5.王子の戦略
夕暮れのアパート、隼人はダイニングの椅子に座っていた。
股の間に挟んだボウルに、隼人の手元からジャガイモの皮が落ちていく。
ひたすら、ジャガイモを剥いていた。
『カチャン』
玄関から鍵を開ける音が聞こえた。
「ただいま──。はぁ……疲れたわ」
きらめく黒髪を揺らしながら、ミツコが帰宅した。
「おかえり……」
「帰っていたの?」
ここの所、不規則に……しかも夜遅く帰ることが多かった同居人の隼人。
その男が自分より先にいるのにミツコは驚いたようだ。
「今日は早く帰る約束だっただろ」
「そ、そうだけど──」
「なにか……?」
「え? う、ううん──」
隼人はミツコに背を向けたまま……ジャガイモを剥いていた。
「あの……」
ミツコがそんな隼人を背中側からジッと見つめながら、口ごもっている。
おそらく──ニナの事ではないかと隼人は思った。
彼女は階段から突き落とした事しか気にしていないだろう──。
ニナのお腹に子供がいるとは知らずにしたのだ。
ミツコがそういう『子供じみた意地悪さ』を、思わずやってしまう事など……
これが初めてのことではなかった。
時には叱って、時にはこのように知らない振りをしていた。
叱るときは相手を散々傷つけた時。
知らない振りをした時は、『思わずやってしまった』という『子供』と見なした時。
「今日はビーフシチューにしようかと思って……赤ワイン残っているかな?」
「え? ええ……冷蔵庫にあるけど」
ミツコは隼人のそんなすんなりとした反応に、いちいち口ごもっている。
「なんだよ。何かあったのか?」
それとなく肩越しに振り返った。
その時──ミツコがビクッと固まった。
それもそうで……知らない振りをしたとしても、
一度はこうして冷たく鋭い『怒り』を現す視線を彼女に向けることは忘れない。
「……あの、知っているんでしょう? 私が何をしたのか」
「何をしたんだよ?」
ミツコは隼人の様子で、隼人が知っていて……それでいて知らない振りをして
『密かに怒っている』事は解っているはずだった。
ミツコは叱られるより、こうして密かに怒る隼人のことを恐れている。
だから──。
自分から白状するしかないように追い込まれるのだ。
いや──隼人が追い込むのだ。
彼女が悪いと心底思っているなら、ちゃんと隼人に『何故? そうなったか』と弁明する。
悪く思っていないなら、『なによ、それ』と開き直っているから
その場合では、自分の思い通りになって隼人にまとわりつきはしゃぐはずだ。
どうやら……『悪かった』と思っている様子。
「事務課の女の子と階段でぶつかったのよね」
「偶然に?」
「当たり前じゃない! 故意じゃないわよ……」
語尾が弱まる。
自信がなさそうな所を見ると……『故意だった』と隼人は判断した。
「相手に怪我は? ちゃんと謝ったのかよ?」
徐々に隼人が追いつめる。
「怪我は……なかったわよ? それに……偶然ぶつかったんだもの」
「どっちにしても偶然だとしても……ぶつかって相手が転んだりしたら
一言自分の不注意を相手に伝える、詫びるぐらいの事が出来るのが『大人』だよな」
「急いでいたのよ」
「そ。じゃぁ──次に顔を合わせたときにでも、謝ればいいじゃないか?」
「……」
猛反撃をしてこない彼女に、隼人はふと違和感を感じて……ミツコに振り返った。
「ミツコ──?」
彼女は側の椅子に座って、泣きそうな顔をしていた。
「──??」
隼人は眉をひそめた。
どんな『故意の悪戯』でも、ミツコはなんとか言い逃れようと、いつもなら必死に隼人に向かってくる。
『なんで私が謝るのよ! 偶然だったのよ! 急いでいたんだからいいじゃない!』
なんて言って、隼人が『後で謝れよ』と諭して、彼女はフンとしてそれで終わっていた。
なのに?
「……泣くほどの事なら、謝れよな。俺はそれが良いと思うけど?」
そんなに悪く思うほどの『故意』だったのなら、そうするべきだと隼人は念を押してみる。
「……そんなの出来ないわよ!」
ミツコがテーブルに突っ伏し、急に泣き始めた。
「──? なんだよ? 泣くほどひどいことをしたと思っているのかよ?」
するとミツコが涙顔でガバッと頭をあげ、隼人を睨み付けてきた。
「な、なんだよ?」
「なにもかも知っているくせに! いつまでとぼけているのよ!!」
逆に彼女が怒鳴って、隼人はおののいた……。
でも──これで解った!
