急に潮風の向きが変わった気がした。
隼人の前からすうっとその見定めた一点へと向かおうとしているような気配。
振り向けば、今、大がかりな演習を共にしているパイロットにメンテナンサー達がざわついているのに気が付いた。
「やっと来たな。彼女」
そう言ったのは、ベージュのメンテナンス作業着を着ている同期生である『ジャン』。
彼も今回の『国際連合軍合同演習』に参加する一員として、マルセイユ部隊からメンテチームを引き連れて、この小笠原にやってきていた。
その彼が帽子のひさしをつまみながらざわめいている方へと視線を向ける。そして彼の待ち構えていた笑顔。この彼もこの日を心待ちにしてたことだろう。
「俺達が、あの彼女と出会って巻き込まれて何年目だ?」
「さあ? 忘れたなあ」
「ひどい旦那だな」
ジャンの呆れた顔。
そう。ざわめきの向こうに現れたのは、この御園中佐である自分の妻──『御園葉月』。
本当なら、何年ぶりかに目にしたその姿に感動を覚えるはずなのだが。いいや……本当は泣きたいほど感動している。だが、こうして知り合いが多い上に誰もが『中佐の奥さんがやってきた』という視線をこちらに集めてしまうので、照れくさいだけだ。
『いよいよ明日だわ』
『ああ、待ち遠しいな』
昨夜、共に寄り添って眠っているベッドの上で交わした言葉。
妻は昨夜からやや興奮気味で、暫くは寝付けなかったようだ。しかしそれは夫の隼人も同じこと。
その妻が今──。不敵な微笑みを携え、栗毛を潮風になびかせ『空の女』の姿で現れた。
だから潮風の向きが変わる。男達の身体が皆、そちらに向く。なにかを一斉にさらっていく風の精のような妻は健在だ。
その風の精にさらわれていく男達の胸の高鳴り。彼等は何を待っているかというと、その風の精が最後に一回切りの『フライト』と決めたこの日。
その胸の高鳴りを、夫はそっと胸に抑え込み、甲板の上にいる『大空野郎』共の視線を集める妻を遠くから見守るだけだ。
「大佐が来たぞ。ビーストーム2、もう一度確認!」
「ラジャー!」
元気良く答えたのは、この機体の担当を誰にも譲らずに待っていたメンテナンスの男、エディだ。
そしてもう一人──。
「おい、吾郎! 下をもう一度チェックしろ。俺、コックピットな」
「ラジャー。エディ!」
あの岸本吾郎が今は『元サワムラチーム』である『ファーマーチーム』の一員になり、今や小笠原では誰もが知っている優秀メンテ員。AAプラスの成績を持っているエディにとってやり甲斐のあるライバルになっている。
その岸本吾郎がちょっと興奮しながら隼人の前に来た。
「御園キャプテン。俺、待ちくたびれましたよ」
「そうだな。岸本だって、彼女と甲板を共にすることを夢見て『研修荒らし』をしたんだもんな」
「やっとこの時が来たって感じです。俺にとってはたった一回だけになってしまったけれど、精一杯サポートします」
同じ真っ赤なメンテ服を着るようになった青年を、隼人は『頼むな』と見送った。
吾郎もやや抑えきれない興奮をその頬に見せ、二号機へと走っていった。
すると、後輩を見守るように見送った隼人の隣にいるジャンが大笑いをする。
「研修荒らしって。それをさせた張本人は、あの嬢ちゃんだろ。まったくどんな刺客を小笠原から送り込んできたかと思ったぜ。お嬢さんがらみでやってきた男が研修を片っ端から受けまくって急成長していったのには、またあっちの基地では噂の的になり、『ああ、またあのお嬢さんか』と納得したり。最後には上層部が『岸本を捕まえろ。小笠原に返すな』なんて騒ぎになってなあ。きっちりと送り返した俺に感謝しろよな。俺のフランス隊員の立場も考えて欲しいぜ」
「あはは、悪い、悪い! 世話になったな、ジャン! その代わり、この研修の一番チームとして指名しただろう」
「なに恩着せがましい。指名もくそもあるか。お前がフランスを出ていく条件に約束した研修だぞ! 俺が来てあたりまえってもんだろ!」
なに変わらぬ同期生とのどつきあいに、隼人も高らかに笑っていた。
今、それぞれのチームと対抗戦をしたり、レベルを見ながら混合チームを作ったりと、空部隊は活気溢れる研修を実践していた。
そしてその手応えはどこの上官にも評判も良く、パイロット達のモチベーションも最高レベルに引き上げられている。
そんな熱気がこの甲板に渦巻いていた。
隼人とジャンも、パイロットと同じようにチーム替えをしたり、混合チームを作って試してみたりという研修をジャンと中心になってやっている。
だが、こんなに活気づいている演習をしている中、いつも誰かが必ず言う。──『大佐嬢は何故、ここにいない』と。
