30.御園カノン

 

「当然、俺がコンマス」 ※コンサートマスター 第一ヴァイオリンの事。

右京が光り射す廊下に位置取り、胸張ってヴァイオリンを構える。

「相変わらずね〜。私、『カノン』なら伴奏はいやよ!」

薫がハッキリと言い放つと

「良いわよ。私の『アレンジ』で、華やかに伴奏をしてあげる」

瑠花がにっこり、『ベース』を引き受けたようだった。

 

「じゃ、俺が1。薫のピアノが2、オチビは最後について来いよ」

右京が女3人に、堂々とした威厳にて……持っていたボゥで指示を出す。

『はぁい』

葉月を含めた女達はすんなり『長男兄様』の指示に了解した。

「瑠花……葉月が肩を痛めているから、ゆっくり頼むぞ」

「解ったわ。葉月……無理しないでね?」

「大丈夫よ……」

妙に派手がましい『演奏会』の場が出来上がってしまった事と、

葉月は隼人の前ともあるせいか?……憮然としていた。

 

「わ♪ ピアノの音がして起きてみれば──!!

なになに!? 『御園演奏会』? 久し振りじゃない〜♪」

「わ! すっげ! 葉月さん……ヴァイオリン出来るの!?」

 

そこへ真一と和人の二人が、起き抜けの姿……、興味津々の瞳を輝かせて現れた。

 

『あ。兄ちゃん……』

和人は兄の隼人と目が合うなり気まずそうに顔を逸らしてしまったのだが……

『よ!』

隼人はいつもの兄貴笑顔で片手をあげてみる。

和人はまだ……思うところがあるようで、真一の背中に下がってしまった。

真一も何か知っているのか?

背中に回ってしまった自分より背が高い和人を困ったように見上げたのだが……

「ここ座って、聴こうよ!」

和人の手を引っ張って縁側に仲良く二人が、腰を下ろした。

 

『おや〜……随分と仲が良いじゃないか??』

幼そうに見える真一が逆に上手に和人を扱っているところを見て

隼人は思わず笑いをこぼしてしまった。

 

「さて──」

 

右京がヴァイオリンを肩に構えると……

彼は優雅な表情なのに……他の女性3人は妙に緊張した面もち。

葉月もそっと肩にヴァイオリンを構えて弦の上にボゥを乗せた。

 

その姿……。

 

隼人はその葉月の『あるはずだった姿』から目が離せなかった。

 

 

 

すると──

 

「澤村……まぁ、そこの縁側にでも腰掛けて、ゆっくり堪能してくれよ」

 

右京が嬉しそうに隼人に微笑んだ。

隼人は右京の気持ちが良く解った。

滅多にヴァイオリンを弾かない『お供のオチビ』が

その気になってヴァイオリンを構えたことが心から嬉しいようだった。

隼人も一緒だった。

 

「はい……では、弟と一緒に、鑑賞させていただきます」

隼人も広々と開け放たれた廊下の縁側に出て、そこに腰をかけた。

 

そして右京がこんな事を澤村兄弟を交互に見つめながら言い始める。

「まぁ、これが俺達『御園兄妹』の形って所、見てもらおうかな?

だけど……『何処の家族でも一緒』という所も『表現』させてもらおうかな?」

『なに? それ??』

瑠花と薫が、兄が突然言い出したことに眉をひそめ合った。

葉月もなんだか、変なことを言い出す従兄に訝しい視線を……。

 

勿論──隼人も和人も……首を傾げたのだが……。

 

「そうだな……じゃぁ、『コンマス』の俺が……『澤村社長』

薫……お前は『長男の澤村中佐』……瑠花、ベースのお前が『澤村夫人』

で……『オチビ』……お前が『和人君』だと思ってな」

右京がそう言うと、妹達3人は『ああ、なるほど』と、唸って頷き合ったのだ。

 

「澤村は……先に行く俺と、追う薫の音を……。

和人君は一番最後に来る葉月の音を……そして、下を支える瑠花の伴奏も合わせて聴いて

何かみつけてくれれば……演奏する俺達も……『光栄です』……かな?」

 

右京は縁側に座る和人にそっと微笑みかけた。

和人はクラシックは良く解らないらしくて困った顔をしていたのだが……。

 

「オチビでも頑張ってついて行くわよ」

『和人役』を言い付けられた葉月がニッコリ微笑むと、なんだか……

『聴く』と言う事に本腰を入れる気持ちを固めたのか、

和人は、引き締まった表情をして頷いたのだ。

 