(先輩達だな──!?)
誰かがミツコに猛反撃をし、ニナが流産しかけた事をミツコに突きつけたと解った!
隼人はボウルをテーブルに置いて、溜息一つ……立ち上がった。
「どうしてあんな事をしたんだ。階段で偶然ぶつかったにしても……。
人が転んだら、多少の罪悪感は持つ物だ。
それに──女性の誰もが妊娠している可能性があるわけだ。
そういう『可能性がある、ない』そこまで説明しないと、お前はああいう事が
『いけない事』だって解らないみたいだな」
隼人は、怒鳴らずに……淡々と詰め寄った。
「なによ! 隼人が悪いのよ!」
「彼女とランチをしていた事が?」
誤魔化すつもりはなかった。
それに今日の事件の『原因』は、それしかなかったから──。
「そうよ! なんで隼人が女の子とランチをしているのよ!」
「俺にだって、女友達ぐらいいるしな──。お前より長くここにいるんだから」
「そんな友達はいないって断言していたじゃない!
訓練校は男ばかり! フランスに慣れるのに精一杯だったって!」
隼人はキンキン声で叫ぶ、ミツコに『はぁ』と溜息をこぼした。
「そりゃ、特定のガールフレンドを持つ余裕はなかったけど?
女と話したことないとはいっていないぜ?」
飽き飽きとして、隼人は黒髪をかいた。
「あの子とは……どういう関係なのよ!」
「カフェのフィリップの彼女。ただ、それだけの知り合いだよ。
彼女はフィリップと結婚するんだ──。その招待を受けていただけだよ」
「嘘よ!」
ミツコの執念の嫉妬心。
これの追求が始まると、彼女の嵐はなかなか収まらないが
隼人も今夜は腹くくっていた、一晩中でも言い合って『負けるつもり』はなかった。
くずかごに百合のカードを捨てたからには──。
ミツコにもきっちりカタを付けてもらうつもりだった。
「フィリップはランチタイムが一番忙しいからな──。
それで彼女が代わりに俺の所に招待状を持ってきてくれたんだよ」
ここはどうしてもそう誤魔化そうと思っていた。
本当のことをミツコに言えば、ミツコはさらに燃え上がって手の付けようがなくなる事も
目に見えている。
それに誰にもニナと隼人の淡くて甘い想い出には水を差されたくなかったから。
絶対に……他人には言いたくなかった。
たとえ、ミツコでも──!
そこは守ろうとした。
だが……ミツコはまだ納得しないようだ。
「とっても楽しそうに話していたわ! フィリップの彼女ってだけで
あんなに楽しそうに話すかしら!? 隼人は女性とは笑顔で、そうは話さないじゃないの!」
なんだかその通りであって……
確かにニナとはいつ以上に……誰以上に……心が和むランチを過ごしていた。
やっぱりミツコは恋人……というか、二年供に暮らした同居人だと隼人はおののいた。
そんな隼人のちょっとした表情の違いを見抜いてしまえたから……
あんな事になったようだ。
隼人は女性にはある程度の壁を心に持っている事は自覚している。
女なんて……皆、勝手なイキモノなんだと思っていた。
それでは? 何故? ミツコと暮らし始めたかと言うと……?
隼人は暫く、考えた。
なぜ? この夜叉のような顔をしている女と一緒に暮らすようになったのか?
『夜叉』?
そんな例えが心に浮かんだことにも隼人は驚く。
付き合い始めた頃、『こんな美人と暮らすんだ』とあんなに心浮かれていたじゃないか?
年上の彼女は、隼人の世話をあれやこれやとしてくれて
初めて……人と暮らすことで『楽しさ』を感じていたじゃないか?
横浜の実家で味わっていた、子供の頃のようなあの楽しい暮らしを──。
もう……横浜の実家では味わえなくなった『素直な暮らし』を……彼女と。
それに──ミツコは驚いた事に28歳で『バージン』だった。
それにも男としてなんだか感激していたじゃないか?
