【お題 SIDE】 *** 『好き』の理由 ***

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【お題 SIDE】揺らめく恋と10の言葉たち
 
『好き』の理由

 テッドとまた、喧嘩しちゃった──。

 彼が大佐嬢の付き添いで出かけていた長い出張から、やっと帰ってきたというのに。
 久しぶりに彼の部屋で会って、甘く愛し合った後だというのに『喧嘩』した。
 彼のその時の声が、小夜の頭の中にこだましている。

『お前、やっぱり澤村中佐が一番なんだな』

 どうしてそんな事を彼が言うようになったかという過程は……あまりにもくだらなすぎるからやめる……。じゃなくて……。小夜が先に言ったのだ。

『本当は、まだ葉月さんのことを忘れていなくて、結局、テッドは御園大佐嬢がなんでも一番先に来ちゃうのよ』

 と──。そこから暫くは、テッドも我慢強く『そんなことはない。俺は〜』とかなんとか、小夜がちっとも安心できない変な理屈ばかりを並べた『言い訳』ばかりを言ってくる。そんな遠回しな細かいこと、『理屈』は要らないって、何度言ったらこの男は分かってくれるのだろう?

『澤村中佐なら、きっと葉月さんに一発で言い切ってくれることを、どうして言ってくれないのよ!』

 そう叫んだ小夜に対して、脱力感たっぷりの顔になってしまったテッドが呟いたのが先ほどの『お前は澤村が一番』だった。

 この男は分かっていない。
 そんな安心するかどうかも分からない説明だらけの理屈っぽい『話』よりも、ただ一言『お前を愛している』と言ってくれたらいいのに、どうしてそんな簡単なことに気が付いてくれないのだろう?
 ずばっとその一言で女が安心するって、どうして男は分からないのだろう?
 彼にしてみれば、沢山の説明をすることが『より細かい気配り』だと勘違いしているのだ。小夜にしてみれば、あんなの本当に『言い訳』。

(やっぱり、駄目なのかなー。元々、そんなに気が合う関係じゃなかったし?)

 小夜は思い返す。いつからこの『鈍感な男』と、こんな仲になってしまったのだろうかと。
 それを思い返すと、甘くてうっとりしてしまう思い出もあれば、何度思い返してもムッとする嫌な思い出もあり、その両方が激しく入り乱れるのだ。

 ──でも、今の小夜は、そう思いながらも激しく反省している。
 ああ、昔、激しく憧れた男性である隼人を引き合いに出すなんて、自分は最低の女だ。と、後悔をしているのだ。

「吉田ー。俺、今日の三時限目。新人メンテ員研修の航空学講義、代理を引き受けたから、よろしくー」

 小夜の隣の席。そこからそんな『上司の声』がした。
 それ以上に、小夜はそんな間延びな声で彼が軽々と言ったことに目を丸くした。

「澤村中佐!? また講義の代理を引き受けたのですか?」

 ここはマクティアン大佐の科長室。
 まあ、言ってみれば、工学科の職員室みたいなもの。
 隼人は工学科に転属してきて暫くは、この科長室のただの一員だったが、今は副科長となっていた。
 若いが、実力もあり地位もあり、工学科だけでなく基地中の誰もがそれを認めている。だけれど、誰もが言いたいのは『何故、教育隊なんだ?』ということ。あのまま四中隊にいれば、いずれ空部隊の大隊長になるだろうと噂高い大佐嬢の第一側近だったのだから、間違いなく秘書室筆頭主席側近、もしくは空部隊の副隊長ぐらいになっても違いない男なのだ。
 なのに。今はこうして教育隊で収まっている隼人──。
 もっと言えば、自分がなるはずだった栄光の側近への道は、すっかりまるごとテッドに譲ったとも言える。
 恋人がそうして華々しく、大佐嬢の一番側近として活躍しているのを応援している小夜としてはちょっと複雑なところだった。元より尊敬していたこの先輩上司にあるはずだった道。それを小夜は惜しく思っている部分もあるから……。でも、そうしてもらうと、今度は活躍し始めている恋人の影が薄くなってしまうような気もして──。
 そして、そんな小夜はついに以前から決めていた『澤村について、彼の一番補佐になる』という願いを実現。工学科に異動してきたのだ。
 その時の葉月は? と言うと。ちょっと困った顔をしていたが、『数日、考えさせて欲しい』と言って暫くすると何か思ったのか、あっさりと工学科への転属を許可してくれた。
 今は人数は少ない科長室で、小夜は室員として補佐的な仕事を任されている。
 夢であった、澤村中佐を完璧サポート。その仕事が殆どになってきている。無論、その上司のスケジュールもばっちり管理。
 なのに! この中佐は小夜の苦労も知らずに、そのスケジュールを毎日毎日引っかき回し、朝から崩壊してくれるのだ。

