-- A to Z;ero -- * 初夏の雨 *

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2.本心、現る夜

 果たして、この『鍵』に込められた隼人の思いとやらは、なんなのだろう?
 その日の晩、葉月は帰宅してから、一人……テラステーブルの椅子に座って、ずっと鍵を見つめていた。
 彼が毎晩、座っていた椅子に腰をかけて……。

 翌日の朝。
 大佐室に出勤すると、いつもの様に、主要側近の中佐二人は既に出勤していて、なおかつ、補佐修行中のテッドと柏木がキッチンでお茶の準備をしている。
 毎朝の風景の中、葉月が最後に姿を現す。

 朝礼が終わり、達也が席を立って出かけていった。
 大佐室には二人になる。

 葉月はそっと隼人を見たが、彼は何も意識していないようで、いつもの如く触らせてくれないような集中力と気迫でキーボードを軽やかに打ち込んでいる。
 冷たい眼鏡の横顔。
 葉月はそれをそっと、大佐席のパソコンモニターの影から息を潜め、横目で確かめていた。

「なにか? 大佐嬢」
「! ……別に?」

 ノートパソコンの画面を真っ直ぐに見つめているはずの隼人に、何をしているかばれていたので、葉月は飛び上がりそうになる。
 だが、それを堪え、何気なく返答する。
 そんな葉月の素直じゃない反応もなんのその……隼人が打ち込むキーボードの音がパチパチと暫く響く。

「鍵の事か?」
「……」

 それも見抜かれていた、葉月はぐうの音も出なくなって、一人で固まるだけ。

「俺の予想だと、葉月はマンションに帰ってから『どうしよう!?』と……一晩、悩みまくった……かな?」
「そんな事はないわよ」

 いや、まさに『そんな所』で大正解。
 敵わない。
 その通りだから……葉月は渋い顔で黙り込む。

「昨夜、お前に言った通りだ。『来て欲しい』だけで渡したつもりはない。だから、直ぐに来いとか使って欲しいとか思っていないからな」
「でも!」
「大佐、私は今から工学科に用事がありますから。席を空けます」
「!」

 『でも、今の私が鍵を持っても……!』──そんな事を言い放とうとした途端に、隼人が席を立つ。
 そして、急いで出かけようと、書類を手早くまとめ始めている。
 だが、葉月も逃げられないように、サッと大佐席を立ち、隼人に向かう。
 そして、昨夜、鍵を包み込んでいたハンカチを葉月は隼人に差し向けていた。

「隼人さん……! これ、やっぱり、受け取れない!」
「どうしてだ!! ただ受け取ってくれるだけで良いと言っているじゃないか!」

 急いでいた隼人の手が荒っぽく書類を机に叩きつけ、その音が『バチン』と響いた。
 その音の荒っぽさに、流石に葉月も硬直する。

 葉月の目の前で、隼人がうなだれ、荒い呼吸をして胸を上下させている。

「隼人さん……私はね……」
「お前が思っている事だって理解しているつもりだ! お前は俺を捨てて、兄貴を選んだ。短期間の出来事でも、お前は兄貴を選んだ。俺を一時でも捨てたから、忘れたから、兄貴とは離別しても、『都合良く戻るわけにはいかない』事で自分を戒めている事だって!」
「……そうよ。私は『お兄ちゃま』を愛していた。昔からずっと……ね」
「!」
「私は貴方に告げた。『義兄を愛している。この気持ちは消えないと』──義兄を選んで、貴方を忘れた……戻ろうとはしなかった。そんな私に、『合い鍵』?」

 葉月はそれは『事実』だから、きっぱりと答えた。
 それに言わねばならない。
 それが、本当にあった自分であり、隼人にとっては酷な事をしてしまった言い訳ならぬ自分の姿だから。
 もし? 今後、隼人とやり直そうとしても、その事実をぼやかす事も、なかったかのように避ける事も──本当にやり直す意味の上では避けてはいけない事だから。
 だが、それをあっさりと言い放った葉月に、隼人は今更ながらに『避けられない事実』を初めて突きつけられたような顔で、葉月を見つめている。
 その哀しそうな眼差しに、葉月の胸が……締め付けられた。

