-- A to Z;ero -- * きらめく晩夏 *

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3.銀色の命

 今が一番、ピークの時間帯だろう。

 この時間のカフェテリアは、大勢の隊員達が行き交うランチタイムのまっさかりだ。
 そこらじゅうに、制服を着た男にOL風の女性隊員といった内勤隊員、そして訓練着を着込んでいる外勤隊員達でごった返している。
 それでも、隼人が甲板からあがってこの時間に毎度のようにやって来る頃には『後半帯』と言う今から人が減っていこうとしている時間帯で、やや隙間らしき物が見え始める頃だ。
 真ん中には、お馴染みに『元コリンズチームのパイロット』達がたむろしている。
 隼人は『今日はどうだろう?』と思って、一人の男性を探した……やはり、いつものようにそのパイロットの輪から外れて壁際の席でひっそりと食事をしているミラーを見つけて、少しばかりがっくりしてしまった。

 いや……本当に探しているのは『彼等』ではない。
 もう一巡り、フロア中を見渡したのだが……。

「サワムラ。嬢なら、どっかにいっちまったぞ」

 突如、湧いてきたかのようなデイブの出現に、隼人はドッキリしながらも、知りたい事が直ぐに判明して教えてくれたデイブにニコリと微笑んだ。
 隼人が探している彼女は、彼とウォーカー中佐の先輩パイロットか、細川中将と佐藤大佐と言った高官おじ様達と食事をするのが近頃の傾向だ。
 今日は『成果』を分かち合う為にデイブと食事をしているのではなかと思っていたのだが……どうもそうではなかったらしい。

「俺達と一緒にこっちに来たのに、軽食をテイクアウトすると『やる事がある』と言ってカフェを出て行ったぜ。相変わらず、付き合い悪い奴」

 デイブはむくれはしたが、直ぐにおかしそうな笑い声をこぼし始めた。
 それがなんだか『嬢ちゃんらしい』とでも言いたそうで、そして、それを聞いた隼人も同感だった。

「ああ……そうでしたか。では、あそこかな?」
「だな。きっと一人で満足を噛みしめているんだろうさ」
「相変わらず」
「ああ、本人は隠れたつもりかもしれないが。バレバレだよな」
「ええ、それも随分前から」

 隼人はデイブに一礼をして、そこに向かおうとしたのだが。

「聞いたぜ。お前、メンテを辞めて甲板を降りたいと……」
「! もう?」
「佐藤大佐が嬢ちゃんと話していたから、聞こえちまったんだ」
「あー。なるほど……」

 確かに──隼人は今日は『それを前提』とした甲板指揮を意識していた。
 それが今朝方、大佐嬢の許可もなく、メンテ総監をしてくれている佐藤にも申し出ていた。
 だから、甲板でこの二人の大佐が顔を合わせば、『佐藤は驚きの確認を大佐嬢にして、大佐嬢は許可ない行動をしていた事に驚く』事は予想済みだ。
 そこで、大佐嬢と今指揮を組んでいるコリンズ中佐に聞かれてしまった事も、当たり前の流れといえばそうなので、知られた事に慌てるわけでもなく隼人は頷いた。

「しかし、お前までがね」
「……はぁ」

 デイブの深い溜め息。
 そして隼人はその『お前まで』と言うデイブの言葉の意味に、ちょっとばかり恐れを抱く。
 この『情に厚い』先輩の事だから、『嬢ちゃんの側にいろ』と言い出すのではないかと……。
 すると、デイブはもう一度溜め息をついて、短い金髪をかくと一言だけ……。

「お前にも『男のロマン』なのかな」
「はい?」
「嬢は陸グラウンドの芝土手にいるだろうが、別に『一人になりたくて、寂しくて』行ったんじゃないと思うぜ。自分が許可なくした事が心配で、嬢がショックで拗ねていると思って、探しているのか?」
「い、いえ……それは」
「お前のそんな所は、変わらないんだな」
「いえ……」

 隼人は少しばかり、照れて俯いた。
 だが、いつもは笑い飛ばしてくれるデイブが、この日は神妙な面持ちだった。

「嬢は言っていたぜ。お前が本気だから『私、送りだそうと思っています』と」
「!」
「……清々しい笑顔でな」
「そうでしたか」

 その時やっと、デイブが笑顔になる。
 いつもの騒々しい先輩の様子はない。
 彼も妙に落ち着いて、彼女の様子に満足をしているようだ。

「昨年、嬢が出て行ってしまった時、お前がした事を散々怒ったが……。勿論、今でもお前のあのやり方には賛成は出来ない」
「……」
「でも、確かに嬢は変わったな。最近、嬢を見ていてとっても安心している。それで、最近の嬢ちゃんは……『幸せだ』『感謝している』と、周囲への感謝の気持ちを一人一人に『逃さずに言っておこう』という素直な姿勢がうかがえるのが、俺は、特に嬉しい」