いや、実際は彼女も甲板に立ってウォーカー中佐と熱気溢れる指揮を展開していた。そうじゃない、大空野郎共が言いたいのはそんなことじゃない。──『何故、彼女が飛べないのか』なのだ。
しかし今となっては誰もが知っている。彼女が自らコックピットを降りる意志が固いこと。それならば皆で熱心に説得して彼女をコックピットに引きずり戻そうという動きもあったかも知れないが、そこで誰もが落胆するように肩の力を落としてしまうのは『大佐嬢の胸に致命傷有』ということも皆が知ることだからだ。
だが、チャンスはあと一回。
大空野郎共がここに集うことになったその『台風の目』がそこに現れ、潮風を舞い込み『風の精』なんて可愛らしい例えなどぶっ飛ぶほどの烈風がじわじわと起こり始めている胸騒ぎを誰もが感じているのだ。
「少し時間がかかったが、だが彼女はやっぱり凄いな。こんな大舞台でラストフライトにこぎつけるだなんてな──」
ジャンの妻を見る遠い目。
あれから葉月は回復した身体の落ちた体力をつけ直すことから始まり、最低限の適性検査も何回か落とされた。もうずうっと飛んでいないこと、そして落ちた体力がパイロットとしての身体を損失させていたことが原因だった。
なのにあと一回の許可を取るために、彼女は諦めず、ついに──。
「うん。四年かかった」
「流石だな。でも彼女がここに来なければ、誰もが納得しないまま、ずっと待っていたと思うぜ」
ジャンはそこで『俺だって待っていた』と言ってくれ、隼人はそっと頷くだけ。
妻はついに『ラストフライト』を手に入れた。
今日、彼女は空を飛ぶ。
「隼人、お前もな。まさか開発に異動して甲板を降りてしまっていたなんて俺はまだ許しちゃいないぜ」
「でも、こうして時々観察やデーター取りで参加はさせてもらっているけどな」
「また、あっさりとキャプテンの立場を捨てやがって。お前ってほんっとうに昔から嫌な奴」
「そりゃ、どうも。根に持つ同期生がいつまでも惜しんでくれて俺も幸せ」
これまたいつもの言い合いに、ジャンが『なんだと』と飛びかかってくる。
今はデーター取りの研修で、この大きな演習にお邪魔しているが、今日は違う。実は隼人も『四年ぶり』のメンテチームキャプテンを、本日限りでさせてもらっている。元より、チームを引退した時からのメンバーとの約束だった。
今日はその後輩達が笑顔で迎え入れてくれ、隼人はこうして妻を待っていた。
『御園メンテキャプテン! 来てくれ』
「はい! トーマス大佐」
甲板指揮を取り仕切っているのは妻だけじゃない。
湾岸部隊の空部隊大隊長であるジェフリー=トーマス大佐も妻との連携で演習を取り仕切っている。
妻の恩師と会ったのは初めてだったが、妻がよく話してくれるように、割り切るところは厳しく、だが熱血漢なところもあり、人を大切にする上官。見ていると妻以上の采配を振るうのには感嘆の溜息しかでてこない隼人。その溜息は『やはり妻の恩師だ』という納得の溜息でもあった。
ほかのパイロット達はそのトーマス大佐の一声には魔法がかかったように良く動く。それは妻以上の引力のようなものをびんびんと感じる隼人。──聞けば、空軍の男なら若いうちから誰もが憧れると言う幻のエースチーム『雷神』のパイロットだったとか!? それを知った男達にとってはトーマス大佐は一種の『カリスマ』だ。その男が妻と共に指揮をしているものだから、否が応でも甲板は一つの形にまとまっていく。
その見事さに見学に来る高官達も感心し唸っている。こちらの評価も上々のようだ。
葉月はその恩師から一歩引いた形で指揮官として活躍している。だが、今日だけは……。
『藤波キャプテン』
『ミラーキャプテン』
『プレストンキャプテン』
トーマスの声が甲板に響き渡る。
彼に呼ばれ、それぞれのチームとフライトを待機しているキャプテン達が、いや……御園大佐嬢と『飛ぶ男達』に集合がかけられる。
金髪の凛々しい指揮官の目の前に、三人のフライトキャプテンが並んだ。そして隼人もその横に整列する。
「諸君。ついにこの時がきた。私も今、この教え子の大事な瞬間に立ち会え、胸の高鳴りを覚えている」
「イエッサー!」
紺色の作業服を着込んでいる金髪の恩師の横に、既に飛行準備を整えている葉月が微笑んで並んでいた。
「葉月、なにかあるか」
「いえ。ただ早く行きたいです」
「よし。では、お前と共に飛んできた男達と行ってこい」
「はい、大佐。このような配慮をしていただき嬉しく思います」
妻の煌めく眼差しが恩師へと向けられる。