 彼にこんな思いをさせる辛さを味わう事になった、私の罰。
 だから、消えたい。本当は、いるだけで苦しめているだろう『私』の全てを、彼の前から消してしまえばいいのだ。
 いや……違う。
 葉月は再び、思い出す。
 そして、今になって初めて実感する。
 隼人には一欠片の『辛さ』も与えてもいけなかった所、彼が辛いだろう事など考えず、自分が自分を戒めている事で辛い思いをすれば、それで罪を償っているつもりになっていた。
 でも、それは『自己満足に過ぎない』──ジュールが言った通りだ。
 彼が望むままにすればいい。
 彼が葉月を必要としているならば、彼が欲するままに『従えばいい』のだ。

 『彼とやり直したい。以前のように戻りたい』──という思い。それは彼を捨てた私には『禁じるべき事』。
 それを軽々しく破り、甘んじてしまうと『とても好都合な嫌な女』になって罵られる。
 自分が罵られるのは怖いから、葉月はそれを怖れ、好都合を禁じる事で戒めてきたのだが──それは結局の所、葉月一人がただ満足出来る『自己満足的な償い』でしかなく、隼人をまたもや苦しめる結果だったのだと──。
 皆が周囲が罵っても、唯一、隼人が望んでいる事ならば罵られても、彼の望みに応えるべきだったのだと……。
 言葉の理解でなく、今、面している状況で初めて痛感する事になったではないか。

「……私、もっと、貴方を苦しめている」

 そっと静かに、葉月は彼を見つめた。
 その葉月の力無い呟きに、それこそ、やっと隼人が葉月を憎むような険しい眼差しを返してきた。

「ああ、むしろ──『あの時』より、ずっと重い」
「……そう」

 『俺の辛さを、お前はやっと解ってくれたのか』と言うような、隼人の責める眼差し。
 葉月はそれをきちんと受け止めて、そっと彼に告げた。

「分かったわ……今夜、行くわ」
「!? あのな……俺はただ、そんな催促をする為に渡したんじゃなくて、ほら! 俺だけがお前の部屋の鍵を持っているのは不平等だし……それに、いつでも困った時は……」
「行くわ……貴方の所に、行く。無性に行きたくなったの、行かせて……」
「……」

 神妙な葉月の眼差しに、今度は隼人が戸惑っている。

「そ、そうか……分かった」
「鍵、有り難う。本当はとても嬉しかったの。大切にするわ」
「あ、ああ……」
「私も、六中隊のウォーカー中佐の所に行かなくちゃ」

 急に決した葉月の姿に、先に出かけようとしていた隼人が茫然としている。
 葉月はそのまま、何に動じる訳でもなく、大佐室を出た。

 

「またしても、自分の事ばかりだったわね……私」

 本部を出た廊下で、葉月は振り返る。

 そして、葉月は制服の襟元をギュッと掴んだ。
 襟元、いいや……首には葉月が自ら戒めていた『印』をさげてる。
 それを彼に知られてはいけない。

 だから、そっと首につけていた『クロスのネックレス』を外す。
 両親が贈ってくれた十字架に、葉月は『銀の指輪』をかけて、毎日、首にかけていた。
 ただし、『絶対に人目に触れさせない事』が信条。
 だから、誰も知らない。
 葉月が首にネックレスを毎日着けている事を。
 触れそうな時は外していたから……。

 『勇気ある前進』──本当は『共に……』のはずだった。
 けれど、それを葉月が壊してしまった。
 なのに、隼人はこの言葉を『最後に葉月の為に』と、贈ってくれた。

 『勇気ある前進』は、『本気で行く』と言う困難を乗り越えていく為の言葉。
 彼はその言葉の果てに『幸せがきっとある』と言いたいのだろう。
 葉月もそう思う……今なら……。苦しいけれど乗り越えた先にはきっと苦しかった分だけの何かがあるはずだと──。
 なのに……まだ、彼の言葉に胸を張れるような生き方は出来ていない。
 訓練でもそうだったが──結局、何でも怖じ気づいてばかりで、ひ弱なままの自分が許せない。