 そして、黙って聞いている隼人の目の前で、デイブが遠い目をした。

「そして──なんだか、一人また一人と、嬢の肩に置いていた手を降ろし、去っていく様が目に浮かぶんだよな」
「そうですか……。ええ、俺も一緒にいて、その感はあるのですが。中佐にそう言ってもらえたなら、彼女も気持ちが通じていると喜ぶと思いますよ」

 隼人もまぶたをそっと伏せる。

 デイブの言う通りかも知れない。
 葉月の近頃の姿は、以前以上に凛としている。
 どこから見ても、もう、頼りなげな部分は垣間見えなくなってきていた。
 その『安心感』。
 でもその裏で……。
 そう、目の前にいる彼女の長年の先輩が、遠く目線を馳せた気持ちが、隼人にも解る。
 俺達の手添えがなくても、彼女はもう大丈夫だ。一人で歩ける。
 その気持ちになる時に、隼人は思うのだ。
 『俺が必死に守ろうとしていた彼女は、もう……いないのだ』と。
 急に『役目を失った』ような……そんな変な表現を思いつく程の気持ちになったりする時がある。

 喜ばしい変化、しかしその反面で、何故? こんな気持ちになるのか、隼人にも予想外で。
 それはきっと、隼人よりもずっと前から見守ってきたデイブも、同じ気持ちを感じてしまうのも頷ける気がした。
 そして、それは彼女の様々な人間関係の中で、色々な変化をもたらしているのは、隼人も気が付いていた。

 まずは変化その1──あんなに苦手と戸惑っていたミラー中佐を、彼女は自分で向き合って信頼関係を築き始めている。

 そして、その2──長年の『同期生』である元恋人だった達也とも……。
 今朝の事になるが、達也の妙に吹っ切れたような爽やかで凛々しく引き締まった顔と、葉月の彼に接する落ち着きぶりに、二人の間に『新しい関係の芽生え』を見た気がしたのだ。

 休日に達也と揃って参加したパーティの事は、葉月からそれとなく聞かされている。
 達也と何があっても、今の葉月なら、昨年のように達也に不意に唇を奪われてメソメソと隼人の下に帰ってくる事はなく、自分で対処するだろうと信じてはいた。
 それに、何があったかといった事細かような報告ではなかったが、楽しいパーティで、達也とも楽しく過ごせた──というそれとない彼女の話しぶりに『流石の達也も、葉月の今の精神にはちょっかいだせなかったか』と確信する事が出来た。
 きっと彼の事──男として燃える気持ち以上の物を、彼女から感じる事が出来たに違いない……。そして今朝、二人の様子を見てそれをさらに強く確信した気がした。
 そんな『曖昧さ』が漂っていた二人の間の変化。

 そして、甲板でも──細川の葉月を見る目が変わってきてる気がした。
 あんなにガンガンと怒鳴り飛ばしていたし、葉月が何か口答えや反論をしようものなら、もの凄い雷で彼女を震え上がらせ制してきたのが日常だったのに。
 それが、葉月は必死で気が付いていないようだが、細川が葉月を眺めて、小さく頷いている姿が目に付くようになった気がする。
 そして雷将軍は、今はとても静かな仙人のように隼人には見える。
 彼が何処か力を緩めた気がするのだ。
 それは『手加減』と言う意味ではなく、そう彼も『役目が終わった』と言ったような悟りみたいな物を……隼人は感じずにはいられない。

 そして、そんな様々な人間関係のバランスが変化している中──最後は『この俺』だ。

 その後、隼人は多くは語ろうとせずに、デイブに挨拶をしてカフェテリアを出た。
 大佐嬢の許可無しに行動を起こした事に、多少は彼女の反応を気にはしていたのは確かだ。
 いくらなんでも、今日、隼人がやった事は慎重に欠く……と、自分でも思うし、彼女も思っただろう。
 そんなの『今までの俺らしくない』し、彼女なら『隼人さんらしくない』と驚き戸惑っていると思った。
 でも、今、さらに向かう気になったのは、デイブが教えてくれた彼女の姿に驚かされたからだ。
 『私、送りだそうと思っています』──と、笑顔で言い切ってくれていたなんて……。

