジェフリーがちょっと照れくさそうに笑った。
 今は『師弟』の関係を保つ方が良いと決めているから、そうは感じても顔には出せないよといったふうだとマイクも微笑んだ。

「覚えておいでですか? レイがその昔、恋をしていたことを」
「ああ、『あれ』ですか……」

 やっと彼女の様子を語るのに和やかになったジェフリーが、また渋い顔になった。

「まだ若いだけの少女であるのに……と、驚きがあった衝撃的な出来事でしたからね。私には忘れられない出来事のひとつです」
「その節はご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」

 彼に何度も言ってきた言葉だった。
 だから彼も『もう今更、何度も言うな』とばかりに面倒くさそうな手振りで、マイクにそれ以上を言わせまいとやめさせようとする。

「それで? 昨年は『そこ』で色々あったと言うことですか」
「はい。『義兄』との関係に、決着がつきましたよ」

 何があったか察してはいても、『決着が付いた』のは改めて驚きに感じたのだろうか。彼ジェフリーは『そうでしたか』と呆然とした様子で呟いていた。
 だが、彼はそれを聞いた途端に、ふと勝ち誇ったように微笑んだのだ。

「と、いうことは。葉月はついに『独り立ち』。囲いを破って出てきたと言うことですか」
「そうですね。そう願ってはいても、そうはならないだろうと思う狭間を揺れ、そうなるならばどうしていこうかなど。そんなことを考えるばかりの年月でした」
「……お察し致します」

 ジェフリーの良いところは甘く緩めてはいけない部分には厳しいが、最後にはそこを緩めて分かってくれるところだった。『お察し致します』と神妙に呟いてくれた彼の顔は、とても優しく穏やかなものでそして心の底より滲み出ている誠実な顔だからだ。
 だからマイクも『そのままではいけないでしょう』と彼に遠回しにたしなめられても、最後には『有り難うございます』と心が軽くなる。

「まあ、色々とあったようですが、私は本当に嬉しかったですよ。今回、彼女に再会する前から、もう既に葉月は明らかに違った女性だと感じられたから」
「有り難うございます。私も小笠原からの報告を耳にして、多少の心配はありましたが喜んでいたところです。特に……夏以降でしょうかね」
「あれでしょう? サワムラ中佐といいましたかね」
「そうなんですよ。彼にも……だいぶ苦労をかけてしまいましたが……」
「その彼にとってはそうなのだろうけど……。それでも嬉しいよ。葉月のことを真剣に思ってくれる男性に、あの葉月が出会えたこと、向き合えていることが……」
「トーマス大佐……」
「彼女の恋愛意識がどのようなものか知っていた私は、一族外の異性とはそんなことは絶対にないと思っていたものですから……」

 彼が穏やかに眼差しを伏せる。
 心より安堵したという柔らかい表情……。
 本当に葉月のことを教え子として、別れてからも案じてくれていたのだと……マイクはつくづく思えた。

「だけど、それでも……。ということなのですか? 今回の訪問は」
「……」

 また彼の眼差しが鋭くなる。
 今度は過保護に偵察に来たマイクをたしなめる目ではなかった。
 今度こそ、本当に──同じように案じてくれるために取り組もうじゃないかと言う目。
 何故か、マイクの方がホッとしてしまった。

「先ほど、レイが『囲いを出た』と仰いましたね」
「ええ。貴方達から守ってもらっていた囲いを出て、自分のことは自分で。そして愛する者と共に──。そういう気持ちになったのでしょう」
「……だからこそなんですよ。大佐」
「──と、言うと?」

 マイクは力無く微笑みながら呟く。

「だからこそ。私達が見せたくなかったものを、彼女自身が望んで見ることになる……。彼女の意識がそう出来上がってきている気がするのです」
「……!」

 ジェフリーの顔が青ざめた。

「それは……昔。貴方が言っていた『無い記憶』のことについて言っているのですか?」

 マイクはこっくりと無言で頷く。
 益々、彼が落ち着きを無くし、マイクに身を乗り出してきた。

「……だから? マルソーという女医が『その為に』ついてきたというのですか?」
「そうです」

 ジェフリーが固まった。
 マルソー女医をつけるに当たっては、そこまでは説明していないとマイクはロイから連絡を受けていた。
 だが聞けば、『その女医が少し気になることを心配し始めていて……』とロイも不安そうだった。それを聞きつけたマイクは、まだ父親である亮介には報告はしていないのだが、『まず先に様子見』と言うことで、マリアを連れてやってきたのだ。
 そして面識あるジェフリーだからという甘えと共に、彼だからこそ『前もって言っておけば彼ならば素早く察知してくれるはず』という思いから行動を起こした。
 マリアには……ある程度は打ち明けてある。
 すると彼女は勿論、『それは心配で仕方がない。私も絶対に行く』と言いだし、それで彼女が『小笠原工学科と合流する前に空母艦を見たい』といつものように騒ぎ始め、マイクはそこを使わせてもらったという……。今回はマリアに助けてもらった形になる。
 ──と言っても、近頃、『御園関係』以外でも、彼女とは妙な連係プレーが出来るようになってしまい……。