 弱いから、人を不幸にしている……幸福感を与えられないんだ。
 今の葉月はそう思っている。

 外したネックレス。
 銀色の光は葉月の指先を滑って、人知れず、ポケットの中に隠される。

 今夜、どうなるかは分からない。
 でも──『決めた』。
 怖れている事が起きようとも、それを目の当たりにしてしまう事も……自分が招いた『痛さ』になるだろうと──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その時、大佐室では、未だに茫然とたたずんでいる隼人がいた。

『はぁ──』

 やっと呼吸が出来たかのように、隼人は大きな息を吐いて、席に座る。

 隼人の予想では、ウサギさんは一晩をかけて戸惑った挙げ句、『受け取れない』と突き返してくる……そんな事は予想済みだった。
 案の定、葉月は『受け取れない』と、困り果てている少女のような顔で、ハンカチごと鍵を差し出してきた。
 それを見て……あまりにも予想通りだったので、いつになく『苛ついた』のだ。
 以前なら、それ程に苛ついても、彼女には彼女なりの考えがあっての事だと尊重したく、『見守っている姿勢』が自然となされたことが、多かったと思う。
 それが、あんな風に荒っぽい自分をさらけ出す事になった。

 でも、そんな今までにない隼人の姿は『変貌』したように見えただろうに、葉月は幻滅や絶望するような態度や様子は見せなかった。
 それどころか、そんな隼人を目にしても──『益々、落ち着いている女』になり、しっかりと受け止めていたじゃないか?
 だから……余計に……『言ってはいけない、絶対に言いたくない本音』が出てしまったではないか!?

『お前は俺を捨てて、兄貴を選んだ。短期間の出来事でも、お前は兄貴を選んだ。俺を一時でも捨てた!』

 絶対に言うまい──そう決めていたのに。
 自分の中では、やはり、そう思っていたのだ。
 自分でも認めたくない事を。
 そして、彼女にそうさせたのは、送り出したのは『この俺だ』と痛い程に後悔をしていても。
 やはり『お前は俺を捨てた』と……彼女を責める言葉を吐いていた。

 隼人は額を抱え、デスクで独りでうなだれ、黒髪を掻きむしる。

 挙げ句の果てに『むしろ──あの時より、ずっと重い』なんて……。
 今現在、隠し持っている本音を……彼女がきっと自分自身をさらに責めるだろう事を、あっさりと吐いていた。

 絶対に言いたくなかった事。
 彼女と『やり直したい』から、彼女を責めるような事は絶対にしてはいけないと、隼人は心に強く誓っていたのに──。
 そんな隼人の『心の奥底、本音』を引き出したのは……葉月の『眼』だった。

「なんだか……『また』違う女に見えた」

 そう、『もっと、貴方を苦しめている』と呟いた葉月の『厳かな眼差し』を見た時に、どうしてか、奥にある『正直な気持ち』が身体と心の奥から湧きだし、何にも囚われずに言ってしまいたい衝動に駆られたのだ。
 どうして、その様な感覚にさせられたのか分からない。

 けれど──彼女を責めてしまう事に歯止めがきかないそんな隼人を、彼女は静かに受け止めていた。
 そして『自分』が隼人という男を傷つけた事も、捨てたのだと言う……誰だって自分が悪い事をしたのだと思いたくないだろう? そんな誰でも逃げたくなるような『嫌な自分』からも彼女は逃げない。
 悪い自分もしっかりと認める凛としている静かな姿──静かに穏やかに、だけれど何処か荒々しさを隠し持っているような『眼差し』。
 そう……彼女が小笠原に帰ってきた時に見せていたあの眼差しだ。
 光も影も見てきた、そして、それは一つなのだと言う答を探り出してきた彼女が得たあの眼差し。

 あの時、隼人は『何処かの宗教画の女神の眼』だと思った。
 あれだ……西洋の宗教画と言うよりかは、東洋の菩薩系の眼差しに似ていると思った。
 凄絶と慈愛──両方を見据えている眼差し……。
 あの何とも言えない眼差しを彼女が見せた物だから、つい? と言うのだろうか?
 己の本音をぶつけ、そして、それを彼女が存分に受け止める──とても静かに。

