3.初めての女性

 

 気候も良く、晴れた午後──。

裏庭のポプラ並木の小道を、隼人は赤毛の女性を連れ添って歩いていた。

時々隼人が一人で休憩を取るときに、決まって選ぶ大きな幹のポプラ。

そこに辿り着いて、『ニナ』を先ず、木陰に座らせた。

 

「はい。トマトサラダサンド」

茶色の紙で包まれている大きなサンドウィッチを彼女に差し出して

隼人のその隣に腰をかけた。

「メルシー」

相変わらずの愛らしいそばかすの笑顔をニナが向けてくれて、隼人もホッとした。

後、途中の自販機で一緒に買ったアイスカフェオレを

二人は揃ったような動作でそれぞれの足元、芝の上に置く。

隼人は、スパイシーな味付けのチキンをサンドした物を手にしてかぶりつく。

 

「珍しいな? ニナから声をかけてくれるなんて……」

「え? ……そう?」

「時々は挨拶していたけど、こうして向き合うって久し振りだな」

「……」

ニナは相変わらずの内気な笑顔を浮かべるだけで、多くは口にしない。

そんな所も出逢ったときのままだった。

なのに──

彼女の愛らしさは変わらないように見えるのだが……

俯いてそっと微笑む『柔らかさ』に、変な『色気』が備わったように見えて隼人は戸惑った。

そして──

ニナがここ数年、隼人に声をかけにくい訳も解っていた。

やっぱり……『ミツコ』なのだ。

隼人がちょっと女性と話をしたり、たとえ仕事であっても笑い合ったりしていると

それだけでもう……ミツコは子供になってしまうのだ。

あんなに頭がよい女性なのに、恋心はまったく『少女以下』

それが……最近、隼人が悟った彼女の『正体』

だけど──投げ出せずにいる。

そんな凄まじいミツコが、こんなに大人しい『ニナ』に攻撃したら

それはもう! ニナがひとたまりもなく傷つくことも目に見えている。

だから……ニナは隼人に迷惑はかけまいと、声をかけてくれるときは

周りを気にしてくれていた。

そして隼人も……ミツコの目が届くところでは絶対にニナには声をかけなかった。

そんな彼女が……彼女の方から人目がある所で隼人に声をかけてきたのだ。

 

「あのね……」

「うん……」

ニナがやっと口を開いた。

 

「結婚することになったの」

「え!?」

「お腹に赤ちゃんもいるの……」

「本当かよ!?」

驚くばかりの隼人が可笑しかったのかニナはくすっと笑った。

「本当よ。今、二ヶ月ですって……最近、解ったの」

「……」

隼人は暫く、ニナを真顔で見下ろして……。

「おめでとう!!」

輝く笑顔で、彼女を祝福した。

「メルシー、ハヤト」

ニナがやっと全開の笑顔を隼人に向けてくれた。

 

「それが知らせたかった事なんだ」

「そうよ」

隼人はなんだか幸せそうな彼女をみつめて、そして自分もこんなに嬉しいだなんて──

と、誇らしくなる事が不思議に思えた。

ニナは恋人ではなかったけど……

ニナは隼人の中では、暖かい存在であった。

どこか同じ様な彷徨いを共感し……

同じ様な苦しみを違う相手・形で噛み砕いた『戦友』みたいな感触を

少なくとも隼人は持っていた。

最後の形は『初めての性体験』になってしまったのも、今思えば妙な話。

だけど──、一度『男女の壁』を越えてしまった後に残ったのが『友情』だった。

隼人の心の奥で、綺麗に残っている大切な存在。

その彼女が自分の力で『幸せ』を勝ち取った。

それが──嬉しかった。

 

「どうりで──さっき久し振り見て、綺麗になったと思った」

「ふふ……いつからそんなお上手が言えるようになったの? 隼人らしくないわ」

「……かな? かもな」

隼人もそれもそうだと可笑しくなって笑った。

「でも……本当にそう思ったんだ。さっきも言っただろう?

