時間は、そろそろ交代でランチタイムに入ろうかと言う頃。
「来てくれないか。泉美が呼んでいるんだ」
泉美が男の子を出産して、本部もその知らせで喜びに沸いていた。
葉月も隼人と一緒に、親しい同僚がついに父親になった話で自宅でも盛り上がったくらい。
その数日後、この日──。葉月が『そろそろランチ』と思い描きながら大佐室で仕事をしていると、その時間帯には医療センターの産科に妻の様子を伺いに行く達也にそう誘われた。
「いいの? 泉美さん、まだ産んで間もないし、邪魔にならない? 私も会いたいけれど、退院してからでもいいのよ」
「泉美がそう言っているんだ。今日は連れてきて欲しいと……。会ってやってくれないか?」
達也の顔が殊の外、真剣で……。
葉月は少しばかり眉をひそめたが、静かに頷いて達也と共に大佐室を出た。
達也は男の子が生まれて、それはそれは喜びいっぱいで、生まれた次の日に出勤してきた時は本当に賑やかな彼らしく自慢げに騒いでいたのに。
なんだろう? そうして葉月に『来て欲しい』と言う背中が、ちょっと元気がないような気がした。
(どうして? 母子共に元気で異常はないと聞かされたのに)
考えたくないことが頭に浮かび、葉月は一生懸命に頭を振って振り払った。
産科に着くと、病室まで達也が案内してくれる。
小笠原に勤務している隊員の妻は、皆、ここの産科を頼りにして出産をする。
時にはこの離島での医療にも軍は協力していて、隊員家族でなくても受け入れをしているので、島の女性が入院していることもあるようだ。
それでも、産科の病室は数室しかない。達也がノックをした病室は、その中で唯一の個室のようだった。
「泉美、はいるぞ」
随分と、『夫』らしい頼もしい声で妻を呼ぶ同期生の顔を、葉月は思わず見入ってしまった。
葉月が十七歳、そして達也が十九歳。その春に出会った時、葉月はもっと少女だったし、達也は青年になろうとしている少年だった。
お互いにその日に出会った時の『あどけなさ』は忘れられないものだと思う。きっと達也も葉月の少女としての姿を焼き付けてくれているだろう。同じように葉月だって……。でも、もう、あの日の少年はいない。そこには立派な青年になり、夫となり、父親となった男性がいた。
葉月はちょっぴり『うっとり』してしまう。
付き合って直ぐに結婚を決めた二人だけれど、達也の妻を呼ぶ声を聞けば、『しっくりと夫妻』になっていることを感じさせた。
そして、葉月が病室にはいると、そこには浴衣の寝間着を着て、小さな赤ん坊を抱いている泉美がいた。
「葉月ちゃん……!」
白地に紺の模様がある昔ながらの浴衣の袷をゆるめている泉美の胸元に、一生懸命に吸い付いている小さな赤ん坊。
その光景を目にした途端、葉月は身体が固まってしまった。
ふんわりとした女性が、柔らかい光の中に包み込まれている。
そしてその胸元にいる小さな小さな生命も、母親の腕の中で輝いているようだった。
凄く聖なる光景。葉月はまるで天から降りてきたかのようなその母子に釘付けだった。
こうした光景を親しい者から見るのは、何年ぶりだろうか?
だからこそ、とても感慨深い。
しかも同期生の、そして長年共にしてきた女性同僚の、幸せに辿り着いたその姿。だからこそ、葉月にはより一層輝かしく見え、そしてより一層尊いものに見えたのだ。
丁度、今、授乳の時間帯だったようだ。
「おっ。お前もランチタイムか。パパもだぞ〜」
「まだ頼りないけれど、それでもちゃんと探して一生懸命に吸うのよ」
「すげーなあ、生きるって本能だな。うーん、抱っこしたいけど、これじゃあ駄目だな」
「もう少し待ってね。パパ」
達也は息子を見るなり、もう、表情を緩めっぱなし。
そして泉美も、今日この子は朝からどうだったとか、どんな風だったと達也に一生懸命に話している。
顔色も良いし、彼女は元気だ。葉月はほっとした。
「あ、わりぃ。葉月。こっち来て、見てくれよ!」
「うん!」
達也はもう、見て欲しくて仕様がないようだ。
葉月も、間近で見たい!