 それはともかく──。
 案の定。来た途端にジェフリーには『未だに葉月を囲っているのですか』と呆れられたが、葉月のこの一年変化したその向こう側には、誰もが待ち望んでいなかったものが待っていることを知らせたかった。

「そうなるのですか……。今度は……」

 ジェフリーは額を抱え、うなだれていた。
 教え子の『新たなる試練』だ。

「どんなに甘いと言われても構いません! お願いです……! この航行中、引き金になるような状況にならないよう……お願いです! 今までなら、いつもの『じゃじゃ馬嬢』で片づけるだろうと思えるのですが、どうしても今回はその不安がぬぐえなくて。いつもと同じ事が同じように流せないことも出てくるのではないかと……」
「ジャッジ中佐」

 マイクは身を乗り出して、必死に叫んだ。
 それはもう『側で見てきたお兄さん』の気持ちの他なにものでもない。
 そしてそれを哀れむように見下ろすジェフリーの眼差しだって、なんとも思わない。
 必死に『これ以上、何事もなく』を願っているのだ。ずっと見守ってきた『妹同然』の女の子のことを……!

「勿論ですよ。お任せ下さい……」
「大佐──」

 やっと彼が心より安心させてくれる寛大な微笑みでマイクを迎えてくれた気がした。
 そして彼が余裕ある微笑みでにやりと笑う。

「見くびらないでください。勿論、軍規則上も男女問題が起きれば問題ですが。その上にこの航行中『男女問題』など起こしたら、クルー全員『減俸』という規則をつくりましてね」
「連帯責任ということですか」
「ええ、だからそこの守るべき意識は高くなっていると思っております。ただの脅しではありませんよ。何か起きても隠匿する気はないということで、その規則に対し誓約サインをさせたうえで乗船させていますから。勿論この実施に関しては部隊に報告済み、許可をもらってやりましたからね」

 彼は『万が一が起きれば、減俸は自分も含めて本気』と言い切った。
 どうやら、その艦長の決意と覚悟はクルー全体に行き渡っているのだと感じられ、いやすごいと流石のマイクも唸った。

「まあ、それでも。男女のいざこざが起きなくても、御園の場合は人と異なる感覚で過敏な部分があるから気をつけておきます」
「有り難うございます……!」

 ジェフリーが、教え子を知り尽くした顔で微笑む。
 マイクもほっと胸をなで下ろした。

 ロイから今回の航行に参加する前の葉月の様子を聞いた時には、気が気ではなかったが。
 これで少しは救われた気がする。
 勿論──完全たる安心など、出来るわけないのだが。

 話が落ち着いたところで、彼の側近がお茶を出してくれる。
 やっとジェフリーと葉月を話題にした昔懐かしい笑い話をすることが出来たのだが、暫くしてから、その彼の艦長席の内線が鳴り、ウォーレン中佐がそれを手に取った。

「艦長」
「どうした?」

 側近中佐の困惑した顔に気がついたジェフリーがマイクの目の前から艦長席へと立ち上がった。
 彼が受話器を耳に当てる。

「なんだって……?」

 彼の顔も困惑顔に。
 そして何故か、マイクを確かめるように見たのだ。
 勿論、マイクは首を傾げたのだが──。
 内線を切ったジェフリーは、聞いた知らせに対して『許可する』と溜息混じりに応えていた。

「ほんっとうに、貴方達はなんというか」

 彼のほとほと呆れた言い方。
 マイクは『何か?』とさらに首を傾げたのだが……。
 そのジェフリーから内線であった知らせを聞いて、驚くこととなる──。

 

 それから──少しばかり時間が経った艦長室。

 

