ある日の午後──もうすぐ『中休みのティータイム』に入れると思いめぐらせながら、テリーが本部を出ようとしていた時だった。
「テリー!」
「!」
その可愛らしい声を背で聞いて、テリーは身体を強ばらせる。
聞こえなかったふりをして、足早に、この大所帯である事務室を出たのだが……。
「待ってよ! 聞こえているんでしょう!?」
「小夜……」
白いシャツの袖をひっつかまえられる。
致し方なく立ち止まって、振り返ると……テリーよりずっと小柄で華奢な吉田小夜がいる。
彼女の顔は必死だ。
「あれから、澤村中佐からのお仕事が、まったく来ないけれど、どうして!?」
「河上大尉が言っていたでしょう」
「納得できないわ! だって、それは本当に澤村中佐が言った事なの!?」
「……」
『もう』と、テリーは心で呟いたが、顔は渋くなる。
つい顔に出てしまったものだから、小夜の方はそれに気が付いて、途端に燃え上がったようだ!
「ねぇ! テリーは通信科に異動して何年か経つのに、どういう『コネ』で大佐室の仕事に抜擢されたのよ! 『また、お気に入り作戦』!? 今度は、小池中佐に取り入ったってワケ!」
「どうとでも言ってよ」
本当なら『違うわ!』と突き返したいが、この彼女と言い合いをする事程『不毛』だと思わされる事は、他にはないと言っても良いぐらい。
もう分かると思うが、『自分に幸運が向いてこない訳についての思いこみ』は、天下一品である。
それに正直にいうと、テリーは彼女を密かに『天敵』にしていた。
何故なら……。
いや──もう、『過去の事』は言うまい。
それに彼女は、テリーが何故、通信科に異動したかなんて、考えた事もないだろう。
異動した理由が分かっているならば、彼女が『この私にお願いする』なんて、『厚かましい』お願いが出来るはずないのだ。
普通の人間なら、『厚かましい事』と認識して、それに臆するはずなのに。
彼女はまったくもって『頼めて当たり前』と思っているのだから。
こんな『人間』と、言い合いしたくない。
だから、テリーは黙っているだけだ。
それに『お気に入り作戦』とか言う汚名を、『未だに』平気で口にする彼女の神経が分からない。
正直なのか、裏表がないのか、ただ無邪気なのか。
だとしたら、正直も、裏表がない事も──『時には、まったく罪な事』と、テリーは彼女を見て思ってしまうのだ。
もう、『お気に入り作戦』で大佐室のアシスタントに抜擢されたという事でも良いだろう。
とりあえず、彼女の気を鎮めねばならない。
「河上大尉が言っていたでしょう。『ミスが多すぎる』と──。それは澤村中佐からのお言葉だったはずよ」
「私には、権利がないって事なの!?」
「……」
なんだかテリーの喉の奥で『ぐぅ』という鈍い唸りが音を立てたような気がする。
彼女の言い分に、言い返せない……ではなくて、『ああ、どうしてそう考えられるのかしら?』と言う、諦めのようなもの。
ああ、権利って、とっても便利な言葉だったのね。と、思った。
ミスをしても、それは直せばいいのだと彼女は言うだろうし、テリーもそう思うし、自分もそうして『現在の自分』があるのだから……。
誰だって、それを繰り返して成長していくものであり、それを一度したからとて『まったく望み無し、それで終わり』と言う事はないだろう。
小夜は、『私にも、テリーと同じ素質がある』と、言いたいのだろう。
『私の育つはずの素質』。それがあるない──その『ある』と言う保証などはないが、その『ない』と言う保証も否定する事もできない『将来性』。
それが彼女の言い分だが、仕事は『今現在の即戦力』を必要としていると分かっていないようだ。
だが、彼女に頼られているテリー……もとい『利用されているテリー』が、何を言っても、彼女は聞く耳を持たないだろう。
テリーが言う言葉で、彼女と会話が成立するのは──『考えてみる』と言って『本当に! 有り難う!!』──のみだ!