同期生の子供。達也の子供。彼の幸せの形を……。
まだ授乳をしている泉美の胸元を葉月は覗き込む。
泉美が言っていたように、頼りなげな、か弱いだけの赤ん坊が、本当に一生懸命に母親の乳房を吸っている。
生きたい。──ただ、それだけの意志で生きるためにありったけの力で吸っているのだろう。
それを感じただけで、『生』には無頓着だった葉月には、とてつもない感動に変わる。
「すごい。すごいことね。本当にすごい」
そう言うと、達也と泉美は葉月がどうしてそんなに感動しているか……。その意は汲んでくれている顔を夫妻で見合わせ、微笑んでくれていた。
泉美の授乳が終わると、早速、達也が抱いた。
「おーっす。『あきら』」
達也が呼んだ名に、葉月は驚いて反応する。
「今の赤ちゃんの名前?」
「あ、そうそう。『あきら』って名付けたんだ。日に光の『晃』。輝く感じで、いいだろ〜」
「良いわね! なんだか明るいパパの子らしい!」
「だろ、だろ! いかすだろ!」
「いい、いい! 素敵!」
達也と葉月で息の合った興奮をしてしまう。
それを泉美が笑って見ていた。
「お前には、もう、ぴっかぴかに光ってもらうんだあ!」
逞しい達也の腕に、ちょこんと乗っている『晃ちゃん』。
達也はその子を光にあてるように抱き上げる。
そして鼻と鼻をくっつけて、彼も子供みたいな無垢な笑顔を見せている。
葉月はそれをただ、微笑ましく見ていた。
ちょっぴり涙も出そうだった。
彼も、やっと辿り着けたのかな? と。
『俺、家族が欲しいんだ。家庭、お互いが帰ってくることが出来る家庭』
『葉月、俺と家族になって一緒に暮らそう!』
『俺と、結婚しよう!』
若いあの日の彼の願い。
葉月だって、あの時はどんなにか……。
でも、葉月が帰りたい場所はそこではなかった。
そして帰る場所など、何処にあるのか分からない暗闇を彷徨っていた。
だから結局、達也の声は消えてしまったのだ。
だけれど、達也は今──。
明るい日射しの中、『光る子』を抱いて輝いていた。
葉月自身と共にという結果ではなかったけれど。それでも葉月は彼のその輝く姿を祈っていた。
それが今、ここにある。
「有難う。達也も泉美さんも……。私に赤ちゃんにすぐに会わせてくれて嬉しい。素晴らしい瞬間に立ち会えた気分」
葉月がそう言うと、達也はとても嬉しそうだった。
勿論、泉美も──。
だが、彼女の笑顔はそこまでだった。
「達也……。葉月ちゃんと二人きりにしてくれる?」
突然、泉美が真剣な顔で達也にそう頼むと、彼はちょっと躊躇うように黙っていたが、直ぐに頷いて泉美の腕に『晃』を返してしまった。
そうして達也は、ちょっぴり後ろ髪を引かれるような顔で何度か振り返り、外に出ていった。
ドアが閉まる音。それを確かめて、泉美が葉月に言った。
「抱いてくれる? 葉月ちゃん」
「え? いいの?」
「勿論よ。約束していたでしょう。生まれたら貴女に抱いて欲しいと」
泉美の笑顔につられるようにして、葉月はそうっと『晃』を自分の腕の中へと抱き変える。
「わあ……」
暖かくて、柔らかくて……。
そしてとてもちいちゃいくて、軽い。
だけれど、その軽さが余計に尊く感じる『重み』でもあった。
確かにこの腕に乗っている生命を葉月は感じていた。
「嬉しいわ。私が生きることを取り戻した時に、あなたも生まれたのね……。一緒ね。私と一緒ね」
葉月が十歳の時に当たり前に持っていたこと。それを忘れてしまったこと。粗末にしていたこと。
それが全て自分に跳ね返ってきたから、あのような日々にしかならなかったのだと自分でもつくづくそう思えた。
胸を刺され回復し、それだけでもつくづく痛感していたのに……。でも、今日は格別だった。こうして生まれてきた赤子の柔らかさに暖かさ、そして小さい重みは、生に対するもっと強烈なインパクトを与えてくれる。
今……。
私は、どのような顔をしているだろうか?
