-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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10.引退宣言

 本部での隊長業務開始前に、葉月はどうしても会っておかねばならない人がいる。
 その為に、今日は無茶と言われても出勤してきたといっても過言ではない。
 この人に会うなら、基地に行くのが一番近道だからだ。

「四中隊、御園です」

 そのドアをノックした葉月は、そこは軍人として訪ねる。
 だけれど……。心はそうではない。『妹の気持ち』だった。

 葉月のノック、そしてかけ声でドアがすぐに開けられた。
 ドアを開けてくれたのはリッキー。

「レイ! お帰り、待っていたよ!!」
「リッキー。ただいま……! 心配かけてごめんなさい」

 二人は顔を見るなり、なりふり構わずに抱き合った。
 いつもは何処までも軍人としての枠をはみ出そうとしないこの兄様。
 だけれど今日は、葉月もそのつもりだったのだが、彼の方からその両手を広げて葉月を抱きしめてくれた。

「ごめんな。見舞いにもいけなくて」
「ううん! 私の中隊の面倒を見てくれたり、瀬川のことをマイクと一緒に連携して調べてくれたことをパパから聞いていたから……」

 ジョイもそうだったが、リッキーも外からの援助をしてくれていた。
 それには誰かが軍隊というポジションで動いてくれなくてはならず、ロイにリッキーには小笠原で瀬川に対する対策を施してくれていた。
 父から聞いたのは、その亮介が自主退官を決意して欠勤をしている今、ロイが代わりに軍隊のあちこちに探る穴を開け、マイクとリッキーで情報収集をしていたとのこと。さらにロイとリッキーは横須賀基地の昔のデーターを探り、皐月と瀬川の間に何があったかも捜索してくれていた。今のところ……なにもでてこないらしいが、ロイの勘では『どうも怪しい』と思える部分があったそうだ。しかしやはりまだ、知るのは瀬川のみというところらしい。

 そうして会いたいのに会えずじまい。
 一番、遠いところから援護することで、葉月の元に来ることが出来ず、そして親族のみでと気遣ってくれたばかりに結婚式にも招待できずじまい。
 これほど一番側でお世話になった兄分はいないというのに……。葉月は小笠原に戻ったら、直ぐに会いたいと切に願っていた人。

 その人が今……。小笠原の空と海がいっぱいに広がっている窓辺の前に立っていた。
 そして今日も、その窓辺には赤い薔薇が活けてある。

「葉月、おかえり」
「ロイ兄様……」

 そこにはあの眩いばかりの金髪に、そして空も海も勝つことが出来ない真っ青な瞳を揺らめかせているロイが、葉月を見つめ、微笑みかけてくれている。

「兄様──!」

 リッキーにもそうしたように、今日の葉月は心から溢れる思いのままに向かっていく。
 杖をつきながら駆け足になったせいか、ロイが驚いて大股で葉月へと向かってきてくれる。
 ロイがその手で葉月の腕を掴んでくれた時、葉月はそのままロイの胸の中に飛び込んだ。
 ……もしかすると。この兄様ほど受け止めてくれる胸が大きく広く思える人は他にいないかも知れないと思えたほどに。葉月はその制服の胸の中に頬を埋め、小さな少女に戻ったように抱きついた。

「こら、危ないだろう? まったく、お前は本当に目が離せないと言うか!」
「だって。兄様に、会いたくて」
「嘘つけ。一番頼りの黒猫兄貴が毎日側にいたんだから、そんなこと考えることもなく満足だっただろう? こんな口うるさい兄貴がいなくなってせいせいしていただろう?」
「本当に、そんなこと思っているの?」

 つい最近まで、葉月の目の前では『純一とロイ』は酷く敬遠している仲だった。
 後になって気が付いたことは、それは男特有の張り合っているだけの仲だったりとか、わざとそうして険悪に見せることで裏で上手く連携していることを隠していたのだとか……。そう悟ることが出来たと思っていた葉月。だけれど、ロイがそうして嫌味っぽく言うと、その態度は長年感じてきたような痛さを感じてしまう。だから、本当にそんなに自分は嫌われていると思っているのかと、葉月は哀しくロイを見上げる。

