「さあ、行こう」
今、葉月の目の前には、真っ白な手袋をしている夫の手。
葉月の手も、レエスの手袋で真っ白。その手を、隼人の手の上に乗せた。
エドが『ゆっくりで大丈夫ですよ』と言いながら、女性スタッフに介添え役を指示し、部屋の外へとエスコートしてくれる。隼人もエドの声に合わせながら、そっと葉月の手を部屋の外へと引いてくれる。
「つわり、気分は大丈夫か」
「大丈夫よ、貴方」
葉月は微笑みを夫に向ける。
今日の彼は葉月と一緒で『真っ白』。
制帽を被っているそのひさしから、いつもの穏やかな眼差しが葉月を見守っている。
真っ白い夫の手が、葉月の白いレエスの手をぎゅっと握りしめ、前へと引き始める。
介添えの助けもあるけれど、その真っ白な夫と真っ白な自分が並び、ゆっくりと歩き始めるその感触に、葉月は胸が熱くなる。
妻となるための白いドレスの気持ちはもう、あの婚姻晩餐の時に噛みしめた。
今日はちょっと違う気持ちが葉月にはあった……。
隼人とふたり。真っ白な姿を揃え、玄関へと向かう。
ロイの家に親族が再び集まっている。そこで今日は支度をさせてもらい、皆と一緒に会場へ向かう予定。
「さあ、皆がお待ちかねだ」
白い正装姿の隼人が、玄関の扉を開けた。
葉月の目に、小笠原の眩しい太陽の光が降りかかる。とても素晴らしい天気のせいか、直ぐには庭の光景が写し出されなくて、白い手で目元を覆う。
「来たぞ」
「花嫁が出て来たぞ」
そんな男性数名の声。
そっと目を開くと、そこには夫と同じ真っ白い軍正装をしているロイ。そしてそのロイと向き合って話しているのは、紺色のフロックコートで正装をしている右京。
「葉月──」
「右京兄様」
あれからも何度か会ったけれど、やっぱり葉月は音楽隊を辞めてしまった従兄に納得していなかった。
折を見て何とか復帰できないかと密かに時期を見計らい……。
そんな葉月の考えなどお見通しだったのか、純一と隼人が別々に口を揃えてこう言った。──『お前が口出しする事じゃない。今度はお前が兄貴を静かに見守ってやる番だ』と。同じような時期に、同じ事を言ったふたりに驚いた。最初に言ったのは当然夫の隼人で、葉月もハッとさせられた。その数日後だったか。純一と電話で従兄の話題になった時に、義兄の彼もそう言ったのだ。それで葉月の心は、とりあえず収まっていた。
それでもやっぱり、もう一度見たい。本当なら、今日だって、そうして並んでいる連隊長のロイと同じ様に真っ白な軍正装を着込み、誰よりも華やかで優雅な佇まいを見せ、皆の目を虜にしているはずなのだから──。
そんな変わってしまった従兄が目の前にやってきて、とても満足そうな微笑みを葉月に見せてくれる。
「改めて、おめでとう。うん、やっぱり花嫁姿、綺麗だ。兄ちゃんは嬉しい」
「兄様……」
「これ、約束の……」
紺色の正装をしている従兄。
……本当は、やっぱり誰よりも華やかな佇まいを見せていた。
その華やかな従兄が、今までにない清々しい笑顔で、葉月の白い手に花束を差し出してくれた。
真っ白い百合と爽やかなグリーン、そしてほんのちょっぴり淡いピンクの薔薇をあしらっているブーケ。
「これ……。本当にお兄ちゃまが作ったの? すごい素敵!」
「ああ。やりだしたら面白くなってね。女性達に混じって短期講座に通ったけれど、なかなか俺、向いているかも」
「本当にー? なんだか想像できない」
「どうしてだよ。俺は今、花が大好きだっ。もう、堪らなく楽しいっ。花の数は無数にある。そして女性の美しさも個々にあり無数。そんな無数の花を、全世界の女性ひとりひとりに選んで贈りたい!」
いつもの従兄だったので、葉月は思わず吹き出しそうになってしまう。
隣の隼人も『お兄さんらしい』と笑っていた。
確かに、綺麗なものが大好きな従兄がはまってもおかしくはないことかもしれない。従兄が女性達に混じって真面目な顔でこの花束を作ってくれる勉強をしていた姿が目に浮かび、葉月は大事にそのブーケを抱えた。
「有難う。右京兄様……。百合の花が良いという希望も聞いてくれて、こんな素敵な花束。嬉しい」