後の会話は、先程の『不毛な会話』にしかならないのだ。
だから、テリーは言ってみる。
「私の言っている事、信用が出来ないのでしょう? だったら、直接、澤村中佐に聞いてみればいいじゃない」
誰が聞いてもごもっともな提案だと、テリーは豪語することが出来る。
けれど……目の前の、雰囲気だけは楚々とした彼女は……。
「そ、そんな──滅多に言葉も交わせない上官なのに……」
「……」
澤村中佐の一言で、彼女は急にしんなりとした『か弱いお花さん』になってしまうのだから、なんだか鼻じろんでしまう。
それに、澤村中佐に直接聞けない訳もある。
彼が仕事に関しても、後輩の指導に関しても、男も女も関係なく、どれだけ厳しいかは、『本部員』の誰もが知っている。
彼がそこで『君はまったくなっていない』と言えば、彼女が今浮き足立って、ちょっとだけ見ている『夢』が終わってしまうのだ。
それも、自分から終わらす事になるのだ。
『ミスがあった』──それで充分、隼人は評価するだろう。
『待っている暇はない。今、出来る者にやらせる』──と。
彼女もそれは判っているから、自らは、行けないのだ。
他人がした事、判断した事と、転嫁を繰り返す彼女の『夢延ばし』
これに今、女性だけの経理班は、迷惑被っているのだ。
「だからね! テリー! もう、河上大尉を通さないで、あなたの力で……澤村中佐に……。あなた、『お気に入り』なんでしょ!!」
「!」
もう! 我慢限界!
どうせ『私は、本部員を辞退した女』──何も失うものなんかない!
また通信科に戻っても、こっちは全然、痛くないんだから!!
テリーの頭に完全に血が上った時だった。
「マイヤー。ちょっといいか」
「テッド……。いえ、ラングラー少佐……」
本部の入り口から、テッドが廊下に出てきた。
ヒンヤリとしている雰囲気の彼が現れて、小夜が固まった。
「御園大佐が言っていたシアトル部隊との件で、相談したい事がある」
「ええ、解ったわ」
「休憩前に悪いな」
「いいえ」
気のせいか、テッドが『休憩前』を強調して言い放ったように思えた。
「か、考えておいて──」
小夜がサッと身を翻し、テッドの横をすり抜け、本部事務室に戻っていく。
彼女が姿を消してすぐに、テリーの目の前にいる栗毛の彼が、腕を組みながら大きな溜め息をついた。
「まだ『相手』をしているのか? もうとっくに『片づいた』と思っていた」
「そのつもりだったけれど……」
「相手にしないままにしておけば、良かったんだ。余計な『夢』を見させすぎたな」
「手厳しいわね。でも、そうね……。その通りだわ」
テリーは言葉少なめに、そして何も触れて欲しくないように、テッドに対しても素っ気ない返答をする。
だが、彼は呆れた顔で、ちょっと笑っている。
彼とは一緒の時期に、小笠原にやってきた。
小笠原の四中隊本部員としての配属された時、二人とも新人で、日本の事はなにも解らない。
そんな中で、一緒に仕事を始めた『本部員』だった。
そして小夜も……彼女は、福岡の女子訓練校を卒業し、配属されてきた同期生だった。
「せっかく御園大佐が、呼び戻してくれたんだ。今度は下手な事で無駄にするなよ」
「大きなお世話よ」
「まぁ、いいや。来てくれよ」
「ええ」
入り口に戻って、本部室に入れば、彼の席はすぐそこ──フランク中佐の補佐席、その目の前だ。
そこは総合管理班の島になっていて、今はテッドが班長を務めている。
他の班員は、営業に出ているか、ティータイムに出かけているようで、島には誰もいなかった。
近頃は、かなり重要な仕事に携わるようになった為か、テッドのデスクは雑然としている。
どちらかというと、その隣の席になる『柏木雅明』のデスクの方が整然としている。
細やかな彼らしい……。
それに最近の彼らしく、小さなコップにさり気ないグリーンを活けていた。
「柏木、先にティータイムに入ってカフェに行ったんだ。いないから座れよ」
「“マー”は、相変わらず──繊細そうね」