 隼人の足は速まる。
 向かうは、ウサギさんの隠れ家──陸グウランドの芝土手だ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 真夏の直射日光は甲板でも散々浴びていて、この時期になると隼人の腕は真っ黒になる。
 甲板を降りて陸に戻っても、そんな炎天下の中で肌を無防備にして出歩いたとて、今更痛くも何ともない──はずなのだが、やはり暑いし、日差しは眩しい。
 一歩、外に出れば、訓練後にせっかくシャワーで汗を流したのに、再びじんわりと汗ばんでしまう。

(まったく……。こんな炎天下の中、女が外で一人ランチとは)

 隼人はあまりの暑さと日差しに、空に手をかざしながら『黒ウサギになるぞ』と、ぼやいた。
 光を弾くように艶やかで、手入れが行き届いている白くて柔らかい肌が、台無しになるだろう……と、そこでふと彼女の肌の感触に思い馳せた自分に対し、隼人は『日中だ』と一人慌てて頭を振るい、煩悩を追い払おうとする。
 そして、黙々と棟舎の列から外れた場所にある海岸沿いに広がっている『陸訓練グラウンド』に向かうのだ。

 これは『久し振りに起きた彼女の行動』ではなかった。
 特に最近ではないだろうか?
 今までは『ちょっとした避難所』みたいにして葉月がここにフラリと姿を消す事はあったが、最近は『頻繁』かもしれなかった。
 それは春から少しずつ、彼女が小一時間程、行方不明になる事があったのだ。
 その時の『テッドとテリー、柏木』と言った後輩達の慌てよう……。

『ああ、あそこじゃないか?』

 隼人がふと思い出してそういうと、彼等は切羽詰まったように『何処だ』と隼人に詰め寄ってくる。
 沢山の差し迫っている仕事が机に残っていると言うのに、『ちょっと席を外す』となんて事ない様子で、大佐嬢がフラリといなくなったものだから、慣れていない後輩達には、たまったもんじゃないらしい。

『まったく、葉月は変わらねーな。なんかアイツが嫌がる事でもあったのか?』

 達也も同じく落ち着きつつも、呆れた溜め息。
 でも、後輩達は『なにもなかったはず』と、首を振る。

『一時間もすれば帰ってくるよ』
『ああ、澤村中佐の言う通りだ。放っておけ。邪魔するとこっちが損する』

 それでも彼等が不安そうだったので『では、試しに迎えに行ってみたらどうか』と、達也と一緒に勧めてみた。
 後輩達は不安を振り払うように一目散に『大佐嬢捕獲』の為に、陸グラウンドに直行するのだ。

『なに。二人とも私があそこにいると分かっていて、教えちゃったの? すんごい叱られたわよ、テッドに!』

 後輩達に捕獲され、渋々ながら大佐室に葉月が帰ってくる。

『そりゃ、勤務中に“さぼり”をすれば、怒られるわ』

 達也の呆れた顔に、隼人はただ知らぬふりを決めている。

『さぼりじゃないって、言ってよ』
『あー? またどうせ、俺達にはわかりゃしない妄想をしていたんだろう?』
『そうよ。いいじゃない、息詰まるのよ。机にばかりかじりついていて。コックピットで発散することも、もうないしね!』
『はー? なんですの、それ。命がけパイロットさんでなくなると、そういうお時間も必要なわけね? あら、大変です事』
『なによ……! 達也のその女言葉、むかつくからやめてよね!』
『あら、お嬢様には効果テキメンですわね〜』
『やめてよっ』

 いつもの幼なじみ風な同期生の、延々とした言い合いにも隼人は知らぬふりだ。
 達也の嫌味たっぷりの『説教』に、葉月がむくれながら口答えするのもいつもの光景。

『……ま、そのうち。アイツ等もお前の行動に慣れてくるさ。そこでお前がスイッチの切り替えをしていたり、沢山の事を静かに整理したりしているってね』
『……うん、まぁ。確かに、ぼーっとしているだけなんだけど』

 最後には理解を示した達也に、葉月も今度はちょっと申し訳なさそうにして素直に認めている。
 そして、会話には参加はしないがそこで隼人も二人の顔を見る。
 それぞれの目と合い、その時に三人が一緒になった感覚になれる。

 そいういえば、フランス部隊に来ていた時も、葉月はフラリと裏庭に出向いては、一人で先々の見通しを立てているような事をしていたな。と思い出す。
 特に……お転婆に木登りをして枝でくつろいでいた彼女が、隼人を『引き抜いて側近にする』と言ったのを聞いてしまった時の事は思い出深い。