「従妹のお役に立てて、俺も嬉しいよ」
「お兄ちゃまはいつだって、私を助けてくれていたわよ」
感謝の気持ちを込めて『有難う』と伝えた。
だけれど、右京はそれで納得してくれたような顔も、嬉しそうな顔もしてくれない。微笑んでくれてはいるけれど、どことなく憂いを含んでいる微笑み。従兄の近頃の微笑みだった。従妹がどんなに感謝の気持ちを伝えても、従兄は決して満足してくれない。葉月にはその微笑みの色合いが分かる。従兄はきっと一生、自分の悔いている部分は誰が許してくれても自分自身で許すことはないのだろうと。ひとつの戦いが終わっても、決して全てはなくならない。葉月だってそうだから。真っ白な輝くばかりの正装をしなくなった従兄が着込んでいる紺色が、従兄が自ら課している色合いを象徴しているようで、葉月はおめでたい日にもかかわらず、やっぱり切なくなってしまった。
だが、それも葉月の勘違いに過ぎないと思わせてくれることが、目の前で起きた。
「右京」
「ジャンヌ」
紺色の正装をしている従兄の隣に、まるで夜の女神のような女性が現れた。
従兄と同じ濃紺の、とても華やかなドレスに身を包んでいるジャンヌがそこにいた。
葉月はとても驚き、そして共に驚いている隼人と顔を見合わせる。何故かというと、本当に初めて会う女性のように、とても華やかに変身したジャンヌがいるからだ。
今日の彼女は、あの豪華な金髪を降ろし、大人っぽいアレンジを少しだけ施している。その濃紺のドレス生地の上で揺れる金髪は、まるで夜空に輝く月のようにその対照的な色合いが彼女の金髪をより一層に引き立てていた。メイクもいつも控えめの彼女が今日は華やかに。そして今日は眼鏡もかけていない。
その女性が、あの誰よりも華やかな従兄の隣に並んだ。
すると、そこがぱあっと明るくなる。そして憂いを含んでいた従兄の微笑みも、輝き出す。揃って濃紺の姿をしている二人なのに、雰囲気と言い彼女の金髪の華やかさも手伝って、庭にいる誰もが振り返ったほどだ。
「先生、綺麗。素敵」
「まあ、嫌だわ。私がそれを貴女に今から言おうとしていたのに!」
「だって、本当に綺麗」
「何言っているの。綺麗なのは貴女よ。やっぱり花嫁姿は良いわね。お祝いができて私、嬉しいわ」
「先生、有難うございます。私も先生と一緒にこの日を迎えられて嬉しいです」
ジャンヌも『私もよ』と幸せそうに頬を染め、本当の姉のような優しさで、葉月を抱きしめてくれる。
その指に、銀色のリングが光っているのに葉月は初めて気が付いた。
今、ジャンヌと右京は鎌倉家で共に暮らしている。
勿論、叔父夫妻の許しを得て、ジャンヌは歓迎されてあの家に住んでいる。
そして驚いたことに、隣にある谷村父の内科医院を手伝っているとか。そこでちょっとした心療内科を再開させているらしい。全て口コミで宣伝はしないとのこと。それ以外は産科医としてこの島に来たり、時には山崎の病院にも呼ばれることがあるようで女医として忙しい毎日を送っているようだ。
そして右京と言えば……。仕事もしないで今はのんびりしている。だけれどそれはほんの『準備期間』という前置きのような時間を過ごしているようだ。こともあろうか、近頃は本気で『園芸学校に通う』と言い出しているようで、将来は花屋をもつとかもたないとか? 実現するかは分からない。
だけれど、休日になれば二人で葉山に行って泥だらけになって花壇を作っているらしい。
結婚するという話は聞かない。だけれど近所ではもう『夫婦同然』のように見られているとか、そして二人の心積もりも既に将来を誓い合った夫婦同然のようだ。
そこで義兄がまた言っていたことを思い出す。『互いに過去がある大人の二人だけに、そういう形で充分なのだろう』と。ジャンヌに過去がありそうなのは葉月も感じていたけれど、それが何であるかは問わない。自分がそうっと見守ってもらった先生だから。そう、隼人や義兄が言うように今度は私が見守る番なのかもしれないと葉月は強く思う。
「順調ね。待ち遠しいわ」
ジャンヌが守ってくれている天使のお腹。
