その報告書のようなものは、リッキーが作成したもの。
その表紙を純一はずっと眺めていた。
直ぐ横は、大きな窓。滑走路と海が見える。共に来た悪友が言うにはここは『特等席』とかで、基地の隊員には人気がある見晴らしの良い『席』とのことだった。
「まだ眺めているのか? あまり気が乗らないなら、無理して持って帰らなくても良いのだぞ」
そんな声と共に、目の前に珈琲カップが置かれた。
顔をあげると、そこには悪友のロイがいる。
純一はふと微笑んで首を振った。
「いや、持って帰る。持っていようと思う」
「そうだな。皐月が生きていたうちの一部──『事実』だからな。俺だってそれを知った時はショックというか……」
その報告書こそ、本日、ロイが小笠原に呼び寄せてくれた目的だった。
義妹と別れた後、純一はついにこの基地を訪問し、警備口で待ち構えてくれていたリッキーに連れられて連隊長室へと向かった。
そこで先日、一晩飲み明かした悪友が、いつもの『同期生の顔』で迎え入れてくれる。
いつもの口悪い出迎えも変わらず、純一も言い返し、最後にはリッキーが正当なことを呟いて収まる。そして最後には三人で笑う。
昔と──少年だった時の自分達を取り戻したようだった。
ほどほどお茶をした後に、直ぐに本題に入った。
リッキーが差し出したこの冊子。純一も迷わずにその報告書をめくって一通り目を通した。
……本当だった。
それを知って純一は無念に思いながら、目をつむる。
その様子を窺っていたロイに『瀬川が手紙で知らせてくれたこととほぼ一致している』と告げると、ロイもがっくりとした顔をした。
二人は共に、暫くの間、悔しさを噛みしめ、そして……。
『馬鹿だな。皐月は』
『本当だ。いつも余計なことに首を突っ込んでことを大きくする』
妹もじゃじゃ馬と呼ぶが、姉はそれ以上だと知っている二人。
あの元気の良い赤い女にどれだけ振り回されたことか……。
『ついに……。こんなことになったじゃないか。俺が傍にいれば、俺に何でも言ってくれとも言ったし、俺がいなくても純一には相談してくれていたなら』
『俺もだ。傍にいたのに──。情けない。なにもしてやれなかった』
『俺もだ! だけどお前もこれ以上自分を責めるな。皐月はお前に迷惑をかけたくなかっただけなんだから』
またロイが咽び泣く。
純一も俯いて、唇を噛んだ。
リッキーも黙ってはいたがやるせない顔をしていた。純一は知っている。皐月の一番の相談相手は実は、このリッキーだったことも。
ここにいる男。結局、十八年もこの事実を知ることなく、彼女一人が背負ったまま見送ってしまっていたことになる。
まあ……言ってみれば、それがあの熱き女が選んだことと言えば、らしい気もするが、そんなことを思っても誰も『彼女らしい』だなんて一言で気は晴れない。
だが、救いは一つだけあった。
その事の発端となったロッカー事件で、皐月の計らいで訓練校に戻ってきた青年。その青年が今は立派な陸教官になっていたことだ。
リッキーの調査は、当然、この本人にも直撃した。しかし今や四十代目前となったその男は『待っていた』とばかりにリッキーを迎え入れてくれたとのこと。
『ずっと胸に重くのしかかったまま、この訓練校で教官をしてきました。ここから逃げることはしないようにしてきたつもりです。ただ、そのような事になっていたとは……どことなく御園皐月教官の死はどこか不自然さを感じていましたが。やはり、そうでしたか。もし、そうならなんでも証言はする覚悟でした』
ロッカー事件の後、この青年だった教官を皐月が救い、ことは収まったように思えたのに。暫くすると『出産』という名目は事実であっても、そのまま亡くなったこと。同時期に、彼の後輩に当たる学生が五人が揃って退学処分になり忽然と消えたこと、さらに彼等の悪事を発見した瀬川アルドも軍を辞めたこと。そんなことが続いて、当時はまとまりなく思えていたことが、横須賀訓練校で勤めているうちに疑問を抱くことになったとか。