いつも厳しい顔つきで滅多に笑顔を見せない金髪の指揮官は、『ライオン大佐』と呼ばれている。その男がふと大佐嬢に微笑んだ。
「飛んだと言ったが、空じゃない。お前達はずっと前から心で飛んでいたんだ」
恩師のその言葉に、大佐嬢だけでなく、彼女と共に空へ挑んできた男達も強く頷く。
「なお同期生、同僚である諸君は心得ているかと思うが、大佐嬢には限られた時間しか与えられていない。そこを考慮し安全第一に飛ぶこと。異変が起きたらすぐに着艦すること。決められた時間以上飛ばないこと。名残惜しい気持ちが強くあると思う。私も一緒だ。だが時間が来たら、この私の責任において大佐嬢だけはしっかりと着艦させる」
妻は勿論、隼人もそして隣に並んでいるパイロット三人も揃って頷いた。
葉月の長年の旧友で同期生でもある『藤波康夫』
フロリダの訓練校同期生である『アンドリュー=プレストン』
そして、今も妻と一緒にビーストームを引っ張っているキャプテン『ブライアン=ミラー』
彼等三人が大佐嬢のラストフライトのお供をトーマス大佐から命じられた。
「よろしくお願い致します。皆様」
妻はそのお供ににっこりと微笑む。
「なにが『皆様』だ。かしこまるなっていうんだよ」
「相変わらずね、康夫は。まあ、短いフライトになりますが、よろしくお願い致します」
つんとする妻を見て、あのジェフリーがまたもやそっと笑っているではないか。
そして康夫も、三十代の女性となってもかわらずのお嬢振りに、久しぶりにあってもかちんとくるようだ。
「まあまあ、フジナミキャプテン。こんな嬢ちゃんにいちいち腹を立てていたら、こっちが保ちませんよ。大人の顔、大人の顔。俺達はこんな嬢ちゃんなんか気にしないで大人になったんですから」
「なんなの。アンディまで。言っておくけれど、空に行ったら容赦しないからね。訓練生の時のように、アンディが真っ青になるようなことやっちゃうから」
「よく言うな。そんなドデカイことやれるもんならやってみろよ。直ぐに大佐から着艦命令だされるんだからな!」
こちらも久しぶりのアメリカ同期生。
大人の顔といいつつも、結局、『お嬢ちゃん』と向き合うとムキになってしまう同期生はここにも一人。
「あはは、面白いな。ジェフが鬼にならない程度に行こうじゃないか」
ミラーはやっぱり落ち着いていて、彼にとっても恩ある上司であるジェフリーとただ楽しそうに眺めているだけで、こちらの方が本当の『大人組』だった。
だが皆の顔は『待っていた。やっと来た』というそんな顔だ。
葉月の適性検査パスと上官達の許可を得た後、康夫が研修に来る予定の男達に声をかけ、この計画を立ててくれたのだ。指揮官が葉月の恩師であるトーマス大佐と言うこともあり、康夫は『この時しかない!』と前々から狙っていた『葉月にとっての最高の舞台』を作り上げてくれたのだ。康夫の声かけに、フロリダにいたアンドリューも、そしてシアトルにいたジェフリーも、そして小笠原のミラーも、皆一発で『意見一致』だったそうだ。それもそうだろう。彼女と『もう一度飛びたい』という男達が一同に集まるなんてこの時しかないではないか。フランスにいる康夫だけでない、各地の中佐に大佐が協力、しかも今や噂のやり手大佐であるトーマス大佐が動いては誰も反対はしないと言ったところらしく、康夫も『あの人のお陰でスムーズに行った!』と喜んでいた。
そうしてこの日に、妻のラストフライトは、このような幸運な形で迎えられたのだ。
しかし今日の妻。どうしたことか。今まで一度もそんなことはなかったのに、フライト前なのに真っ赤な口紅をつけているではないか。
だが、その『らしくない』事をしている妻の考えそうなことは、夫となって数年の隼人にはなんとなくでも通じてくるのだ。
きっとその真っ赤な口紅は、彼女の『気合い』なのだろうと……。
(初めて見る色だなあ)
のんきにそんなことを思ってしまう夫だ。
いつも淡い色合いを選んでいる妻らしくないからこそ、意味があるように思える。
「さて、もう一人のパイロットも呼ばないとな」
インカムを頭につけているジェフリーが、口元のマイクをつまんで叫んだ。
「ビースカイ1! もうじきビーストームが行く。頼んだぞ」
『ラジャー』
空にいる『ビースカイ』。
それはビーストームの兄弟チーム、つまりデイブが新しく作った『ミニチーム』のフライト名。
そう、ビースカイ1とは、デイブが空にいる時のネームだ。しかし、それは今となってはたまのこと。デイブも甲板指揮にほぼ移行してしまい、今はそのミニチームを甲板で仕切っている。今日はそのたまに空という現場に出て若いパイロット達に現場感覚を叩き込んでいるところだ。
