小さな箱を手にして、葉月は細川将軍室にやって来た。
挨拶は、いつもと違っていた。
「おじ様、お邪魔致します」
「おう、来たか」
「これ、おじ様が大好きな大福餅。お客様用のお菓子から取り分けてきました」
「そうか。私はここの大福に目がない。良く覚えていたな」
葉月はにっこりと細川に微笑みかけ、その箱を手渡した。
「渡辺。茶をくれるかな。嬢と暫し話をする」
「かしこまりました、中将」
長年、この将軍室の秘書官をしている『渡辺さん』が、にこやかに箱を受け取って秘書室に姿を消していった。
「そこに座りなさい。葉月」
「……」
決まった流れではあるが、細川は応接ソファーに促してくれる。
しかし、葉月は『聞き間違いではない』と、確信する。
葉月はここに来てわざと、中将とは呼ばずに『おじ様』と呼んだ。
勿論、怒鳴られる事も覚悟の上。
ただ……この日、こうして細川に『話がある』と言われた事が、『大佐嬢以上』に『葉月として』呼ばれたのだと予感していたのだ。
すると、案の定──『良和おじ様』は、そうした葉月の訪問の仕方に、お咎めをしない。それ以上に滅多にそうは呼んでくれなくなった『葉月』と言う名で、穏和に迎え入れてくれた。
『これは……確かに』と、葉月は悟る。
先程、トーマスに『現役引退発言』を放ったわけだが、きっと細川が心配しているのは『もっとそれ以上の事』だと、確信する事が出来た。
せっかく、おじ様が穏やかに迎え入れてくれたと言うのに、葉月はいつも以上の厳かな気持ちで、ソファーに腰を下ろした。
「教官と、話したのかね?」
「はい……。お昼に」
「それは良かった。ちゃんと話せたのだな」
「はい、おじ様」
細川の『ちゃんと』と言う所に、沢山の意味が含まれている事が葉月には分かっていた。
そして、良和おじ様が『葉月、それを乗り越え、済ませてから私の所に来い』と言っていた事を『ちゃんと理解していたつもりです』と言わんばかりに、葉月は『話せました』という笑顔を向けた。
「訓練生時代、多大なご迷惑をかけたお詫びと、そして感謝の気持ちを──やっと心から伝える事が出来ました」
「うむ、それで良い」
おじ様がこっくりと頷き、微笑みかけてきてくれる。
それは『葉月』というプライベートでも時々しか見せてくれない。……葉月はそっと頬を染めた。
恥ずかしいとか照れるとかではなく、嬉しさで頬が紅潮したと言った方が良いような高揚感だ。
父と母と仲良くしている格好良いパイロットのおじ様。
そのおじ様が『鬼おじ様』になったのは、葉月がパイロットとなってしまった為だから、それ以来、幼かった時のようにはあまり甘える事は出来なくなっただけに……。
今日はなんだか、いつもと違うおじ様の雰囲気を感じて仕方がない。
いつだったか──現役だった細川がフロリダの式典祭での航空ショーのパイロットとしてやって来た時。
葉月は初めて、戦闘機のスピード感におののいた記憶がある。
それは、よく知っている『おじ様』が乗っていると分かっているからこその、衝撃だったと思う。
それと同時に──何かが頭に過ぎった。
『死に近い世界』
それを思いついた時に、妙に血が騒いだのだ。
今、思えば……そして、大袈裟に言うなら『運命の瞬間』でもあった気がする。
あそこは人が生きられる場所ではないのに、切り込んでいく姿も。
コックピットという『孤独そうな空間』にも、心が騒いだ。
そこで……そこで……。
どうなりたいか──なんて、その時には言葉に出来るだけの明確な感情は把握していなかった。
でも。その『過酷で孤独な世界』に魅了されていたのは確かだ。
そして今の葉月が言い換えるとしたら、その『魅了』は『死への近道』という希望とリンクしていたのだと言えそうだ。
『おじ様、空を飛ぶってどういう感じなの?』
『おじ様、空を飛ぶ時にはなにを考えていらっしゃるの?』
『おじ様、空はさみしい? おじ様、空は……』
『葉月、いきなりどうしたのだ……。お前に空など……』
本部基地での披露飛行を終えた細川が、父を訪ねに来ていたのをみつけるなり、葉月は質問攻めをしていた。
細川は、とても困った顔をしていたが──。
ふと何かを考え込んだかと思うと、急に……こう言い出した。
『葉月。明日、おじさんと遊びに行ってみるか?』
そう言った細川に誘われて、父の亮介と一緒に、フロリダ基地内にある飛行訓練場に行ってみた。
そこでごく初歩的なシミュレーションをさせてもらった。
その後、どうした事か、父と細川が妙な口喧嘩を始めていたのだが?
