-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ1─

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─エピローグ・ステージ1─
 
5.青いシャツ、青い涙

 分厚い作業用のグローブをはめ、そして工具を揃えているウェストバッグを腰に巻き……。最後は紺色のキャップを被って、隼人はロッカーの扉についている鏡を見た。

 この格好を二度としないということもないだろうが。
 だが現場甲板整備員の一員として、訓練に携わるのもあと僅かだろう。
 隼人は長年そうしてきた服装を眺める。小笠原のメンテ服はちょっと派手な色だったが、皆がこの真っ赤な服を着て甲板を走っていると何も気にならなかった。

『働き者のてんとう虫が、縦横無尽に動いているの。空からよく見えるのよ。いつも貴方を探してしまう』

 まだコックピットにいた妻が、いつか言ってくれた言葉。
 彼女はスズメバチで、俺達は真っ赤なてんとう虫。
 隼人はふと鏡に微笑んでいた。

「えへへ〜。キャプテン? やっぱり嬉しくて堪らないんだ!」

 気が付くと、鏡の中、隼人の背後に赤毛の青年の姿がちらちら……。
 今の隼人に、嬉しくてとくれば、『あのこと』しかない。
 四中隊の中核からひっそりと、ひっそりと、日にちをかけて広まればいいと思っていたが、甘い。たった一日で基地の隅々まで『大佐嬢ご懐妊』の噂は広まった。おそらくランチの時間からだろう。夕方には他部署からの『問い合わせ』や『確認』なんかが来たぐらいだ。あの永倉少将まで『本当なのか!』と、隼人の席直通の内線を入れてきたぐらい。まあ、そんな一日だった。当然、身近な部署である四中隊棟の一階空部班室にいる彼等にもとっくに知れるところとなっている。

「いやー。子作り宣言しただけあったなあ。キャプテンったら、この!」
「あーはいはい。甲板に行くぞ、エディ」

 にやにやするばかりの後輩エディを払いながら、隼人は何とかいつもの『キャプテン顔』に整えることに必死。その顔を保ちつつ、足早にロッカールームを出ようとする。後輩達の隼人を窺う視線が、痛い……は、違うな? 気恥ずかしいばかり。あの大佐嬢と愛し合った結果を基地中に公表したような……そんな気恥ずかしさ、なんだかくすぐったい。だから、このくすぐったさから逃れるべく、ここを出て甲板に行き、隼人がキャプテンの顔で指示を始めれば、後輩達も否が応でも『仕事のみ』になり諦めるだろうと……。

 しかし、そうはいかない。

「キャプテン。大佐奥さん、子供さんが出来たって? 良かったですね!」
「ああ。有難う、デイビット」
「大事にしてあげてくださいよ。キャプテン。大佐嬢、お転婆そうだから」
「村上も有難う。そう、それ、実は頭痛の種なんだ」

 同世代の落ち着いた男達からの祝福に、隼人はついに微笑み、気を抜いたところ……。

「おめでとうっす! キャプテン」
「フジナミ隊長に、報告したのですか?」
「ジャルジェキャプテンにも報告してくださいよ!」

 元気な若い後輩に捕まってしまい、隼人はメンテ員達に取り囲まれる。

「こら、こら! 急がないと連絡船を待たせるだろ!」

 そう叫んで『おめでた包囲網』を突破。
 なんとかロッカールームを出た。

「サワムラ、じゃなくて……ミゾノキャプテン、聞きましたよ! おめでとうございます!」

 すると今度は、目の前に金髪ショート、ちっちゃい頭が愛らしいトリシアが元気良く出迎えてくれた。
 しかし、隼人はどうしてかトリッシュには、にっこり微笑んでしまった。

「有難う、トリッシュ」

 また隼人の後をわらわらと出てきた男後輩に捕まってしまい、皆がわいわいと取り囲んでしまう。

「中佐! 男の子がいいっすよね。同じメンテナンサーに!」
「違うわよ! 女の子! 大佐と同じパイロットかヴァイオリンを弾く子になるのよ!」

 エディとトリシアが顔を突き合わせて、やいやい言い合う。
 だが、他の後輩達も『男だ』『女だ』と大騒ぎだ。

 嬉しいような、ちょっと困惑しちゃうよな……。いつもなら『静かに!』と声をかけて黙らせるのだが……。

「キャプテン、暫くは覚悟した方が良いよ」
「ああ、そうだな。そうしよう」

 デイビットまでにんまり。彼に『手遅れさ』と肩を叩かれ、隼人はがっくりうなだれた。

「それで、キャプテンの本心は? 男? 女?」

 やっぱりデイビットも逃がしてくれず、隼人はもう諦める。

「女の子かな?」

 そんな時は、急に後輩達が静かになったりして、隼人の小さく呟いた一言が廊下に響いた。
 隼人自身、そんな息の合っている後輩達の途端の静粛にびっくりし、ついに頬が熱くなる。

