-- A to Z;ero -- * 初夏の雨 *

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5.幸せ者の代償

『家を出て捨てていったと同じよ。それぐらいの覚悟をしての事だったのでしょう? もう、帰ってこなくて良いわ』
『ママ……』

 ハッと目覚める。

 目の前は薄暗く、そして近頃の見覚えある風景。
 官舎の低い天井。
 夜灯りに青く浮かぶ彼の部屋。

 隣から、聞き慣れた寝息。
 葉月はすっかり肩を超した栗毛をかきあげながら、おもむろに起きあがる。

(また……寝てしまったのだわ)

 いつもこのパターンに陥る時、いつベッドに横になったのか……? おぼろげな記憶はあっても、何故、起きられなかったのか不思議に思ってしまうのだ。
 カッターシャツのボタンが開いている。
 首元が楽になるように、彼が開けてくれたのだろう。
 いつもそうだ。
 その開いた襟元を掴んで、葉月はベッドの縁に足を降ろして腰をかけた。

 一息……つく。
 肩越しに振り返ると、背を向けて眠っている彼がいる。
 いつもティシャツに、そしてボクサーパンツといった軽装。
 時間は……と、葉月は彼の机にある置き時計を覗いた。

 夜中の二時!
 いや、もう……驚かない。
 いつも彼の部屋で、穏やかな雰囲気で食事をさせてもらい、お腹一杯になってくつろいでいると、早いと十時か、のんびり居座っていると十一時に眠ってしまう。
 つまり……丘のマンションでいつも寝付く時間でもある。
 そこで一端、深く眠ってしまうようで……それで、いつも目が覚めるのは夜中の二時だったり、ひどい時は朝方の四時という時もあった。
 そんな時は決まって、隼人は隣で寝入っている。

 そして葉月は、それが何時であろうが朝までは居座らない。
 どちらにせよ、明日の為に一端は自宅に戻らないといけない状況ではある。
 まだ、この部屋に通っているだけで、着替えもなにも用意はしていない。
 まだ、そこまでやってはいけない気もしている。

 だから、もらった鍵で玄関にそっと鍵をかけて出て行く……。

 翌朝──彼の反応もあっさりしている。
 ただ『何時に帰ったんだ?』と聞かれて、正直に答えるだけ。
 彼は『そうか』と言うだけだ。
 だけど、葉月は『初めてやってしまった翌朝』だけ、隼人に聞いた事がある。
 『どうして起こしてくれなかったの? 寝かせてくれたの?』と──。
 すると、隼人はなんだか聞いて欲しくなかった事を聞かれたかのように、急に口ごもって、果てには葉月から視線を逸らしてしまった。
 葉月はそれを見て、ちょっとだけ眉をひそめた。

『……あの、迷惑なら』
『迷惑ならたたき起こして、追い出している』
『そ、そう……。なら、いいけれど』

 間髪入れずに『迷惑じゃない』と彼が強く言い放ったので、葉月はとりあえずホッとして、その日も隼人の部屋へと足を向けた。
 近頃はその繰り返し。
 まだ二十四時や夜中の一時に目覚めたなら、宵っ張りの隼人は起きているから、見送ってくれる。
 けれど、流石に二時には彼は寝ているのだ。
 葉月も一番眠たい時間帯、とってもくつろいだ後の睡眠なので、とてもすっきりした状態で立ち上がる。

 今から静かにこの官舎を車で離れ、そして丘のマンションに帰って、ゆったりとバスタイム。
 お肌の手入れだけは、怠らない。
 でも……近頃はこの部屋に通っているから、少し手抜きになっているけれど。

『女性はね。お洋服で直ぐに変身する事は出来るけれど、お肌だけは誤魔化せないのよ。お手入れしなさいね』

 それは祖母の言葉だったと思う。
 幼い頃に刷り込まれていたように思う。
 だからだろうか? 自分でお洋服を選ぶ楽しみを覚えたのは最近でも、お肌に関しては、ちょっとしたこだわりを持ち続けていた。
 香りが良い入浴剤を入れる習慣もその為なのだろう。
 風呂上がりには、オイルかミルク(乳液)を塗るようにしている。

 こんな夜中では、お手入れしても意味がない時間帯であるのは分かっているが、葉月の気が済まない。
 そこは気が済まない。
 最低、じっくりとお風呂に浸かって、身体をほぐす『アロマ』を楽しまないと──。

 綺麗なお祖母ちゃまとシャワーを浴びた後、とっても素敵な香りがするオイルを優しい手で塗ってもらった。
 お姉ちゃまもそうしていたし、そうしてもらった。
 そして──『ママ』も……。

