隼人に銀色の鎖を切られたあの日から……何週間かは経ったと思う。
もう盆も過ぎて、心の中の渦をかき回してばかりいた夏風も、そっと冷めてきたかのような……そんな頃。
葉月は今、都内にあるとても格式が高い有名ホテルのロビーにいた。
静かなのに、人々が行き交うロビー。
キリッとしたホテルマンが硬くもなく砕けすぎずに優雅なたたずまいで待機しているフロント。
重厚なシャンデリア、ビロードの絨毯……。
今日は週末の土曜日のせいか、なんとなく人々は笑顔で浮き足立っていて、静かな中にも賑わいがあるように見える。
葉月はそのままティーサロンに入り、そこで紅茶を頼んで一息付いた。
片手に持っている旅行鞄を床に置き、カルティエの黒いハンドバッグを膝の上に置いて開けてみる。
仕事でも使っている手帳を開けて、そこからメモ用紙を取りだして眺めてみた。
確かに、このホテルの名前だし。
そろそろ、その時間だし。
葉月は落ちつきなく、周りを見渡す。
それらしい人影無し。
まさか、まさか……。
あの中佐の肩章とバッジがついた『いつもの軍服』で現れるつもりなのかと、気が揉んでいるのも『落ち着かない理由のひとつ』。
このホテルの中で、珍しくはないだろうが、目立つのは確かだ。
葉月も、このホテルは初めてではない。
むしろ『良く来る』方かもしれない……その時は、両親や右京が一緒だ。
春頃、音楽会に参加する時に右京と別部屋で泊まっていたのも、このホテル。
従兄が常連かなにかしらないけれど、フロントに右京が現れたならば、皆がよく知っているといった顔をしていた。
なのに……『今度は隼人』が、ここを指定したのだ。
昨日、金曜日に隼人は久し振りに本島へと小夜を伴って出張へ出た。
金曜日に彗星システムズで会議がある出張で、土日を隼人は本島で過ごし、週明けにはいよいよ彗星システムズの面々を連れて小笠原に帰ってくる……という予定。
彼が出かけたのは、朝一番だったのだが……。大佐室に葉月が出勤すると、丁度、小夜と一緒に出かける準備に追われている所で、葉月は達也と一緒に『気をつけて、いってらっしゃい』と送りだし、すぐに本部の朝礼を始めた。
朝礼を終えて、大佐室に戻ってくる。その間、葉月の頭の中では『今週は一人の週末か……』と、それならムーンライトビーチに行って、一人で飲んでも良いかも知れないと思い描いていた。
この頃、隼人との『通い同棲』にも程よい一定のリズムが生まれてきて、彼の部屋に行ったり葉月の部屋に彼が来たりする以外にも、各々のつきあいを優先にする事も増えてきた。
隼人はメンテや工学科の隊員と、葉月はデイブとウォーカーと言った先輩に他のパイロット、そして達也やジョイと言った同僚と……。
葉月がこの頃、一番多く通っているのは、やっぱりムーンライトビーチで、また『木曜日』に行くクセがついてしまっていた。
そこで会うのは、ミラー中佐だった。
本当は他のパイロット達も誘って、デイブとそうであったように『仲間同士で楽しく、賑やかに』としたい気持ちもあるが、どうも? ミラーと一緒にいると『静かに語り合いたい』雰囲気が出来上がってしまう。
聞けば、ミラーも最近ではリュウやフランシスに誘われて、漁村の屋台『なぎ』や『Be My Light』に行くことも増えたとの事。
男同士の付き合いは別として生まれたようで、それならと葉月は葉月で『指導者同士』の語り合いにさせてもらっていた。
そして、おかしな事に、時々隼人も後からやって来て中に入るようになった。
三人で甲板論争を繰り広げたり、つまらない日常話に花が咲く。
時にはミラーのからかいで、二人の恋仲がどうかとカマをかけられて、隼人と一緒に照れたりムキになって否定したり、時にはミラーの大人の話に二人揃ってしんみりしたり。
そういうお酒をしっとりと楽しみながらの交流だ。
木曜ではないけれど、そこにいけば、ミラーがいる気はする。
静かに話をするなら、彼が一番だ。
これは葉月一人だけの勝手な『勘』だが、彼に危険は感じない。
葉月の『勘』は『彼はまだ、別れた奥様を愛している』なのだ。
『そうしよう、今日は静かなお酒にしよう』と、自分なりのスケジュールを思い描きながら、大佐席に座ろうとした。
『?』
まだ書類もバインダーも広げていない片づいている机に、一枚のメモ。
二つ折りにしてあって、上には黒いペン書きで『葉月へ』と書いてある。
それを開いてみる……。
「えぇ!?」
「どうした? 葉月……!」
あまりにもすっとんきょうな声を出したので、達也が驚いて席を立ち上がったし、キッチンにいるテッドもテリーもこちらに振り向いた程……。
でも葉月はサッとメモを隠してしまい、『なんでもないわ』とすぐに取り繕い、席に座りこんだ。
葉月が大人しく仕事を始めたので、達也も後輩達も訝しそうにしつつも、彼等もそれぞれの仕事に戻っていきホッとする。
そこには、都内ホテルの名前と時間が記してあって『待っていてくれ』と書いてあったのだ!?