「行きますわよ」

瑠花の弾き出しの合図で……その場が『シン……』と静まり返る。

 

風の音、笹の葉の音……。

小鳥の声……。

そして──その空気に逆らわないように流れ出したピアノの音色。

 

柔らかい指使い……の伴奏が始まると……。

右京がそっと弦の上に乗せたボゥを静かに動かし始める。

彼のしっかりした音色に隼人は驚いた──。

 

『確かに!? 葉月とは違うずっしりした重みある感じ!』

 

右京の後に薫が『輪唱』の様に兄と同じ旋律をピアノで弾き始める。

こちらは姉と違って、兄に似た強い和音だった。

『この……コンマスを追う二番手が俺か……』

そして右京が違う旋律に入ったところで、やっと葉月がボゥを滑らせ始めた。

違う旋律に入ったコンマスの右京に従うように『柔らかく後追う静かな弾き方』。

『葉月が……一番最後に追う……和人か……』

そう思いながら隼人と和人は顔を見合わせる。

真一は目を閉じて、そっと身体を揺らして……すっかり音の世界に引き込まれたようだ。

暫くは『コンマス』の右京に従う『後追う旋律』が続いたのだが……

徐々に……違う後追う旋律でも……

『薫』も『葉月』も兄の音響に劣らない『主張』をするようなハッキリした音を出し始める。

 

なのに──

『不思議な曲だな……それぞれの旋律を皆が弾いていても……』

その旋律はけっしてどの音も『雑味』なく『調和』しているのだ。

右京に言われた通りに……隼人は右京の先行く音、薫の後追う音に集中しようとするのだが……

葉月の後追う『弟の旋律』も、必ず……耳に入ってきて忘れさせてくれない……。

勿論……和人も同じのようだ。

葉月の音を必死に追っても……右京がサッと引っ張って行くのが気になる様子。

 

先を行く旋律……。

追ってくる旋律……。

弾いている内容が全然違うのにこんなに合っている『和音』があるだろうか??

 

『おや。珍しい』

『まぁ……ほんとう……』

 

『あ! 葉月お姉ちゃまが演奏している♪』

『ホントだ! 母さん達も弾いてるジャン!』

 

その内に、着物姿の京介と瑠美の夫妻が孫を従えて庭池に姿を現した。

子供達の揃った『演奏会』を、にこやかに静かに遠くから眺めているのが隼人に見えた。

『主張』をしあっては……先行く旋律と同じメロディーになると息合わせたように『同調』する。

 

そして……右京が一番有名な山場の『旋律』入った。

堂々と、優雅に……自信を持って華やかに盛り上げる右京のサビメロディー。

後を追う妹達の兄を妨げない『後追いのさり気ない音使い』

薫と重なると、その場が盛り上がる。

最後に葉月が一緒のメロディーにはいると

ピアノとヴァイオリンなのに、薫の音と見事にピッタリと『一致』した。

そして……右京が先にサビから抜け出す……。

先頭の音なのに……

右京はそれまでと違ってサッと静かな弾き方に変わったのだ。

そう……『一番華やか』な弾き場……。

薫と葉月に譲って静かに先に進み始める。

『一番美しい』所はサッと身を引き、後に来た者に『花を持たせる』

そして……薫も熱い鍵盤の打ち方をそっと……波が静まるかのように静かに変えた。

葉月が最後に『華を続ける』

葉月が『美しく咲き終わる』まで……先行く右京と薫は待っているかの様に静かに演奏を……。

瑠花の単調な伴奏がずっと……三旋律の『大きい波、小さい波』を緩和しているようだった。

そして静かに待っていた右京がまた……先を行く。

コンマスの彼が、新しい旋律で『変化』を作り出す。

兄が作り出した『変化』に、また……妹達が従うように大人しくついてくる。

右京のボゥは滑らかに……そして、激しく動いて徐々にまた……

同じ強さで追ってくる『妹達』を力強く引っ張って行く。

薫と葉月がそれに負けまいと盛り上がりながら必死についてゆく。

 

『譲るところは譲って……引っ張るところは引っ張って……

そして……自ら変化を作って……統率して行く』

隼人はいつの間にか、右京の『マスター音』に父を重ねて引き込まれていった。

和人は……ずっと葉月を追っているようだった。

静かに動かないところを見ると……弟も引き込まれたのだと解る。

『先行く変化を殺さない……従っても、葉月の音も……生きている

自己主張しても……兄の先行く音は、妹達の音を殺していない……』

 