葉月には『いつもの、どつきあい』だと思っていた。
暫くして、父の亮介がもの凄く怒りながら『葉月、帰るぞ』と無理矢理連れて帰されたという、奇妙な場面の記憶がある。
『すまない。亮介──つい……』
『お前! 自分が引退を決めたから、おかしくなったのではないか!? うちの娘は音楽家になるんだ!』
『分かっている、悪かった。どうかしていた』
父親という世代の男性二人の──小さな葉月には首を傾げたくなった言い交わし。
それもいつも父よりやや一枚上手で余裕に切り返すように見えていたおじ様が、父の文句に完全降伏をしてうなだれていたのだ。
それも葉月が心の隅に覚えている程の、奇妙な場面だ。
だが──この時、葉月は決めていた。
「パパ、私──パイロットになろうと思う。訓練校に行って適性検査を受けて、空軍か海軍を目指すからね」
細川が帰国してから暫くして、葉月は父にそう告げていた。
家族の皆が驚いたのは言うまでもない。
そこまで葉月は久し振りに思い返す……。
「お前を『パイロットにどうだ』と亮介に勧めた時、あれはもの凄く怒ったもんだ」
「──! おじ様」
葉月は驚いた──。
目の前の細川も同じ頃を思い出していたようだ!?
そして細川は、昔『葉月』に見せてくれていた『おじ様の顔』で笑ってくれていたのだが、その笑みが次第に渋く変わっていった。
「ついな。おまえの感覚を、ほんのちょっと見させてもらっただけだったが……。あの時は、『パイロット』としての胸騒ぎが止まらなかったもんで。親父の友人であるおじさんという関係をすっかり忘れていたな」
「……おじ様は、あの時?」
「そうだ。もしかすると『逸材』ではないかと──。シミュレーションを見ただけで感じたわけではないが、何故か? 遊びで触らせている間にも、その胸騒ぎが止まらなかった……」
「でも……私はただ」
『その世界で、どうにかなりたかっただけ』
その『どうにか』も訳が分からないから、余計に空への欲求が高まったのだ。
細川は『逸材』と言ってくれたが、葉月にとっては関係のない動機で、それを理由にこの道を勧められた覚えもない。
おそらく細川はそう思いながらも、亮介の許可も取れず、そして葉月が『娘』だった事……そして何よりもヴァイオリンをやっていた事から、その気持ちを抑え込んだのだと思う。
だが──葉月は『自らの意志』で、細川が望んだ道を選んだ。
そして『思うままのパイロット人生』を歩んできた。
その中では成功もあったし、そして苦悩もあったし……そして念願の『死の境界線』との遭遇も何度か体験させてもらったものだ。
すると細川が、葉月のそんな軌跡の一つを語り出した。
「しかし、昨年の式典飛行での四回転は、頑張ったな」
「有り難うございます。高名なパイロットであった『細川中将』にそう言われるなんて、とっても光栄です」
「正直にいうと、成功はしないだろう、しなくても良い。ぐらいに構えていたのだ」
「まぁ……酷いおじ様。私は必死でしたでしょう」
笑い飛ばした細川に、葉月もちょっとした拗ねた顔を向けつつ、でも一緒に笑い飛ばしていた。
「はぁ……。しかし、あれで必死にさせすぎたな。これも『つい』だった」
途端に細川が、とても疲れた顔で溜め息をついたので、葉月は首を傾げた。
「お前は、空となると本当に全生命を傾けるかのように必死になるために、どうしても『やれるだろう』とやらせてしまった……。あの急降下は、私の不徳か。あの後、またお前の親父にこっぴどく叱られた。どういう無茶をさせる指揮官だとね。御園という女性パイロットの限界を考えなかったのかとか……。お前にそんな事させた私の事……」
いつにない鬼おじ様の弱々しい語りに、葉月はドキッとして口を挟んだ。
「でも、ここでおじ様が私に『すまない』などと言ったら……!」
「おお、そうだった。言うものか。あれは小娘が自らしたことだったなー。あはは!」
「そうですよ。私とコリンズ中佐がやりたかったんですから──。おじ様が『お前達には出来ないだろう』と言っていたのに、突っ走ったでしょう」
「……でも、信じていたのだよ。お前とコリンズなら、もしや? と。飛行野郎というのは、どうもいかんな……」
細川がふっと致し方ない笑顔を浮かべた。
その顔は、おじ様でなく、父と同世代の男性ではなく──空を飛んできた男の顔だった。
だから、葉月は少しばかりドキリとした。
あの頃──葉月を魅了した『ナイフのようなパイロット』と呼ばれていた細川の若かりし頃の顔と重なったのだ。