「やっぱりなあっ! キャプテンは女の子が欲しいって言うと思った!」
「本当、本当! きっと大佐みたいな美人が良いって言うのよ!」
「そうだ、そうだ。だって、キャプテンは……」

 そこでまた、彼等の息があった一言が廊下に響く──。

『大佐にベタ惚れだもんなー!!』
『なあ!!』

「ち、違う! そんなわけじゃなく……」

 いや、違いない。
 きっとそうなんだ……と、隼人は降参する。
 キャプテン隼人の無言の降参。それを見た後輩達がまた大騒ぎだ。

 するといつもなんでも一番に皆が気になるところを元気に問いただしてくるエディが、隼人も気にしていたことを叫んだ。

「そうだ! キャプテン! レイのラストフライトはどうなるんだよ!」

 騒いでいた後輩達がまた一斉にしんとなった。
 今度の彼等の顔は真剣だ。
 それを見て隼人は思う。彼等も真剣に妻のラストフライトで、彼女を送り出す心積もりを整えてくれているのだと……。
 なんて有り難いことだろうか。だから、隼人は彼等に感謝の気持ちを込めて告げる。

「予定は大幅に狂うだろうけれど、彼女は出産後には必ずと言っている。俺も、そう思っている」

 するとエディを筆頭に、皆がほっとした微笑みをこぼした。

「それまで、適性検査もあるし、上から特別な計らいをしてもらう必要もある。──ちょっと遠そうだな」

 だけれど、エディは言う。

「そんな急がない。だって、それならレイはそれまでは現役パイロットなんだから」

 隼人は『そうだな』と微笑んだ。
 他の後輩達も、そうだ、そうだと、頷き合う。
 やっと皆が波止場へと進み始めた。

 後輩達がまとまって桟橋まで歩く背を眺めながら、隼人は思う。

 確かに、葉月にはどんな形でもいつまでも現役でいて欲しい気持ちが、隼人にもまだ残っている。
 そしてもう一度でも良いから、彼女の勇姿を見たい。
 初めて彼女を小笠原の甲板から空へと見送った日が思い起こされる。
 ──冷たい横顔。空しか見ていない顔。そこへ捜し物に行っていた妻。そしてそこで全てをぶつけて消えようとも思っていた妻。妻の戦いの場所。

 それも終わったと彼女は言う。
 だからこそ。彼女は自分で『ピリオド』を打っておきたいのだ。
 そしてそんな戦いが終わり、彼女は甲板に舞い降り、空の女房となって、今度は空を見上げる人になる。
 それは彼女の新しい世界、道への始まりを意味するだろう。

 だからこそ。隼人は『ラストフライト』から逃げてはいけないと思っている。

 当初の予定は、三月から五月ぐらい。それなら葉月も適性検査が受けられる身体になっているのではないかと、ロイは考えてくれていたようだが。
 子供が生まれるのは、春半ば。この予定では無理だろう。

 そう言えば。と、隼人は昨日の出来事を思い返す。
 昨日の午後──。隼人と葉月が揃って大佐室で仕事をしていた時だ。小夜が連隊長室で結婚式の準備計画を大幅に変更する提案をしてきたらしく、それは何故だとロイが問いただしたところ、彼女は自分の口から言わず『大佐に聞いて欲しい』と言ってくれたようで、ロイから葉月の大佐席に内線連絡が入ってきた。
 その時に葉月が『妊娠した』と告げると、ロイはとても驚いてしまい……。内線が切れたと葉月が呆然としていたその数分後、将軍である彼自身が中将室から四中隊にすっ飛んできたのだ。