この美しい彼女の初めての男が『俺』だったという感激。
彼女は勉学一筋──。
男には興味もなく……そして俺に許してくれたと──!
『この人は俺が初めてで……俺じゃないと生きていけないんだ。
俺じゃないと解ってあげられないんだ』
そんな使命感で彼女を守ってきた。
そして──溺れていた、美しい彼女に──。
その感激を忘れたかのような『夜叉』という表現。
そう──なにもかも見えてきてしまったのだ。
近頃、透けて見えてきて……後は自分が認めるかどうかの時点に
隼人は辿り着こうとしていると……。
彼女は『子供』だ。
勉強ばかりしてきた『子供』だった。
彼女に必要なのは『一番』という優越感。
勉強も女としても。
決して、ありきたりな男にはなびかない。
自分を勿体ぶって、許さなかっただけ。
求める、いたわる、思い合う……時には、相手を上手く繋げるための『駆け引き』
そんな恋愛経験を積むことなく、ひたすら男を振ってきた我が儘な女。
男には理想が高く、きっとデートをしてきた男達も我が儘で振り回して
冷たく振ったか……男達が呆れたかのどちらかに違いなかった。
そして──恋人が出来ても『私がなんでも一番』じゃないと気が済まない。
隼人という恋人に、いつだって、誰よりも愛されないと気が済まない。
仕事よりも私を見て。
同僚よりも私を見て。
他の女には笑わないで、私にだけ笑って。
他の人とは遊ばないで、私の側にいて。
それだけなのだ──。
それがいままで全て彼女の『思わぬ攻撃』の全ての原因だった。
それに隼人は目が覚めようとしていた。
ミツコは隼人を愛しているんじゃない。
『愛される自分』を『一番大事』にしたいだけなのだ。
隼人は拳を握った。
『俺という男はいったい何処で彼女に想われているのか?』
ミツコの為になる『隼人のため』なら、ミツコはもの凄く尽くしてくれる。
だが、自分のためにならない『隼人の希望』はすべて却下。
そして──それに隼人が従わないと、隼人でなく、関連した知人に制裁。
今回のニナの件で……やっと解った気がしてきた!
「彼女に謝ってくれ」
「なんでよ! 隼人が他の女とランチをしなければ、あんな事をしなかったわよ!」
「“あんな事をしなかった”? ついに白状したな? 故意だったわけだ」
「!」
ミツコがサッと青ざめる。
「まぁ……故意だった故意じゃなかったは良しとしよう。
彼女に謝れ──。流産しかけて、本当にそうなっていたら……お前は償いきれなかったぞ」
隼人はジッとミツコを睨み付けた。
すると──みるみる間にミツコの大きな黒い瞳が弱々しくなって
大粒の涙をボロボロとこぼし始めたのだ。
「そんな……。どうして? 隼人は私の味方になってくれないの?
いつだってあなたが味方になって、私を助けてくれていたのに……。
私より、知り合いの女の子の味方なの?」
打ちひしがれた彼女の痛々しいまでの表情。
これに何度、騙された?
隼人は今日は揺るがなかった。
同じ眼差しでジッと彼女を見据える。
「自分の女が間違っている事をしているなら、俺はそれを間違いと認める。
そしてお前も一緒に認めろ。今まではお前がしてきた事、全部……俺は認めて
そして……お前の代わりに皆に謝ってきた。
それが何故か……お前はちっとも解ってくれないな」
「解っているわ……。私を『愛してくれているから』でしょう?」
ミツコが瞳をうるうると潤ませて隼人の眼差しにすがってきた。
『そうだ』
隼人はそう言いたかった。
でも言葉にしようとした時、無性に腹が立った。
今まではその通り、『ミツコを愛しているから』だった。
そして……『彼女が今自分をコントロールできないのは一時的な事』
いつかはきっと解ってくる……そう、『信じていた』。
だけど今回は彼女のそのあ眼差しにも騙されないし、愛しているからとは言えなかった。
「いつになったら……俺が皆に謝らずに済むようになるんだ」
隼人は冷たくミツコを見下ろした。
「そんな……だって、あなたを好きだと思うと、どうしようもなくなっちゃうんだもの。
あなただって……それは知っていて、ずっと許してくれていたじゃない?
これが私の愛情表現だって……思ってくれているんでしょう?」
また……むかっ腹が立ってきた!