ニナが綺麗になると……俺も誇らしくなるんだ」

「……あなたは相変わらず、変に優しいのね」

「変に?」

「そうよ? でも、そうね……。そこがハヤトの素敵な所だと思うし」

ニナが何かを思い出すかのように、そっとまぶたを伏せて

静かに微笑んだ。

その俯いた仕草すら……以前に比べるととても美しかった。

隼人が見とれていると……

「同じ基地内の男性なの」

「そうなんだ。俺が知っている男?」

ニナから言い出したから、遠慮なく聞いてみた。

すると──ニナがトマトサンドを頬張りながら、クスクスと笑いだしたのだ。

「え! メンテ員!?」

可笑しそうなニナの様子から、『同業者』かと感じて、隼人は背筋を伸ばした。

「ううん?」

ニナが首を振った。

「パイロット!?」

「違うわ」

「なんだよ? 焦らすな!? やっぱり、俺が知っている男だな!?」

隼人がむくれると、ニナが隼人の目の前に『トマトサラダサンド』をつきだした。

先程──カフェのカウンターで顔馴染みの軍人コックが作ってくれたサンド。

『ハヤト──トマト沢山挟んでおいたぜ?』

『メルシー、フィリップ♪ おごりだから助かるよー』

先程の会話を思い出した。

すると──

「もう、フィリップったら……挟み過ぎよね?

いつもそう言うのよ、私。なのに私が買う度にいっぱい挟んでくれるの」

ニナが呆れたようにサンドウィッチを眺めたのだ。

「──!? ええ!! もしかして!? あのフィリップと!?」

つまり……隼人が『ニナ』の為に彼女が好きなサンドウィッチを買いに来た事を

『お見通し』である彼は……フィアンセの彼女の物だと知って沢山トマトを挟んだ?

「え!? じゃぁ……俺がニナとこうして会っているのを知っているって事!?」

「うん……彼には伝えてあるから。今日のランチにハヤトに報告したいって」

「でも……フィリップなんとも思わなかったのかな!?」

「あら……ハヤトはここでは珍しい東洋人。フィリップだって良く知っているわ」

「じゃ、なくて! ニナがどうして俺という男に報告しなくちゃいけないかって事。

フィリップは不思議に思わなかったのか?」

「彼には……付き合い始めた頃に話してあるから」

「……話しているって? どこまで??」

するとニナの白い頬がそっと赤く染まった。

彼女がはにかみながら俯く。

「……あなたと『寝た』って事」

「──!!」

隼人は絶句して、固まってしまった。

「……一度きりで終わったって事」

ニナは顔を上げて、青空をすっと見上げる。

「ユウが好きだった事も……あなたに迷惑かけていたことも。

そして──最後にあなたに押しつけたこともね」

「なんで? そこまで話さなくても……」

「でも、フィリップは怒るわけでもなくて……笑って受け止めてくれたのよ?」

「付き合う前の話だからって?」

「それもあるし……今、隼人が言ったように『何故? そんな事いちいち教えてくれるんだ?』って

顔をしていたわ? 彼もね……」

(だろうなぁ?)

と……隼人は苦笑いをこぼした。

「でもね──。私とハヤトは切り離せないから、ハヤトの事、フィリップに認めてもらいたかったの。

私の……『いつまでも大切な友人』だって事。

私はハヤトが大好きだから……これからも仲良くしたいのって彼に告げたわ」

「そう……でも、俺は……そんなたいした事、ニナにしていないよ?」

正直──、ニナにそこまで大切な存在として暖めてもらっている事が

隼人はとても嬉しかった。

「根気よく、私の相談聞いてくれたじゃない?」

「そうだったかな? 忘れたな……」

隼人は笑ってとぼけた。

実際、そうではあったのだ。

 

×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×

 