 オレンジの香りがするパウダーをはたいてくれた、ママ。

「ママ……」

 葉月はふと寝起き特有の頭痛がして、こめかみを押さえた。

 それでも身を整え、すっかり伸びきった髪を手櫛で直して、立ち上がろうとした時だった。

「起きたのか?」
「!」

 肩越しに振り返ると、彼がモゾッと寝返りをうって、こちらを向いていた。

「起きていたの?」
「いや? 眠っていたけど、うとうとかな……。なんだか気配がしたもんで」
「起こしちゃったわね」
「いつも上手く出て行くウサギさんも、たまには失敗するんだな」

 眠そうにあくびをしながら、隼人が起きあがった。
 すっかり目が覚めたようだ。

 それでも葉月は立ち上がる。

「起こしてごめんなさい。帰るわ」

 この時間帯に隼人に出て行く所を見つかったのは初めてだった。
 何故か、葉月の心は急く。

「葉月」
「な、なに?」

 なのに、いつも引き留めない隼人が初めて引き留める。
 彼に手首を掴まれていた。
 まだ半身を起こしているだけの隼人が、手首を掴んだまま、ベッドの縁にやって来て立ち上がった。

「なに?」

 何故、こんなに帰ろうと胸が急き、そして、何故、こんなに脈が速くなり、身体が火照るのだろう?
 隼人の顔が直ぐ側にある。
 彼が夜灯りの中、すっかり醒ました目を煌めかせている。

「……ママ。いや……お母さんと何かあったのか?」
「え?」

 聞かれていたのだろうか?
 彼は起きていたのかも知れない?
 だから、誤魔化そうとしていた。

「小さい頃の夢をみちゃって……」
「それは幸せな夢か?」
「そうね。幸せな夢よ」

 違う……。

『たとえ、隼人君の所に戻っても、ママは許しません。ジュンちゃんにも、そう言っておきなさい!』

『俺がちゃんと説明しておく。安心しろ』

 だが、母がとても信頼している義兄でも、今回は突き放されたようだ。

 つまり──『勘当』されたのだ。
 それは、隼人は知らない。
 知るはずもない。

 勘当された事を知っている『親類達』には、絶対に黙っているようにお願いしていた。

 これ以上──隼人に心配はかけられないから。

 でも──こうして一緒にいると、やはり、様子から分かってしまうのだろうか?
 目の前の彼は葉月の淡々とした誤魔化しも通用しなかったのか、改めて問いただしてきた。

「気になっていた。去年の夏、やっと帰省する事が出来たのに──正月は鎌倉だったな……と」
「遠いじゃない。直行便があると言っても」
「そうだけど……」

 隼人を裏切っただけじゃない。
 流産をした事は母にとっても、かなりのショックだったようだ。
 それも──隼人を裏切った後に判った『妊娠、流産』
 今回、純一が初めて母にひどく責められているのは、その事も理由のひとつなのだろう。

 義兄と起こした事の後、とりあえずフロリダに帰った母に対して、純一は別れる前に、とても必死になって、説得しようとしていた。

『お兄ちゃま、もう……いいわ』
『いや、これは俺が』
『もう、そんな事をしないで、お兄ちゃま。私は私でやるって決めた。そして──この事も、自分でちゃんと解決させるわ』
『葉月……』

 それでも純一は、フロリダに連絡をしてくれたようだ。
 だが、ジュールから聞いた。

『登貴子様のお怒りは解けなかったようですね。ボスもとりつく島もなく、お電話を切られたそうです。なんでも──どうせなら、戻さずに、きっちりと最後まで葉月を連れ去れば良いのだと……』

 それを聞いて、葉月は純一と決めた『結論』により、全てを捨ててきたにもかかわらず、軍に戻るという選択は『許されない事』でもあったのだ──と、痛感した。
 母に『勘当』された。
 むしろ、父親である亮介の方が、『葉月。身体は大丈夫だったのか?』と……連絡はしてくれた。
 でも、葉月は答える。

『パパ……。私、ママが怒った気持ち、分かっているつもりよ』

 沢山の人に迷惑をかけた事。
 隼人という全てをかけてくれた男性を裏切った事。
 一緒に歩んできた仲間を捨てた事。

 なのに、戻ってきた事。
 皆が『おかえり』と出迎えてくれても、母はそこを許さない。

『どれだけ、自分が“幸せ者”である事か! 噛みしめなさい!!』

 今まで『自分はどれだけ不幸か』と思ってきた。
 そして、それは親にもぶつけてきた。
 『助けに来てくれなかった親』──それを一番、気にしていたのは母・登貴子だった。