『艦長、いらっしゃいました』

 ウォーレン中佐の案内で、この艦長室に一人の男が現れる。
 彼がいつもどおりの変わらぬ余裕ある姿で堂々と入ってきた。

「お忙しいところ、許可をくださいまして有り難うございます」

 『にこやかな笑顔』をいっぱいに広げた栗毛の男性。
 その『嫌な笑顔』を久々に見たマイクは、その男の前に立ちはだかった。

「なんでお前が来るんだよ」
「! マイク……お前、どうして!?」
「こっちのセリフだ」

 ライバルの『リッキー』がそこにいた。
 彼の驚いた顔は見物かもしれなかったが、今はそんな気分ではない。
 そして彼も、その驚きをすぐに収めて、いつもマイクを制してきた憎たらしい落ち着きを見せ始める。

「こっちのセリフだと? そっちは今は『担当外』だろ。レイは勘当の身だ。だからこうして……」

 いつも人前では人当たり良い笑顔を崩さないリッキーが、そこマイクに面した途端に素っ気ない顔になる。
 そこがまた憎々しい。マイクは頬を引きつらせる。

「なんだと? それでもこっちは『本家』だぞ! 親側が心配することは不自然ではない」
「なーにが本家だ。実際に苦労したのはこっちだ」
「……阻止できなかったくせに」
「なんだと? 無理な阻止をして何の結果が得られるかとお前も言っていたではないか」
「だからと! レイがあんなふうに飛び出してしまうようなあんな送り出し方あるか! もっと穏便に対面させるとか……」
「あれは必然……じゃなく、不可抗力な『偶然』だった」
「なんだとー!? おかげでどれだけこっちがこじれたと思っているんだ。ママがどれだけ泣いたか知っているか?」
「だいたい『俺達』は文句を言われる筋合いはない。『先輩』がいつの間にか仕組んでいたんだから、それに対処したまで。文句はあっちに言え」
「その先輩を煽ったと聞いたぞ!」

 リッキーは『なんのことやら』と、ツンとした。
 マイクは頭に血が上りそうになったが何とか堪える。

「この馬鹿側近。フロリダからお前が来る方が大袈裟で、レイに気づかれたらどうするんだ。伯父さんもまだ知らないだろうに、良く出てこられたな」
「その見せかけ笑顔でレイに誤魔化せよ。お得意分野だろう? こっちはこっちで上手くやっているから心配ご無用だ」
「それなら、今すぐ帰れ。マイク」
「それはお前だ、リッキー。俺はもうレイに会った。まだ会っていないお前が消えろ」

 ケンケンと言い合う内に、お互いに額を付き合わせ睨み合っていた。
 二人共気がつかなかったが、その間でジェフリーが『やっぱり過剰な一族だ』とばかりに飽き飽きとしている姿が。

 

 ここに因縁のライバル秘書官が鉢合ってしまったのだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「雪……」
「本当だわ!」

 栗毛の女性同士ふたりは、甲板近くの通路にいた。
 マリアに甲板の迫力を見せようと艦内から上がってきたところだった。
 鉄のドアをあけると、また雪が風に煽られ横殴りで舞っていた。
 それを見た南国育ちのマリアが驚きの声をあげる。
 葉月も『私も滅多に見ないから珍しいわ』と呟いた。

「ねえ、マリアさん。本当に貴女が見学したいと言って、マイクが許可してくれたの?」
「そうよ! それなら今、特例で研修的な訓練をしているトーマス艦長の母艦が良いと私が騒いだの。私情だけれど、会いたい葉月にも会えるじゃない。そこはもう騒いで譲らなかったの」

 マリアがふふと悪戯な微笑みを楽しそうに浮かべる。
 もうそれだけで、彼女らしいと葉月も笑顔がこぼれていた。

「あんまりうるさくしたせいかしら? マイクも結局、折れてくれて。それでも相変わらず『君は後先考えない突発的』と懇々とお説教された上で、マイクも今後の参考に興味があるから付き添うということになったの」
「そうなの」
「うん、そうよ!」

 突然、フロリダから知り合いが訪問してきた。
 マリアもマイクも『業務上の参考にしたい』と言っているが、それでも日本海にいる母艦にわざわざ出向いてきたのが違和感だ。
 だけれどマリアのハキハキした言い方は、葉月が良く知っている裏などない真っ直ぐな彼女らしさしか伺えなかった。
 彼女のことだから『思い立ったら吉日』で、また『やってやるのよ』とか『丁度良いわ、葉月がいる艦にしよう』なんて安直に思いついたことでも豪快に、そして有利に、そして有意義に変える突進をしたのだろうと思えてくる。
 そう思えてきたら、葉月の中の違和感もすっと消えた。