あの時の細川は、父と同じくらい……『格好良かったわ』と、葉月はふと微笑んでいた。
「お茶と好物の大福ですよ。お待たせ致しました」
「うむ、すまないな」
「渡辺さんも召し上がってね。秘書室の皆様にも」
「ええ、頂きますよ。『葉月ちゃん』──」
渡辺とは小笠原に来た時からの、昔なじみだ。
彼はずっと細川についている『主席秘書官』だ。
なので、時にはこうして『知り合いのお嬢様』のように接してくれる。
そのおじさんも、二人の雰囲気を悟ってくれたのか、和やかな接し方を残し、秘書室に去っていった。
「うまいな。三浦屋は。この離島に転属してきた時は、こんな和菓子屋があるとは思わなかったもんだ」
「私も大好き。頂きます!」
そこは既に、親子のような雰囲気で和んでいた。
だが、ひとしきり、一緒に和菓子を堪能し、お茶を飲みながら落ち着いた頃。
細川はどっしりとした湯飲みを置いて、葉月に話しかけてきた。
「嬢、今度の航行研修には、どういったメンバーを連れて行くつもりか?」
いきなり、仕事の話になって葉月は姿勢を正す。
「希望ですが──出来れば、指揮にコリンズ中佐とウォーカー中佐もご一緒に出来たらと。お二人も参加したいと言っております。ただ……」
「そうだな。何人も指揮官がいてもトーマスが困るであろう。それに連れていくパイロットはどう選ぶつもりか? ビーストームだけを連れていくつもりか? これだけの計画──他の先輩が黙っていまい?」
「そうですね。これはウォーカー中佐の発案から来た物ですから、出所は『第六中隊の教育隊』となっています。なので、私も一緒に力を注いでいるとはいえ、計画を進行させている彼等の『冠』みたいなものです。ですので、最高責任者という形で協力させて頂くので付いていきますが、中佐方にはどちらか残っていただくことになるでしょう。あと、パイロットの事ですが──『島のパイロット』の中から選抜していくか、それとも先に継続的にできる研修として、今回は私の指揮下のチームでまずは手応えを試してみるか……。また、経験のある者を優先に連れていくか、経験をさせたい者を連れていくかは思案中です」
「だったら、ウォーカーを連れて行け。奴が始めた事だからな」
「……はい。そう思っています」
思っている事、計画している事が、細川とするすると一致していくので、葉月はホッと安心したのだが。
「ほう、気心知れたコリンズは置いていくのか」
「……はっきり言わせて頂きますと。コリンズ中佐は、まだ『現役』ではありませんか? 出来れば早くコックピットに戻してあげたいのですが。中将、もう、そろそろよろしいのではないですか? 『目的』は達成したも同然の状態だと思いますが?」
「コリンズが入る隙間など、もう、ないだろうが」
細川が大福を頬ぼりながら、きっぱりと切り捨てたではないか。
葉月は、自分の思惑とほぼ一致していると安心したのも束の間、ちょっとムッとしてしまった。
そのデイブの『ポジション』を追ったのは、目の前のおじ様だと言うのに……!
細川はそれを分かっているのか、試すように見下ろしているだけだ。
そして細川は何かを言い返そうとしている葉月をみて、サッと言い出した。
「コリンズはもう、ビーストームは卒業したのだ。もう奴のチームではない、ミラーのチームだ。中佐キャプテンは二人も要らない」
「そこの事情は充分に理解しているつもりです」
「ほーう? では、どうするのだ?」
やや感情的に切り返した葉月に対し、細川はやっぱり試すように葉月を見下ろしているのだ。
それを見て、葉月は一度、黙り深呼吸。心を落ち着かせる。
「コリンズ中佐はまだコックピットで人を惹きつけていける実力があります。今、それを退けるのは勿体ないと思います。あの方の『魅力』と『実力』はそこにあると思っています。私など……たとえ、まだ飛べるとしても、中佐の空という現場での指揮には適わないと思います。あの方はまだまだ、空で人を引っ張り育てていける力があると思います」
「そうだな」
「……! そう、思って下さっているのですか?」
いつになく小娘論に肯定した相づちをしてくれた細川に、葉月は驚く。
そして細川が溜め息をついた。
「嬢、お前らしくないじゃないか。思っている事を言ってはどうだ?」
「いえ……その、それは」
まだそんなのおぼろげの段階だ。
いつも通り『人知れずの計画案』であるのに、それを『隠し持っている事』をおじ様には見抜かれている!?