「い、いや。だから例えば、だ。たとえば!」
「兄様、愛しているわ。本当よ。大好きよ。兄様がいなくちゃ嫌よ」

 それは、近頃の葉月が素直に『有難う』と人々に伝えている言葉と同じ意味。
 だけれどこの離島で何年も、家族のようにして一緒に過ごしてきたのだ。
 葉月にとってはそれが、義理兄になるはずだったロイへの『有難う』だった。
 だが、ふと見あげると。あの冷徹な連隊長と言われているロイが顔を真っ赤にして、慌てている。

「ば、ば、馬鹿者っ。それは純一に言えっ」
「言っているわよ。純兄様は『俺もだ』って言ってくれるのに……」
「うわっ。葉月、お前、どうなっているんだ!?」

 臆面なく『愛している』『大好き』と連発。そしてそれをあの純一とも言い合っているのだと知って、ロイはさらに仰天したようだ。
 だけれど、横にいるリッキーは大笑いしていた。

「レーイ! 俺にもやって、やって」

 彼が両手を広げるので、葉月は笑ってそこに飛び込んで『愛している、大好き、大好き』と猫のように抱きついてみる。
 するとロイがとても怒った顔で、リッキーの制服の襟首をぎゅうっと上へと引っ張り上げた。

「おい。調子に乗りすぎだぞ、リッキー」
「ロイが固いんだって。レイがこんなに熱くなって愛を伝えてくれているのに。真っ正面から受け止めてやらないなんて勿体ない。可哀想に」

 リッキーの冷たい横目に、ロイがまた顔を真っ赤にしてぐっと引いてしまった。
 葉月はまだリッキーに甘えた振り。実はこうしているのもワザとロイを困らせているだけ。それもリッキーと疎通してからかっているだけ。葉月はこっそりと舌を出した。

 だけれど、それは本心で言ったこと。
 葉月はふざけるのをやめて、もう一度改まってロイに向かった。

「ロイ兄様、有難う。私、本当に【あの日】に戻れそうよ」
「葉月……」

 そこにはもう、甘えた顔の『リトルレイ』はいないだろう。
 葉月という、一つの時代を超えてきた女性として見て欲しいと葉月は今度はしっかりとした顔つきでロイを見つめた。

「頑張ったな。葉月」
「有難う、ロイ兄様」

 今度こそ、お互いを敬愛する抱擁を交わした。
 ロイはもう、葉月を小さな少女を受け止めるような抱きしめ方はしなかった。
 そこには一人の大人になった女性を敬愛している大人の男性の抱擁。兄の抱き方ではなくなっていた。

「まあ、業務が始まっているが、少し休んでいけ」
「そうね。そのつもりです」

 連隊長室の大きなソファーに促され、座ろうとする。
 そこはロイがきちんとエスコートをしてくれ、杖を外せば受け取ってくれ、ちゃんと葉月が座るまで手を取って見守ってくれる。そのロイの仕草が、今までにない『レディ扱い』であることが葉月には分かり、とても新鮮な、今までにない気分にさせられる。

「結婚、おめでとう。それが最初に言いたかったのに、お前がいつものお嬢ちゃんの顔で押しかけてくるものだから」
「私は変わったつもりはないもの」
「いや、やっぱり変わったか……。『奥様の顔』になっている」
「え?」
「幸せそうだな。入ってきた時の顔、一目で分かった」

 今度は葉月が頬を染め、恥ずかしげに俯いた。
 そこもロイはただ大人の顔でそっと笑っただけで、今までのような『お嬢ちゃんからかい』はしてこなかった。

 ロイも向かいに座ると、リッキーはいつものお茶の準備で秘書室に出て行ってしまった。

「さて。これからやることが沢山あるな」
「はい」
「まずはどうするつもりなんだ?」

 葉月は、胸の中にいっぱいにいっぱいに溜めてきたことを、やっと聞いて欲しい『上司』と再会できた気持ちだった。
 置き去りにするしかなかった沢山の『大佐嬢の情熱』。それを葉月は手元に引き寄せ、取り戻したのだ。
 また大いに暴れるつもり。達也から中隊の本部員も待ち構えていたという話を聞かされ、益々その情熱の炎は燃え上がっていた。
 それをロイに伝え、そして次にはああして、こうして……! 次々と繋がっていく大佐嬢特有の手順。
 葉月の心は新しい風が吹き荒れている。そして、それはやがて……皆が言うところの台風になるはず!