 散々荒れた十代──その時、一番に隔たりがあったのは『父親』であり、葉月が一番彼のせいにして離れていった。
 亮介も男親故か、どうして良いか解らないまま、娘との隔たりを作ってしまった──と、言う感じだったと思う。
 しかし、葉月が両親に不信を抱き、心を閉ざそうとしていた中、母だけは、葉月が煙草を吸おうがなんだろうが、怒りはしても、注意はやめなくても、それでも、そっとそっと歩み寄ってきてくれた。
 それでも葉月は突っぱねてきたのだ。

 『今の私』は思う。
 非常に、親不孝な事をしていたのだと──。
 彼等にもどうにも出来ない事があるという事を、大人になった私には解る。
 ただ……あまりにも『子供』であった時は、親が自分を守ってくれると言う『全面的信頼』は守られて当たり前の事であり、それを外部からことごとく破壊された悔しさに痛さを、『信頼の約束』を守ってくれなかった彼等のせいにしか出来なかったのだ。

 自分がどれだけ『幸せ者』か……。
 勘当を言い渡した母のその言葉を、葉月は純一と別れてから、噛みしめている……。
 恋人にも、そして同僚達にも不義をしてしまった自分を責めた者はあまりいなかった。
 時折、影でそう言われているのだ……と言う空気は、肌で感じる事はあるが、必ず、何処かでもみ消されているようだ。

 誰が私を罰するのか。
 自分で罰するしかないではないか。

 誰も罰してくれない事も、ある意味に置いては、心苦しい事でもある。
 それが母が言っている『自分は幸せ者』と言う事なのだろう。
 どれだけ、皆に大切にしてもらい、『信頼』してもらっていた事か。
 『お嬢がいないとやっていけないよ』──と、必要とされている事の『幸せ』もだ。
 そして……どれだけ自分が愛されているか、という事も。
 昔なじみの兄達に、仕事で信頼を培ってきた仲間達……そして捨てた恋人『隼人』もしかり、俺が悪者と全てを背負ってくれようとした義兄に愛され、守られていた事も……。
 その『愛される幸せ』を、存分に彼等から降り注いでもらっておいて、葉月はそれが『ごく自然にいつのまにか発生した物』とか『彼等が自由に想ってくれているだけ』とばかりに、ただ受けるだけ。
 そのように粗末にして、彼等の愛に応えるべき生き方をしていなかったのだから。

 だから、あんなに彼の愛情を粗末にして切り捨てたのに。戻ってきても、隼人がまた手元に自分を引き寄せようとしている姿に、葉月は罪の意識に押しつぶされそうになる。
 どうして、こんなに私を許してくれるのか? と……。
 彼を慕っている女性達の眼差しは、とても痛かった。
 しかし、葉月はそれを受けるのも当然の事と覚悟もしていたし、やはり……心苦しく居づらい思いもしていた。

 誰にも言ってはいけない。
 言う事は、自分の罪から逃げる事になるだけ。
 ジュールもきっとそう言う。
 彼が言った通り、戻って罪を償うとは、こういう事でもあったのだ──と、葉月は思い、甘んじて受けているつもりだ。

「葉月……?」

 手首を掴んで離さない隼人の声で、葉月はハッと我に返る。
 彼が心底、心配してくれる時の眼をしている。
 だから、葉月はそっと微笑む。

「なんでもないわ。おやすみなさい……」
「あ、あ……」

 彼の唇にキスをする。
 罪だから近づいてはいけないなんて──それは葉月の勝手。
 彼が来て欲しいというから、行けばいいなんて──それも一つの言い訳に過ぎない。

 本当は『好き』
 本当は『愛している』
 選ばなくてはいけない時、切り捨ててしまった愛だけど。
 そうでなければ、一緒に、同じぐらいに愛していた。
 今だって……消えていない。
 一度捨てた物だから、潔く諦めろと言われるかもしれない。
 それでも、消えない気持ちは消えない。
 それに偽る事は、また……同じ事を繰り返すに違いない。

 私の真実は『愛はふたつ』
 どちらを選んでも、彼等に愛されるだけの自分でしかないから、どちらも選ばなかった。
 その分──彼等に愛された分、『生きよう』と思っただけ。

 もう、逃げない。
 罪、罪となるならば、今度は捨てたはずの愛を、再び愛する罪を背負おう。
 愛しているから、私の意志で貴方の所に行くのだ、居るのだ。
 そう決めたから──。

 本当は、燃える心を抑えている。
 私は『制御』が昔から得意だから、ぎゅっと胸の奥に隠している。
 今燃えても良い、燃え尽きても良い……でも、それは今、彼が望んでいない事。
 今、燃えさかってしまえば、私は彼を炎の中で焼き尽くしてしまう。
 それを、今……隼人が怖れているのを知っている。
 彼が私を怖れているのが……解るから、ずっと隠している。
 けれど、そのほんのちょっとの真実を、今……ここに。