葉月が躊躇っていると、細川が言い出した。
「どうだ? もう1チーム。思い切って作ってしまっては。また血の気の多い若者がいいな……」
「おじ様!? 本気でそう言っているの!?」
あまりの驚きに、つい『軍人』の構えが解けてしまい、葉月はハッと慌てる。
だが、細川は笑っていた。
「かと言って、同じチームを作ると、澤村がやっとこさ作ったメンテチームが、さらにもう1チーム必要となってしまうだろうなぁ? もうそんな手間の時間も人手もない。特に澤村が甲板を去りメカニカルの仕事へと集中する事を決めたばかりならなおさら。そこで、どうだろうメンテの手が届く規模での、若手ミニチームだ」
「ミニチーム!?」
「コリンズが教育する『ビーストーム補助員』みたいな五人程のチーム編成だ。ただし本チームへの『下克上もあり』と言う事で引き抜いたらチャンスをうかがっている若い者には美味い話ともなるだろう コリンズには新たな局面の仕事になるだろうし、これをやりこなしたらコックピット復活だ。本チームのだらけたパイロットにも上のミラーからだけでなく、下からの若者の押し上げもあり、良き刺激となるだろう。訓練相手にも絶好だ」
「……よろしいのですね。本当にそのように進めてしまいますわよ」
「やってみれば良かろう? お前達は忙しくなるばかりだろうがね」
そこで葉月は輝く笑顔を向ける。
「構いません。きっとコリンズ中佐は張り切って、そして喜んで下さると思います。中将、有り難うございます!」
葉月は笑顔で細川に『お礼』の頭を下げた。
「そこまで、お前の頭の中が『まとまっている』とは、安心した」
細川の『話』とは──今後の『他基地隊員』と交えた航行についての確認だったかと葉月は思った。
だが、トーマスに打ち明けた後だけに、葉月は細川にも早めに伝えておこうと心に決めてきた。
そのキッカケが……なかなか掴めないが。
でも、『安心した』と言った細川は、まるで話が終わったかのように、静かに残りのお茶を味わっているだけになった。
静まった細川室の雰囲気に、葉月は『今か』と心の準備を整え、細川の顔を見た時だった。
彼と目があった。
葉月より先に、おじ様の方が葉月を見つめていたようだった。
なんだかやはり思っている事が『通じている』気がして、葉月の方が驚き唇が固まってしまい、その隙に細川が先に口を開いてしまった。
「時に葉月? お前はどうなのだ?」
「!」
その『思った通り』の探りに、流石に葉月は硬直した。
「トーマスが一度はお前の飛行を見てみたいと言っていたがね。どうせなら、母艦航行中は慣らしぐらいで飛んでみたらどうだ?」
「……おじ様」
「甲板指揮とは、パイロットとの意思疎通だ。私はね、葉月。それをお前に知って欲しかったのだよ。それにこの仕事はそれこそ、お前にはいずれ……」
「おじ様! 私……っ」
「葉月?」
今度は細川が驚いて、湯飲みを持ったまま固まってしまっていた。
いつにない葉月の大きな声にも驚いたのだろう。
細川が『いずれ……』と話そうとしたその先を、葉月は分かっている。
それを言われる前に、自分から言おうと思った!
だから、葉月は顔をあげて、細川を真っ直ぐに見つめる!