つまり……これが自分の愛情表現であって、隼人がそれを受け入れてくれているから
直す必要はない。
許してきてくれたから、これからも許してくれ……。
そういう事を彼女が言っているのだ。
「人に迷惑をかけたり、進歩がない──。
俺は最終的な結果を得られないのが現在であったとしても、現在進行形であるなら期待する。
だけど──お前はそういう気がないって事だな!?」
やっと隼人は声を荒々しくしていた。
「そういうのを『最低』っていうんだよっ!」
テーブルについていた片手をバシ!と隼人ははたいた。
ミツコはいつもは淡々としている隼人に『ビク』としたようだが……一瞬だった。
また……いつもの対抗心を燃やした瞳に変わってゆく。
そう……ミツコは隼人に対しても『上』に立っていないと気が済まない所もある。
甘えたいときだけ、甘えて……。
後は『言う事、良く聞いてね?』という様に、女王様になりたがる。
今、隼人が『上』に立とうと試みたので、ミツコが立ち上がった!
「私が最低ですって!? どこがよ! 他の女と楽しそうにランチをしている彼をみたら
誰だって我慢できないわよ!」
「あー楽しかったぞ! だけどな! 了見って物があるだろう?
俺とお前が同居人って事は変わらないし、彼女は結婚するんだ!
そういう『報告の場』もお前は許せる了見とかないのか!」
「あるわけないじゃない! なによ! 隼人は私とは全然ランチを一緒に取らないくせに!」
「している仕事の時間が噛み合わないだろ? それに職場で恋仲の二人が
ランチを取るのが当たり前という姿を見せつけるのはどうかとおもうけどな!?」
「あなたがそうしてくれないから! 変な女が寄ってくるのよ!」
「俺に女は寄ってこない! むしろ、メンテの仲間同士がほとんどだって知っているだろ?
彼女が今日、俺に声をかけてきたのは結婚式の招待だってさっきから何度も言っているだろう!」
暫く、二人で堂々巡りの押し問答が続いた。
ややもして……
「なんであなたが招待されるのよ! フィリップとそう親しいとは思えなかったけど!?」
そこで隼人はすこしばかり躊躇したが、構わず切り返した。
「お前が知らないだけで、フィリップとはそれなりに親しかったんだよ!
彼はカフェの窓口で皆と顔を合わせるんだ。俺が東洋人で良く言葉を交わしていたからな」
「じゃぁ……フィリップは皆と親しいから、さぞかし……たくさん招待したでしょうね?
隼人もそのたくさんの一人でしょう? だったら、断っても良いんじゃないの?
ああ……そうだったの? 彼がたくさん招待しすぎるので、彼女が走り回るハメに?
なーるほどね? 『それだけの事』だったのね」
急にミツコが目を細めて、静かになった。
隼人はヒヤッとする……彼女がこうして落ちついた時が一番怖い。
もの凄い『理論』を立てて、隼人が反撃できないほど、ぐうの音が出ないほどの事を
ずばっと突きつけてきて……身動きを止められた事が何度もあったから──。
だが今日は、騙されない。
隼人も様子見で暫く黙り込んだ。
きっと隼人の中でこの招待が『いかに重要』か隼人の本心を揺さぶっているのだ。
『たったそれだけの事』
『たくさんの中の一人』
隼人をそう位置づける事で、隼人がムキになれば『重要』
そうでなければ『簡単に捨てられる関係』
『重要』だった場合にはミツコはまた『再制裁』の手段を思い描くだろう──。
「だったら、隼人は断っても良いわけよね?」
そら来たと隼人はミツコを睨み付けた。
祐介も予想していた事態がやっぱり起きた。
ミツコは女に誘われた事だろうが、男に誘われた事だろうが
『隼人だけ行ける』という事はなかなか許してくれない。
自分が綺麗な恋人として連れていってもらえる場にはニコニコとついてきて
隼人にまとわりつきながら喜んで出かけるが!