 それは3年前──。

隼人がミツコと付き合う前、祐介が康夫と一緒に転属してきて半年ほどの話しになる。

 祐介とは仲の良かった隼人は、そんなに話したこともないニナに

ある日突然、泣きつかれて『相談役』になっていた。

ことあるごとに二人で顔をつきあわせて『恋の悩み』について語った。

もっと言うと──。

『あの子はストイックだな? 軽く恋が出来る子じゃない。

最近、お前と一緒にいるところを見るけど……』

ニナのさりげないアプローチを気にしはじめていた祐介がそんな風に隼人に尋ねてきた。

『解っているんでしょ? 彼女の気持ち。彼女、必死ですよ?』

『困るな。俺は遊びだけの危ない男だと言っておけよ?』

この頃、祐介はまだフランスに来たばかりだった。

既に妻に対する不信感を抱いていた祐介は

まだ派手に女性と寝ることはなくても、美女を連れたっての夜遊びは始まっていた。

背が高く、パイロットばかりのフランス基地で、陸男である彼の逞しさ。

そして──『東洋人』という魅力がマドモアゼル達を惹きつけていた。

同じ東洋人でも、隼人や康夫にはそれほど女性達は騒がないのに

祐介だけは変に騒がれる。

そこは『真の男の魅力』、いわゆる『フェロモン』を女性達が嗅ぎ取るのだと

隼人はそう思っていたのだ。

その『フェロモン』は、大人しくて純粋なニナにも降りかかっていたようだ。

『当然でしょ。だけど──彼女は今、周りが見えていないから俺が何言ってもダメですよ』

『……そうか……。一度、寝たら気が済むなら俺だってそうするけどな?』

そう……祐介の何が悪くないかというなら……

こういう風にして『手当たり次第』ではないところだった。

『遊び』の意味をきちんと捉えていて、『真っ直ぐ』で『純粋』な女性には

絶対に手を出さなかった。

『お前に押しつける訳じゃないけどな?

お前が珍しく人様と向き合っているからさ……。

相談を請け負っているなら、上手く逸らせよ』

ハタから聞くと、なんとも『遊び人の身勝手な言い分』にも聞こえるのだが

祐介にしろ隼人にしろ……

真剣に思い詰めているニナに対して出来ることは『諦めさせる』事しか思いつかない。

もし? 『一度だけ』……そうさせても良いのだろうが、

たぶん……一度でも祐介と寝てしまったら、ニナは益々諦めないと隼人は思っていた。

だから祐介も傷つけたくないから……避けている。

ニナの真っ直で直線的な『恋心』

どんなに祐介が『いい加減な男なんだよ』と教えても……

『そうだろうけど、本当はユウは優しいのよ』

と……それも本当のことだが、ニナは『良いことばかり』頭に描いて諦めない。

そして──素っ気ない祐介が、自分と同じ『事務課』の美女を誘っているのを

目の前で見るたびに、ニナは『いつか私も』と夢見るばかり。

そして──

『ハヤトはユウは遊び人だから、軽い女性しか誘わないっていつも言うけど……

そうじゃないのよ。ユウは……綺麗な子だから誘うのよ』

それも隼人は否定できなかった。

『わたしなんて……そばかすだらけで赤毛で綺麗じゃないから……』

ニナは祐介が誘ってくれないのは『自分が綺麗じゃないから』

そのコンプレックスだけが、祐介が誘ってくれない『理由』だと思い込んでいたのだ。

そうじゃない……。

祐介はニナを大切に思っているから……傷つけたくないんだよ。

そう言いたいが……そういうと『だったら、何故? ユウは誘ってくれないの?』となる。

そうじゃなくて……『女性としてじゃなくて人として大切にしているんだよ』

そういうと……今度はコンプレックスを抱いている彼女に『綺麗な女性じゃない』という

烙印を押してしまうようでそれも言えなかった。

『もう、いい加減……彼女の事務課でナンパはやめて下さいよ?』

祐介にそう抗議したこともあった。

『なんだよ。事務課に女が沢山いるんだぞ? それに──。

そうすればあの子も俺が興味がないって事はいつか解るだろうと思って……』

いっその事、祐介に『君に興味はない』と言ってもらった方が良いのではないか?

とさえ……隼人は思った。

その時、ニナは絶望して泣きに泣くだろうが……

『慰める』自信が隼人には芽生えていた。

だが──そう思った頃。

決定的な事が起こった。

ニナが思い詰めて祐介の夜遊びの後を付けるようになったのだ。

『まいったな。昨夜は俺のアパートの下で暫く立っていたぞ。あの子』

それは隼人もニナには知らされていなくて驚いた。

『毎晩じゃないが、時々でも夜は危ないしな……』

祐介がチラリと隼人を見る。

(夜まで彼女に付き合えと──??)