それを彼女は毎週触ってくれているのに、今日はより一層愛おしそうに撫でてくれる。
「俺にも触らせてくれ」
「兄様ったら。いいわよ」
「右京おじさんだぞー。生まれてきたらピアノを教えてあげるぞ」
右京もそれはそれは楽しみにしている。
ジャンヌと共に待ちわびてくれているその姿は、とても幸せそうだった。
「私、男の子だと思うのよね」
「ジャンヌ! 生まれるまで黙っている約束だぞ。エコーで確認できても誰にも言うな」
「やだ。兄様っ。私は生まれるまでに知りたいんだから。先生、お兄ちゃまにだけ内緒にしてね!」
ジャンヌが可笑しそうに笑うと、なんだか右京も楽しそうだった。
その姿を目の当たりにした葉月は……。初めて……。『もう右京兄様には白い制服は要らないのだ』と思ってしまった。そんな瞬間だった。
従兄の幸せは、本当はここにあったのだと。軍隊で資産家一家の華やかで貴公子のような長兄としての姿でなく、このようにささやかであるがままの自由な自分であることだったのだと。やっと分かった気がした。
そう思うと、今日の従兄とその伴侶になろうとしている女性の揃った紺色は、とても深みがあり重みのある大人の色に見えてきた。二人が今日、葉月を祝うために選んでくれたその色は、とても厳かで重みのあるもの。
その従兄が葉月の天使を撫でながら言った。
「怖がらずに出てこい。こっちの世界は楽しくて、そして綺麗だ。どんなものが綺麗で、それがどうして綺麗なのかおじちゃんが教えてやる」
その言葉にジャンヌが黙り、そして葉月もハッとさせられる。
黙ってにこやかに見守っていた隼人も、神妙な面もちに。その隼人の顔を見上げ、目があった途端に葉月は泣きそうになった。
従兄がこの世界は『綺麗』と言ってくれたこと。あんなに辛い思いを人一倍背負ってきた人が、今は『この世は楽しい』と言ってくれたこと。従兄もいつのまにか救われていたことに……。
「右京兄さん。俺からも是非、お願いします。可愛がってくださいね」
「勿論さ、隼人。お前、鎌倉にしょっちゅう連れて来いよ。一ヶ月に一度は来い!」
「あはは。分かりました。押しかけに行っちゃいますよ」
真っ白い夫と濃紺の兄が向き合って、笑い合っている。
葉月とジャンヌはそれを見て微笑み合う。
「なに照れているの。祖父ちゃんは!」
「親父もだよ。早く行けよ!」
また庭の向こうから賑やかな声。
声の方向に振りかえると、そこにはまるで双子のように同じような格好を決めている真一と和人のフレッシュ青年コンビがいる。それだけじゃない、これまた揃えたようなモーニング姿の亮介と和之の姿も。孫真一に引っ張られるお祖父ちゃんと、息子に引っ張られるお父さんが、ちょっと恥ずかしそうな顔を揃えてこちらに向かってきている。
「葉月さーん!」
「葉月ちゃん!」
同じように声を揃え葉月の目の前に来た甥っ子と義理の弟は、本当にお揃いの格好で葉月は驚いた。そしてまた次の一言も一緒。
「おめでとう! 葉月さん、すんげー綺麗だ! 思った以上!」
「おめでとう! 葉月ちゃん綺麗〜! もう俺、幸せ!」
「有難う、二人とも。貴方達も凄く素敵ね、格好良いわ」
葉月が笑顔で返すと、二人はなんだか楽しそうに顔を見合わせる。
「でしょう。これ、シンと一緒に選んだんだ」
「親父と選ぶ時に和人兄ちゃんも一緒だったんだ。お祖父ちゃんも澤村のお父さんも同じにしたんだ。みんなでお揃いにしようって! これなら親戚ーって感じでしょう。でも横浜のブティックで選ぶのにすんげー時間かかったよね」
「かかった、かかった。四人分。まさか男の衣装にあんなに時間がかかるとはね。でも、純一兄さんのお陰で、こんなかっちょいい服が着られて、俺も最高」
横浜横須賀親族が、男同士顔を揃えて衣装合わせをした話は葉月も初耳で驚いた。
それは横にいる隼人も同じようで、隼人の目は直ぐに広い庭をざあっとひと眺め、その『お陰の人』を探している。でも、いない。
「真一。義兄さんは?」
「煙草を吸うとかで、庭の外に出ていったよ。もうすぐ葉月ちゃんが花嫁姿で出てくるんだから待っていろと言ったのに。なんだかそわそわしちゃってさ。落ち着かなかったみたい」