この穏やかで幸せな気持ち……。
それは母になるとか他人の子とか、そんな枠の問題ではなかった。
自分もこの子も共に、今、同じように生きているのだと、こんなに強く強く感じることが出来る幸せのことを言いたい。
「葉月ちゃん。良かったわ。とても幸せそうで」
「勿論よ。泉美さんには負けるかも知れないけれど?」
そう言うと、泉美が可笑しそうに笑った。
「そうね。私もうんと幸せ。まさか、この身体で子供が産めるとは思っていなかったし。……そうではない人生になるだろうという思いと覚悟の方が強かったもの」
「そうだったの……泉美さん」
状況は全く違うけれど、泉美の『私は駄目かも知れない人生』と決めつけていた気持ち。葉月にも分かる。
泉美は心臓で、リスクが高いこと。葉月は不育症で、どんなにチャレンジしても駄目かも知れないこと。その重荷があるから異性にも一歩踏み出せない気持ち。
だから、泉美がそれをふっと乗り越えて瞬く間にここまでやり遂げたことは、葉月には素晴らしく見える。
だからこそ、葉月も。やっぱりもう一度、頑張ってみようかと思っている。
「おめでとう。泉美さん」
「有難う。葉月ちゃん」
葉月の腕の中で、晃がちょこちょこと腕を動かしたので、泉美とそれを見て微笑み合う。
それにしても? どうして女二人だけにさせられたのだろう?
こうして葉月に抱かせてくれるなら、達也も一緒で良かったのでは?
葉月は急に我に返った。
そして気が付けば、微笑みあっていた泉美が、とても疲れ切った顔を見せ始めていたのだ。
「……だ、大丈夫?」
「え、ええ……」
先ほどは達也とあんなに幸せそうに笑っていたし、葉月が病室に入ってきた時に見た彼女は神々しかった。
なのに、泉美は途端にげっそりとした顔で左胸を押さえたので、葉月は凍りつく。
夫には心配させまいと、明るくしていた? 急にそう思えてきた。
その彼女が、葉月ならこの姿を見ればすぐに察すると思ったのか、思わぬことを言いだした。
「葉月ちゃんにお願いがあるの」
「な、なに……」
嫌な予感──。
泉美は葉月が抱いている息子を、その疲れた顔で、でも慈しむ美しい目で見た。
「もし、私に何かあったら。お願い、この子をお願いしたいの」
「な、何を言っているの?」
「葉月ちゃんなら、分かるでしょう? どんなに頑張っても駄目な時は駄目でしかない運命があるのよ。どんなに抗っても、駄目なものがあるのよ。人は時には、頑張ればとか努力すれば何とかなるみたいに言うでしょう? 勿論それも間違っていないと思う。頑張って元々なかったものを引き寄せることも、努力をして運命を変えられることだってある。私だって、それを信じて仕事もやってきたし、そうして海野中佐の妻になれたんだと思っている。その味、今の幸せの味を充分に噛みしめているから。でも、その逆も残酷なぐらいに存在していて、決して覆せないときもあるのよ。あるでしょう? そういうの。あるでしょう!?」
「な、何言っているの? しっかりして。泉美さん!」
「貴女なら……! きっと達也と私の子だもの。何かあっても、きっと任せられると思って……!」
やつれた顔を急に見せた泉ではあったが、今度はどこか思い詰めた興奮した顔で葉月に詰め寄ってきた。
だが、葉月には『そんなことはない』と言い切りたいのに、やっぱり泉美が言うようにそうとは言い切れなかった。
やはり人には天に与えられた分のようなものがあり、それに逆らうと恐ろしい目にあうことがある。葉月もそれを何度か味わってきたつもりだった。どうしても抗えないものもあり、それも同様に逆らうと、まったく思わぬ方向に流されていってしまうことも……。
泉美が言っているのは、その逆らえないものがあるということ。
心臓が、この病がいつ自分に牙を剥くか分からない。守りたくても守れなくなることもあるかもしれない。その中には、自分を産んで早くに亡くなった彼女の母のことも頭から離れないに違いない。