隼人はいい加減ウンザリしはじめていたのだが……

でも……と、今までを思い返す。

隼人が何故──ニナの相談役をするようになったかと言ったら……

やっぱりニナが真っ直ぐだったからだ。

自分がそうは持たなくなった『真っ直ぐな恋心』

それを目の前で見て『憧れていた』のかもしれない。

そんな恋が出来る彼女を、真っ直ぐに想いを傾けられる彼女を

『羨ましい』と思っていたのかも知れない。

乗りかかった船……。

最後まで彼女の恋心は見届けたかった。

隼人は、そっと夜、ニナと一緒に祐介の後を追った。

その最初に付け始めた夜。

祐介が解っていたのか……その日は一人の女性を連れてアパートに戻った。

 

「……ニナ。解っただろう? 先輩はああいう男性なんだ。

日本にだって奥さんがいるけど、今はああいう事をして気を紛らわしているだけなんだ」

「……」

祐介のアパートの下。

ニナはずっと祐介の部屋を見上げていた。

「ニナ──」

「何故? ユウは奥さんがいるのにあんな事をしているの?

私だったら……ユウの側から離れない」

「ニナ……なにも先輩じゃなくても。それにその問題は先輩自身が考えることで

ニナが『助ける事』じゃないよ」

「……そうね」

彼女が俯いた。

いつになく『あっさり』した返事だった。

 

その帰りだった。

ニナを自宅まで送っていた途中。

「ハヤトの部屋に寄って良い?」

「え?」

「このままじゃ……帰りたくないから。落ち着いてから帰りたいの」

「あ……うん、構わないけど」

 

その晩の事だった。

ニナと隼人が一晩を供にしたのは。

ニナが……『同じ東洋人のハヤトが抱いてくれたら、諦める』としがみついてきたのだ。

勿論──最初は拒んだ。

だけど……拒みきれなかった。

それで彼女のこの恋が本当に終わるかどうかなんて解らなかったが

もし諦めてくれるなら……そう思ったこともあるし。

ある程度……隼人はニナの事が『好き』だったのかもしれない。

でも──隼人も遅蒔きの『初体験』だったから恥ずかしくて戸惑ったが……

白いシーツの上には、白い肌のニナが既に横たわっていて

隼人もなにがなんだか解らないうちに、裸で彼女に覆い被さっていた。

『い、痛い……あの、あの……私──』

いざとなって、ニナも『初体験』だと知って隼人は驚いて──

でも──

『ええと……実は俺もだけど』

そう正直に言うと、ニナが驚いて白い裸体をお越しあげた。

『うそっ! だって……隼人って結構女性に話しかけられているし……』

『……そんなの全部見せかけだよ。俺みたいな東洋人、子供に見えるみたいだし

みんな、お姉さんみたいな感覚で日本の事とか聞いてくる冷やかしばかりだよ』

『私はそんな風に見えなかったわよ? だってハヤトは本当に頼りがいあるし──』

『今からすることは頼りないかも』

隼人がいつもの淡泊さで呟くと、急にニナが笑い出した。

彼女がこんな風に、明るく笑うなんて初めて見た気がして

隼人も笑っていた。

お互いに『初めて』と解ったせいか、急にいつも会話をしているような

和やかさで二人で抱き合った。

 

そんな想い出──。

その後、何故、付き合わなかったかと言えば

ニナは真っ直ぐだから……祐介を諦めた途端、『ハヤトが好き』とはなれなかったのだろう。

隼人も勿論……同じだった。

『もうちょっと違う形でハヤトに出逢いたかったわ』

『そうだね──』

『でもね──ハヤト。解ったわ……。

私──夢ばかりみていたのね? ユウに『理想』を押しつけていたんだわ。

子供だったわ……。私が知らないユウもたくさんいて、それはきっと誰も知らないんだわ』

『……』

抱いた途端に彼女が誰よりも落ち着いた大人の女性になったようで隼人は驚いた。

『セックスなんて簡単だって解ったの』

『ああ……そう』

そしてニナがそんな平淡な表情の隼人に笑いかけた。

『でも、一番最初がハヤトで良かった。簡単な事だなんて言ったけど

ハヤトと過ごしたあの夜がなければ……私……セックスなんて嫌いになっていたかも』

『どうして?』

『ユウと同僚の女の子が簡単に部屋に入ったじゃない?