 彼女はやはり、愛たるものは『甘い夢の中』だけでは済まない……と、いう痛さを存分に心に刻みつけてきたのだろう。

 なんだか隼人は急に……怖くなる。
 そうだ。彼女をもしかすると、今のように、散々に責めて傷つけると怖れていたのと同時に、もう……愛らしいだけのウサギではなくなっている。もっと手に負えないウサギになっているのだと……。

 身体を震わせる。
 『怖い』その反面──男の性、征服欲というのだろうか?
 そんな得体知れぬ女性の全てを鷲づかみにし従え、仕返してみたいと言う願望も……隼人を震わせている気がした。

 その証拠に……どこか心がざわつきつつも、身体の芯が火照っている様な気がして……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夕方になり、急に空が怪しい雲行きに──。
 いつもなら大佐室の大窓には、美しい夕焼けが広がるだろう時間帯なのに、どんよりと暗さが漂い始めていた。

「ふぅん……そうなんだ。分かったよ、親父。じゃぁな、また……」

 横浜の父親から連絡があった。
 近頃は密に連絡を取り合っている。
 親子としての会話運びだが、内容は『仕事』だった。

 昨年、フロリダのブラウン大尉、つまり達也の元妻である『マリア』が持ち込んだ『プロジェクト』が徐々に動き出しているのだ。
 マリアは今、空母艦と戦闘機を繋げる通信をもっと高度に、そして、パイロットの操縦現場をもっと身近に把握するという『高密度通信システムの確立』を提案してきた。
 工学科の大御所教官であるマクティアン大佐に持ちかけた所、大佐は『それなら、ハードは澤村精機がいいだろう』なんて言ってくれたのだ。
 しかし、軍と契約をしている精機会社が実家と言う事と、そこの息子である隼人が企画に携わっていたとしても、他にも同業社、もっと言えば、国内大企業が軍と提携契約をしている中、ただ大佐が気に入っている企業と言うだけで選ばれるのは『不公平』になるのだ。
 そこで、澤村精機だけでなく他の企業にも話を持ち込んだ所、数社が『取り組んでみたい』と言う意志を示してきた。
 どの会社が独占すると言う行方はプロジェクトの進行具合で決まるかも知れないし、最後まで数社で進行していく事になるかも知れない。
 とにかく、澤村精機と大手企業数社で提携し、軍と進行していくという方向付けがここ最近出来たばかりだ。

 この『プロジェクト』の一員として、隼人が推薦され、隼人は今、工学科を行き来している。
 勿論、マリアとも密に連絡を取り合っている。

『まさか、私の思いつきがね……こうなるなんて思っていなかったけれど頑張るわ! 葉月は元気?』

 彼女から三日に一度は届くメールには、時々だが、プライベートな部分も触れてきている。
 彼女もビジネスでのメール交換だから、本当はもっと絡みたい所を控えつつの『時々』のお伺い。
 でもそのほんのちょっとの気遣いで、隼人も心を和ませて返信をしている。

『元気だよ。相変わらず、甲板に降りてもじゃじゃ馬。新しく来たクールなパイロットと喧嘩を始めたよ』
『葉月らしいわね! 今ね、小笠原出張が出来るように、ジャッジ中佐に提案しているの。相変わらず、手厳しくて……もっと計画が進行してから言うべき事で、遊びじゃないんだって怒られちゃったわ』

 彼女は知っているのだろうか?
 隼人と葉月が離れてしまった事を?
 知らないなら、彼女の場合、『仲良くしている? サワムラ中佐の事だから、もの凄く溺愛して大切にしているでしょうね!』なんて、遠慮なく突っ込んできそうなのに──。
 ジャッジ中佐から何か釘を差されていると感じるぐらいに、葉月は元気か? ぐらいの質問で、恋人としてどうかという部分には触れてこないのだ。
 それなら、それでも良いのだが。