「俺、行ってくる……」
隼人がすうっと葉月の横から離れていった。
妊婦の葉月をいつも気遣ってくれているけれど、それ以上に隼人の心には、今までにない心の拠り所になっている『もう一人』が存在していることを葉月は知っている。
今はもう、あの二人は兄弟同然。だから葉月は、そのまま真っ白い夫の背を笑顔で見送った。
「葉月君、とても綺麗だよ。やあ、本当、私も感無量」
「お父様、有難うございます」
「こちらのお父さんは、もっと感無量だろうね。いいね、娘がいるお父さんの喜び。私も少しだけ分けてもらいましたよ。亮介さん」
いつも落ち着いている和之も、今日はだいぶ気分が高ぶっているよう。
そしてその和之の後ろに、ちょっともじもじとした感じの亮介が立っていた。
「パパ」
「葉月」
見つめ合い、言葉が出てこない父と娘。
お互いにちょっと俯きあい、またお互いを確かめるように見る。
本当なら、こちらも真っ白い豪華な将軍の正装をしてくれていただろうに。大佐嬢の父親として、最高の格好で花嫁の父としての格好を。だけれどこちらもモーニング姿。
でも、葉月は父に微笑んだ。
「パパもお父様も素敵ね。素敵な父親が二人いて、私は幸せです」
「は、葉月」
「これからも、私達夫妻を見守ってください。お父様方二人とも、二人のお母様といつまでも仲良く。私達、お父様とお母様に安心してもらえる孝行が出来たらいいねと二人で話しているんです」
空に叫ぶように誓うようにはっきりした声で、そして笑顔で葉月は伝える。
今まで、生きていく姿よりかは消えていこうとする姿を見せてきた娘。
こうしてお腹に生命がいる時になって、初めて自分が与えられたものを、始めからちゃんと無条件に贈られていたものがあることに気が付く。だから……。
「葉月、お前はどんな姿でも綺麗だよ。ううん、どんな状態だろうとどんな姿だろうと。お前はずうっと私の娘だよ」
そう言った父は途端に表情を崩し、ついにくしゅくしゅになって泣き始めてしまった。
鼻を真っ赤にして、せっかく決めていた紳士の姿が台無しだった。
「あーもう、祖父ちゃんったら。絶対に泣かないって昨夜からうるさかったけれど。やっぱりねえ」
真一が祖父の顔にハンカチを当てながら『祖父ちゃん、今の内にいっぱい泣いておけ』と、からかっていた。
「今日は盛大になりそうだね。私も楽しみだよ」
和之がフランク家の芝庭をざあっと見渡した。
このロイ自宅洋館の広い芝庭。
今日はここが挙式後のパーティ会場。ブライダル実行委員が決めてくれたのは、ここでのガーデンパーティ。
その会場のセッティングを白い正装を着込んだ後輩達が一生懸命に始めてくれていた。その中にはジュールもいて、気さくな笑顔でテッドや小夜と話し合いながら準備をしてくれている。
そのジュールとも目があった。
彼の表情が一瞬止まる。彼が葉月をじっとみつめているので、一緒にいるテッドと小夜も不思議そうにこちらを見た。二人の表情も一瞬止まる。
そして一番に小夜の感激している明るい笑顔が見え、次にはテッドの笑顔。そして、ジュールの見たことがない笑顔がそこにあった。
葉月が手を振ると、小夜とテッドはこちらに駆けてきそうな勢いだったが、支度に忙しいのか直ぐにテーブルコーディネイトの作業に真剣な面もちで戻ってしまう。
ジュールとは、その後も葉月は暫く見つめ合っていたのだが……。
葉月の方から感謝の気持ちを込め、この離れた位置から深々とお辞儀をした。
もう一人の影のお兄様だったと思う。彼の存在が葉月と純一の間でどれだけ大きかったことか。これからもジュールとエドは私達御園には必要な家族の一員だと葉月は強く思っている。その守り続けてくれたもう一人のお兄さんに、葉月は感謝のお辞儀を長く、長く……。気が済んだ頃、頭を上げると、そこには同じように頭を下げているジュールがいた。葉月よりも長く頭を下げてくれていたのだと知って、葉月の胸は熱くなる。いつもそう。いつもそう言う人だった。いつだって葉月と純一を敬ってくれた。どうしてそこまでしてくれるのか葉月には分からない。だけれどそこに彼が求めている何かがあるような気がする。今度はそれを葉月が分かってあげたい。でも、それはきっと御園と共にあることが彼の願いなのだと葉月は既に知っていた。だから、これからも……。