そのデイブが飛び立ったからこそ、妻がこの時間に合わせて準備を整えてきたのだ。
さあ、メンバーは揃った。
「行ってこい、葉月」
「はい。教官」
師弟が笑顔で敬礼を交わし合う。
「行くぞ、葉月」
「行くぞ、レイ」
「さあ、行こう。大佐嬢」
隼人の横にいるパイロット三人が、カタパルトの方へと身体を向け、胸を張って並んだ。
「行くわ。貴方達と空へ──!」
その横に妻が並ぶ。
四人のパイロットがそこで並び、カタパルトへ、そしてその向こうの海へ、そして空へと視線を揃えて馳せている。
そして甲板にいる誰もが、そこに揃ったエリートパイロットの整列に視線を集めていた。
「さあ、発進だ。御園メンテ頼んだぞ」
「イエッサー!」
ジェフリーのその一言で、隼人も敬礼。パイロット達が走り出す。
隼人もジャンと交信を取り、それぞれのチームから一機ずつ飛ばす手順を確認し、カタパルトへ向かう。
その間も、康夫やアンドリューと言った同期生と笑顔で走っていく妻から目を離さなかった。
そのパイロットとしての輝く笑顔は、今日で最後だ。
待っていた。そしてこの日が来て欲しくない気もしていた。
だけれど、これで妻はやっと空と優しく別れられると思った。
もう何年もそうした妻には会えなかったが、彼女はちっとも変わっていないこと、その喜びが夫の隼人にも込み上げてくる。
今日もこうして変わらずに妻の背を見守って、隼人は走っている。
ふと気が付くと、同期生とはつらつと走っていた妻が立ち止まって、隼人を待っている。
「どうした?」
「……ううん」
結婚して五年。
妻は三十四歳になったところ。
それでも、隼人の目の前にいる妻のそうした潮風の中の顔は変わらない。
肩先に揺れる栗毛も、太陽の下で煌めくガラス玉の瞳も……。あのマルセイユの木陰で出会ったお嬢さんの顔のままだ。
なのに、今日は少しだけ違うように見える部分が。それはやっぱりその口紅のせいなのか?
「あのさ。それ、なんのつもりなんだよ。ヘルメットにべったりとつくぞ」
「いいのよ。直ぐに取れたって。ちょっとした『儀式』なの」
『儀式?』と、隼人が眉をひそめると、妻は『女の秘密』とツンとしてしまった。
そんなところまでこの俺でも流石に分かるものかと言い返したいところを、隼人は黙って流そうとした。
「お前、久しぶりのフライトで気分が良くなったからと、無茶するなよ。演習のような激しい飛び方はしない。誘われても……」
「ドッグファイはしないでしょう? 相変わらずのお小言、有難うございます。ついでに旦那様が心配しそうだから、こちらから安心させてあげる。──『許可された時間を守れ』。どう? 安心した?」
なんだか三十を超えてから、今まで以上に『生意気』になったというか、強者になってきた気がして、慣れているはずの妻なのだが、隼人は流石にムッとした顔をしてしまう。
「ああ、安心したぞ。もういい。早く行けよ」
「そうね。行きます」
手強くなってきてしまい『お前、どんなおばさんになるんだよ』と、決して言いたくない思いたくないことが浮かんでしまう四十代目の前の男。
そしてその可愛いだけじゃなくなった妻が、可笑しそうに笑っていた。そんな顔は……昔のままだ。
「信じてよ。もう『独身』の時のようなことはしないって」
妻のその清々しい微笑みに、隼人はふと真顔になってしまう。
そしてその言葉の意味も、夫の隼人には深く通じるのだった。
「そうだな。もうお前はお前一人のものじゃない。お前は俺のものだし……」
「そう、『チビちゃん達』のものよ。あの子達を置いて何処にも行かないわ」
「そうだ。チビ達のママなんだからな」
「はい、パパ。じゃあ、行くわ──」
敬礼をしてくれた妻を隼人も敬礼を返し見送ろうとした。まだ妻がそこで笑顔で隼人を見つめている。
大人になったウサギの顔。この甲板で生きていくことを誓い合ったあの花びらの日より……もっと綺麗になったと、隼人は密かに心で呟いてしまう。
そしてこれも口では言えない。──『その赤い口紅、結構似合っている』と。今でもウサギはウサギでいたずらっ子のように笑うけれど、時には突然、ぐっと大人の雰囲気に高まることもあり、それを存分に発揮するようになった妻の葉月。そしてその口紅も、隼人には新たなるときめきを与えてくれた。
美しい以外にもどきっとさせてくれる、『今度は俺をどこに連れて行こうとしてくれているのだ?』──そんな彼女は健在だ。
そのときめく美しき我がウサギが、潮風の中、囁く。
「パパ、貴方──。ううん、隼人さん。私を遠くまで飛ばしてね」
「ああ」