 ともあれ、フロリダ側とのプロジェクトはそうして進んでいる。
 葉月はどのような担当かと言うと、システムと工学的なプロジェクトは隼人とマリアに任せ、自分は達也と一緒に『合同研修の誘い』を他の中隊と基地に提案している初歩段階らしい──。
 それは仕事の片手間程度だ。今は……。
 今、葉月にとって一番大事なのは『空部教育の強化』だ。

 だけれど、葉月が一番に『やりたい』事が、今まで以上に上手く運ばないらしい。
 それほど、困難な事に葉月は先輩達と取り組んでいる。
 その上、慣れない甲板指揮で、敵わぬ上官と先輩パイロットと敵対している毎日。

「もし、お考え頂けましたら、是非……。そうですか、残念です。いえ、有り難うございました、またの機会に──」

 今度は葉月が外線電話の受話器を置いた。
 彼女が夕方にあちこちに電話をしているのは、デイブとウォーカーが当たって断られた艦隊や部隊に大佐として再度の申し込みをしているのだ。
 本日もめぼしい所はすべて断られたようだ。
 彼女が溜め息をついた。
 が、すぐに書類に向かった。

 そんな葉月に触らず、隼人も達也も自分達が受け持った仕事を黙々とこなす。
 定時は過ぎていた──。
 三人が静かにそれぞれの業務に集中している所。

 だけれど、隼人は密かに葉月を見つめる。
 淡々と、何事も変わらぬ様子で書類に向かっている。
 近頃は、隼人が処理した訓練の通信記録も、大佐席のパソコンで眺めるようになった為、あの葉月がマウスを手にして画面と睨み合っている姿も見られるように……。
 そんな彼女は、『今夜』の事に関して、揺らぐことなく何も動じてもいないようだ。

 隼人は違う。
 こうして鍛錬してきた集中力を持ってして、それらしく業務をこなしていても──時々、もの凄い波が襲ってくる。
 なんて言うか『仕掛けたのは男の俺』だったはずなのに、『ウサギに仕掛け返され』揺さぶられた『闘志』というか……なんだか燃える熱を押さえ込んでいる。
 なんの闘志だ? なんで燃えるように熱いのか? まったく分からない。
 けれど……。

 また隼人は震える。
 彼女の仕事に集中している平坦な横顔。
 血が通っていないような白い頬。
 あの頬が時々、燃えるように赤みがさす瞬間を──思い出したり。
 そのキュッと閉じている乾いたような唇が、急に濡れたように煌めいて艶めかしく緩む瞬間を──。
 隼人は知っているのだ。
 その時の悦びは男として例えようがないというか……。
 それが急に駆けめぐっているのだ、あれから──。

 それに対して、相手の女はなんたることか?
 あの落ち着き振りが気にくわない。
 それが余計に隼人をかき立てているような気がする。

 そんな自分の中で起きている妙な『渦巻く情』を、どうしようもなく押さえ込んでいる……。

 そんな中──大佐室の自動ドアが開いて、テッドが駆け込んできた。
 その様子に、葉月も達也も顔を上げたので、隼人も我に返る。

「大佐──! 今、ウォーカー中佐に呼ばれて、行ってきましたら……!」
「どうしたの? テッド」

 彼が大佐席に駆け込むようにして、辿り着く。
 いつも落ち着いているテッドなのに、これまたもの凄い慌てようだと、隼人も達也も眉をひそめた。

「う、受け入れても良いという部隊が! それも大佐嬢があちこちに申し込んでいるという噂を聞きつけたとかで、あちらから『是非』と、教育隊のウォーカー中佐の所に申し出が来たそうで」
「なんですって? あちらから?」

 葉月も信じられないと言う顔つきで、椅子から立ち上がり、テッドが握りしめている一枚のプリントをサッと受け取り眺める。

「!」

 葉月がそれ見て、もの凄く驚いた様子。
 それが判り、隼人と達也は同時に顔を見合わせた。

「これ、嘘じゃぁないでしょうね……」
「何故ですか? そりゃ、申し込んできたと言うのは私も驚きでしたけど」

 不審そうな葉月、そして、喜ぶだろうと思っていた大佐のその反応に怪訝そうなテッドが暫く向き合っていた。
 すると、葉月がクシュッとそのプリントを握りしめ、大佐室のドアへと向かい、出て行こうとしていた。