彼女は母親になったばかり。それに抗ってでも息子を守りたいのだろう。だけれど、哀しいくらいにどうしようもなく抗えないものがあることを彼女が誰よりも強く感じて生きてきたから、だから、より一層に不安になっている、ナーバスになっているのだ。
「泉美さんの子よ。しっかりして。ママはあなた一人よ」
「葉月ちゃん……」
葉月はそっと母親の腕の中に、晃を返した。
気のせいか。母親の腕に帰った途端に、ふにゃっとした柔らかい表情になった気がした。葉月の腕の中では、少しは固くなっていたのか……。やはり母親が判るのか。
それだけ母親は泉美しかいないということだ。
泉美の『どうにもならないこと』、それもないとは言い切れないことではあるけれど、それでも葉月は心を強くして言いきった。
「抗っていれば、なんとかなることだっていっぱいあったわ! 泉美さんだって、そうだったでしょう? 駄目と思えてしまっても最後まで一緒に抗いましょうよ。私、何でも力になるから、何でも言って! 泉美さんが動けなければ、私が動くから!」
そう言いきると、ついに泉美が晃を強く抱きしめながら泣き崩れてしまった。
葉月は彼女の傍に寄り、そっとその不安で疲れ切っている背を撫でた。
「私、知らないから。お願いされても知らないから。泉美さんしかいないわよ。ね……」
彼女がやっとこっくりと頷いてくれた。
でも、その濡れた綺麗な瞳で葉月を見上げる泉美。
葉月は何故か、その濡れた綺麗な瞳にどきりとさせられる。
「分かったわ。誰にも任せられない……。そう思ってやっていく」
母親の自信を取り戻してくれた目に輝いたと、葉月は微笑んだ。
……どうやら、それを葉月に頼んで安心したかったようだ。
それなら、それで彼女も葉月に不安をぶつけて、すっきりしたなら、気を取り直してくれたならいいのだけれど。
「でもね、葉月ちゃん。こんな話をしたってこと……覚えていてね。心の片隅で良いから」
泉美は吹っ切れた笑顔でも、まだ、そんなことを言う。
葉月はもう、そこは仏頂面で聞き流し、返事はしなかった。
話が終わったので、夫妻だけにしようと葉月は部屋の外にいる達也を呼びに行った。
彼は……ドアを開けてすぐ横の壁に背をもたれ、俯いていた。
きっと、女性同士の話、聞こえてしまっただろう。実際に、達也の顔は聞こえたという目をし、納得できない顔をしていた。
「貴方がもっと安心させてやってよ」
「分かっている」
「お邪魔虫はこれで消えるから」
「ああ。来てくれて、サンキュ」
葉月は泉美に挨拶をして、達也と入れ替わった。
ドアですれ違いざま、葉月は達也に『かわいい子ね』と笑顔で言ったのだが……。
「泉美のこと、これからもよろしく──」
怖いくらいの顔で葉月にそういって、すうっと妻の元へと行ってしまった。
その顔。達也も泉美と同じ不安を抱えていることだろう。
でも──。
葉月が一人で出た廊下。
閉めたドアの向こうからは、また達也の賑やかな声が聞こえてきた。
「空飛ぶお姉ちゃんにだっこしてもらえたんだぞー? お前、パイロットになるか? いや、やっぱり親父と同じ陸官だよなー。いや、まてよ? ママのように仕事が出来るノーミス秘書官かもしれないなっ」
「何言っているの? まだ生まれたばかりなのに。その子が選んだことなら、なんだっていいじゃない」
「えへへ。だったら、スポーツ選手が良いなあ。俺と野球やろうな、サッカーやろうな。その時はママが美味しいお弁当を作って側で見ていてくれるんだ。楽しみだなあ〜」
「達也ったら……!」
お互いに不安に思うこと、いっぱいあるだろう。
お互いを想い合うからこそ、見せられない本心もあるだろう。
取り繕っている明るさじゃない。その想い合えばこその明るさが、きっと二人を互いに支え合っている。
葉月は病室に振り返って微笑む。
今の二人なら、きっと、大丈夫と──。
それにしても、と……。葉月は自分の腹部を押さえた。
──おかしい? 結構、すぐに出来ると思ったのに?