「そして貴方のところに『海人と杏奈』のところに、帰ってくるわ。ちゃんと迎えてね」
「勿論──」
そして妻は喜びいっぱいの笑顔で、飛び跳ねていく。
──ウサギ。俺のウサギはまだ跳ねている。
変わらぬその快活な姿に、隼人は微笑んで見送った。
さて、ついにその時が来た。
妻との和やかなひとときも一転、隼人は黒いグローブをぎゅっとはめる。
遠く、愛する機体へと向かった妻も、コックピットへ乗り込もうとはしごを登っている。その横顔はもう、あの凍れる大佐嬢の顔だった。
『隼人、フロリダチームが出たぞ。次、フジナミ行かせてもらう』
ヘッドホンからジャンの声。
カタパルトを見ると、もうアンドリューの機体がフロリダメンテチームの手で飛ぼうとしているところだった。
その隣のカタパルトはフランスチームが、キャプテンの康夫を飛ばすカウントダウンに入ろうとしている。
「よし。ビーストーム1を前へ!」
『ラジャー!』
隼人も声を出し、小笠原カタパルトの発進台へと走る。
隣のカタパルトでは、フランスチームが滞りなくフジナミ機を空へと送りだそうとしているところ。
キーンと高鳴っていくエンジン音、噴射口で揺らめく陽炎。ジャンが車輪を覗き込むような体勢で身体を低く伏せ『GOサイン』を海原へと付きだしている。
コックピットにいる康夫が敬礼をし、グッドサインをジャンへと向けた瞬間──。
ゴゥーと言う瞬速音が甲板を滑り出す!
「御園キャプテン、発進確認、入ります!」
「ラジャー。デイビット」
康夫がカタパルトを滑り出したその時には、もうこちらにはミラー中佐の『ビーストーム1』が発進準備を整えている。
既に甲板員は引退をした隼人、現キャプテンであるデイビットにその発進台へと数年ぶりに迎え入れられる。
「ビーストーム1も、飛ばしてください。御園キャプテン」
「そうかい? 有難う。では、今日はビーストームの皆を飛ばさせてもらおうかな」
隼人は笑顔で言ったのだけれど、目の前のキャプテンとなったデイビットは悲しげな顔をしている。
「是非。フライトメンバーもそれを願っています。今日は大佐嬢だけじゃない。『サワムラキャプテン』、貴方にとっても今日はラストフライトなのですから。俺達メンテメンバー全員、貴方のチームにやってきたこと、そして貴方の元で一つになれたことを誇りに思っています。感謝しているのです」
「や、やめろよ。大袈裟だよ。それにもう……何年も前にとっくに甲板は降りているのに」
「いえ。俺達、この日がこなければいいと思いながら、でもまたキャプテンとこうして作業できる日を待っていたんですから」
デイビットの目が熱く潤んでいた。
それを見た隼人の胸も熱くなっていく。
そうか。妻のことばかり考えていて、自分も『ラストフライト』だったのだと気が付かなかった。
結婚後、直ぐに甲板を降り、このデイビットにキャプテンを後継した。彼は期待通りに、サワムラメンテチームをファーマーチームと変えてもしっかりとまとめ引っ張ってくれていた。その安堵感のまま甲板での日々が遠くなり、今日になり……。
それでもあまりにも変わらぬこの感覚に、そんな戻ってきたという感覚などなかった。だけれど、それは『待ってくれていた後輩達』が、あの日のままに変わらずに隼人を迎え入れてくれていたからだとやっと痛感した。
「……発進、行くぞ。一号機を誘導してくれ」
「はい、キャプテン!」
デイビットの誘導で、ビーストーム1が目の前に来た。
「発進チェック開始──。こちらメンテ、発進準備完了。ビーストーム1、発進OK?」
「ビーストーム1! 発進準備OK!」
ミラーのいつもの落ち着いた声。
いつ聞いても静かで、この人はこのまま心の波状を乱さずに空へと行くのだろう。
「ラジャー。こちらメンテ、発進OK──。管制、お願いします」
『ラジャー。こちら空母管制、上空障害無し、発進許可OK』
「ラジャー。こちらメンテ、発進許可OK。ビーストーム1、OK?」
「ビーストーム1! 発進OK!」
赤ランプがチカチカと点灯する。
一つ目の赤ランプがつき、二つ目の赤ランプがチカチカと点灯する。最後の青ランプ点灯でホーネットが発進をする。もうその発進寸前。
カタパルトのスチームがふわっと舞い上がる中、隼人はデイビットと共に体勢を低くしホーネットを見上げる。
「行ってくる! サンキュ、サワムラ!」
コックピットからミラーの敬礼。
そして青ランプが点灯するその前のグッドサイン。
「行ってらっしゃい、ミラーキャプテン!」
隼人が握りしめた拳、その拳の親指を立て『GO!』とカタパルトの先端へと突き出す!