「おじ様、私! ──いえ、中将」
「うむ」
細川も姿勢を正した、もう……分かっているようだった。
姿勢を正し、彼は『一人のパイロットの決意』を、正面から受け止めようとしているのだ。
そして葉月は、その彼の胸に思いっきりぶつける事にした。
「現役を、引退したいと思っております」
「そうか」
やはり細川は驚かなかった。
彼には予感があったのだと葉月には思えた。
しかし、細川に問われた。
「本当に、良いのか?」
「はい。自分で決めた事です。コックピットに乗ろうと決意した時と同じ決意ですから間違いありません」
「……何故?」
葉月の決意を嗅ぎ取っていたと言うのに、それでも細川は訳を問いただそうとしている。
そこには、本当に未練なく降りて欲しいという願いもある事が葉月には分かっていた。
葉月は細川にそこを安心してもらう為に、静かに話し始める。
「昨年──。『おじ様』が、私をいったんコックピットから降ろしたのは……こういう事だったのでしょう?」
細川がなんだかんだと理由を付けて、葉月をコックピットから降ろした一番の理由は『そこ』であった。
実際に、『デイブとコックピットを一度降ろされる』と知った時、隼人がこう言った。
『どうあがいても、お前の身体は女性なんだ。どんなに優秀な技量を持つパイロットでも身体は女性なんだ。それを葉月も良く考える時期に来たと……見定めての事らしいよ』
つまり、丁度あの頃──隼人と深く熱く愛し合っていて、『結婚』と言う話まで辿り着いていた。
細川は、それを知らなくとも『男女が愛し合う末に起こる事』を懸念していたのだ。──『妊娠』と言う事を。
だから、とにかく『降ろそう。特に今、危ない』──そんな危機感を持っていた事だろう。
目の前の細川は、『その通り』と頷いていた。
「そうだ。しかし……私の危機感は間に合わなかったな。気付くのが遅かった」
「でも、私が女性としての避妊対策をしている事は母から聞いていたのでしょう?」
「そうだが。そんな事で安心など出来るか? お前が手放さないと聞かされていても、あんなに澤村と慕い合っているお前を見てしまっては……若いお前達は、きっとそこに辿り着くと思っていた」
「しかし……私は母が言う所の『女性』ではありませんでした。母親になる事も、愛に対する事も『無関係』。全て私の気持ちを和らげる為だけの……そういう子供じみた決断しかできぬ愚かな女性だったのです」
「……しかし、だからとて。それが原因ではなく、訓練を続けた事が原因だったのではないかと、今でも悔やまれる」
細川が目の前で、苦悩に満ちた顔を……。
眉間にいつもより深い皺を刻み、額を抱えうなだれてしまった。
「おじ様──。ロイ兄様からお聞きですか? 私、今、身体について検査していると」
「……あ、ああ。美穂から聞いている」
「訓練のせいではないそうです。どうも、やはり私の体質で『不育症』なのだそうです。そしてその『不育の原因』も……まだ、判らない段階で」
「そうなのか」
「ですから、おじ様。そんなに……ご自分をお責めにならないで? お願いです、おじ様にそんな思いをさせていたなんて、私」
葉月が『ごめんなさい』と、呟くと、やっと細川が顔をあげてくれた。
「なら──気にすまい。だから、お前も自分を責めないように」
「おじ様……有り難う」
葉月が素直に微笑みかけると、やっと細川の顔が元に戻ってホッとした。
「では……葉月。コックピットを降りるという事は……」
細川の顔が、ふっと和らいだ。
そして、葉月も柔らかに微笑みを広げ、細川に向かう。
「はい、おじ様……。私、本気で澤村との子供の事を考えています。ですので、それを妨げる危険があるものは……もう、やめようと」
「澤村は知っているのか?」
葉月はそっと首を振る。
「いいえ。直ぐにではなくて、自然にそうなりたいので」
「そうか。しかし──そうとなれば、澤村も複雑だろうな。パイロットとしてのお前を愛しているだろうし、以上に女性としてもな」
「まだ……失った子供の傷が癒えていないと思いますので」
「そうか。そうだな──暫く、澤村も、あれほどに元気がなかったからな。ショックだったのだろう」
『パイロットとしての葉月も愛している』──そう言われると、葉月も複雑になってくる。
でも、また思い返される。『どんな葉月も葉月だよ』──と、言ってくれた彼の言葉を。
その言葉を胸に、葉月はさらに細川に叫んだ。
「でも、せめて……もう一度だけでも! 私、頑張りたいのです。今度はちゃんと自分を慈しむ事から、ちゃんと大事にして。もう、自分本位の無茶はしないと決めたのです。──私、今度は女性として闘っていきたい── そう、思えるようになりました」
「うむ、それが良い」
細川もきっぱりと言い切って、そして──葉月の決意を真っ向から受け入れてくれたようだった。
葉月もホッと笑顔を浮かべた。
「また辛い結果になるやもしれなくても、頑張りなさい」
「おじ様──」
「……長かったな」
急に細川がしんみりと下を向いてしまった。
「……私には責任があった」
「責任?」
「そうだ。お前を空へと連れてきてしまった『責任』だ。亮介には散々責められた。これだけはなんとも言い返しようがなかった」
「……おじ様のせいでは……」
「いいや。私のせいでなくても『私の義務』だとも思ってきた。トーマスと同じ気持ちだった。トーマスは『パイロットとして送り出さないのは勿体ないが、送り出せば非常に危険でもある』と思っていたそうだ。だが、彼はお前を見届ける事が出来ずに転属になった。有望株だった為に転属は多かったようだな。こんなトーマスと同じ気持ちは、私はとっくの昔に抱いていた。お前が訓練校で挫折すれば良しとも思ったり、だが、あれがやってくれば空部隊では活躍するだろうともおもったりだった。そして──お前はついに、私の目の前にパイロットとして姿を現した。実はだ……」
そこで細川は一時、黙ったのだが。
何かの躊躇いを払いのけ、意を決したように口を開いた。
「実はだ……。お前が小笠原に来るだろうと思って、こちらの転属を望んだ。表向きは『若連隊長のサポート』だったわけだが。私の本当の目的は『お前』だった」
「──!?」
葉月は驚き、声も出なくなった!