懐かしくて目を細めると、テッドが笑う。
テリーの目線は、そのアイビーを活けているコップへ……そして、テッドの視線もそこに止まった。
「だろ。時には、花一輪の時もある。男の世界なんだから、やめてくれ……が、俺達班員の近頃の苦情」
「フフ。そうなの? でも、大佐室のお花活けは評判良いわよ」
「右京さんに評価されてから、結構、『この手の才能』で駆り出されているしなー」
「連隊長室にも時々、呼ばれているみたい」
「日本的な『わびさび』や、美的センスは、マーにお任せだ」
「そう」
そんな慣れた会話を取り交わしている事に、お互いに気付く。
そして、ハッと顔を見合わせ、二人は表情を引きしめた。
「なんのご用でしょう。少佐──」
「あ、ああ……。マイヤーは、『シアトル訓練校』の出身だったよな」
「そうですが」
「……だったら。『トーマス教官』もしくは『中佐』の事は?」
「ああ。空部隊の……今は隊長ですよね。ええ、訓練校時代に教官としての様子は存じておりますが」
「感じは……どのような男性?」
「はい?」
何故、テッドがそのような探りをするのか、テリーには分からず、眉をひそめる。
それも、いつもきっぱりしている彼が、ちょっと質問する事に躊躇したようにも感じられて──。
「大佐が今、あちこちに申し入れている事を受け入れて下さると言う部隊でしたね。それでなにか? 少佐が気になさる事でも? それとも、大佐が?」
「うーん、まぁ……そのー」
「貴方らしくないわね」
間の抜けた顔で、栗毛をかきながら、椅子の背にふんぞり返り、いかにも『参ったなー』と言ったような彼の様子。
同い年で一緒に、この小笠原に来た彼が……同じ新人だった時のように、構えない姿を見せる事に、テリーはちょっと周りを気にしてしまった。
今のところ……誰もこちらを気にしていない。
たまたま彼とは『今は同じ大佐室の補佐候補生』としての同じ職務についているので、二人が向き合って話していても、誰もおかしな目では見ないだろう。
それでも、テリーはちょっと気にする。
だが、そんなテリーの一抹の不安など、気が付いていないテッドは続ける。
「実はー。まだ、大佐室内での話で止まっているんだけど、その湾岸部隊の空部隊隊長……つまり、今は大佐になったトーマス元教官。御園大佐をツーステップさせた一番の『恩師』らしいんだ」
「そうだったの! ああ、でも……分かるわ。トーマス教官のニックネームは『幹部育成マシン』で、教え子や部下の多くが出世したり、良い仕事に就くという噂だったもの」
「それで? 女性関係が派手だとか、そんな事は?」
「……本当に、何を聞くのかと思えば……」
またもや『貴方らしくない』と、テリーは最後に付け足した。
そして、テッドはそれに言い返す事はなく、ただ……渋い顔をしているだけなのだ。
「いったい、何を気にしているの? テッド。貴方、仕事と私生活の有様とかを、きちんと分けられると思っていたのだけれど? もしトーマス隊長が女性関係が派手でも、『大佐は大佐』と割り切れるでしょ?」
「俺だって。そうしたいよ」
「え?」
益々……彼が何を言いたいのか解らなくなる。
それに彼はついに、少佐の構えを解いてしまった。
ただ、テリーは唖然としているだけだ。
「まず、聞きたいんだが……どういう男性? 大佐が避けるような『女性関係が派手な男性』とか? 教官で恩師でも、今度は『同等の社会人』だ。プライベートがそう言う男性なら、『断る』という大佐の『駄々こね』もある程度は理解が出来る。もし一緒に、この企画を実行するならば、海の上『空母艦』という職場で共にする事になるから、女性として神経質になると理解は出来るんだけど──」
「なるほどね。でも──トーマス隊長には、浮ついた噂、一つもなかったわ。それに『真面目そうな、教官一筋』って感じの……そんな目立つ人ではなかったと思うわ」
「そうなんだ……」
テッドが何故か、ホッと胸を撫で下ろしたので、テリーは首を傾げた。
こういう心配を彼がするなんて?