エンジン音を高鳴らすホーネットが瞬速で滑り出す──!
隼人とデイビットはその風圧に煽られながら、カタパルトを飛び立つその瞬間まで海原へと目を離さない。
……やはり、隼人はこの瞬間が堪らなく好きだった。久しぶりとはいえ、身体がゾクゾクしている。
本当はパイロットを夢見ていた少年だった。それが叶わなかったから、元より好きだったメカを選んだ。
コックピットに乗れないなら、飛ばしてやろうと思って、甲板員の道を選んだ。そこでジャンに出会う。
甲板でいくつもの戦闘機を飛ばした。滑走路からも飛ばした。そこで、康夫に出会い、そして三十歳になったとき、茶色い目のパイロットに出会う。
そのパイロットの目は、凍っていた。
冷たく空を見据え、空に怖れなど抱いていなかった。
──さあ、私の命が欲しいならいつでもくれてやる。奪えるものなら奪ってみたらいい!
そんな女性パイロットに出会った。
その彼女をいつもこの甲板から飛ばしては、無事に帰ってくることを祈る日々。
そして彼女は空と対決して、勝利をした訳でもなくただ単に隼人の元に帰ってきていただけ。
「キャプテン。ビーストーム2。来ました」
「ああ」
ついに隼人の目の前に、そのパイロットが現れる。
本来なら次々と間を空けずに飛ばすことがフライトメンテの使命だ。
だが、隼人はただその彼女を飛ばし続けてきた海を、そして空を見つめていた。
「キャプテン……」
デイビットの心情を分かってくれているからこそ、急かさないそんな声。
隼人は目をつむって『ああ、分かっている』と微笑んだ。
「さあ、行くぞ」
「オッケィ!」
インカムヘッドホンのマイクを口元に寄せ、隼人は胸を張って妻が乗り込んだビーストーム2に向かう。
「発進チェック開始──。こちらメンテ、発進準備完了。ビーストーム2、発進OK?」
「ビーストーム2! 発進準備OK!」
在りし日の彼女とちっとも変わらぬ元気な声に、隼人の心は感激もあり、そして惜しむ切ない熱い想いが込み上げてくる。
だが、それをグッと心の奥に忍ばせ、堪え……。
「ラジャー。こちらメンテ、発進OK──。管制、お願いします」
『ラジャー。こちら空母管制、上空障害無し、発進許可OK』
「ラジャー。こちらメンテ、発進許可OK。ビーストーム2、OK?」
「ビーストーム2! 発進OK!」
瞬く間に交わされる『最後の発進確認』。
ついに一つ目の赤ランプが点灯する。
そうだ。この瞬間はなにも待ってくれない。
発進をするのに『待て』はない。行くという意志を固め、迷いを見せてはいけない瞬間だ。
それを何度も経て来たのに、今日の今日になってこの発進時がそれほどのエネルギーを秘め、そして儚いほどに『一瞬』だったのだと……。そう初めて知った気がする。
「葉月、最後じゃない。これが最後じゃない」
そんな隼人の思わぬ呟き。
横にいるデイビットはもう涙をこぼしそうな顔をして、唇を噛みしめている。
「聞こえているか? お前はこれからだって──」
『貴方』
妻の声が、良く知っている優しい声で返ってきたので、隼人はコックピットを見上げた。
二つ目の赤ランプが灯る、もうすぐに青ランプが点灯するだろう。
待てはない。発進をする時には真っ白な気持ちで行かなくてはならない。あれこれを噛みしめ感傷に浸ることなど無情なほどにない瞬間。
その瞬間を、最後の瞬間を二人で迎えているのに、妻の声は穏やかで優しい。
そして二つ目の赤ランプが点滅から点灯に変わる。
さあ……!