祐介周辺との付き合いは『天敵』となるから、いつも喧嘩になる。
隼人の『いつか解ってくれる、落ちついてくれる』という希望があったからこそ
今まで隼人が身を引いてきた。
だから──ニナの結婚式も自分が招待されていないから『行って欲しくない』
それ以上に、ミツコは二度とニナとフィリップには顔が合わせられない程の事を
今日、やらかしてしまったので……招待される事は絶対ない。
だから……隼人も行かせるつもりはない──。
隼人はスッと部屋の隅へと歩いて、角にあるくず籠を手にして戻ってくる。
そして、ミツコにくず籠の中を見せた。
「彼と彼女には大変世話になっていて行きたかったが……」
くず籠の中にはクシャリと握りつぶされた白いカード。
それをミツコが見つけて、そして意外と驚いた顔をして隼人を見上げた。
「お前が迷惑をかけるから、行かないことにした。これで満足か?」
「……」
「お前の望み通りに結婚式にはいかない。だから──お前は俺の希望通り……
彼女に謝ってくれ!」
「……隼人」
隼人の輝く眼差しに、ミツコの瞳がまた弱々しく緩んだ。
「出来ないわよ!」
この後に及んで……まだ言うか!?と、隼人も心が燃え上がった。
「そうか! 解った!」
隼人はリビングを歩き出して、自分の物を手に集め始める。
「は、隼人?」
「お前が彼女に謝るまで、俺の部屋に入るな。鍵をかけるから邪魔しても無駄だ」
「ちょっと──!?」
隼人はテーブルにある書籍に雑誌、そして椅子にかけていた上着など
すべてかき集めて、小さな勉強部屋へと向かった。
「これは絶対だ。もし、長引いたら──。ミシェールの家に帰る!」
そして勉強部屋に籠もろうとドアノブに手をかけると、ミツコが背中に抱きついてきた。
「解ったわ! 謝りに行くから──! そんな事しないで! お願い!」
「……」
必死にしがみつく彼女。
だけど──朝方のおいてけぼりを食らった子犬のような彼女の眼差しは
もう……隼人には通じなかった。
「でも……隼人も一緒に来て? 一人じゃ怖いから!」
「……」
人にろくに謝れないのに……ああいう悪さは平気でする。
隼人は唇を噛みしめた。
だが……ミツコは一人では謝れないだろうと思った。
「解った──。明日、一緒に行こう」
「……」
ミツコは『うん』とは言わなかったが、それ以上は何も言わなかった。
「お願いだから……実家に帰るなんて言わないで……」
彼女が必死なのはその部分だけ。
隼人が本当に解って欲しい気持ちなど……
通じていないようだった。
魔法はとけはじめている。
美しい魔女の魔法が……。
×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×
次の日……。
「なんだと? 隼人。もう一度、言ってみろ!!」
その時、隼人は本部にいて皆の前で祐介に掴みあげられていた。
皆が驚いてこちらに注目していたが、祐介は構わなかったようだ。
勿論──隼人も。
「もう一度? ですか? じゃぁ、言いますよ。
ミツコと今日、ニナに謝りに行く。それで……彼女の結婚式には行かない。
そう言ったんですけど」
激しい形相の先輩に掴みあげられつつも、隼人は淡々とした口調で祐介に告げていた。
祐介の掴む手がブルブルと震えている。
「ニナが一番来て欲しいのは、お前だって解っていて言っているんだろうな!?」
唇を噛みしめて……今にも殴りかかりそうな顔をしていた。
「くそ!」
やっと祐介が襟元を払うように離してくれた──。
隼人もやっと息を深く吸って、詰め襟を緩める。
スラックスのポケットに手を突っ込んで、祐介がうなだれた。
「高橋に謝らせるための条件に使ったな」
「そうでもしないと収まりつかないでしょう?」
「普通なら、無条件で謝るべきだ。なんでお前がそこまで犠牲になる?」
「二度とフィリップとニナに迷惑をかけたくないから。
ここで俺が……結婚式に出ると我を張ると、アイツが執念深くニナを憎むのは目に見えている。
そんなの先輩だって解っているんでしょう?」
「もっと他に方法はなかったのかよ?」
彼が溜息をついて椅子に座った。
そして頭を抱え込んで……また、隼人のために色々と策を練りだそうと唸っている。
「先輩。もういいっすよ──。ニナが幸せならそれで俺はいいんだから……」
「……」
祐介がそういいながらフッと微笑んだ隼人を、気の毒そうに見上げた。
「いつまで……お前はあの女を信じるつもりなんだ」
「……」
「悪い──。こんな事、言うつもりじゃなかったんだ」
初めて祐介が……ミツコと別れる事を勧めてきた気がした。
隼人は顔を逸らした。
「解った。お前がそういうなら俺も行かない」
「──! 待って下さいよ? 先輩だけでも見届けて下さいよ?」
「お前が招待されたから、俺の耳にも彼女の結婚の事が入ったんじゃないか?