あれをみてね……男と女が簡単に出来ることなら、いらない。二度としなくていい。

そう思って……ハヤトに飛び込んだの。ごめんね? 恋人同士でもないのに』

『──ニナ、とても綺麗だったよ……本当だよ』

『……メルシー、ハヤト。ハヤトも素敵だったわよ。黒髪がつやつやだったわ』

『……あんなに綺麗って思ったから……あまり他の男には見せて欲しくないな』

ちょっとだけ……彼女を手元に引き寄せようとしている自分隼人は驚いた。

『本当に?』

隼人は嬉しそうに覗き込む彼女の瞳があまりにも綺麗だったから

そっと俯いて静かに頷いた。

『でも──今はダメ……。ごめんね、ハヤト』

『解っている。俺もダメだ』

始めるなら最初から何もなく出逢ったように隼人はやり直したいと思った。

『友達でいてくれる?』

ニナが……緊張したように消え入るような声で呟いた。

『勿論──』

隼人が微笑むと、ニナが安心したように微笑んだ。

『私達、よけいな物、越えちゃったものね』

『本当だ。迷う邪魔な壁はもうないもんな』

二人で、変な男女の壁は取り払ってしまった事を笑い合った。

 

彼女とはその一度きりだった。

ニナは祐介を諦めた途端に、妙に綺麗になって落ち着いて大人びた女の子に変化した。

『夢見る』事をやめたからだろう。

隼人と寝ることで、急に世界が開けたかのような落ち着き振りだった。

『惜しいな。あの子、急に綺麗になったな』

意味ありげに祐介が隼人に笑いかけた。

隼人が手を出したことを見抜いているかのように──。

『あの子はさ、きっと幸せになるぜ。汚れちゃいけない。

俺から見たら……あの子はとても綺麗だ。そのまま幸せになる。それ──見せて欲しいよな』

その時の祐介は窓辺で瞳を陰らせていた。

『うん、俺もそう思っていますよ』

 

その後すぐに──ちょっとしたいざこざが起きて

隼人はミツコと関わるようになった。

そして──引き込まれるように、ミツコといつのまにか同棲していた。

最初はニナともよく挨拶していたが、ここ数年は、最初に説明したとおり

疎遠にせざる得ない距離になってしまっていたのだ。

 

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「フィリップったら……私を今のように落ち着いた女にしたのは

『ハヤト』なんだ!って……驚いていたわ」

風がザザッとポプラの木陰でざわめいて、隼人は過去のもの思いから

25歳の今の自分に戻る。

「そりゃ、驚くだろうね? 俺とニナ……最近は、特に顔を合わせていたわけじゃないし。

俺達の事が噂になったこともないしな──」

「でも──彼、『ハヤトらしい』とも言っていたわよ?」

「俺らしい?」

「そうじゃない──」

ニナがちょっと言いにくそうに語尾を濁して、俯いたまま微笑んだ。

「……ミツコのこと。とやかく言うつもりは私達ないけど……。

手に持て余しそうな不安定な女性が頼ってしまう……そういう男性だと……

フィリップも言っていたわ……。

私もそうだったでしょう? 今思い返しても、あの時の私は情緒不安定で

危なかったわ……」

「……」

そう──実はミツコとの付き合いも……

『相談』から始まっていたのだ。

なにも言い返せなかった。

「でも──ニナは……立派に抜けきったよ」

「……ミツコは?」

「……さぁ……?」

ニナは隼人を心底心配しているようにグレーの瞳でジッと覗き込んでくる。

そんな目で俺を見ないでくれ──。

隼人はそう思った。

今のニナの瞳を真っ直ぐに見つめられない自分がいた。

「私……ハヤトにも幸せになってほしいのよ?」

「アリガトウ」

隼人は日本語で淡泊に答えていた。

「メルシーって事ね? 少しは日本語勉強したのよ。わたし……」

「へぇ? そうなんだ」

「ハヤトみたいな男性に会えたらか、日本のこともっと知りたくなったの。

ハヤトみたいな男性がいっぱいいるのかしら? だとしたら素敵な国ね?

サムライ精神なの? そういうの……」

「全然? サムライとなると女性に対して紳士かどうかとなると

まったく逆になるかもしれないな?