「まずは──。澤村が手がけている工学の仕事。これをそろそろパイロット側と連携させたいと思っています。それから私の現役引退後の体勢を整え、それから澤村が甲板を下りた後のことも。それから……かねてよりお願いしておりました『合同研修』。これを是非、我が中隊で……」
「もう、いい」
「え?」

 沢山溢れてくる大佐嬢としての情熱を連隊長に聞いてもらい、どれだけのやる気があるか知って欲しかった。
 なのにロイは、凄く残念な顔をして、その上、とても聞いていられないと言った嫌そうな手振りをして葉月の言葉を払おうとしていた。

「どうしてですか? 連隊長。わたくし、何か……行き過ぎたことでも……」
「そうじゃないだろう? 『葉月』──! いい加減にしろ!」

 ロイが『大佐』ではなく『葉月』と言って、かなり本気で怒っていた。
 葉月は何がいけなかったのか分からず困惑していると、ロイはテーブルに手をついて葉月にずいっと詰め寄ってきた。

「この、馬鹿嬢ちゃんが。仕事の話なんか、最初にするな! お前、俺の目の前でやっていないことがあるだろう?」
「な、なあに? 兄様……」

 すると、ロイは近づけてきた顔をすっと除け、ソファーの背へもたれると両手を組んでふんぞり返った。
 そしてまるで葉月を威圧するような偉そうな顔で、葉月が思いつかなかったこと、ロイをがっかりさせたことが何であったのか教えてくれる。

「お前、俺の目の前で結婚式をしていないだろう?」
「え? そ、そうだけれど?」
「挙式。まだなんだろう? やるのだろう?」
「え……? まあ、そのつもりだけれど……」

 葉月が気のない返事をしたためか、ロイがついに吠えた。

「この馬鹿者! 先ずやりたいことが仕事ばかりで連隊長としては大いに感心だが、義兄としてはまったくもって納得できない!」
「で、でも……挙式はまたパパとママとも相談して……」
「んなことしているうちに、お前と隼人なんか『別にやらなくても良い』とか言い出すんだ!」

 『そうかも』──と、葉月は心の中でぽっつりと呟いた。
 葉月の中ではもう、あの山崎の一軒家で親族と迎えた最高の瞬間がある。
 同じ言葉を指輪に刻んでいたという感動や、花開いたような夫との初夜……。それだけで、暗闇にいたはずの葉月には充分で……。
 だが、ロイはそれだけでは許してくれないようだ。

「俺のいない結婚式で済まそうなんて許さない……。いや! 小笠原の友人達を差し置いたお前達の結婚なんか認めないぞ!」
「ちょ、兄様……だから、後で家族で撮った記念写真を見せようと思って……」
「ちがーう! よーく聞けよ葉月! 俺はもう決めたぞ!」

 すっかり興奮してしまったロイ。そんな兄様がとんでもなく驚くことを言い出した。

「お前の挙式。俺が全て取り仕切る。パイロットに本部員、その他大勢! 盛大に招待するんだ。あー、勿論、立会人は俺と美穂だ。小笠原で挙式をするんだ。いいな!」

 葉月は『え』と固まった。
 それだけじゃない。

「そして御園大佐。お前の『ラストフライト』も俺が仕切る。日時に形式、全てだ。お前の勝手だけの引退は許さない。いいな」

 葉月は呆然──。またまた『え』と固まった。

 なんて強引な言い渡し?
 葉月が息継ぎをする間もない強引さで、挙式もラストフライトもこの兄様が握ると言っている。

 これって、なあに?
 小笠原に帰ってきたら、じゃじゃ馬を襲う台風がいっぱいだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「よーし、全機終了。これで上がろう」