葉月が『これはどういう事か!?』と追いかけようとした時には、既に遅し……。
葉月の背後、大佐室の大窓を横切るように、横須賀基地行きの便が飛び立った所だった……。
メモには『葉月が乗る便は予約しておいた』とあり、明日出向く為に搭乗する便の予約番号まで記してある。
なんて! 計画的犯行……! とでも言いたくなるような手際に、葉月はただただ驚くばかりで、目の前に広げた書類を眺めているだけで、集中が出来なくなった程!
最後に隼人が書き添えていた一文が……。
『約束の実行が遅くなってごめんな。夜はディナーだから、うんと洒落込んできてくれよ。楽しみにしている』
と、いう『いきさつ』にて、葉月は今……土曜の夕方近い時間に、都内のホテルにやってきたのである。
もう一度、時計を見る。
もう……時間が過ぎていた。
溜め息をついてみる。
隼人が時間通りに来ない事に溜め息ではなく……ああ、あの彼が『こんな思い切った事をするなんて』と……頬杖をついて、また溜め息をついてみる。
しかも『あの彼』が、こういうホテルでの待ち合わせに、夜の食事はディナーで、その上『お洒落をしてこい』だなんて、『考えられない』だった。
葉月としては、なんだか釈然としない。
こんなの、こんなの『嬉しいけれど、彼じゃないわ』と、やっぱりなんだかしっくりしなくて、落ち着かない。
どうしてなんだろう? 『何処か泊まりに行こう』と言い出した時も驚きはしたが、葉月が描いたのは何処かの観光地へ『レジャー気分』で軽く外泊する程度の事だと思っていた。それでも『嬉しい、行きたい』と思ってはいた。
でも、それだって『忙しいから、きっともっと先の事ね』と、隼人の気持ちだけ受け止めて流していた部分もある。
その葉月がたかをくくって、それこそ『その内の嬉しい約束』程度で収めている中、隼人が結構な短期間でこんな『プロデュース』に奔走していたなんて!?
身体中が硬くなっていくのを葉月は感じていた。
とても綺麗な紅茶カップが目の前に置かれても、なんだか優雅に味わう気になれずに、固まっていた。
右京となら、こういった待ち合わせに食事──何度もあるし、一番身近に慕っている『お兄ちゃま』と言う気兼ねの無さもある。
それなら、隼人とだって一年も同棲生活をした仲なのだから、気兼ねはないはずなのだ。
でも、なんだか葉月はとても緊張していた。
こんなの、仕事で味わう緊張以上の物を感じている。
仕事なら『どうにかして乗り越えてみせる』と色々と糸口を考えてみる物だが、どうしてだろう? こと『恋愛』になると『自分』のことになると、何故、こんなに『不安』になって『打つ手無し』みたいに思うように動けなくなるのだろう?
それに最近、隼人を見かけただけで、もの凄い物に出会ったみたいな『波動』が心に脈打つ時がある。
見かけると言うのは、それぞれの仕事があり大佐室と本部を出た外で、廊下で見かけたとか、カフェで彼を見かけたとか、そういう程度のことなのに、それでも大佐室以外で隼人を見ると……胸がときめくと言うのだろうか?