封建社会だった頃は、女性の権限なんてなかった男中心の社会だったらしいから。

日本なんて……閉鎖的な東洋国だよ。

枠組みがっちりしていてお堅いし、細かいところ、いちいちうるさいんだ」

「それで……出てきたの?」

「……」

隼人は黙り込んだ──。

それはたとえニナでもぶちまけられる事情ではなかった。この時は──。

「……ごめんね? 余計なこと……いっちゃったみたいね」

ニナが申し訳なさそうに俯いた。

「いや──いつかニナにも話せたら……話すよ」

「そう? 待っているわ……。

そうそう──今日ね、これ渡そうと思って」

ニナがスカートのポケットから白いカードを差し出した。

「なに?」

「招待状──。お腹が大きくならないうちにドレスを着るの」

ニナが輝く笑顔をこぼした。

「結婚式の?」

「そう──フィリップの実家でするの。カフェテリアの仲間がご馳走を作ってくれるっていうのよ。

隣町よ? ダンヒル元校長のお家の近くだから解ると思うわ?」

「いいの……? 俺が行っても?」

「あたりまえじゃない! フィリップも楽しみにしているから。

彼から言ってくれたの。ハヤトも招待しようって……」

「本当に? メルシー!! 俺、絶対行くよ。ニナの花嫁姿、楽しみだな!」

「わたしも──ハヤトだけは……がっかりさせないよう磨いてきたつもりよ……」

いじらしい彼女を……隼人は抱きしめたくなったくらいだ。

それは恋でもなく愛でもなく……。

ただ──彼女のそんな気持ちが愛おしくて、そして暖かかったから……。

いまでも彼女は『ピュア』なままだ。

隼人の最初の女性として綺麗に残ってくれそうだった。

そして隼人もこんなに素直に彼女の『気持ち』を受け止められる。

 

「あー。俺も惜しい事したな。ニナがこんな素敵な女性になったのに!」

「……」

ニナはちょっと腑に落ちないように微笑むだけ。

「ハヤト……また余計な事かも知れないけど……。

無理ばかりしないで……自分を大切にして?

今のあなたを見ていると……私、正直、辛いの……」

「……ありがとう……」

ミツコとは……もう、これ以上の『進展』は望めない。

ニナがそう感じて心配しているのが解った。

彼女のその時の顔は……本当に辛そうだった。

まるで我が事のように──。

 

「先輩にも教えて良いかな?」

それを誤魔化すかのように、隼人は百合の花が型押しされているカードを広げた。

「ユウに?」

「本当のところ。先輩が一番君の幸せになる姿を楽しみにしていたんだ」

「──そうね。いつだったかユウが私にそう言ったわ」

「へぇ! 知らなかった」

「うん……俺みたいな軽い男じゃ幸せになれない。もっと良い男がいるって……。

俺に……いつか綺麗な花嫁姿みせてくれよって笑って言ってくれたわ。

今ではね……事務課に来ても気さくなお兄さんといった所ね?

恋の駆け引きをしている女性達より、私は気楽だし、ユウも時々お菓子を買ってきてくれたり」

「本当かよ!? まったく……あの先輩は!」

やることはやっていて、女性の扱いは天下一品だなと

ぬかりない先輩の知られざる行動に隼人は驚いた。

「ハヤトに一番に知らせたかったの。まだ、フィリップもコック仲間以外には

結婚のこと言っていないから……。

ユウがその気なら、私は見届けてくれたら嬉しいけど?」

「ほんと!? 先輩、ぜったい来るよ!」

「私──やっと解ったの。

ユウは……私を大切にしてくれていたんだって……。

彼にも感謝しているし、今は……気の良いお兄さんだから……」

「うん……そうだね。先輩はそういう所がある人だから」

「やっぱり日本人は素敵ね」

「いや──ニナが……選ぶ男がそれなりにいいんだよ」

「それなりってなによ?」

「だって俺だってその一人だろ? 自分から良い男だなんていえないよ」

「まぁ……ハヤトったら!」

彼女が珍しく声を立てて笑い出した。

そう──あの初めての夜、彼女がベッドの上で急に笑い出したように。

隼人もそんな彼女を見つめて、一緒に笑っていた。

 

白い招待状──。

隼人はこんなに心が和んだのは久し振りだと、大切に制服の胸ポケットにしまい込んだ──。

 

ざわめくポプラの木陰──。

沢山の緑がざわめく午後──。

 

その木陰の上──棟舎の窓辺から、黒髪の女性が見下ろしていた事に

隼人は気が付かなかった。

 

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