 そんな『習性』がある大佐嬢が、夏になれば暑いからそうは出かけなくなるだろう──と思ったら大間違い。
 デスクワークに行き詰まると、手洗いに行くような素振りでふらっと姿を消す。
 テッドが何度か迎えに行っていたが、彼も夏になって暫くすると、呆れた溜め息をこぼし迎えに行かなくなった。

『もう、また……』

 書類が散らばり雑然としている大佐席は、またもや『主なし』。
 それを眺めるテッドの諦めの溜め息。
 そうして彼も知らぬふりになり、小一時間ぐらいなら放っているし、葉月もそれ以上長く行方不明の不在にする事もない。

『大佐、携帯電話だけは絶対に持っていて下さいね! 連絡がつかない状態になるなら禁止ですからね、禁止!』
『分かっているわよ。テッドたら……もう』

 近頃、大佐嬢の一番の『お目付』はテッドになったようだ。
 彼が一番、大佐嬢に小言を言う。
 まるで『いつかの俺みたいだ』と隼人は思ってしまったぐらい。
 そんなテッドが『中佐方も、だいぶ振り回されたんでしょうね』と言うから、隼人と達也は揃って笑いながら『勿論』と言ってやるのだ。

 そして、今日も誰にも告げずに姿を消したなら……。

 隼人は棟舎の群衆から土地が開けた場所に来ていた。
 金網を張り巡らせている土のグラウンド。ネットを張っている球技用のグラウンドと、大きなグラウンドは二つある。
 その二つの土地を分け隔てているのは、まるで河原にあるような『芝の土手道』だった。
 暫くすると……見えてくる。
 土手の芝の上に、ポツンと白い人の姿だ。
 一本立ちの木陰、そこに座っている女性。

 近づくと、手に軽食のサンドを持ち頬張りながら、何かを読んでいるようだ。
 そっとその土手の上に向かい、そこで彼女を見下ろした。

 葉の音が夏の風にさざめく木陰で彼女が眺めているのは、今朝、達也が彼女に提出した書類だった。
 彼女のつむじが見える。
 黒い肩章がついている夏のシャツ。
 ボタンをいくつか外して広がっている襟が、木陰を通り抜けていくそよ風に揺れている。
 そして、木漏れ日にキラリと輝く柔らかい栗毛もそよいでいる……。
 隼人は暫く……そんなふうにくつろいでいる彼女を眺めていたのだが。

「なに? お迎え? 今は昼休み中よ」

 流石、声をかけずとも気配は感じ取っていたようだ。
 でも……ひとつ勘違いしている。

「その昼休みももうすぐ終わるだろ。のんびりしていると、またテッドがやってくるぞ」
「! ……隼人さん」

 隼人の声と知って、葉月が振り返った。
 こうして隼人自ら、ここに彼女を探しに来たのは久し振りのことだから、彼女も驚いたのだろう?

「珍しいじゃないか。昼休みにここなんて」
「うん、そうね。久し振り」

 隼人はそのまま土手を降り、彼女の隣に腰をかけた。
 グラウンドにも燃えるような蜃気楼が揺らめいているのに、木陰に入った途端にすうっとした感触……そよ風が気持ちが良く、彼女がやってきてしまった気持ちも頷けた気がした。

「……大佐室じゃ、ゆっくりできないか」
「そういうわけじゃないけど。ちょっとした気分転換」
「すこしだけなら、いいかもな? 特にお前の場合はね」
「テッドには怒られるけれどね。テリーと柏木君はとっても困った顔で来るわ」
「でも、それも最近では見放されているぞ。呆れた大佐嬢だと」

 すると葉月が明るく『あはは』と笑い飛ばした。

「やっと諦めてくれたって事? ああ、せいせい」
「なにいっているんだよ。あまり後輩達に手間かけさせるなよ」

 少しばかり目を吊り上げるように睨むと、葉月は『はぁい』と返事をしたが、ぶすっとした顔に。
 なんだか……ちょっぴり懐かしい気さえした時。

「なんだか。こんな感じ、久し振りね」

 彼女も同じ事を感じたのか、むくれた顔からふっと大人びた笑顔をそっとこぼし、隼人に微笑みかけてきた。

「ああ、そうだな」

 そして、隼人もそよ風の中……目を閉じて微笑んだ。

 彼女のなにもかもに触れなくなって、随分と経つ。
 心の中では心配や不安はあれど、隼人は遠くで見守る姿勢をするようになっていたから。
 今、大佐室の中では彼女の身の回りの事は後輩達がするようになり、その指示も海野中佐が取り仕切っていて万全だ。
 事務室の中ではジョイが取り仕切り、外勤訓練では山中とワグナー少佐で順調に動いている。
 空部隊も、『総監代理』とまでなった大佐嬢がいれば、沢山の人手を使って動かす事が出来るし、既に『中隊枠』を越え彼女は先輩と組んだ大枠で動き始めている。
 そうした彼女と共の二年間──空軍管理長をさせてもらった隼人には、そんな彼女との『基礎固め』を終えられた気がしているのだ。