「大佐!? どこへ?」
「ミラー中佐の所」
「え?」
「安心して。いつもの『喧嘩』ではないから」

 肩越しに落ち着いた静かな視線を流してきた大佐嬢だが、僅かながら気迫を放っているようにも見える。
 それを確かめたテッドは、その静かな気迫に暫し捕らわれているように止まっていた。
 葉月がそっと出て行った余韻が、大佐室に流れる。

「テッド……何処の部隊だったんだ?」

 達也がその飲まれてしまっていた空気から蘇ったのか、早速、テッドに問いただす。
 隼人も気になって、耳を傾ける。

「なんでも、最近──大佐に昇進されたとか言う隊長で、今すぐではないそうなんですが、秋頃に母艦航行の任務に就くとかで……」
「新人大佐? でも、葉月よりオッサンって事だろう?」
「ええ。確か……四十代前半だったでしょうか?」
「それでも若いよな……」

 葉月は最も若い大佐だが、それでも四十歳前半で大佐に就任出来るのも余程の事だと、隼人は唸る。
 そんなエリートらしい大佐が、葉月に対して、またもや妙な『興味』を持っての事だろうか?
 隼人だけでなく、達也もテッドも同じように思ったようで?
 すると、テッドが呟いた。

「シアトルの湾岸部隊なんですよ。あ、そうだ。ミラー中佐は元々湾岸部隊のパイロットでしたよね?」
「シアトル?」

 達也は不思議そうだが、隼人には直感が走った!

「教官だ!」

 隼人の叫びに、達也とテッドが驚き振り返った。

「教官って? 葉月の訓練校の?」
「そうだ。確か、ミラー中佐がいた部隊の隊長は『葉月の恩師だ』と……!」
「では? その恩師が御園大佐の計画を知って、手を差し伸べたって所なんでしょうかね?」
「ミラー中佐はその大佐の事を『尊敬している』と言っていたぐらい深い繋がりがあるみたいだったし。何かを確かめに行ったのかもな?」

 さらにテッドが『教官情報』を付け加えた。

「……ウォーカー中佐に聞きましたけど、その『湾岸大佐』は……『幹部育成マシン』と言われているぐらいに、エリートを育てた教官であったり、部下を昇進させた上官でもあったらしいですよ。つまり御園大佐は、その『教官』の一番弟子という事ですか? それにミラー中佐もその一人と言う事ですよね!?」
『!』

 テッドの言葉に、隼人も達也も固まる。
 『幹部育成マシン』と言われると言う事は、かなりやり手の『教官・上官』と言う事になる。
 それも教官の時も、かなりの手腕を振るっていたのだろう。

「つまり……大佐嬢を……。御園葉月を訓練時代に『ツーステップさせた敏腕教官』って事か?」

 達也も急におののいたようだ。

 その『恩師』が、葉月に『来い』と誘いをかけてきたと言う事。
 ミラーとは同じ上官の下にいた『兄妹弟子』と言う事になるのだろうか?

「ああ、でも……今、大佐嬢とミラー中佐は犬猿の仲なので、念のため、見届けてきます」

 テッドがハッと我に返り、大佐室を飛びだしていった。

「そんな喧嘩をはりとばす葉月なんて、昔からじゃないか? 最近は『牙』をもがれたかのように、大人しかったけどなー」

 達也がじろっと隼人を横目で見た。
 だが、隼人としては『やっと台風らしくなった大佐嬢』の事など、慣れてしまっている毎度の事。
 今はそんな『台風ウサちゃん』で、ハラハラする事よりも、もっと胸を騒がせている事があるのだ。

「今までなら、兄さんが今のテッドみたいに、すっ飛んで葉月をなだめていた……じゃじゃ馬慣らしだったのにな」

 テッドに任せたままで、行かなくても良いのか?
 達也がそう促しているのも分かっている。
 でも、知らぬ顔。

 今の隼人の心は……『強敵なる女性』がちらついてばかりで、ザワザワとざわめき、嵐の前と言った感じなのだから。

 そしてついに、大佐室の大窓に小さな滴が叩きつけられる。
 雨が降り出したようだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 空がすっかり暗くなっても、雨はやまずに降りしきる。
 時には、立ち止まってしまうぐらいの強い風が吹き始める。