だって、そんな時の彼って……大佐室で部下顔を決めている以上に、一人の男として堂々と他の隊員達と真顔で仕事に取り組んでいて、その姿は『とても男らしい』。
そんな色っぽさを感じる、と、葉月が言うと変な感触かもしれないが、葉月にはそう見えてしまって釘付けになってしまうのだ。
眼鏡の横顔で、書類を片手に工学科の隊員に先輩に、時にはマクティアン大佐と会話を交わしている。
時々、誰かが冗談を言ったのか、男同士で笑い飛ばしているとても良い雰囲気で仕事も交流もこなしている隼人の姿。
大佐室では『私の部下、俺の上官』と言う一線で、きっと隼人は葉月という上官に男としても一歩下がっていた所もあっただろう──。しかしそこは今、急に独立したかのような隼人が『男としてのやりがい』に向かって活き活きしているように葉月には見えるのだ。
そして、そんな隼人は遠くから眺めていても、今まで以上に眩しい……。
(私、どうしちゃったんだろう?)
そんなとき、葉月は制服の胸をぎゅっと掴んでいる。
隣にテッドやテリーがいたならば『大佐? 気分が悪いのですか?』と言ってくれるぐらいに、葉月は『停止』しているようなのだ。
ある時テッドには『ばれてしまった』。
『恋煩いですか……。おかしいですね? もう二年も越えようとしている恋人同士のはずなのに』
でもテッドは何かを見通しているかのように、とても冷めた目で葉月を見るのだ。
腹は立たないが、そんなテッドが怖く感じる時がある。
心を見透かされてしまうようにしたのは、葉月がした事ではあるが……それでも、彼が時々こうして葉月の状態を第三者として言ってくれる事を望んでいたような、でも、分かっていても言って欲しくないような複雑な気持ちにさせられるのだ。
そして、テッドの『さじ加減』は極上だった。
葉月のそんな複雑さを知っているかのように『言って欲しい分』だけ言ってくれ、『言って欲しくない』所は言わずに心に収めてくれている気がするのだ。
そうして側にいる後輩が言う程に、葉月は隼人を意識している。
そうしてテッドはさらにこういった。
『近くにありすぎるよりかは、程よい距離感がそうさせているのでしょうかね? なかなか、同棲すればってことでもないようで? 男女の距離感って難しそうですね』
『距離』か……と、葉月も頷いてしまっていた。
彼が側にいるようで、そうでなくて。でも、いて欲しいと思ったら側にいる。
まさに今の隼人はそんな感じで、以前のように心配で心配でウサギさんから目が離せないよと言ったような保護的な執着はもうない。
だけれど、気が付くと彼はそっと側にいて、いつの間にか葉月の耳元で囁いている。
そんなときは、あっという間にさらわれている……。
そしてついに本日も、『あっという間にやられた』のだ……葉月は。
(どうもこのごろ、あの人のペースにはめられてる気がする)
こんなのいつぶりだろうか? フランスで出会った頃、隼人に自分のペースを崩された事があったが、それでも葉月は彼と付き合うようになっても『確固たる自分のペース』と言うのはがっちりと掴んでいた気がする。
なのに、ここのところは隼人のペースにまんまとはまってしまい、心の中で密かに慌ててしまっていても、結局は最後に極上の幸福感を彼の腕の中で得ている。
なのに、そこには今まで『制御』していたはずの『冷めて落ち着いていた自分』がいなくなる不安もあった。
なにせ、葉月はそうして『異性関係』を繰り返してきたのだから。
その『制御』をはずされてしまい、『男性』と言う生き物に『なにもかもを任せて、預ける』という行為には、まだどことなく慣れていないし不安があるのだ。
にも、拘わらず──小笠原での私生活でも、既に隼人には『流されっぱなし』なのだ。
それが今夜は慣れた生活テリトリーである小笠原を離れて、『夜の都会』だった。
葉月が慣れていない世界で、今夜も彼がどのようにして葉月を『崩壊』させてしまうのか。
そんな緊張感……。
いつものように隼人に任せていれば大丈夫だと思っていても、やっぱり長年積み重ねてきた『心の中をコントロールしてきた習慣』と言う物が抜けないのだ。
そんなふうにあれこれ唸ってしまい、紅茶には手が着かない状態。
「ちゃんと来てくれたな」
「!」
聞き慣れた声が聞こえて、葉月はハッと顔をあげる。
「やっぱりお前は一目で分かってしまうな」
「……」
やっと、彼が来た。
でも? と、葉月はそこに現れた男性をただ唖然と見上げるだけになってしまっていた。
軍服ではなかった。
ホッとしたい所だが、それ以上──隼人がスーツで決め込んでいたからだ!