彼なら『大佐なら男も女も関係ないと思っているでしょう? これはそんな事にこだわっている場合ではない、チャンスですよ!』と言い放ちそうだからだ。
それを『女性だから、気をつけてから考えなくちゃ』なんて、それも女性上官の補佐としては大切な事だが、妙に神経質に考えているように思えて……。
けれど、『真面目で地味めな教官』とテリーから聞くやいなや、いつもの涼やかなテッドに戻ったようで、彼は腰を据えたようにして続ける。
「テリーはどう思っている? 今回の湾岸部隊からの申し出」
「願ってもいないチャンスじゃない」
「だろう? 俺もそう思う」
「コリンズ中佐もウォーカー中佐も、とっても喜んでいるらしいじゃないの?」
「お二人はね……」
「御園大佐は? もしかして、教官からの申し出という事を、気にしているの?」
「ああ……大佐は『断る』とか言い出しているんだ」
「そうなの?」
テッドが知っているという事は、隼人も葉月の意向は知っているのだろうが、テリーはまだ、隼人からはその話は聞かされていない。
あんなに『突破口が見あたらない』とぼやいていた葉月が、向こうからやってきたチャンスを『断る』と考えている事に驚いた。
「俺も分からない。けど、理由が『嫌な男』でなく、他に思い当たるとしたら──それが逆に『縁深い人』だからじゃないか?」
「教官だから? 恩師からの協力……私だったら、より一層安心して、お礼を言うと思うわ」
「俺も、そう思う。だけど──『それが嫌』とかなんとかね」
「失礼だけどそれが理由なら……それはぁ」
「“あの人”……時々、そう言う子供っぽい駄々をこねるんだよな」
「ああ。そうね……」
テッドは、うんざりしているのか鼻にしわを寄せて嫌がっているようだが、テリーはそこは『大佐嬢の可愛らしい所』と思っているので、笑っていた。
けど……それは結局、テッドも同じようで一緒に笑う。
「それで? 大佐が駄々をこねるなら、澤村中佐が『説得』するでしょう? 『親の七光り』とか『得している』とか言われても、成果を上げれば、それは業務として成功しているのだから、チャンスのひとつと思えば良いって……」
「それが……しないんだ。俺もそれを期待していたのに」
「うそっ」
テッドががっくりうなだれた。
それに、この話を初めて聞いたテリーも、隼人がやっているだろう事をやっていない事に驚くしかない。
「むしろ。大佐より、今は中佐の方が『……らしくない』ような気がしないか?」
「……」
テリーは黙ってしまった。
密かに一人で心配していた事──同期生のテッドも気が付いていたという安心感が得られたと同時に……それは『やはり、間違いない』という確信を得てしまい、とても複雑な気分にさせられたから。
「その様子だと、気が付いていたか」
「そうね。ちょっと『中佐らしくない?』という部分が目につく様になって。私、澤村中佐とお仕事を始めて、『この人の方向性や判断力には間違いがない』と思っていたから──。むしろ、大佐嬢が機動力のエンジンなら、澤村中佐はハンドルだと思っているし……」
「あの人も、それぐらいの『隙』があるんだと、何処かホッとしたいが。人間性ならホッと出来るが、澤村中佐に仕事で隙を作られると、すごく不安なんだよな〜」
「誰だって……完璧にはなれないわ。むしろ、今まで、中佐がバランスを保っていた事の方が、あの人にとっては凄いプレッシャーだったんじゃないか……と、思う時があるの」
「……だろうな。あの人、本当に御園大佐を愛しているから」
「今もね」
「そう、今も──形は違えど、愛しているよな」
『それ故に……今まで正常だった事が異常だったのかも知れない』と、二人は近頃の澤村中佐の『隙』を感じてしまっている事に、一緒にしんみりとした。
テリーも通信科にいた時に、遠目で隼人の事は見知っていた。
いつも葉月と一緒というわけでもないし、時々二人が一緒に並んでいても、絶対に恋人同士の雰囲気は醸し出していなかった。
けれど……葉月は昔からあのように無感情なので分かりにくいのだが、少なくとも隼人の輝きようから『愛している』という雰囲気はとても滲み出ていたとテリーは思っている。
そして、基地中で『大佐嬢は良く分からないが、彼はぞっこんだよな』と噂していた。
中には『可哀想に、また気難しい大佐嬢の犠牲候補生だな』なんて嫌味も聞こえた。
でも──誰もが『澤村中佐は他に誰も見えない』と言っていた。
それだけなら『私の方が良い』と、カマをかけてくる女性もいたかもしれないが……どうしてか、それとも『やっぱり』なのか、葉月の事は散々こきおろしても『対抗しよう』なんて女性は誰一人いなかった。
だから今まで、女性の誰もが『隼人に近づいても無理』と決めてかかっていたのだ。
けれど、最近、その『鉄壁』に隙間が出来た。
先程の『小夜』もそうだ。
隼人の恋愛体勢にも『隙』が出来たから、入り込んできたのだ。
そればかりでなく──『仕事』にも?