『お前、本当か!』
『うん、三ヶ月に入ったところ。心音もあったの』
『なんで早く言わないのだ!』

 一人で仕切っている『結婚パーティ』の計画が総崩れになるとかで、ロイがそこでがっくりはしていたのだが、直ぐに立ち直り『よし! 俺も考え直した。吉田さんの案で行く!』と叫んで、あっと言う間に大佐室を出ていった。
 隼人と葉月はあっと言う間の出来事に、ロイとはまだちゃんと妊娠の喜びを確かめ合っていない感覚だけ残された。そして葉月は『相変わらずなんだから』と、むくれていた。実は一番側にいてくれた兄様はロイだと葉月は言う。だから一緒にじっくり噛みしめて喜びたかったのだろう。

 しかし、後で聞けば──。小夜が葉月や隼人のいきつけの店を揃えたパーティにしようと提案してくれたとか。
 隼人は勿論、葉月もその提案には喜んだ。

 やはり『俺達の小笠原』だから。
 その匂いがいっぱいするパーティーになりそうで、少し派手になりそうでひやひやしていた隼人はこれでほっとしたのだ。
 葉月も前以上に、楽しみになってきたようだ。

『出航します!』

 後輩達と乗り込んだ連絡船が、訓練空母艦へと海原へと動き出す。
 今日も小笠原の潮の匂いに包まれ、そして青い空、蒼い海。
 妻が愛する青を、隼人は穏やかな気持ちで丸窓から眺める。

 ここに住むための家。その準備も少しずつだが進んでいる。
 子供が生まれた後にはなるが、来年には建つ予定だ。
 近頃では、達也まで頑張って建てようかと言い出した。
 達也は妻と母親と同居している。これで子供も出来たから手狭になるだろうと、そこを案じているようだ。
 そこで、隼人と葉月も『参考までに』と、小笠原のこの島で空いている土地のことや、離島で家を建てることなど、それに関する資料を貸したりしている。──さて、海野家はどうすることか。隼人と葉月が思っていた以上の家族会議が連日続いているようで、かなり本気のよう? そして隼人は思う。そう、達也も小笠原を愛してるのだなと。

「今日も良い天気だなあ」

 煌めく波間を、隼人は笑顔で水平線まで見渡す。

 あの日、俺とママの手から、この海へと離れていったお前。
 ちゃんと帰ってきたな。
 今はママのお腹の海の中。お前はなにを思っている?
 ママの海はきっと気持ちがいいはずだ。今はふんわりぷかぷかとゆったりと過ごせばいい。お腹の中でママの海に遠慮なく甘えていたら良いんだ。
 もう遠慮はなし。そのままこっちに迷わず来い!

 まだ見ぬ我が子に、隼人は微笑んでいた。

 そして隼人も……。
 己も、ピリオドを打つ日が近づいていると、表情を引き締めた。
 それは新しい道のために。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「まだ、暑いじゃないか」

 本島では、もう夏も終わろうかという涼しい風が吹いているのに、この小笠原ときたら残暑真っ最中というところか……。
 純一は久しぶりのこの離島にセスナで降りたち、額に滲み出てきた汗を手の甲で拭う。
 秋物の新しい黒いジャケットを脱いで、長袖ワイシャツ一枚になる。
 今日は青地に白いストライプのシャツに、この小笠原の海や空を表す真っ青なネクタイを選んでみた。いや、義妹に会うからか? 青色を選んでいた。
 片手には大きなペーパーバッグ。それに義妹から注文された菓子をいっぱいに詰めて、純一は歩き出す。
 セスナを操縦してくれたのは、ナタリーが日本に置いていた部下。彼がこの日のために、小笠原にボス専用の黒ベンツも用意してくれていたのだが……。

「悪いな。基地まで自分で行く」
「よろしいのですか?」
「ああ。今日は歩いてみたくてな」
「連絡頂ければ、帰りは基地まで迎えに行きますから」
「うむ、有難う」

 蝶々の部下を労い、純一はこの離島にある小さな民間空港から、公道へと徒歩で向かう。
 まだ蝉が鳴いている。空はとても近く感じるし、雲が大きい。そして風もあり、潮の匂いが鮮烈だ。だが、純一には素晴らしく心が安らぐ匂いに思える。
 純一は昔から『海』が好きだ。育った鎌倉も海がある。だから世界を転々とする生活になっても、いつも海の側を選んできた。
 だからこの小笠原の雰囲気もとても気に入っているのだが、今までは『禁断』として踏み入れるには覚悟を要した。その覚悟の上で侵入していた時は、この島の雰囲気を気にしながらも、ゆったりと堪能する『心の余裕』がなかったと今は思う。