前の時がそれだったのに、今回はちっとも舞い降りてこない。
小笠原に戻ってきて、もう杖も必要なく、葉月は日常生活を取り戻していた。
隼人も右肩の傷も癒えて、跡こそあれど、もう元気に動き回っている。
そんな日常を、自分達の帰る場所と決めたこの小笠原で、改めての熱い新婚生活を送っていた。
あの丘のマンションで、結婚後、じっくりと味わうことが出来なかった熱愛を交わし合う毎日。──勿論、夫妻の夜の営みだって。
隼人も口では言わないけれど、二人で肌を合わせる時は、彼は何も言わないで自然に葉月の中へと、そのつもりでやってきてくれるのに……。
『駄目だと思ったら、飛べるところに行くんだ』
『もう、いないよ』
渚で天使と別れたあの日を、近頃、とても哀しく思い出す。
──やっぱり、あの子はもう私のところには来たくても、来られないのだわ。
哀しいけれど。
これこそ抗えないものなのか。
だけれど、葉月も隼人もなるべく触れないようにしながらも、『それでも諦めていない』というお互いの気持ちは、肌を寄せ合う時に明確だった。
葉月も諦めていないから『素』の夫をこの身体の奥に受け入れるし、隼人も諦めていないから『素』のまま、迷うことなく妻の中に溶け込まそうとしているのに。
やっぱり、私のところではないんだわ……。
葉月はふと、そんなふうに思うことが強くなってきた。
それでも、なお……。夫とは愛し合うのだろうけれど。
・・・◇・◇・◇・・・
──そうして私達は、この一夏、思い切り愛し合う。
大佐嬢の毎日は忙しい。
この夏はあらゆる仕事を手がけ始め、休日だって大佐室に出ている。
そしてそれは夫の隼人も……。工学科での仕事で、出張にだって行ってしまう。
土曜日の午後。葉月は午前中、大佐室で後輩達と共にみっちりと仕事をして帰ってきた。
少しでも片づけたいから。そして大佐室の後輩達も、すっかりその気で、皆で話し合って今日の午前中も出ようという話になったのだ。
小笠原の真夏の熱気は、いつもと変わらない。
外に出ただけで、半袖シャツの首元と脇は、じわっと滲み出た汗で湿ってしまう気候になっていた。
基地から丘のマンションに赤い車で帰ってきても、同じように休暇返上で工学科に出ている夫・隼人の姿もなかった。
ダイニングテーブルには、二人で見つけ早速購入した小笠原の土地に、どのような家を建てようかという計画をしている資料も散らばっている。
少しずつだけれど、二人で目指す『新しい城』の計画も進んでいた。
結婚前よりも、ずっと充実した職務の日々を……。
そして新婚生活を。
それだけで充分。本当にこのままでは結婚式なんてやらなくて良いと思ってしまうぐらいに、平穏で充実した日々を送っていた。
「あー、暑い。シャワーを浴びよう」
葉月は帰って来るなり、書類鞄をテーブルに放って、すぐにバスルームに向かった。
白い夏シャツに、制服のタイトスカートを脱ぎ捨て、裸になる。
目の前にある洗面台の鏡に姿が映ると、葉月はふと正面を向いて、胸の谷間に指を当てる。
赤い三日月のような傷。まだ赤黒いけれど、細い線だけになった傷……。決して目立たなくなることはないのだけれど、葉月のその胸の傷は、まるで三日月型のペンダントトップのようにも見える。
裸になった葉月は、長くなった栗毛をかき上げ、乳房を突きだしてその紋章のようになった赤い三日月をこうして鏡に映して、毎日眺める。
どうしてか、嫌ではなくなっていた。気の持ちようとはこのことなのだろうか?