時々『ここは大佐にこう言うべきところなのでは?』とテリーが思う所でも、隼人がスルーして、大佐嬢を勝手に泳がせてしまう時がある。
そんな時、この頃は、これはやばいと思ってやっと口を出すのは『海野中佐』か……彼女との距離が近くなってきた『テッド』だった。
それを見ているテリーはハラハラする事もあるし、未熟者のテリーが気が付かなくても、ふとすると目の前で、達也かテッドがイライラしているか、ハラハラと落ち着きをなくしている場面を目にしたりしていた。
『中佐──いつもなら、中佐が大佐に進言していたのでは?』
『別に。この隊で最終判断を下すのは彼女で、彼女をサポートしているのは、俺だけじゃない』
『先程の事は、中佐……気が付かれていましたよね。何故、黙っていたのですか?』
『口うるさい兄貴っていうのは……なんだよな』
『はい? 今、なんと仰いました?』
『……なんでもない。ただ、俺が疲れるんだよ。小言ばかり言うのも』
『でも……』
『疲れる』──だけで、切り捨てた隼人の姿が信じられない時があった。
テリーが配属されてきた時は既に、彼から『彼女を愛している』という輝きは失せてしまっていたけれど、でも今度は側で一緒にいればいる程、『どのようになっても、そっと愛している』という彼の事細かい様子が、どんなに裏返しの態度を取っていても、切々とテリーに伝わってきた。
なのに……『疲れる』で、片づけてしまうなんて……。
そんな風に、何処か力を緩めてしまったような姿を時々感じる。
そして、彼は『葉月』を遠ざけている。
愛しているのに……何故?
それが見ていてじれったい。
テリーはどちらかというと、隼人よりも葉月の方をよく知っているつもりで、『女性になる』と不器用そうで消極的な女性だから──隼人にはがっちり掴んでいて欲しかったのだ。
なのに──遠ざけている上に、『小夜』の事もきちんとしないでおざなりにして、彼女に期待させている。
もっときっぱりと断って欲しかったのに……『女性陣にお任せ』と引き下がった時には、流石にちょっと頭にきて……それで『中佐からは何もアクションなしですか』なんて、生意気な口を叩いたのだ。
「澤村中佐にとって、もう……どうでも良いのかな?」
「どうでも良いって事はないけれど──いわゆる『倦怠期』なのかしらね……」
「愛して手放さない……と言うのは伝わってくるのに。なんだろう? 今のあの『二人の間のやりにくさ』。見ているこっちも息が詰まる時がないか?」
「……たまにはね。でも、平気な顔で良くやっていると思うわよ」
「まぁな」
そこでテッドが溜め息を落とし、暫く黙り込んだ。
テリーもふと気になって、先程のように周りを気にすると──まだ事務作業を班員としている『小夜』と目があってドッキリとする。
彼女は、テリーとテッドが話し込んでいるのをジッと見ていたという事になる。
そんなテリーが、人の目を気にしていると……。
「テッド」
「あ、大佐……」
葉月が急に大佐室の自動ドアから出てきた。
「休憩はまだなの?」
「はい。柏木と交代です」
「そう。休憩から帰ってきたら『ひと仕事』してちょうだい」
「ひと仕事ですか?」
相変わらず、仕事となると葉月の顔つきは、とても冷たく平坦──口調まで、感情がこもっていないかのように淡々としている。
その一本調子の様な声色で、葉月が呟いた。
「シアトルの『空部隊』とコンタクトを取ってほしいの」
「! シアトルの!?」
テリーとテッドは、『たった今』交わしていた話題に、急に『ケリ』をつけられたかのように驚いて、お互いに顔を見合わせてしまった。
『駄々をこねていた大佐嬢』が、急に『あちらと連絡を取る』と言い出したのだ。
すると葉月が立っている自動ドアがまた開いて、今度は隼人が出てきた。
「テリー! 休憩に行ったのでは?」
「申し訳ありません──今、直ぐに行って来ます」
「早くしてくれよ。後で横須賀の工学科と会議の調整を取ってくれよ」
「はい」
テリーも急いで立ち上がる。
すると、葉月がまたもや驚く事を言い出した。
「湾岸部隊との交渉は、テッドが担当よ」
「え!? 僕ですか!?」
「そうよ。私がもし航行中の母艦とこの企画を実行するとして、そのサポートの全てを『ラングラー少佐』に任せる──と、言っているの」
テリーもその『決定』に驚いて、立ち止まってしまった。
それと同時に、本部を出て行こうとしている隼人に目線が行ってしまった!