今までの話の流れから、細川が今から言わんとしている事に、気が付いたからだ。
だが、その信じがたい言葉を、細川が言い放った──!
「私が見つけた危険なパイロット──そのお前を見守る為に……私は、甲板に立ち続けていたも同然だ」
「そ、そんな……!」
「勿論、空軍教育者としての姿勢に嘘はない。そして、お前の他の若者達を厳しく鍛えようと向かっていた私の信条も嘘じゃない。だが、私の心にはいつもその『義務』がまとわりついて離れなかった」
「……そこまで、してくださっていたなんて」
驚きのあまり……葉月の唇は震え始めていた。
それは口では言い表しがたい途方もない『感謝』に高ぶる感情から来るものなのだろう?
だが細川は肩の荷を降ろすかのように、口を止めなかった。
「特にお前には随分と厳しく当たったと思う。それはお前が『悔しくて帰ってくる』事を願ってだった」
確かに──細川の叱咤に葉月はいつも悔しさに心を燃やし『明日は絶対にやってやる』と思いながら、甲板に帰ってきていた思い出が多い。
「それもこれも、私は空にいる『死神』と張り合っていたのだ」
「え?」
「お前が空の死神に会いたがっていたから、それを忘れるぐらいに──『俺を憎む為でも良い、その為に帰ってこい』と、思っていたのだよ」
「!」
初めて──!
細川が葉月に意地悪なぐらいに接していた訳を知って……動けなくなった。
そして、細川もそれを言ったきり、下を向いて何も話さなくなった。
一番の『真実』を告げ終わった──そんな気力抜けをしたように俯いてしまっていた。
細川将軍室の中の時間が止まったよう……。
シンとした空間。
どこからもとなく聞こえてくるアナログ時計の針の音──。
それがどれぐらい時間を刻んだのか判らないが、葉月の中で熱い気持ちが波のように盛り上がってきていた。
「おじ様のバカ……」
「葉月?」
やっとそう言えた時には、葉月はボロボロに泣きじゃくっていた。
「そ、そんな種明かし。しちゃ駄目よ……。おじ様みたいな『男性』はずっと黙っているのが格好良いと思っているはずよ? ばらしちゃうなんて……! こんな小娘に……ばらしちゃって良かったの?」
すると細川がちょっと驚いた顔をして、でも、次には照れくさそうに白髪交じりの黒髪をかき始めていた。
「参った……。確かに、それはこの『おじさん』の若い頃からのポリシーだったな? 忘れるとは……歳なのかのう?」
暫くは泣くじゃくっている葉月を、細川は優しい眼で静かに見つめていたようだ。
やがて彼は微笑み、こう言い出した。
「……今でも思う。お前が男だったならと。もし男だったなら、お前はきっと最前線で、今頃はあちこちの空母を渡り乗るエースパイロットのはずだ」
「まさか」
葉月は、わざと笑って誤魔化した。
実際──パイロットになりたての頃、一度は夢見た事がある。
それは葉月に限らず、パイロットになる者は皆、そこを目指すはずなのだ。
でも、途中で悟った。やはり、自分は『限界がある女なのだ』と。
なので、そう言われる事を嬉しく思いつつも──しかし殆どは、何処か考えないように努めてきた『口惜しさ』の方が勝っている気がするのだ。
だから細川も、初めて『惜しいな』と、口にしているのだろう。
しかし葉月は思う。
……いいや、違う。もし男であったとしても『そこまでの精神力はなかった。ましてや技量も……』と、葉月は思える日がいつしかやってきていたのだと。
それはコリンズチームで切磋琢磨しているうちに気が付いた事だ。
それがいつだと言われるとハッキリした時期は覚えていない。徐々に、グラデーションの色がゆっくりと染まるように、そうなっていったのだろう?