 だから、今日は自分の足で基地まで行きたい。歩きたい。
 本当の意味で、この島を知る日が来たような気がするのだ。

 息子が数年過ごした島。
 義妹が生きてきた島。
 そして新しい家族となった親愛なる義弟が、義妹と故郷にしようとしている島。
 長年の友人が精進している島。

 本当は縁が深い島。
 それを今日はじっくりこの目と肌で感じたい。

 この民間空港の管理棟を出ると、公道は直ぐ目の前。
 タクシーが停まっていたので、途中までタクシーで行くことにした。
 途中、ロイの白い館と細川の渋い佇まいの自宅が見え、そしてもうすぐ義妹の丘のマンションに差し掛かるだろう……。次に差し掛かる軍の日本人官舎、そして金網に囲まれているアメリカキャンプが見えてきたところで、純一は降ろしてもらうと考えていた。

 もうすぐ丘のマンション前。
 そこで後部座席に座っている純一はタクシーの窓を僅かに開けてみる。
 白いガードレールに沿って走る道路の下は、さざ波が聞こえる海が基地までずうっと続いている。
 そして、この基地までの道は、とても静かだった。
 海猫の声。さざ波──。その音しか聞こえない。
 基地が勤務時間帯であるからだろう。主婦だってそんな多くはいないだろうし、居る場所と言えば金網の中の『アメリカ地帯』だろう。

 この島の、そんな平日の美しき静けさに、純一はそっと目をつむり、潮の香りを胸の奥まで吸い込んだ。
 純一が好きな、落ち着く匂い……。
 そこでふと目を開けると、もう丘のマンションの前だった。丁度、通りかかるところで、純一はマンションへと登っていく坂道を見上げる……と。
 そこの坂に、白いワンピースを着た栗毛の女性が立っていた。

「すみません。停めてください」

 一瞬、幻かと純一は思った。
 もしあれが義妹なら、彼女はこの時間帯は軍服を着て基地にいるはずだ。
 万が一、義妹がこの時間帯に自宅にいるならば、風邪など引いて寝込む時。それならこの時間帯に自宅にいるのも頷けるのだが……。それならああして外にいるはずもなし、義妹はあれでも健康体で風邪など滅多に引かない。
 やはり、幻か。純一はタクシーを降りて、丘のマンションの坂へと向かう。

 幻というなら、赤い彼女の幻はよく見るかも知れない。
 しかし一目で判る。どんなに容姿が似ていた姉妹でも、雰囲気が全く違うのだから。あれは絶対に義妹。
 幻なんかでは……ない。

 そう思って純一が坂の上を見上げると、そこに真っ白いワンピースを着て、こちらを見下ろしている栗毛の女性と目が合った。
 今日の青空、そして潮風。その中に、純一の青いミューズがそこにいた。

「純兄様──!?」

 やはり、義妹の葉月がそこにいて、彼女は純一が目の前に突然現れたことに驚いていた。

「今、着いたの? 基地に行って来たの? ロイ兄様、待っていたわよ」
「お前はどうしてここにいるんだ。今日も、出勤していると思って……」

 すると義妹は、ちょっと眉をひそめて、純一を不思議そうに見ている。

「しんちゃん、何も言っていなかったの? パパもママも……」
「なにがだ」

 やっぱり何かを隠されていたかと、純一はこの時やっと確信した。
 息子の真一は、あれから小笠原に行く日のことについて『ちゃんと葉月ちゃんに会ってね』としつこかったし、亮介は妙に落ちつきないのに、四六時中にたにたしていた。そして登貴子も同じく落ち着きをなくしていて、それでいて、今日、純一が小笠原に行く時間になると隣から訪ねてきて『娘に渡して欲しい』と豪勢な重箱の弁当を託された。なにかがいつもと違うし、そして留守番をする亮介、登貴子、真一のジジババ孫トリオが、見送る際に揃ってにたついていたのが気になっていたのだ。そう、まるでなにか示し合わせているような……?