いつもなら、このような『大役』の空軍のサポートは、隼人が一番に任命されていたはず。
確かに、隼人は彼自身が担当しているプロジェクトもあるので、手が回らない状態に見えるだろうが、そのプロジェクトはまだ直ぐにという段階でもない。
それなら、今にも実現しそうな空母航行実務に乗っ取った『強化計画』が優先され、今までの葉月なら、隼人を一番に指名したはずだ。
「あの……」
流石のテッドも、葉月の後ろにまだいる隼人を見てしまったようだ。
その目線に隼人も気が付いたようで……でも、隼人はいつもの余裕ある笑顔を浮かべた。
「頑張れよ、テッド──。俺は、無理だから」
それだけ言うと、隼人は手にしているバインダーを『この仕事があるから』とわざとらしく掲げて、背を向けてしまった。
彼が出て行く──。
テリーとテッドは顔を見合わせた!
やはり? 澤村中佐は『もう、大佐嬢との仕事には意欲的ではない』のか? と──!
何故かテリーの足は、自然と隼人を追いかけようとしていた。
いつもの生意気と言われてもいい。
『俺が彼女を一番にサポートするんだ』と、何故、言わないのか!? と!
しかしだった。
テリーが隼人を追いかけるより先に、葉月がヒラリと本部を出て行った。
思わず、テリーはそれを隠れるようにして、本部入り口からそっと覗いてしまった。
隣にはいつのまにか、『テッド』まで……。
何気なく出て行ったつもりかもしれないが、葉月はそっと隼人を追っていた。
彼の背に追いつき、葉月のかけ声に、隼人が振り向いた。
『今夜、いい?』
『ああ、いいよ』
それだけだった。
それだけ言葉を交わした二人は、また背を向けあって、それぞれの方向に歩いていく。
隼人は出かけ、葉月は事務室に戻ってきた。
彼と『今夜の約束』をしても、浮かれた様子はひとつもうかがえず、いつもの平坦顔で大佐室に戻ってしまった。
テリーの横で、テッドが溜め息──。
「あほくさ。あの人達の心配なんか、もうしない」
「そうね……そうかもしれない」
それでも『私達』は、大佐室の先輩が好きなのだ。
『彼女と彼だけの疎通』で成り立っていたとしても──きっとまた『二人だけの愛し合い方』を見せられて、理解が出来ずに『心配』してしまう事だろう。
でも、テリーはホッとした。
あの二人は『目に見えないよう』に努力しているだけで、二人でなんとか折り合いをつけていたのだ。
そして……あのように、密かに会っているようで。
『また──あんな中佐が見られたらいいのに』
テリーが憧れていた『恋人同士』を、目の前で実感出来るのはいつだろう?
でも、通信科にいる時に、胸をときめかせていた『噂の恋人同士』は、まだ健在であるようで救われた。
そんなテリーのうっとりとした物思い。
また、『小夜』の妙な視線に現実に戻され、テリーは頭痛を覚えてしまったのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
また──雨だ。
今夜は小雨……さらさらと音が微かに聞こえてくる程度の……。
小さな机は、マルセイユのアパート住まいの頃から使っている物。
ノートパソコンと、両脇に資料や雑誌を置いてしまえば、もう隙間もない。
机のスタンドは結構、煌々とした明るさで、それが隼人の手元を照らしていた。
何処にいてもそうなのだが、隼人はこのノートパソコンで『大佐室がらみの業務』に向かっている時は、かなりの集中力で挑んでいると自負しても良いぐらい。
大佐室では勿論、官舎の自宅でも、実家でも……そして『丘のマンションのテラス』でも、そうだった。
だからと言って、外の空気を遮断しきっている訳でもない。
誰かが話しかけてくれば、すぐに反応出来るようにしているし、内線や電話の音など……ちゃんとスイッチが切り替われるようにはなっている。
今夜も、そんな雨の音をお供にして、心地よく集中力を高めている夜更け──。
部屋には隼人が知らない英語で唄われているバラードがかかっていた。
『う……ん』
そんな唸り声が、背後から聞こえてきて、隼人はふとスイッチが切り替わる。
振り返ると、そこは灯りが消えている自宅のリビング。
机の後ろには、雑誌を重ねて置いている小さなローテーブル。
そこには何故か、隼人の物ではない音楽のディスクが数枚。
そして、壁際にベッド。
そのベッドの縁を背もたれにして、座ったまま眠っている栗毛の女性──。
彼女がこの部屋にいたことを思い出す。