それでもジュールは顔をあげると、いつにない柔らかな笑顔を見せ、手を振り返してくれた。その笑顔は初めて見たような笑顔。あの華やかな従兄にも勝る気品ある笑顔と仕草に、葉月はそう見えてしまった自分に驚いたぐらい。その柔らかな笑顔が彼の本当の顔だったのかと思えるものだったから。
「ロイー。なぎのご主人がいらしたわよ!」
訪問着姿の美穂が白い門から、登貴子や美沙のママ組と楽しそうに話しているロイへと呼んでいる。
ロイが喜び勇んで、門に向かっていく。葉月も見てみると、そこにはあの花見の時のように、連隊長室の秘書官が運転する牽引車で引かれてきた『屋台』の姿が。葉月は父に付き添いを頼んで、そこに連れて行ってもらった。
門にはあの屋台が、そして……。
「おじ様!」
「うおっ! 嬢ちゃんっ」
門に現れたドレス姿の葉月を見て、なぎの主人は飛びのくほどに驚いてくれた。
しかもそのご主人と来たら、いつもどおりのタオルはちまきに、ジャージ姿。だけれど、彼はなんだか急にかしこまって背筋を伸ばし、葉月の姿を確かめお腹の膨らみを見て、そうしてやっと微笑んでくれたと思ったら、トレードマークのタオルはちまきを取り払って顔をごしごしと拭き始めてしまった。
「う、嬉しいなあ。俺をここに誘ってくれて有難うよ。まさか嬢ちゃんのこんな姿を拝ませてもらえるだなんてなあ」
「おじ様、いつも大袈裟よ。あの、でも今日はお料理のお手伝いをしてくださるとかで有難うございます。私、嬉しいです。おじ様のところにも沢山の思い出があるから」
「何言っているんだ。これからも来てくれよ。あ、そうだ! 生まれたらチビちゃんも連れて来いよ。絶対だぞ!」
「勿論です。だって私と主人は、おじ様のラーメンとおでんのファンだもの」
「隼人君を『主人』──! くうっ。なんだかおじさんが感無量!」
タオルを握りしめ、なんだか我が事のように喜びを噛みしめているなぎの主人の変わらぬ熱さに、葉月はいつもどおりに『大袈裟よ』と再び呟いたが、ちょっぴり涙が浮かんでしまった。
側にいた父を紹介すると、なぎのご主人はすごく恐縮してくれたけれど、それ以上に亮介の方が『娘が娘が世話になって、世話になって』と何度も頭を下げていた。
「そうだ。これ、見てくれよ!」
そういってなぎのご主人が、屋台からクーラーボックスを取り出しその中から大きな鯛を一尾、尻尾を掴んで取り出した。
「ほら、時々一緒になったおっちゃんがいるだろう? 大佐嬢がお嫁さんになって母親になるんだと話したら、今朝早く船を出して釣り上げてきてくれたんだ」
「え! あの漁師のおじ様が?」
時々、席が一緒になったけれど、あまり話したことはない。
あちらはあちらでいつも近所の島仲間と賑やかに酔っぱらっていたし、葉月は隅っこで一人の世界に浸っていたり、逆にそちらに負けずのチームメイトと一緒だったから。それでも、言われてみれば、『長年の顔見知り』と言えたかもしれない。
だからこその『感激』がある。
「嬢ちゃんは知らなかったかもしれないけれど。この島のおっちゃん達はな、皆それぞれの目で、若いもんを思いやっているんだぜ! 嬢ちゃんはその一人に過ぎない。それでもそれを聞いたら祝ってやるのが島の男ってもんよ!」
なぎのご主人はこの島の出身で、都会に出たけれどここに舞い戻ってきた島を愛する男だ。
その島を葉月もとても愛している。
「おじ様、私もこの島が好きよ。これからずっとここに。私達の故郷にしたいの。これからもよろしくね」
葉月の言葉に、主人の顔がまた泣き顔になる。
彼には少し前に、土地を探すのに協力をしてもらったりしたから、家を建て、御園若夫妻がこの島を基盤にし、彼等の仲間入りをしたいという話は既にしてある。だからこそ、今日の祝いはまたそんな違った意味もある。