 ここのところ、雨が多い。
 オレンジ色のレインパーカーを着込み、隼人は各機を整備しているメンテ員達に叫んだ。
 この雨の中、訓練を終えたビーストームの機体整備を終えて、隼人のかけ声でメンバーが集まってくる。

 甲板の車庫前、そこの少し雨が入ってこない場所で、隼人を前にして全員が並んだ。
 妻の御園大佐と復帰して数日が経っていた。
 甲板に戻ってきたのも、二、三日前のことで、それは四中隊の本部で盛大な出迎えをしてくれたように、こちらもロッカールームでの再会では皆が涙を見せてくれた。
 結婚後の復帰も彼等と顔を合わせてはいたが、デスクワークと工学科の仕事が重点だった為、一緒に甲板に出るのは結婚後、これが初めてだった。

「今日は、皆に知らせなくてはいけないことがある」

 やっと甲板に戻ってきた『サワムラキャプテン』。
 皆が心待ちにしてくれていた顔を揃えながら、復帰したキャプテンの久しぶりの『お知らせ』に静かに耳を傾けてくれている姿。
 隼人はその一人、一人の顔を見た後、心苦しさを噛みしめながら、彼等にはっきりと告げる。

「じきに、この甲板を下りようと思っている。つまり……このチームを皆に任せ、現場メンテ員も卒業するつもりでいる」

 隼人が告げた事実上の『引退宣言』。
 その衝撃が、目の前の後輩達の顔に広がっていた。
 ただ、一人……。結婚後の復帰の際に、密かに引退を告げておいたサブキャプテンの『デイビット=ファーマー大尉』。彼だけは隼人の決意を先に知っていただけに落ち着いていた。それでも彼もまだ納得できていない苦い表情をしている。

「それで俺の一存ではあるけれど、今のところ、後継するキャプテンは『デイビット』。そしてサブキャプテンを『村上』に頼もうと思っている。まだ決定ではない。異存がある場合は、今後の意見も聞きたいと思っているので後ほど。デイビットでも俺にでも伝えに来て欲しい」

 隼人がそこまで言い切ると、誰もが何かを言いたそうで。でも……昨年から隼人が工学科寄りの業務を手がけ始め、現場訓練の甲板メンテナンス業務に穴を開けるようになっていただけに、『予感はしていた』とも言いたそうな顔をしていると隼人は思った。
 そんな彼等に、隼人はもう一言。

「現場で、メカに触れているのも俺は楽しくて仕方がない。だけれど、『何かを開発する』──これも、やってみたかったことの一つなんだ」

 『夢』と言うものに、一歩、踏み出したいという正直な気持ちを、隼人の一声で集まってくれ、ここまで付いてきてくれた後輩達に告げる。
 短い間だったけれど、彼等とはその短い時間に甲板で気持ちを一つにしてやってきた。それは例え一瞬である短きものだとしても、とても凝縮されている忘れられない瞬間となるだろう。
 隼人が大佐嬢に引き抜かれ、彼女に与えてもらった大きな仕事。フランスにいた時には、『どうせどんなに頑張っても、大した望みは叶いやしない』と思っていた。だから淡々と平和に過ごせていけばそれで良いと、向上心などは持たず、最低限の現状維持を貫き通そうとしていた。
 そこにやってきた『風』。
 そして、その風に乗せられて、隼人はこのメンテチームを作ってきた。それは彼女が望んだことであり、そして隼人にとっては初めての大仕事だった。それをやりのけた今──大佐嬢が隼人に与えてくれたのは、『貴方の夢を。誰のためでもない、自分のための夢を』だった。

 それを後輩達に告げる。
 彼等は神妙な顔で聞き届けてくれたが、まだ惜しむ眼差しを、どうしても諦められないと言ったような目を見せている者も……。

「だけれど、最後に、皆に頼みたいことがある」

 最後に──。やはりどんなに引き留めても、キャプテンの決意は揺るがないのだと、やっと分かってくれた顔、でも残念そうな顔。そんな顔を見せられると、このチームを作った本人も惜しい気持ちになってくる。