「葉月」
声をかけたのだが……。
その唸り声だけで、彼女はベッドにもたれかかったまま、顔だけシーツに埋めてまた寝息を立てていた。
『またか……』
隼人は溜め息をついて、机から立つ。
ベッドに歩み寄り、カーペットの上に座りこんだままの彼女の前にしゃがんで、声をかける。
「おい。寝るなら、この格好はやめろ」
「うん、分かったー」
なんだか子供みたいな反応で、葉月が次にする事も、『ここ最近のお馴染み』だ。
今夜も、お馴染み通り──まるで自分の部屋にいるかのようにして、葉月は隼人のベッドにあがり、そのまま身体の中に通っている筋が抜けたかのように『くったり』と横になってしまう。
そして、すうすうと、寝入ってしまうのだ。
「またかよ」
さらに隼人は溜め息を落とした。
だが、もう『お馴染み』なのだ。
最初にこれをやられた時は、かなり戸惑い『これは何かの差し金か?』と勘ぐったが、彼女としてはまったくそんな『意図』もないようで、本当にただ眠っているのだ。
あれから数回、彼女は隼人の部屋を訪ねに来ている。
一緒に夕食を作って、そして静かに向き合って食べて、食後……お互いの思うままリビングでゆったりする。
隼人はこうして机に置いているノートパソコンに向き合っている事が多い。
葉月は、隼人のオーディオを使って音楽を聴きながら、ぼんやりと外を見ているか、雑誌を見ている事が多い。
それか『お馴染み』になった事──ベッドの縁に背を持たれて、くったりとした様子で、居眠りをしている事もある。
『退屈じゃないのか?』
自分が言い出した我が儘だ。
前のように、熱烈な同棲生活は出来ない。
それよりか、一緒にいる事で、恋人には戻れなくなるかも知れない。
それでも『この部屋にまたおいで』と、彼女を引き入れたのは……。
けれど、栗毛の彼女は、清々しく笑った。
『最近はいつもこんな感じよ』
隼人は画面に集中しているから、その合間は本気で彼女の存在を忘れている。
そんな事は──丘のマンションでもそうであったが、でも……あの時は、それが『無条件に許される事、気兼ねない事』だった気がした。
自分の部屋に招くと、こうも気分が違うのだろうか?
それとも? 今の精神状態が隼人を気にさせるのか……分からない。
とにかく、時々……この部屋に、俺だけの時間を堪能している最中に、『誰かがいる』と言う感覚に、急にハッとするのだ。
振り向けば……葉月がいる。
葉月がいる事も忘れていたという感覚になれる、いや、葉月が隼人をそっとしている事が『忘れさせている』のかもれない。
でも、そこがやはり『こいつだ』と思わされる。
そして、彼女も『まるで丘のマンションの自分の部屋』にいるようにして、過ごしているのだ。
だけれど──丘で同棲していた時には見る事がなかった彼女も、見るようになった。
特に──窓を空かして、ぼんやりと外を見ている葉月には、妙な気分にさせられる。
ただ、色々なジャンルの音楽を聴いては、ぼんやりしているのだ。
近頃の彼女の傾向なのか、静かな曲が多い……それだから? なんだか『ゆったり、うっとり』しているのかと思いたいのだが、どうも隼人にはそうとは割り切れない。
だから──『なにを考えているんだろう?』──ふと、いつもそんな気にさせられる。
この前なんかは、寝ているかと思ったら、きっちり起きていた。
ただ『ぼんやり』と、何処かに行ってしまっているのだ。
以前もそれなりに、こんな様子の彼女を見る事はあったが、それほど頻繁でなかったように思える。
ふと疑いたくなる。
『兄貴の事を思いだしているのか?』と──。
そう尋ねるわけにもいかないので……。
『あのな。何処に行っているんだ? 寝ているみたいな顔になるほど、何処かに行けるのか?』
思い切って聞いてみた。
すると、葉月が言うには……。
『外の空気と一緒になりたかっただけなのに。今夜は、風が優しくても海が湿っている』
なんて、本当に訳が分からない抽象的な事を言ったりする。
なので、もう一度、聞いてみる。
『……疲れているんじゃないか?』
『? どうして?」
『前の葉月は、そんなにぼんやりは……』
『隼人さんはないの? からっぽになりたい時とか』
『──からっぽなぁ?』
『ただ、それだけなんだけど』
──と、言う事で、その時はこのようにケリをつけられてしまい、隼人もなんとなく腑に落ちない感はあるが、飲み込めた。
からっぽになりたい……分からないでもない。