 そして徐々に不安になってきた。
 軍隊では何に置いても部隊で勤めているのが一番の義妹が、こんなふうにゆったりのんびりと優雅なたたずまいでいることは、やっぱり『ただごとではない』と純一は思うのだ。
 だからとて、こうして義妹を確認しても、彼女が具合が悪いとか元気がないとか、何か大変困ることが起きたようには見えなかった。
 むしろ、この坂の両脇に植えられている緑木の葉をつまんで、そっと微笑んでいる姿には、優美でそして豊かな微笑みを携え、幸せそうにしか見えない……。

 すると、義妹がちょっとなにか照れているように俯いて、また緑の葉先をいじっている。

「あのね、兄様──」
「どうした、何かあったのか」
「うん……」

 徐々に頬を染めて、そっと眼差しを伏せる義妹。
 緑の葉に触れる指先、そして青い空の中、煌めく栗毛、光をまとっている睫、そしてサクランボウ色の唇に頬。潮風にふわりと揺れる白いワンピースの柔らかな裾。──なにもかもが、優美に、この青い島の景色に溶け込むような、純一の青いミューズ。
 ちょっと躊躇っていた義妹がやっと呟いた。

「赤ちゃん、出来たの」

 潮騒の中、聞こえた義妹の声に、純一はついに固まった。
 そしてやっと腑に落ちなかった全てが繋がったのだ。
 息子の反応、義父の落ち着きのなさ、義母の重箱弁当!
 ──やられた! と、純一は思った。
 そして純一が直ぐに思ったのは、『いや、まだ安心できない』と言うことだ。今まで出来ては哀しい結果を迎えていた。いや……それでも皆があれだけ笑顔でいたのは、もしかして……? そしてまた葉月が教えてくれる。純一を見つめ、そのミューズの笑顔で。

「心音、聞こえた……。今度は生きているの」

 その途端だった。
 葉月は純一の黒い目を見た途端に、その茶色い透き通っている目から涙をいっぱいにこぼし始めたのだ。
 それは嬉し涙か、それとも今までの哀しみを交えた涙なのか。義妹の涙の色も、そんな様々な要素を込めた深い青色をしている。そしてその色はやはりどのような要素を含めていようと、今日はとても煌めいて見えた。
 大人になり、妻となり、母になろうとしている義妹。
 純一が手にしていたペーパーバッグがごとっと地面に落とされる。気が付けば、青い涙に濡れる義妹を抱きしめていた。

「純……兄様」

 言葉はない。
 いつも義兄の純一に言葉はない。
 心の中では『良かった』とか『俺もついに伯父さんになるのか』とか『これで真一に初めて従弟妹が出来る』とか……。そんなことが次々と浮かんでいるのだが。
 いつもそう、言葉にならないだけで……。気持ちは熱く熱く盛り上がってはいるのに。

 そして抱きしめるだけの義兄のことも、義妹は良く知っている。
 彼女もただ無言で、義兄の名を呟くだけ。
 そっとこの胸に頬を寄せ、その意志があるのかないのか分からない僅かな力で、純一の腰に両手を添えているだけ……。強く抱きつくことも、抱き返してくることも、今の義妹にはない。だけれどその僅かな力で充分、純一も分かっている。

 風が吹きこんでくる坂の上。
 潮の香りがするこの青い島で、義妹の青い涙を抱きしめて──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「わあ、これこれ。有難う、純兄様!」

 電話で頼んだ菓子を、義兄が本当に買いそろえてきてくれた。
 本当は本気半分、冗談半分で、沢山頼んだ。
 この男臭い義兄が、どれだけ買ってこられるか……なんて、そんな悪戯心もあったのに。だけれど見事に揃っている。

「それ、全部買ってくるのではなかったな。お前、今から身体の管理が大変なんだから、全部食うなよ」
「分かっているわよ、義兄様まで……。どうして隼人さんと同じことを……」

 隼人もそう言うのか? と、純一が尋ねてきたので、葉月は大佐室で隼人を筆頭とする『菓子没収大捜索』をされたことを話した。
 純一は『そりゃ、隼人が正しい』と大笑い。

「まあ、一個か二個ぐらいは目をつむってやろう。隼人に内緒だ。まあ、辛い時期だろうから口に入る物食っておけ」
「有難う〜。ジョイもクッキー一枚だけくれたの」
「そっか。今日はジョイにも会えそうだな」
「うん、会って会って。きっと喜ぶから! 隼人さんも、今日は兄さんが来ると待っていたわよ」
「勿論、隼人に会わずに帰れるか。そんなことしたら、後で隼人に説教されそうだ」