「なんすか。キャプテンが頼みたいことって」

 エディがぶすっとした顔で聞いてきた。
 誰もが隼人の復帰を待ってくれていた中、その中でもエディは特に心待ちにしていたと隼人は聞かされている。
 だからか。彼はかなり不機嫌な顔……。
 隼人は彼に何処か共感を得ることがあった。フロリダで彼は『変わり者』のように扱われていたが、それでも『メカさえ触れたら良い』とその現状に甘んじていたのは、フランスでただ平穏を守ろうとしていた自分と重なったりもした。そして大佐嬢という『風』に捕まって、この小笠原まで吹かれて飛んできたことも、その小笠原で開花したように生き生きと動き始めたことも。何よりも、人との関わりを面倒くさがっていたが、今では誰よりもその小笠原で共にしている仲間を愛していることも。──隼人にそっくり。そう思うことがある。
 それだけに、エディも隼人にはとても懐いてくれ、何事にも『レイ、キャプテン』と一番に動いてきてくれた。それはきっと彼も隼人の中に同じようなものを感じてくれていたのだと思う。
 きっと彼が一番がっかりするだろう──それは次期キャプテンを任せるデイビットの言葉だった。

 だが、隼人はその彼に……もっと辛くなるだろうことを告げる。

「実は、大佐嬢も『現役引退』を決意した」

 さらなる衝撃だろう。
 隼人が甲板を下りると言う報告以上に、後輩達がざわめいた。
 無論、エディは頭が真っ白になった──と、言いたくなるように呆然と隼人を見ている。

「ただ、大佐嬢の場合は甲板指揮に正式に移行。これからも、皆とは甲板で共にする決意だ。その彼女が『あと一回だけ飛びたい』と言っている。そのラストフライトを実現させてあげたい。その時は、この俺がカタパルトから飛ばしてあげたいと思っている。その時、皆にも手伝って欲しい」

 だが、誰も『解りました』と言う反応は見せてはくれなかった。
 ただただ、驚きで、どうしてそのように次々と去っていくのかという顔を揃えている。

「このサワムラメンテチームで彼女を空に送ってやりたい。その時は、俺も帰ってきたいと思っている……。どうだろう?」

 どうだろう? と問うても、一緒に大佐嬢の空への餞を共に手伝ってくれないと困る訳だが……。

「勿論です、キャプテン。大佐嬢を空に送るのは俺達しかいないじゃありませんか。他のメンテ員には任せられません」

 直ぐに落ち着いて答えてくれたのも、やはりサブのデイビットだった。
 やはり次期キャプテンは彼しかいないと隼人は頷く。その証拠に、デイビットが頷いたら、他のメンバーも次々に『残念だけれど、他には譲れない』と声を揃え始めてくれた。

 でも、エディだけは……。

「キャプテン……! どうしてなんだよ! レイをここに連れてきてくれよ。なんで、パイロットをやめるんだよ。俺はまだ、レイを満足に飛ばしていないし、レイだって……! 指揮側に使われていても、レイはパイロットに戻ってくると俺は待っていたんだ!! そんなの俺は嫌だ!」

 ──『ラストフライトなんて、やるものか!』

 エディだけは大きな声で、受け入れられないと反対する。
 隣にいたトリシアが、とても心配そうな顔をしながら『エディ、やめて』と赤い作業着の袖を引っ張っていた。

 隼人もそのエディの叫びは、痛いほど判る。
 葉月の本当の気持ちを知っていればこそ、納得はしたが、心の片隅ではまだまだ彼女の空への勇姿を見ていたかった気持ちもある。それもずうっとだ。
 しかし……と、隼人も喉元まで何かが熱く込み上げてくるのを飲み込むようにして、エディに言う。

「大佐嬢は……、いや、葉月はもう……。飛べないんだ」
「だから、どうして!? レイにとって空は……」
「この前、刺された傷がパイロットとして致命傷になったんだ!」