 葉月はそれを心で強く唱えながら、隼人にくちづける。
 彼の頬に触れて、指先が彼の耳をなぞる。
 その狂おしい情熱を抑えている指先が、彼の黒髪の先まで撫でて……。

 言葉じゃない。
 本当の私の気持ちが、少しでも伝わりますように。
 そう思いながら、もう言葉では伝わらない事を、葉月は伝えようとする。

 しばらくして、葉月の口づけを受けていた彼の胸が、ホッとしたように緩んだのが分かる。
 そして、葉月の手首を掴んでいた力も緩まり、彼の手は安心したように落ちていった。

 葉月からキスしたせいか、隼人が少し茫然と唇を指先でさすっている。
 その内に出て行こうと、葉月は制服の上着を小脇に抱え、急ぎ足で玄関を目指した。

 小さな玄関に揃えて脱いである黒のパンプス。
 それを履こうとつま先を向けた時だった。

「俺の目は、誤魔化せない……いつまでも」
「!」

 急に腕を掴み上げられるようにして引き留められたので、葉月は驚いて振り向く。

「お前の事だ。きっと白状しないだろうな。いいだろう? 俺が自分で勝手に聞き出す、誰からでも」
「……それで? 聞き出してどうするの? もう……私の為に貴方の力を必要以上に」

 と、葉月がまたくどくどと、頑張りすぎる彼を止めようとしていると、そこを遮るように隼人が強く言い放つ。

「どうもしない。きっと『今の葉月』は言うだろう。『私が自分でする』と──俺は邪魔はしない。前みたいに必死に手助けはしない。お前が『助けて』と、声を張り上げるまで──」
「! 隼人……さん」

 葉月が心底、思っている事を……隼人がきっちりと言ってくれた。
 『今』──私が必死になって『やりたい事』を、側で見て、分かっていてくれた。
 それを知って、葉月は思わず、隼人を見つめて涙ぐんでいたようだ。

「……何もかも捨てる覚悟で出て行ったのだから、家にも帰ってくるなと。つまり『勘当』よ」
「そうだったのか」

 予想的中だったのだろう?
 隼人はひどく驚く様子もなく、かえって、胸の支えが取れたかのようにホッと胸を撫で下ろしていた。

「仕方がないな。お母さんの気持ち、存分に理解しているみたいだし、頑張るつもりなんだろう? いや、充分、頑張っている。そのうち、そんな葉月を見て、お母さんも許してくれるさ」
「うん。そう思っているわ」

 何故か涙は直ぐに止まり、葉月は彼に素直に微笑んでいた。
 隼人もそんな葉月を見て、微笑み返してくれる。

「大丈夫そうだな」
「うん……」

 もう一度、微笑む葉月。
 それを見た隼人が、もの凄く思い詰めたような顔で、葉月をジッと見つめているので、まだ何か言いたい事があるのだろうかと、首を傾げた。
 だが、掴んで離してくれないその腕を、彼に引っ張られる。
 そのまま靴を履く事は許されず、隼人の胸に引き込まれた。

「おやすみ。気をつけて」
「お、おやすみ……」

 耳元に寄せられた優しい口づけ。
 この頃、隼人はとても頑なに何かを拒絶している頑固そうな雰囲気を醸し出している事が多いのに、時には途端に、こんな風に……。
 それで充分、今はこれだけで、葉月の胸は狂おしい程に、密かに燃える。
 それをまたぎゅっと押さえこむように、耳たぶを強くつまんで──。
 でも、そのまま隼人を見つめてしまった。
 彼の黒く濡れたような瞳と視線が合う。
 彼もじっと葉月を見下ろして、その腕の囲いを離してはくれなかった。

「……」
「隼人さん……」

 解き放たれない腕の囲い。
 葉月を思い詰めたように見つめたままの漆黒の瞳。
 その腕に、力がこもったかと思うと、直ぐに緩む。
 なのに、また力がこもって……『引き寄せられる』と葉月も構えたのに、でも、また何かを躊躇うように力が抜ける。
 その繰り返しに葉月も気が付いた。

「帰るわ」

 葉月から、彼の腕を解く。
 隼人も『ああ』と力無く呟くと、葉月にされるまま腕の力を抜いてしまった。

「ここで、ヴァイオリンが弾けたらいいのに。官舎では近所迷惑よね。でも、今の私の音を貴方に聴かせたいわ」
「いつかな」
「そうね。いつかね……」

 それは『今は聴きたくない』という返事。
 葉月はちょっと胸に痛みを覚える。
 きっとヴァイオリンは、葉月と純一の間で輝く物──と、彼は思っているのだろう。

 余計な事を言った。
 葉月はそう思って、隼人の部屋を出る。

 そして、自分で彼の部屋の鍵をかける。
 まるで、彼の心を、葉月の手で閉ざしているかのように思えた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日も大佐室に入れば、脇目もふらず集中せねばならぬやるべき事が山のよう……。
 今日も黒い革椅子に座って、大佐嬢は書類ともモニターに並ぶ数値ともにらめっこ。