黒いスーツに、水色のシャツ。そして黒い水玉模様の爽やかな白いネクタイ。
どこかの落ち着いたビジネスマンがやって来たかと思う程に、隼人が隼人じゃないみたいに『変身』していたのだ。
唖然としている葉月の反応も分かってか分かっていないのか、それでも隼人はスマートな身のこなしで葉月の向かいに座っていた。
軍服を着ている姿と比べたとしても見劣りしていなくて、いつもスーツを着ているかのような身のこなしだった。
「……どうしたの?」
目の前にいる見慣れない男性に、葉月はやっと話しかける。
そんな彼女の様子にも、隼人はにやりと笑っただけ。
何も言ってくれない……。
それどころか、隼人はすぐに葉月の足元にある鞄を手にとって持ち上げてしまう。
「お前が来る便に合わせたから、結構、早い時間帯を予約したんだ。もう、出かけよう」
水色シャツの袖を隼人がめくる。
時計が……いつものダイバーウォッチではなくて、葉月が見た事がない時計。
それにも葉月は一人で驚き、目を見開いていた。
見たところ……結構なブランドの時計に見える!?
あの目立ちたがり屋の達也が、一つ、二つ持っているのを見た事があるが、こういうことに無関心な隼人が『持っている』と言うのが驚きだ。
「どうした?」
「う、ううん? なんでもないわ」
「宿泊はここだから、この荷物は預けてくる。もう少しここで待っていてくれ」
「あ、有り難う」
隼人が旅行鞄だけを手にしてロビーに出て行った。
その間に、葉月は紅茶を一口、二口……心を落ち着ける為に飲み込む。
隼人が戻ってきたので、そのままハンドバッグ片手に席をたつ。
ティーサロンを出る時、お茶代を精算しようとバッグから財布を出そうとした所。
「ああ、俺が払っておいたから」
「え?」
「行こう」
葉月がさらに戸惑っていると、レジにいる黒服の従業員が、そっと会釈をして二人を送り出そうとしている。
お礼を言おうと思ったら、その間も与えないと言ったように、彼はジャケットの裾とネクタイを翻すようにしてロビーを颯爽と歩き出す。
葉月はただついていくだけになってしまった。
エントランスに待機しているタクシーすら、隼人は手際よく呼び寄せて乗り込んでしまう。
(ああ……本当にこの人のペースだわ!)
会ったら、昨日の『計画的犯行』で驚かされた文句の一つと、嬉しいという気持ちを一言伝えたいのに。
そんな隙は与えてくれない。
ほんとうに、葉月はこれでは既に『さらわれている』も同然?
それに隣に座っている彼から香ってくるトワレの匂い……!
葉月がいつか隼人にプレゼントしたトワレの匂いだった。
そこまで決めている隼人の心中は如何に!?
ウサギさんは為す術なし、驚かされてばかり。
まるで長い両耳を掴まれ軽々と持ち上げられて、飼い主のお兄さんの意のままに、日暮れる街並みの中連れ去られて行くようだった。
・・・◇・◇・◇・・・
都内にある落ち着いたレストランに連れてこられる。
右京とも来た事がある大きな高層ビルに入っているフレンチのお店。
その店の前に連れてこられても、葉月は唖然としていた。
隼人がどうやってこの店で食事をしようと決めたのか?