 エディが言いたいことを解っていて、隼人は強く遮った。
 するとまた、後輩達が一斉に固まった。
 暫く、シンとしていたかと思うと、ついに……トリシアが、涙をぼろぼろとこぼして泣き始めていた。
 エディは勿論、デイビットも他の後輩達も呆然とした顔をしていた。

「ラストにあと一回ならと、医師から許可は出ている。後は大佐嬢が上にどう頷かせるかの段階で……」

 トリシアだけじゃなかった。
 目の前で、エディも唇を噛みしめ、涙を流していた。
 一筋だけの……。小さな涙を。
 そして、デイビットもだった。

 それを見て、隼人はしまったと思った。

「悪い。順番を間違えた」

 つい、二度と飛べなくなったのは傷のせいであるのが決定打みたいに思ってしまい、隼人はハッとした。
 一番大事な、大事な、『大佐嬢の意志』を彼等にも伝えなくてはならなかったのに……。

「あのな……。実は、大佐嬢は襲われる前に既に、引退を決意していて……北海道の旅行の最中に俺も初めて報告してもらったんだ。だから、刺された傷で飛べなくなったのは事実だけれど、彼女の気持ちは『もう引退する』と自らの意志でコックピットを降りようとしていたんだ。だから、奪われたわけじゃない! 彼女自身が望んだ意志で、彼女が自ら望んだピリオドなんだ」
「なに、それ? どういうことなんだよ。キャプテン! そっちの訳の方が重要じゃないか!?」

 俺の涙を返せ! と、ばかりに真っ赤になったエディが突っかかってきて、隼人は面目なく頭をかいて謝る。

「悪い。つい……俺も傷での断念の方がショックだったんで……」
「じゃなくて、本当の理由! 教えろよ、キャプテン……!!」

 そこで隼人は、思わず口をつぐみたくなった。
 そして頬が熱くなる。
 しまった。こういう報告にするつもりはなかったのに。エディやトリシア、そしてデイビットにチームの皆が、まるで隼人に同調してくれるように大佐嬢の引退を惜しんでくれるから、その惜しむ気持ちに飲み込まれ……。
 じゃない。『本当の理由』。それを、妻の葉月が隼人に告げたように言えと??

「教えてください。キャプテン!」
「そうですよ、キャプテン。俺も大佐嬢の決意の訳を知りたいです」

 トリシアにデイビットまで、隼人に詰め寄ってきた。
 そして隼人はついに……

「子供、が・・・ほしい・・・って」

「え? なに? 聞こえないよ、キャプテン!!」
「何が欲しいと大佐は言っていたのですか?」
「どうしたんですか? キャプテン……」

 目の前にいるフロリダ出身の三人がさらに詰め寄ってくる。

「俺もー、後ろまできこえないっすよ! サワムラキャプテン!!」
「違う、ミゾノキャプテンだろ?」
「もっと大きな声で言ってください!!」

 後列にいるフランスから来た後輩も教え子も、そしていつもエディと張り合っている三宅も叫んでいた。
 またもや隼人は結婚を本部に報告した時のように、やぶれかぶれで甲板の上で叫んだ。

「子供が欲しい。それをコックピットよりも大事にしたい。そういうこと!!」

 また後輩達が、今度はギョッとした顔で……静かになってしまった。

「うわー! だったらそれって今度はキャプテンが大変じゃんっ!? そっか、キャプテンとの子供が欲しいのか。そりゃ、訓練を続けていたら危ないっ」

 さっきまで熱くなって泣いたエディが、いつものとぼけた顔で甲板中に聞こえるように騒ぎ始めた。
 うわ、お前。こんな時だけ、そんな大声出すか? と、隼人はエディをとっつかまえて黙らせたくなった。

「でも……。それだったら、産んだ後だって復帰することは出来ると考えなかったのでしょうか?」

 それは勿論、もう……傷のせいで叶わない訳だが、同じ女性として現場で頑張るトリシアとしては、葉月が身体的に駄目になる前の時点での決意の方がショックのようだ。出産をしたらまた復帰。きっとこれからの女性にもそうして頑張って欲しいという頑張りたい女性の願いなのだろう。それをあの大佐嬢なら、と思ったのだろう。