彼女がこなしている激務を思えば、そんな反射があると言われても……。
そして──今夜も。
葉月は雑誌を眺めているのかと思って、安心して放っていた。
隼人が自分の事に夢中になっている間、ふと結構時間が経っているのに気が付いて振り向くと、既に雑誌は放られていて、また……ベッドの縁を背もたれにして、うたた寝をしている。
そして『お馴染み』になったように、葉月は隼人に断りも無しにベッドにあがって、本気で熟睡に入るのだ。
起こしようもない。
そして──起こす気もなかった。
何故なら、あまりにも安らかな顔をしているから。
隼人がよく知っている無防備で、そして何処か無邪気で……。
起きている時は数々の『苦』と向き合い、崩れ落ち、そして立ち上がろうとしている痛々しい彼女にいつも気を揉んでいた。
そんな事など忘れさせてくれるかのような苦もないような幸せそうな顔をしているのは、彼女が隼人と抱き合っている時よりも、むしろ『寝顔』を見た時。
その寝顔だけが非常に安心させてくれていた。
だから……なおさらに。
その寝顔を愛していたあの日々……を、どうして否定出来ようか。
彼女が横になったら、必ずすることがある。
首元が楽になるように、カッターシャツのボタンを開けておくのだ。
いつものように彼女のシャツに触れ、第一ボタンから一つ、二つ……。
「……」
あまりにも無防備だから、毎回、ここでふと何かが『湧き起こる』──。
思いとどまる日もあるし、そうでない日もある。
今夜は『そうではない日』だったようで、三つ目のボタンを開けてしまう。
すっかり開いた彼女の首元の肌……夜灯りの中で白く浮かび上がる肌は、いつだって隼人を誘う。
さらに次に隼人を誘ったのは──薄桃色のフェミニンなレエスが、チラリとだけ見えた。
これも見た事がない色で、胸が騒いだのだが──。
葉月の寝顔を一目見て……急に血の気が引くような恐ろしさに包まれる。
暫くは手が凍り付いている。
それは──進みたいのに、進めないでいる『葛藤』と言えばいいのだろうか?
葛藤ならまだ良いかも知れない。
葛藤なら、本能に身を任せるぐらいに『堕ちる』事を選んでやると、思っているのだから。
なのに──まるで、金縛りにあったみたいに、進みたい手が固まる。
そんな近頃の彼女への感覚。
それで、やっと──三つ目のボタンを元通りに直す。
隼人は、三度目の溜め息をつく。
集中力が切れたので、そのままシャワーを浴びに部屋を出た。
入浴が終わっても、葉月は寝息を立てて寝ている。
ティシャツにボクサーパンツだけという姿で、隼人は冷蔵庫から持ってきた缶ビールを手にして、窓辺に腰をかけた。
官舎の狭い間取りの窓。
その隙間から、涼しいが湿った風が風呂上がりの肌を冷ましてくれる。
同じじゃないか……。
そう思った。
ここが丘のマンションではないだけで、二人がやっている事は、『あの同棲生活』と同じじゃないか?
葉月とまたこういう生活を試み始めて、まだ短いが、そう思った。
俺はただ自分が好きな事をしているし、宵っ張りも楽しんでいるし、そして、ビールも窓辺で飲んでいる。
彼女は、俺を置いて、早く寝付いてしまう。
今ない物は……なんだか引き寄せられないのは『彼女の肌と身体』だけじゃないか? と。
『それが必要なのか、必要でないのか?』
少なくとも『男』である隼人には、即答は出来ない。
でも、今はむしろ『男』である隼人の方が、かなりの拒絶を起こしているではないか?
『駄目なんだ……』
飲みかけの缶を握りつぶしながら、隼人は窓辺でうなだれた。
女の身体が、どれだけ『尊いもの』か──嫌という程、思い知らされた。
もう……ただの欲で抱けない気がしている。
葉月が、どんなに俺の為に身体を投げ出してくれても、もう……。
俺が抱くと、また彼女の身体から血が流れるような気がしてならない。
しっとりしている雨音が隼人を包む。
なんだか、彼女がぼんやりと『外の空気と一緒になりたい』と言っていた気持ちが、なんとなく解るような気がした。
いつもの宵っ張りでくつろいだ後、夜中になれば隼人も眠る。
彼女はまだ起きない。
制服のままのうたた寝はいつまで続くのだろう?
けれど、隼人も起こさない。
彼女の寝息を聞いて、自分が寝付くのも……前と変わらない心地良さだ。
起こさなくても……朝になれば、隣の彼女は姿を消している、必ずだ。
決して、泊まっていく事はなかった。