『行ってきます』
その声は、懐かしい凍る声。
無機質で感情のないロボットのような声。
ヘルメットのシールドで表情は判らないし、そして酸素マスクで邪魔されて口元だって判らない。
だが妻が最後に返してきた一瞬の声──。
『貴方の心を乗せて、共に行ってきます!』
青いランプが灯る!
その声を聞き届けながら、隼人は最後の『GOサイン』をカタパルトの果てへ、海へ空へ、妻をこの手で羽ばたかせたい気持ちで真っ直ぐに突き出した!
『GO! ビーストーム2!』
葉月からの『最後の敬礼』。そして『最後のグッドサイン』。
カタパルトの蒸気を巻き込みながら、妻のホーネットがエンジン音と轟音を轟かせながら滑り出す!
低い体勢のまま、隼人は決して目を閉じずに、その瞬く間に過ぎていく『最後の瞬間』を目に焼き付ける。
見上げている妻の機体が海の先へと走り出す!
「忘れるな! お前の勝利は空から帰ってくることだ!!」
もう、聞こえていないだろう……。
それでも隼人は叫んだ。
お前の勝利は──。あれほどに全てをぶつけていた空に今日は勝利を叩きつける日なんだと。お前は勝った、空にも勝った。甲板に帰ってきて初めて、お前は勝利をするのだと。それがお前のパイロット人生の最高の瞬間なんだと!
そのホーネットが今! 隼人がいる甲板から空へと飛び立つ。
真っ直ぐに真っ直ぐに空へと向かっていく。
なにも変わらない。在りし日の『御園葉月パイロット』のまま、空高く昇っていく──。
「行きましたね。やっぱり惜しいです。彼女が飛んでいく瞬間、俺も好きでした」
「有難う、デイビット──」
後輩と空を見上げる。
高く高く昇って行く妻が翼を広げて飛んでいる。隼人は翼を広げているその妻に、敬礼を捧げる。
聞こえた──。
聞こえたわ、貴方。
『忘れるな! お前の勝利は空から帰ってくることだ!!』
聞こえた。
高鳴るエンジン音。
噴き出す轟音の中でも、微かでも聞き取れたわ。
見て、貴方。
今日も、あの日々と変わらない『私達の青』が広がっている。
美しい、とても美しい。
こんなに綺麗だと言うことを、初めて知ったようにとても綺麗。
帰って貴方に教えてあげる。
私が掴んだ本当の『青と蒼』を──。
『ビーストーム2! 大丈夫か』
「大丈夫よ、ミラーキャプテン」
『レイ! 無理してないだろうな』
「アンディ。大丈夫よ。私はね、もうあの日の私じゃないのよ。今日、教えてあげる」
肩を並べてきた男達の声に、葉月はコックピットの中、微笑みをいっぱいに広げて伝える。
『さあ、葉月。今からどうする? どうしたい』
「康夫。決まっているじゃない」
すると男達の息が揃ったように聞こえたその瞬間。
後ろから一機のホーネットがやってきて葉月の横に並んだ。
『嬢、派手に行くか。高官棟の連隊長室めがけて』
「勿論。デイブ中佐。お願いします」
『全機、降下する。基地高官棟連隊長室上空へ──』
「ラジャー」
『ラジャー!』
葉月の両側に一列に並ぶ男達のホーネット。
同じ角度に機体を傾け降下する。
少しだけ胸に響く痛み──。
やはり、もう……これが最後なのだと。やっと実感できた気がして葉月は目を閉じた。
でも──。目を開ければそこには輝くばかりの青い空に蒼い海、そして緑の美しい島々。煌めく珊瑚礁。
男達と空気を切り裂くように斜めに降下し、一定の高度で機体を元に戻し真っ直ぐに飛ぶ。
見る見る間に近づいてくる基地の建物。
目指すはど真ん中の高官棟。
そこの四階、連隊長室には──。
「ほら、見ろ! カイト、アンナ。来たぞ」
金髪の連隊長おじ様が待ち構えて『チビちゃん二人』に見えるようにしてくれているだろう。
「海人、ママだ。パパが飛ばしてここまできたんだぞ」
栗毛の息子は、葉月にそっくりで、黒いおじさんにそれは良く懐いている。
きっと義兄が一番に抱き上げて、まだ小さな息子に窓辺で見せてくれているだろう。
「アンナにはまだ分からないかもしれないわね」
「杏奈、ママだ。ママが来たぞ」
娘はまだ三歳だから判らないだろう。