雑誌に載っていたのだろうか? とにかく摩訶不思議で、驚くしかない。
だけれど、隼人はホテルでもそうであったように物怖じせず、堂々とそのレストランの扉を開けた。
葉月もあとについて入る。
当然、店先に待機している黒服の従業員達に丁寧に迎え入れられたのだが……。
「いらっしゃいませ。おや? 御園のお嬢様ではありませんか」
「こ、こんばんは……」
タキシード姿の支配人と目が合い、彼が『御園の娘』だと知って驚いたのか、隼人を見た。
それでも隼人は知らぬ顔。
支配人が何を思ったかは……そこはプロ、顔には一切出さない笑顔を保って、隼人を席まで案内するのだ。
窓際の席だった。
東京のビル群の向こうには、茜色の夕焼けの帯。
きっと食事をしている間に、薄紫の星空になり、やがて星よりも瞬く夜景が広がるだろう。
それを眺めるには絶好の場所だった。
それにも葉月は……絶句するだけ。
そこで葉月はジャケットを脱いで、側にいたギャルソンに手渡した。
今夜は濃紺で艶やかな光沢を放つシルクドレス。
今夜のポイントはカトレア──。その花びらのようなふんわりとしたウェーブを描く裾。そして少しだけ肩が出てしまうので、左胸には透き通る生地で出来ている真っ白いカトレアのコサージュを。
あとは身体のラインが綺麗に出るデザインであるだけだ。
達也の時には、いつも以上に華やかなドレスを選んだ。
でも、隼人はきっとこういうシンプルでナチュラルな物が好きだと思ったから……。
彼の為に自分で選んだドレス。
スーツを着込んできた彼が、葉月の前でいつも以上に堂々としているから、葉月も胸を張って向き合う。
隼人は暫く……そんな葉月を熱っぽくみつめてくれていたが、そっと微笑みをなげかけてくれただけ。
葉月もそれだけで充分、彼に微笑み返す。
席に落ち着くと、隼人はソムリエに『食前酒になるシャンパンを適当に』と、気取らずに注文をした。
右京なら、メニューを見てずばっと銘柄をいいそうな所だが、隼人がそうでなくて、葉月は何故かホッとした。
そんな気取らない彼の、そして物怖じしていない彼の自然体が、いつも以上に際だって素敵に見えてしまったではないか。
そんな気負っていない隼人を見て、『彼らしくないエスコート』ではあるが、葉月の方も『いつもらしく』なれそうな予感に肩の力が抜けてきた。
「ここ、良く来るんだろう?」
「え? 知っているの?」
すると隼人は潜めた声で囁いた。
「実は……ホプキンス中佐に相談したんだ」
「そ、そうだったの? リッキーが教えてくれたの」
「兄さん達、ここに良く来るから葉月も落ち着いて楽しめるだろうって。ホテルはともかく、レストランだけはな〜? まったく見当がつかなかったもんで」
「そういうことだったの」
「葉月は慣れているだろうけど。俺は、ちょっと緊張──」
凝った肩をほぐすように、頭を左右に振った隼人を見て、葉月は思わず笑ってしまった。
「うそ。堂々としているじゃない」
「精一杯だぜ」
「そんな無理してまで、こうしなくても。私がここまでしなくても大丈夫だって知っているはずなのに……」
洒落た黒いスーツに、高級ホテルの宿泊、女性に負担をかけさせない手際に、フレンチのディナー。
兄達がいつもそうして葉月を楽しませてくれるように、隼人もまさか、まさか……それを真似ようとしているのか? と。
そう思えた途端に、葉月は急に哀しくなってくる。
隼人には隼人の素晴らしさがあって、そして葉月は彼のそんな所を一番愛しているのに。
彼はそうではなくて『葉月の為にはこうならなくてはいけない』なんて、思っているのだろうか? と。
だけれど今夜は、なにもかも隼人の方が素早い。
そんな葉月を見ぬいたのか、致し方ない笑顔をこぼして、静かに呟いた。
「分かっているよ。それに俺らしくない事もな。それでもだ。付き合ってくれるか? 今夜は……」
「勿論よ、有り難う」
「驚いたか?」
「とっても」
「お前には散々驚かされてきたからな、この二年間。そろそろ俺から驚かせてもいいだろう?」
「もう、本当に昨日は驚いたんだから! 私の意志とか希望とかは無視ってこと?」
「俺は二年間、ほぼそれだったぜ〜? それに、お前に『デートに明確な希望』とか存在するのかよ?」
「……!」
そうかもしれない! と、隼人のシラッと細められた眼差しに、葉月は言い返す言葉もない。
でも、固まってしまった葉月をそれ以上は困らせまいと、直ぐに彼が笑い飛ばした。
「まぁ、強引だったのは認める。だけど、俺がこういうことを計画したなら、お前はきっとやめてくれとその気にならないんじゃないかと思ったからさ」
(確かに……!)