「ねえ、ねえ! サワムラ中佐は元気?」
「ええ、元気よ」
「相変わらず、葉月ばっかり、まっしぐらなのでしょうね。あの中佐は。そうなのでしょう? ねえ、ねえ」
「……それほどでも……ないと……」
「うっそ。前よりもっと愛されているという顔しているっ」
「そ、それは……」

 マリアの強気な追求に、葉月はつい頬が熱くなり、口ごもった。
 彼女がニンマリと微笑む。

「まあ、葉月ったら! 去年はそんな可愛い顔は簡単には見せてくれなかったわよ」

 マリアに突き飛ばされ、葉月は少しよろめいた。
 そしてさらに頬が染まる自分を感じる。

「……その。今は、彼しかみえなくて」
「うんうん。それで!?」
「前よりずっと……愛しているわ」
「それだけ、それだけ?」
「心が熱くて仕方がないくらい──」
「きゃあ、葉月! すごい!」

 マリアにまたぎゅっと強く抱きしめられる。
 葉月はただその腕に抱きしめられるだけなのだが。
 でも去年よりずっと、彼女のその腕が柔らかくて暖かいと思い、身体を預けてしまっていた。
 彼女らしく賑やかにからかっていたのに。でも、そんなマリアも力を抜いて身体を預ける葉月を、大らかにやんわりと抱き直してくれていた。

「葉月──。いろいろと頑張ったのね」
「ええ、やっぱり怖かったけれどね」

 心の中にある気持ちを、そのまま素直に言えること。
 そんな葉月を見て、マリアはとても嬉しそうにしてくれる。
 だけれども──それが『何故そうなったか』。
 二人はまだそこは話し合っていないけれど、なんとなく通じていることが葉月には分かる。
 去年の彼女なら、なにがどうとか直ぐに口にしていただろうに……。今の彼女はそこは一歩退いてくれるようになったのだと感じた。

 そのマリアが葉月の背を撫でながら、ふと柔らかく微笑んだ。

「あまり無理しないで……ね」
「ええ」

 何を無理してきたか。
 それも知っている口振り。
 だけれどやはりお互いに言えず、でも……通じている感触。
 彼女のその気遣いを有り難く思いながら、そこに甘えさせてもらった。

 そこでマリアがすっと離れた。
 いつも眩いばかりの彼女が、甲板に吹き荒れる粉雪が舞う姿を遠く眺め始める。
 短くなった栗毛の先が彼女の頬をくすぐっていた。
 あんなに長かった髪を短くしていたのには驚いたけれど、なんだか前よりずっとマリアは落ち着いた大人の女性になっている気がした。
 そうして短い髪になった彼女を遠く見ようとすると、やはりどことなく『姉』と雰囲気が重なってしまうは変わっていない。  だけれど、今、急に黙って遠い雪景色を静かに眺める彼女は、葉月があまり知らない彼女に見える。
 その眼差しは何か哀しみを含めた彼女らしくない眼差しで、そして唇が寒さで震えているのか……? 泣きそうな顔に見えて葉月はドキリとした。

「葉月、忘れないで……。私、遠くにいるけど、いつだって貴女の声が届くのを待っているわ」
「マリアさん?」
「周りの男性や親族がなんて言うかなんて、私には関係ない。私は『葉月の声』が聞きたいの!」

 そこに『昨年の全て』が暗示されていることを葉月は確信した。
 ずっと握りしめていた『心』と『男性』との決別。
 共に生きていこうと約束した男性への裏切り。
 そして……失った命。
 それを聞いて彼女はきっととても驚いたと同時に、彼女らしい慈悲深さで案じてくれていたのだろう。
 なのにフロリダでせっかく仲を深めたというのに、葉月は音信不通……。仕事で隼人が連絡をとって間接的に声を届けてくれても、葉月はマリアに近況などは伝えなかった。
 だけれど──それは、そこに飛び込めば、彼女が今こうしてくれているように、どんな葉月でもまずは受け入れてくれる事を分かっていたからだ。
 そこに甘えたくなかった。
 せめてこの一年でも良い。一人でなんとかしたかった……。
 マリアもそれは分かっているから、連絡しなかったことに関しては強くは責めてこない。
 だけれど、とてももどかしそうで口惜しそうな顔をしていた。

「いつだってすっ飛んでいくわ。本当よ。だから……だから……。今度何かあったら、絶対よ? あの訓練生だった時のように、一人で苦しまないで……。私達、その為に去年、仲直りしたんじゃないの?」