 彼女を突き放した男が見たこの一年は、そんな結果をもたらしている様に感じるのだ。
 だから──彼女が『小言を言われたのは久し振り』という言葉にも、隼人は小さく頷いてしまう。

「今日の訓練での俺なんだけどな……」

 デイブから彼女の気持ちを聞いてしまっていたが、隼人は無断でやった事に関しては、どんな気持ちを持っているかは『恋人』には告げておこうと思う。
 前のように、言わなくても『俺達は通じ合っている』なんて、そんな曖昧な過信は、もうやめたい。
 今度はちゃんと通じる事を、しっかりと確かめたいのだ。
 だから、彼女の方を向いて大きく息を吸い込んだのだが……。

「有り難う」
「は?」
「二年……一緒にやってくれて有り難う。隼人さん無しでは絶対に出来なかった事ばかりよ」
「そりゃ……俺もだよ」

 不意を食らってしまい、葉月の笑顔に気圧された隼人は、言いたい事が喉の奥に転がり落ちていったような感覚。

「前から思っていたのよね。でも、私は自分の心の中だけで精一杯の狡い女だったから、知らぬふりをしてしまっていたのかもしれないわ」
「……知っていて、狡い? 何の事だよ?」
「その時は、そこまで知ろうとしなかったのかもしれないけど。今思えば、そんな自分に気が付きたくないから『私は気が付いていないのだ』と思い込ませていたのかな? って。今だから、分かるというとすごい言い訳になりそうよ」

 少し強く吹き始めた潮風の中で、葉月が伸びた栗毛をかきあげながら、ふと神妙な真顔で俯いた。
 隼人には、彼女が何を言いたいのか分からなくて、そのまま黙ってみているだけ。
 そんな彼女が笑顔で、一言、呟いた。

「貴方はやっぱり『澤村の男』なのだと……」
「!」
「知っていたというか、不思議に思っていたの。林側の部屋、隼人さんの部屋の机には、仕事には関係のない『工学書』ばかりが山積みにされていて、貴方はそれを寝る前に、日替わりで何冊か同時に読んでいる。私の横で……私が寝るまで。そして寝た後もきっと、夜中まで仕事と併せていつまでも触れているの。貴方のノートパソコンにはきっと『趣味』では終わらせられない『研究』めいた物が、蓄積されているんだわ。貴方が学んだ知識が……」

 隼人は驚いた。
 あの頃の葉月が、生きる事や側にある事に無関心で、何を考えているか解らせてくれなくて、ただなんとなく生きているように見えた彼女が、そうして『隼人がどんな生活をしているか』を、ちゃんと見ていてくれたことにだ……!

「あれだけ好んで学んでいるのに、どうして『造る』と言う欲求に発展しないのかしら? と。貴方のお父様も和人君も湯浅の伯父様も、あんなに造る事に情熱を傾けているのに……」
「それは……」

 『俺が自分から、あの家を捨てたからだよ』と、隼人は言おうとしたのだが、その言葉を飲み込んでしまった。

 元はあの家を継ぐだの継がないだの、果てには『帰ってこい、帰らない』という家族との意地張りになる内に、隼人は自分の中で湧き起こる本能を封印したのは……否定出来ない。
 そして、彼女の言う通りに、日常の生活に『欲求している本能』は、封印してもそこらかしこに現れていたのだ。
 自分は自覚せずとも、『一緒に日常を暮らしていた人間』には、ちゃんと見えていたのだと……。

「本当は『工学科』に行きたかったんじゃないの? 随分前に」
「……」

 隼人は黙る。
 いつだったかその『工学科』に異動が出来そうなチャンスがあった。
 しかし──葉月には語ってはいないが、そこには『周りに迷惑がかかる、やっかいな元恋人』がいたので、諦めた……のだ。と、言いたいが、今となってもそれはその彼女を体良く理由にした言い訳であり、本来の原因は己を隠す為の逃げ道にしていたかもしれない。