ぬるめのシャワーを、ゆっくりと頭の先から長い間浴びる。
なにもしないで落ちてくる湯滝の中で、葉月は手のひらでその湯を受けたり、汗で湿った栗毛をたっぷり湯で浸したり。そして身体中全体に湯が行き渡ったところで、今気に入っている香りのボディーソープを手にして、身体中に滑らせた。この時は、海綿のスポンジは使わない。素手で素肌を感じる。これで葉月は自分の身体を確かめる。お気に入りの香り。体温に合わせた湯滝。爽やかな夏の午後の光が、このバスの小窓から入り込んでくる。真っ白いバスは明るく輝き、その窓だけが絵葉書のように真っ青な空を覗かせている。
優雅なひととき……。
そんな贅沢なひとときを、香りと共に堪能していると、背後にあるバスルームのドアがカチリと音を立てた。
振り向くと、そこには『夫』がいた。
しかも、彼も裸で……。何食わぬ顔で入ってくる。
「おかえりなさい。終わったの?」
「ああ。休みだから大佐も俺も、良い頃合いで切り上げた」
そして葉月も、当たり前のように入ってきた夫に驚きはしない。
「老先生と甲板に出て、色々と機械をいじって眺めてきたんだ。俺も汗びっしょりだ」
彼がそのまま、シャワーの下で、すっかりびしょ濡れになっている妻の目の前にやってくる。
その目が、香りを放つ湯が妻の身体中をなぞるように滑らかに落ち、乳房に沿うように下へと伸びている栗色の毛先を満足そうに眺めている。
やがて、葉月の両乳房の脇にその手が添えられ、突き出した親指だけで、乳房に貼り付く栗毛の下に隠れている胸先を、意地悪をするようにゆっくりと押した。それも葉月の瞳からその視線を離さずに、妻がどんな反応をするのか観察をするような意地悪で余裕な目で。
夫のそんな意地悪な親指がゆっくりと押したそこは、勿論、何の躊躇いもなく突き出し反応をしたし、そして……葉月も、熱くなった瞳でそのまま夫を見上げた。
「なあに、貴方……」
その意地悪に乳房の脇を包んでいる夫の手、両手首を葉月は掴んで除けようとした。
本当はそのまま包み込んでくれてもいいのだけれど、あんまり意地悪な目で葉月を試すように見ているのがシャクで。
だけれど葉月が除ける前に、隼人からすっとその手を離した。そして、次にはシャワーの下で、その長い両腕にしっかりと抱きしめられる。
「ただいま、葉月」
「……おかえりなさい、隼人さん」
葉月も隼人の背に両手を滑らせ、しっかりと抱きしめる。
お互いの目を合わせ、息があったように口づけた。
でも……。その後は……。
両手を頭の上に掴みあげられ、そしてシャワーを掛けている壁に押しつけられる。
「あっ。また……そんなこと、ダメっ」
「何を言ってもだめだ」
まるで拘束されるように、葉月の頭の上で手首を交差され、隼人はそこを強く押さえたままに、妻に口づけ、耳たぶを愛撫し、そして……首元から湯が流れ落ちる乳房へと次々と強い口づけを施していく。
いつもそう。近頃は、そう、……こんな感じ。
ちょっと強引で、もうなんの躊躇いもない隼人が思うままにぶつかってくる、攻めてくる、葉月の心に身体に向かって思いの丈をありったけに……。
「貴方……っい、いや」
嫌と言っても、隼人は知らない顔で貫き通す。
ひとしきり乳房をたっぷりと愛し終えたら、隼人もそこは満足をしたように……。違う……。『私』が、妻が満足したのを知ったから。そして妻が次を熱く欲しているから、彼は妻の望みを叶えるために次に行く。
その通りで葉月の下腹部は、もう、熱く火照っている。そこに夫がやってくるのを今か今かと待ち構えている。
その待ち構えている一点に、彼の指先が触れた。
「あ、ああ……ん」
その瞬間に、素直に漏れる声。
既に開放されている手首は、もう、夫を拒もうだなんて意志はない。むしろ迎え入れる。
膝を落として栗色の茂みに口づけ、愛撫する夫の頭を優しく撫でながら、葉月は流れ落ちてくる湯の中で、自分の指先を噛み続けた。