「困りますよ! そういうことは『前日までに』という教官達の規則でしょう?」
「仕様がないだろう? 奥さんの具合が悪くて、子供の面倒を見られる人がいないと困っているのだから」

 小夜はぐっと引いてしまう。
 そういった『家庭』でのピンチは、イコール同性のピンチ。
 こんな離島で両親も親戚もいないだろう隊員の妻達は、本当に自分達の力だけで家を守っているはずだ。
 自分が駄目なら、旦那を頼りたいところを、『厳しい仕事だから駄目だ。頑張れ』なんて言われては、きっと精神が参ってしまうはずだ。
 そこを『マイホームパパ』と呼ばれるようになった『御園中佐』が救いの手を差し伸べてくれる。

 小夜の脳裏に、若い教官が隼人に助けを求めに来た光景が目に浮かぶ。

『なんだって? それは帰った方が良い! 俺に任せろ。俺が代わりにやるから、今日は奥さんの面倒を見るんだ!』

 と、張り切って受けたに違いない。
 そんな隼人を目にして、『御園中佐は、結婚して二児の父親になって変わった』と言い始める隊員もちらほら。
 だけれど、余裕のない若いパパ達には、密かに理解ある上司として頼られ、勿論、女性達にもこのマイホームパパぶりが支持されている。
 そして、仕事の面では渋い顔になってしまう小夜だが……。結局は、そんな隼人の方が好きだった。

「仕様がないですね。スケジュール、調整しますから……。今日はこれ以上の変更はなしにしてくださいね」
「流石、吉田。頼んだよ」

 隼人は眼鏡の顔でそう言うと、まだ講義の時間でもなんでもないのに、ファイルバインダーを片手に、ひらりと何処かに出かけてしまう。
 今からは『事務作業』の時間帯なのだが、隼人は離席になってしまった。
 でも──と、小夜は隼人の机に束ねてある書類を確認する。
 まだ朝早いというのに、まあだいたい出来上がっているのだ。きっとそうだと思って、だから、小夜は出かける背中を呼び止めなかった。
 そして何処に何をしに行くのかも小夜は分かっている。あちこちで調べ物をしたり、気楽なお喋りを挟んで楽しい交流と見せかけた『真剣な営業』に行って、空部隊の設立に協力をして欲しい主要陣をその気にさせる地道な説得をしたりしているのだって……。

 だから、あの人は四中隊を出た。
 『ふらり』と身軽に動ける場所で、虎視眈々と大佐嬢の為の空部隊を作り始めているのだ。
 思い返せば、小笠原に転属してきて一年でメンテチームを作ってしまった人だ。今度の空部隊は規模は大きいけれど、佐藤大佐やマクティアン大佐のバックアップを得ている今、彼は水面下と言えども自由に動いていく中で、また周りをあっと驚かせる成果をあげて作り上げてしまうだろう。そして、それをごっそり丸ごと大佐嬢に送り届けるに違いない。──それが『御園隼人中佐』の生き甲斐。
 そして、小夜も──。夢であった『澤村中佐の完璧な補佐』という仕事だからというのもあるが、以上に……隼人が愛する妻、敬愛する大佐嬢の為に奮闘しているように、小夜だって、その大佐嬢の専属側近である恋人が大きく活躍する場になるであろう部隊を作るためのお手伝いでもあると思っている。今はその気持ちの方が強い。

『吉田がアシスタントだと心強いよ。でもな、空部隊が出来たら、お前は葉月のところに戻れ』

 隼人は小夜が追いかけてきたことを、快く受け入れてくれたが、そうも言ってくれていた。
 今はまだ、最後は自分がどんなになっているかだなんて想像できない。
 ただ、目の前にあるやらねばならないことを必死に片づけている毎日。