「兄貴達のエスコートは当たり前で、恋人の俺が『たまたまでも』こういうエスコートをしようとしたら『似合わない、らしくない』という理由だけで、お前が受け止めてくれないなんて悔しいじゃないか」
葉月は心の中で『ごもっとも』と唸るばかり。
でも……と、隼人を見つめ返した。
「強引だったけれど。嬉しかった……。楽しみにしていたわ」
「それは良かった。だったら楽しい事だけを考えよう。仕事の話は一切、禁止だ」
「賛成」
微笑み合った二人の目の前に、夕日色に染まるシャンパンが注がれ、静かに乾杯をした。
「水色のドレスかと思っていた」
オードブルが運ばれて、二人で食事を始めた時に彼がそう言った。
「水色は一度、卒業する事にしたの」
「そうなんだ……似合っていたのにな」
もしかして? と、隼人が着ている水色のワイシャツを葉月はみつめる。
さりげないお揃いにしようとしたのだろうかと? 本当のところは分からないけれど、そんな気さえしたから……。
眼差しをふせた隼人が、静かにグラスを置いた。
そして次には真っ直ぐに真っ黒な瞳を煌めかせて、葉月を見つめてくる。
「……期待以上に綺麗だ」
「あ、有り難う」
「前以上に、紺色が似合う雰囲気になったなと……」
去年、フロリダの実家で開いてもらった葉月の誕生パーティー。
久し振りに人前でドレスを着る事になって、隼人が一緒に選んでくれたドレスも紺色だった。
それを思い出したのも、この色を選んだ理由の一つだった。
「達也からも聞いた。きっと葉月はもう、なんでも着こなせるって。去年は似合いそうもなかったドレスを堂々と着ていたってさ」
「そう……」
「俺も今夜、同じことを思った」
身体の線がハッキリと出てしまうドレスを試着したら、二人の男性が『似合わない』と言ったのを思い出す。
そして、そんなドレスは葉月ですら受け付けなかった。
でも……この前の晩も、そして今夜も、葉月は『女性らしいライン』には怖じ気ずにトライしてみる。
『女性としての自信と女性である事の喜びと誇り』──それを取り戻そうとしているのを、彼等に伝えたかった。
故に、葉月に『美しくあれ』と願い続けてきた男性達の願いに応える為、以上……葉月自身の『誇り』を蘇らせる為。
だから、達也の時も嬉しかったが、一番言って欲しい恋人に『綺麗だ、似合うよ』と認めてもらうとこの上なく嬉しい。
これがきっと『女の喜び』──。
なんだかちょっぴり頬が火照ってくる感触。
葉月は素直に隼人に微笑みのお返しをする。
「隼人さんも……見慣れないスーツだけど、素敵よ。おどろいちゃった、まるで毎日着ているみたいに着こなして」
「お洒落な従兄がいる葉月からの合格、光栄だな」
「でも、私は制服の貴方が一番好き……」
「……葉月」
「本当よ。いつもの貴方が一番、好き。仕事をしてる隼人さんって魅力的」
「……どうしたんだよ」
「どうしたって? 思ったままを言っているのよ? おかしい?」
「だから……その、なんていうか」
心にあるままを伝える葉月の言葉が率直すぎたのだろうか?