だから『もう、迷いはない』。
『私』は、存分に懸命に納得が出来るまで『やれた』と思っているから……。
もう──コックピットに未練はない。
はっきりと、言える。
だから、葉月は乾き始めた涙を拭い、細川を真顔で見つめ返した。
「あと一度だけ、フライトさせてください。それが最後のフライトとさせて頂きます」
「お前の決意、良く分かった。さて、それなら、どこで飛ぶか? トーマスに見せながら、航行中にするならば、その日に必要人員を送っても良いが……」
だが、葉月は決めている。
そんなの『当然の場』ではないか。
「小笠原に決まっているではありませんか。中将。ビーストームの皆と飛びたいと思います。先程も、教官に飛ばないかとお誘いを受けましたが、同じ気持ちをお伝えした所です。教官は……私の選んだ道をとても喜んで下さいました」
「そうか、では、トーマスを呼んでやるかね。私がそうしたい」
「有り難うございます」
「澤村に飛ばしてもらうのだな?」
葉月は頬に火照りを感じながら、こっくりと頷く。
「そろって『チーム訓練』を卒業か……」
「はい」
「澤村はずっとメカニカルを通じて戦闘機体と甲板に携わっていくのだろうが、お前はある意味、本当の闘い場所との決別になるなぁ」
そう──隼人はこれからも戦闘機を触りながら、甲板に姿を現す日も多々あるだろう。
必要に応じては、自ら機体を飛ばす日も来るだろう。
工学科にとって、『実践を兼ねられる隊員』と言うのは、かなり貴重な存在になるだろう。
しかし……葉月にとっては、もう、一番の最前線という場を去る事になる。
あのコックピットという過酷な場で、皆と闘ってきた共感を得る日々は──もう、ないのだ。
しかしである──。
葉月は瞳を輝かせながら、細川に言い放つ。
「おじ様──。私はまだ闘いますよ」
「……ほう?」
『それはなんだ?』と問い返した細川に、葉月は笑顔を浮かべて告げる。
「甲板で、『大空野郎共』を見守る『女房』になろうと思います」
「女房!?」
「はい。甲板野郎も飛行機野郎も──内助の功で支えていきたく思っております」
「──葉月! おまえ……」
「彼等を、守っていきたいです。甲板から、彼等の力になりたいです。その為に『大佐』としてやっていきたく思っています」
「!」
流石に細川が驚いていた。
細川が望んでいただろう葉月の甲板指揮への移行──だろうが、しかし、葉月がここまでそこに『コックピット並のチャレンジ精神』を固めていたのは驚きのようだった。
そして葉月は、そんなおじ様に言う。
「おじ様。これでコックピットに未練がない事はお解り頂けましたでしょうか」
「ああ……。実際、私としては……もっと飛ばせてやりたい気持ちもあるのだが。安心したともいうべきか、複雑だな」
「おじ様。私ね……?」
途端に『嬢ちゃん』の顔になった葉月を、細川がおもむろに見る。
そして葉月はにっこりと、清々しい笑顔を向けた。
「男の子が生まれたら。その子は空母に立つような気がしています」
「……!」
「そうなるとは限らないのですが。だけど、思うのです。彼と私の子なら『大空野郎』に違いありません」
「確かに……。そうかもな」
細川がやっと可笑しそうに笑い出した。 葉月も微笑み返す……。
「おじ様。『私の赤ちゃん』が無事に生まれたら、抱っこしてね。約束よ?」
「!」
葉月の清々しい微笑みを、驚き顔で眺めていた細川が……途端に俯いてしまった。
「もう、良い。仕事に帰りなさい……」
「……」
「もう、話は終わった」
「はい。おじ様」
もう言葉が続かない様子の細川の気持ちを察し──葉月は席を立った。
そして『有り難うございました、中将』と一礼をし、あっさりと将軍室の扉を開け、廊下に出た。
葉月はその『細川中将室』の扉に──もう一度、静かに一礼をする。
そして、四中本部に帰ろうと廊下を歩き始めた時だった。
「葉月ちゃん」
「渡辺さん?」
秘書室から渡辺が出てきた。
恰幅の良い体で、そのおじさんが小走りでやって来た。
「これ。食べておくれ」
「え?」
「本島から工事に来てくれた業者さんのお土産。こっちは若向けの『プリン』を頂いてしまってね。おじさんが多いからなかなか減らなくて──」
「そうですか。では遠慮なく頂きます。私、甘いもの大好き」
開けてみると。葉月がお気に入りの洋菓子店の物で、思わず笑みを浮かべてしまった。
そしてその箱の中には、三つ……入っている。
「側近の二人と食べなさい」
「すみません」
「──幸せにね」
「!」
渡辺はそれだけいうと、笑顔だけ残し、サッと行ってしまった……。
細川の様子を見て、すぐに察したのだろうなと、葉月は思った。