 そして恋人とも……。
 先が見えない毎日。

 

・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・

 

 科長室に勤めているお偉い教官おじ様達が講義に出かけて、小夜は一人で仕事をしている。
 本当なら、教官という職務はこなしていないはずの隼人と一緒に、この科長室を支える事務仕事やら、プロジェクトの進行準備などを静かに進めている時間帯。
 ふらりと出かけたままの上司に置いて行かれ、小夜はひたすら一人で事務作業。

 そんな時だった。
 あの大佐室よりずっと狭いこの科長室のドアからノックの音。小夜が『どうぞ』というと、静かにそのドアが開いた。
 そこには背が凄く高い黒いスーツを着こなしている男性が一人。
 御園の義兄『純一さん』だった。

「こんにちは。谷村社長。御園中佐ですか? 今、出かけておりますが」
「こんにちは。吉田さん。まあ、そんなことだろうと思いつつも、連隊長に会いに来たので義弟にもと思って──」

 もう初対面でもないその『純一さん』に面と向かうと、小夜はいつも緊張してしまう。
 軍内の、かなりのお偉いさんとも面と向かう機会が多くなった小夜でも、どうしてかこの黒いスーツのお兄さんが来ると凄く圧倒されてしまうのだ。
 それは社長という肩書きもあるかもしれないが、あの葉月の幼い頃からの義兄だったり、あの真一の父親だったり、なによりも隼人をやりこめていることすら目にしてしまうことがある男性だからだ。その風格が、小夜が知っている男性にはなかなかないもので、なおかつあの連隊長に余裕で向かっている……どころか、あのロイが子供のようにムキになっていたりとか、そんなふうにさせてしまう男性。
 さらに、そのすらっとした細身の身体で着こなしている黒いスーツから、男の香りがむんむんして、小夜なんか近くに寄られたらくらっと目眩がしそうな……つまりは『渋い大人の男性』なのだ。

「どうぞ、こちらでお待ち下さい。お茶を入れますから、召し上がって下さいね。今日は若い教官の代理で講義を受け持っていますし、出かけてだいぶ時間が経っていますから、もうそろそろ戻ってくると思います」
「業務中でしょう。私のことは構いませんから、仕事を続けてください」

 そのとっても低いどっしりとした声。
 その声で何か言われると、どんなことでも『はい』と言いたくなってしまう、不思議な声なのだ。
 それでも──と、小夜は頭を振って我に返り、緑茶だけでもと小さな給湯室へ向かおうとした。

「いえいえ、本当に。それなら、義妹の葉月に先に会いに行ってきますから」
「そうですか?」
「昨日、岩国への出張から帰ってきたと聞いたので、いますよね」
「はい。四中隊の大佐室に。今なら訓練に出る前だと思いますよ」

 純一はにっこりと小夜に微笑み『有難う』と言ってくれる。
 その静かな落ち着きと、物腰の良さはなんなのだろうと、小夜はいつも思う。

「そうだ。これを吉田さんにお土産にと思いましてね」
「え? 私にですか?」

 純一は提げていたペーパーバッグから、真っ黒い包みに、可愛らしいピンクのリボンがかけてある箱を小夜に差し出した。

「生チョコレートなんですよ。義弟のところを訪ねれば、女性の貴女がいるのでお土産にと思って」
「え! 私なんかにわざわざ!?」
「好きですか?」
「勿論です! 有難うございます。嬉しいーっ!」

 小夜がちょっと地を出して喜ぶと、その方が純一は嬉しそうな顔をしてくれた。

「では、義弟には後ほどと伝えてください。お邪魔しました」
「こちらこそ、お構いできずに申し訳ありません。後ほど、お待ちしております」

 純一はさっと片手を挙げて、颯爽と工学科長室を出ていった。
 彼が去っていく時にさあっと軽やかにそよいだ空気──。そこにクールなトワレの残り香。
 小夜はやっぱり『くらー』とし、暫くはお土産のチョコレートの箱を抱えて、ぼうっとしていた。

 でもこのチョコレートが実は『義妹の為』と言うのを小夜は知っている。
 でも、でも。小夜にも一箱というこの気遣いが嬉しい!