 彼女がついに拳を握って、それを悔しそうに口元にあてて震えていた。
 そして、大きな瞳から涙が溢れていた。
 葉月は驚き、でも……やっと感情コントロールなど皆無な『彼女らしい』と思えた。
 そして何故、彼女が泣いてしまったかも分かった葉月は『ごめんなさい』と力無く呟き、今度は葉月がマリアを抱きしめていた。

「私なら、ほら。大丈夫よ」
「でも……! マイクから聞いた時は……私……」

 そうして泣き崩れていくマリアを、葉月は力強く抱きしめる。

「私、諦めていないから!」
「……葉月?」
「もう一度、彼と頑張るの」

 マリアの大きな琥珀色の瞳と目が合う。
 葉月は彼女の涙で濡れた瞳を、ぐっと真っ直ぐに見つめた。

「今までは終わったの。私、彼と始めることにしたの」
「葉月」
「本当よ。見ていて……。私、もう、戻らない!」

 はっきりと言いきった葉月の強い声と言葉、そして確固たる眼差し。それを見たマリアの涙が止まり、そして安心するようにやっと瞳を輝かせてくれたのだが。何故か、そこで彼女が顔を背けてしまった。

「……マリアさん?」

 頬を覆う短い髪が彼女の顔を隠す。
 彼女がまだ何かの不安に囚われているような姿に、葉月はまだ自分が込めた決意の強さは通じなかったのかとがっかりしそうになる。

「それでも、葉月。また何かあったら、本当に一人で頑張りすぎないで。私だけじゃないわ。マイクも、そしておじ様もおば様も本当は貴女を心配して待っているのだって忘れないで」

 これだけ『頑張ろうという気持ちになった』と言い切っているのに、それでもまだなにをそこまで心配しているのだろう? と、葉月はふと思った。だけれども、それ以上に、久々に『心配する両親』の事が、自分より身近で過ごしている彼女の口から出てきて葉月の心はズキリと痛んだ。
 そこで勇気を出して、マリアに聞いてみる。

「あの、父と母は……」
「お元気よ。でも……おじ様はあまりゴルフにはいかなくなったし、おば様もお仕事以外のお出かけは控えているみたい」
「……! そうなの?」
「だから、ね。葉月。また余計なお世話だと思うけれど。会えない理由があるにしても、会ってみる気はない?」
「でも私、今はまだ……」
「あ、ごめんなさい。また、今までみたいなことを」

 今まで葉月が敬遠してきた彼女らしい遠慮無いお節介をしたことにマリアは気が付いたのか、そうしてすっと引こうとしていた。
 だが、葉月は強く首を振る。

「ううん。今は貴女のその心配してくれる気持ちが、すごく嬉しい」

 葉月は彼女に微笑む。
 その気持ちに感謝を込めて──。
 今は素直に嬉しい気持ちを伝えるように。

 するとマリアがやっと安心したように笑い返してくれた。

「葉月のそんな顔が見られるようになって、嬉しいわ」
「有り難う」

 二人で微笑み合う。
 北風の中、いつのまにか肩を寄せ合っていた。
 もう、そんなに多くは語らずとも、こうして通じ合える『幼馴染み』になれたのだ。
 昔、失ってしまったはずの、暖かくてそして柔らかな『姉妹感覚』をマリアは本当に優しく蘇らせてくれたお姉さんだ。

「そこにいらしたのですか」

 北国の風情を目の前に、ただ黙って微笑みあい寄り添う二人がいる階段の下から、テッドの声が聞こえた。

「これ、どうぞ。寒いでしょう」

 テッドの手には紙コップに入れられたホットココア。
 気が利く補佐の嬉しい差し入れに、二人は揃ってそれを手に取った。
 そんなテッドがマリアと葉月を眺めて一言。

 『仲がいいですね。遠くから見ていたら姉妹みたいでしたよ』──と。
 マリアと見つめ合い、心よりの笑顔で微笑みあったのは言うまでもない。

 葉月はまた思う。
 今、ここに隼人がいたら……。きっとこの様子を遠くから見守るような笑顔で見てくれて、喜んでくれたに違いないと。
 また、彼に早く伝えたい。
 自分が取り戻すことが出来た沢山のことを……。

 粉雪が舞う向こうに、そんな彼の暖かな笑顔の姿が浮かんだ。
 今、私の心は、雪の冷たさなど感じる間もない程に、こんなに熱い。
 けれど、葉月は気が付かなかった。
 マリアがそれでも哀しげに自分を見ていただなんて……。
 ──気が付かなかった。

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