 葉月はその光景が目に浮かび、ふと微笑んでしまう。
 義兄が時計を見た。
 先ほど、『先に葉月に会っている』とロイに連絡をし、何時に連隊長室に行くという約束を取り交わしていた。
 僅かな時間だが、それでも葉月はまさかこの丘のマンションに義兄を迎え入れる日が来るだなんて思っていなく……。そしてこの光差し込む海が見える部屋で、義兄にお茶を入れているだなんて夢のようだった。

 基地に向かうはずだった義兄が、行く途中で葉月の姿を見たとかで突然、姿を現した。
 実は葉月、今日もつわりがひどく、昼前に早退をしてしまった。勿論、隼人がここまで送り届けてくれた。
 仕事をバリバリとこなしたいのに、それもままならず。だけれど今は仕事も一人で背負い込んでいる訳ではないし、なによりも子供を第一にしたいという心の余裕が葉月には生じている。だからゆったりと午後の始まりを一人で迎えていたのだが、暑さも少し和らいできたこの時期の晴天、やっぱりじっとしていられなくなり、散歩に出ていたのだ。
 坂を下り、いつも目にしていたはずの景色を眺めていた。

 こんなにゆっくり……。この青い景色を心から見つめていたことがあっただろうか?

 葉月はそう思っていた。
 この島に初めて来た時に感じられなかった感動が、今、遅れ馳せながら襲ってきたような気分。
 そうして坂の上で、潮騒、潮風、青い空、蒼い海を見て堪能していた。緑の葉をつまみながら、お腹に手を当てて『ママが綺麗だって感じているの、分かる?』と問いかけていた。
 風がふうっと吹き上がってくる坂の上、白いワンピースの裾がふんわりと栗毛の毛先と共に舞う中、目の前に青いシャツを着ている男性が忽然と現れた。
 まるでその青い風に乗ってやってきたかのように。それは義兄だった。

 そして、今まで決して近づけさせてもらえなかったこの自宅マンションに、純一を招いて葉月はお茶を入れている。

「純兄様は、お昼は食べてきたの?」
「お前の菓子を買う時に、軽くな」
「私も……。結局、食べられなくて……」

 そう言うと、テラスで海を眺めている青いシャツの純一が振り返る。

「お前、無理して茶など入れなくてもいいんだぞ。横になっていろ。時間まで俺はいるから」
「ううん。ママのこんな豪勢なご馳走をみたら、すこしお腹空いちゃった。お兄ちゃまも食べない?」

 赤飯に、煮物に、そして今の葉月が口に出来そうなさっぱりとした惣菜が幾つも詰められている重箱。
 母に渡されたと言って、純一が届けてくれる。
 それを先ほど一番に開けて、葉月は喜んでいたところだった。

 取り皿を持ってきて、葉月は幾つかの惣菜を一口ずつ盛りつけ、純一が座ろうとしている椅子の前に置いた。
 純一がそこに座り、葉月が入れた緑茶をすする。

「どれ。近頃、おばさんの惣菜に世話になることが多いが、やっぱり美味いもんだ」
「うん。私も頂きます〜。この小魚の南蛮漬け、美味しそう〜」

 葉月が先にぱくっと食べると、純一がふと笑って、彼も静かに箸を手にした。
 それを食べながら、純一がこの初めて入った部屋をひと眺め。

「来年には家が建つそうだな。ここともお別れか。お前の城だったな」
「うん──」
「でも、なかなか良い場所だな。これは絶景だ。贅沢だな」
「お陰様で──」

 そこで葉月は初めてはたとする。
 持っている皿を置いて、葉月は純一の向こうに見える見慣れたテラスの絶景を見つめた。

「……知らなかった」

 純一が何が? と、問い返してくる。
 何故か、熱い涙がまた溢れてくる。
 妊娠したせいなのだろうか? 近頃、すぐにこうして感情が熱く盛り上がって泣いてしまう。

「葉月? どうした」
「知らなかった。きっと私、この素晴らしい景色にも知らず知らずのうちに救ってもらっていたんだわ。だってもうこんなに染みついて染みついて手放しがたいのだもの。なのに、私には見えていなかった……」