隼人は息を飲んだ……。

 

終盤も、どの音も負けない『強い和音』を奏で始めると

瑠花の伴奏も単調ではなく美しい流音で盛り上げ始める。

とても華やかで美しい『御園兄妹』の『カルテット』

 

右京が……何を言いたいのか解って……

隼人はそっと俯いてしまった。

ふと横の弟を見ると……和人も『驚愕』したような眼差しで……

ずっと葉月を見つめていた。

 

「すごいね……兄ちゃん……。俺、こういう音楽聴いたの初めて」

和人が何か放心したように呟いた。

「ああ……こういう表現が出来る人達なんだよ。教えられたね……」

和人が妙に涙ぐんだ瞳でこっくり素直に頷いた。

隼人もそっと……弟の肩を抱くと、和人はとうとう……拳を握って目を拭ったのだ。

 

『おや! 御園さん!! どうしたんですか!』

『あら! 葉月ちゃんがいるじゃないの??』

 

そんな声が垣根の外から……

老夫妻が、犬の散歩なのか、垣根から見える『御園カルテット』を見つけて

かなり驚いた顔で立ち止まっていた。

『アハハ……まぁ、四人、久し振りに揃いましてね』

京介が垣根によって照れくさそうに挨拶を交わしている。

 

『何年ぶりだい? あの子達の演奏がこの家から聞こえるなんて!

右京君の演奏は良く耳にはするけどね!豪華だね!』

『本当よ! まぁ……葉月ちゃん、パイロットになったとお聞きしたけど……

相変わらず上手ね〜。綺麗になって……』

そんなご近所さんも、珍しいものを久し振りに見つけた嬉しさか

京介に感心の言葉をかけるばかりで立ち止まって動かない。

京介も、白い頬を染めて、ずっと照れているが嬉しそうだった。

隼人はそんな光景を見て、思わず微笑んでしまった。

 

そして……『そんな葉月ちゃん』の相棒としては

本当に鼻が高くなる思い……。

 

葉月の優しい顔。

ボゥを操る、美しい姿。

 

『ああ……フロリダのお父さんに見せてあげたい!!』

 

隼人はここに亮介がいないことを残念に思ったぐらいだった。

 

『あら? お父さん! 来て!』

お隣の家からもそんな声が……。

今度は瑠美が呼ばれて、こちらも恥ずかしそうに挨拶を。

 

(だろうなぁ……こんな生演奏……滅多に見られないもんな)

しかも兄妹同士のせいか? 妙に息が合っている。

 

曲も終盤に来て、右京の『マスター』で華々しくラストを迎えた……。

 

「わー! すごい! すごい!! 朝から、いいモン聴いちゃった♪」

真一が惜しまず拍手を激しく打ち鳴らした。

 

勿論──隼人と和人も縁側から立って拍手を送った。

隣から……垣根の外から……も。

 

「ママ、すっごーい!」

美音も一目散に、薫の元に駆け出す。

 

「……さすが、お兄ちゃま……。やっぱり適わないわね」

葉月が、額の汗をボゥを握ったまま拭って右京に微笑みかける。

右京は汗一つかいていないようで……

堂々と涼しげな表情のまま、葉月に満足そうに微笑み返した。

 

「……まだ、お前にコンマス譲る気はないぞ。

だけどな……お前も早く肩、治せよ……。もっといい音を出すはずなんだからさ」

 

従兄妹同士が、同じ楽器を通じて微笑み合うのを

隼人はそっと微笑ましく見守った。

 

とてもじゃないが……『ヴァイオリン師弟』の間には入れそうになかったし

邪魔をしたくなかったのだ。

 

「それ、欲しがっていただろ? やるよ」

右京は葉月が持っているヴァイオリンをボゥでさしてそう言うと

葉月が驚いた顔をしたのだ。

「でも! 確かに……小さい頃、良くねだったヴァイオリンだけど……。

お兄ちゃま……これ、毎日、弾いてきた楽器じゃない?」

すると右京は自分が今手にしている立派なヴァイオリンを眺めて静かに目を伏せた。

「…………お前さ……。

今、小笠原で手元に置いている楽器……大事にしすぎて出すのも躊躇っているんだろ?