隼人はとても驚いた顔で、茫然としている。
なんだか言った自分が損した気分になるぐらいに、葉月は急に恥じらいを感じてしまう。
でも、これまた隼人がすぐに微笑んで和ませてくれる。
「俺も、制服の葉月は大好きだぜ」
「……うん、そう言ってもらえると一番、嬉しいかも。だって日常の私だもん」
「本当は、何も着ていない葉月が一番だけどな」
「……! な、何を言い出すのよ!?」
「葉月は、脱いだ俺の事も気に入っている?」
「や、やめてよっ。こんな席で……」
「俺は断然〜あっちかなぁー」
「さ、最低! だったらドレスを選んで着る必要はないってことじゃない」
「いいや、それは重要だ。きれいなリボンをほどく時のワクワク感がドレスには潜んでいる……」
「な、なんの話よ! こんどは……!」
「綺麗で似合っているドレス程、その女の身体にまとっている、最高のリボンだっていう男の話だよ」
その例えに葉月は絶句……。
隼人はときどき『外国仕込み』の台詞で驚かす事があるし、今のその話はどっちかというと達也並みではないか? と……。
それでも、平気でナイフとフォークで食事を淡々と進めている隼人。
どこが緊張しているのかと言いたいぐらいに、会話も軽快。
この葉月をいつものお嬢ちゃんにしてしまうぐらいに、余裕ではないか。
葉月は話の内容に驚いてムキにはなったが、緊張していた身体がいつのまにかほぐれてきているのに気が付いた。
そう、小笠原のよく知っている飲食店で、いつも一緒に食事をしている二人と変わらない感触になっているのだと。
だから、その後の食事も『いつもの二人』で続けられた。
こうして隼人にからかわられるような会話もあれば、薄紫に染まってきた都会の空に視線を馳せて、暫く黙ったまま、ただ一緒にワインを味わう間もある。
芳醇なワインの香りが、その夕日の香りのよう……。
そんな静かな間も一緒に楽しんでいる。
会話も楽しいけれど……。
その静かな沈黙の間に、二人で同じ景色を眺めて夕闇の美しさを同じように共感し、そして言葉なく視線を絡ませ合う瞳だけの語り合いに、葉月の胸は急に焦がれるような思いが込み上げる。
貴方の静かな微笑みが、一番、胸に染みる。
そしてそう思っている葉月の姿が、彼の漆黒の瞳に確実に映っている。
隼人も見つめてくれてる確実な時間。
食事はあっというまに最後のデザートになった。
デザートの一皿を目の前に置かれたというのに、急に隼人が真顔になって、葉月に向き合う。
「隼人さん?」
「……葉月」
先程まで何に置いても堂々としていて、余裕で葉月を茶化して楽しませてくれていた隼人が、この日初めて緊張しているように見えたのだ。
そんな隼人の様子に、葉月が身構えていると、彼がジャケットのポケットから何かを取りだして、葉月に差し出した。
白い包みに紺色のリボンがかけられている、手の平にのってしまうぐらいの小さな箱。
「ど、どうしたの?」
「さて、どうしたのだろう?」
驚いた葉月に構わず、隼人はその箱を葉月の目の前に置いてしまった。
それは葉月も嬉しいはずだが驚くことしかできない。
この絵に描いたような彼のエスコート。そして極めつけに『プレゼント』──。
なんだかその箱を幻でも見るようにして直ぐには触れられず、隼人の顔ばかり見てしまっていた。
だから、隼人が急に、不機嫌そうな溜め息をこぼした。
「28歳のお祝いだ」
「え! でも……」
「ああ、お前の誕生日はとっくに過ぎているけどな?」
もう過ぎてしまった誕生日を急にこの席で祝ってくれるなんて?
隼人なら過ぎてしまったなら、それで終わりそうなのに?
葉月だって忙殺されていたのは確かだけれど『あ、今日だわ』ぐらいには気が付いていた。でも、それだけで終わっていたのに……。
それでも、せっかくの隼人の心遣いだから、葉月は素直に目の前に置かれた箱に手を伸ばした。
リボンをとこうとする葉月の指先を眺めている隼人。
その顔も妙に思い詰めたような顔で、葉月は『いったい何がはいっているの?』と眉をひそめる。
けれど、やっと隼人が躊躇いを払うように話し始めた。
「……俺の前にいる記念とだけ言っておく」
「隼人さん……?」
「お前が笑顔で生きていることの記念。また来年もみられるようにしてくれよ」
「!」
隼人はそれだけ……真顔で呟くと、急にしんみりと静かになった空気に耐えられなくなったのか、一人でデザートを食べ始める。
リボンを解こうとした手が離れる。