『私達のやったことはどこにも記録はありません。それが私が復学させてもらうために、皐月教官が軍と取り引きした条件でしたから。彼女が襲われた事件は無かったことにする、口外はしない。そうでなければ復学する生徒の将来に傷が付くと言われ……。彼女は最後まで、私のことは何もしなかった者なのだから後ろめたさはない、隠すことはないと言い張っていたのですが……最後には折れてくれたようです。その心苦しさ私はずっと感じて生きてきました。既に遅いのかも知れませんが、私は皐月教官に助けてもらったこの身を今度は私が教官として生徒を助けようと、それが償いだと思って……。こちらの現校長は、御園皐月教官の叔父様。何かの縁だったのでしょうか。校長の助けになればと、精進してきたつもりです』
そんな皐月を恩人として生きてきた教官がいたこと。
それを初めて知った鎌倉の京介叔父は、彼のことを『優秀な良心的な教官だ』と、それだけ。それだけしかないと言い切っていた。叔父もそれ以上何かを思えば、きっと……持ちたくもない感情も生まれたことだろう。
その彼が証言してくれると言う。
そしてそれが彼の償いだったのか。彼は独身で、結婚による家族はなかった──。どうしても今一歩、女性に踏み込めなくなったとのことだった。それが罰か償いか。
気分が揃って落ち込んだところ、ロイがこのカフェにと連れてきてくれた。
「そろそろ来るぞ」
向いの席に座ったロイに言われ、純一は彼からもらった報告書を封筒にしまい込み、傍の窓辺に映る自分の顔を見て、表情を整えた。
ロイが『来た来た』とエレベーターの方を見て、そしてにこやかな顔で手を振った。
そこから降りてきたのは義弟の隼人と、ロイの従弟であるジョイだった。二人を四中隊からこちらに呼んでくれたのだ。
「純兄──! 会いたかったよー!」
少年のように駆けてきたのはジョイだった。
久しぶりに会った純一は、彼に無邪気な様子はまだ残ってはいるが、とても大人っぽい青年に変貌していたことに目を見張った。
「ジョイ、いろいろと迷惑をかけたな。葉月を助けてくれて有難う」
純一は立ち上がって、ジョイに握手の手を差し出した。
だが、ジョイはそれを見て不満そう……。純一も良く知っている坊ちゃんの顔でふてくされていた。
「やだなあっ! 御礼を言われるだなんて心外だよ! 俺はやりたいようにやっただけ。だってロイ兄と純兄じゃないと『幽霊』はやっつけられなかったでしょ。俺が出来る事ってお嬢のサポートだもん。そう留守番とかさ。好きでやっていたんだ」
「うん。葉月も言っていた。ジョイのお陰だと。婚姻晩餐に招待できないことを一番悔しがっていた」
「いいんだよー! だってこっちでも盛大にやるんだから。純兄も来るだろう?」
「勿論──。楽しみにしているんだ」
「俺も、俺も!! 純兄が一緒だなんて嬉しいよおー」
ジョイは昔と変わらずに、無邪気に純一にぽんぽんとぶつかってくれる。
小さい頃からこの調子で、口が達者で、それでいて嫌味のない屈託のない男の子。
純一もどれだけ心を和ませてきてもらったことか。
「兄さん、いらっしゃい。待っていたよ」
賑やかなジョイのその後ろから現れたのは、物静かな純一の義弟、隼人。
「隼人、元気そうだな」
「うん、お陰様で──」
いつもと変わらない顔をしている義弟だが、純一にはその微笑みの奥にそっと抱えている小さな暖かみを見た気がした。そう、その理由を、そしてその為に先ほどからずっと義弟のために用意していた言葉をと純一は口を開く。
「ここに来る前に葉月に会った。──おめでとう、隼人」
そう言うと、隼人は既に知られていることにちょっと驚き、しかしすぐに照れくさそうな顔に変わった。
「有難う。兄さん。なんかずうっとくすぐったいんだ」
「俺だってそうだったさ」
さらに純一がそう言って笑うと、今度は隼人が驚いた顔。
「真一の時に? へえ、そんな兄さんなんて、想像つかないな」
照れくさくてくすぐったくて、喜びだったりまだ湧かない実感を一生懸命に捕まえたくて心だけがいそいそと走っていたり──。今、自分が感じていることを既に義兄が体験していたことが、隼人には意外だったようだ。