(あーん、いいなあ。葉月さん〜)

 彼女が『兄様、兄様』と呼んで、そしてこの威厳があって品格ある大人の社長が、本当に『お兄さんの顔』になるのを小夜は何度も見ている。
 そして、そんな親密な『義兄妹ぶり』を目にし、そしてテッドのそれとない話を聞かせてもらって、小夜はいつしか察するようになった。
 その昔、あの時、葉月がなにもかもを投げだしたように、今の夫であり恋人でもあった隼人を捨ててまで小笠原を出ていった時があった。彼女が『ただの女になりたかった』と言って、駆け落ちでもするかのようにいなくなってしまった時に傍にいた男性──。それがきっとこの純一だったのだろうと。
 そう思うと、あの時は散々にそんな葉月を非難した小夜ではあるし、今でもあれはちょっとと思うこともある。だけれど、今の小夜は『なるほどね。谷村社長相手では、流石の澤村中佐も敵わなかったのかも』と納得してしまうのだ。今の隼人が相手だったらどうか分からないけれど……。

「それでも、あの時の澤村中佐だって格好良かったわよー」

 あいつに比べれば──。

 心の中でそんな一言がぱっと浮かんで小夜はハッとした。
 いけない、いけない! 反省したばっかりじゃないと、ついつい憧れた男性と比べている自分に泣きたい気持ちになって机に突っ伏した。

「なにしてるんだよ、吉田」

 そんな声が聞こえて、小夜が顔をあげると、そこにはいつの間にか隼人がそこにいる。

「お帰りなさーい……」

 ちょっと気が抜けたやる気のない声を出すと、隼人が僅かに眉間にしわを寄せる。

「吉田、朝から元気がないな」
「え? そんなふうに見えます?」

 隼人がこっくりと頷く。
 小夜はちょっと嬉しかった。
 朝、一目見て『元気ないよ』と気が付いてくれたところが!
 やっぱりあいつとは……。いや、もうこれは言っちゃいけない! 小夜はグッと心の奥にその気持ちを追いやった。
 隼人はそうして溜息をこぼしながら、小夜の隣になる席に座った。

「もしかして、テッドと喧嘩か?」
「……はあ。いえ、別に」

 そうとも言いたいし、そうじゃないとも言いたくて小夜は曖昧に濁した。
 でも、それだけで隣の先輩上司には通じてしまったようだ。

「余計なお世話かもしれないけれど、テッドは吉田だけだよ。信じてやれよ」

 そりゃ、分かっています……。と、小夜は言いたいけれど、言い切れない自分がいる。そして、自分でも分かっている。そんな猜疑心を持っている自分が駄目なんだと。
 すると、それを察してくれているかのように、隼人がやんわりと呟いた。

「あのな。うちの奥さんとどうこうは絶対にないと思うよ……」

 恐る恐るといった感じの隼人の声。
 それを言ったら、小夜を傷つけるのではないか? そんなこと本人も分かっていて、分かっている上で誰にも言われたくないことだろうから……。
 最後の弱い語尾に、隼人のそんな迷いと気遣いが含まれていることを、小夜は感じ取ることが出来た。
 そして、他の人なら『私も分かっているんだから、いちいち分かり切ったように言わないでよ!』と吠えたいところ、この隼人だから、すんなりと聞き入れ、実はその通りのことを懸念しているので小夜はがっくりとうなだれた。
 だから降参したついでに、頼っている先輩に聞いてみる。

「中佐は……。『隼人さん』は、心配になったりしないんですか? 彼、時には葉月さんと一晩中、一つの部屋で仕事したとか、平気で言うんですよ」
「なにもないから、恋人のお前に『出張中はこんなことがあった』と出来事として話しているだけなのだろう? 逆に言わなくても、吉田なら信じてくれるとも思っているだろうけれど、ふとしたことで言ってもいないことが、テッドじゃない口から耳に入った方が気まずくなると言うのもあるのじゃないか? それなら最初から正々堂々と言う。それがテッドの選択で言わないより良いと思った。俺としては正直な彼らしいと思えるけどな」

 『そうなんですか?』と、小夜は今更ながら、テッドの無神経な報告の意味を、男側になって言ってくれる隼人から教わった気がする。
 これまた、本来なら信じるべき恋人のそんな気遣いから感じ取るべき事を、ずっと憧れていて今だって頼りにしている先輩に言われて初めて納得するのも情けない……。