「そうだな、トリシア。俺もそうであって欲しいなと思ったよ。けれど、彼女は違うんだよ」
「どう違うのですか?」
「彼女の新しい決意。それはこの甲板に立ち続け、今度は俺達『空軍人の女房』になることなんだ」
「女房?」
「そう。空を飛ぶ野郎達を、甲板を走る俺達を。彼女はその大佐嬢という立場から『守っていきたい』。だから、彼女はコックピットでの戦いにピリオドを打ちたい。それも決意をした大きな理由なんだ」

 ──『空女房』。

 その言葉に、後輩達がやっと大佐嬢らしさを見つけた、しっくりしたという顔を見せ始めていた。

「じゃあ、レイは。今度は俺達と同じ甲板の上で暴れるんだ」
「そうだ。彼女は一生、空軍にいると言っている。もう、彼女にとってコックピットは過去なんだ。解ってくれるか? エディ……」

 すると今度のエディは、いつもの元気な笑顔で『イエッサー』と敬礼をしてくれた。

「それなら、キャプテン。本当にラストフライトは俺達で送り出さないといけませんね。俺も見届けたいです。大佐嬢の最後のフライトを」
「私もです!」
「俺も!」

 後輩達が足並みを揃えるようにして『お手伝いをする』と言ってくれ、隼人はほっとした。
 このチームなら、隼人が抜けても、ビーストームを支えてくれるだろうと、隼人は信じていた。

 後輩達は納得してくれたが、さあ今から連絡船で陸へ帰ろうという中がもう大変。
 隼人は不本意ながらも『子作り宣言』をしてしまったようなもの。船内での彼等とトリシアからの結婚後の質問攻めに海上故に逃げ場がなく──。どんなにかわしても、デイビットや村上と言った年長者まで突っ込んでくるから、もう本当にたじろぐばかり。
 そして後輩達はいつもは落ち着いている隼人が、そうして慌てて真っ赤になっているのを面白がっているようだった。

 船を下りてほっと一息。
 後輩達が先に下船して管制塔へと向かっていく中、後尾でデイビットと並んだ。

「キャプテン。この前言っていたチーム結成前に抜擢していたという大佐嬢の秘蔵っ子は、いつ帰国してくるのですか?」
「ああ、今、フランスの同期生に『返せ』と申請しているのだけれどね」
「キャプテンが甲板を降りることは仕方がないことと納得しますが、それでもキャプテン一人分の穴埋めにそのメンテ員が来てくれないと……」
「分かっている。かならず『その男』をこっちに返してもらうから」

 隼人はまだまだやることが残っているなあと、溜息をこぼした。

 そう、その男。そろそろこっちに帰ってきてもらわないと困る。
 本当ならとっくに帰ってきているはずなのに。フランスの同期生であるジャンに聞いたところ、彼は向こうで『研修荒らし』と言われるほどに、片っ端からあらゆる研修を受けまくっているとか。帰国の予定を二度ほど延期させられた程に、彼はあちらでのメンテ修行が面白くて仕方がないらしい。

『俺にくれ』
『やだね! うちの大佐嬢の秘蔵っ子だぞ』

 ジャンと連絡をすれば、その男を巡ってこんな会話が挨拶になるほどだ。
 つまりその彼の成長が素晴らしいらしく、ジャンに面倒を見てもらっているのだが、それを見守ってきた彼は今となっては『帰国させたくない人』になっているのだ。
 さてその大佐嬢が目をつけてフランスに送り出した秘蔵っ子という男。
 まさか。そこまで戦闘機メンテナンスが肌に合っているとは。確か彼を滑走路整備員に向いていると訓練校の教官が勧めたのでは? と、いうことは? やはり目をつけた大佐嬢の方が、正解だったのか?
 その男──『岸本吾郎』は、どう思っているのだろうか?