それに俺は、彼女から正式に招待はされていない。妥当じゃないか?」
「……そうですけど」
「康夫と雪江ちゃんが一緒に行くよ。その時に、心ばかりのお祝いをしてやろうじゃないか?」
「……そうですね」
「もう、その事も絶対に高橋には言うな。解ったな」
「はい」
祐介は苦い顔ばかりして、ついには不機嫌な顔で黙り込んでしまった。
そんな彼にはとりつく島もなく……隼人はそっと本部を出た。
その日の昼休みに怖じ気づくミツコを連れて、医療センターに向かった。
ニナは産婦人科の相部屋で、穏やかにくつろいでいた。
フィリップも休暇を取ったのか、側に付き添っていたのだ。
ミツコを伴って来たは良いが──。
ニナは戸惑った顔をして、フィリップはあからさまにミツコを敵視する眼差しだった。
「あの、昨日は不注意でぶつかっていたみたいで、ごめんなさい」
ミツコがしおらしくニナに頭を下げた。
隼人は緊張した。
そして──ニナが見上げたのはミツコでなくて隼人だった。
「頑張って産むの。この子が助かったからそれで良いの。
もう……何も考えたくないから、あなた達もこれ以上、昨日のことは考えないで」
それはミツコにではなく隼人に言ってくれている気がした。
ニナのそんな言葉を聞いて、フィリップの眼差しも和らいだ。
「ミツコ……メルシー」
フィリップはミツコが持ってきた花束をやっと受け取って微笑んでくれた。
ミツコは無表情だった。
そして落ち着きないほど、隼人にすがるように何度も隼人を見上げる。
「じゃぁ……ニナ。本当に悪かったね。お大事に──。
元気なママンになって、元気な赤ちゃんを……」
隼人がそういうとニナがやっと輝く笑顔を見せてくれた。
それを見た……ミツコがまたムッとした顔に。
隼人のそれに気が付いて、早く連れ去ろうとした……その時。
「今回、ご迷惑をかけたので……彼はとっても気に病んで……。
『結婚式にはいけない』と言っているの。それがお詫び。
『私達が決めた』お詫びの形なの──。解ってね」
「──!!」
ミツコが胸張って言い切った言葉に、フィリップとニナがショックを受けたように固まった。
「ハヤト──!? 今のは本当なのか?」
ニナは茫然としていて、フィリップが先に詰め寄ってきた。
「……」
二人揃ってそんな顔をされると、隼人も心苦しい。
でもここではミツコが暴れないためにも『ウィ……』と言うしかなかった。
「ハヤト……」
ニナが何かを言いかけたが、ミツコがまた眼差しを燃やしているのに気が付いて
スッと顔を逸らしてしまった。
「そう、仕方がないわね」
赤褐色の横髪から……彼女の頬だけが見える。
彼女はそれっきり隼人には顔を向けてくれなかった。
ニナは解っている──。
哀しいけど解っている──。
これ以上はもう隼人の重荷になるだけ。
自分を守るために決めてくれたと──。
隼人には彼女が背けた顔、哀しい声……
それだけで──通じたから。
「フィリップ。生まれたら、男か女か教えてくれよな──。じゃぁ」
『行こう』
隼人はミツコの腕を引っ張りながら病室を出た。
「うふ……良かった」
ミツコは一番緊張する事を終えたので、ご機嫌で隼人の腕に掴まってきた。
「なーんであんなにガッカリするのかしらね? たくさん来るんでしょう?」
ミツコは解っているのか? 探っているのか?
不思議そうな顔で、でも……ご機嫌だった。
隼人は彼女が腕にまとわりつくまま無言で歩く。
『ごめん──ニナ』
振り返らずに……その言葉しか浮かばなかった。
ミツコのご機嫌な言葉も、まとわりつかれているのも今は気にならない。
その言葉しか……繰り返していなかった。
彼女の幸せを祈るためのことしか出来なかった。
今──隼人が願うのはそれだけ。
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