そんなに大事にしまって『弾かない』のであれば……

『特別な時』しか弾かないのであれば……

『普段』ぐらいは……思い切ってそれ使ってみろよ?」

「…………別に、私のヴァイオリン、もったいぶって使わない訳じゃ……」

「腕、落ちると……『見放される』ぞ?」

「!!」

「俺は……今日から『コイツ』と組むよ。やっぱり……『最高級品』いい音出すよ……」

右京はジュラルミンケースにしまい込んでいた、重厚なヴァイオリンを

麗しい眼差しで穏やかに見つめる──。

そして、そっとその眼差しで、再び葉月を見下ろしたのだ。

「別にだからって『乗り換える』わけじゃないぜ?

俺も、もったいぶって……これ、使わないようにしていたけど。

いい音を出すのに、もったいぶって使わないなんて、楽器が浮かばれないよな……。

それに、葉月がまた頻繁に弾いてくれるなら、俺の今までの相棒も喜ぶに違いないから……。

大切に……付き合ってやってくれよ。お前だから……相棒任せるんだからな」

「本当に……いいの??」

 

『あげる』と言われた手にしているヴァイオリンを葉月は眺めて戸惑っていたが……

右京は静かに微笑むだけでそれ以上は何も言わなくなった。

そして……ジュラルミンのケースだけを手にして……

サッと……一人、演奏で盛り上がっていた和室を去っていった。

 

去っていった従兄の背中を葉月は廊下でずっと見つめていた。

 

その『引き渡し場面』も、見守っていた隼人だったが……。

「それ、もらったの?」

そっと縁側から葉月に話しかけた。

「え? う、うん……」

葉月が困ったように借りたヴァイオリンを両手に持って見下ろしている。

「……お兄さんが毎日大事にして弾いていたものを引き継がせてもらったなんて……。

これからは……息に抜きに少しでも良いから弾かないとね」

右京も……亮介同様に、葉月に少しでも『音楽』を取り戻したいのだろうと……

だから……思い切って『手放した』のだと隼人には通じたから……。

「うん……」

葉月がそのヴァイオリンをやっと、愛おしそうに抱きしめる。

やっぱり……嬉しそうに葉月は微笑んだのだ。

 

「憧れだったの……お兄ちゃまが……格好良く弾いている綺麗な音が出るヴァイオリンだったから。

お祖母ちゃまが……お兄ちゃまに買ってくれたって言う良いヴァイオリンだから……」

 

葉月は……子供のように可愛らしく笑って……

そのヴァイオリンをずっと抱きしめていた。

 

「葉月、良かったじゃない〜! どんなにねだってもくれないっ!て……

昔から拗ねていたものね!」

薫も葉月に寄ってきて、嬉しそうに葉月を抱きしめたのだ。

「……兄様、余程、嬉しかったのね……。レイ祖母様の形見だって大切にしていたのに」

瑠花も、兄の思うところが切々と伝わるのか、葉月の栗毛をそっと撫でる。

「……弾かなくちゃね……少しずつでも。ね? 葉月……」

薫の暖かい眼差しに、葉月がこっくり頷く。

「私も久し振りに、葉月と兄様のお供が出来て気持ちよかったわ」

瑠花もにっこり微笑むと、葉月はまた嬉しそうに微笑んだ。

 

「わったしも〜♪ 兄様と葉月に挟まれる旋律役、エキサイティングだったわよ〜♪」

「なに? ママ? えきさいてぃんぐって」

はしゃぐママの側にいた美音が、不思議そうに薫を見上げた。

「え? あ、ン……ある意味『必死』だったって事よ」

薫がそういうと美音は益々解らないとばかりに首を傾げたのだが……

瑠花が『ぷ……』と吹きだした。

「私は兄様と葉月の間に入る勇気ないのに、薫は怖いもの知らずで飛び込むからよ?」

「……だって! それでもやり遂げたわよ!」

 

「えっと、やっぱり彼女とお兄さんって……そういう感じ? なのですか?」

隼人がそれとなく鎌倉姉妹の会話に割ってはいると……

瑠花と薫の表情が急に止まったのだが……

 

「当たり前じゃないの〜! 二人の『音』聴いたでしょ!? 中佐!

あの音を『濁したら』、私一人惨めじゃないのよ!!」

 

先程、玄関で出迎えてくれた『しとやかさ』は何処へやら??