 官舎住人の駐車場──。
 外来者用の駐車スペースはあるが、葉月の赤い車はとても目立つ気がする。

 いつもなら、葉月も、きっと隼人も……人目を気にしていた事だろう。
 だけれど少なくとも、今の葉月には、あまり気にはならなかった。

 傘をさして、一歩外に出た時だった。

 ──ゴロゴロゴロ──

 この季節に良くある『雷雨』になったようだ。
 雨足は激しくなり、強い風に傘をさしても、横殴りの雨、大粒の雨が一瞬にして、制服を濡らした。

 その彼の部屋の前に辿り着き、葉月は首を傾げた。
 キッチンにある窓から、灯りがさしていなかったのだ。
 ミラー中佐と毎度の小憎たらしい会話をしつつも、ちょっとした事で話し込んでしまった為に、葉月は隼人よりも遅く大佐室を出てきた。
 隼人は一時間も前に、達也と一緒に大佐室を出て行ったのに……まっすぐに帰っているなら、彼ならきっとこの時間はキッチンに立っているはずなのだが。
 時間は20時だ……。

 チャイムを鳴らすべきか、それとも……?

 葉月はそっと上着のポケットから、ハンカチに包まれた『鍵』を取り出し、一時、躊躇う。

 約半年。
 隼人とは生活を分かち、職場だけでのお付き合い。
 それでなんとか流れてきた。
 だが、今夜は違う。
 この鍵で、そこの扉を開けた時──きっと葉月だけではない、隼人も『覚悟』をしなくてはならない何かが待ちかまえているのだ。

『怖れて避けている』

 隼人はそれに気が付いたのだろう。
 葉月も気が付いた。
 そして、その気持ちは『満潮』に達したのだろう。

 鍵は隼人がくれたキッカケであり、澱んでいる流れを動かさねばならぬのは『葉月』なのだろう。
 鍵を渡されて、すぐに決した葉月だが、本来なら隼人が言うように『葉月がその気になった時に、いつでも』と言う心積もりだったのだろう。
 彼らしい……葉月に対する余裕を持たせてくれる配慮。
 それでも葉月は、この鍵は、『やり直したい』というお互いの願望を安易に解決してしまう『甘いキッカケ』にはしたくなかった。
 だから、朝の時点では返そうと思っていた。
 でも……隼人のあんな限界に達しているような姿を目の当たりにしては……。
 もう、いつまでも一歩退いて、何かを待っているような自分はやめなくてはいけない。
 今までは、側にいた隼人が、なんでも導いてくれたから、『迷っていても、躊躇っていても、彼がなんとか後押しをしてくれる』と言う甘えもあったと思う。
 もう、そうではない。
 葉月は葉月の決断で動かねばならない。
 それが間違っていても、だ。
 正しいように動こうなんて思っているうちは、きっと何も出来ないのだ。
 そう思うから……。

 葉月は意を決して、鍵穴に鍵を差し込んだ。

 ──カチッ──

 鍵が回って、ドアノブを引いた。
 だが、やはりキッチンと隣接している小さな玄関も暗いまま。

(もしかして、達也に捕まって、外食でもしているのかしら?)

 それなら、中で待っているしかないと、そっと玄関に入った時だった。

「おつかれ」

 廊下がパッと明るくなる。
 廊下の先にあるダイニングキッチンの入り口から、隼人がカッターシャツ姿で現れた。

「留守かと……」
「留守に見せかけた」

 隼人がなんだか今までに見せた事ないような、挑発的な笑みを浮かべたように思え、葉月は固まった。
 しかし、その勘は当たっていたようだ。

「俺がいないと判れば、もしかして、逃げていくんじゃないかと。それなら、それで、どうしてやろうかと思ったぜ」
「!」
「でも、逃げなかったな……ちゃんと鍵を使って、そっちから入ってきた」

 灯りがついていなかったのは、『試されていた』?
 隼人は、葉月が約束通りに絶対に来るなどという『信用』などしていなかったのか。

 なんだか凄く胸が痛くなってきた。
 いつもの『彼』じゃない気がする。
 ううん……きっとそうなるかもしれない。と、葉月は予想していたのだ。
 だから、怖かった。
 きっと彼も……。
 でも、もう遅い──二人は二人の意志で『始めてしまった』のだ!