「そうか、解った。今度、本島に行く時に面会する」

 澤村中佐も、自分が受け持ったプロジェクトの進行を、少しずつでも日々進展させいている。

「はー。晃司の奴……新しい仕事を増やしやがって」

 彼がそんな独り言を呟きながら、走り書きしたメモを綺麗に書き直している。
 話し方で、『幼なじみ』と『仕事の連絡』をしているのは、葉月にも判っていた。
 いつもの事だから、葉月も聞き流した。

「さて、この企業も本腰いれてきたか。マクティアン大佐に報告しなくては。と、いうことなので、大佐嬢──工学科に行ってきます」
「いってらっしゃい」

 葉月も書類を書き込みながら、淡々と返答する。
 これだっていつもの事だ。
 そして、隼人もそんな葉月には慣れっこなので出て行く。

 大佐室での仕事関係は見事なまでに、『成立』していると言っても良い。

 隼人が出て行って直ぐに、テッドが入ってくる。

「失礼致します。大佐嬢、そろそろティータイムですよ。お茶を入れましょうか?」
「そうね。そうして」

 これも近頃の淡々とした風景で、葉月が黙々と机に向かっている中、テッドがキッチンにこもって、ミルクティーを作ってくれる。
 書類に向かっているその内に、心がほっと和む香りが漂ってくる。
 そこで集中力が切れた。
 葉月は、ペンを放って顔を上げて、背もたれにぐったりと力を抜いた。

「テッド。シアトルはどうだったの?」
「はい。大佐とはお話はしておりませんが、側近の方と」
「そう……」
「側近のお話では、トーマス大佐は『絶対、説得しろ』と命令を出しているから、頭を下げてでも受け入れてもらわないと困るとか」
「……『説得』? こちらがお願いして回っていたのに?」

 なんだか教官のその命令が妙で、葉月は眉間にシワを寄せる。
 なんとなく見透かされている様な気がして。
 すると、案の定、テッドが可笑しそうに笑い出した。

「いやー。さすが、御園大佐の『恩師』だなと痛感しました。トーマス大佐は『御園は気難しいから、断る、断るとチャンスを平気で無にするはず。それは教えた男としては、避けねばならない。彼女には、ちゃんと筋が通った“説得”が不可欠。心してかかれ』と言う命令が出ているとか……。解っていらっしゃるんですね。貴女の事!」
「ああ、そうね。きっとそうだわ」

 クスクスと笑うテッドに対し、葉月は憮然として素っ気ない返事。
 やはりトーマス教官には、読まれていたかと、溜め息もついた。

「私は……大佐嬢には『是非、お受けして欲しい』と進言を致します」
「解っているわ」
「! では、お受けするつもりで」
「……うん」
「大佐……」

 仕事では勿論OKと解っているのに、それでも何処か腰が退けている葉月の力無い返事に、テッドが何か気が付いた様子。

「あの……大佐。教官と何か?」
「ないわ。なんにもない」

 あるけれど……。
 彼には最初の『流産』を知られている。

『男には興味が絶対にないと思っていた……。それにお前みたいな若い子を……』
『……相手は親戚の兄です』
『そ、そうだったのか……』
『優しい人……。でも、死んでしまいました』
『早く元気におなり。訓練には、戻ってくるな? 待っている。また、お転婆なお前に戻って欲しいよ……』

「大佐?」
「ちょっと……出てくるわ。すぐに戻ってくるから、お茶は置いといて……」
「……かしこまりました」

 ぼんやりと思い出している所を、テッドに気付かれた。
 葉月はそれから逃げるように、外に出た。

 少しだけ、外の空気が吸いたい。
 ここの屋上で青空でも見て、海でも見れば、気持ちが落ち着くだろう。
 そう思って、足を向け、本部を出た所……。

「テリー! 待ってよ」
「戻りなさいよ。河上大尉に叱られるわよ」
「なあに! 今度は、河上大尉と手を組んで、私を阻止しようっていうの!?」
「阻止なんかじゃないわよ」
「そうでしょ! やっと取り返した本部の配属、しかも今度は経理じゃなくて、『補佐官並』で大佐室のアシスタントだものね! 他の誰にも譲れないって訳でしょ!」
「もう、いい加減にしてよ」

 葉月の目の前で、そんな二人が言い合っているのに鉢合わせた。
 解っていた。
 テリーが、吉田小夜とこうなってる事を、解っていた。
 そして、テリーがどうあしらうかと、すこし試していた部分もあるが……限界なのだろうか?
 それにテリーに対して、小夜がこうなる事も……テリーを『三年ぶり』に本部に呼び戻そうと決めた時に、葉月はある程度予想はしていたが、見事にビンゴ。
 隼人に想いを寄せていたのは……予想外だったが?