「それとも。そんな気持ちはあれど『機械に触れる現場』にまだいたかったのかは、私には分からないけれど」
「そうだな。どっちもだな……」
「それはフランスにいる頃から?」
「ああ、知っているだろう? あの頃の煮え切らないどっちつかずの俺の事を……。どっちにも行けずに、なのに甘んじていただろう?」
「でも、今の隼人さんは……もう、我が道を走り始めているって事ね」
「そうだな。急にそんな気になれた。だからって工学科に行きたいってわけでもないんだけどな」
「でも、どんな方向であれ、私は賛成よ。行きたい方に行って欲しい。今度こそ、躊躇わずに。周りにいる誰かの為に身を退くとか、諦めるとかじゃない貴方になって、貪欲に行って欲しいの」
「有り難う、葉月……。有り難う」

 隼人は、自分の本当の姿を暴かれているような気持ちになりつつも、葉月に降参するように小さく微笑んだ。
 それが隼人の『俺は行く』だった。
 彼女は寂しそうな顔を一時したが、すぐに煌めく笑顔を見せてくる。
 もう『甲板での気持ち』を告げなくても、こんなに俺の事を見ていてくれた彼女を知った今は、それ以上は言わずとも『通じた』と実感する事が出来た。
 だけれど、そんな彼女にまだ言っておきたい事がある。

「お前はここまで連れてきてくれた『風』だった。感謝している」
「貴方を散々、振り回して、傷つけたのに?」
「その話は別じゃないか。お前との出会い無しでは……今の俺はないぞ。出会っただけじゃないだろう? お前は今日まで、こんなに充実感ある毎日を俺に与えてくれたじゃないか。感謝しているんだ、嘘じゃない」

 それでも、隼人のその『良き出会い』という結論にしようとしている言葉にも、葉月は受け難そうにして顔を背けてしまっている。
 開いているシャツの襟の間から見える『クロスとリング』のネックレスを、葉月がぎゅっと握りしめたのを隼人は見る。
 そんな『罪の意識』に出会ったのだろう、彼女なりの『懺悔』の姿。
 葉月がそのリングを肌身離さず持っているのを知ったのはつい最近のことなれど、それでもその短期間に、もう何度その些細な仕草を見たことだろうか?
 どんなに隼人が『やり直す』と言っても、『終わったんだ』と言っても……彼女はその仕草をやめない。
 だからといって、隼人が『やめろ』と言っても、この女はやめない人間だとも分かっている。
 それでも──と、この日の隼人は拳に力を込めて、彼女に手を伸ばした。

「もう、そういう事を俺の目の前でするのは、やめてくれないか!」
「な、なに……!?」

 胸元のネックレスを強く握りしめる彼女の手を、隼人は力ずくで解いた。
 その時『プツ!』という音と共に、真夏の空にキラリと銀色の光が舞った。

「私の……!」

 葉月が慌てて立ち上がり、光が舞い降りた場所まで駆けていく! そして我を忘れたように、芝をかき分ける必死な姿……!
 その彼女のいつにない焦りように、隼人は唖然として眺めているだけになってしまったのだが。
 すぐに見つかったようで、葉月はそれを握りしめると、ほうっと胸を撫で下ろしている。

「いきなり、なにするのよ! 切れちゃったじゃない!!」
「……謝らない。正直に言うと『目障り』なんだよ!」
「……! 目障り?」

 隼人も後先考えずに、叫んでしまったのだが、何故かこの日は『これでいい』と言う強い意志が働いていた。
 そして、葉月の傷ついたような顔。
 『償いの気持ち』と『大切にしている愛の象徴』を、否定された気になったのだろう。
 それでも隼人は『こうしたかった』と言う、確固たる表情を彼女の前で崩す事はしなかった。

「もう、うんざりなんだよ。私の罪とか、懺悔とか! 俺がまるでいつまで経ってもお前を許さずに恨みがましくしているみたいで、嫌なんだよ!」
「そ、そんなつもりじゃ……」

 いつも大人らしく対処していたと思う……。
 目の前の『マイナス十歳のウサギ』と思っていた彼女には、兄貴の気持ちで優しく諭してきたと思う。
 なのに、隼人はそのまんま腹にある事をぶちまけていた。
 実際に、自分でも驚きつつ──でも! 今度からは『もっと本当の俺を見せていこう』と言う気持ちが、ずっとまとわりついていて、ついに高まっていたのだと思う。
 そうして、さて? 目の前のしおらしい顔で戸惑っている彼女はどう受け止めてくれるか? そんな所は以前同様に、妙に冷静に見極めようとしている自分がいる。
 彼女なら、感情的になれば『なによ!』と言い返してきそうなのだが、達也とはそれが変わらずに出来ても、今の葉月は隼人に負い目があるから、途端にしおらしくなって、言いたい事も言えなさそうにして引っ込んでしまう傾向があるのを、隼人は知っている。
 そしてそんなふうに『遠慮』をするようになってしまった彼女にも腹立たしく思った事は、何度もある。
 なのに……何度もあるのに『もう、そんな葉月でも構わない』と、彼女の有様に無関心を決めた時もあった。