「葉月さんは、報告したりします?」
「するもんか。いや、する時もあるかな? でもあいつの場合は、そこまで気遣っていないよ。ただ言う気になった、ならなかっただけのことで、何の気もないんだ」

 でも、そこで隼人も溜息をついたもんだから、やっぱり葉月のああいった『気まぐれ』には、未だにコントロールできずに振り回されているんだろうなと小夜は思う。

「でも、隼人さんは平気なんですね。どうやって平気になったんです? テッドだって、なんだかんだと私と澤村中佐のこと引き合いに出したりするんです」

 本当は聞かなくても分かっているつもり。
 そりゃ、もう……結婚して夫妻になって、子供二人を挟んで家族になった人達。いろいろな大波小波を乗り越えてきたからこその、かけがえのない絆に、確立された意志疎通があるからだろうと、小夜は思う。
 自分も今、その大波小波を経ていく時期なのだと割り切れたらいいけれど、それができない。いつも不安……。

 すると隼人は話の途中なのに、急に席を立って、この狭い科長室にある小さな給湯室へと向かっていく。

「中佐?」

 小夜が小首を傾げると、慣れた手つきで紅茶を入れていた。
 先日、葉月がすれ違いざまに小夜にくれた『アップルティー』だった。葉月はそうして外に送り出した小夜を今でも気にかけてくれ、カフェで見かけてはテッドと会わせてくれるのも口実なのか、必ず声をかけてくれる。そしていつ会えるとも分からないのに、彼女の制服のポケットには必ず何かが入っていて、小夜に小さくても素敵なお裾分けをくれるのだ。それがどんなに嬉しいか。こんな時、葉月を疑う心根はない。『恋人を取っていないからね』という小夜へのご機嫌取りなのではないかという、心ない女性同僚の話も耳にするが、小夜はそんな時は、きっぱりと葉月を擁護する。
 葉月一個人のことは、本当に小夜は信頼しているのに──。
 なのに恋人とセットとなると、どうしてもどうしても心穏やかでなくなる。それって結局のところ、葉月を心底信じていないことになるのではと、そんな自分自身が嫌で嫌で堪らなくなる。
 本当は大好きな女性先輩からもらったお茶を、それが分かっているかのように彼女の夫が入れてくれている。

 辺りに林檎の甘い香りがふわっと漂い始める。
 二つのカップに注がれたアップルティー。
 それを隼人が手にして、ひとつは小夜の目の前に置いてくれた。

「まあ、一息」
「有難うございます」

 小夜は早速、一口、味わう。
 そして隣の隼人は、自分の机の上に軽く腰をかけて、立ったまま一息ついている。
 そんな彼が小夜ではなく、反対の窓際を見てふと呟いた。

「抱いたら分かるって」

 小夜は『は!?』と、驚いて隼人を見た。
 だけれど、隼人の表情は窺えない。彼の横頬と眼鏡の縁が、かろうじて見えるだけだ。
 まるで、それを呟いた自分の顔を見られたくないが、でもそれを思い切って小夜のために言ってくれているという感じだった。
 そのまま隼人は、ちょっとか細い声でさらに言ってくれる。

「きっとテッドもそうだって。そういうもんだって」

 それが『ベッドのこと』を言われていると分かって、流石の小夜は頬を染め、目をまん丸とさせた。
 近頃、いや……結婚してからの隼人は、時々、こういった男女間のことを平気で口にすることも増えたが、これはあんまりにもダイレクトで、毎日、傍にいる小夜もびっくりだ。

「昨夜も俺はそう思ったって……」
「つ、つ、つまり……?」
「まあ、そういうこと。俺の場合はね、それでOK。『こっち』が大丈夫と言っているんだから、『そっち』も大丈夫だってことだよ……」
「そうですか……」

 そんな肌を合わせた感触で確信するなんて、隼人だけじゃないかと思ってしまうのだが?
 ともかく、そちらの『昨夜』は、そういうものだったらしい……。
 あちらは『それ』で上手く心と身体を結び合い、こちらは『それ』でも、大喧嘩をしたのだ。
 なんだか、この差は歴然だなーと、益々情けなくなってきた。