それを、その奥の園を愛している夫が満足そうに見上げている。
「いい?」
「い、いい……わ」
「うん、そうみたいだ」
隼人は妻が満足している証拠である白蜜を指先で確かめて、また果敢に唇を寄せる。
昼下がりの、青空が見えるバスルームでの、夫妻の熱愛、その営み。めくるめく情熱。お気に入りの花の香りに包まれて、夫にどこまでも熱く愛撫されるこのひとときに……ついに、葉月は……。
「あ、な……あなた。わ、わたし……」
その瞬間が迫っているのを感じていた。
もうすぐ花開いて陥落する。なのに……。その感覚がすうっと遠のく。葉月はふと我に返って固くつむっていた目を開けると、目の前には跪いていたはずの隼人がこれまた意地悪そうに微笑んでいる。
「もうすぐだった?」
「い、いじわる・・・」
「ここでもいいか?」
どうしてこんなにじらすのかって、葉月はついにむくれてしまった。
それで意地を張ってツンと横顔を向け、本心とはうらはらに隼人を突き放そうとしたのだが……。その隙に隼人に腰を力強く上へと掴まれ、気が付けば、ぐっと彼がお構いなしに葉月の中へと入り込んできた。
「あん……! い、いじわるっ。本当に、意地悪な人!」
「なんとでも、い、言って、くれ……」
今度は隼人も、その熱に飲み込まれているようで、懸命になっていた。
葉月はまた思う。
いつもそう。近頃は、そう、……こんな感じ。
ちょっと強引で、もうなんの躊躇いもない隼人が思うままに……。
その隼人が、葉月を強く抱きしめ、強く愛しながら言う。
「いつまでも、そんなウサギで楽しませてくれよ」
葉月は愛されながら、隼人を抱き返し微笑む。
だけれどちょっぴりお返しで、抱きつくその背に『甘く見ないでね』と、爪を立ててひっかいた。
・・・◇・◇・◇・・・
そんな甘い新婚生活を春から続け、真夏になっている。
バスルームでのひとときを終えて、着替え、帰ってきて散らかっている部屋を一緒に片づける。
白いワンピースに着替えた葉月が、ダイニングテーブルに置いていた買い物袋や書類封筒を片づけていると、白いシャツにジーンズに着替えた隼人が林側の部屋から出てきた。
「これ、また届いたから」
分厚い白い封筒が葉月に差し出される。
だけれど、葉月は首を振った。
そして今度、隼人は花柄の封筒を差し出した。
「これも。──美波さんから」
「そう」
その二通の封筒は、毎月届く。
葉月は分厚い封筒は一度も開けたことがない。
だが、毎月来る美波からの花柄の封筒は毎月欠かさず開いていた。
ただし、返事は書かない。
あのボーイッシュだった彼女が、毎月、素敵な封筒を選んでくれる細やかな心遣いは葉月にも通じていた。
そうして少しでも葉月の心を和まそうとしている気遣い。
そしてその内容は、短い。便せんが一枚、三行から十行書いてあれば良い方。
大抵は『父親の近況報告』だ。
彼女の近況報告はない。
短く、必要なことだけ。
葉月が受け入れられることだけを気遣って記してくれているその文章には、葉月は目を向けていた。
そう、分厚い白い封筒は、あの瀬川アルドからだった。
初めて届いた時には、隼人と一緒にその封を切って便せんを開いたのだが。
『君はどう思うだろうか? これから私が記すことを受け入れて欲しいとは思わないのだが……』
その品格ある文章を目にしただけで、葉月はばさりとその便せんを手放してしまったのだ。
勿論、夫は『どうした?』と尋ねた。葉月だって彼から語られることを祈ってきたのに、そこにいた『瀬川アルド』がもう葉月が知っている『幽霊』ではなく、きっと純一や姉が良く知っていた『人』に戻っていることを知ったからだ。
と、なると……。そこに正常に戻った彼が、赤裸々に語ること、そしてきっと『君』と呼ばれた葉月に対しての懺悔なども綴られていることだろう。
これを願っていたのに、何故?