 なので、葉月は目の前の『不毛な会話』に、頭痛を覚えながら、割って入った。

「なにをしているの。それぞれの仕事に戻りなさい」

「大佐」
「!」

 テリーはほっとした顔になり、小夜はとても強ばった顔になった。

「申し訳ありません……では」
「……」

 テリーは、バインダーを抱えて、何処かに出かけようし、小夜はグッと黙っているだけだった。
 彼女が、葉月に不満を抱いている事も……そんな事は大佐ともなれば、多少の事は仕方がない事。
 上官など『全ての人間に慕われるべきもの』──なんてただの理想論、そんな事がある訳がない。
 上官は時には『悪者』にもならなければならない。
 決して、全てを丸く収められるだなんて事はない。
 何処かで慕われ、何処かで不満を囁かれている物なのだ。
 逆に『悪者』となり、部下達の怒りの矛先になる事で収まる事も多々あるだろうし、バランスが取れる事もあるのだ。
 『悪者』になる事を怖れているうちは、上官など、やりこなせない。
 だから、彼女のそんな反抗的で不満そうな態度──そんな事に、いちいち怒るのも気が小さい上官であり、または、時間の無駄。

 なので、葉月はただ溜め息をついて、そっと二人の女の子の側をすり抜けようとした。

「大佐! 言わせて下さい!」
「!?」
「小夜、やめなさいよ!」

 葉月に向かって、小夜がついに噛み付いてきた。

「大佐は、どうしてこのマイヤーさんを、大佐室の補佐に抜擢されたのですか? 本部を出て行った隊員ではありませんか!」

 なにか『勝算』があるかのような小夜の自信がありそうな発言。
 それがあるからこそ、彼女がついに葉月に堂々と向かっているのだろう。
 だが、葉月はそこも崩さず、大佐の顔で淡々と答える。

「通信科はただ外勤部署として離れてはいるけれど、同じ四中隊。ましてや、元本部員である上に、通信科の知識は空部隊の通信処理に置いても適応する。つまり、それは澤村の仕事をよりサポート出来る。それの判断に何か?」
「!」

 一向に表情に、柔らかさがうかがえない大佐の硬い表情と冷めた眼差し。
 それもあっただろうが、小夜にはこう聞こえただろう。
 『あなたでは、経理しかできない』と『テリーは本部員だけでなく、外勤職もこなせる』と──。
 だいたいにして、テリーを外部に送ったのは本来は『痛手』であった所、葉月は『いつかは絶対に返り咲きをさせる』と思い、彼女を辛いだろうが、きついだろうが、外の部署に送ったのだから、当然の『シナリオ』。
 テリーはものの見事に『成長』し、乗り越え、パワーアップをして帰ってきた。
 だから、大佐室に『呼び戻した』
 遠野がそうしようとしたように、彼女を『大佐室』に就けた。

 だから、余計に小夜は『テリーが帰ってきたのは正統な理由ではない』と思っているだろう。
 でも、葉月はそうは思っていない。
 テリーの苦労を思って、そこはきっぱりと言い放った。

 実際にそうだ。
 今のテリーは彼女より、出来る事が多い。
 『即戦力』なのだ。

 だが! 目の前の愛らしい彼女が、氷の大佐嬢に負けじと言い放った!

「私には遠野大佐のお気に入り同士、仲良し同士が手を組んで、『またもや』大好きな恋人を誰にも近づけないようにしているとしか思えません!!」
「!」

 流石の葉月も……その言い分には、ちょっと心を揺さぶられる。
 いや! まだだ!! それぐらいの事、テリーを呼び戻した時に『囁かれる』事ぐらい予想していた!