 隼人は晴れてきた空を見て、微笑んだ。
 そんなこと──。分かり切ったこと。
 きっと彼も、大佐嬢の風に乗って帰ってくるさと……。 

 

 そして、隼人は甲板を下りることとは別に──。
 新たなる決意を秘めていた。

 妻、葉月はまだ知らない。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「テッド、これやって頂戴。あ、宇佐美との連絡を取ってくれた?」
「取りましたよ。報告しますから……」
「待って! その前に小夜さん。合同研修のフロリダの資料を持ってきてくれる?」
「はい、大佐。只今……」
「テリーも、今日の訓練名簿を見せてくれる?」
「はい、大佐」

 五月も半ばになろうか?
 小笠原はすっかり夏になろうとしてるが、この大佐嬢が帰ってきた大佐室も熱い。

 葉月の周りでは、一年前から起用していた後輩達が手際よくくるくると動き回っている。
 その成長ぶりは、葉月が『あれ』と言えば『これですね』と直ぐに返ってくるという程だった。

 葉月がいない間、後輩達はかなりレベルアップしていた。
 ……こう言うといけないのかもしれないが。心の中だけで『これだけやってくれたら側近に匹敵する』と思うほどに。勿論、達也や隼人にはまだまだ敵わぬ彼等ではあるけれど、彼等の同期生同士のモチベーションの高さ、そこからくる切磋琢磨。大佐室に出入りするようになった後輩達は、それはそれは一年前とは比べものにならない成長ぶりだった。

 復帰してカフェにランチに行けば、今まで以上に人から声をかけられる。
 復帰のこと、結婚をしたこと、事件のこと。さらに既に『パイロット引退、甲板指揮移行』の話も広まっていた。その中でも葉月が耳にしてとても驚いたのは『大佐嬢のところの若い子達、今、凄い勢いだね』と言う声だった。一人じゃない。先輩にあたる中佐や秘書官達から何人もそう言ってもらえたのだ。さらにその評価の中には『今、四中隊が一番乗っている』と言う評価も。これは葉月が帰ってきた中で、後輩が評価されていることが一番嬉しいことだった。勿論、自分の力だとは思っていない。当然、彼等彼女等一人一人の姿勢の結果だった。
 なによりも……。そうして一緒にやってきてくれたということ。彼等彼女等が葉月を信じてくれたと言うことにもなろうか。──それが嬉しい。素直に嬉しい。

 そして復帰した大佐室で新たに感じる『チームワーク』は、さらに葉月の心を熱くさせていた。
 どの後輩とも、見えない糸で繋がっている感触……。その爽快なシンクロ。
 彼等彼女等の手から大佐嬢の手へと渡ってくるものが、とてもかけがえのないもの、重みのあるものに思える日々を葉月は噛みしめていた。

 今はまだ、デスクワークに没頭している日々だが。

「やっぱり大佐がそこにいるだけで、全然違いますね」

 フロリダで研修にやってくる部署のピックアップを済ませた書類を小夜が差し出しながら、笑顔で言ってくれる。 
 その書類はマイクが作ったものだった。

「そう? 貴女達のサポートが素晴らしいからよ」
「有難うございます」

 小夜が差し出した書類を葉月は笑顔で受け取ると、彼女も輝く笑顔を見せてくれた。
 だが、いつも元気な笑顔で気持ちを元気づけてくれる彼女が、ふと心配そうな顔で時計を見た。
 葉月も、小夜が何故時計を気にしたのかすぐに分かる。そして自分も、ふと表情を曇らせる。

 そして二人は一緒に、海野中佐の席を見た。
 彼は今日はいない……。

「まだ、連絡来ませんね。長いですね……」
「そうね」

 葉月は机の上で、両手を祈るように組んで、ふと溜息をついた。

 今、達也は泉美の出産に付き添っている。
 もうすぐ、生まれる……はず。

 その時、葉月の席の内線電話が鳴った。
 外線ではない、内線音。しかも直通でかかってきた。
 そこにいた小夜と顔を見合わせる。

「はい。第四中隊大佐室。御園です」

 葉月が静かに告げると……。

『生まれた! 男、男だった!!』

 そこには興奮している達也の声。

 男の子……!
 泉美が男の子を生んだ! と言う声。

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