 でも、隼人の気持ちはもう決まっている。
 『過去』は終わったのだと──!
 それなら、彼女には前みたいにムキになって向かって来て欲しい……!
 のだが、やっぱり目の前で彼女はしおらしく俯いて、隼人に文句も言い返してこない。
 鎖が切れてしまったネックレスを握りしめたまま、黙り込んで俯いているだけだ。

 最悪だ──と、隼人は頬をひきつらせる。
 本心でぶつかったのに、最悪に重い空気が二人の間にのしかかってしまった。
 なんだか、またもや腹立たしくなった。が、その時……葉月が小声で何かを呟いていた。
 隼人が『なんだよ?』と、冷静に戻って耳を傾けると──。

「罪が解けても、私には大切な物だって言ったでしょ! 私が首に付けているのを最初は喜んでくれていたのに……! やっぱり最近、気に入らない顔をして目を逸らしている気がしていたのは間違いなかったって事ね!?」

 怒った声に燃える眼差しで、隼人を睨んでいる……!
 内心、隼人は『そうだ、それだ、それだ!』と、一人勝手に煽っていた。
 期待通りになってくれて、頬が緩むのを隼人は必死に堪えた。
 だが、感情を荒立てたはずの葉月の顔が急に泣き顔に崩れてしまい、隼人はどきっとしてしまい、頬の緩みはそのまま固まる。
 そんな弱々しい顔になってしまった葉月が囁く……。

「もし、隼人さんが『これからだから』と思って、新しいリングをくれると言っても、私はこっちを大事にする」
「……!」
「結婚まで約束した過去の幸せにこだわっている訳でもないし、罪を忘れない為でもないわ。私がこのリングを握りしめて思うのは、貴方が『餞だ』と言って握らせてくれたあの日よ! 私の為にありったけの力を振り絞ってくれた『貴方の全力』だったから、これをずっと持っていたいの! それだけは無駄じゃなかったと、私だけでも忘れたくないの! 誰がどんな事を言っても、私だけは否定したくないの!!」
「葉月……」

 目尻に涙を光らせてはいるが、確かに隼人の期待通りに、彼女は感情を露わにしている……!
 そんな葉月がさらに叫んだ一言が……!

「私が死んだら、棺には私と一緒にこのリングを入れて!」
「な、なんだって!?」

 生きる事に喜びを感じ始めている彼女が急に『死』を平気で口にしたので、隼人の身体に雷が落ちた気分になるほど、驚いた。
 それでも、彼女は真剣だ。

「……それほどに、私が持っていたい物なの。これだけは、絶対に手放さない……!」

 芝に跪いて、ちぎれた鎖を握りしめている葉月の声は、必死だった。
 そんなにまでして、隼人が言葉を刻んで彼女の為に握らせ手放したはずの『愛』を握りしめているその姿に、隼人は茫然とするしかなかった。

 「そこまで……」

 ……嬉しかった。
 時には『俺は間違っていた』とか『もっと他の方法があった』とか、葉月を手放してしまった事を何度も後悔した。
 隼人にとってもそうだった。
 あの銀色のリングも、そのリングに刻んだ言葉も、あの時彼女を愛し抜いていた『俺の情熱、全て』を集結させた物だ。
 だが、彼女となにもかもが離れてしまってからは、何処かでそんな『真っ直ぐな気持ち』を疑うようになった。
 『勇気ある前進』も、『共にある前進』も、そして『愛する心』も──力を入れる気力が湧かなくなった。

 だけれど目の前の彼女は、そんな隼人のあの頃までの『情熱の全て』を『それは私の命に値する』と言ってくれた気がしたのだ。
 彼女は『死』ととんでもない言葉を選んでいたが、隼人にはそれが『自分の命』と一緒に考えてくれた表現だったと思う事が出来たのだ。

 彼女が泣いている。
 ちぎれた鎖を握りしめて、泣いている。

 隼人はそこに歩み寄って、彼女の側に跪く。
 そして、そっと肩を撫でると、葉月がそっと顔をあげた。

「お前……」
「……隼人さん」

 幾筋か流れた涙の跡を、隼人は親指で拭ってやる。
 それから、直ぐ! そんな彼女の両肩をグッと胸の中に力強く抱き込んだ。
 ここが何処だなんて、今はもう関係なく、彼女の骨が砕けるのではないかと言うぐらいに力一杯に抱き寄せた。