「小夜! いい加減にしないと、私が怒るわよ!!」
「テリー。やめなさい」

 テリーが本当に怒っていた。
 彼女が葉月の前に立ちはだかり、まるで、葉月をかばうかのように。
 いつも冷静沈着な彼女が、目に涙を浮かべているのを見て、葉月は心の波を鎮めた。
 だが、もう口火を切ってしまった小夜はやめない。

「それに、御園大佐は最低です。職場を捨てておいて、そして『恋人』を捨てておいて、何食わぬ顔で元に戻っているだなんて。人を裏切っておいて、何故! ここにいる事を許されているのですか!? 本当ならば、もう、捨てた恋人の前になど、戻る事なんて出来ないはずでは!? そう言う神経だから、女性なのに大佐が出来るのですか!? 何人もの男性を犠牲にして、それでのうのうとしているあなたの事が信じられません!!」
「!!」

 痛い所をすべて突かれた!
 流石の葉月も、今度は真っ白になりかける。

「小夜! 大佐に対して、なにを言うのよ!!」
「大佐!? 私は人間として言っているのよ!!」

 そうだ。大佐なんかじゃない。
 人として、言われるべき事を──イワレテイルノダ、ワタシ。

 葉月が茫然としてしまったのを見て、テリーが慌てたようで、小夜を阻止しようと噛み付いた。

「もう小夜。あなたには我慢出来ない! だいたいにして、遠野大佐との事は無実なのに、根も葉もない噂をたてたのは貴女達じゃないの! それがどれだけ亡き大佐に迷惑をかけたか解っていないでしょ!」
「あら。でも御園現大佐と遠野大佐の『不倫』は事実なんでしょう? 違うのですか? 大佐!」
「吉田さん」

 鉄壁の大佐嬢に、一矢報いたとばかりに堂々としている彼女の発言。
 しかし、葉月も腹をくくった!
 どれもこれも『真実』で、これも甘んじて受けるべき『私の姿』──本当の姿を、天が教えてくれているのだ──そう、思ったから!

「吉田さん。なんとでもおっしゃいなさい。私はそう言われても、結構。それで? あなたのお望みは? 澤村中佐のアシスタント?」

もう破れかぶれになった、その時だった。

「くだらない言い合いだな」

「澤村中佐!」
「は、隼人さん……」

 急に隼人が姿を現した。

 その途端に小夜が、ピキンと固まってしまったのだ。
 だが、葉月もテリーも、カッと熱くなっていた頭を冷やされたかのように、はたと我に返る。

 そして隼人はテリーに淡々と話しかける。

「テリー。その資料を至急に届けてくれと言っただろう。マクティアン大佐がお待ちなんだ」
「あ、も、申し訳ありません」
「遅いなと思って来てみれば、まったく……」

 次に隼人は小夜へと向いた。 
 彼女がビクッと俯いたのだが──。

「俺のアシスタントを募集するとしたら、第一条件は、通信科で一ヶ月の研修を受け、最低限の処理能力をつけてくる事」
「!」

 小夜が顔を上げて、隼人の眼差しを見つめていた。
 その可能性をほのめかされている事に驚いたようで……。
 でも、隼人の眼差しは容赦ない。

「ただし、何人もアシスタントはいらないので、大佐嬢の許可が下りれば……の話」
「……そ、そうですか」
「残念だけれど、俺の意見は、アシスタントは一人で充分」

 小夜の顔が青ざめる。
 今、その許可を下す上官を散々非難したばかりであり、テリー以外はいらないと言われたも同然──。
 そして、隼人は続ける。

「浮気者の大佐嬢、男を手玉にして思い通りの大佐嬢。だとしても、俺は彼女のお陰で今の立場にある、感謝している。だから、大佐嬢と仕事をしている。彼女と一緒に働きたい、役に立ちたいと思っている。恋愛は……まぁ、ご想像にお任せの、俺達だけのお話だ。俺もなんと思われようと構わない。彼女がなんて言われようが、それも知ったこっちゃない」
「……」

 小夜が黙り込む。

 最後に、隼人は葉月を見下ろした。

「お前らしくないな。なにを言われても、動じないはずなのに。お前『大佐』だろ。ここでは他のなにものでもない」
「そうね。そうだったわ」

 葉月も、そっと自分を取り戻し、いつもの調子で答える。
 ホッと一息ついて、なんとか落ち着いたのだが……小夜は隼人に言われた分、かなりのダメージで、傷ついた顔をしているのだ。

 なんだか葉月も後味悪い……。
 本当なら、これも『同世代の女同士』──大佐でなければ、本当にこれぐらいの後ろ指さされる事も、嫌味を言われる事も、あって当然の出来事だったのかもしれない。
 それに、葉月に対してここまで言い放ったパワーも凄いと、急に思った。
 このエネルギーが、恋が原動力でも、仕事に向けられるとしたら、この子はどんな可能性を秘めているのだろうか? と──。

「行こう。テリー」
「はい」

 隼人がテリーを連れて、去っていこうとしている。
 小夜はそのまま俯いていた。

 そして、葉月は──。

「あーあ、やんなっちゃう。本当に面倒くさい事」

 もう飽き飽きと言った風に、大声を張り上げたので、出かけようとしていた隼人もおろか、テリーも振り返り、小夜も顔を上げ、葉月を見た。

「もう、大佐が大佐がなんて通用するわけないんだわ。そうでしょ? 吉田さん。あなたはきっと、明日からこう言うわ。やっぱり澤村中佐は大佐が好きだからアシスタントにしてくれないってね」
「! し、失礼ですが、そ、そんな事……言いません!」