とても生々しくて、恐ろしいものに感じて、葉月は再び震え始めていた。
『いい。無理はしなくても。読める日が来たら読んだらいい』
隼人はそう言って、葉月を優しく寛く抱きしめてくれた。
『これは俺が預かっておく』と、真実と懺悔が綴られているだろう分厚い封筒を手にして……。
それからは毎月、葉月にではなく夫の隼人の元に届くようになった。瀬川の弁護士を通じてのようだ。
隼人がどうコンタクトをしているかは葉月は聞き出さなかったが、時々、美波の連れ合いである翼と連絡を取り合っているようだった。
そして隼人の元に届くようになったその二通の手紙は、毎月、葉月の元に欠かさずにこうして差し出される。それで葉月が開くのは、美波の花柄の封筒だけだった。
真実を知りたい。
でも、怖い。
まだ、そんな情けないところにいた。
終わったと思ったのは、自分の心の中にある『訳の分からない恐怖』と『こびりついた憎しみ』だと思っていた。
だがそれは終わったのではなく『薄れただけ』だと、葉月はこの頃、そう思うようになった。
そして新たなる心の旅と戦いが始まっていることを感じていた。
この封筒を開けなくても、警察がこれから洗いざらい調べて、観念した幽霊が全てを語るだろう。
そうして取り調べや裁判の中で、間接的に知っていくことになるだろう。
だけれど、人になった瀬川は、こうして葉月に直接触れる道を選択している。
これを開いて読む日は、葉月にとっては、きっと幽霊ではない本当の彼と一対一で向き合う日になるだろう。
開けることが、葉月にとってもあの壮絶な戦いの中でも望んだことであり、新しい一歩を踏み出すことだと解っている。
だけれど、まだ、その望んだはずの一歩が、あんなに生々しく痛いものだったとは予想外で、葉月はまたここで躊躇っているのだ。
だが、隼人はそこは何も言わず、今月も……。
「預かっておくな」
「うん……」
彼はただいつもの穏やかな微笑みを浮かべたまま、その分厚い封筒を下げていく。
聞けば、純一のところにも毎月ではないが時折届くらしい。義兄は開いて読んでいると聞かされているが、彼からは『何が書いてあった』という話は聞かないし、たまに本島であっても、決して話題にはしなかった。
また、皆が、そうして葉月を遠巻きにして見守ってくれている。
──再度、情けなくなる自分。
だが、そんなには待ってくれないことが起きた。
今月の美波の便せんに、驚くことが記されている。
『横須賀の刑事さんから聞きましたか? 父が皐月さんの墓前に行きたいと言っています。もう自分でも動けるようになったからだと思います。刑事さんは葉月さんさえ良ければ、特別にと……』
その文面に、葉月は固まった。
時は八月の半ば、真夏。
来月は、姉の命日。
つまりそれは……。