案外、こちらも砕けた『お嬢ママ』で、隼人は思わず苦笑い。

「……申し訳ありません。その……全然濁っていなかったので解りませんでした」

本当にその『音の違い』なんて隼人には解らないから心からそう言った。

その途端──

「まぁ……中佐ったら……お上手ね♪ ねぇ? 皆で、一息お茶でもしましょうよ♪

中佐も、さ! あがって、あがって!!」

薫が輝く笑顔を愛想良く隼人に浮かべて上がらそうとするのだ。

「お兄ちゃま、あがって、あがって」

美音がママの真似をするので……

隼人がクスリと微笑むと……葉月と瑠花……真一に和人も急に笑い始めたのだ。

 

「それでは……」

隼人は縁側から、廊下にもう一度上がる。

 

「それにしても〜……中佐ってねぇ……ね? 姉様」

薫が、目の前にたたずむ隼人をジロジロと意味ありげに眺めたのだ。

「??」

「もう、薫。行儀悪いわよ……」

瑠花はなにやらたしなめているのだが、薫は隼人の次ぎに葉月を『ニヤリ』と見つめたのだ。

葉月もどっきり! ヴァイオリンを抱えたまま硬直していた。

「葉月〜。素敵な人、見つけたじゃないの〜……! なんだか『タイプぴったし』でしょ??」

「お姉ちゃま!」

葉月が顔を真っ赤にしてムキになったが……隼人は『なんのこと』か解ってまた苦笑い。

 

『また、真さんに似ているとか、なんとか??』

 

それでも……

「中佐のお陰ね……葉月をこうして鎌倉に帰してくれて……

いつの間にか……こうして演奏させる気にしていて……」

「本当……」

瑠花と薫がシミジミと呟いて……そっと隼人に揃って頭を下げたので驚いた!

 

「いえ……私は……何もしていなくて……

鎌倉に彼女が帰ってしまった原因を思うと……その……あの……!」

「あら? そういえば、元々の原因って……そうだったわね!」

瑠花が『言葉を間違えた!』と、ばかりにハッとしたのだが……。

「いいんじゃないの〜? 恋の試練が葉月の『感情刺激』をして芸術性を呼び覚ましたのよ!

葉月にそんな感情の幅をここまで持たせる男もそうは、いないわよね〜♪」

「お姉ちゃま!」

薫の『ハッキリ』に隼人はおののいたのし、葉月もまた『適わない!』とばかりにムキになり始めた。

隼人も、入る穴があるなら入りたいくらい……。

 

『う〜……衝動とはいえ……抱きつくんじゃなかった!』

美沙に子供のように抱きついてしまった事。

これほど、後になって『バツが悪いことばかり』で、自分が居たたまれなくなってくる!

 

「葉月が『野バラ』を弾いていたね? ローズティーでも飲まないかい?」

騒がしい縁側をまとめるが如く……

庭先で近所談話を終わらせた京介が静かに声をかけた。

 

「はぁい♪」

娘達は、静かな声なのに父親のその声に沈められるように和室を出て行く。

 

「あー。朝ご飯、まだだった。腹減ったね〜。和人兄ちゃん、なんか作ってもらおうよ」

「ああ、お世話になろうかな? 腹減った♪ 瑠花さんのご飯、美味そうだし♪」

少年達は少年達で去って行く。

 

「…………」

「……俺達も、ご馳走になろう?」

 

二人きりになった和室……。

葉月はまだ……右京から譲ってもらったヴァイオリンを愛おしそうに眺めていた。

嬉しそうに……瞳を潤ませて……。

 

「良かったね……。それに……綺麗だったよ。演奏する葉月……。

それが見られて……今、俺、最高の気分……。」

「……ありがとう……私も……とっても嬉しい……」

 

素直に微笑んだ、輝くガラス玉の瞳。

五月晴れの光を吸い込んで……。

今までのどんな葉月よりも……隼人は美しく感じた瞬間だった。

 

それが……たとえ、この『鎌倉の実家』という空間で、この一時だけの事でも……。

そんな彼女に会えたこの日を……隼人は『忘れないだろう』と思うことが出来たのだ……。

 

風の中……またヴァイオリンの音色が流れてきた。

「バッハのプレリュードだわ……」

葉月が二階の窓辺で従兄がまた一人……演奏をしているのが解ったのか……

空をそっと見上げた。

「プレリュード……『前奏曲』か……」

 

隼人は……その曲が……

右京からの『はなむけ』として感じてならなかった──。

 

ドッシリとした厳格的で……堂々とした弾き方……。

ずっと隼人の耳に残りそうだった……。