 急に構えが取れたかのような葉月のハッキリした言い分に、小夜は図星ではあったのか否定はしても慌てているようだ。
 隼人はなんだか、傍観しているように黙っている。
 彼が止めないから、葉月も続ける。
 だが、次に葉月は小夜を鋭く見据えた。

「大佐室のアシスタントは、生半可な気持ちでやられると困るのよ」
「!」

 淡々としている葉月の言い方に、そして平坦な表情から注がれる氷の眼差しには、本当に感情がない冷たい言葉に聞こえるだろう。
 だが、そうせねばならない。
 そして、彼女の眼差しが急に燃える。
 『私にだってチャンスの権利はあるはずでは!』──彼女の口が大きく開いて、力一杯、葉月に向かって言い放つだろう。
 そう葉月の頭に思い描かれ、その通りに、彼女の口が開きかける。
 そこを葉月は遮った。

「そして、澤村は、私以上に厳しいわよ。テリーなんていつも彼に叱られているわ。覚悟はある?」
「え!?」
「その代わり、澤村が『駄目だ』と判断したならば、『今回は』諦めて次のチャンスを待つ事。経理班に戻ってもらうわ」
「!?」

 小夜は喜ぶ、というよりも……『信じられない!』という驚きで、身体全体が固まった感じになっている。

「後で河上大尉にお話ししておきます。その後、大佐室へ呼ぶから、いらっしゃい」
「た、大佐……?」

 小夜は茫然としていたが。

「頑張りな、吉田さん」

 なんだか隼人は面白そうに笑っているではないか?
 葉月は妙に『高見見物』をされたようで、憮然とした。

 でも、隼人の目が最後には穏やかに、葉月を見ている。
 『そうでなくっちゃ。大佐嬢』──そう聞こえた気がした。

「それでは」

 なんだか、青空見物という気分ではなくなり、葉月は大佐室に戻った。

「おかえりなさい、大佐……大丈夫ですか? 先程、顔色が……」
「テッド……。明日から、アシスタント候補生がくるから宜しく」
「はい?」
「吉田さんよ」
「え!? なんですか? 急に!」
「私は、なんでも急なのよ。そろそろ慣れてよ」
「はぁ……そうですね」

 けれど、葉月は大佐席に座って……なんだか笑っていた。

「あーあ。本当に面倒くさい事ね──女って」
「……みたいですね。私にはとんと理解すること出来ません。でも安心しました。大佐は泥沼のドツボに足を突っ込む……“そうではなかった”ようで」
「そんな事はないわ。私も『やっぱり女ねー』と思ったわよ。でも……もう、どうでも良くなっちゃった。欲しいなら取りに来いってね」
「あはは。良い事で」

 葉月が間の抜けた溜め息をつくと、テッドが笑う。
 葉月も一緒になって笑っていた。

 さぁ──小池に一肌、脱いでもらうかと葉月は内線電話の受話器を手に取った。 

 

 その頃、工学科へと一緒に向かう隼人とテリーは……。

「なんだか面白くなさそうだな。テリー」
「なにがでしょうか?」

 急に気力を削がれたようなテリーを、隼人は見下ろしていた。

「吉田さんがアシスタントになれるかもしれない……それが嫌か?」
「チャンスは平等──彼女は自分の主張のまま、それを見事に手にしたまでです」
「その通りだな。けれどな、テリー。自分に自信を持って良いと思うよ。俺は……本当に助かっているし、テリーを頼りにしているからな。君を俺につけてくれた大佐嬢に感謝しているんだ。君が来てくれた事も……」
「中佐……」

 隼人がそっと彼女の肩を叩くと……いつも強気の彼女が急に、しおらしい眼差しで隼人を見上げた。
 それには、男としてはちょっとドキリとさせられた。
 俺ってこういう『ツボ』が弱いのか? と、なんだかそんな気にさせられる。

 しかし──と、隼人はそんなテリーを伴って、前に向き直る。

 先程の言い合いの一部分を聞きかじっただけだが……。

『遠野大佐との事は無実なのに、根も葉もない噂をたてたのは貴女達じゃないの!』

 普段は何事にも落ち着いているテリーが、あんなに自分をむき出しにして声を張り上げていた。
 いったい? 彼女になにがあった?
 葉月は、テリーをどうして隠していたのだろう?

(また、先輩の仕業か?)

 本当にあの人は、いったい何処まで、俺の行く道に『女難』を置いていってくれた事やら?
 隼人は一人、顔をしかめていた。

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