だが、純一も覚えている。もう十九年も前になるが、あの感覚。……純一の場合は少しばっかり状況が良くない状態にあったが、それがなければ『俺が父親?』と徐々に湧いてきたあの実感を思い出すのだ。そして目の前の義弟は、今は存分にその感覚に浸っていることだろうと。
「そうそう。あの時の純一の顔もなあ。結構見物だったぜ」
青年時代を知っている悪友の一言に、従弟のジョイも騒ぎ出す。
「俺も純兄が、今の隼人兄みたいな状態だったなんて想像できなーいっ」
「今の俺がどんな状態だって言うんだよ。ジョイは──」
「そりゃあ、隼人兄。どんなに中佐の顔に整えても、油断するとニタニタ……」
「そんな顔していないぞ!」
「知らぬは本人だけ〜ってね」
義弟とジョイがやいやいと言い出して、ロイと一緒に『おいおい、静かにしろ』と言ってみる。
「まあ、ともかく。お前達にもやっとめでたいことが訪れて、俺も嬉しい」
純一のそんな一言に、何故かそこにいる男達がしんとし、純一を揃って見た。
純一はそんなおかしいことを言ったかと、ふと我に返って頬をさすってみたのだが、次には目の前にいる隼人がにっこりと微笑みを向けてくれていた。
「有難う、兄さん。俺も兄さんが喜んでくれるだなんて、嬉しいよ」
義弟のその穏やかな微笑みに、純一も清々しい気持ちで笑顔を返す。
もう、義弟だとは思えない。そんな気持ち。遠い昔に無くなってしまったあの兄弟のような思いが蘇ってくるようだった。
……あの弟も、頑張って生きていれば。
ここまでくるのに苦しい思いを重ねただろうが、きっと一緒に喜んでくれただろうに。
純一は久しぶりに、儚く亡くなった実弟を思い返す。
珍しくここで涙なんか出そうになるとは、歳だろうか?
だが、そこはやはり純一。決してそんな顔は見せない。
それよりも、目の前に揃った男達が賑やかにかき消してしまう。
ジョイと隼人も、談話の一杯を手にして席に着く。
ロイの賑やかな『小笠原式挙式計画』の話に、ジョイがさらに騒々しく参戦し、隼人は散々にからかわれ、そこの席は賑やかになる。
時折、アイドルタイムのこの時間に休憩に来た隊員達がこちらを見ていたが、それが『噂の話』なのか、良く知ったような顔で、誰もが笑って見ている。
連隊長指揮の大佐嬢挙式は、今や基地の中で一番に注目されているイベントとか。そして何よりも今一番注目されているのは、大佐嬢を懐妊させた男、御園の婿養子の隼人だとか。
見ず知らずの隊員の視線を、少し気にした外から来た純一ではあったが、隣に座っていた隼人はもっと気になるようだった。
「もう、ここ数日、俺、大変なんだよ。兄さん」
「まあ、頑張れよ。基地一の幸せ者という証拠じゃないか」
純一が笑うと、隼人は少しばかり渋い顔を見せたが、それも一時で──。やはり、嬉しくて仕方がないのだろう。直ぐに頬を染めて笑っていた。
聞けば、小笠原挙式の内容を、以前聞いた時より大幅に変更をしたとか。そんな義妹夫妻挙式の話に花が咲き始める。
「式典が終わる十一月最初ぐらいに目処をたてて、早急に準備をするんだ。このような短期の準備になったから、純一も手伝ってくれないか。葉月のお腹が目立たないうちにドレスを着せたいしな」
「わかった。エドにもなるべく急ぐように言っておこう。俺も会場のセッティングとか身内業者を回しても良いぞ。それこそジュールに言えば、あいつ張り切ってやってくれるだろう」
兄達の協力した計画に、ジョイは『わー、着々だね!』と、こちらも楽しみで仕方がないようだった。それは隼人も同じようで、前の計画も良かったが、今の行きつけの店の料理が集まったパーティをとても楽しみにしているようだ。
「なあ、ロイ兄。それで挙式は小笠原の何処でするのさ? キャンプ内の教会?」
「あ、それ。俺も気になっていたんですよね。キャンプ内の教会なら牧師さんに挨拶したいし──」
「そうだな。ロイ、教会なんだろ?」
ジョイに隼人、そして純一も一番大事な会場を、主催者であるロイに尋ねてみる。
するとロイが、なにやら勝ち誇った笑みをニンマリと浮かべているではないか。
「教会じゃない。でも牧師はいる」