 なにもかもが。
 義兄の前でぼろぼろとこぼれる涙。
 気が付けば、目の前にいた義兄が隣にいて肩を撫でてくれている。
 そして彼はただ、今となっては葉月が愛してやまない青い景色を遠い目で見つめていた。

「いや、見えていたさ。見えているのを知らなかっただけだ」

 だから今ここにいる。
 だからこれからもここにいる。

 そう言ってくれているように聞こえて、葉月もこっくりと頷いた。
 また二人で向き合って、登貴子の手料理を黙々と食べた。
 静かに向き合う時ほど、会話をしているよう。
 それがこの義兄との時間。葉月はその潮騒だけが聞こえる静かな時間を義兄と過ごした。

 ロイと会う時間が迫ってきて、純一はジャケットを小脇に抱え、出ていこうとしていた。

「じゃあな。また……」
「うん……」

 いつも思う。
 また会おうとか、今度はいつ会えるとか。義兄はあまり言ってくれない。
 言葉ない静かな時間の中、心を通わすのはとても掛け替えのない時間なのだけれど、でも、やっぱりそのまま『じゃあ』と帰ってしまう義兄は、あの『置き去り岬』を思い起こさせ、葉月には辛い辛い別れを強いられる苦い思いが蘇る。
 だけれど、今となっては、純一は息子という帰る場所があるし、葉月も。それに以前の雲のような人でもない。今は横須賀にいると分かっている。それでも、まだ葉月は寂しくなるし不安になる。
 ──その理由も、葉月は自分自身で分かっていながら、でも言えなかった。

『兄様? イタリアに帰ってしまうの?』
『兄様……。日本に帰ってこないの?』

 そして言ってはいけない言葉かもしれないが──。

『兄様、側にいて! 私の見えるところにいて!!』

 また涙が出てきそうだった。 
 だけれど、もう、義兄を引き留めることなど葉月には出来ない。
 義兄だって、新しい道を歩くことが出来るのだから。もう、葉月のことは、義妹のことは、隼人という夫に任せ……。

「無理するな。楽しみにしているからな」
「……うん」

 もう、早く帰ってよ。
 また、泣きたくなる。
 どうせ、すぐにいなくなってしまうんだから。
 慣れっこよ。そう、慣れっこ。ずうっと前から、子供の頃から慣れっこ。

 葉月はそう言い聞かせ、黒い革靴を履いて玄関を開けた純一の背中を見つめていた。
 肩越しに、純一が振り返る。葉月はめいっぱいの笑顔を見せて見送ろうとした。

 だからもう帰って……。
 そして直ぐに私を泣かせて……。我慢できなくな・・・る。

 涙が一粒だけ落ちてしまった。

 義兄がそれをみて、ちょっと口元を曲げている。
 いつもそう。甘ったれの末っ子義妹が、いつも涙で引き留める。
 もう、それも卒業──。そう思っていたのに、だからめいっぱいの笑顔で見送ろうと思ったのに。
 また……いつもと同じ顔になってしまっている。だからいつものように義兄が困っている。

 そこでまた『じゃあな』と冷たく背を向けて、いつもの義兄ならあっさりと帰っていくだろうに。
 今日はどうしたことか、ちょっと何かを躊躇っている顔で見ていた。
 そして彼が思わぬことを言いだした。

「……もう少し、準備が整ってから言うつもりだったんだが」
「な、なに?」

 まだ義兄は躊躇っている。
 その準備が整っていないから?
 だけれど、今度は葉月の目を見て、ちゃんと言ってくれた。

「今、イタリアから日本に拠点を移す準備をしている。だから毎月あっちに出かけている。ジュールやエドとも調整中だ。まだ時間がかかる」
「……こっちで? 仕事をするって……こと?」

 葉月が密かに、そして心の奥に押し隠そうとしていた願いを義兄が口にしていた。

「今の俺へと救ってくれたのは、お前達『俺の家族』だから。今度は俺がずうっとお前達の傍にいる」
「じゅ、純兄様──」

 今度は迷うことなく、葉月はその青いシャツの胸に飛び込んでいた。
 そして声を上げて泣いた。

 やっと、この人が帰ってきてくれた!

 青いシャツは今まで通り、ちょっとだけの煙草の匂い、そしてマリントワレの匂いがした。

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