「俺、テッドの感じ分かるんだよなあ。言いたいことが恥ずかしくて言えないんだよ」
「嘘。隼人さんは、きっとすっぱりと葉月さんにきちんと伝えているはずなんです」
「まさか。俺、しょっちゅう『天の邪鬼』と言われているぜ?」

 まあ、それも有りかなと、付き合いが長くなってきた小夜も思うし、葉月と顔を突き合わすと彼女も夫のことをそう言って怒っている時もあるが……。

「でも、ここでは絶対にと言う時は、男だって外さないもんだよ。だからテッドも外さないって。あんまり何回も言うと、嘘っぽいじゃないか」
「そうですけれど」
「吉田だって、その数少ない『言葉』があるから、それがうんと煌めいていて大切で、忘れられなくて、テッドと一緒にいるんだろう?」

 その言葉にハッとさせられた小夜。
 確かに──。甘くてうっとりしてしまう思い出もあれば、何度思い返してもムッとする嫌な思い出もあり……。でも、その嫌な思い出があっても、こんなに苦しくなるぐらいに彼を信じたい自分がいるのは、やっぱりそんな素晴らしい甘い思い出が勝っているからなのだ。
 そう、隼人が言うように……。数少なくても、彼の、正直な彼の『愛している』とか『お前だからだ』とか『会いたかった』とか。そんな時のテッドの綺麗な緑色の瞳を思い返すと、どんな男性よりも素敵に思えて仕方がない。だから、だから……それが『煌めいている』から。

「まあ、頑張れよ」

 何も言っていないのに、隼人はもう、小夜を見て安心したように笑っている。
 そして軽く優しく、その小夜の小さな肩をぽんと叩いてくれた。
 小夜自身が、『本当に知っておくべき素晴らしさ』に気が付いた顔を察してくれたのだろう。

「中佐。有難うございます──」
「いいや。俺も吉田の元気がないと調子狂うからな。もしかすると大佐室でもテッドの様子がおかしくて、うちの奥さんも首を傾げていたりしてな」

 小夜は『まさか』と笑った。
 やっと笑うことが出来て、小夜は隼人が入れてくれた優しい味の紅茶を味わった。
 そしてそこには葉月の優しさも感じられる。
 心が軽くなる瞬間。

 気持ちが落ち着いたところで、小夜は隣で満足そうにお茶を味わっている隼人にふと聞いてみた。

「隼人さんは、葉月さんを『好き』と思った瞬間ってどんな時だったのですか?」

 自分がその瞬間があったようなないような……。同じ部署にいただけ、同じ志がたまたまあっただけのことで、長い間、近くにいたから『いつのまにか』のような気がしているこの頃だったのだ。
 隼人に憧れたような的確な理由とかときめきとか、最初はまったくなかったし、『いけすかない少佐』で腹が立つことばかりだったし。なおかつ、同じ年の為に、時には彼が頼りなく見えてしまうことだってある。
 なのにそれがどうしてこんなに『好き』なのか──。
 他の人はどうなのかと思ったから、気心知れている隼人に聞いてみた。

 すると今度は、隼人が驚いた顔。
 そして次には、彼はうんうんと唸りだし、困った顔。

「つまり『好き』になった理由?」
「まあ、そんなものです。その時に感じていなくても、今、振り返ったら『あの時だった!』と言うのありますか?」

 すると唸っていた隼人が、急にきっぱりと言った。

「ない」
「え?」
「まあ、あるとしたら『うっかり』かな? あの時のあれは、かなりうっかりだった。とか、そんな『うっかり』の積み重ね」
「う、うっかり? ……ですか?」

 今度は『それだ』と確信したように、隼人は『うん』と大きく頷いた。
 小夜はどんな感覚なのか理解できずに、戸惑ったのだが。

「きっと、ないんだよ。『好き』の理由なんて」

 小夜はまたその言葉に、ハッとする。
 それはまさに、今の自分の様な気がして。

「明確な理由がつけられる内は、自分の心から気持ちが出ていない様な気がするね」
「気持ちが外に出ていない?」
「そう。理由がつけられないほど、分からなくなるのが、そして分からない内にしているのが『恋』。自分の思わぬうちに心が先に走ってしまった。それが、好きなんじゃないのか?」