それはどういう事かと三人揃って尋ねると──。
この悪友め。やっぱりこの男は一番の『お祭り野郎だ』と純一が言いたくなるほどのことを言いだした。
その場所を聞いて、ジョイと隼人も息が引き──。
ジョイは『賛成、賛成』と大騒ぎ。
だが、隼人は呆然としていた。
そして純一は『もう勝手にしろ』とここ最近の『まあ、いいか』でなんとかその驚きを収めた。
義妹と義弟の小笠原挙式は、もうすぐ。
純一は本島に早く帰って、その手伝いをしたいと思うほどに、自分もやっぱり心待ちにしているようだった。
・・・◇・◇・◇・・・
義兄の小笠原訪問があって一週間──。
つわり真っ最中の大佐嬢の周りは妙に不穏な空気が漂っているような感触──。
「隼人兄、達也兄が帰ってきたんだ。ちょっと良いかなあー」
「うん。分かった」
午前、達也が一つの会議を済ませてきた頃だったと思う。
達也はこの大佐室に直ぐに戻ってくる訳でもなく、ジョイと共に外にいて、隼人を呼び出す……。
この現象に気が付いたのは、三日ほど前だった。
「離席しますね」
「はい、どうぞ」
隼人がマウスで画面を離席の状態に整えて、席を立つ。
その時丁度、葉月はうっと来てハンカチで口元を押さえた。
夫の中佐がそれに気が付き、心配そうな顔になる。
「大丈夫か? きついならまた──」
「──早退はしません」
「無理するなよ」
ここ一週間、ちょっと甘えて早退をしたら、やっぱり業務が滞る。
そりゃ、中佐と補佐達だけで出来るはずなのだが、自分の目に付くとやっぱり気になってしまう。
無理は禁物、無理は禁物。そう唱えながらも、もうちょっと頑張ろう、もうちょっと……と、あまり甘やかしすぎないように心がける。そうでなければ、本当に周りが大事にしてくれるので、ぐったりともたれかかってしまいそう。それぐらい気遣ってもらっているから、何処までが甘えられる加減かは自分でちゃんと見極めなくてはいけない。
夫の隼人も、やっとそれに気が付いてくれたのか。それとも妊婦である大佐嬢、そして妻と付き合うペースが見えてきたのか、必要以上の気遣いは見せなくなってきた。だから、今も、すうっと大佐室を出ていく。
それに今日は午後から『工学レディ』達が、再び小笠原にやってくるのだ。
あの会議の後、マリアが余程その気になったのか、横須賀と彗星と宇佐美の見学に行きたいと唐突に言い出した。葉月は賛成だったので、『じゃあ、手続きを』と一手に引き受けたのは良いが、このように妊娠が発覚したので、隼人が引き継いでくれた。
『お前達、唐突なことはいい加減にしろよ。フロリダのジャッジ中佐もこれほどの突然変更はこれっきりにしてくれと怒っていた』
──と、隼人。女性達の突発で活発な行動に、隼人だけではなく海の向こうで彼女を待っているマイクもかなりご立腹。しかし、きちっとサポートをしてくれるところが流石と言おうか。泳ぎまくる彼女達を、結局、上手く泳がせてしまうのだから。
まあ、葉月が思うに……。マイクの場合は、マリアの帰国が延期になったこともあるんじゃないかと、勝手に勘ぐって一人でにたついてみたり……。
そのマリアがついに明日、帰国する。工学レディ達はその見送りと、大佐嬢に交流を深めた報告を揃ってしたいとのことで、仲良く顔を見せに来ると言うことなのだ。
だから、葉月は今日は帰る訳には行かない。いや、帰りたくない。彼女達に会いたいから。
きっと、彼女達はこれから葉月にとっても共に進んでいける女性達だ。これから三十代を迎えようとしている葉月にとっての、軍人としてではない、新しいパートナーとも言えるような。
だから、こうして……。胸がムカムカして横になりたくても、つわり特有の眠たさで書類を眺めるのが億劫でも、今朝から楽しみにしてその時間を心待ちにしていた。
……それにしてもだ。
つわりで気分が悪くて、早退や遅出を繰り返しているうちに『中佐共』が、なにやら企んでいるような気がしてならない。
そんなに帰ってきた達也が直ぐに中に入ってこないで?
わざわざ隼人を呼び出して?
葉月の目の前じゃない外で?
三人でこそこそと何しているの?