そこに本当の彼からの『プレゼントがあった』と葉月は感じたのだ。
「あり・・有り難う」
「……」
「きっと……約束するわ」
瞳が熱帯びてきて、目の前の彼が滲んでいた。
熱い涙が静かに少しだけこぼれる。
今まで誰に愛されても気が付かなかった事が、この夜、痛い程に分かった。
私が生きている事を喜んでくれる人がいる。
そして笑顔を望んでくれている人がいる。
本当は一人じゃない。
待ってくれている人がいる。
そしてそれは彼だけじゃない事も……彼に愛されて、初めて見えてくる。
また来年までの約束──。
二度と、闇の中に引きずり込まれない為の約束……。
葉月は涙を拭い、そっと笑顔をこぼす。
隼人もそれを見て急に照れくさそうに目をそらし、食事に集中しているふりをしている。
やっと、彼らしい。
葉月も静かにスプーンを手にして、甘いアイスを頬張った。
来年の誕生日も、きっと……。
・・・◇・◇・◇・・・
高層ビルレストランで、夕暮れから夜景になる景色を楽しみながらの食事を終えた。
二人でエレベーターに乗ろうと、その前に来た時だった。
隼人が階下へ向かうボタンを押しながら、大きな溜め息をついたので、葉月はそっと彼を見上げた。
「どうしたの?」
「え? ああ……うん」
なんだか葉月にプレゼントを渡してから、デザートを食べ始めた頃から、急に彼が静かになってしまったのは確かだ。
あんなに葉月を茶化して楽しんでいたのに。
それでも葉月も感動してしまって、言葉にならなくて、静かに最後のデザートとデミタスコーヒーを味わうだけで締めくくってしまったのだが。
隼人がまた大きな溜め息をこぼす。
そこでエレベーターがやって来たので、二人で乗り込んだ。
中は二人きりだった。
「……やっぱり疲れたの?」
「……いや?」
「でも、楽しかったわよ。それに、嬉しかった。忘れないわ、今夜のプレゼント。忘れない」
「本当に?」
そこで隼人が、急に気が晴れたような顔になった。
葉月は眉をひそめて、彼を見つめ返した。
「ああ、俺って……。本当に、なんていうか。もっと楽しく良い気分にさせてやろうと思ってきたのに。結局、お前を泣かしてしまうような重い言葉しか言えないんだな〜と」
「ええー!? そう思っているなんて、がっかり!」
「そうか?」
「そうよー! 私、感動して泣いていたのに!! 涙を返してよ!! 来年までまた頑張ろうって思えたのに!」
「……」
途端に、いつものお嬢ちゃんでムキになった葉月を、どうしたことか隼人が固まったまま見下ろしていた。
「……どうしたの?」
今度はどうしたのだろう? と、葉月が彼を覗き込んだ時だった。
『葉月……』
「!」
声にならないような囁く声で、隼人が真綿を包み込むように柔らかく抱きついてきた。
ふわっと、葉月が選んだミントのような匂いがジャケットから香ってきた。
柔らかいその暖かさと清涼な香りにつつまれ、葉月はそっと目を閉じる。
彼らしくない格好をしていても、この暖かさとトワレの向こうにあるいつもの匂いは……確かに『隼人』だと。
「貴方の重い言葉は嫌いじゃない。どれだけ私を救ってくれたと思っているの? 重いじゃなくて、重みがあるの」
「ああ……そうか。うん、こんな俺の言葉で、笑顔になってくるお前でいてくれたら俺も嬉しい」
「だから……きっと来年も、貴方に喜んでもらえる笑顔でいたい」
「ああ、信じている」
隼人のネクタイの胸に包まれている身体から、葉月は両手を伸ばして、今度は隼人の背をきつく抱きしめた。
そうすると、柔らかく包んでくれていた彼の腕に力がこもり、葉月の身体は硬く結ばれた腕の中に……。
そっと見上げると、そこには潤んだような彼の瞳。
自然と葉月は眼差しを閉じてしまった。
だけれど、それと同時と言っていい程……そして、通じ合ったように、お互いの唇が柔らかく重なった。
「……次、バーにでも行こうかと」
隼人が唇を噛みながら、囁いたのだが。
「嫌……。ずっとこうしていたい」
「でも、まだ時間が。日暮れたばかりだ……せっかく街に出てきたのだし」
「そんなの、関係ない……。もう、あなたに……」
『もっと抱きしめられたい』と、葉月は言葉にならず……。
ただ熱帯びてきた瞳を、隼人に向けてしまっていた。
自分から、こんな風に求めるだなんて……!
「リボン……早くといてよ。あなたのおもうままにほどいて……!」
彼の唇を、強くふさいだのは葉月の方……。
隼人の腕の力がより一層、葉月を抱きしめていた。