 だから『うっかり』なんだと言いたいらしいが、今度の小夜はかなり納得だった。
 そして自分の中にある曖昧に思えたその気持ちが、『誇り』へと変わっていく──。

「なるほど。中佐も『うっかり』と知って、安心しました」
「な、吉田もうっかりだったんだろう? いつも口喧嘩ばっかりだったのに、今じゃお似合いのカップルじゃないか」

 え、そうですか? と、小夜が頬を染め、ちょっと安心したそんな時だった。
 またこの工学科のドアからノックの音。隼人が姿勢を正して『どうぞ』と言うと、なんと開いたドアにはテッドが現れて、小夜はどっきり、飛び上がりそうになった。

「やあ、テッド。お疲れさま」
「お疲れさまです。御園中佐」
「どうした?」

 にこやかな隼人には、テッドも気の良い顔をしているが、業務中の姿勢を正したいのか小夜の方にはちっとも視線を向けてくれなかった。
 小夜も昨夜のことが気になるけれども、そこは彼の姿勢に賛成で、すぐさま自分もデスクに向かう。

「今、うちの大佐室に谷村社長がいらして──」
「ああ、兄さん、来たんだ」
「大佐が少しだけでも良いから、一緒にお茶をしないかとのお誘いなんですが」
「ああ、そう。分かった、行くよ」

 まだ講義の時間まで少しある。
 隼人は直接講義に行くための準備をして、出かけようとしていた。

「中佐、報告遅れましたが、先ほど谷村社長、こちらへ先にご挨拶に来てくださったんです」
「そう」
「お土産を頂きました。中佐からも改めて御礼を伝えてください」
「分かった。言っておくよ」

 隼人はもう出かけたくて仕様がないよう……。準備する手が早い。きっと義兄に早く会いたいという気持ちの表れだと思った。
 あのお兄さんとの間に、昔、何があったか小夜は分からない。きっと色々あったのだろうと思うのだけれど、それがあったからこそ、こうして本当の兄弟のように仲が良い気がした。それこそ、隼人はその気持ちが揺れるたびに、葉月と真っ正面向き合って、抱き合って……。そうした積み重ねで、葉月を信じて『真の愛』を探し当てたような気がする。

 嬉しそうに出かける隼人の背に、テッドがついていく。

「あー! テッド、俺、一人で良いから」
「え? でも」
「まあまあ。お茶でも飲んでいけよ! 吉田、お茶! これ、俺の絶対命令な! 一杯飲むまで帰るな、帰すな。分かったな!」 

 一緒にドアを出ようとしたテッドを、隼人が無理矢理、室内に追い返し、瞬く間にドアを閉めてしまった。
 そこにドアを閉められて、呆然としているテッドが取り残されていた。

「困るな。中佐も大佐嬢も俺達を見れば、なにかと気遣ってくれて」
「だったら、早く帰りなさいよ。私も忙しいんだから」
「そうか? なんだか、澤村中佐とのんびりとしていたように見えたけれどな。谷村社長が訪ねてきたことだって報告していなかったようだし……」

 早速の口悪に、小夜はグッと唇を噛みしめ俯いた。
 その澤村中佐が、あんたのせいで元気のない私を励ましてくれていたから、後回しになったのにと……。
 でも。小夜は先ほどの隼人との話を思い返していた。

「テッド──」
「なに」

 小夜は事務作業をやめて、そっと席を立ち、彼の正面に向かい合う。
 そんな小夜がどんな顔をしていたのか。テッドは少佐の顔じゃなく、いつも小夜と二人きりの時に見せてくれる年相応の素の顔を見せてくれていた。

「昨夜はごめんなさい」
「え……。いや、俺も……」
「好きだから。あんなになってしまうの。葉月さんのことだって本当は疑っていないし……」
「まあ、俺も最後の一言は、後悔しているよ」

 照れた顔で、小夜から顔を逸らしてしまうテッド。

「今夜もまた来いよ。俺、お前のへたくそなオムレツが食べたいから」

 照れながらも、今度はその綺麗なエメラルドの瞳が、小夜を真っ直ぐに見つめてくれている。
 小夜はウンと頷いて、隼人の計らいに甘え、二人きりのこの部屋で、迷わずテッドの胸に飛び込んだ。

 そう、好きの理由なんてないんだわ──と、呟いて。

 

 

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