一人きりにさせられた大佐室で、葉月はつわりの気持ち悪さも手伝って、ご機嫌斜めに急降下だ。
ただでさえ、気持ちの起伏も普段と違って激しくて、情緒が不安定になったりするのに──。
葉月はついに『よし』と拳を握って、席を立つ。
そうして大佐室を出ると、窓際のついたてで仕切っている小さなミーティング空間で、三人だけじゃない……山中まで交えて、男四人、この四中隊の主要人である中佐連中が真剣な顔を突き合わせて話し合っている。
その様子は大佐嬢の葉月が見ても……『おかしい』。
そして事務所の本部員達が、『大佐が見ちゃった』と言うような顔を揃え、そして目が合うと皆がサッと顔を伏せるのだ。
誰に聞けば、一番、口を割ってくれることか? 葉月は腕を組みながら、ざあっと本部全体を見渡したが、皆、葉月から視線を逸らしてしまい正面の仕事に集中する。なにやら知っている者は知っているようで、知らなくても『噂』は聞きつけているが口は堅く──? どうやら大佐嬢より、男中佐陣に上手く抑えられている様な気もする。そこまで男中佐陣に抑えられているなら、無理に口を割らすのもかえって可哀想かと葉月は諦めたのだが、部下にそこまで徹底した伝令を出しているとしたら?
(それほど、私に知られたくないこと?)
ついたての隙間から見える中佐連中。
机に一人だけ座っているのは達也。その達也がどうも中心のようで、彼を取り囲む感じで隼人と山中とジョイがそれはそれは真剣な顔で向き合っている。四人揃って真顔で頷いたり……。いつも四人で集まった時の男特有のおふざけに冗談の言い合いはナシと言った感じのようで、それなら余程のことだろうにと葉月はやはり気になってちらちら見てしまう。
まあ、いいでしょう。と、葉月は今度こそふんと、気にしない振り。
どちらにせよ。葉月がこのような状態である以上、ああして補佐中佐達で何でも話し合ってやってもらわねばならぬのだから。……しかし、葉月が不在ならともかく、こうしているのに一言の相談もないのは、ちょっと寂しい。妊婦ってそんなに気遣われるものなのかとさえ思えてしまう。もしそれが本当なら、やめて欲しい。
「どうした? 気分悪いのか?」
ふと気が付けば、直ぐそこに心配顔の夫がいたので葉月は飛び上がるぐらいにびっくりして隼人を見た。
「ちょ、ちょっと気分転換よ……」
「屋上には行くな。行くならテッドと一緒に。グラウンドに行くなら、土手は歩かない。傾斜で転んだら大変だから、分かったな」
「わ、分かっているわよ……」
昔から変わらぬ兄様口調の小言に、葉月はちょっとばかり頬を膨らませる。
気分転換は口から出任せだったが、妙にのけ者にされているような気持ちが徐々に大きくなり、本当にその気になってきた。
こんなに心の振幅が激しいだなんて。やっぱり妊娠しているせいなのかしらと、葉月は自分自身が情けなくなってくる。
「行きたいなら、俺も少しだけ付き合っても良いぞ」
「い、いいわよ。貴方はちゃんと自分の仕事をして。高官棟の中庭を眺めてくるから──」
「だったら、階段じゃなく……」
「エレベーターでしょ! 分かっているってばっ」
「中庭の池には……」
「近づくなでしょ! もうっ」
またまた葉月は本部員達の前で、癇癪的な叫び声を張り上げていた模様……。彼等が驚いてこちらを見ていたが、近頃は御園若夫妻のこうしたやり取りは日常茶飯事。慣れてきたのかくすくすとした笑い声が聞こえてくる。
葉月も頬を染めてしまったが、隼人もつい小言に力が入っていたのか、同じように頬が染まっていた。
「き、気をつけてな」
「は、はい……。中佐」
最後の妙なやり取りに、やっと解散した様子の達也にジョイに山中が、遠巻きに指さして笑っているのだ。
葉月は逃げるようにして、本部の外に出た。
中庭に辿り着いて一息。
青い空に、真っ赤な百日紅。
ここも好きな場所。
そういつか【あの日の意味】を、隼人が教えてくれたところだったと、葉月はひとりでふっと微笑み、心を和ませた。
もう、【あの日】は怖くない。
何故なら、それも【私のもの】だから。
小笠原の青が、葉月を何処までも受け入れてくれる、今。
こんなふうに、この青空や海のように、なんにも変わらないと思っていた……。
彼等が葉月に内緒で、なにを話し合っているか知るまでは、『これからもずっと変わらない』と思っていたのは、この大佐嬢だけだったと思い知ることになる。