 それでも、隼人は落ち着いている。

「あがれよ。随分と激しい雨になったみたいだな。今、タオルを持ってくる」

 そんな気遣いは以前通りなのに、隼人の表情はとても硬く、そこで笑顔が消えた。

「有り難う」

 パンプスを脱いで、濡れたストッキングのつま先をハンカチで拭いてあがる。
 葉月があがったのを見て、隼人が奥にタオルを取りに姿を消す──。
 スカートも結構、濡れていた。
 上着の肩章から胸元にかけては、かなり濡れてしまった。

 上着を脱いで振り返ると、後ろにもう……隼人が戻ってきていたので、葉月はもの凄く驚いて、彼をみつめた。
 タオルなど持っていない……つまり、すぐに戻ってきたという事なのか? それとも? 取りに行ったふりをして、そこで葉月を眺めていたのか? どちらにしても、その隼人のやっている事が、また彼らしくない気がして葉月はさらに戸惑うばかり。

「女は濡れると、すごく艶めかしいよな」
「……」

 また先程の挑発的で、なんだか不敵な闘志と例えたくなるような彼の笑顔。
 そして、栗毛もカッターシャツの胸元も、しっとりと湿ってしまった葉月の雨濡れ姿を見下ろす彼の目が、急に燃え上がった様に見えた。
 その証拠に、隼人の指先が、迷うことなく葉月の頬に触れた。

 そしてその大きな手は、以前のような暖かさを醸し出すことなく、まるで獲物を捕らえ掴んで離さない獣のように荒っぽく、葉月の顎を掴み上げた。

「後戻りは出来ない」
「分かっているわ……」

 葉月はそんな燃えるような眼差しを見せ始めた隼人から逃れるように、目線を伏せた。

「眼を……逸らすな。いいか、今夜は目をつむる事なんか許さない。俺だけを、俺の事だけを見るんだ。他は一切、許さない」
「……」

 顎をさらに掴み上げられて、葉月は言われた通りに、彼を真っ直ぐに見上げた。

 もう……一年前。
 初めてこの部屋に来た時もそうだったように……。
 なにかに二人で挑むかのような視線が絡まる。
 そう、葉月も隼人に負けない強さで彼を見つめ返した。

「そう、その目だ……」

 その葉月の眼差しを見た隼人が、満足そうに微笑む。
 だが、次にはいつもの彼らしい穏やかな眼差しが、葉月に向けられていた。

「俺だけを見ていればいい。なにもかも他の事を考えるのは許さない」
「……」

 そういうわけにもいかない……と、葉月はふと心の隅で一人呟いていた。
 隼人も本当はそう思っているはず。
 心の中で暴れ始めている何かを、必死に抑えているのが、葉月にもひしひしと伝わってくるから。

「今夜は俺に任せてもらう」
「勿論よ。今夜、私は貴方の思うままよ──」

 躊躇うことなく、迷うことなく──葉月は隼人を見つめて呟いた。
 ほら……彼の瞳が煌めき、燃え上がった!

 その瞳を見た次には……葉月はもう、彼に唇を塞がれていた。
 冷えた唇を、熱っぽい彼の口づけで熱を与えられるように……。
 湿ったシャツの襟元から、彼の燃える手先が冷えた肌の上を滑り始める……!

 そのまま葉月は抗う事なく、なにもかも隼人の手に委ねる。

 本当に、肌も身体も心も、潰されるように鷲づかみにされた感覚に陥る程に、彼の手は荒っぽい。
 濡れたシャツはすぐに左右に開かれ、胸元をさらけだされる……。

 暫くして、葉月は濡れた身体のまま──夜灯りだけの彼の部屋にさらわれていった。

 遠く聞こえていた雷の音。
 それが、彼の部屋に近づいてきていた。

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