葉月は、沢山の物を胸に詰め込んだ気分で、颯爽と本部への帰路を辿る──。
・・・◇・◇・◇・・・
本部に帰った葉月は、丁度、『三時の中休み』に差し掛かる事に気が付いた。
気が付かせたのは、キッチンで毎度の如く、テッドがお茶の準備をしていたからだ。
「お、葉月。それなに」
訓練から帰ってきた達也が、すぐさま、反応する。
隼人はと言えば、いつも通り『気になる事が起こらない限り、知らぬふり』と徹底していた。
「中将室で『プリン』をもらったの」
「ロイ中将に呼ばれてたのか?」
「ううん。『おじ様』の方──」
「なにか?」
葉月の全てはなんでも把握しておきたいという達也らしい突っ込みだった。
そして──それは隼人も気になったのか? 彼が打ち込んでいるキーボードの音が止まった。
「十月半ばからの母艦航行について。どういう意向なのかと呼ばれていたの」
「そっか」
「これ、渡辺さんがくれたの」
「ふーん。ナベさんが」
達也は同じ『秘書官』として、渡辺とはそれなりの個人的交流があるようだった。
なので彼はそうして親しき呼び方をいつもしている。
隼人は──疑問が解けたのか、また、キーボードの音を立て始めた。
『こら、吉田! 目を離しただろ!』
『ごめんなさーいっ。テッド……!』
キッチンではなにかしら騒々しい声が……。
達也が、チッと舌打ちをした。
「また小夜ちゃんか……。なかなかね」
達也のその態度に、葉月は少しばかり目くじらを立てた。
「達也が選んだのよ。気長に見守る覚悟だったのでしょう?」
「ああ。そうだ? だってあの子『頑張り屋』では一等賞だ。だけど──実るまでが騒々しい事」
すると、隼人が急に『あはは』と笑い出した。
「だけど、その騒々しさがクセになるよな」
「それ、兄さんだけだろ? 今のところ、兄さんが一番、上手く扱っているよ……。それを見て、『秘書チーム』に選んだんだけどな」
『テッド〜。お砂糖がドサッて、いっぱい入っちゃった!』
『もう、いい! 俺がやるから。次から気を付けてくれ』
小夜がポイッとキッチンから放り出された様子。
彼女がハッと三席が固まっている窓辺の上官達を見て、俯いていた。
「吉田さん、いらっしゃい」
「は、はい……」
葉月は笑いながら、彼女を手招いた。
小夜がおずおずと大佐席にやって来る。
「これ。頂いたの──。食べてね。もう、休憩でしょ? いってらっしゃい」
「! あ、有り難うございます……?」
「私、ここのお菓子、大好きなの。吉田さんも食べた事ある?」
「勿論です。私も大好きです!」
「良かったわ」
ガラス容器に入っているプリンを、小夜に手渡すと、彼女が嬉しそうに手に包んで、大佐室を出て行った。
二人の中佐が意味ありげに『ふう〜ん』なんて、唸っているが、葉月は無視。
暫くして、テッドがいつものお茶を葉月の席まで持ってきてくれた。
「これはテリーにあげましょう。テッド、冷蔵庫に入れておいて、彼女が帰ってきたら渡してくれる? 私は空軍ミーティングに出かけるから」
「かしこまりました」
テッドがにっこりと微笑みながらカップを置き、葉月が差し出した箱を手にして去っていく。
近頃のテッドは、なかなか上手くテンポを掴ませてくれない小夜に、イライラしているのは知っているのだが。
それでも彼は、文句は一つも言わずに、黙って面倒を見ているので、とても感心している。それでもそのイライラしている顔は、流石に我慢している分、顔に出てしまっているようだ。
だが、そのイライラしていそうな彼が、なんだかいつも以上ににこやかにお茶を置いて言った気がする?
なんだろう? と、思いつつ、カップを手にして持ち上げた時だった。
「あ……」
暖かい色合いのミルクティーに、ピンク色のウサギが浮いていた。
葉月が気に入っている『ぷかぷかシュガー』は、隼人がお土産にしてくれた時からのお気に入りになっていた。
そして、それを昨年知ったテッドが、こうして日替わりで使って和ませてくれるのだが。
時々──『ウサギ』を使ってくれる。
その時は、テッドが何かを思って使っているような気がしてならなかったりする。
それもこれも──『なんでもウサギの飾り砂糖だけは、大佐の指示なしに出すなと、海野中佐に言われています』──なんて、達也がテッドに言いつけて、葉月が『ウサギ』に気にかけている事をほのめかしたからだ。
だけど、テッドは今は『許可なし』に使用してしまう。
そしてその『ウサギの日』の時の葉月は、決まって気分が良い時……。
『今日は良い日だったのではないですか?』
この頃、側にいるようになった後輩は、良く見てくれている気がした。
「ふふ、その通り」
葉月がそんな独り言を言って、お茶を飲み始めたのを、両脇の中佐が首を傾げて眺めていた。