年子で生まれた娘は、葉月がいつか望んだとおりに澤村のお祖母ちゃまそっくりの黒髪の日本人形のような女の子に生まれてくれた。
その可愛らしさに横須賀の両親はもうめろめろで、暇さえあれば小笠原の新しい家に泊まりにやってくる。
「きたっ。たいさ、きた! あれ? パパ、ママ、あれ!?」
そしてお隣に家を建てた海野夫妻の息子、晃も今は御園夫妻の二人の子供とは兄弟同然だった。
いつも葉月のことを『たいさ、たいさ』と呼んでくれる。
「ああ、あれだ。晃。覚えておけよ。『たいさ』が飛ぶ限り、パパもママも飛ぶんだ」
きっと海野夫妻も笑顔で息子と共に、葉月のこの日を見届けてくれているだろう。
葉月の頭の中にはそんな光景がくっきりと思い描かれる。
『連隊長室上空だ。行け! 嬢!!』
デイブの声に、葉月はスロットルをぎゅっと握りしめ、瞬く間に過ぎていく景色の中、高官棟の上を突っ切った。
──気のせいか。建物の一つの窓に人影があった様な気がした。
そっと微笑む。
そして一筋の涙。
終わりの涙じゃない。
私の中に確かに残ったものがある。
青い空を鋭く切り裂く音──。
静寂な青の中。
今の私は、熱き想いを翼に乗せ、空にいる。
そして葉月はついにその果てへと行き着く。
見下ろせば、空母の上に赤い一点が。
私のてんとう虫。私を甲板から守ってくれていたてんとう虫が、どんどん大きくなってくる。
彼は誘導灯を振り、こちらへと葉月を導く。
『葉月、いつも、生き抜く事に投げやりで、そして無関心だったお前だ。なんだ──極限に来て、その無関心さがお前を食ってしまったのか? だったら……ああ、もうお前は死んでしまっているのか? いいぞ──そういう大佐嬢がいたって事を、俺が語り継いでやる。そこで終わりだ──』
『生きたいだろ? 本当は……生きたいだろ!? まだ……お前、やりたい事とやり直したい事も、やり残した事もあるだろ!? 帰ってこい!!』
『お前が……飛んでいる姿が、ここから見える。おめでとう……お前は今、生きているんだ』
『生きる事をお前は今……選べたんだよ』
あの日の夫の声が聞こえる。
葉月がやっと『生』に目覚め、なんのために空を飛んでいたか知ったあの日の声。
『忘れるな! お前の勝利は空から帰ってくることだ!!』
夫の声。最後の声!
スロットルを握りしめるそのコックピットの目の前は、真っ直ぐに延びる甲板滑走路。
その先には真っ赤なメンテ服を着た夫が誘導の手を止めずに『こっちだ』と叫んでいるような口元で立っている。
滑走路に車輪が着く振動。
そしてワイヤーにフックがかかる感触──。
『帰ってきた!』──貴方、私、帰ってきたわよ!
エンジンが止まり、葉月はキャノピーを開けてすぐさま装備を解き、ヘルメットを取った。
「貴方! 隼人さん!」
コックピットから叫ぶと、夫もそのホーネットの下まで構わずに駆けてきてくれている。
「葉月、お帰り……」
「ただいま……」
終わってしまった。
夫の『お帰り』を聞いた途端に、本当に空へ行くなにもかもが終わったと葉月の瞳から熱い涙が溢れて止まらなくなった。
「聞こえたわ。貴方の声。帰ってくることがお前の勝利だって」
夫の驚いた顔。
だけれど次にはとても嬉しそうな笑顔を見せてくれる。
葉月はコックピットを惜しむことなく飛び降りて、その下にいる夫へと向かっていく。
そして甲板の上、彼と向き合うと、なりふり構わずに彼の胸へと飛び込んだ。
「お帰り。葉月」
「貴方、ただいま!」
私の空はこれからは『ここ』だから。
飛び込んだ葉月を、隼人も場に構わずに抱きしめてくれた。
周りからは『お疲れさま』の拍手が鳴り響いていたが、葉月には隼人の心臓の音しか聞こえなかった。
今日も二人を取り巻く潮風は、空高く吹き上がる。
数年後──。葉月はこの度の大規模な演習の成果の評価を受け、小笠原空部隊の『大隊長』に就任。
そして夫の隼人は、退官したマクティアン大佐の後を引き継ぎ、小笠原工学科科長に就任。
彼のことは『御園工学大佐』と皆が呼ぶことに。
そして、大佐嬢は……。