今日、葉月はこの島の本当の住民になる。
そんな気もする日。
亮介は大きな鯛の差し入れにいたく感激したようで、なぎの主人に負けない大袈裟さで彼に礼ばかり言っている。
屋台が現れたので、またフレッシュ青年コンビの真一と和人が大騒ぎで駆けつけてくるし、母と美沙、そして和之もやってきて、挨拶が繰り広げられていた。
今日は他にも、『玄海』の大将と女将、『Be My Light』のご主人と奥さんも、そして『ムーンライトビーチ』のマスターもドリンクバーを担当してくれるとかで、とても賑やかになりそうだった。葉月や隼人だけじゃない他の隊員達も良く知って通っている味が揃い、参加する者はとても楽しみにしているようで、葉月も嬉しい。
隼人にも、この差し入れを見て欲しいとロイ自宅前の外へと出て行ってしまった彼をきょろきょろと辺りを見渡して探した。すると道路を渡った向こう、この家の門から外れている海際のガードレールに白い男と黒い男が並んでいた。
白い軍正装の夫と黒いタキシード姿の義兄が、そこで並んで何かを話している。
遠目に見ても二人は穏やかな笑顔で何かを語っているようだ。
こんな時、葉月はいつだって中に入れなくなる。それほどに二人の間には、女の葉月にはいつまでも理解できないだろう男だけの絆があるのだと、時には強く見せつけられる。
何を話しているのだろう?
「本当、隼人ちゃんのあんな穏やかな顔が見られるようになって嬉しいわ」
ふと気が付けば、葉月の側に黒い留め袖姿の女性がいた。屋台を囲んで賑やかな輪になっている一団から、抜け出してきた一人。
「美沙さん」
「葉月さん、有難うね。貴女は隼人のお陰でといつも言うけれど、私達横浜の家族だって貴女が現れてから凄い変化を遂げたのよ。感謝しているの」
「いいえ、私……」
葉月が何かを言おうとしたら、今日は本当の母親の顔で凛とした着物姿でいる美沙に口元を指先でつつくように塞がれた。
その美沙が着物の袷から、何かを取りだす。そしてそれを葉月に見せてくれた。
それは『沙也加の写真』。葉月はそんな美沙の気持ちに気が付いて、彼女を見つめた。
「私、まさか四十代前半でお祖母ちゃんになるとは思わなかったわ。義理でもね、ちゃんと待っているのよ。貴女の赤ちゃんを抱いて、この腕に伝わったことは残らずみんな、沙也加さんに伝えるの。今日もそう。隼人ちゃんのあの顔を、帰ったら報告するの。あの子がフランスに行く前に自然と見せていた顔があそこにあると思うと報告するの」
美沙の継母でも母としての心積もりに、葉月は一緒に微笑んだ。
美沙は『あらいけない。隼人ちゃんと言うと叱られるのだったわ』と笑っていた。
フランク家の白い門にも、葉月が愛する潮風が吹き込んで来て、葉月の白いベールを揺らしている。
その門に立って、二人の愛する男性を葉月はただ見つめていた。
やがて白い夫と黒い義兄がこちらに気が付いて、二人揃った視線を向けてくれる。そして、夫はいつもの穏やかな笑顔で、葉月に手を振ってくれた。でも、義兄は……。その義兄の顔が少し、隼人よりぎこちないのも、──らしくって。一目見た義妹の花嫁姿にどう微笑んで良いのかという戸惑いが葉月には伝わってくる。しかし、葉月から手を振ると、今度は隼人も純一もその青空に溶け込むような爽やかな笑顔を添え、葉月に手を振り返してくれた。
今日の挙式披露宴に招待状はない。会費制の『自由参加』。
知っている者、来たい者、祝いたい者は自由に参加して欲しい。
それが葉月と隼人が決めたことで、そしてロイが勧めてくれたこと。
そして挙式場に列席の席もない。
元よりそんな席を作れない場所。
「お嬢様、お時間です。お車を用意しましたから向かいましょう」
庭での親族とのひとときを終え、ついにその時間が来る。
葉月はエドに迎えられ、隼人と一緒にゆったりとしたワゴン車に乗り込んだ。
真白き夫と共に、真白き姿になった私。
青い潮風に白いベールをなびかせ、葉月は白き花の中願った姿で夫と向かう。
向かうのは基地。
そして、海。
式場は空母甲板だった。