「……馬鹿野郎! 『死ぬ』なんて縁起でもないこと、二度と口走るな!」
「だって……」
「お前が言うと、本当にそうなりそうで、冗談にだって聞こえないんだよ!」

 海岸からの潮風が、急にザザッと芝土手を駆け上がるように吹きつけ、重なる二人の周りを通りすがっていく。

 そして隼人は、すっかり力を緩めて身体の全てを預けてくれてる葉月を離した。
 再び、二人並んで座りこんだが、今度は彼女の肩に腕をかけたまま、また胸元にぎゅっと引き寄せる。
 直ぐ側に、葉月の顔。
 彼女が訝しそうに見上げたその顔は大佐嬢ではなく、以前のように無防備な時に見せてくれた愛らしい女の子の顔になっていた。
 そんな顔をしている彼女の頬と隼人の頬は今にも触れ合いそうで、そこの僅かな隙間で二人の視線は絡み合う。
 彼女が、それでもしっかり握りしめている拳を隼人は手にとり、銀の光をまとう鎖が揺れるその手をそっと開かせようと指を入れる。
 今度の葉月は、隼人のその手を見つめながら、抵抗無く、すんなりと開いてくれた。

 そこにちぎれた銀の鎖が揺れ、手の平には彼女が命とまで例えてくれた銀のリングとクロス。

「俺だけじゃないな。このクロスはフロリダのお父さんとお母さんがお前の誕生日に贈ってくれた物。それに対しても同じ思いをかけていただろう?」
「……う、うん」
「……ほら、鎖は切れてしまったよ」
「え?」

 葉月がまた、そっと隼人の顔を見上げてくる。
 涙の跡は消え、心を燃やして気持ちを吐露した後の彼女の頬は、薔薇色に染まっていた。
 そして、その気持ちを告げてくれた唇は、真っ赤に照り輝いていて、今にも重ねたくなったが、隼人は彼女に微笑みかける。

「……罪の輪は切れた。そう思ってくれるか?」
「!」
「俺の愛だと言ってくれるなら、お前がこの前俺に言ってくれたように『印』のつもりでつけてくれ。もう懺悔をするような顔で持っていて欲しくない」
「……ごめんなさい。勿論、さっき言った気持ちに嘘はないわ。でも、確かに……貴方が言うように、懺悔を忘れたくなくてつけている気持ちもあったわ」
「俺への懺悔はもう必要ないと、ここで言い切っておく。そして、近いうちにお父さんとお母さんにも、許してもらえる。必ず……!」

 もう一度、彼女の肩を抱き寄せる。
 すると、彼女は隼人の胸に頬を押しつけ──今までにない以上に、泣き始めてしまった。

 彼女は本当にそのリングとクロスを握りしめたまま、離さない。
 本当なら、彼女の指にそれをつけてあげたいのだが……。
 隼人の素直な今の気持ちは『まだ、出来ない』だった。
 あの時決めた『結婚したい気持ち』以上の物にならない限りは、その指輪を安易に彼女の指につけるつもりはない。
 『結婚したい』じゃなく、『結婚する』になるまでは。

 それには今の隼人は走り始めたばかりで、『まだ自信がない』が本心だ。
 この気持ちは、彼女がこのリングを首に付けていると知った晩にも告げているのだが……。
 でも──あの晩の彼女の言葉以上に、『棺に入れて欲しい』とまで彼女が言ってくれた言葉の感動は大きかった。
 そして、感動とは別に安堵もしている。今の彼女には左薬指に印を付けるなどという意味は、隼人と同様に必要とはしていないのだと。
 この前、彼女が『お返しの印』でくちづけてくれた左薬指を隼人は見下ろしてみる。
 これでお互いに『形のない印』、でも『一番の印』を与え合い、持つ事が出来た気がした。

 それでも……隼人は、ちょっと一息ついて、泣き崩れている葉月の耳元にそっと囁いた。

「あのさ……。今度、俺と泊まりで出かけないか?」

 すすり泣いていた葉月の声が、ふと止まり……『きょとん』とした顔を向けてきた。
 それもそうだろう? 仕事中心で日々を過ごしている二人には『まともなデート』となると縁遠い。
 しかも、葉月も執着していなかったとは言え、彼女がもし『まともなデートがしたい』という女性になっても、隼人の方が無関心度は高いと言い切れる。
 なのに……『俺からそんな提案』をしたのだ。
 隼人はばつが悪くなり、頬を染めながら彼女から顔を逸らしてしまっていた。

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